第11回稗田文芸賞に門前美鈴さんと関万旗さん
第11回稗田文芸賞は24日、人間の里・稗田邸にて選考会が行われ、門前美鈴さんの『虹の国の物語』(スカーレット・パブリッシング)と、関万旗さんの『生首が多すぎる』(稗田出版)の2作が受賞作に決まった。授賞式は来月11日、紅魔館にて行われる。
パチュリー・ノーレッジ氏が選考委員を退任、上白沢慧音氏が欠席し、十六夜咲夜氏と聖白蓮氏が加わった今回の選考会の模様について、選考委員の稗田阿求氏は「門前美鈴さんについては、もはや稗田文芸賞を与えるにもベテラン過ぎるのではないかとの意見もありましたが、大人向け、子供向けの両方で多数の作品を発表してきた彼女のこれまでの幻想郷文芸に対する貢献も踏まえ受賞となりました。逆に関万旗さんは粗さもあるものの、その観察眼の鋭さ、批評性に対して高評価が集まりました」と語った。
門前美鈴さん(本名…紅美鈴)は、紅魔館の門番を務める妖怪。第1回稗田文芸賞候補となった『戦国春秋』で第118季にデビュー、以降『華国英雄伝』など戦記小説や『龍拳伝』などの格闘小説、また子供向け冒険小説の人気シリーズ『風雲少女・リンメイが行く!』など、多数の作品を発表して活躍してきたベテラン作家。『虹の国の物語』は、強大な神の力を嗣いだ亡国の姫とその護衛の拳士が、国の再興を目指し逃避行を続ける冒険小説。
関万旗さん(本名…赤蛮奇)は、人間の里の近くに住む飛頭蛮。小説デビュー作で栄冠を射止めた。『生首が多すぎる』は、里での暮らしに対して鬱屈を抱えた少年が、人見知りな飛頭蛮の少女と出会う青春恋愛小説。
選評は来月15日発売の《幻想演義》如月号に全文掲載される。
門前美鈴さんの受賞のことば
えっ、えええっ、わ、私ですか? いや、まさかそんな……え、本当に私なんですか? あ、あははー……ええと、全く心の準備が出来てなくて。咲夜さんが選考委員になったって言っても、それで私が獲れるなんて絶対無いと思ってましたから……。私、どうすればいいんですかね?
賞金? いやそれは……お嬢様が……あ、いや、なんでもないです。
関万旗さんの受賞のことば
受賞? 別にどうでもいいんだけど、そんなの。
(文々。新聞 師走25日号1面より)
《選評》
選考委員をも屈服させる信念 射命丸文
苦節11年、と申しましょうか。『戦国春秋』でのデビュー以来、11年間で門前美鈴さんが発表してきた作品の数は実に40冊にのぼります。つい先日完結した『風雲少女・リンメイが行く!』全15巻で文芸の読者層を人里の子供まで広げた功績は語るまでもないでしょう。
紛れもなく幻想郷文芸を代表するエンターテインメント作家でありながら、しかし同時に彼女は賞に恵まれない存在でありました。それはひとえに彼女の書き続けてきた主題が、私を含めたこの賞の選考委員には理解されがたかったためでありましょう。しかし彼女は、信念をもって同じ主題を書き続け、今回こうしてついに我々選考委員を屈服せしめたのであります。
彼女がデビュー以来書き続けた主題、それは《強さの意義》でした。『龍拳伝』のような、ひたすらに肉体的な強さを求める格闘小説はもちろんのこと、『華国英雄伝』のような戦記小説、また『風雲少女』のような子供向け冒険小説においても、その主題は一貫して彼女の作品に通底しています。何のために力を求めるのか。その力をもって何を為すのか。強い、ということはどういうことなのか。その主題を彼女が真摯に書ききったのが、今回の『虹の国の物語』でありました。
制御不能な圧倒的な暴力としての神の力。次々と現れる刺客から姫を守る拳士の力。神の力をつけ狙う国家の権力という力。様々な力のせめぎ合う物語の中で、それらの力の価値は幾度となく反転します。それは冒頭で絶望的な破壊をもたらした神の力とて例外ではありません。主人公たちを翻弄する忌むべき力であった神の力が、クライマックスにおいては多くの人を救う力となる。その鮮やかな転換は、同時に彼女の書き続けてきた《強さの意義》という主題のひとつの到達点であります。幻想郷の妖怪が見失ったものを明らかにする、彼女の集大成にして幻想郷文芸史に銘記すべき快作として一番に推薦させていただきました。無事受賞と相成り、たいへん喜ばしく思います。
もうひとつの受賞作『生首が多すぎる』は、社会に馴染めない少年の青さが、やがて社会に取り込まれていってしまう気味の悪さを描いて秀逸な青春小説でありました。我を通し孤立してなお自分であろうとすることと、己を殺し社会に迎合すること、いずれが幸福であるかを読者に問いかけてうそ寒い読後感は捨てがたいものがあります。個人的に好む類いの作風ではありませんでしたが、強く推される委員があり、受賞に賛同しました。ただ、タイトルは一考の余地があったのではないでしょうか?
