幻想郷に海がないと聞いて、一番落胆したのはもしかしたら彼女ではなく私の方かもしれなかった。
幻想郷に広がる空は澄みわたっていて、なのに地平線の先がどうなっているのかはわからない。
あの先には何があるんだろう。昔、そう幻想郷へ来る前までなら、そこには見えないけれど確かに海がある筈だった。
「海、見たいなぁ」
昔この身に感じた潮風を思い出してなんとなく呟く。それは近くにいた雲山の耳にも届いたらしく、彼はぬっと顔を突き出して「幻想郷に海はない」という。
わかってるわよ、と言い返すとじっと睨まれて、そしてまた「幻想郷に海はない」としつこく言われた。
多分、地上に出てきてから一度だけあっちこっちの偵察――という名の海探し――に連れ回した事をまだ根に持っているからだろう。
「純粋に海が見たいだけよ。晴れた日に……湖じゃなくってさ」
雲山がため息をついた。海も湖も変わらないだろうに、と文句が聞こえて少しムッとなる。そりゃ淡海だっていうけれど、海と湖じゃ全然違うじゃないか、と思う。
「なによぅ。湖は海と違ってしょっぱくないし、波はあまりない……と思う、し……それに、ええと」
しまった。言うほど詳しくないから違いがあまりわからない。
「……しょっぱくないし」
雲山の視線が痛い。多くを語らない大きな瞳はとても強くて、全て見透かされているような気分になる。
「あぁ、もうわかりました。とっとと帰りましょ」
そもそも買い出しの途中だったのだ。ちょっと寄り道をして、その帰り道、よく懐いてくれる子供から湖で釣ったという魚を少し貰って、どう調理しようか考えていたところだった。あまり遅くなるとみんなが心配する。子供じゃないのだから、とは思うのだけど。
「……ねぇ雲山。雲って海から生まれるんだって。信じられる? 海はしょっぱいのに、雨はしょっぱくないのよ?」
寄り道の最中に古道具屋で見かけた本。
不思議な本だった。ツルツルした堅い紙があの懐かしい青い海と白い雲をそのまま写していて、細かい字で水面の水蒸気がどうのこうの、と書いてあった。マジマジと見つめていると眼鏡をかけた店主が『そんな珍しいかな?』なんていってきた。
――海をこうして、また見られるとは思わなくて
私がそう答えると彼は笑いながら、最近流れ着いてきたんだ、と教えてくれた。
「雲山は知ってた?」
彼は少し困ったように「知らん」と顔を背けてしまった。何度かこの紫色の相棒を舐めたりかじったりした事はあったけれど、味もなにもしなかったな、なんて思い出す。そもそも雲山は入道雲のような大きい雲っぽいけど偽物だ。雲山自体は雨を降らせるなんて事はできない、偽物の雲なのだから。
「やっぱり、ちょっと欲しかったかも」
あの綺麗な本だ。安くしておくよ、なんて眼鏡の店主は言っていたけれど、あんな綺麗な物を一人占めするなんてできないだろう。それは皆の、彼女の目に触れて、やがて彼女に昔を思い出させてしまうような気がして、だからなんとなく買いづらかった。
すぐ近くで雲山の咳払いが聞こえた。ジロリ、と睨まれて帰る足を速める。思わず胸を圧迫する空気を吐き出した。
「あーあ、今までそんな気にならなかったのに」
海の写真を見ただけで波の音まで聞こえた気がするから末期だ。どうしてこんなに海が恋しくなったのだろう? もしかしたらあの本にそういう気持ちにさせる魔法でもついていたんじゃないかって思うぐらい。
「海、見たいなぁ」
私の呟きは海の色に似た空に溶ける。雨の代わりにコツンと軽い拳骨が降ってきた。
*
勝手口から家の中に入ると、村紗の背中が見えた。その瞬間、まるで何かに誘われるように彼女の後ろに海が見えた。キラキラ輝く水面と白い雲を泳がせた青い空を背景に、少女が海を臨んでいる。とても綺麗なのになぜかちぐはぐとした違和感を覚えるのはなぜだろう。
