*過去捏造、独自設定有
よぉ、知っているか。あそこの寺にはいつも紫の雲がかかっているらしい。よっぽど徳の高い御方がいるんだろうなぁ。
厳しい冬の最中で珍しく穏やかな日であった。
短い間だろうが日差しを受けようと、庭には白い布がまるで踊っているかのようにパタパタと揺らいでいた。その隣では重い蒲団も日の光をあびて白く輝く。日が暮れるのはまだまだ先だ。綺麗好きなのかしっかり者なのか、それ以上に日の当った蒲団が好きなのか、ある少女が朝早くから寺の住民を叩き起こしてせっせと干していたのだ。
そんな事を思い出しながら寺内の景色を命蓮寺本堂の屋根から見るものが独りいた。薄紫の体は人ではなく雲で、妖怪なのだが。
昔は人々に見越し入道と呼ばれ、今は入道のおじさんなどと呼ばれているその雲はゆっくりと瞼を降ろして自らも日の光に身を晒した。彼の体はじわり、と熱を吸収するように外側から熱されていく。
この雲の相棒の少女は――布団干しに精を出していた少女だ――寒いのが苦手らしいが、彼自身は妖怪として生まれたせいか、どうもそういうのにはあまり効き目がないようだった。そのせいなのかどうなのか、雨に降られた時、少女の傘代わりの如く扱われた事もあった。雨を吸って最終的には少女の上だけが豪雨となり、酷く叱られた。出会って間もない頃には、柔らかそう、暖かそう、と抱き付いてきた。それはいいのだが、ふわふわもこもこの外見とは相反して意外と冷たい――雲だから仕方ないのだが――体に驚いて飛び跳ねて、どうにかしろ、と理文句を言われた事もあった。全て、たった一人の主従を誓った相棒の少女の言だ。
瞼をあげる。すっかり見慣れた幻想郷の風景に彼は知らず目を細める。そのまま少しまどろんで、
「姐さん!」
聴きなれた、今しがたまで思い浮かべていた少女の声が聴こえた。彼が参道を見ると頭巾を被った少女が不思議な髪色をした長髪の女性に駆け寄っていく。
――あねうえさま!
そう、言っていたのは誰だったか。彼は言葉を発する事なく見つめる。
彼女たちの声は聞こえない。しかし、表情は笑顔だった。溌剌と笑う少女に、優しさを湛えて笑みを浮かべる女性。その二人は、姿かたちは変われども、昔も今も、変わっていなかった。ただ、あの女性と似た優しい表情を浮かべた青年がいない事が、あの日の続きではないという事を彼に教えた。
青年の名を今も覚えている。けれど顔はおぼろげに霞んでいて見えない。今よりもずっと幼い少女に手を引かれて女性を見ながら微笑んでいた。
――あねうえさま! ……さまが、里へでかけようと、ですから、あねうえさまも
女性は少し驚いてから青年を見る。青年は少し困ったような振りで、けれどどことなく楽しげであった。
――それは、楽しそう。でも私は遠慮しておきます
――あねうえさま、こられないのですか?
