.
#01
八橋がまた新しい楽器を買ってきた。
その時私はソファに寝転がって、貸本屋から借りた古本を読みながら、小休止を挟んでは顔を上げ、窓の外に広がる景色を見つめていた。細雪の降りしきる中を、我が妹は、真っ黒なケースを背負いながら飛んで帰ってきた訳だ。付喪神として手に入れた身体を、寒風に震わせながら。
「今度は何?」
「ん、ギター。アコースティック・ギター」
「ああ」
ワイン・レッドの真新しい楽器が、ケースから気持ち好さそうに出てきて、挨拶するかのように照明の光を跳ね返した。眩しい、本当に眩しい、新品の輝きだ。ソファに腰を下ろすと、妹は早速調弦を済ませたギターを嬉しそうにかき鳴らし始めたので、私はコーヒーの替えを淹れることを口実に部屋を出た。肩に奇妙な程に危なげな力が入っていた。深呼吸、落ち着け、弁々。廊下には冬の弱い陽が差し込んでおり、八橋が跳ね上げた埃が今も宙を舞っているのが好く見えた。プリズムリバー邸は廃洋館だから、もう数年、ひょっとしたら数十年と掃除の手が入っておらず、何処もかしこも埃だらけで、私達新参の付喪神も、それぞれの自室に清掃をかけるだけで精いっぱいだった。何より、所有者たる三姉妹が、“綺麗にされる”ことを望んでいない。古びたものにも古びたなりの味わいがある、込められた想いもある、それは私にも充分に共感できることだから、文句はなかった。
空っぽのコーヒー・カップを手に、私はさながら亡霊のごとくさまよい続けて、結局は今は亡き当主様の書斎にお邪魔することにした。音楽好きな伯爵だか公爵様は、自身の書斎に愛するレコードのコレクションを並べては、古びたジャケットの紙の感触に親しみながら、奏でられる音色の波や風、時には雨粒に身を浸していたそうなのだが、――どうやら今日のところはその雰囲気を独り占めできないらしい、すでに先客が蓄音機前の椅子に座って、勇壮なクラシックを聴いていた。
「雷鼓、いたのね」
和太鼓改めドラムの付喪神は片手を挙げて挨拶すると、すぐにその手を裏返して、“静かにしてて”と合図を送ってきた。私は頷いてライティング・デスクに体重を預け、その西洋の音楽を聴いた。ファンファーレらしき高まりが部屋に満ち、壁を揺らし、床を這いまわっていた、まるで鎖から解き放たれた囚人のように。調べが結びを迎えると、雷鼓は深呼吸して猫のように背筋を伸ばし、首の骨を鳴らして椅子を回転させた。
彼女がニヤリと笑ったので、私は苦笑を返してみせた。
「“お宝を発見した”って顔ね」
「ええ、痺れたわ。この重々しくも昂ぶるリズム」
「向こうの音楽はイマイチ分からないけど。……あんな大人数で、ねぇ」
「大人数だからこそよ。このジャケットの文字が読めたらなぁ。作曲の経緯とか、知りたい」
「ルナサさん辺りに訊けば好いじゃない」
「それだわ! 早速!」
立ち上がりかけた彼女の肩をつかんで、椅子に押し戻した。浮遊していたエレクトロニック・ドラムから、乾いた空気に向けて雷光が放出され、デスクを跳ねまわったので、私は身を引いた。雷鼓が訝しげに眉をひそめる。
「……どうしたの、弁々?」
「八橋が、さ」
私は息を吐いた。
#02
雷鼓は私が淹れたコーヒーを美味そうに飲んでくれたが、私の相談事には苦い顔をした。
「彼女の自由にさせてあげるのが、そんなにいけないわけ?」
「そういうんじゃない、ただ、――」
「“元は琴の付喪神だった、それが今じゃアコースティック・ギター、ヴィオラ、胡弓、さらには畑違いのピアノまで、いくらなんでも節操が無さすぎるんじゃないか”って、そういうことでしょ?」
「……大方、その通り」
雷鼓は、私達の命の恩人は、唇の端を曲げて笑った。本当に聡明なのだ、このひとは。
「八橋のやつ、今度は私の琵琶にだって手を出しかねない勢いだわ。次から次へと、挙句の果てに何かおしゃれまでして、……」
「色気を出した娘を見て“けしからん”とか憤る父親みたいよ、まるで、今の貴方」
「うるっさい。ただね、姉としては心配なだけ。ねぇ雷鼓、あんな風にいろいろと手を出して大丈夫なの? 付喪神の依り所を見失った果てに消えちゃったりとか」
