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#01 Prologue
一度だけ、根雪の溶け切らぬ初春の夜に、様子を見に行ったことがあった。
彼女は湖畔に横たわる岩に腰かけていて、自慢の歌声を披露することもなしに、独りきりで夜空を見上げていた。誘い込まれるように顔を上げると、そこには満月が浮かんでいて、もうどれくらい時間が経ってしまったのだろう、と考えずにはいられなくなった。同時に思い出すのはやはり宇宙船であるとか、人工衛星といった記憶の残骸ばかりで、未だに引きずっている自分のことが馬鹿らしくなってきたものだから、気づかれないようにそっと浮かんでその場を離れた。
このまま里に戻ろうか、いやまだ帰りたくないな、想いが交錯して、空回りして、どうしようもなくなっている内に、ふと思いついて上空まで昇ってみることにした。今夜は晴れているから、いつかの時みたいに雲の間を潜り抜ける必要はない。思い立ったが吉日、――吸血鬼の紅い館や、対岸に建つ廃洋館、人里の明かりなどがぐんぐん遠ざかってゆき、まるで星の瞬きのように姿を縮めたところで、上昇を止めた。空気を胸いっぱいに吸い込んだ。何も変わっていない。ここは何も、大気の唸り声さえも。変わらないことが、いちばんの優しさなのかもしれない。自分は変わったのだろうか。彼女の背中を見れば、何か答えが出てくるんじゃないかと期待していたのだけれど、そうそう上手くは行ってくれないみたいだ。
未練? ……まさか。
衣が風に巻かれてはためき、翻った。触れようとすれば指を切ってしまいそうなくらいに鋭利な風だ。今にもバラバラにされてしまいそうになる。髪だって濡らしていたら、あっという間に凍りついていたかもしれない、それほどに寒い。けれど、……夜空にも地上にも散りばめられている、夜にだけきらめく宝石の川を眺めていると、久々に“本を借りて読みたい”という気持ちが胸の奥から湧き上がってきた。それだけでもここに来た収穫はあったと云える。借りたい本の内容は、もう決まっていた。
次は星座について知りたい。
素敵に夜の時間を彩ってくれるだろう。
きっと、独りでも楽しいから。
#02
覚えているわ、私は今でも覚えてる。
雛鳥のように頼りない、あの震えの止まらない息遣いも、落ち着きを無くし、毛を逆立てた尻尾のつやも、そして水底に沈んだルビーのように、冷やかな光彩を放つ瞳でさえも。それらの全てが月光に洗われて、湖畔のステージに照らし出され、あなたは青白い顔を隠すことも出来ないままに、私の前に現れたのだっけ。今、目の前でリンゴをむしゃむしゃ食べている姿とは大違い、それこそ迷子になった飼い犬のように行き場を無くして、月に吠えていたあの時分の姿とは。――こんなことを思い出してしまったのには訳があって、それがそのまま“彼女”の不機嫌になっている理由であったりする。
「さっきからひとの話ばっかり、恥ずかしいから止めてよ」
そう、私は新しい“友人”を持ったのだ、それも可愛らしい首を乗せたデュラハンの友人を。
「でもさ、ろくろ首って聞いたから、てっきり首が伸びるのかと思ってたわ」
と、あなたは、――影狼さんは云って、リンゴを芯ごと口に放り込む。
「出来ないことはないけど、伸ばすのは気が進まないわね」
「どうして?」
「首の筋がおかしくなるから」
「関節どころか骨まで外せるのに、今さら筋なんて関係あるの?」
「それがあるのよ、話が長くなるけど」
「ふうん……」
その夜は月の光も優しい晴れ模様で、場所は霧の湖の近くの、葉を散らした楡(にれ)の木の下だった。眼前の眺望には妖怪の山が威容を湛えんばかりにこれでもか、と肩をいからせている。その頂きは今も真っ白に化粧している。呼びかけに集まってくれた赤蛮奇さんと今泉影狼さんの会話を耳にしながら、私は金魚鉢の縁に沿うように両腕を乗せていた。赤蛮奇さんとはこの冬に出会ったばかりで、柳の運河から流れてきた首を拾ってあげたことから交際が始まり、今夜は初めて三人揃ってお酒を飲むことにしていたのだ。でも……。
「満月になると、さ」
「うん?」
「やっぱり、狼そっくりになるの?」
「体毛は増えるけど。幸い、全身にびっしりって訳じゃない」
「性格も変わっちゃったり?」
「中には、凶暴になる奴も居た。……そういう連中は全員、もうこの世にいないけど」
「あ、いや、ごめんなさい」
「わ、私こそ、変なこと云っちゃって。お酒の席なのに……」
「…………」
「…………」
――これなのだ。もう禍々しい魔力は失われて、それぞれの生活に引きこもってしまった私達は、そう忘れてしまっていたのだが、三人が三人とも人見知りな性格なのだ。会話が続かない。寂しがり屋な月が、太陽に焦がれながら輝いている夜なのに、こんなにぶどう酒が美味しい夜なのに、私達は空を見上げることしか出来ていない。誰もが独りでいる時分の沈黙には慣れっこなのに、他のひとと居るだけで、どうしてこう。気まずさに口を開いてしまう。
「覚えているわ、私は今でも覚えてる」
二人が金魚鉢に入った私を見た。
「赤蛮奇さんを見ていたら、思い出してね、影狼さんとの出会い。とても怖くて、でも綺麗だった」
「へえ」
ろくろ首の友人が横目で窺い、影狼さんは視線を草の原に落としている。
「とってもお腹が空いていたんでしょうね。それに何だか怖がってたみたいで、私、危うく影狼さんに食べられそうになって」
「食べ……!?」
「や、止めましょうよ、そんな話」影狼さんが顔を上げる。「あの時は、そう、どうかしてたし。おまけに満月だった」
「私の話だけ散々しといて、ずるいじゃないの。――聞かせて、わかさぎ姫」
「無我夢中だったんだと思うわ。飛びかかられて、痛かったわね、あれは。尾ひれに牙を突き立てられて、あんな大きな悲鳴を上げたのは生まれて初めて」
「わ、わたし……!」
影狼さんが立ち上がっていた、黄ばみのない真っ白で凶悪な牙を剥き出しながら。本能的な恐怖だったんだと思う、私は反射的に鉢の中で身を引いていた。尾ひれが疼くように痛んだ。
「あ……」影狼さんは慌てて牙を引っ込めた。「ごめんなさい。私、帰るわ。ワインありがとう。美味しかった」
赤蛮奇さんに頭を下げてから、すぐに背を向けてしまったために、ドレスの裾が踊るように翻った。呼び止める暇もなかった。井戸の底のように真っ暗で、大地の深くまで瘴気が染みついた迷いの竹林へと、彼女は帰っていってしまった。その後、ため息をおむすびのように地面に転がして、カベルネ・ソーヴィニヨンの赤ワインを手に持って、赤蛮奇さんも立ち上がった。
「どうも、ね。お邪魔だったみたいね、私」
「そんな」
「いかんなぁ。こういう時、どう云えば好いのか分からないのよ、慣れてないから」
「ま、また……」
「うん?」
「また来て下さいね。今度は、きっと」
赤蛮奇さんの、外套の襟を引き上げて口元を隠していたけれど、それでも「ええ」と頷いて、血を振りかけたみたいな真紅の瞳を細めた姿を見て、私は彼女の優しさと臆病さとを同時に見抜いてしまった。優しい笑みに隠した、優しい嘘。影狼さんと似ている。似ていることそのものが、私達にとっての不幸。赤蛮奇さんが立ち去ってからも、私は金魚鉢の中で思案に暮れ、あるいは途方に暮れながら、いったいどうすれば好かったのだろう、言葉は必要なかったのか、言葉が全てを台無しにしてしまったのか、穏やかな夜の沈黙に身を浸していた方が好かったのか、あなたが去ってしまわぬように、……そのようなことを考えているうちに、ある致命的な事実に気がついてしまった。
私は今、独りきりだ。――これでは湖に戻れないではないかっ!