「んお、おーおかえり一輪。随分ゆっくりだったね」
「……ただいま。うん、ちょっとね」
村紗の声に呆気なく白昼夢が弾けた。
私を一瞬だけ見た村紗は「ちょっと待ってね」と空のコップに水差し――中には冷えた麦茶が入っていた――を傾けて麦茶を注いでいる。
「雲山は?」
「外で、泳いでる」
そっか、と言いながら村紗がコップをもう一つ戸棚からとりだして同じように注いだ。それをハイ、と私に向けるものだから、慌てて荷物を台の上に乗っけて冷えたそれを受け取る。
「早く冷蔵庫にしまわないとね」
「うん?」
「魚。匂いがする」
あぁ、と冷たい麦茶を一口飲んだ。
「里の子にね、貰ったの」
「ふぅん」
大して興味なさそうに、村紗は再び水差しを傾けて麦茶を注いでいた。傾いたコップから流れる水に、白い喉がコクン、と動く。
「……魚、魚ね。星が喜びそう」
「星はなんだって喜ぶわよ」
そういうと村紗は違いない、と空になったコップを水で洗い始めた。排水口に流れていく水の流れをじっと見る。この水はどこにいくのだろう。あの吹きだまりの地底を通って、もしかして。
「一輪?」
名前を呼ばれてハッとなる。不思議そうな顔に覗きこまれていて、なんでもない、と視線から逃げるようにコップの中身を煽る。
「どうしたの一輪、買い物の途中でなんかあった?」
「あ、あー……まぁ、うん。別にそんなたいしたことじゃないんだけどさ」
逸り始めた心臓を押さえながらゆっくり息をはく。
「……まぁ、そのままぼーっとして、指切らないようにね」
「うん?」
「包丁とか。なんか、危なっかしい」
「あぁ、そういう……ありがと、そうします」
まだ不信感の残る目に「大丈夫だって」と手を振る。村紗はまだ何か言いたそうにしていたけどまだやる事があったのか、じゃあ、と背を向けて歩き出した。その背中を見送りながら、少し残っていた麦茶を口に含む。意外と喉が渇いていたらしく、麦茶が喉に張り付いた気がした。体内の水が足りないのかもしれない。それこそ全身を浸かるほどの水が。
陸にあがった船幽霊。彼女はまだ、海の味を覚えているのだろうか。
*
料理の支度中に思い出した事がある。
幻想郷に海がないと聞いて、なんの表情も浮かべなかった彼女の横顔だ。
『海、ないんだって』
『うん。なんとなくわかってた』
無表情だった彼女は私の顔を見てやっと薄い表情で笑った。
『……海ないんだねぇ』
『わかってるって。船幽霊なんだから』
『大丈夫なの? 船幽霊の癖に』
『別に、水があれば結構なんでもできるって、一輪なら知ってるでしょ』
ふむ、とお風呂場とか、庭の池で襲われた事を思い出した。口には出さないけれど。
『まぁ、いいんじゃないかなって思うよ』
『は、え?』
『うん。今は聖がいるし、一輪も、みんなだって、いるから平気』
何かを思い出す様に、青い空の先を見ながら大丈夫だよ、と彼女が笑った。だから「なにが」と言いかけて、やめた。
『そうだね、みんないるからね』
私は知っている。彼女が海を忘れられないという事を。だって海の事を話すとそんな顔をするんだもの。肉体はここにあるのに、魂は遠い海の底にあるんじゃないと思うほど、空っぽの瞳で寂しそうに笑っている。
遠くに聞こえたような潮騒の音は彼女を呼び戻そうとする音だ。海を思い出すと聞こえる懐かしい音。同じ音が海を思い出す彼女にも聞こえているのだろうか。
だから、それをかき消す様に名前を呼んだ。村紗が私を見る。少し困ったような顔をして手を差し伸べてくる。それに触れようとして。
パチ、と指先に熱い何かが触れた。
*
「やっぱり怪我してる。気をつけろって言ったのに」
村紗が私の指についた包帯を見ながらため息をついた。
「違うわよ。これは、お魚を揚げた時に油が跳ねて」