「自分の選択肢を探してるだけよ、あるいは可能性を。大丈夫大丈夫。この雷鼓さんに任せなさいって」
「だから余計に心配なんだよねぇ……」
「それよりさ、弁々はどうなの?」
――私? デスクの反対側からは死角になっていて見えていない、お腹の前で、両手の指をこね合わせた。
「ま、まだ……」
「まだ?」
「決めて、ない。今は、取り敢えず琵琶のままでも」
「それは駄目」眉をひそめて、彼女はカップを置いた。「それだけは駄目。貴方にとって、もう“琵琶”という選択肢は消えてしまってるの、分かるでしょ? 楽器を替えなければ魔力は替わらない。それが大前提、動かせないルール」
「“自分を捨てろ”って、貴方はそう云ってるのよ。もうちょっと、考える時間だって」
「大博打ではあるわ。けど、そんな深刻に考えなくても大丈夫よ。何も二度と琵琶が弾けなくなるって訳じゃない。私だって太鼓を叩こうと思えば変わらずに叩けるし」
「でも今はドラムの方が楽しいんでしょう?」
「あー、そうね。それはある」
雷鼓は目をそらして、白いジャケットの襟を整える振りをしながら、足を組み替えた。棚に立てかけられたバスドラムが、その金属の留め具が照明にあてられて、八橋のあのギターのように眩しく光っていた。寂しげに肩を落としている彼女の太鼓は、今、何処で泣いているのだろう?
黙りこくった付喪神、クラシックのレコード、そしてバスドラムから私は視線を引き離して、空っぽのコーヒー・カップを見つめた。この空っぽなカップに、この空っぽな手のひらに、いったい何を満たせば私は納得できるのだろうか。
「ま、おいおい返事は聞かせてね。ただし――」雷鼓は云った。「八橋を悲しませちゃいけないよ。私としても、後味悪いから」
「……ええ」
#03
九十九八橋は新品のギターを抱えて散歩に出た、それも霧の立ち込めた湖へ、対岸に悪魔の紅い館が望める湖畔へ。あまりにひっそりとしていて、それこそ鳴かない小鳥のように目立たないものだから、プリズムリバー邸は幻想郷の人妖達からはほとんど忘れ去られたみたいになっているけれど、それでも、そこにはそこだけの息遣いがあり、独特の静けさがあり、そして音楽があった。住人である三姉妹に頼み込んで、屋敷の一画を使わせてもらおうという雷鼓の決断は、結果的には、自分達に考えるだけの時間と安らぎを与えてくれたと八橋は思っている。
湖畔には長女のルナサ・プリズムリバーと、湖に住まう人魚であるわかさぎ姫がいて、騒霊は木立を背にして岩に腰かけ、手を使わずにヴァイオリンを演奏し、人魚は湖から頭を出して、伴奏に合わせて唄っていた。しばらく立ち止まって耳を澄ませてから、メロディとリズムをつかむと、八橋は岩に背中を預けて座り込み、ギターの低音弦を使ってベース・ラインを辿ってみせた。柔らかに瞳を開けて、こちらを確認した二人の、照れまじりの微笑み。アンサンブル。音楽を心から愛する二人の演奏と唄に、八橋の指も軽やかになった。
最初に声を上げたのはわかさぎ姫だった。
「やっぱり伴奏があると違うわ。気持ちが好い。また機会があれば、お願いしたいわね」
「私も、ヴォーカルを入れてやると新鮮。楽しい。騒ぐだけが全てじゃないんだなって」
「琴や琵琶じゃ“語り”が主だったから、メロディを付けると全然勝手が違って面白いね」
めいめいに感想を述べ合った後、屋敷の方を振り返ってから、ルナサが訊ねてきた。
「……そういえば、決めたの?」
「んー、まだ。どれもこれも楽しいんだもの。迷っちゃう」
「遠慮しなくて好いよ。私達にはお金なんて必要ないから」
「さんきゅ!」
「お姉さんは」と声を上げたのはわかさぎ姫だ。「弁々さんはどんな調子かしら?」
「まだ悩んでるみたい。ずっと琵琶ばっか弾いてる。好い加減、選ばないと不味いと思うんだけどなぁ」
「もう小槌の回収期は始まってるんでしょう?」
八橋は頷いて自分の手のひらを見つめた。
「――“引っ張られてる”って云うとおかしいけれど、それがいちばん近い、かな。そろそろ潮時じゃないかって思う。雷鼓さんは何も云ってこないけど、頭のキレるひとだもん、ちゃんと“その時”が来たら教えてくれると思う」