#03
貸本屋から借りた本に、面白い言葉を見つけた。
ランデヴー“rendez-vous”。恋人同士が日時や場所を決めて二人だけで会うこと。あるいは、別箇の軌道を持つ宇宙船がドッキングのために宇宙空間で接近すること。――赤蛮奇は、この言葉を宇宙に関する本で知った。人間の子供向けに書かれたもので、内容も分かりやすい。外の世界は魔法よりも科学が進歩しているそうだから、幻想を捨てた人間達が、現在の月や宇宙の姿をいったいどんな目で見ているのか、前々から興味があった。人類が宇宙に飛び立つまでの歴史から、太陽系の恒星や惑星の概説まで、目新しい知識が漉し餡のごとく詰め込まれていて、赤蛮奇はけっこう楽しい気分でその本を読みふけった。柳の運河が湛える水のせせらぎはささやかで、読書に集中するにはうってつけの清涼剤だった。――ふと、誰かが隣に座ったのを感じて、顔を上げると、それは今泉影狼だった。何日振りだろう。
「こんにちは」
「どうも」
「邪魔しちゃって悪いわね」
「それは好いけど、こんな里の近くまで出てきて大丈夫なの」
「ちょっぴり怖いけど、いざとなったら飛んで逃げるから」
「そう」
影狼は下手くそな笑みを浮かべていた、笑ってくれない方が、まだしも気が楽に思えるような。
「ねぇ、わかさぎ姫、見てない?」
「は?」
「その、さ。……ケンカしちゃって」
本に栞を挟んで、背筋を伸ばした。「なんでまた?」
「彼女、機嫌が悪くてさ。この前あのまま帰っちゃったでしょ? ひと晩中、湖に戻れなかったとか」
「あっ。……あー、すっかり抜けてた。悪いことしちゃったわね」
「それもあって、ちょっとした口論になっちゃってね。それから姿を暗ましたままで」
「で、私に何をして欲しいわけ?」
云ってしまってから、直截に過ぎたかな、と反省。影狼は耳をすっかり垂らして、黒髪も何処か跳ねが目立ち、手入れを怠っているようだった。本当に参っているらしい様子が見てとれたので、姿勢を変えてやる。それくらいの親切心はあるつもりだ。
「もし、わかさぎ姫と会ったら」影狼は云った。「よろしく伝えておいて欲しいの。“この前は悪かった”って。多分、私が行っても顔を見せてくれないと思うから……」
「好いわよ。任せて」
「ありがとう」
少女は狼らしくもない、痛々しい微笑みを浮かべた。胸元のブローチの、真っ赤な宝玉が陽の光に洗われて輝いた。普段は落ち着いた物腰を崩さない彼女の、ふとしたきっかけで儚くも崩れてしまう、ある種のきらめきを目の前に差し出されて、胸に不思議な感慨が湧き起こってくるのを感じた。これはなんだろう。誘惑に駆られて口を開いていた。
「この前わかさぎ姫が云ってたあれ、本当?」
「ええ」
「彼女を食べそうになった?」
「……ええ」
「よく思い留まれたもんね。満月だったんでしょう?」
「彼女の声が、あんまり綺麗だったから」
「声?」
「“助けて”って叫ばれてね、その声が、何故か頭の芯にガツンと響いた」
それで我に返ったの、それだけよ。――影狼はそう云って目を伏せた。
湖の岸辺に彼女はいた。
その夜は曇天で、今にも雪が降り出しそうな空模様、弾幕を放てば割れてしまいそうなくらいに空気も張りつめていて、だから彼女の歌声も、いつもより何処か精彩を欠いていた。楡の木から歩み出て、棒杭で組まれた釣り場に腰かけたお姫様に近づくと、彼女は肩を跳ねさせて振り返り、黒真珠のような瞳を丸くしたのだが、こちらの姿に気がつくと、安堵の息を漏らしてくれた。
「赤蛮奇さんっ。もう、気配を消すのがお上手ですね」
「悪い、癖になってる。静かな夜が好きなもんで、ついね」
「私も好きですよ、特に……」
「特に?」
「当ててみて」
「……“月の綺麗な夜”かしら」
尾ひれがぴちぴちと跳ねた。「そう、そうよ。影狼さんは満月が苦手だそうだけど」
危うく忘れてしまうところだった、そうだ、その為に来たんだった。
「そういや喧嘩したんだって?」
「え、ええ」
「“悪かった”って、影狼が。見るからに反省してた。耳を垂らしてさ、落ち込んでたわ」
「影狼さんが、あなたに?」
「うん」
「そう……」
「原因は何だったの?」
真珠の瞳が揺れて、迷っているらしいのが見て取れたから、訊かない方が好かったと顔を背けてしまいそうになる。もう遅い、言葉は発せられてしまった。人魚が和服のフリルを指で弄りながら云う。
「怒らないで、下さいね? ――あなたのことなの」
「ふぅん」
「この前のこと、その、“どうすればもっとお話が出来るようになるかしら”って訊いてみたの。――でも、影狼さんは首を振って“まだ早すぎる”って。“手順を踏み違えてる”って」
「ああ」
頷きを返した、まったくその通りじゃないか。
「わかさぎ姫」赤蛮奇は呼びかけた。「その、あなたの誘いはとても嬉しかったわ、本当よ。だけど、……言葉が不味くてごめんなさいね、私はあまり他人と付き合うのが好きじゃないの。苦手と云っても好い。たまにお話をするくらいなら悪くないけれど、あんな風に無理してまで仲好くなる必要なんて、ないんじゃないかな。苦しくなるから、お互いに。気持ちは有難いんだけどね」
この辺りが、言葉の許せる限界だろう。それじゃ、またね、立ち去ろうとマントを翻した、――その裾を彼女の手につかまれた。わかさぎ姫の力は思っていたよりもずっと弱々しい。その縋りつき方には、何かを思い出すような儚い気迫が込められていて、赤蛮奇は影狼のあの微笑みを思い返していた。――そうだ、影狼だ。彼女と影狼が似ているのは、ここなんだな。首を振った。人魚はこちらを真っ直ぐに見ていた。
「お、お願いがあります」
「なに?」
「私を抱いて連れていってくれませんか、あの夜空へ」
「……なんでまた」
「もうちょっとだけ、いっしょに居たいんです。ここじゃない何処かで」
「それこそ、影狼にやってもらいなさいよ」
「行って欲しくないの。せっかくお知り合いになれたのに、このまま、このまま……」
うつむいてしまった姫の姿は拙い、今にも泡となって弾けてしまいそうに。赤蛮奇は目を閉じて、言葉を返すことなく、彼女の手を握り返した。
#04
雲の上まで飛ぶなんて、本当に久しぶりだ。
彼女が寒がらないようにと、血のしたたる色の外套をひざ掛けのように被せて、夜空を散歩する。月が綺麗なのは結構なのだが、冬の夜空をなめていた。こんちくしょう、なんて寒さだ。空気が氷で出来たナイフのように薄く鋭くなっている。震えながらも喜びを隠せない彼女の、尾の濡れた感触は本当に慣れないもので、向こう三日はぬめりが取れないのではないかと危惧してしまう程だった。あっちこっちと星を指差しては声を上げる人魚姫が落ちないようにと、細心の注意を払う。
「素敵、素敵、とっても素敵」
「そりゃ好かった」
「考えてみれば不思議ね。月も星も、いったいどうやって照らすことを覚えたのかしら」
「ああ、それは……」
本を読んでおいて好かった。太陽光の反射のことや、自ら光を発する天体が太陽以外にも沢山存在するのだという知識を、露天商のようにざっと披露してみせると、熱心な頷きや、きらきらした瞳の輝き、ついでに尾ひれのぴちぴちが返ってきた。
「もっと、いろいろ教えて下さい。赤蛮奇さん」
「蛮奇で好いよ」
宇宙の話を続けながら、“素敵だな”という純粋な想いを転がしてしまっている自分を発見し、正直驚いた。“ランデヴー”という言葉の持つ意味と、今の自分達のある意味滑稽な姿とを思い比べてみた。私達は別々の軌道を持つ宇宙船で、時どき飛来するスペース・デブリに怯えながらも、その任務を全うしようとして、命を育む星の軌跡を絶えず旋回している。でも、……その飛行は必ずしも正確なものではなく、まるでいつも酔っ払っているみたいにふらふらしているから、せっかくお互いの姿形が分かるくらいに接近しても、――同じ軌道に入ることが出来ても、――ジェミニ八号とアジェナ八号のようには上手くゆかずに、いつまでも繋がり合うことが出来ないで、要らぬ衝突や、すれ違いばかりを繰り返している。だったら真っ暗な空間を独りで漂っていた方が傷つかずに済むと結論したのが自分で、――苦しむことになろうとも(それこそ食べられそうになっても)、ほろ酔いのランデヴーを続けることを選択したのが、彼女なのだろう。
どちらが、生き方として正しい?
どちらが、生き方として間違っている?
余計な事故を起こさずに済むということ。
それだけでは、駄目なのか?
それだけでは、不満か?
それとも。
傷つきたいのだろうか、自分は?
傷口から流れた血潮を見て、ああ、生きているんだと、安心したいのだろうか?
彼女からの誘いを、断ることだって出来たはず。
そうじゃないか?
首を振って、想いを閉め出した。
こんな時だってある。
そう思い込むことにした。
「……わかさぎ姫、そろそろ」
「ん、そうですね、ええ」
人魚は眠たそうに和服の袖で目をこすっていた。好く見ると尾ひれの鱗に氷の膜が張っていた。
――と、凍死!? 出荷されるんじゃあるまいし!
「ちょっとちょっと! 寝ちゃ駄目よ、起きなさい!」
「蛮奇さんの腕が心地好くて……」
「この野郎!」
頬を往復ビンタしながら急降下した。雲の層を抜けて、眼下に広がる霧の湖に向かって、ダイブするように切り込んでゆく。水面ぎりぎりで急停止して、ガラス細工でも扱うように、わかさぎ姫をそっと降ろしてやった。冬場は水底の方がまだしも暖かいんじゃないか、それに彼女は水中だと力が増すのだし、……外套を着こみながらそう考える。文字通り水を得た魚となった姫が、真珠の瞳を薄く開いた。
「ありがとう。今夜は、本当に。……あなたと話せて」
「寝た方が好いわ。気をつけて帰りなさいね」
「ええ……」
彼女は背面になって、呑み込まれるように暗闇に沈んでゆき、手を振るように尾ひれが水面を打ったのが最後だった。水飛沫。沈んでゆく。見えなくなる。それでも一瞬だけ、水色の鱗が淡くきらめいた、夜空を照らし出す月光のように。ああそうか、と独りごちた、彼女は月と似ているのだ、道理で夜に映えると思った。しばらく飛翔の余韻に耳を澄ませてから、里の方角を振り向いたところで、赤蛮奇は凍りついた。楡の木の根元に、誰かいる。眩い眼光が宵闇を突き破って、真っ直ぐに胸を貫いてくる。
それは彼女だった。それは影狼だった。
狼少女は身動きひとつせずに、木の影からこちらの様子を無言のままに窺っていたのだった、ずっと、ずっと、赤蛮奇が耐え切れずに目を背けてしまうまで、ずっと。
#05
これで何杯目だろう、と使い物にならなくなった頭で考える。
「……何してんの?」
「自分でも分かんない」
「ひとん家の壁に寄りかかって、酒瓶をラッパ呑み。そのご自慢の尻尾、燃やされたいのかしら」
「あなたを待っていたんだと思う」
「は?」
「ごめんなさい、今のなし。忘れてちょうだい」
「…………」
藤原妹紅が熱でも計るみたいに額に手のひらを当てて、たけのこを満載した籠を土に降ろした。今泉影狼は定まらない視界の、その焦点を蓬莱人に合わせようとしたけれど、上着ともんぺの色彩くらいしか分からない。しばらくして、何か焼き物のようなものを手に持った妹紅があばら家から出てきて、それを目の前に差し出した。
「水」
「ん」
「それ飲んだら、川にでも行きな。ひどい顔してる」
「話くらい――」
「だめだめ」少女は手を振った。「どうせまた友達と喧嘩したとか、そんな話でしょ? 三日も経てば仲直りするんだから」
「違うの。いや正しいけど、今回は違うの」
「影狼さ、今すっごい恥ずかしい状態だよ。話を聞くのは好いけれど、酔いが醒めたら今度は話したことを後悔しだすってこと、私は嫌というほど知っているからね」
「聞いて欲しい」
影狼はうつむいて、赤子を抱くようにして手に持っている安酒を見下ろし、その口の部分が砕けているのに気がついた。いつの間にか、またやってしまったらしい、口の中に瓶の破片が残っていた。ぷっと吐き出して、あばら家の壁板に身を預けた。その頭を、妹紅がぽんぽんと叩いてくれた。……グルルル、喉が鳴る。
「なんでだろうね」
「?」
「なんで、私よりも影狼の方が人間臭いんだろう」
「どういう……」
「普段は嫌味なくらい落ち着いた性格してる癖に、ちょっと特別な角度から崩されると、もう駄目ね。私は酒に溺れたいとは思わない、話をするよりも聞く方が好きだから。影狼は、あれだ、心が強いんじゃなくて、理性で脆さを隠すのが得意なタイプだ」
「だから、なによ」
「“さっさと頭を冷やせ”ってことだよ。それで、いつもの今泉影狼に戻って欲しい。昨日だってあなたの遠吠えのせいで全然眠れなかったんだから」
川の水で顔を洗っていると、偶然にもわかさぎ姫に出会った。
妖怪の山から霧の湖に流れ込む川の水は、人間の生活用水になるほど澄んでいるのに、いったん湖に流れこむと、そこには魚がろくにいないというから不思議だ。噛みつくようにがばがば飲んだ、顔を洗った、特に目の下の染みが取れるようにとごしごし擦った、息が酒臭くならないようにと入念にうがいもした。そうして出来るだけ清潔を保とうと努力を続け、顔を上げてようやく、彼女が川面から頭を出して、こちらを見つめているのに気がついた。
「影狼さん」
「ごめんなさい。気づかなかった」
「こちらこそ、この前のこと……」
「え、ええ。それで、今日はどうしたの?」
「謝りに来たんです、川を遡って。竹林の近くなら、あなたも姿を見せるかなって」
彼女は視線を合わせようとはせずに、和服の袖で口元を覆っていた。
「蛮奇さんに、話は聞きました。影狼さんが落ち込んでいらしたって。私、本当に悪いこと云っちゃった……」
がんがん鳴る頭を叱りつけながら、影狼はその言葉を、“赤蛮奇”という言葉を紡いだ彼女の表情を見つめていた。
「――あのひとは、なんて?」
「“気持ちは有難いけど、無理して仲好くなる必要なんてない”と」
「あぁぁ……」
鉄塊のように重い溜め息が漏れた。そうか、彼女はそこまで喋ってしまったのか。そもそも、赤蛮奇を行かせた自分が悪いのだ。こうなることを予想できたんじゃないか、もちろん“ああ”なることも……。
「怒ってた、かな」
「そんなことありません」わかさぎ姫が少しだけ、笑顔を取り戻す。「いつも仏頂面ですけど、本当はとっても優しいひとだって、私には分かりました。寒い夜なのに、わざわざ湖まで会いに来てくれて」
――“見てた”と話したら、彼女はいったいどんな反応をするだろう。影狼は酔いの醒めない頭の引き出しから、記憶を掘り起こした。あなたが彼女のマントの裾をつかんで、お願いして、抱きかかえられて、雲を抜けて夜空まで昇ってゆくところを、私は、見えない月を、手の届かない月を想いながら吠える犬のように見ていたということを話したら、あなたは……。胸の内で不穏な火が煙を上げるのが分かった。悪い徴候だと声が聞こえる。実に不味い徴候だ。
「まぁ、あのひとがそう云うんなら仕方ないんじゃないかしら? また会った時にでも話をすれば好い」
「でも、それじゃ、私が会いに行けない」
「あ……」影狼は姫の尾ひれを見つめた。「そうか、そうね」
「柳の運河までなら大丈夫かしら? ――ほら、晴れた日はあそこの土手で読書されてるそうですし」
「危ないわ、人間に気づかれたら。それに、こんな寒い時期に外で本を読むなんて」
「やってみる価値はあります」
「退治されたらどうするの?」
「いつまでも臆病なままでは何も変わらないわ」
影狼は奥歯を噛んだ。「私は臆病者なんかじゃないっ」
我に返って、牙を引っ込めた時には既に遅く、わかさぎ姫は目を見開いて首を縮み込ませていた。ほんの僅かに、濡れた肩が震えている。息を吸い込んで、唇をもごもごと動かして、必死に感情をコントロールしているのが見てとれた。
「も、もちろんです。すみません、私はそんなつもりで云ったんじゃ……」
影狼は両手を上げて後ずさった。「私こそ、……っ――ごめんなさい。ついさっきまで、お酒を飲んでて、気が立ってたわ」
云ってしまってから、今度はお酒のせいにしてしまっている自分の姿に気づく。
ああ、今日は本格的に駄目だ。
なんて……。
「……来てくれて、ありがとう。用事があるから、行くわね」
「え、ええ」
「じゃあ」
笑顔を作ってみせて、逃げるように背を向けた。早足が駆け足になり、茂みに駆け込んだ時には今にも四つ足で走りだしそうになっていた。もう見えないだろうと思ったところで、立ち止まった。自己嫌悪で吐いてしまいそうだった。竹の皮に手のひらを預けて、それでも身体を支えきれずにドレスの膝を突き、何度もなんども、頭を緑色の植物に打ちつけた。もう分かり切っていた、認めてしまっていた、今さら問い質すまでもない。胸の中でこんなに、真っ黒な炎が煌々と燃えているのだもの。
明日から、なんて顔をして、彼女に会えば好い?