――えぇ、えぇ。残念ですけれど、今は少し
女性の視線の先に、寺の者でない人がいた。彼らの相手をするのだろう、事情はわかったようだが見るからに落胆の表情を浮かべる少女に、女性が腰を降ろして頭を撫でている。
――そうね、だからお土産を期待しましょうか
――姉上
諌める様な青年の声に女性は微笑んだ。その表情に青年も苦く笑うしかなかった。
少女は土産と聞いて、態度を一転して、わかりました、と得意げな顔になって意気込んでいた。
少女がふと、本堂の方を見た。そうして屋根の上にいる雲に気付く。笑顔が弾ける。
――うんざっ――
急に飛び跳ねたと思ったら、口に手を当てて止まった。近くに居る参拝者が不思議そうに少女を見ている。
やがて少女は女性と青年をチラリ、と見てからもう一度屋根の上を見る。青年と女性も雲を確認して、あぁ、といった表情で少女の頭を撫でる。参拝者が感嘆の声を漏らしていた。
――おぉ、今日も紫の雲がかかっているんだなぁ
女性と青年は少し困ったような顔をしていた。少女の表情は俯いてよく見えない。
雲は返事の代わりに小さな小さな雲を吐き出した。青年が少女の肩を叩いて彼の事を教えてやった。小さな声で土産を待っていると話しかけた。神通力の強い青年に届いた声はそのまま少女へと届けられる。少しだけ寂しげな顔をした少女が、少しだけ不器用に笑って、いきましょう、と青年を促す。二人して歩き出して、またちらり、と屋根の上へ視線を向けて、
――また、あとで
と口だけを動かした。雲はそれを確かに聞きとって、少女の背を見送る。
少女の帰りを待つ間、ゆっくりゆっくりと小さくなっていく。少女の後を追いかけてもいいが、小さな雲に纏わりつかれても里では邪魔になるだろう。頭巾で隠しているその髪の色だって、普段は人に見せられないのだから。
雲はやがて、人の頭程の大きさになって、こっそりと屋根の上で隠れる事にした。彼女が帰ってくる時分に、こっそり降りてこっそり会おうと思うのだった。彼女はきっと、彼にも土産を持ってきてくれるだろう。そうして彼の冷たさに馴染んだ彼女はそこでやっと安らいで、いつか一緒に里へ買い物に行こうねと夢物語を語らうのだ。
なにせ人と妖怪は、普段は一緒に過ごせないのだから。
「雲山!」
キン、といきなりの大声に耳鳴りがした。
「んもう、いくら呼んだって返事しないんだから」
いつの間にか目の前に居た少女が――随分と成長して――ブツブツと文句を言っている。彼がきょろきょろと辺りを見回すと「なに寝ぼけてるの?」と言われた。ごまかす様にぼふっ、と雲をはいた。
「む。雲山、ちょっと今暇でしょ。里まで出るの付き合ってよ」
買い物なの、と彼女は彼の背に乗りながら言った。彼は昔からあまり拒否権を持っていない。
「よし。そうと決まればさっさと行くわよ。ほら、ごーごー!」
なんだそれは、と言い返すと「行け」って意味よ、と少女は至極当たり前のように言った。仕方なし、と体を動かす。ふわり、と浮いて命蓮寺の参道の上を飛んだ。参拝客の子供が少し騒いで彼女たちの事を呼んだ。
「入道屋はおやすみだからね」
どっこいしょーと腹這いになって少女が寝転んだ。マフラーやら手袋やらの繊維が彼の体を擽り、思わず身じろぐと少しだけ文句を言われた。
「んー……あったか」
寝るなよ、と彼は言ってみたが眠たげな彼女に効果があるかはわからなかった。ずっと昔、干している蒲団に寄り添ってそのまま布団事一緒に倒れているのを見た事があったからだ。
「……ねぇ、雲山」
彼女は呟く。
「雲山はさぁ、里への買い物、好きじゃない?」
特に買う物も、見たい物もないが付き合うのは嫌いではない。そう素直に返す。
「そっか……そっか。うんよかった」
彼女が背で起き上がっている気配がした。藤色の髪が風に靡いていた。
「じゃあ一緒に甘味食べましょ。みんなには内緒だからね」
背を叩かれて、返事をした。彼自身への土産物の甘味をこっそり食べて叱られていた少女は、今も食のあれやこれで小言を言われる事があるようだった。主に、酒の事だが。
「雲山」
不意に名前を呼ばれた。
「んー? んー……なんでもない。ただ、なんとなく呼んでみたかっただけ」
うんざん、とあの頃とは違う声音で、けれど同じ思いで。
里の入口へと降りる。
少女の体にまとって、賑やかな通りを二人は一緒に見て回った。
土産を持つのは彼の役割となっていた。
やぁ入道屋たちじゃないか。今日も何かやっていくのかい?