「あのひとは難しいだろうね」とルナサ。「……事によると」
「え?」
「弁々さんのこと。私だって、ヴァイオリンを手放して、別の楽器をメインに据えろって云われたら、反発したくもなる」
「ま、まぁ。でも姉さんなら大丈夫だよ。私と違って真っ直ぐだし。一度“替える”って決めたんだもの、やり通してくれるよ」
「その“真っ直ぐ”が悪い方に働くかもしれない」
「……どういうこと?」
わかさぎ姫が尾ひれを揺らした。「つまり、他の楽器に曲げるくらいなら、琵琶のままの自分を、在りのままの自分を貫き通すと」
ルナサが頷いたのを見て、自分のギターを見下ろして、次に小鳥の舞う冬空を見上げて、八橋は二人の言葉をまとめようと頭を働かせた。途端に心臓に重苦しい圧力が掛かるのを感じた。姉が琵琶という楽器を捨てない選択をするということ。……ちょっと待って、それってつまり、でも、まさか、そんな。考えてもみなかった可能性だった。だって――。
「――約束、したのに」
二人は慌てたようにヴァイオリンや尾ひれをびったんびったんさせた。
「ま、万が一の可能性ですよ、万が一!」
「そうそう、あなたを残して元に戻るなんてこと、あのひとがするはずないもの」
“元に戻る”というルナサの言葉に、八橋はギターのネックを握りしめた。
#04
九十九姉妹に夕食の時間を告げるため、堀川雷鼓は弁々の部屋のドアをノックしようとして、彫像のように固まった。しゃくり上げるような嗚咽と共に、八橋の、涙まじりの声が聞こえてきたからだ、扉越しで、くぐもりを帯びていたから、内容までは聞き取れなかったが。――でもそれだけで、雷鼓には事の大よその察しがついたので、すぐに踵を返しかけたが、残された日数のことを考えると、もう当人の意思がどうこう云ってる場合じゃないと思い直した。
道具の楽園。付喪神が自分の意思で楽しめる世界。二人はそれに賛成してくれたのだ。同志だ。共にビートを刻む仲間だ。それを、その権利を、視野の狭いこだわりなんかで側溝に捨てて欲しくはなかった。雷鼓は声が途切れたタイミングを見計らってドアをノックし、部屋に入った。ソファに腰かけてうなだれている弁々と、床に膝を崩してギターに目を落としている八橋の姿が視界に映った。
「どうしたの、……と、まずは訊いても好いかしら」
「姉妹喧嘩だよ。ちょっと取り乱しちゃって。大したことじゃない」
「私には天変地異と同じくらいの重大事に見える」
弁々は溜め息をついた。「早とちりしちゃったんだよ、この子。――分かるでしょ? 今、慰めていたところ」
「ええ、分かる。分かるけど、二人の云い分を聞いておきたいわ。後悔してもらいたくないから」
返事を待つ間、足を上下させ、靴のかかとに取り付けられたビーターで床を叩いた。悪い癖だと自覚していても止められない。
「姉さんは、勝手だよ」
「だから誤解だって、落ち着きなよ八橋」
「じゃあ今すぐ、この場で決めて」
「なんでそんな――」
「消えても好いの? 元の道具に戻っても好いの? 一緒に道具の理想郷を作ろうってさ、約束して……」八橋は首を振った。「ううん、今はそんなことどうだって好い。姉さん、いや弁々。消えたら私、許さないからね。貴方が思ってるほど、私は強くなんかないよ。独りじゃ生きていけないんだよ。誰かの役に立つのが道具。それは心を持ったって変わらない。自分自身のためだけに生きていけるなんて、そんな空しい自信、私は持ってないし、要らないんだよ」
言葉は奏でられてゆくにつれて、滲んで、歪んで、リズムまでも崩れて、中空に溶けるようにして沈んでいってしまい、後には苦い沈黙しか残らなかった。八橋は袖で目尻を拭うと、栗色の髪を揺らして出て行ってしまった。自分自身のためにのみ生きるということ、その言葉が雷鼓の頭の中で乱反射していた、まるで身体を食い破ってゆく銃弾のように。でも、それが心を持つということではないだろうか? 雷鼓は首を振った。――自分のために生きるということ、自分のために進んでゆくということ、それが“自由”であり“独立”ってもんじゃないか?