#06
手紙を書いた。
二通。
湖畔で。
乾いた石。
なるべく平たい石。
広げた便箋は淡い桃色。
もうすぐ訪れる春に咲く、桜の色彩だ。
手紙どころか、文字を書くのも本当に久しぶり。
何度もなんども書き直しては破いた。
自分の拙い字が憎らしい。
それでも頑張って。
筆を走らせ。
ようやく。
完成。
封筒に入れた。
影狼さんと蛮奇さんには、今は会えないけれど、それでも言葉は届けなければならないと思った。書いている間中、何度も三人でワインを飲んだ夜のことを思い返した。あの時と同じかもしれない、言葉は求められていないのかもしれない、そう思うと筆が止まりそうになったが、陸に上がれない私が出来ることは、この気持ちを打ち明けることしか。書いていて思い出した昔話がある。人魚のお姫様の童話、恋したひとに気持ちを告げることのできないままに、海に身を投げて、泡となって消えていった人魚姫。私が滅多に本を読まなくなってしまったのも、あの童話のせいだった。あの本をくれた人間は、今、何をしているのだろう。もう灰になっているのだろうか。別れ際に見せてくれたあの笑顔が、好意の印からではなくて、童話を読み終えた時の妖怪の表情が今から楽しみだという、ほくそ笑みだったことに気づいたあの時から、私は。
……どうして今、そのことを思い出してしまったのだろう?
鬱蒼とした森の包囲から逃れようとしているかのように、前庭だけを陽だまりに差し出している古びたお屋敷があって、そこがプリズムリバー伯爵の廃洋館。湖畔に腰かけていると、賑やかな音楽が、あるいはしめやかな旋律が流れてくることがあって、それに合わせてこっそり歌うのが、最近の楽しみだった。新しい住人の人たちとも仲好しになれた。誰もが忙しなく館を飛び出していくから、会える機会は少ないけれど……。ほら、また来てくれた。古びた手風琴を持って、寒風に栗色のショート・ヘアを揺らしながら、付喪神がこちらに向かって歩いてくる。私は手を振った。
「あ、完成したんだ」九十九八橋さんが云った。「それを届けてくれば好いの?」
「無理を頼んじゃってごめんなさい」
「どうせなら“ありがとう”の方が嬉しいかなぁ」
「ありがとう」
「おっけー」
「私も飛べたら好いんだけど」
「こっちは泳げないから、お相子じゃない」
「ええ」
「じゃ、行ってくるね」
「ありがとう」
「あいよ」
「ありがとう」
「分かったって、そんな何度も」
「本当に、ありがとう」
八橋さんは、じっと私の顔を見つめてきた。そんなにおかしかったのだろうか、ふっと笑いを漏らして、手近な岩に腰を下ろし、アコーディオンを愛おしそうに奏で始めた。この前はピアノ、つまり“洋琴”で、次は手風琴。本当に多才なひとだと思う。彼女の演奏に私は歌を添えることはしなかった。ただ浸っていたかったのだ。アコーディオンの音色は、ピアノと違ってメルヒェンな色彩が混じっているようで、それで楽しげな曲を奏でられると、ついリズムに乗って身体を揺らしてしまいそうになる。指が弾む。哀しい童話を、楽しい童話が溶かしてゆくようだ。彼女は何も言葉を並べずに、ただ自身の“音”を私に届けてくれた。音楽があるから、彼女は言葉を必要としないのだ。伝えたい言葉の全ては、音楽がそのメロディに乗せて語ってくれる。
細い雪が湖に注がれ始めた頃になって、演奏が結ばれたので、私が拍手すると、彼女は照れくさそうに手を挙げてカチューシャに指を触れた。私は服の袖で目尻を拭いながら、尾ひれを揺らした。
「な、何も泣かなくても」
「違うの、本当に感動したのよ。幸せなの」
「嬉しいけど、それ以上に、恥ずかしいなぁ」彼女が立ち上がった。「人里は好いとして、竹林はちょっと厳しいかもね」
「入口に白い髪をした人間が暮らしてらっしゃいますから、その方に」
「らじゃー」
「気をつけてね」
「わかさぎ姫こそ、元気出してよ」
また貴方の歌、聴かせてね。彼女はそう云い残して、冬空へと飛び立っていった。
八橋さんが去ってから、私は早速先程のメロディを歌い上げようとした。瞳を閉じて、心を込めて。喉からは掠れたノイズが出るばかりだった、言葉を奪われた人魚姫のように。身体が重かった。あの時、蛮奇さんに夜空へと連れて行ってもらった際に、思ったよりも体力を失ってしまったらしい。熱はほとんど無いのに、歌声だけが冒されてしまっている。乾燥するこの季節は、いつもこうなのだ。せっかく八橋さんが励ましてくれたのに、また気分が沈んできた。嫌な予感がしたのだ。どれだけ身を尽くしても、言葉は言葉、仮初の、上辺だけのものなのだろうか。冬の季節が来る度に、そして喉が枯れてしまう度に、いつも考えてしまうこと、二度と歌えなくなるんじゃないかという不安、焦燥、取り留めのない想い。あらゆる命に試練を与え、あるいは終わりをもたらす。それが冬という季節の残酷さだ。言葉も、歌声も、物語も、全て失ってしまうかもしれない。そのことが今年は、何時になく心細く思えてくるのだった。
#07
折しもその夜は満月だった。
赤蛮奇は迷いの竹林へと足を踏み入れた。積もりかけの雪の層が、ブーツに踏みつけられてか細い悲鳴を上げている。手にはわかさぎ姫からの手紙、桜色の便箋だ。二度、三度と丁寧に読み返した。これほどの誠意を見せられてしまったら、流石にこちらとしても歩み寄らずに済ませるのは酷に思えた。虫の音もない冬闇の中を、赤蛮奇は歩きながら考える。誠意、誠意ってなんだろう。友情ってなんだろう。愛情ってなんだろう。私にも理解できる日が来るのだろうか。他のひとと手を繋ぎ合うことが幸せで、他のひとと楽しく笑い合うことが喜びで……。とても自分には出来ない相談だ。身体が触れ合うだけで鳥肌が立ちそうだし、他人に口元を見せて、ましてや笑うなんて。でもそれじゃあ、あの時の、あの夜空で抱いた彼女の背中の感触や、“素敵だな”という純粋な想いのことは、どう説明すれば好い?