この2作と最後まで競ったのが『ハートビート・ドリーマー』であります。付喪神という設定を上手く利用し、演奏者と楽器の信頼関係を主題として、まっすぐな音楽青春小説に仕立て上げた良作でありましたが、過去に似た傾向の受賞作『レインボウ・シンフォニー』があったこともあり、それと比べた際に飛び抜けた部分が無かったとして惜しくも受賞を逃すこととなりました。しかし著者の才能と力量は疑うべくもありません。必ずや数年内にさらなる傑作をものして本賞の栄冠に輝くであると予言いたしましょう。
残る3作は簡単に。『ハートビート』と同じ音楽エンターテインメントである『波羅蜜多ロックンロール』は無軌道かつ奔放な展開でたいへんスリリングな読書体験を得られる作品でしたが、作品としてはあまりに乱雑すぎるという意見が強く、『ハートビート』と重なったことが不運であったと言えそうです。『サンジェルマンは死んだ』も同様に、後半の展開に破綻が目立ちました。『きみの名はパペット』はアイリスさんの安定した力量を示す作品でしたが、二年前の『ドールハウスにただいま』と比べるとやはり弱いと言わざるを得なかったというのが正直なところです。
大衆中華料理の美味しさ 西行寺幽々子
高級な食材を、腕の良い料理人が丁寧に仕上げた、高価な料理が美味しいのは当たり前。それは小説にも似たようなことが言えるわ。誰もが唸るような高尚な主題や題材を、上手い作家が書けば、それは当然傑作になる。それはそれとしてもちろん素晴らしいのだけれど、ありふれた素材を、誰に向けてどう料理するか、ということにこそ、本当の腕前が試されるのではないかしら。
今回受賞した『虹の国の物語』は、ぶらりと入ってみた大衆中華料理店の青椒肉絲が思いがけずとても美味しかった、というべき作品。決して高級な食材を使っているわけでもないし、食通を唸らせるような技巧や奇抜な味付けがあるわけでもない。だけど、手元にある材料と技術をもって、大衆中華を求めてやってくるお客さんに、考え得る限りもっとも美味しい青椒肉絲を出そうという、信念に基づいた立派な料理だったわ。ピーマンが苦手な子供に、ピーマンだって料理の仕方によってはこんなに美味しくなるの、と教えてあげられる料理。それはどんな高級食材を使った高価な料理よりも、あるいは価値のあるものかもしれないわ。
もう片方の受賞作の『生首が多すぎる』は、逆に「ピーマンが苦くて嫌いだ」ということを声高に叫ぶことで同じ子供の同意を得ようとするようなところがあって、私としてはそういう手法にはあまり感心できないのだけれど、じゃあピーマンを食べられるようになるのが成長で幸せなのか、という根本的な問いかけを残していく結末は評価しても良いかなと思い、受賞には強くは反対しなかったわ。
私が個人的に推したのは『ハートビート・ドリーマー』。読んでいる間はひとり焼肉のように息つく間もなく、結末はデザートのシャーベットのように爽やか。コチュジャンの辛味もピリリと効いて、次々から次へと手の止まらない楽しい読書だったわ。受賞まで持っていってあげたかったのだけれど、そうできなかったのはナムルと焼き野菜がメニューに無くて胸焼けを起こしたせいかしら。メニューのバランスは考えないといけないわね。
『きみの名はパペット』は毎日の朝ご飯のような安心感のある作品だけれど、材料や味付けに既視感があって、少し食べ飽きた感じがしたわ。『サンジェルマンは死んだ』はゲテモノ的な美味しさはあるのかもしれないけれど、私の好みではないわね。『波羅蜜多ロックンロール』は闇鍋的な楽しさはあるけれど、それは美味しさとはまた別問題というところ。
批判によって完成される作 十六夜咲夜
十六夜咲夜と申します。パチュリー様の命により、今回より選考委員の末席に加えさせていただくこととなりました。以後、どうぞお見知りおきを。