ギターの音色が床を転がったので、顔を上げると、弁々が妹の新品の楽器に指を滑らせているところだった。閉ざされた静謐な空間でギターを奏でると、どうしてこう澄んだ響きが生まれるのだろう。壁に背を預けて、それすら気だるげに感じて、床に腰を下ろした雷鼓は、指で拍子を取りながら、琵琶の付喪神のギター演奏に鼓膜を預けていた。
独奏が終わり、雷鼓は口を開いた。
「そういや、さ。ルナサにあのクラシックのこと教えてもらった。レオシュ・ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』。――“勝利を目指して戦う人びと、その精神的な美や歓喜、勇気や決意を表現するために捧げられた交響曲”だって。私達にぴったりじゃない。自由を目指して戦って、それで……」
「雷鼓」
「うん?」
「駄目だね、結局、あいつを悲しませてしまった」
「…………」
「たぶん、貴方の云う通りなんだと思う。深刻に考えすぎてた、馬鹿みたいにさ、二度と弾けなくなる訳じゃないのに。ただ焦ってたんだよ。あの子があんまりにさっさと次に行っちゃうもんだから、置いてけぼりにされたみたいで。――雷鼓、貴方はどうだった? ちょっとは迷ったりしたの? 後悔とか、してない?」
弁々の声はもう落ち着いていて、突きつけられた問いもまた鋭いものではなかった。でも何処か責められているような、突き上げてくるような感覚を喉元に感じて、雷鼓は無意識にスティックで電子ドラムの縁を叩いていた。真っ白な電光が天井まで昇ってゆき、ひと筋の煙だけを残して消えていった。
「……迷いは、したわ。でも千載一遇のチャンスだもの。“私は私なんだ”って、その強い想いさえ暖めておけば、たとえ姿形が変わってしまっても、この堀川雷鼓は無くならない。そして事実、その通りになった。後悔だけは、していない」
そう、後悔だけは、していないはずだ。雷鼓は自分の胸に問いかけ、同じ答えが返ってきたので、息をつくことができた。
「ありがとう、雷鼓」弁々は云った。「ありがとう。ちょっとだけ、私にも見えた気がする」
#05
私はアコースティック・ギターを小脇に抱えて、プリズムリバー邸の廊下を歩いている。
この屋敷は古びていて、そこかしこに傷みだって見受けられるけど、それすらも名誉の勲章であるかのように、あるいはヴィンテージ・ワインの味わいであるかのように、自らの個性に変えてしまっていることを、私は最近になって気づけるようになった。新しい自分には、新しい見方が備わるのだ。階段を降りて広間に出ると、そこにはルナサを始めとした三姉妹と、そしてバスドラムに腰かけた雷鼓、それにピアノの前に座る八橋がいて、皆がこちらを見上げて笑っていた。――いや、八橋はまだ照れくさそうかな。私だって、左右に垂らしたあじさい色の髪に手を触れて、また誤魔化そうとしているから。
気に入らなければ、と雷鼓は云った。ある程度の期間を置いてから、また楽器を替えることができる、魔力を替えることができる、外の世界には沢山の熱い想いを持った音楽家達がいて、いつでも私達に力を貸してくれるから。彼女はそう云った。新たに手にした魔力は、以前の何処か禍々しい、まるで鋭利なナイフのように切れ味の鋭い代物ではなくて、ただ暖かに胸を満たしてくれる、まさに魔法のような力だった。でも、私は私の古びた琵琶を捨ててはいない、今も部屋の隅に、他の楽器と一緒に大切に眠らせてある。もしまた楽器を取り替えるようなことがあっても、このギターを捨てることなんて、決してないだろう。可愛らしい妹がプレゼントしてくれたこの楽器を、私は心から気に入っているのだから。
自分のためにも、妹のためにも、恩人のためにも、私は私の可能性を失いたくはないのだ。
その強かな“フォルテの”想いさえ抱きしめていれば、私はいつまでも九十九弁々でいられる。
――さぁ、お披露目だ。
「張り切っていくわよ、二人とも! リズムに乗って!」
雷鼓の掛け声が轟いた。
私達姉妹は確かめ合う、互いの顔に咲き誇った、真新しい笑みを。
.
