手足のひょろっとした少女が、じっとのぞき込んでいた。
――鏡よ鏡。鏡さん。
そこでぐっと息を飲み込んだ。
「わたし、世界一の魔法使いに、なれるかな?」
きっと周りの大人たちに、なれっこない、と笑われたのだろう。
彼女は眼に涙をいっぱいためていた。
床を鳴らして駆け込んでくる。ぶかぶかのコートも脱がずに、ベッドをぐいぐい押して壁にくっつけた。
絨毯をめくった床板に、ぺたりと座り込む。
ポケットから出した小瓶のコルク栓を抜き、青緑の液体をぶちまける。指で伸ばしていき、何度も本を見て確かめながら、魔方陣を書き上げた。おごそかな手つきでその上に植木鉢を置く。
鉢には一本のチューリップが、しなびてしおれた花をうつむけている。
膝立ちに下がって本を開く。探し当てた行を指でなぞりながら、小さな口でもごもごと読み上げていく。
魔方陣がにぶく発光する。少女の瞳も期待に輝く。
そして植木鉢は爆発した。
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魔法の鏡なぞ、あるわけがないのです。
あれは、何の変哲もないただの鏡。王妃様のお部屋の隣には、壁をくりぬいて作った隠し部屋が、侍従の手により密かに用意されているのです。
召使いがそこに入って、王妃様の問いかけに答えるだけ。
『世界で一番美しいのはだあれ?』
『それは貴女です』
渋くダンディに。若山富三郎ばりのバリトンで。
どうです、簡単なお仕事でしょう。
え。
富三郎、古いですか?
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ふくれっ面でベッドに腰かけている。額から顔半分覆うように貼られた大きなガーゼが痛々しい。
「あんなに怒らなくってもいいのに……」
仰向けに寝転がる。近くにあった本を顔の上で開いた。
「なんで失敗、したのかな。書いてあるとおりの材料はそろえたはず……」
天井に近い窓から、青い月明かりがさしている。
しばらく黙ってぺらぺらめくっていた手がとまる。ばさりと本が顔に落ち、しばらくガーゼを押さえて呻いていたが、そそくさとベッドから降りるとかばんを開けたり引き出しの中身を出したりして、何かを探し始める。
「あっ」
叫びとともに、ベッドの向こうから手が突き上がる。
「忘れてた、尻尾!」
小さな籠の中で、白ネズミがちゅうと啼いた。
「……ま、いいか」
籠はそっと机に置かれた。
ネズミはまだ籠にいる。
部屋の眺めはだいぶ変わっている。フラスコやビーカーがずらりと並び、トカゲやサソリの干物がぶら下がって揺れ、窓際にはみるからに毒々しい花が咲いている。机の上では用途のよくわからない、何重もパイプの取り巻いた器具がコポコポ湯気を立てていた。
本棚の蔵書もぐっと増えている。書きなぐりのメモやスケッチ、数式といった紙片が、壁からドアから何枚も貼られていた。
少女は少し背が伸びている。ゆったりした服装でベッドに腰かけた膝には、いつかのような、枯れた花の鉢植えがのせられていた。
ひとつ咳払いして、彼女は指を立てた。短く何かつぶやいて、その指をさっと回す。
茶色く乾いた茎がぴくりと震えた。時計が逆回りするように、瑞々しい張りと緑とが戻ってくる。
最後に、ぴんと伸びきった花弁に、火が回るように鮮やかな赤がいきわたった。
「うん」
小さく、けれど満足そうにうなずいている。
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もちろん、隠し部屋の召使いだって、ちゃあんとわかっているのです。
真実を。
『それは白雪姫です』
でもね、正直にそう答えるほど愚かなことはない。
だってそうでしょう?
王妃様は嫉妬に狂うでしょう。毒リンゴだか無免許フグ料理だかメディスン・メランコリーだか知らないが、ありとあらゆる手段で白雪姫を抹殺せんと謀るのは間違いない。
これから毎日毒を盛ろうぜ!