さて、選評ということで、私が一番に推しましたのは富士原モコさんの『サンジェルマンは死んだ』です。これまでの富士原作品は一読者として楽しく読ませていただいておりますが、本作はパノラマ的に自作を展望しつつ、それを理性的に自己批評してみせたものではないかと愚考いたします。富士原さんの書き続けている《不死者の死》という奇想と、不死ゆえの奇妙な論理。本作の謎解きは他の委員から「全く説明になっていない」という批判を受けましたが、まさにそれこそが本作の狙いであったのではないでしょうか。即ち、持つものと持たざるもののディスコミュニケーション。不死者ゆえの、寿命ある生者との理解不能性。作中での命の扱いの軽さと、それに相反する主人公の不死への執着は、人は所詮は己の中だけの常識に従っているに過ぎず、そこから外れた他者とは決して相容れないというシニカルな視点を、不死者の死に対する破綻した謎解きという形で示したものであると考えます次第です。本作が選考会で無理解に晒されたことによって、逆説的に本作の主題は明解に証明されたと言えるのではないでしょうか。批判を想定し、その批判によって作品を完成させるという、私たちにできないことを平然とやってのける豪腕に痺れ、憧れます。
それに次いで少し推したのは、門前美鈴さんの『虹の国の物語』と堀川雷鼓さんの『ハートビート・ドリーマー』です。正直なところ、門前さんはもはや稗田文芸賞を与えるにも機を逸しているのではないかと考えましたが、選考会ではあまりそこは問題とされませんでした。主人公の拳士がいささかお姫様に対して礼を失してはいないかとの疑問もありますが、彼女なりの主従の絆は良く書けていますし、彼女がこの物語を誰のために書いたのかもよくわかりますので、彼女の作品の中ではこれに賞を与えるのが無難と思い、少しだけ推しました次第です。もう一方の『ハートビート・ドリーマー』は痛快かつ爽快な音楽小説で、作者の新人離れした確かな力量を示した作品です。ただ、主人公の豆腐メンタルなドラマーと、口の悪いツンデレ付喪神ドラムの関係性は、いささかその筋をあざとく狙いすぎではないかと。露骨に見えないように気を配っている技術には感心しますが、私としましては主従カプなら主がヘタレ攻め従者が強気受けよりは主が鬼畜攻めで上下関係を徹底する方が好ましく思います。
関万旗さんの『生首が多すぎる』は、私がとうに忘れて久しい人間の、人間らしい鬱屈を描いて郷愁的な作品でありました。周囲の人間の首を切り落として机に並べるといった少年の空想が、子供の想像力の限界として血なまぐささの無い乾いた光景として描かれるところになど、作者の人間観察の鋭さがうかがえます。しかし、このキャラクター配置では人間の常識側に飲みこまれるよりも、そこと対立する方向に舵を切るべきではなかったのでしょうか。強く推される委員が複数あり最終的に受賞に同意いたしましたが、時期尚早ではなかったかとの思いが今でもぬぐえません。
ミスティア・ローレライさんの『波羅蜜多ロックンロール』は、ミス・レッドラムさんの諸作のような奔放な発想と展開が光る一気通読のローラーコースターノベルとして楽しく読みましたが、戦うのが仏様同士、しかも武器は音楽ということで、スペクタクルに血なまぐささが伴わないのが物足りなく思いました次第です。
マーガレット・アイリスさんの『きみの名はパペット』は、この作品を候補にした予選委員の判断に異を唱えたく存じます。アイリスさんの全作品を読んでいる読者としましては、彼女の作品の中でも真ん中やや下ぐらいのこの作品で候補にされましても、もっと良い作品が他にあるのを知っているため推しかねました。アイリスさんには申し訳ありませんが、一読者としてさらなる傑作をものされることを期待させていただきます。
作劇の論理 八雲藍