あれは、そう、悪い気分じゃなかった。
叩き起こされた藤原妹紅は、もんのすげえ不機嫌そうに白髪をがりがりと掻いた。
「郵便の次は深夜の道案内か。私は便利屋じゃないんだけどね」
「後で虎屋のどら焼きあげるから」
「行こうか」
現金なもんだ。
「でもさ、今夜は満月だから、多分会いたがらないと思うよ」
「元気に庭先を走り回ってるのかと思ったわ、“雪やこんこん”だし」
「毎月この日は家に引きこもってる。体毛が気になるんだと」
「狼女なのに?」
「狼女なのに」
しばらく竹と靄の中を歩いていると、今にも自然と同化してしまいそうなくらいぼろっちい廃屋が見えてきた。多分、かつて竹取に従事していた人間の作業小屋のようなものだろう。藁葺きの屋根に月の明かりが差しこんで、竹の影が墨絵のように浮かび上がっている。庭と思しき手前の空間は、ご丁寧にも、あるいは甲斐甲斐しくも雑草が引っこ抜かれていて、代わりに何処で見つけてきたのか、真っ白な花がいくつか植えられていた。耳を垂らした影狼の姿を思い浮かべる。こんな寂しいところで暮らしていたのか。
「私はここまで」
「帰りは?」
「飛べば好いじゃない」
「あ、そっか」
「じゃ」
妹紅は人差し指に灯していた火を吹き消すと、もんぺの物入れに手を突っ込んで去っていった。配慮してくれたのか、関わり合いになりたくないのか。赤蛮奇は花を踏みつけないよう注意して、廃屋に近づいた。戸に手をかけようとしたところで、懐かしい声が隙間から転がり出てきた。
「誰?」
「私、赤蛮奇」
「赤蛮奇さん……?」呼吸ひとつ分、沈黙が挟まれた。「ちょっと待って。お願いだから、今は入ってこないで」
「ええ」
「醜いから……」
「分かったわ」
「悪い」
「好いわよ。話をしに来ただけだから」
「手紙?」
「そう、わかさぎ姫の」
「なんて?」
「あなたと同じだと思うけど」
「聞かせて」
赤蛮奇は手紙を持ち上げて、その内容を読み上げようとしたところで、廃屋の屋根に穴が空いていることに気がついた。生来の好奇心が疼く。あそこまで首を飛ばせば、屋内を覗き見ることが出来る。影狼が隠したがっている“醜い”姿を拝ませてもらうことが出来る。あれほど動き辛そうなドレスを着ているくらいなのだから、余程に気にしているのだろう。……もちろん冗談だ。そんなことをするはずがない。――でも、彼女からの手紙を読みながら、同時にそんなことを考えてしまっている自分の残酷さに、ぞっとした。読み終えて顔を離す。影狼が、蜉蝣のように弱々しい声で云った。
「ありがとう」
「……それで?」
「え?」
「それで、あなたは私に、何か云いたいことがある?」
「別に何も……」
「あの夜のこと」
「夜?」
「気づいていたわ。覗き見していたということは、よほど信用されていなかったってことかしら?」
「違うっ――違うわ、まさか」
「ジョークよ」
軽やかな調子で笑ってみせた。笑いは返ってこなかった。
影狼の声が震えた。「彼女の歌が聞きたくて、そしたら偶然、……あなたがすぐに会いに行くなんて思いもしなかった」
「そう。代わってあげても好かったのに。すっごく寒かったんだから」
「…………」
「流石に妖怪の身でも、防寒対策がマントだけじゃあね。あなたのドレスみたいに、もっと丈も長くして――」
「羨ましかった」
赤蛮奇は眉をひそめた。影狼が絞るように声を漏らした。
「もう、駄目。もう隠しておけない。わたし――」息を吸い込む音。「あなたに嫉妬、してしまってる。どれくらい、前のことかしら、私も“空まで連れて行って欲しい”ってお願いされて、……だけど、彼女の身体に触れるのが怖くて、怖くて」震える声に嗚咽が混じった。「ずっとずっと、私は月を見上げることしか出来なかった。手を伸ばすことしか、夜空に吠えることしか、相手を疑うことしか、私には……」
「…………」
「どうして、あなたはあんなところに、人間に紛れて暮らすことができるの? なんで、あんなっ――簡単に、彼女の手を握って、背中に腕を回して、楽しそうに、……楽しそうに……」
後に続いた声は涙に紛れて分からなかったが、その方が言葉よりもダイレクトに彼女の気持ちを伝えてくれていた。赤蛮奇は腕を組んで溜め息をつきたくなるのをぐっとこらえ、足を踏み替えて、指でリボンの結び目を確かめながら、影狼の殺し切れない泣き声を聞いていた。――ああ、やっぱりこうなるのか、と思った。いくつもの反論が脳裏に浮かんでは沈んでいった。例えば里で暮らしている理由、あなたのような狼達が絶滅の憂き目に遭って、この竹林に迷い込む羽目になったのと同じように、――私も追い込まれて、生存圏を奪われて、最後には妖怪の中でも居場所を失ってしまったなんてろくでもない経緯を、言葉を尽くして伝えることも出来るだろうけれど、……それを説明するには、もう疲れた、消耗してしまっていた。
多分、わかさぎ姫だって自分達と同じだろう。彼女も、あの死の湖でひっそりと暮らしている。そして三人が三人とも例の異変で、月に手を伸ばすかのように、叶わぬ夢を求めて暴れて、退治されてしまったのだ。
そこまでは、同じだ。
何も違わない。
私達は。
不器用で。
平穏を愛し。
争い事は苦手で。
頼れるのは自分ひとり。
条件は、まったく同じなのだ。
そう、私達は……。
でも……。
見過ごされている問題がある。
“同じ”であることは、必ずしも分かり合うための前提条件になるって訳じゃない。
むしろ似ているからこそ、理解を妨げることだってあるんじゃないだろうか。
どちらにしろ、と赤蛮奇は白く濁った息を吐いた、どちらにしろ、もう終わってしまったことだ。
「影狼」朽ちた廃屋に呼びかける。「打ち明けてくれて、感謝するわ。ひとつだけ云わせて欲しい。あなたは醜くなんてないわ。艶のある長い黒髪も、花札みたいな柄のドレスも、気配りが過ぎて逆に空回りする性格も、そのどれも私は美しいと思う。あなたくらいに皆が優しければ、私だって今よりも笑顔でいられたかもしれない。……とにかく自信を持ってさ、早く彼女と仲直りしなさいな。私にはそれが最善の道だと思うから――」
自宅である里の長屋に帰ってきた時には、既に心は決まっていた。
便箋の持ち合わせはなかったから、わかさぎ姫から届けられた手紙の裏面を使うことにした。これなら本人証明も出来て一石二鳥だろう。郵便の役は知り合いに任せれば好い。当面の方針が固まると、赤蛮奇はちゃぶ台の前に正座して手紙を書き始めた。まるであらかじめ下書きが済まされていたかのように、文面はすらすらと浮かんできた。心にもない言葉も、真心を込めた言葉も、同じくらいにすらすらと。書き上げると、赤蛮奇はふうっと息をついて、冷めた緑茶を飲み乾した。後は、どうやってニア・ミスを防ぐか。その問題の解決策も、驚くほど簡単に、ぱっと頭に浮かんだ。里から出なければ好いのだ。それならば、出くわす心配もない。柳の運河で読書が出来なくなるのは痛いが、この際だし、別の場所を探すのも悪くないだろう。そうだ、そうしよう。
なんだか気分が高揚してきた。胸が痛くなるほどに動悸がした。空っぽの高鳴り。それはこれまで幾度も経験してきた奇妙な昂揚感だった。長屋の外に出て、胸いっぱいに深呼吸した。空っぽな分だけ、より多くの酸素を取り入れることができた。空は晴れていて、満月は眩しい。あの本のことを思い出す。私達のほろ酔いランデヴー。離れていたものがひとつになるための超接近飛行。一度すれ違ってしまえば、そのまま離れ離れだ。時計の長針と短針のように、それぞれの速力で、それぞれの軌道をただ進み続けるしかない。そこまで想いを巡らせた瞬間、“とっても素敵”と喜んでいた彼女の笑顔が夜空を横切っていった、まるで人工衛星のように。
……ほんの少しだけ、後悔した。止めにしようかと思った。夜気を吸って気持ちを鎮める。外套を引き寄せて身を包む。冬仕様のマントは暖かかった。不思議な温もりがあった。落ちていた小石を蹴っ飛ばす。云い聞かせるように、心に言葉を撃ち込んでゆく。私には誰も要らない、誰も欲しくない、独りで好い、それで充分に暖かいのだから。幾つかの物語の結末を思い出した。自分を犠牲にしてまで相手を想いやるのが“友情”や“愛情”の正体ならば、私のような奴がひとりくらい居たって好いじゃないか。物語の中で“月”と“狼”は出会う、“夜”は舞台を整える役目に徹して居れば好かったんだ、そうだろう、――赤蛮奇?
闇に溶け込んで首をふよふよと浮かしてみせれば、そこに月明かりが燦々と差し込んで目に痛いくらいだった。
#08
―― ……わかさぎ姫、ここまで読んだくれたのなら、きっとあなたにも分かってもらえたと思う。今回のことで、もう私はうんざりしてしまったの。お愛想ばかりの付き合いとか、粘っこいだけの友達ごっことか、そういう面倒事と、私はこれ以上付き合いたくないってこと。だから、もし次に会うようなことがあったら、お願いだから、気軽に挨拶なんてしないで欲しい。他人の振りをしていて欲しい。あるいは無視してくれて構わない。そして、あなたにとって本当に必要なひとに一秒でも早く会って、話をして、失った時間を取り戻してくれるのなら、それ以上に私が望むことは何もありません。
#09 Epilogue
春を讃える陽光の下で、賑やかな人里の往来を、多々良小傘が下駄を転がすようにして歩いている。
行き交う人びと、特に子供達はこちらを見つけると元気好く挨拶してくれる。そのひとつひとつに丁寧に返事を贈りながら、小傘は貸本屋・鈴奈庵の暖簾を潜った。ちりんちりんと来店を知らせる鈴の音。店番の少女が「いらっしゃませ」と声を上げ、遅れて勘定台でやり取りしていた妖怪が振り返った。
「なんだ、小傘じゃない」
「蛮奇ちゃん、久しぶり」
「ええ」
「今日は何を借りてるの?」
彼女が無言で差し出してきたのは、宇宙と星座に関する本らしかった。題字の下に満天の夜空が印刷されている。
「面白そう」
「小傘もまた借りれば好い」
「一緒に読むのはどう?」
「本だけは、独りで読みたいな」
「そっか、分かった」
彼女は相変わらず鼻風邪を引いたモグラのごとく、もごもごと喋っていた。それも彼女の個性なのだと知っている小傘は、気にすることなく本を物色していった。すると、背中に呼びかける声がぶつかった。赤蛮奇は視線をうつむけて、お腹の辺りで腕を組みながら、再び話し始めた。
「ちょっと、気になることがあるんだけど」
「うん?」
彼女の喉仏が上下した。「……冬の時にさ、“手紙を届けて欲しい”って頼んだことがあったじゃない? ほら、霧の湖まで、そこに住んでる人魚に渡して欲しいって」
「覚えてる覚えてる。寒かったね、あの日は」
「その人魚のことなんだけど、――最近、何処かで見かけた?」
小傘は手を打ち合わせた。彼女の質問に答えられるのが嬉しかったのだ。
「見たよっ――湖の近くだったかなぁ、川原で誰かと座ってた。赤と白のドレスを着てて、頭にワンちゃんみたいな耳を生やした妖怪だったと思う」私の記憶が正しければね、と小傘は続けた。「茂みから飛び出して、驚かしてやろうと思ったんだけど、あのひと達の会話が凄くぎこちなくてさ、あんまり微笑ましかったもんだから、お邪魔するのも悪いかなって、結局何もしないまま……」
小傘は首を傾げた。赤蛮奇が両目を瞑って、微かに、――眼を凝らして見なければ分からないほど微かに、眉間に皺を寄せたのが分かった。そして首をうつむけて、外套の襟に目元まで顔を隠してしまった。幾つかの息遣いが、幾つもの言葉を奪って天井へと昇ってゆき、次に眼を開いた時の少女は、いつもの仏頂面に戻っていた。
「そう……」赤蛮奇は呟いた。「そう、そうなの。好かった、本当に」
「蛮奇ちゃん?」
彼女は勘定台に戻った。「ごめんなさい。これ返すわ。代わりに別の本を借りるから。料金はそのままにしておいて」
「えっ――」小傘は驚いた。「別に好いよ、蛮奇ちゃん。そんな気を遣ってくれなくても」
「違う違う、気が変わっただけよ」
「そうなんだ。……うん、そういう時もあるよね」
「ええ」
振り返った彼女は微笑みを浮かべていた。
好く晴れた日に、木陰で眠っている時に浮かべるような。
穏やかな笑みだった。
「そういう時もある。……それで好いのよ」
.