よぉ、知っているか。あそこの寺にはいつも紫の雲がかかっているらしい。よっぽど徳の高い御方がいるんだろうなぁ。
厳しい冬の最中で珍しく穏やかな日であった。
短い間だろうが日差しを受けようと、庭には白い布がまるで踊っているかのようにパタパタと揺らいでいた。その隣では重い蒲団も日の光をあびて白く輝く。日が暮れるのはまだまだ先だ。綺麗好きなのかしっかり者なのか、それ以上に日の当った蒲団が好きなのか、ある少女が朝早くから寺の住民を叩き起こしてせっせと干していたのだ。
そんな事を思い出しながら寺内の景色を命蓮寺本堂の屋根から見るものが独りいた。薄紫の体は人ではなく雲で、妖怪なのだが。
昔は人々に見越し入道と呼ばれ、今は入道のおじさんなどと呼ばれているその雲はゆっくりと瞼を降ろして自らも日の光に身を晒した。彼の体はじわり、と熱を吸収するように外側から熱されていく。
この雲の相棒の少女は――布団干しに精を出していた少女だ――寒いのが苦手らしいが、彼自身は妖怪として生まれたせいか、どうもそういうのにはあまり効き目がないようだった。そのせいなのかどうなのか、雨に降られた時、少女の傘代わりの如く扱われた事もあった。雨を吸って最終的には少女の上だけが豪雨となり、酷く叱られた。出会って間もない頃には、柔らかそう、暖かそう、と抱き付いてきた。それはいいのだが、ふわふわもこもこの外見とは相反して意外と冷たい――雲だから仕方ないのだが――体に驚いて飛び跳ねて、どうにかしろ、と理文句を言われた事もあった。全て、たった一人の主従を誓った相棒の少女の言だ。
瞼をあげる。すっかり見慣れた幻想郷の風景に彼は知らず目を細める。そのまま少しまどろんで、
「姐さん!」
聴きなれた、今しがたまで思い浮かべていた少女の声が聴こえた。彼が参道を見ると頭巾を被った少女が不思議な髪色をした長髪の女性に駆け寄っていく。
――あねうえさま!
そう、言っていたのは誰だったか。彼は言葉を発する事なく見つめる。
彼女たちの声は聞こえない。しかし、表情は笑顔だった。溌剌と笑う少女に、優しさを湛えて笑みを浮かべる女性。その二人は、姿かたちは変われども、昔も今も、変わっていなかった。ただ、あの女性と似た優しい表情を浮かべた青年がいない事が、あの日の続きではないという事を彼に教えた。
青年の名を今も覚えている。けれど顔はおぼろげに霞んでいて見えない。今よりもずっと幼い少女に手を引かれて女性を見ながら微笑んでいた。
――あねうえさま! ……さまが、里へでかけようと、ですから、あねうえさまも
女性は少し驚いてから青年を見る。青年は少し困ったような振りで、けれどどことなく楽しげであった。
――それは、楽しそう。でも私は遠慮しておきます
――あねうえさま、こられないのですか?