物語に対し感動する、興奮するといった情動は、一見して非論理的なもののように思えるが、実際のところはある程度まで、理詰めによってその情動を制御することが可能である。どんな物語であれ、読者を納得させうる論理の欠落したものには、読者は心を動かされない。それはすなわち因果関係であり、動機付けである。無論のこと、現実においては因果も論理も存在しない唐突な行動や心変わり、何の物語性もない突然の悲劇といったものがありふれている。それ故にこそ、読者は物語に、数学の証明のごとき納得できる論理性を求めるのかもしれない。
今回の受賞作となった『虹の国の物語』は、情動を喚起する論理において、命題の優れた証明のごとくに美しい道筋を描いてみせた、模範的娯楽小説であるといえるだろう。本作の娯楽小説として優れている点は、敢えて主人公の拳士を完全なる忠義の徒として描き、狂言回しに徹させたことにある。手にした強大な力に苦悩する役回りは姫に任せ、拳士はただ一本気に姫を守り続ける。首尾一貫して誠実な拳士の造形には好感を抱かずにいられぬし、その拳士が絶対の忠心を捧げることで、作中では終盤まで守られるばかりの無力な姫を、絶対に守るべき存在として読者に了解させる。その大前提があるからこそ、クライマックスにおいて姫が拳士を守り、すべての人を守るという構図の反転が読者の情動を巧みに喚起するのだ。また主人公が迷わぬ者、変わらぬ者であるが故に、主人公と関わり戦うことで変わっていく周囲の人物の変化、成長に説得力を与え、際立たせるという両得の構造にもなっている。
この作品の中に特別な技法は何も用いられていない。しかし、出来上がった物語は特別に面白い。四則演算があらゆる計算の基本であるように、王道の作劇手法を突き詰めることによって物語の面白さという命題に対する模範解答を導き出した秀作であると言えるだろう。
同様に読者の情動を喚起する手法に、共感がある。感情移入という行為の力は物語において非常に大きい。架空の出来事を、我がことのようにして読者に感じさせるために、想定する読者への共感を求めるという手法は、しかし視野狭窄に陥り、内輪の論理だけで進行する物語となり、想定の外にある読者を締め出してしまう危険性を孕んでいる。
もう一方の受賞作『生首が多すぎる』は、その意味で危うさを抱えた作品であり、読み始めた段階では独りよがりで自意識過剰な、ある特定の層だけに訴えかける青春小説かと懸念した。本賞の結果を見て買い求め、序盤の語り手の鬱屈に共感できずに投げ出す読者もおそらくある程度の数存在するのではないかと思われる。しかし、そこで止めては勿体ない。『虹の国の物語』が大衆的な価値観に対しての模範解答としての物語であるとすれば、『生首が多すぎる』はその大衆的価値観に対する強烈なアンチテーゼであるのだ。
親の仕事を継ぎ、どこかから嫁を貰って子を為し、その子にまた己の仕事を継がせる、という人間の里の一般的価値観に馴染めず孤立する語り手が、同様に妖怪的な価値観から孤立した妖怪の少女と出会うことで、結果的に里の一般的な価値観の中に取り込まれていってしまうこの物語は、一見して切ない悲恋のように見せながら、その裏で人間の里で平穏に暮らす人々が信じて疑わない幸福の方程式に対して痛烈な「?」を突きつける。そのあたりはおそらく猛烈に推した聖委員が詳述するであろうため割愛するが、自明であるはずの証明の矛盾を提示する本作は、前半の語り手の鬱屈に共感できない大人にこそ最後まで読んでもらいたい作品である。
紙幅が尽きそうであるので残りは駆け足で。『ハートビート・ドリーマー』は音楽小説の秀作であり個人的にも評価したのであるが、三作受賞は認められないという本賞の規定の前に涙を飲むこととなった。作者の力量は確かであるので、次回作に期待したい。『きみの名はパペット』は設問がいささか安易であったように思う。解法にもう一捻りが欲しい。『サンジェルマンは死んだ』は三回読んだが後半の謎解きが全く承伏できず、何を評価すべきなのかが私には定められなかった。『波羅蜜多ロックンロール』は理性の欠片も感じられない騒々しい小説で、読むのにひどく難儀した。不条理は条理が存在してこそ際立つのだということを弁えていただきたいものである。