ほろ酔いランデヴー
(原題: Der Mond und ein Wolf)
(原題: Der Mond und ein Wolf)
#01 Prologue
一度だけ、根雪の溶け切らぬ初春の夜に、様子を見に行ったことがあった。
彼女は湖畔に横たわる岩に腰かけていて、自慢の歌声を披露することもなしに、独りきりで夜空を見上げていた。誘い込まれるように顔を上げると、そこには満月が浮かんでいて、もうどれくらい時間が経ってしまったのだろう、と考えずにはいられなくなった。同時に思い出すのはやはり宇宙船であるとか、人工衛星といった記憶の残骸ばかりで、未だに引きずっている自分のことが馬鹿らしくなってきたものだから、気づかれないようにそっと浮かんでその場を離れた。
このまま里に戻ろうか、いやまだ帰りたくないな、想いが交錯して、空回りして、どうしようもなくなっている内に、ふと思いついて上空まで昇ってみることにした。今夜は晴れているから、いつかの時みたいに雲の間を潜り抜ける必要はない。思い立ったが吉日、――吸血鬼の紅い館や、対岸に建つ廃洋館、人里の明かりなどがぐんぐん遠ざかってゆき、まるで星の瞬きのように姿を縮めたところで、上昇を止めた。空気を胸いっぱいに吸い込んだ。何も変わっていない。ここは何も、大気の唸り声さえも。変わらないことが、いちばんの優しさなのかもしれない。自分は変わったのだろうか。彼女の背中を見れば、何か答えが出てくるんじゃないかと期待していたのだけれど、そうそう上手くは行ってくれないみたいだ。
未練? ……まさか。
衣が風に巻かれてはためき、翻った。触れようとすれば指を切ってしまいそうなくらいに鋭利な風だ。今にもバラバラにされてしまいそうになる。髪だって濡らしていたら、あっという間に凍りついていたかもしれない、それほどに寒い。けれど、……夜空にも地上にも散りばめられている、夜にだけきらめく宝石の川を眺めていると、久々に“本を借りて読みたい”という気持ちが胸の奥から湧き上がってきた。それだけでもここに来た収穫はあったと云える。借りたい本の内容は、もう決まっていた。
次は星座について知りたい。
素敵に夜の時間を彩ってくれるだろう。
きっと、独りでも楽しいから。
#02
覚えているわ、私は今でも覚えてる。
雛鳥のように頼りない、あの震えの止まらない息遣いも、落ち着きを無くし、毛を逆立てた尻尾のつやも、そして水底に沈んだルビーのように、冷やかな光彩を放つ瞳でさえも。それらの全てが月光に洗われて、湖畔のステージに照らし出され、あなたは青白い顔を隠すことも出来ないままに、私の前に現れたのだっけ。今、目の前でリンゴをむしゃむしゃ食べている姿とは大違い、それこそ迷子になった飼い犬のように行き場を無くして、月に吠えていたあの時分の姿とは。――こんなことを思い出してしまったのには訳があって、それがそのまま“彼女”の不機嫌になっている理由であったりする。
「さっきからひとの話ばっかり、恥ずかしいから止めてよ」
そう、私は新しい“友人”を持ったのだ、それも可愛らしい首を乗せたデュラハンの友人を。
「でもさ、ろくろ首って聞いたから、てっきり首が伸びるのかと思ってたわ」
と、あなたは、――影狼さんは云って、リンゴを芯ごと口に放り込む。
「出来ないことはないけど、伸ばすのは気が進まないわね」
「どうして?」
「首の筋がおかしくなるから」
「関節どころか骨まで外せるのに、今さら筋なんて関係あるの?」
「それがあるのよ、話が長くなるけど」
「ふうん……」
その夜は月の光も優しい晴れ模様で、場所は霧の湖の近くの、葉を散らした楡(にれ)の木の下だった。眼前の眺望には妖怪の山が威容を湛えんばかりにこれでもか、と肩をいからせている。その頂きは今も真っ白に化粧している。呼びかけに集まってくれた赤蛮奇さんと今泉影狼さんの会話を耳にしながら、私は金魚鉢の縁に沿うように両腕を乗せていた。赤蛮奇さんとはこの冬に出会ったばかりで、柳の運河から流れてきた首を拾ってあげたことから交際が始まり、今夜は初めて三人揃ってお酒を飲むことにしていたのだ。でも……。
「満月になると、さ」
「うん?」
「やっぱり、狼そっくりになるの?」
「体毛は増えるけど。幸い、全身にびっしりって訳じゃない」
「性格も変わっちゃったり?」
「中には、凶暴になる奴も居た。……そういう連中は全員、もうこの世にいないけど」
「あ、いや、ごめんなさい」
「わ、私こそ、変なこと云っちゃって。お酒の席なのに……」
「…………」
「…………」
――これなのだ。もう禍々しい魔力は失われて、それぞれの生活に引きこもってしまった私達は、そう忘れてしまっていたのだが、三人が三人とも人見知りな性格なのだ。会話が続かない。寂しがり屋な月が、太陽に焦がれながら輝いている夜なのに、こんなにぶどう酒が美味しい夜なのに、私達は空を見上げることしか出来ていない。誰もが独りでいる時分の沈黙には慣れっこなのに、他のひとと居るだけで、どうしてこう。気まずさに口を開いてしまう。
「覚えているわ、私は今でも覚えてる」
二人が金魚鉢に入った私を見た。
「赤蛮奇さんを見ていたら、思い出してね、影狼さんとの出会い。とても怖くて、でも綺麗だった」
「へえ」
ろくろ首の友人が横目で窺い、影狼さんは視線を草の原に落としている。
「とってもお腹が空いていたんでしょうね。それに何だか怖がってたみたいで、私、危うく影狼さんに食べられそうになって」
「食べ……!?」
「や、止めましょうよ、そんな話」影狼さんが顔を上げる。「あの時は、そう、どうかしてたし。おまけに満月だった」
「私の話だけ散々しといて、ずるいじゃないの。――聞かせて、わかさぎ姫」
「無我夢中だったんだと思うわ。飛びかかられて、痛かったわね、あれは。尾ひれに牙を突き立てられて、あんな大きな悲鳴を上げたのは生まれて初めて」
「わ、わたし……!」
影狼さんが立ち上がっていた、黄ばみのない真っ白で凶悪な牙を剥き出しながら。本能的な恐怖だったんだと思う、私は反射的に鉢の中で身を引いていた。尾ひれが疼くように痛んだ。
「あ……」影狼さんは慌てて牙を引っ込めた。「ごめんなさい。私、帰るわ。ワインありがとう。美味しかった」
赤蛮奇さんに頭を下げてから、すぐに背を向けてしまったために、ドレスの裾が踊るように翻った。呼び止める暇もなかった。井戸の底のように真っ暗で、大地の深くまで瘴気が染みついた迷いの竹林へと、彼女は帰っていってしまった。その後、ため息をおむすびのように地面に転がして、カベルネ・ソーヴィニヨンの赤ワインを手に持って、赤蛮奇さんも立ち上がった。
「どうも、ね。お邪魔だったみたいね、私」
「そんな」
「いかんなぁ。こういう時、どう云えば好いのか分からないのよ、慣れてないから」
「ま、また……」
「うん?」
「また来て下さいね。今度は、きっと」
赤蛮奇さんの、外套の襟を引き上げて口元を隠していたけれど、それでも「ええ」と頷いて、血を振りかけたみたいな真紅の瞳を細めた姿を見て、私は彼女の優しさと臆病さとを同時に見抜いてしまった。優しい笑みに隠した、優しい嘘。影狼さんと似ている。似ていることそのものが、私達にとっての不幸。赤蛮奇さんが立ち去ってからも、私は金魚鉢の中で思案に暮れ、あるいは途方に暮れながら、いったいどうすれば好かったのだろう、言葉は必要なかったのか、言葉が全てを台無しにしてしまったのか、穏やかな夜の沈黙に身を浸していた方が好かったのか、あなたが去ってしまわぬように、……そのようなことを考えているうちに、ある致命的な事実に気がついてしまった。
私は今、独りきりだ。――これでは湖に戻れないではないかっ!
#03
貸本屋から借りた本に、面白い言葉を見つけた。
ランデヴー“rendez-vous”。恋人同士が日時や場所を決めて二人だけで会うこと。あるいは、別箇の軌道を持つ宇宙船がドッキングのために宇宙空間で接近すること。――赤蛮奇は、この言葉を宇宙に関する本で知った。人間の子供向けに書かれたもので、内容も分かりやすい。外の世界は魔法よりも科学が進歩しているそうだから、幻想を捨てた人間達が、現在の月や宇宙の姿をいったいどんな目で見ているのか、前々から興味があった。人類が宇宙に飛び立つまでの歴史から、太陽系の恒星や惑星の概説まで、目新しい知識が漉し餡のごとく詰め込まれていて、赤蛮奇はけっこう楽しい気分でその本を読みふけった。柳の運河が湛える水のせせらぎはささやかで、読書に集中するにはうってつけの清涼剤だった。――ふと、誰かが隣に座ったのを感じて、顔を上げると、それは今泉影狼だった。何日振りだろう。
「こんにちは」
「どうも」
「邪魔しちゃって悪いわね」
「それは好いけど、こんな里の近くまで出てきて大丈夫なの」
「ちょっぴり怖いけど、いざとなったら飛んで逃げるから」
「そう」
影狼は下手くそな笑みを浮かべていた、笑ってくれない方が、まだしも気が楽に思えるような。
「ねぇ、わかさぎ姫、見てない?」
「は?」
「その、さ。……ケンカしちゃって」
本に栞を挟んで、背筋を伸ばした。「なんでまた?」
「彼女、機嫌が悪くてさ。この前あのまま帰っちゃったでしょ? ひと晩中、湖に戻れなかったとか」
「あっ。……あー、すっかり抜けてた。悪いことしちゃったわね」
「それもあって、ちょっとした口論になっちゃってね。それから姿を暗ましたままで」
「で、私に何をして欲しいわけ?」
云ってしまってから、直截に過ぎたかな、と反省。影狼は耳をすっかり垂らして、黒髪も何処か跳ねが目立ち、手入れを怠っているようだった。本当に参っているらしい様子が見てとれたので、姿勢を変えてやる。それくらいの親切心はあるつもりだ。
「もし、わかさぎ姫と会ったら」影狼は云った。「よろしく伝えておいて欲しいの。“この前は悪かった”って。多分、私が行っても顔を見せてくれないと思うから……」
「好いわよ。任せて」
「ありがとう」
少女は狼らしくもない、痛々しい微笑みを浮かべた。胸元のブローチの、真っ赤な宝玉が陽の光に洗われて輝いた。普段は落ち着いた物腰を崩さない彼女の、ふとしたきっかけで儚くも崩れてしまう、ある種のきらめきを目の前に差し出されて、胸に不思議な感慨が湧き起こってくるのを感じた。これはなんだろう。誘惑に駆られて口を開いていた。
「この前わかさぎ姫が云ってたあれ、本当?」
「ええ」
「彼女を食べそうになった?」
「……ええ」
「よく思い留まれたもんね。満月だったんでしょう?」
「彼女の声が、あんまり綺麗だったから」
「声?」
「“助けて”って叫ばれてね、その声が、何故か頭の芯にガツンと響いた」
それで我に返ったの、それだけよ。――影狼はそう云って目を伏せた。
湖の岸辺に彼女はいた。
その夜は曇天で、今にも雪が降り出しそうな空模様、弾幕を放てば割れてしまいそうなくらいに空気も張りつめていて、だから彼女の歌声も、いつもより何処か精彩を欠いていた。楡の木から歩み出て、棒杭で組まれた釣り場に腰かけたお姫様に近づくと、彼女は肩を跳ねさせて振り返り、黒真珠のような瞳を丸くしたのだが、こちらの姿に気がつくと、安堵の息を漏らしてくれた。
「赤蛮奇さんっ。もう、気配を消すのがお上手ですね」
「悪い、癖になってる。静かな夜が好きなもんで、ついね」
「私も好きですよ、特に……」
「特に?」
「当ててみて」
「……“月の綺麗な夜”かしら」
尾ひれがぴちぴちと跳ねた。「そう、そうよ。影狼さんは満月が苦手だそうだけど」
危うく忘れてしまうところだった、そうだ、その為に来たんだった。
「そういや喧嘩したんだって?」
「え、ええ」
「“悪かった”って、影狼が。見るからに反省してた。耳を垂らしてさ、落ち込んでたわ」
「影狼さんが、あなたに?」
「うん」
「そう……」
「原因は何だったの?」
真珠の瞳が揺れて、迷っているらしいのが見て取れたから、訊かない方が好かったと顔を背けてしまいそうになる。もう遅い、言葉は発せられてしまった。人魚が和服のフリルを指で弄りながら云う。
「怒らないで、下さいね? ――あなたのことなの」
「ふぅん」