――えぇ、えぇ。残念ですけれど、今は少し
女性の視線の先に、寺の者でない人がいた。彼らの相手をするのだろう、事情はわかったようだが見るからに落胆の表情を浮かべる少女に、女性が腰を降ろして頭を撫でている。
――そうね、だからお土産を期待しましょうか
――姉上
諌める様な青年の声に女性は微笑んだ。その表情に青年も苦く笑うしかなかった。
少女は土産と聞いて、態度を一転して、わかりました、と得意げな顔になって意気込んでいた。
少女がふと、本堂の方を見た。そうして屋根の上にいる雲に気付く。笑顔が弾ける。
――うんざっ――
急に飛び跳ねたと思ったら、口に手を当てて止まった。近くに居る参拝者が不思議そうに少女を見ている。
やがて少女は女性と青年をチラリ、と見てからもう一度屋根の上を見る。青年と女性も雲を確認して、あぁ、といった表情で少女の頭を撫でる。参拝者が感嘆の声を漏らしていた。
――おぉ、今日も紫の雲がかかっているんだなぁ
女性と青年は少し困ったような顔をしていた。少女の表情は俯いてよく見えない。
雲は返事の代わりに小さな小さな雲を吐き出した。青年が少女の肩を叩いて彼の事を教えてやった。小さな声で土産を待っていると話しかけた。神通力の強い青年に届いた声はそのまま少女へと届けられる。少しだけ寂しげな顔をした少女が、少しだけ不器用に笑って、いきましょう、と青年を促す。二人して歩き出して、またちらり、と屋根の上へ視線を向けて、
――また、あとで
と口だけを動かした。雲はそれを確かに聞きとって、少女の背を見送る。
少女の帰りを待つ間、ゆっくりゆっくりと小さくなっていく。少女の後を追いかけてもいいが、小さな雲に纏わりつかれても里では邪魔になるだろう。頭巾で隠しているその髪の色だって、普段は人に見せられないのだから。
雲はやがて、人の頭程の大きさになって、こっそりと屋根の上で隠れる事にした。彼女が帰ってくる時分に、こっそり降りてこっそり会おうと思うのだった。彼女はきっと、彼にも土産を持ってきてくれるだろう。そうして彼の冷たさに馴染んだ彼女はそこでやっと安らいで、いつか一緒に里へ買い物に行こうねと夢物語を語らうのだ。
なにせ人と妖怪は、普段は一緒に過ごせないのだから。
「雲山!」
キン、といきなりの大声に耳鳴りがした。
「んもう、いくら呼んだって返事しないんだから」
いつの間にか目の前に居た少女が――随分と成長して――ブツブツと文句を言っている。彼がきょろきょろと辺りを見回すと「なに寝ぼけてるの?」と言われた。ごまかす様にぼふっ、と雲をはいた。
「む。雲山、ちょっと今暇でしょ。里まで出るの付き合ってよ」
買い物なの、と彼女は彼の背に乗りながら言った。彼は昔からあまり拒否権を持っていない。
「よし。そうと決まればさっさと行くわよ。ほら、ごーごー!」
なんだそれは、と言い返すと「行け」って意味よ、と少女は至極当たり前のように言った。仕方なし、と体を動かす。ふわり、と浮いて命蓮寺の参道の上を飛んだ。参拝客の子供が少し騒いで彼女たちの事を呼んだ。
「入道屋はおやすみだからね」
どっこいしょーと腹這いになって少女が寝転んだ。マフラーやら手袋やらの繊維が彼の体を擽り、思わず身じろぐと少しだけ文句を言われた。
「んー……あったか」
寝るなよ、と彼は言ってみたが眠たげな彼女に効果があるかはわからなかった。ずっと昔、干している蒲団に寄り添ってそのまま布団事一緒に倒れているのを見た事があったからだ。
「……ねぇ、雲山」
彼女は呟く。
「雲山はさぁ、里への買い物、好きじゃない?」
特に買う物も、見たい物もないが付き合うのは嫌いではない。そう素直に返す。
「そっか……そっか。うんよかった」
彼女が背で起き上がっている気配がした。藤色の髪が風に靡いていた。
「じゃあ一緒に甘味食べましょ。みんなには内緒だからね」
背を叩かれて、返事をした。彼自身への土産物の甘味をこっそり食べて叱られていた少女は、今も食のあれやこれで小言を言われる事があるようだった。主に、酒の事だが。
「雲山」
不意に名前を呼ばれた。
「んー? んー……なんでもない。ただ、なんとなく呼んでみたかっただけ」
うんざん、とあの頃とは違う声音で、けれど同じ思いで。
里の入口へと降りる。
少女の体にまとって、賑やかな通りを二人は一緒に見て回った。
土産を持つのは彼の役割となっていた。
やぁ入道屋たちじゃないか。今日も何かやっていくのかい?
雲山はこうして今も昔も寡黙に見守り続けてきたんだろうなあ