美談の中に隠した悪意 聖白蓮
上白沢慧音さんから、児童文学の賞を作るので、ひいては選考委員をお願いしたい、と言われたのはもう三年前のことになります。八雲藍さんと三人で児童文学作品を読み、最も子供たちに読んでもらいたい作品を選ぶ稗田児童文芸賞の選考は毎年楽しく務めさせていただいておりますが、今回、その慧音さんから今度はこちらの稗田文芸賞で代理を頼まれた際には、正直なところ困惑しました。読ませたい対象のはっきりしている児童文学ならともかく、人間の大人から妖怪までを読者と想定している稗田文芸賞の選考となれば、何を基準に選べば良いものか判断がつきません。まして一回限りの代打となれば、わざわざ私が参加する意義はあるのでしょうか、と正直に疑問を慧音さんにぶつけましたところ、稗田文芸賞は児童文芸賞と違って選考委員が六人もいるので、ひとりの声ではそうそう結果は変わらないから、私を助けると思ってあまり構えずに気楽に務めてほしい、と少々ピントのずれた返事をいただきました。
そのようなわけで、選考会ではお客様扱いでしょうし、なるべく大人しくしていようと考えていたのですが……ひとつ、これはという作品に出会ってしまい、結果として少々熱くなってしまいました。南無三。
熱くなってしまったのは、関万旗さんの『生首が多すぎる』のためです。ストーリーだけを追えば、この作品は人間の少年と年若い妖怪の淡い恋が、世間という壁に阻まれてしまう人妖恋愛の悲劇を、通過儀礼として描いた青春恋愛小説として読めますし、その読みも決して間違ってはいません(阿求さんはそういう作品としてこの作品を推してらっしゃいました)。しかしそれはこの物語を主人公の少年の視点から見た場合の話で、妖怪の視点から見ることでこの作品はがらりとその様相を変えます。ヒロインの飛頭蛮の少女から見れば、これははぐれ者同士として惹かれあった少年が、自分たち妖怪と相容れない価値観の中に幸福を見出して去って行ってしまう物語となるのです。
人間の里の価値観に馴染めず、孤独を抱えていた少年は、同じはぐれ者の妖怪と出会って、他者とわかりあう喜びを知り、反発するばかりで他人の気持ちを推し量ろうとしなかった自分に気付いていきます。それは正しく成長小説の文法なのですが、それによって少年は、自分にその成長を与えてくれた妖怪の少女と別れなければならなくなります。少年が成長した結果として受け入れた里の価値観において、妖怪の少女との恋は認められないからです。しかし、妖怪の少女からすれば、それはなんて身勝手な言いぐさでしょう! だからこそ彼女は結末において自ら姿を消してしまうのです。少年の視点からみれば、彼女が少年の里での幸福を願って身を引いた美談のように見え、少年は涙しますが、それは勝手に少年が作り上げた都合のいい物語でしかありません。ヒロインは自分を拒絶する価値観に迎合した少年に幻滅して去って行ったに過ぎないのは明らかなのです。そのすれ違いは、少年が里の価値観に埋没して「幸福」になってしまった以上、決して埋まることはありません。そこにこそ、この小説に秘められた、作者の醒めた視点があるのです。
人間と妖怪という異なる種族間のディスコミュニケーションを、美談の中に隠した悪意によって暴き立てる本作は、この幻想郷においてこそ広く読まれるべきであると考え、難色を示す委員の説伏に熱が入ってしまいました。一度限りの代打が出すぎた真似をいたしまして恥じ入るところではありますが、選考委員として信念をもって臨んだ結果でありますので、なにとぞご容赦くださいますようお願い申し上げます。
ああっ、他の作品について触れる行数が無くなってしまいました。稗田児童文芸賞でも毎回悩みますが、選評とはかくも難しいものでありますね。南無三。