「この前のこと、その、“どうすればもっとお話が出来るようになるかしら”って訊いてみたの。――でも、影狼さんは首を振って“まだ早すぎる”って。“手順を踏み違えてる”って」
「ああ」
頷きを返した、まったくその通りじゃないか。
「わかさぎ姫」赤蛮奇は呼びかけた。「その、あなたの誘いはとても嬉しかったわ、本当よ。だけど、……言葉が不味くてごめんなさいね、私はあまり他人と付き合うのが好きじゃないの。苦手と云っても好い。たまにお話をするくらいなら悪くないけれど、あんな風に無理してまで仲好くなる必要なんて、ないんじゃないかな。苦しくなるから、お互いに。気持ちは有難いんだけどね」
この辺りが、言葉の許せる限界だろう。それじゃ、またね、立ち去ろうとマントを翻した、――その裾を彼女の手につかまれた。わかさぎ姫の力は思っていたよりもずっと弱々しい。その縋りつき方には、何かを思い出すような儚い気迫が込められていて、赤蛮奇は影狼のあの微笑みを思い返していた。――そうだ、影狼だ。彼女と影狼が似ているのは、ここなんだな。首を振った。人魚はこちらを真っ直ぐに見ていた。
「お、お願いがあります」
「なに?」
「私を抱いて連れていってくれませんか、あの夜空へ」
「……なんでまた」
「もうちょっとだけ、いっしょに居たいんです。ここじゃない何処かで」
「それこそ、影狼にやってもらいなさいよ」
「行って欲しくないの。せっかくお知り合いになれたのに、このまま、このまま……」
うつむいてしまった姫の姿は拙い、今にも泡となって弾けてしまいそうに。赤蛮奇は目を閉じて、言葉を返すことなく、彼女の手を握り返した。
#04
雲の上まで飛ぶなんて、本当に久しぶりだ。
彼女が寒がらないようにと、血のしたたる色の外套をひざ掛けのように被せて、夜空を散歩する。月が綺麗なのは結構なのだが、冬の夜空をなめていた。こんちくしょう、なんて寒さだ。空気が氷で出来たナイフのように薄く鋭くなっている。震えながらも喜びを隠せない彼女の、尾の濡れた感触は本当に慣れないもので、向こう三日はぬめりが取れないのではないかと危惧してしまう程だった。あっちこっちと星を指差しては声を上げる人魚姫が落ちないようにと、細心の注意を払う。
「素敵、素敵、とっても素敵」
「そりゃ好かった」
「考えてみれば不思議ね。月も星も、いったいどうやって照らすことを覚えたのかしら」
「ああ、それは……」
本を読んでおいて好かった。太陽光の反射のことや、自ら光を発する天体が太陽以外にも沢山存在するのだという知識を、露天商のようにざっと披露してみせると、熱心な頷きや、きらきらした瞳の輝き、ついでに尾ひれのぴちぴちが返ってきた。
「もっと、いろいろ教えて下さい。赤蛮奇さん」
「蛮奇で好いよ」
宇宙の話を続けながら、“素敵だな”という純粋な想いを転がしてしまっている自分を発見し、正直驚いた。“ランデヴー”という言葉の持つ意味と、今の自分達のある意味滑稽な姿とを思い比べてみた。私達は別々の軌道を持つ宇宙船で、時どき飛来するスペース・デブリに怯えながらも、その任務を全うしようとして、命を育む星の軌跡を絶えず旋回している。でも、……その飛行は必ずしも正確なものではなく、まるでいつも酔っ払っているみたいにふらふらしているから、せっかくお互いの姿形が分かるくらいに接近しても、――同じ軌道に入ることが出来ても、――ジェミニ八号とアジェナ八号のようには上手くゆかずに、いつまでも繋がり合うことが出来ないで、要らぬ衝突や、すれ違いばかりを繰り返している。だったら真っ暗な空間を独りで漂っていた方が傷つかずに済むと結論したのが自分で、――苦しむことになろうとも(それこそ食べられそうになっても)、ほろ酔いのランデヴーを続けることを選択したのが、彼女なのだろう。
どちらが、生き方として正しい?
どちらが、生き方として間違っている?
余計な事故を起こさずに済むということ。
それだけでは、駄目なのか?
それだけでは、不満か?
それとも。
傷つきたいのだろうか、自分は?
傷口から流れた血潮を見て、ああ、生きているんだと、安心したいのだろうか?
彼女からの誘いを、断ることだって出来たはず。
そうじゃないか?
首を振って、想いを閉め出した。
こんな時だってある。
そう思い込むことにした。
「……わかさぎ姫、そろそろ」
「ん、そうですね、ええ」
人魚は眠たそうに和服の袖で目をこすっていた。好く見ると尾ひれの鱗に氷の膜が張っていた。
――と、凍死!? 出荷されるんじゃあるまいし!
「ちょっとちょっと! 寝ちゃ駄目よ、起きなさい!」
「蛮奇さんの腕が心地好くて……」
「この野郎!」
頬を往復ビンタしながら急降下した。雲の層を抜けて、眼下に広がる霧の湖に向かって、ダイブするように切り込んでゆく。水面ぎりぎりで急停止して、ガラス細工でも扱うように、わかさぎ姫をそっと降ろしてやった。冬場は水底の方がまだしも暖かいんじゃないか、それに彼女は水中だと力が増すのだし、……外套を着こみながらそう考える。文字通り水を得た魚となった姫が、真珠の瞳を薄く開いた。
「ありがとう。今夜は、本当に。……あなたと話せて」
「寝た方が好いわ。気をつけて帰りなさいね」
「ええ……」
彼女は背面になって、呑み込まれるように暗闇に沈んでゆき、手を振るように尾ひれが水面を打ったのが最後だった。水飛沫。沈んでゆく。見えなくなる。それでも一瞬だけ、水色の鱗が淡くきらめいた、夜空を照らし出す月光のように。ああそうか、と独りごちた、彼女は月と似ているのだ、道理で夜に映えると思った。しばらく飛翔の余韻に耳を澄ませてから、里の方角を振り向いたところで、赤蛮奇は凍りついた。楡の木の根元に、誰かいる。眩い眼光が宵闇を突き破って、真っ直ぐに胸を貫いてくる。
それは彼女だった。それは影狼だった。
狼少女は身動きひとつせずに、木の影からこちらの様子を無言のままに窺っていたのだった、ずっと、ずっと、赤蛮奇が耐え切れずに目を背けてしまうまで、ずっと。
#05
これで何杯目だろう、と使い物にならなくなった頭で考える。
「……何してんの?」
「自分でも分かんない」
「ひとん家の壁に寄りかかって、酒瓶をラッパ呑み。そのご自慢の尻尾、燃やされたいのかしら」
「あなたを待っていたんだと思う」
「は?」
「ごめんなさい、今のなし。忘れてちょうだい」
「…………」
藤原妹紅が熱でも計るみたいに額に手のひらを当てて、たけのこを満載した籠を土に降ろした。今泉影狼は定まらない視界の、その焦点を蓬莱人に合わせようとしたけれど、上着ともんぺの色彩くらいしか分からない。しばらくして、何か焼き物のようなものを手に持った妹紅があばら家から出てきて、それを目の前に差し出した。
「水」
「ん」
「それ飲んだら、川にでも行きな。ひどい顔してる」
「話くらい――」
「だめだめ」少女は手を振った。「どうせまた友達と喧嘩したとか、そんな話でしょ? 三日も経てば仲直りするんだから」
「違うの。いや正しいけど、今回は違うの」
「影狼さ、今すっごい恥ずかしい状態だよ。話を聞くのは好いけれど、酔いが醒めたら今度は話したことを後悔しだすってこと、私は嫌というほど知っているからね」
「聞いて欲しい」
影狼はうつむいて、赤子を抱くようにして手に持っている安酒を見下ろし、その口の部分が砕けているのに気がついた。いつの間にか、またやってしまったらしい、口の中に瓶の破片が残っていた。ぷっと吐き出して、あばら家の壁板に身を預けた。その頭を、妹紅がぽんぽんと叩いてくれた。……グルルル、喉が鳴る。
「なんでだろうね」
「?」
「なんで、私よりも影狼の方が人間臭いんだろう」
「どういう……」
「普段は嫌味なくらい落ち着いた性格してる癖に、ちょっと特別な角度から崩されると、もう駄目ね。私は酒に溺れたいとは思わない、話をするよりも聞く方が好きだから。影狼は、あれだ、心が強いんじゃなくて、理性で脆さを隠すのが得意なタイプだ」
「だから、なによ」
「“さっさと頭を冷やせ”ってことだよ。それで、いつもの今泉影狼に戻って欲しい。昨日だってあなたの遠吠えのせいで全然眠れなかったんだから」
川の水で顔を洗っていると、偶然にもわかさぎ姫に出会った。
妖怪の山から霧の湖に流れ込む川の水は、人間の生活用水になるほど澄んでいるのに、いったん湖に流れこむと、そこには魚がろくにいないというから不思議だ。噛みつくようにがばがば飲んだ、顔を洗った、特に目の下の染みが取れるようにとごしごし擦った、息が酒臭くならないようにと入念にうがいもした。そうして出来るだけ清潔を保とうと努力を続け、顔を上げてようやく、彼女が川面から頭を出して、こちらを見つめているのに気がついた。
「影狼さん」
「ごめんなさい。気づかなかった」
「こちらこそ、この前のこと……」
「え、ええ。それで、今日はどうしたの?」
「謝りに来たんです、川を遡って。竹林の近くなら、あなたも姿を見せるかなって」
彼女は視線を合わせようとはせずに、和服の袖で口元を覆っていた。
「蛮奇さんに、話は聞きました。影狼さんが落ち込んでいらしたって。私、本当に悪いこと云っちゃった……」
がんがん鳴る頭を叱りつけながら、影狼はその言葉を、“赤蛮奇”という言葉を紡いだ彼女の表情を見つめていた。
「――あのひとは、なんて?」
「“気持ちは有難いけど、無理して仲好くなる必要なんてない”と」
「あぁぁ……」
鉄塊のように重い溜め息が漏れた。そうか、彼女はそこまで喋ってしまったのか。そもそも、赤蛮奇を行かせた自分が悪いのだ。こうなることを予想できたんじゃないか、もちろん“ああ”なることも……。
「怒ってた、かな」
「そんなことありません」わかさぎ姫が少しだけ、笑顔を取り戻す。「いつも仏頂面ですけど、本当はとっても優しいひとだって、私には分かりました。寒い夜なのに、わざわざ湖まで会いに来てくれて」
――“見てた”と話したら、彼女はいったいどんな反応をするだろう。影狼は酔いの醒めない頭の引き出しから、記憶を掘り起こした。あなたが彼女のマントの裾をつかんで、お願いして、抱きかかえられて、雲を抜けて夜空まで昇ってゆくところを、私は、見えない月を、手の届かない月を想いながら吠える犬のように見ていたということを話したら、あなたは……。胸の内で不穏な火が煙を上げるのが分かった。悪い徴候だと声が聞こえる。実に不味い徴候だ。
「まぁ、あのひとがそう云うんなら仕方ないんじゃないかしら? また会った時にでも話をすれば好い」
「でも、それじゃ、私が会いに行けない」
「あ……」影狼は姫の尾ひれを見つめた。「そうか、そうね」
「柳の運河までなら大丈夫かしら? ――ほら、晴れた日はあそこの土手で読書されてるそうですし」
「危ないわ、人間に気づかれたら。それに、こんな寒い時期に外で本を読むなんて」
「やってみる価値はあります」
「退治されたらどうするの?」
「いつまでも臆病なままでは何も変わらないわ」
影狼は奥歯を噛んだ。「私は臆病者なんかじゃないっ」
我に返って、牙を引っ込めた時には既に遅く、わかさぎ姫は目を見開いて首を縮み込ませていた。ほんの僅かに、濡れた肩が震えている。息を吸い込んで、唇をもごもごと動かして、必死に感情をコントロールしているのが見てとれた。
「も、もちろんです。すみません、私はそんなつもりで云ったんじゃ……」
影狼は両手を上げて後ずさった。「私こそ、……っ――ごめんなさい。ついさっきまで、お酒を飲んでて、気が立ってたわ」
云ってしまってから、今度はお酒のせいにしてしまっている自分の姿に気づく。
ああ、今日は本格的に駄目だ。
なんて……。
「……来てくれて、ありがとう。用事があるから、行くわね」
「え、ええ」
「じゃあ」
笑顔を作ってみせて、逃げるように背を向けた。早足が駆け足になり、茂みに駆け込んだ時には今にも四つ足で走りだしそうになっていた。もう見えないだろうと思ったところで、立ち止まった。自己嫌悪で吐いてしまいそうだった。竹の皮に手のひらを預けて、それでも身体を支えきれずにドレスの膝を突き、何度もなんども、頭を緑色の植物に打ちつけた。もう分かり切っていた、認めてしまっていた、今さら問い質すまでもない。胸の中でこんなに、真っ黒な炎が煌々と燃えているのだもの。
明日から、なんて顔をして、彼女に会えば好い?