替わりなきフォルテ
(原題: Die Freiheit und Selbständigkeit)
(原題: Die Freiheit und Selbständigkeit)
#01
八橋がまた新しい楽器を買ってきた。
その時私はソファに寝転がって、貸本屋から借りた古本を読みながら、小休止を挟んでは顔を上げ、窓の外に広がる景色を見つめていた。細雪の降りしきる中を、我が妹は、真っ黒なケースを背負いながら飛んで帰ってきた訳だ。付喪神として手に入れた身体を、寒風に震わせながら。
「今度は何?」
「ん、ギター。アコースティック・ギター」
「ああ」
ワイン・レッドの真新しい楽器が、ケースから気持ち好さそうに出てきて、挨拶するかのように照明の光を跳ね返した。眩しい、本当に眩しい、新品の輝きだ。ソファに腰を下ろすと、妹は早速調弦を済ませたギターを嬉しそうにかき鳴らし始めたので、私はコーヒーの替えを淹れることを口実に部屋を出た。肩に奇妙な程に危なげな力が入っていた。深呼吸、落ち着け、弁々。廊下には冬の弱い陽が差し込んでおり、八橋が跳ね上げた埃が今も宙を舞っているのが好く見えた。プリズムリバー邸は廃洋館だから、もう数年、ひょっとしたら数十年と掃除の手が入っておらず、何処もかしこも埃だらけで、私達新参の付喪神も、それぞれの自室に清掃をかけるだけで精いっぱいだった。何より、所有者たる三姉妹が、“綺麗にされる”ことを望んでいない。古びたものにも古びたなりの味わいがある、込められた想いもある、それは私にも充分に共感できることだから、文句はなかった。
空っぽのコーヒー・カップを手に、私はさながら亡霊のごとくさまよい続けて、結局は今は亡き当主様の書斎にお邪魔することにした。音楽好きな伯爵だか公爵様は、自身の書斎に愛するレコードのコレクションを並べては、古びたジャケットの紙の感触に親しみながら、奏でられる音色の波や風、時には雨粒に身を浸していたそうなのだが、――どうやら今日のところはその雰囲気を独り占めできないらしい、すでに先客が蓄音機前の椅子に座って、勇壮なクラシックを聴いていた。
「雷鼓、いたのね」
和太鼓改めドラムの付喪神は片手を挙げて挨拶すると、すぐにその手を裏返して、“静かにしてて”と合図を送ってきた。私は頷いてライティング・デスクに体重を預け、その西洋の音楽を聴いた。ファンファーレらしき高まりが部屋に満ち、壁を揺らし、床を這いまわっていた、まるで鎖から解き放たれた囚人のように。調べが結びを迎えると、雷鼓は深呼吸して猫のように背筋を伸ばし、首の骨を鳴らして椅子を回転させた。
彼女がニヤリと笑ったので、私は苦笑を返してみせた。
「“お宝を発見した”って顔ね」
「ええ、痺れたわ。この重々しくも昂ぶるリズム」
「向こうの音楽はイマイチ分からないけど。……あんな大人数で、ねぇ」
「大人数だからこそよ。このジャケットの文字が読めたらなぁ。作曲の経緯とか、知りたい」
「ルナサさん辺りに訊けば好いじゃない」
「それだわ! 早速!」
立ち上がりかけた彼女の肩をつかんで、椅子に押し戻した。浮遊していたエレクトロニック・ドラムから、乾いた空気に向けて雷光が放出され、デスクを跳ねまわったので、私は身を引いた。雷鼓が訝しげに眉をひそめる。
「……どうしたの、弁々?」
「八橋が、さ」
私は息を吐いた。
#02
雷鼓は私が淹れたコーヒーを美味そうに飲んでくれたが、私の相談事には苦い顔をした。
「彼女の自由にさせてあげるのが、そんなにいけないわけ?」
「そういうんじゃない、ただ、――」
「“元は琴の付喪神だった、それが今じゃアコースティック・ギター、ヴィオラ、胡弓、さらには畑違いのピアノまで、いくらなんでも節操が無さすぎるんじゃないか”って、そういうことでしょ?」
「……大方、その通り」
雷鼓は、私達の命の恩人は、唇の端を曲げて笑った。本当に聡明なのだ、このひとは。
「八橋のやつ、今度は私の琵琶にだって手を出しかねない勢いだわ。次から次へと、挙句の果てに何かおしゃれまでして、……」
「色気を出した娘を見て“けしからん”とか憤る父親みたいよ、まるで、今の貴方」
「うるっさい。ただね、姉としては心配なだけ。ねぇ雷鼓、あんな風にいろいろと手を出して大丈夫なの? 付喪神の依り所を見失った果てに消えちゃったりとか」
「自分の選択肢を探してるだけよ、あるいは可能性を。大丈夫大丈夫。この雷鼓さんに任せなさいって」
「だから余計に心配なんだよねぇ……」
「それよりさ、弁々はどうなの?」
――私? デスクの反対側からは死角になっていて見えていない、お腹の前で、両手の指をこね合わせた。
「ま、まだ……」
「まだ?」
「決めて、ない。今は、取り敢えず琵琶のままでも」
「それは駄目」眉をひそめて、彼女はカップを置いた。「それだけは駄目。貴方にとって、もう“琵琶”という選択肢は消えてしまってるの、分かるでしょ? 楽器を替えなければ魔力は替わらない。それが大前提、動かせないルール」
「“自分を捨てろ”って、貴方はそう云ってるのよ。もうちょっと、考える時間だって」
「大博打ではあるわ。けど、そんな深刻に考えなくても大丈夫よ。何も二度と琵琶が弾けなくなるって訳じゃない。私だって太鼓を叩こうと思えば変わらずに叩けるし」
「でも今はドラムの方が楽しいんでしょう?」
「あー、そうね。それはある」
雷鼓は目をそらして、白いジャケットの襟を整える振りをしながら、足を組み替えた。棚に立てかけられたバスドラムが、その金属の留め具が照明にあてられて、八橋のあのギターのように眩しく光っていた。寂しげに肩を落としている彼女の太鼓は、今、何処で泣いているのだろう?