えらいとばっちりですよ。白雪姫にしてみれば。
あるいは王妃様、怒りのあまり鏡を割っちゃうかもしれない。おかげでうっかり隠し部屋の秘密がバレるかもしれない。
そうなったらお仕舞いです。命は助かっても、クビになるかもしれない。
家のローンも残っているのにねえ。息子だってまだ小さいのに。
まあ、脱線しましたけれど、つまりは嘘ついてりゃいいんです。おだてて気持ちよくなってもらえばそれでいい。王妃様も満足、こちらの生活も安泰。誰も損をしないんですから。
真実? そんなものくそくらえ。
第一あなたの真実って、それって本当に、本当ですか?
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震える手で紅をさしている。唇を巻いて噛み、いーっと横に広げる。
「うーん……どうかしら」
首をかしげる。前髪をあげて額を出し、顔を寄せる。
変わっているのは彼女の様子ばかりではない。実験器具やそのための材料、怪しげなマジックアイテムのたぐいは一切なくなり、壁には張り紙のかわりに、体の線が出るような薄手のドレスがかかっていた。
髪を分けたり結んだり、何度も何度も試して、やがて未練たっぷりのため息がふっと洩れる。
「君しかいないと思いました。物憂げな雰囲気に惹かれました」
抑揚のない声だった。
ベッドの縁に腰かけると、はずみで便箋が落ちる。拾い上げて、少女はしばし放心したようにそれに見入っていた。
「一度、お話したいと思いました……」
赤い唇がわずかにほころぶ。便箋を胸に抱いて、少女は窓を見上げた。
遠くで柱時計が鳴り始める。
あわてたように便箋をたたんで机の引き出しにしまい、部屋を出て行く。ドアを抜けるその横顔にもう笑みはない。
薪ストーブが静かに燃え、壁を明るく照らしている。
鼻の上まで引き上げた布団に、涙と、それ以外の感情が滴り、染み込んでいく。
小さくノックの音。少女は敏捷に身を起こした。
「大丈夫だから! 放っておいて!」
その体のどこから、と思えるほどに大きな声だった。
枕にうつぶせて、激しく咳き込む。
ずいぶんと間があって、ドアの前から足音が離れて遠ざかっていく。ほっとした様に枕元のカップをとりあげ一口飲むと、寝巻きの胸元から白い封筒を抜き出し握り締めた。
ストーブの焚き口をあけると、停滞なく彼女はその封筒を押し込んだ。
「魔法しかない」
ベッドに登って分厚い本を大儀そうに開く。倒れこむような姿勢のまま読み始めた。
「私には、魔法しかないんだ」
ストーブがぱちぱち鳴りはじめ、壁から天井まで伸びた少女の影が大きく揺らめく。
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でもね。
きっと我慢できなくなる。壁の中の召使いは。
『それは白雪姫です』
言いたくって、こらえきれなくなるんです。
生活のことも、家族のことも、いやさ自分の命すら、段々とどうでもよくなってきてしまう。
ヤバいとは自覚してるんです。そんな自分の状態をね。だからしばらくは、あの手この手で誤魔化し続けるんですよ。
朝晩ジョギングをする。お酒の量を増やす。小間使いの娘のお尻を触る。
誰もいない海に向かって叫んでもみる。
『王様の耳はロバの耳ー!』
失礼、物語が違いましたね。
涙ぐましい努力でござんしょ?
でもムダ、ムダ。どんなにあがいても、その日は刻々と近づいてくる。
王妃様は毎日、同じ質問を繰り返します。
『世界で一番美しいのは、だあれ?』
実のところ彼女もまた、うすうす気づきはじめているのです。もしかすると私ってミスユニバースじゃなくね? って。
そんなはずはない、と自分に言い聞かせながら、
『それは――』
鏡から、違う答えが返ってくるのを、心のどこかで期待しちゃってる。
恐れ、おびえながらも、それまでの日常の連続が破壊されることを、望んでもいるのです。
なんと奇妙な図式でしょう。鏡をはさんで、王妃様と召使い。
まさに鏡映し、なんというシンメトリー! もうお前ら結婚しろよって話ですよね。
二人の鼻先にぶら下がったニンジンは何か。あらためて、真実?