#06
手紙を書いた。
二通。
湖畔で。
乾いた石。
なるべく平たい石。
広げた便箋は淡い桃色。
もうすぐ訪れる春に咲く、桜の色彩だ。
手紙どころか、文字を書くのも本当に久しぶり。
何度もなんども書き直しては破いた。
自分の拙い字が憎らしい。
それでも頑張って。
筆を走らせ。
ようやく。
完成。
封筒に入れた。
影狼さんと蛮奇さんには、今は会えないけれど、それでも言葉は届けなければならないと思った。書いている間中、何度も三人でワインを飲んだ夜のことを思い返した。あの時と同じかもしれない、言葉は求められていないのかもしれない、そう思うと筆が止まりそうになったが、陸に上がれない私が出来ることは、この気持ちを打ち明けることしか。書いていて思い出した昔話がある。人魚のお姫様の童話、恋したひとに気持ちを告げることのできないままに、海に身を投げて、泡となって消えていった人魚姫。私が滅多に本を読まなくなってしまったのも、あの童話のせいだった。あの本をくれた人間は、今、何をしているのだろう。もう灰になっているのだろうか。別れ際に見せてくれたあの笑顔が、好意の印からではなくて、童話を読み終えた時の妖怪の表情が今から楽しみだという、ほくそ笑みだったことに気づいたあの時から、私は。
……どうして今、そのことを思い出してしまったのだろう?
鬱蒼とした森の包囲から逃れようとしているかのように、前庭だけを陽だまりに差し出している古びたお屋敷があって、そこがプリズムリバー伯爵の廃洋館。湖畔に腰かけていると、賑やかな音楽が、あるいはしめやかな旋律が流れてくることがあって、それに合わせてこっそり歌うのが、最近の楽しみだった。新しい住人の人たちとも仲好しになれた。誰もが忙しなく館を飛び出していくから、会える機会は少ないけれど……。ほら、また来てくれた。古びた手風琴を持って、寒風に栗色のショート・ヘアを揺らしながら、付喪神がこちらに向かって歩いてくる。私は手を振った。
「あ、完成したんだ」九十九八橋さんが云った。「それを届けてくれば好いの?」
「無理を頼んじゃってごめんなさい」
「どうせなら“ありがとう”の方が嬉しいかなぁ」
「ありがとう」
「おっけー」
「私も飛べたら好いんだけど」
「こっちは泳げないから、お相子じゃない」
「ええ」
「じゃ、行ってくるね」
「ありがとう」
「あいよ」
「ありがとう」
「分かったって、そんな何度も」
「本当に、ありがとう」
八橋さんは、じっと私の顔を見つめてきた。そんなにおかしかったのだろうか、ふっと笑いを漏らして、手近な岩に腰を下ろし、アコーディオンを愛おしそうに奏で始めた。この前はピアノ、つまり“洋琴”で、次は手風琴。本当に多才なひとだと思う。彼女の演奏に私は歌を添えることはしなかった。ただ浸っていたかったのだ。アコーディオンの音色は、ピアノと違ってメルヒェンな色彩が混じっているようで、それで楽しげな曲を奏でられると、ついリズムに乗って身体を揺らしてしまいそうになる。指が弾む。哀しい童話を、楽しい童話が溶かしてゆくようだ。彼女は何も言葉を並べずに、ただ自身の“音”を私に届けてくれた。音楽があるから、彼女は言葉を必要としないのだ。伝えたい言葉の全ては、音楽がそのメロディに乗せて語ってくれる。
細い雪が湖に注がれ始めた頃になって、演奏が結ばれたので、私が拍手すると、彼女は照れくさそうに手を挙げてカチューシャに指を触れた。私は服の袖で目尻を拭いながら、尾ひれを揺らした。
「な、何も泣かなくても」
「違うの、本当に感動したのよ。幸せなの」
「嬉しいけど、それ以上に、恥ずかしいなぁ」彼女が立ち上がった。「人里は好いとして、竹林はちょっと厳しいかもね」
「入口に白い髪をした人間が暮らしてらっしゃいますから、その方に」
「らじゃー」
「気をつけてね」
「わかさぎ姫こそ、元気出してよ」
また貴方の歌、聴かせてね。彼女はそう云い残して、冬空へと飛び立っていった。
八橋さんが去ってから、私は早速先程のメロディを歌い上げようとした。瞳を閉じて、心を込めて。喉からは掠れたノイズが出るばかりだった、言葉を奪われた人魚姫のように。身体が重かった。あの時、蛮奇さんに夜空へと連れて行ってもらった際に、思ったよりも体力を失ってしまったらしい。熱はほとんど無いのに、歌声だけが冒されてしまっている。乾燥するこの季節は、いつもこうなのだ。せっかく八橋さんが励ましてくれたのに、また気分が沈んできた。嫌な予感がしたのだ。どれだけ身を尽くしても、言葉は言葉、仮初の、上辺だけのものなのだろうか。冬の季節が来る度に、そして喉が枯れてしまう度に、いつも考えてしまうこと、二度と歌えなくなるんじゃないかという不安、焦燥、取り留めのない想い。あらゆる命に試練を与え、あるいは終わりをもたらす。それが冬という季節の残酷さだ。言葉も、歌声も、物語も、全て失ってしまうかもしれない。そのことが今年は、何時になく心細く思えてくるのだった。
#07
折しもその夜は満月だった。
赤蛮奇は迷いの竹林へと足を踏み入れた。積もりかけの雪の層が、ブーツに踏みつけられてか細い悲鳴を上げている。手にはわかさぎ姫からの手紙、桜色の便箋だ。二度、三度と丁寧に読み返した。これほどの誠意を見せられてしまったら、流石にこちらとしても歩み寄らずに済ませるのは酷に思えた。虫の音もない冬闇の中を、赤蛮奇は歩きながら考える。誠意、誠意ってなんだろう。友情ってなんだろう。愛情ってなんだろう。私にも理解できる日が来るのだろうか。他のひとと手を繋ぎ合うことが幸せで、他のひとと楽しく笑い合うことが喜びで……。とても自分には出来ない相談だ。身体が触れ合うだけで鳥肌が立ちそうだし、他人に口元を見せて、ましてや笑うなんて。でもそれじゃあ、あの時の、あの夜空で抱いた彼女の背中の感触や、“素敵だな”という純粋な想いのことは、どう説明すれば好い?