黙りこくった付喪神、クラシックのレコード、そしてバスドラムから私は視線を引き離して、空っぽのコーヒー・カップを見つめた。この空っぽなカップに、この空っぽな手のひらに、いったい何を満たせば私は納得できるのだろうか。
「ま、おいおい返事は聞かせてね。ただし――」雷鼓は云った。「八橋を悲しませちゃいけないよ。私としても、後味悪いから」
「……ええ」
#03
九十九八橋は新品のギターを抱えて散歩に出た、それも霧の立ち込めた湖へ、対岸に悪魔の紅い館が望める湖畔へ。あまりにひっそりとしていて、それこそ鳴かない小鳥のように目立たないものだから、プリズムリバー邸は幻想郷の人妖達からはほとんど忘れ去られたみたいになっているけれど、それでも、そこにはそこだけの息遣いがあり、独特の静けさがあり、そして音楽があった。住人である三姉妹に頼み込んで、屋敷の一画を使わせてもらおうという雷鼓の決断は、結果的には、自分達に考えるだけの時間と安らぎを与えてくれたと八橋は思っている。
湖畔には長女のルナサ・プリズムリバーと、湖に住まう人魚であるわかさぎ姫がいて、騒霊は木立を背にして岩に腰かけ、手を使わずにヴァイオリンを演奏し、人魚は湖から頭を出して、伴奏に合わせて唄っていた。しばらく立ち止まって耳を澄ませてから、メロディとリズムをつかむと、八橋は岩に背中を預けて座り込み、ギターの低音弦を使ってベース・ラインを辿ってみせた。柔らかに瞳を開けて、こちらを確認した二人の、照れまじりの微笑み。アンサンブル。音楽を心から愛する二人の演奏と唄に、八橋の指も軽やかになった。
最初に声を上げたのはわかさぎ姫だった。
「やっぱり伴奏があると違うわ。気持ちが好い。また機会があれば、お願いしたいわね」
「私も、ヴォーカルを入れてやると新鮮。楽しい。騒ぐだけが全てじゃないんだなって」
「琴や琵琶じゃ“語り”が主だったから、メロディを付けると全然勝手が違って面白いね」
めいめいに感想を述べ合った後、屋敷の方を振り返ってから、ルナサが訊ねてきた。
「……そういえば、決めたの?」
「んー、まだ。どれもこれも楽しいんだもの。迷っちゃう」
「遠慮しなくて好いよ。私達にはお金なんて必要ないから」
「さんきゅ!」
「お姉さんは」と声を上げたのはわかさぎ姫だ。「弁々さんはどんな調子かしら?」
「まだ悩んでるみたい。ずっと琵琶ばっか弾いてる。好い加減、選ばないと不味いと思うんだけどなぁ」
「もう小槌の回収期は始まってるんでしょう?」
八橋は頷いて自分の手のひらを見つめた。
「――“引っ張られてる”って云うとおかしいけれど、それがいちばん近い、かな。そろそろ潮時じゃないかって思う。雷鼓さんは何も云ってこないけど、頭のキレるひとだもん、ちゃんと“その時”が来たら教えてくれると思う」
「あのひとは難しいだろうね」とルナサ。「……事によると」
「え?」
「弁々さんのこと。私だって、ヴァイオリンを手放して、別の楽器をメインに据えろって云われたら、反発したくもなる」
「ま、まぁ。でも姉さんなら大丈夫だよ。私と違って真っ直ぐだし。一度“替える”って決めたんだもの、やり通してくれるよ」
「その“真っ直ぐ”が悪い方に働くかもしれない」
「……どういうこと?」
わかさぎ姫が尾ひれを揺らした。「つまり、他の楽器に曲げるくらいなら、琵琶のままの自分を、在りのままの自分を貫き通すと」