記憶に刻みたい人妖恋愛小説 稗田阿求
幻想郷の文芸において、人妖恋愛は普遍的な主題である。決して添い遂げられない寿命差、人間社会の不寛容、種族違いゆえのすれ違い。恋愛は困難が多いほど燃え上がるものであるが故にこそ、無数の困難を内包する人妖恋愛は物語の素材として、白岩怜の諸作を挙げるまでもなく多数に渡って書かれてきた。その中にまた一編、記憶にそのタイトルを刻んでおきたい一冊と今回出会うことができた。『生首が多すぎる』である。
序盤こそ語り手となる少年の自暴自棄な心理や、猟奇趣味的な妄想に辟易させられるが、その猟奇的妄想を彼の日常の中に取り込んでしまう飛頭蛮との少女をヒロインに持ってきたところがまず巧みだ。自らを特別だと無邪気に信じる心理が、妖怪とのふれあいによって解きほぐされていき、馴染めないでいた周りの人々と理解しあえるようになっていくという丁寧な成長小説としての道筋が、人妖恋愛を受け入れない人里の理によって、ヒロインとの切ない別れという痛みを伴う通過儀礼に至る展開も全く無理がない。ジュヴナイルとしても恋愛小説としても優れた、新人離れした手練れの作として強く推した。選考会では聖委員らが、この作の裏側にはシニカルな悪意があると主張し、どちらかといえばそちらの主張が通って受賞という形になったのはいささか釈然としないが(その読みは穿ちすぎであると私は考える)、私の読みと聖委員らの読みのどちらが正しかったかは、これからの評価によって定まっていくことだろう。
恋愛繋がりで、『きみの名はパペット』も印象的な作品であった。確かに過去のアイリス氏の作品の中で、これが特別に優れているとは私も思わない。しかし、腹話術でしか喋らないヒロインと、それに動じない語り手という突飛な人物ふたりを主役に配して違和感を与えず読ませてしまう作家的技量はやはり、とっくに稗田文芸賞を与えられていておかしくないものである。今回は候補作に恵まれなかったとしか言いようがない。
恵まれなかったといえば富士原モコ氏である。なぜ『サンジェルマンは死んだ』を候補にしたのか、あとで予選委員を問い詰めねばなるまい。破綻していることこそがシニカルな自己批評である、と咲夜委員が熱弁を振るわれたが、一種のセルフパロディによるお遊びの作品を何も候補に挙げることはあるまい。前回『永遠の途中で』にあげ損ねたことが悔やまれる。
音楽小説2作については、どちらも悪い作品ではなかったものの、堀川雷鼓氏の作品はまだ虹川月音氏の諸作には及ばないというのが私見である。ミスティア・ローレライ氏の奔放な筆が紡ぎ出すエネルギッシュな作品世界は魅力あるものの、こういった賞で評価するにはやはり乱雑に書き飛ばしすぎていると言わざるを得ないだろう。
最後に、門前美鈴氏の『虹の国の物語』については、稗田児童文芸賞で扱うべき作品ではないかという思いがあったものの、それを指摘すると私が推した『生首が多すぎる』についても同様の反論を許すことになるため、選考会では敢えて言及は避けた。今にして思えば逆に稗田児童文芸賞で扱った作品においても、稗田文芸賞に回すべき作品があったように思う。子供向けと大人向けの境界は思った以上に曖昧であると言わざるを得ない。紛糾している性愛表現問題とあわせて、この点は幻想郷文芸の今後の課題としておきたい。
(幻想演義 如月号 特集「第11回稗田文芸賞全選評」より)
◆受賞作決定と選評を読んで、メッタ斬りコンビの感想
萃香 やー、めでたいめでたい(笑)。頑張ってればいつか報われるんだよ、うん。
霊夢 なんであんたが喜んでんのよ。別にあんたが頑張ったわけじゃないでしょ。
萃香 門前ファンとしてはほら、立派になった我が子を見るような心境なんだよ(笑)。最初の頃なんか選評でもほぼ黙殺されてたし、大傑作『そして大地は眠る』が全然理解されなかったり、不遇の時期を分かち合った戦友のようなね?