いいえ違います。誰が綺麗なのかなんて、どうでもいい。白雪姫の話に白雪姫はいらないんです。
欲望。
衝動……やっぱり違う。
しいて名づけるなら、それは一瞬。
召使いと王妃様は、それぞれ反対のふもとから同じ山を登っているのです。どうせなら、一番高いところ、山のてっぺんから突き落とす・されるのがベストでしょう。そうに決まってる。
二人が同時に頂上を踏む瞬間。
……想像しました? 恍惚でしょう?
人の不幸は蜜の味、などと申します。けれどあれは嘘なんです。嘘というか、不完全。部分点しかあげられません。不幸は、自分にふりかかるものまで含め、すべてが甘露なのですよ。
ま、人と人の姿をした大概は、転げ落ちる前に引き返しますけどね。
あなたはどうです? 覚悟はありますか?
その気になったら、呼んでくださいね。
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遠く低く、サイレンが空を震わした。
不安げに夜を見上げていた視線が、やがて薬鉢に戻ると手が作業を再開する。
ごり、ごり、と。すりこ木を回して木の実を摩り下ろしていく。
部屋は雑然として魔窟の様相を取り戻している。ろうそくが長い炎をあげ、フラスコの底で何かが蠢く。
再びサイレン。
「……ママ、遅いな」
少女はドアを見ている。しばらくその姿勢でいて、さっと腕を上げた。離れた本棚から一冊の本が抜き出され、自分でページをめくりながら移動してくる。
するとにわかに窓の外が騒がしくなる。浮いていた本がばさりと落ちた。彼女は首を縮め、手元のランプを吹き消した。どこかで金切り声が上がり、追いかけるようにして男の怒号が路地に響く。
大勢の足音が、甲高く不ぞろいに横切っていく。途切れたかと思うと別の方向から現れ、ひっきりなしにあたりを取り巻いて鳴り続ける。
「いや……」
耳をふさいで、彼女は壁にもたれた。
マフラーをほどいた頬が紅潮しているのは、外の寒さからだけではないようだ。
「本物だった!」
叫んで、嬉しさとも怯えともつかないくしゃくしゃの表情で、彼女は椅子に沈み込む。すぐ立ち上がって、どさどさと何冊もの本をベッドの上に放り出し、片っ端から開いていく。
「きゅう、け、つ、き……」
広げたページを見比べていく。腹ばいになってノートを広げ、ほとんど頬をページにつけるような姿勢で何事か書き付けていく。
「写真欲しかったな、あれ写らないんだっけ……?」
夜は静かだ。しかし彼女が黙ると、床下からざわざわと振動にも似た気配が立ち上ってくる。各家の奥底で人目をはばかり呟かれる不穏な噂話のようであり、夏を待つ羽虫の羽ばたきのようでもあった。墨を流したような空をサーチライトの白い光がぼんやり渡っていく。
「本当にいたんだ……いてくれたんだ」
けれどその夜の少女はいかなる横槍も気にかけず、熱い興奮に没頭しているのだった。
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さあ……。
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轟音。
銃声。
赤と黒の色彩が窓から見えるすべてを蹂躙し、今が昼なのか夜なのかも分からない。
部屋全体がみしみし軋んで揺れる。壁と柱の隙間から、白い煙が上がりはじめた。
少女は部屋の真ん中にいる。手足もすっきり伸びて、いつしかすっかり娘らしい体つきになっていた。すべての結合が焔熱に解き放たれていく瀬戸際にあって、数冊の本だけを抱えて、ただ立っている。
傍らのベッドはこんもりと盛り上がっている。しばらくじっと、彼女はそれを見おろしていた。
「許して、ママ」
激しいノックの音。家のドアではなく、壁全体が打ち据えられているようだ。
「でも私は、まだ……」
魔女め! 魔女め! お前たちがいるから!