ルナサが頷いたのを見て、自分のギターを見下ろして、次に小鳥の舞う冬空を見上げて、八橋は二人の言葉をまとめようと頭を働かせた。途端に心臓に重苦しい圧力が掛かるのを感じた。姉が琵琶という楽器を捨てない選択をするということ。……ちょっと待って、それってつまり、でも、まさか、そんな。考えてもみなかった可能性だった。だって――。
「――約束、したのに」
二人は慌てたようにヴァイオリンや尾ひれをびったんびったんさせた。
「ま、万が一の可能性ですよ、万が一!」
「そうそう、あなたを残して元に戻るなんてこと、あのひとがするはずないもの」
“元に戻る”というルナサの言葉に、八橋はギターのネックを握りしめた。
#04
九十九姉妹に夕食の時間を告げるため、堀川雷鼓は弁々の部屋のドアをノックしようとして、彫像のように固まった。しゃくり上げるような嗚咽と共に、八橋の、涙まじりの声が聞こえてきたからだ、扉越しで、くぐもりを帯びていたから、内容までは聞き取れなかったが。――でもそれだけで、雷鼓には事の大よその察しがついたので、すぐに踵を返しかけたが、残された日数のことを考えると、もう当人の意思がどうこう云ってる場合じゃないと思い直した。
道具の楽園。付喪神が自分の意思で楽しめる世界。二人はそれに賛成してくれたのだ。同志だ。共にビートを刻む仲間だ。それを、その権利を、視野の狭いこだわりなんかで側溝に捨てて欲しくはなかった。雷鼓は声が途切れたタイミングを見計らってドアをノックし、部屋に入った。ソファに腰かけてうなだれている弁々と、床に膝を崩してギターに目を落としている八橋の姿が視界に映った。
「どうしたの、……と、まずは訊いても好いかしら」
「姉妹喧嘩だよ。ちょっと取り乱しちゃって。大したことじゃない」
「私には天変地異と同じくらいの重大事に見える」
弁々は溜め息をついた。「早とちりしちゃったんだよ、この子。――分かるでしょ? 今、慰めていたところ」
「ええ、分かる。分かるけど、二人の云い分を聞いておきたいわ。後悔してもらいたくないから」
返事を待つ間、足を上下させ、靴のかかとに取り付けられたビーターで床を叩いた。悪い癖だと自覚していても止められない。
「姉さんは、勝手だよ」
「だから誤解だって、落ち着きなよ八橋」
「じゃあ今すぐ、この場で決めて」
「なんでそんな――」
「消えても好いの? 元の道具に戻っても好いの? 一緒に道具の理想郷を作ろうってさ、約束して……」八橋は首を振った。「ううん、今はそんなことどうだって好い。姉さん、いや弁々。消えたら私、許さないからね。貴方が思ってるほど、私は強くなんかないよ。独りじゃ生きていけないんだよ。誰かの役に立つのが道具。それは心を持ったって変わらない。自分自身のためだけに生きていけるなんて、そんな空しい自信、私は持ってないし、要らないんだよ」
言葉は奏でられてゆくにつれて、滲んで、歪んで、リズムまでも崩れて、中空に溶けるようにして沈んでいってしまい、後には苦い沈黙しか残らなかった。八橋は袖で目尻を拭うと、栗色の髪を揺らして出て行ってしまった。自分自身のためにのみ生きるということ、その言葉が雷鼓の頭の中で乱反射していた、まるで身体を食い破ってゆく銃弾のように。でも、それが心を持つということではないだろうか? 雷鼓は首を振った。――自分のために生きるということ、自分のために進んでゆくということ、それが“自由”であり“独立”ってもんじゃないか?