霊夢 はいはい、なんでもいいわよもう。本命予想したあんたの勝ち。でももう片方はふたりして無印だった関万旗よ? 勉強し直さなくていいの?
萃香 それはまあ、ほら白岩怜が獲ったときみたいな事故だよ(苦笑)。白蓮が惚れ込んで凄い勢いで推したみたいだね。同じく推してる阿求と評価ポイントが全然噛み合ってないのに受賞にこぎ着けてるのが謎っちゃ謎だけど(笑)。
霊夢 結局、『虹の国』はまんべんなくそこそこの評価を集めて、『生首』は藍と白蓮と阿求が残り3人を押し切って二作受賞ってことだったみたいね。
萃香 『生首』がまさかこんなに支持を集めるとはねえ。『土の家』と『いじわる巫女』を思い出すと、別ジャンルの話の裏側に社会批評を忍び込ませるのが稗田文芸賞への近道?
霊夢 文学賞ってもの自体が社会的な行為じゃないの。
萃香 『ハートビート』は虹川月音と比べられて落とされたみたいだけど、それもどうかと思うんだけどねえ。んなこと言ったら毎回『魔法図書館は動かない』と『桜の下に沈む夢』を基準にして選ばなきゃ。第三回以降は誰も獲れない(笑)。
霊夢 まあ、三作受賞が無理だから適当な理由つけたんでしょ。
萃香 身も蓋も無いこと言いなさんなって(苦笑)。
霊夢 咲夜はなんか一時期のパチュリーみたいな孤立無援状態だったみたいだけど、意外とパチュリーと好み似てるのかしら?
萃香 『虹の国』を「少し推しました」ってのがいいね(笑)。「少し」推すって何だい(笑)。そういや慧音が欠席してなかったらどうなってたんだろうね?
霊夢 慧音も『生首』推して、同じような結果になってたんじゃない?
萃香 やー、選評見る限り阿求以外は人里批評小説として評価してるっぽいから、人里を守る立場の慧音は逆に怒ってたんじゃない?(笑)
霊夢 そういえば授賞パーティには一応来てたけど、なんか不満そうな顔してたわね。
萃香 関万旗のあの受賞のことばに対して説教したかったんだろうね(笑)。
(文々。新聞 睦月二十一日号 三面文化欄より)
潜入!第11回稗田文芸賞授賞パーティ!
今月10日、紅魔館で行われた第11回稗田文芸賞受賞パーティ。本紙はその現場に犬走椛特派員を送り込み、潜入取材を敢行した。以下はそのレポートである。
射命丸文の司会により進行するパーティは、まず選考委員を代表して稗田阿求氏が挨拶。受賞2作に対して詳細な講評を述べた。「文芸界は現在、いくつかの問題で騒がしいですが、それは作家と出版社の問題でありますので、読者の皆様には雑音に惑わされることなく、虚心坦懐に作品に触れていただきたいと思います」と未だ決着をみない性愛表現問題への追及をさらりとかわした。
アクシデントが起こったのは、その後の受賞者挨拶。関万旗氏が時間になっても会場に姿を現さないため、まず門前美鈴氏が登壇。ガッチガチに緊張した様子でマイクの前に立った門前氏は、最初の一声が裏返ってしまい、会場は温かい苦笑に包まれた。それでようやく緊張がほぐれたか、頭を掻きながら門前氏が口を開こうとしたところで、突如壇上に乱入してきたのはフランドール・スカーレット氏。フライング花束贈呈かと思いきや、なんとフランドール氏が「めーりん、おめでとー!」と差し出したのは少女の生首だったのである!