戦争が! 病が! 死が! 死が! 死が!
怒声が波になって打ち寄せる。窓の一枚が粉々に砕け、飛び込んできた石が腰に当たり、彼女はよろめいた。火の粉がぱらぱらと降りかかってくる。
棚に並んだビーカーが次々と割れていく。ベッドも端から燃え出している。コートの袖で口元を覆い、ようやく彼女は歩き出す。
出口へではなく、こちらへと。
膝をついて、顔の前で指を組んだ。
「鏡よ鏡、鏡さん」
凪いだ湖水のように穏やかな瞳だった。
「私は、世界一の魔女に――」
割れ窓に炎が弾けて金粉を散らし、続きは喧騒に呑まれた。
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今!
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旧都の遠い明かりを溶かして川が流れ、朱塗りの橋がそれを渡っている。橋のたもとの小屋で、パルスィはほつれたスカートを縫っていた。手元に集中していてふと、横から気配を感じる。
「あら、久しぶり」
思わず声が出た。
パルスィの姿はそこにある姿見に映っていない。明らかにこの小屋の間取りより大きなテーブルと、おびただしく積み上げられた本の背が見えた。紫のローブを着た娘はテーブルの前で安楽椅子に座り、身を揺らしつつ大判の図鑑をめくっているのだった。
魔法の鏡。
それは橋姫にとっては定番のアイテムである。世界中に嫉妬姫がどれだけいるかはわからないが、彼女らの日々の非生産活動にとって、わら人形や毒薬以上に欠かせないものだ。一家に一枚、三種の神器。巨人大鵬卵焼きである。
ちなみに、魔法の鏡、などという特別なものはない。鏡はすべて魔器なのだ。ただほとんどの人間は鏡の声を聞くことができず、聞こえたとしても意味を解しない。
中にはろくでもないことを唆して持ち主を破滅へ誘う鏡もある。声を聞けないのは、人間にとって幸運といえるかもしれない。
「ふーん。ずいぶん長いこと見なかったけれど、元気そうじゃないの」
パルスィは鏡に顔を寄せた。どこからか声がかかり、返事のかわりに、鏡の中の彼女は横顔で笑っている。大人びてくつろいだ雰囲気は、かつて見せたことのないものだ。
やがて、森のような書棚の奥から、使い魔らしき赤毛の少女が、トレイにティーセットをのせてやってくる。
「ちぇ」
舌打ちが出た。
「面白くないわね。やっぱりあのとき、追い込んでおくべきだったわー」
あーあ、とパルスィは頬杖をついた。
すると鏡の中の娘が、使い魔との会話を中断して振り返る。冷ややかに細めた目がパルスィを射た。
「え?」
いやまさか。こちらが見えるはずは――。
『覗くな。下賤の輩め』
彼女は指をぱちんと鳴らす。とたんに、鼻先に洗濯バサミで摘まれたような激痛が走った。
「ぎゃあ!」
もんどりうって、パルスィは床に倒れた。
膝かけにのせた本を開こうともせず、魔女は黙って微笑んでいる。向かいで紅茶をすすりつつ、レミリアは少々居心地が悪かった。読書に没頭してこちらの話を無視されるのが彼女との刺激なき日常だとしても、こうなればかえって不気味である。
「どうしたーパチェ。いいことでもあったかい?」
痺れを切らして尋ねた。
「いえ」
ちらりとパチュリーは目を配る。そこには、カバーをかけた小さな鏡台があった。
「旧交を温めていたの。それだけ」
くすくす、袖を口にあてて笑っている。
【了】
軽妙な語り口で、引き込まれました。