ギターの音色が床を転がったので、顔を上げると、弁々が妹の新品の楽器に指を滑らせているところだった。閉ざされた静謐な空間でギターを奏でると、どうしてこう澄んだ響きが生まれるのだろう。壁に背を預けて、それすら気だるげに感じて、床に腰を下ろした雷鼓は、指で拍子を取りながら、琵琶の付喪神のギター演奏に鼓膜を預けていた。
独奏が終わり、雷鼓は口を開いた。
「そういや、さ。ルナサにあのクラシックのこと教えてもらった。レオシュ・ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』。――“勝利を目指して戦う人びと、その精神的な美や歓喜、勇気や決意を表現するために捧げられた交響曲”だって。私達にぴったりじゃない。自由を目指して戦って、それで……」
「雷鼓」
「うん?」
「駄目だね、結局、あいつを悲しませてしまった」
「…………」
「たぶん、貴方の云う通りなんだと思う。深刻に考えすぎてた、馬鹿みたいにさ、二度と弾けなくなる訳じゃないのに。ただ焦ってたんだよ。あの子があんまりにさっさと次に行っちゃうもんだから、置いてけぼりにされたみたいで。――雷鼓、貴方はどうだった? ちょっとは迷ったりしたの? 後悔とか、してない?」
弁々の声はもう落ち着いていて、突きつけられた問いもまた鋭いものではなかった。でも何処か責められているような、突き上げてくるような感覚を喉元に感じて、雷鼓は無意識にスティックで電子ドラムの縁を叩いていた。真っ白な電光が天井まで昇ってゆき、ひと筋の煙だけを残して消えていった。
「……迷いは、したわ。でも千載一遇のチャンスだもの。“私は私なんだ”って、その強い想いさえ暖めておけば、たとえ姿形が変わってしまっても、この堀川雷鼓は無くならない。そして事実、その通りになった。後悔だけは、していない」
そう、後悔だけは、していないはずだ。雷鼓は自分の胸に問いかけ、同じ答えが返ってきたので、息をつくことができた。
「ありがとう、雷鼓」弁々は云った。「ありがとう。ちょっとだけ、私にも見えた気がする」
#05
私はアコースティック・ギターを小脇に抱えて、プリズムリバー邸の廊下を歩いている。
この屋敷は古びていて、そこかしこに傷みだって見受けられるけど、それすらも名誉の勲章であるかのように、あるいはヴィンテージ・ワインの味わいであるかのように、自らの個性に変えてしまっていることを、私は最近になって気づけるようになった。新しい自分には、新しい見方が備わるのだ。階段を降りて広間に出ると、そこにはルナサを始めとした三姉妹と、そしてバスドラムに腰かけた雷鼓、それにピアノの前に座る八橋がいて、皆がこちらを見上げて笑っていた。――いや、八橋はまだ照れくさそうかな。私だって、左右に垂らしたあじさい色の髪に手を触れて、また誤魔化そうとしているから。
気に入らなければ、と雷鼓は云った。ある程度の期間を置いてから、また楽器を替えることができる、魔力を替えることができる、外の世界には沢山の熱い想いを持った音楽家達がいて、いつでも私達に力を貸してくれるから。彼女はそう云った。新たに手にした魔力は、以前の何処か禍々しい、まるで鋭利なナイフのように切れ味の鋭い代物ではなくて、ただ暖かに胸を満たしてくれる、まさに魔法のような力だった。でも、私は私の古びた琵琶を捨ててはいない、今も部屋の隅に、他の楽器と一緒に大切に眠らせてある。もしまた楽器を取り替えるようなことがあっても、このギターを捨てることなんて、決してないだろう。可愛らしい妹がプレゼントしてくれたこの楽器を、私は心から気に入っているのだから。
自分のためにも、妹のためにも、恩人のためにも、私は私の可能性を失いたくはないのだ。
その強かな“フォルテの”想いさえ抱きしめていれば、私はいつまでも九十九弁々でいられる。
――さぁ、お披露目だ。
「張り切っていくわよ、二人とも! リズムに乗って!」
雷鼓の掛け声が轟いた。
私達姉妹は確かめ合う、互いの顔に咲き誇った、真新しい笑みを。
~ おしまい ~
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弁々ちゃん達は消滅の危機があるんだからもっと切実でしょうが 進化みたいな感じかなあ
心の押入れに昔の自分を仕舞っておきたいものですね 恥ずかしい記憶も財産さw
やさしい雰囲気、素敵なキャラクター達 とても魅力的でした! 雷鼓ちゃんカッコ可愛い!
自分の知る限りでは作者さんが初かしら?
原作もずっこけ気味みたい?ですし、後につづく人が居なければなかなか盛り上がりませんものね。私など雷鼓さんの楽器が電子ドラムであるのも今の今迄気付かなかった(節穴) いつか大ステージに立った彼らの勇姿を見てみたい物です。
いつか笑ってこの日の選択を振り返られるといいな
貴方の描く幻想郷、大好物です。
新しい楽器に魔力を馴染ませるのは、音の調律みたいなもんですかね。
それを道具として誰かにやってもらうのではなく、自分で調和させること、それもまた自由意志を持つ者の権利なのでしょう。
弁々さんも一度一歩を踏み出せば、案外軽やかにやってのけそうだと、この話を読んでて思いました。