これには門前氏も悲鳴をあげて卒倒、会場は一時騒然となり、受賞者挨拶は1時間近く延期となってしまった。フランドール氏の抱えていた生首はその後、飛頭蛮である関万旗氏のものであったことが判明。関氏によれば、館の中で迷っている間にフランドール氏と遭遇、首を奪われてしまったとのこと。まったく人騒がせな受賞者であった。
なお一時間後、門前氏の復活を待って再開された受賞者挨拶では、関氏は挨拶を5秒で終わらせ颯爽と会場の隅に移動、あとは黙々と料理を食べていた。門前氏は素朴な人柄を偲ばせる木訥としたスピーチを披露。しかし途中でスカーレット・パブリッシング代表のミス・レッドラム氏にマイクを奪われ、レッドラム氏は門前氏の受賞を皮切りに、今年の八坂神奈子賞、稗田児童文芸賞、幻想郷恋愛文学賞のスカーレット・パブリッシングによる独占計画を盛大に宣言。お嬢様の高笑いに、会場はやんやの喝采と微妙な空気に包まれていた。
(花果子念報 睦月15日号より)
ばんきっきは書きそうだな、こういうテーマのやつ
今だから言います。正邪がノミネートされたら、大荒れに荒れる。
咲夜さんはあっちの世界の人なんすね…
性愛表現の垣根て小説ってか文章媒体だととことん曖昧なんだよなぁ
普通に若い子でも何ちゃら忍法帳~みたいなエログロな描写のある小説とか買えるし中身がエロくてもタイトルは普通の小説とかあるしレーティングもそこまでアレじゃない
逆にアニメ・ゲームはクッソ厳しいんだよねぇ
金八先生とか最初の話が中学生の妊娠を扱った話なんだけど、ドラマだとOKで、これがゲームだと一発アウトになったそうな
霊夢の万旗作品の評価とか、美鈴受賞で喜ぶ萃香とか、読んでて幸せ。
アイリス氏はそろそろ本気出してもいい頃じゃないか
そろそろアイリスとモコさんにも賞が欲しいですね~。
ちょっと吊ってくる。
あと個人的にみすちーも。
例えとして適切かは分かりませんが、最近有名になりすぎたきらいもあるKOTY(クソゲーオブザイヤー)の面白さが、ノミネートされたゲームを全く知らなくても損なわれることが無いように、良質な評論はそれ自体単独で鑑賞に耐えうるものであると改めて思った次第。
先日オタクで評論家の岡田斗司夫氏がニコ生で語っていた「評論は作品について語っているようでいて、その実、作品を通して評論家の考えを述べているにすぎない」「作品を知りたければ作品を見ればいい話で、評論を読むのは評論家を知りたいからだ」という趣旨の発言を思い出しました。その点でこの作品も批評そのものの面白さを追求した面白い作品です。
読んでみたい作中作品が多すぎるけれど、それらは赤い洗面器の男や、牛の首、鮫島事件のように決して中身が語られることはない入れ物なのでしょう。
面白いことは重々承知したうえで僻みを言わせてもらえるならば、これはズルい。
面白い映画を一本作るのは並大抵の仕事ではないが、面白そうな映画の予告編を作るのはそれほど困難でない。
全体の整合性を気にせず、面白いらしい何かを表現する手法は上手くて、ズルい。
何らかの形でこの路線は書き続けていただきたいです。でもズルい。ズルいなあ。