指は切ってない、と主張したつもりだったのだけど、村紗は「怪我には変わりない」と更に深いため息をつく。
いつものように眠るまでの間、二人で話すつもりだった。村紗が私の部屋に来ないから私が村紗の部屋へ訪ねたら開口一番にそう言われた。食事の席で何か言いたげにチラチラ私を見ていたのはこれのせいか。
「一輪って、変にごまかす癖あるよね」
「ごまかしてる? そうかな」
「そうだよ。指を切ったのも油が跳ねたのも、一緒だよ」
少なくとも油が跳ねたことに関しては偶然というか運が悪いというか、そういう要素もあると思うのだけど。まぁ不注意には変わりないか。
「どうしたの? 一輪」
「どうしたの、って?」
「なんか変。出かけてから。朝は普通だったのに」
思わずはぁ、と嘆息を漏らした。私はこの子の事をよく見ているつもりはあったけれど、彼女も私の事をこんなに見てくれているとは。
「そう、そうね。でも、特にはなにも」
嘘をついた。海を思い出している、だなんてなんとなく彼女には言いづらくて。別にタブーな話と言う訳ではないのに。これは私の身勝手な感傷でしかなかった。
「嘘でしょ」
けれど嘘はすぐにばれた。目の前に村紗の顔がずい、と近づく。
「一輪、嘘つくのヘタだよね」
「……村紗の前だからよ」
これは本心だった。というか、村紗が他人の嘘を見破りやすいのだと思う。この子の前ではあまり隠しごとができない。いつもすぐにバレてしまう。それともそんなに私はわかりやすいのだろうか。
「……大丈夫、だって」
綺麗な目には困った顔の自分が映っていて、そんな自分と目を合わせるのが辛くて少し視線をずらす。村紗は暫くじっと私を見つめた後、ふいと顔を反らして背中を向けてしまった。
「本でも、読もうかな」
そうして、あまり物の置いてない棚に珍しく置かれていた本――多分私がずっと昔に貸してあげた奴だ――を手にとって、少し猫背になりながら本を読み始めた。顔は見えないけれど、きっと無表情で本を読んでいるんだろうな、と思う。もしかしたら読んでいる振りなのかもしれない。
「村紗」
私の呼び掛けには答えてくれない。それでもこれがこの子の優しさだと私は知っている。
だから、遠慮なしにその体に寄りかかった。少し冷たいけれど、ちょっと熱いこの時期には、丁度いい。
「重い」
「我慢して」
短いやりとりでさえ耳に心地よかった。
*
小さい頃、それこそ私が人間だった頃。大人に海は怖いところだと教えてもらった。
先の見えない水平線。ザザン、と音を立てる波打ち際。汚い物も綺麗な物も打ち上げて、砂浜には生と死が綯い交ぜになっている。
飲みこまれるか、吐きだされるか。
連れていかれるか、残されるか。
私は吐きだされてしまった。彼女は飲みこまれてしまった。
だから彼女と私は決定的にどこか違う。透き通る水の膜に隔たれて、とても近くにいるように見えて、でも実際は厚く暗い色の水に阻まれてしまっている。手を伸ばして掴もうとしても水だけがザブリと零れて、何も掴めない。
それでも多分、その隔たりのお陰で私と彼女は出会えて、今も寄り添えているんだろう、と思えるようになったのは彼女と気持ちを共有して、彼女と共に在りたいと願った時からだった。
そうだ、きっとそうでもなければ私と彼女は出会えてすらいなかっただろう。
海は怖い所だよ、とある少女は大人と同じように、けれど大切なものを語るように言う。
『いちりん』
海の中から声が聞こえる。ずっとずっと寂しい声で呼ばれている。早く底に行きたいのにそこに行くにはどうしても厚くて冷たい壁がある。それを空気が必要な私がどうこうするのは到底できない話で、水嵩だけが増していく。
それなのに海から出来た雲は雨を落として、山に降り注いで、河を下って、やがてそこにかえっていく。なんて羨ましい。私も雲から落ちる雨のように溶けてしまえばきっとそこに辿りつけるのに、それができない。