あれは、そう、悪い気分じゃなかった。
叩き起こされた藤原妹紅は、もんのすげえ不機嫌そうに白髪をがりがりと掻いた。
「郵便の次は深夜の道案内か。私は便利屋じゃないんだけどね」
「後で虎屋のどら焼きあげるから」
「行こうか」
現金なもんだ。
「でもさ、今夜は満月だから、多分会いたがらないと思うよ」
「元気に庭先を走り回ってるのかと思ったわ、“雪やこんこん”だし」
「毎月この日は家に引きこもってる。体毛が気になるんだと」
「狼女なのに?」
「狼女なのに」
しばらく竹と靄の中を歩いていると、今にも自然と同化してしまいそうなくらいぼろっちい廃屋が見えてきた。多分、かつて竹取に従事していた人間の作業小屋のようなものだろう。藁葺きの屋根に月の明かりが差しこんで、竹の影が墨絵のように浮かび上がっている。庭と思しき手前の空間は、ご丁寧にも、あるいは甲斐甲斐しくも雑草が引っこ抜かれていて、代わりに何処で見つけてきたのか、真っ白な花がいくつか植えられていた。耳を垂らした影狼の姿を思い浮かべる。こんな寂しいところで暮らしていたのか。
「私はここまで」
「帰りは?」
「飛べば好いじゃない」
「あ、そっか」
「じゃ」
妹紅は人差し指に灯していた火を吹き消すと、もんぺの物入れに手を突っ込んで去っていった。配慮してくれたのか、関わり合いになりたくないのか。赤蛮奇は花を踏みつけないよう注意して、廃屋に近づいた。戸に手をかけようとしたところで、懐かしい声が隙間から転がり出てきた。
「誰?」
「私、赤蛮奇」
「赤蛮奇さん……?」呼吸ひとつ分、沈黙が挟まれた。「ちょっと待って。お願いだから、今は入ってこないで」
「ええ」
「醜いから……」
「分かったわ」
「悪い」
「好いわよ。話をしに来ただけだから」
「手紙?」
「そう、わかさぎ姫の」
「なんて?」
「あなたと同じだと思うけど」
「聞かせて」
赤蛮奇は手紙を持ち上げて、その内容を読み上げようとしたところで、廃屋の屋根に穴が空いていることに気がついた。生来の好奇心が疼く。あそこまで首を飛ばせば、屋内を覗き見ることが出来る。影狼が隠したがっている“醜い”姿を拝ませてもらうことが出来る。あれほど動き辛そうなドレスを着ているくらいなのだから、余程に気にしているのだろう。……もちろん冗談だ。そんなことをするはずがない。――でも、彼女からの手紙を読みながら、同時にそんなことを考えてしまっている自分の残酷さに、ぞっとした。読み終えて顔を離す。影狼が、蜉蝣のように弱々しい声で云った。
「ありがとう」
「……それで?」
「え?」
「それで、あなたは私に、何か云いたいことがある?」
「別に何も……」
「あの夜のこと」
「夜?」
「気づいていたわ。覗き見していたということは、よほど信用されていなかったってことかしら?」
「違うっ――違うわ、まさか」
「ジョークよ」
軽やかな調子で笑ってみせた。笑いは返ってこなかった。
影狼の声が震えた。「彼女の歌が聞きたくて、そしたら偶然、……あなたがすぐに会いに行くなんて思いもしなかった」
「そう。代わってあげても好かったのに。すっごく寒かったんだから」
「…………」
「流石に妖怪の身でも、防寒対策がマントだけじゃあね。あなたのドレスみたいに、もっと丈も長くして――」
「羨ましかった」
赤蛮奇は眉をひそめた。影狼が絞るように声を漏らした。
「もう、駄目。もう隠しておけない。わたし――」息を吸い込む音。「あなたに嫉妬、してしまってる。どれくらい、前のことかしら、私も“空まで連れて行って欲しい”ってお願いされて、……だけど、彼女の身体に触れるのが怖くて、怖くて」震える声に嗚咽が混じった。「ずっとずっと、私は月を見上げることしか出来なかった。手を伸ばすことしか、夜空に吠えることしか、相手を疑うことしか、私には……」
「…………」
「どうして、あなたはあんなところに、人間に紛れて暮らすことができるの? なんで、あんなっ――簡単に、彼女の手を握って、背中に腕を回して、楽しそうに、……楽しそうに……」
後に続いた声は涙に紛れて分からなかったが、その方が言葉よりもダイレクトに彼女の気持ちを伝えてくれていた。赤蛮奇は腕を組んで溜め息をつきたくなるのをぐっとこらえ、足を踏み替えて、指でリボンの結び目を確かめながら、影狼の殺し切れない泣き声を聞いていた。――ああ、やっぱりこうなるのか、と思った。いくつもの反論が脳裏に浮かんでは沈んでいった。例えば里で暮らしている理由、あなたのような狼達が絶滅の憂き目に遭って、この竹林に迷い込む羽目になったのと同じように、――私も追い込まれて、生存圏を奪われて、最後には妖怪の中でも居場所を失ってしまったなんてろくでもない経緯を、言葉を尽くして伝えることも出来るだろうけれど、……それを説明するには、もう疲れた、消耗してしまっていた。
多分、わかさぎ姫だって自分達と同じだろう。彼女も、あの死の湖でひっそりと暮らしている。そして三人が三人とも例の異変で、月に手を伸ばすかのように、叶わぬ夢を求めて暴れて、退治されてしまったのだ。
そこまでは、同じだ。
何も違わない。
私達は。
不器用で。
平穏を愛し。
争い事は苦手で。
頼れるのは自分ひとり。
条件は、まったく同じなのだ。
そう、私達は……。
でも……。
見過ごされている問題がある。
“同じ”であることは、必ずしも分かり合うための前提条件になるって訳じゃない。
むしろ似ているからこそ、理解を妨げることだってあるんじゃないだろうか。
どちらにしろ、と赤蛮奇は白く濁った息を吐いた、どちらにしろ、もう終わってしまったことだ。
「影狼」朽ちた廃屋に呼びかける。「打ち明けてくれて、感謝するわ。ひとつだけ云わせて欲しい。あなたは醜くなんてないわ。艶のある長い黒髪も、花札みたいな柄のドレスも、気配りが過ぎて逆に空回りする性格も、そのどれも私は美しいと思う。あなたくらいに皆が優しければ、私だって今よりも笑顔でいられたかもしれない。……とにかく自信を持ってさ、早く彼女と仲直りしなさいな。私にはそれが最善の道だと思うから――」
自宅である里の長屋に帰ってきた時には、既に心は決まっていた。
便箋の持ち合わせはなかったから、わかさぎ姫から届けられた手紙の裏面を使うことにした。これなら本人証明も出来て一石二鳥だろう。郵便の役は知り合いに任せれば好い。当面の方針が固まると、赤蛮奇はちゃぶ台の前に正座して手紙を書き始めた。まるであらかじめ下書きが済まされていたかのように、文面はすらすらと浮かんできた。心にもない言葉も、真心を込めた言葉も、同じくらいにすらすらと。書き上げると、赤蛮奇はふうっと息をついて、冷めた緑茶を飲み乾した。後は、どうやってニア・ミスを防ぐか。その問題の解決策も、驚くほど簡単に、ぱっと頭に浮かんだ。里から出なければ好いのだ。それならば、出くわす心配もない。柳の運河で読書が出来なくなるのは痛いが、この際だし、別の場所を探すのも悪くないだろう。そうだ、そうしよう。
なんだか気分が高揚してきた。胸が痛くなるほどに動悸がした。空っぽの高鳴り。それはこれまで幾度も経験してきた奇妙な昂揚感だった。長屋の外に出て、胸いっぱいに深呼吸した。空っぽな分だけ、より多くの酸素を取り入れることができた。空は晴れていて、満月は眩しい。あの本のことを思い出す。私達のほろ酔いランデヴー。離れていたものがひとつになるための超接近飛行。一度すれ違ってしまえば、そのまま離れ離れだ。時計の長針と短針のように、それぞれの速力で、それぞれの軌道をただ進み続けるしかない。そこまで想いを巡らせた瞬間、“とっても素敵”と喜んでいた彼女の笑顔が夜空を横切っていった、まるで人工衛星のように。
……ほんの少しだけ、後悔した。止めにしようかと思った。夜気を吸って気持ちを鎮める。外套を引き寄せて身を包む。冬仕様のマントは暖かかった。不思議な温もりがあった。落ちていた小石を蹴っ飛ばす。云い聞かせるように、心に言葉を撃ち込んでゆく。私には誰も要らない、誰も欲しくない、独りで好い、それで充分に暖かいのだから。幾つかの物語の結末を思い出した。自分を犠牲にしてまで相手を想いやるのが“友情”や“愛情”の正体ならば、私のような奴がひとりくらい居たって好いじゃないか。物語の中で“月”と“狼”は出会う、“夜”は舞台を整える役目に徹して居れば好かったんだ、そうだろう、――赤蛮奇?
闇に溶け込んで首をふよふよと浮かしてみせれば、そこに月明かりが燦々と差し込んで目に痛いくらいだった。
#08
―― ……わかさぎ姫、ここまで読んだくれたのなら、きっとあなたにも分かってもらえたと思う。今回のことで、もう私はうんざりしてしまったの。お愛想ばかりの付き合いとか、粘っこいだけの友達ごっことか、そういう面倒事と、私はこれ以上付き合いたくないってこと。だから、もし次に会うようなことがあったら、お願いだから、気軽に挨拶なんてしないで欲しい。他人の振りをしていて欲しい。あるいは無視してくれて構わない。そして、あなたにとって本当に必要なひとに一秒でも早く会って、話をして、失った時間を取り戻してくれるのなら、それ以上に私が望むことは何もありません。
#09 Epilogue
春を讃える陽光の下で、賑やかな人里の往来を、多々良小傘が下駄を転がすようにして歩いている。
行き交う人びと、特に子供達はこちらを見つけると元気好く挨拶してくれる。そのひとつひとつに丁寧に返事を贈りながら、小傘は貸本屋・鈴奈庵の暖簾を潜った。ちりんちりんと来店を知らせる鈴の音。店番の少女が「いらっしゃませ」と声を上げ、遅れて勘定台でやり取りしていた妖怪が振り返った。
「なんだ、小傘じゃない」
「蛮奇ちゃん、久しぶり」
「ええ」
「今日は何を借りてるの?」
彼女が無言で差し出してきたのは、宇宙と星座に関する本らしかった。題字の下に満天の夜空が印刷されている。
「面白そう」
「小傘もまた借りれば好い」
「一緒に読むのはどう?」
「本だけは、独りで読みたいな」
「そっか、分かった」
彼女は相変わらず鼻風邪を引いたモグラのごとく、もごもごと喋っていた。それも彼女の個性なのだと知っている小傘は、気にすることなく本を物色していった。すると、背中に呼びかける声がぶつかった。赤蛮奇は視線をうつむけて、お腹の辺りで腕を組みながら、再び話し始めた。
「ちょっと、気になることがあるんだけど」
「うん?」
彼女の喉仏が上下した。「……冬の時にさ、“手紙を届けて欲しい”って頼んだことがあったじゃない? ほら、霧の湖まで、そこに住んでる人魚に渡して欲しいって」
「覚えてる覚えてる。寒かったね、あの日は」
「その人魚のことなんだけど、――最近、何処かで見かけた?」
小傘は手を打ち合わせた。彼女の質問に答えられるのが嬉しかったのだ。
「見たよっ――湖の近くだったかなぁ、川原で誰かと座ってた。赤と白のドレスを着てて、頭にワンちゃんみたいな耳を生やした妖怪だったと思う」私の記憶が正しければね、と小傘は続けた。「茂みから飛び出して、驚かしてやろうと思ったんだけど、あのひと達の会話が凄くぎこちなくてさ、あんまり微笑ましかったもんだから、お邪魔するのも悪いかなって、結局何もしないまま……」
小傘は首を傾げた。赤蛮奇が両目を瞑って、微かに、――眼を凝らして見なければ分からないほど微かに、眉間に皺を寄せたのが分かった。そして首をうつむけて、外套の襟に目元まで顔を隠してしまった。幾つかの息遣いが、幾つもの言葉を奪って天井へと昇ってゆき、次に眼を開いた時の少女は、いつもの仏頂面に戻っていた。
「そう……」赤蛮奇は呟いた。「そう、そうなの。好かった、本当に」
「蛮奇ちゃん?」
彼女は勘定台に戻った。「ごめんなさい。これ返すわ。代わりに別の本を借りるから。料金はそのままにしておいて」
「えっ――」小傘は驚いた。「別に好いよ、蛮奇ちゃん。そんな気を遣ってくれなくても」
「違う違う、気が変わっただけよ」
「そうなんだ。……うん、そういう時もあるよね」
「ええ」
振り返った彼女は微笑みを浮かべていた。
好く晴れた日に、木陰で眠っている時に浮かべるような。
穏やかな笑みだった。
「そういう時もある。……それで好いのよ」
~ おしまい ~
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だから綺麗に感じてしまった。ジャスティスアンドジャスティスなのだ。
こうゆう悩み・葛藤をするひとは、案外おおいのだろうか。
ばんきちゃんには幸せになってもらいたいです