海に棲む船幽霊が陸にあがっているだなんてちぐはぐでおかしいのだ。だから不安が尽きない。いつかフッと彼女がいなくなってしまうんじゃないかって。どろりと溶けて、吸い込まれて、河を下ってあの海に、暗くて冷たくて飲みこんだものを大事に大切に囲っているようなあの海に、私を残して、底へ。
(いかないで)
深い底に、私はいけないのだから。
*
「……寝てた」
「うん、寝てたね」
目の前に村紗の顔があった。ぼんやり瞳を見つめていると少し呆れたような顔で「大丈夫?」と笑われた。後頭部が何かに乗っている感触がする。そこで漸くあぐらをかいた彼女の足に頭を乗せているのだと気付いた。
「疲れてるの?」
「んー……わかんない」
村紗の目を見ながら、いつの間にか頬に触れていた――何故かいつもより温かった―――手に軽く頬ずりをした。起きなくちゃ、と思うのだけど体がうまく動いてくれない。
「いいよ、暫くこうしてても」
冷たい指先が目尻に触れて、離れる。その動作は私が彼女の涙を拭う時のそれと似ていた。
「村紗ぁ」
「んー? なぁに一輪」
「うー……あー……海が見たいなぁとか思わない?」
胸の中のモヤモヤに負けて、せり上がってくる想いを吐き出してしまった。綺麗な物を見たのに、村紗と触れているのに、どうしてこんな不安になるんだろう。
「なに、どうしたの急に」
「海が恋しいなぁとか」
「ん? べつに」
村紗の顔が上へあがる。視線の先には天井があった。
「うーん……一輪は、空が恋しいの?」
「へ? え、なんで?」
「だってあの小娘に活動場所を大空って書かれてた」
「こむ……ってあぁあの子か」
里で何度か見た事がある。最近私達の事を書いた縁起を出していた。
「べつに、あれは雲山と一緒にいたからで。まぁ確かに好きだけど、常にいるって訳じゃ」
「私のもさぁ、水のある場所書かれただけだったし。だったらお望み通り里の井戸とかから飛び出してやろうかなぁとか思ったよ。っていうか聖にアレコレばれたのもさ、元をただせばあれのせいだよねぇ……ホント人間のくせにまぁ聖にあんな口きいちゃって」
「ちょっと物騒な事考えるのはやめなさいよ」
ブツブツと文句を吐き出し始めた村紗の顎を軽く叩いた。確かにあの座談会なるもののせいで、私達の悪行が姐さんにばれてしまったのだけど、そもそもあれは私達がいけないのであって、身から出た錆と言うか。
「あ、でもあれのせいか里の魚屋がなんか怯えてるっぽくてさ。私がいくといつもお魚おまけしてくれんだよね。うひひ、そこは儲けもんかな」
そういって村紗は楽しそうに笑った。
人間から恐れられ憎まれて迫害された私たちは人からの悪意に慣れっこだった。
「村紗」
「まぁいいや。私も船幽霊ですし、海が恋しいと思う事はありますよ。そりゃあね。でも、ねぇ一輪、幻想郷に海はないんだよ」
「……知ってる」
「うん。だからさ、私はもう恋しいとか言ってらんないの」
息がつまる。ごめん、と言いかけて頬を撫でていた手のひらに口を塞がれた。人差し指が一瞬だけ私の鼻を塞ぐ。
そうだ、私はこの世界に海がないのを知っている。確かめたじゃないか。雲山に乗って、どこにも海がないという事を。村紗が帰る場所はこの陸の上にしかないという事を。
「でもどうしたの急に」
「んむ……ちょっと写真を見たの。海の写真。多分外のどこかの海。空と一緒に写ってて」
「海の?」
「海の」
ふぅん、と村紗の目が遠くを見た。遠い日の海でも思い出しているんだろうか。また潮騒の音が聞こえて静かに心がざわつき始める。やっぱり言わなければよかった。彼女に海を思い出させて、帰りたいなんて言われたら。
「……それでなんか懐かしくなっちゃって」
「一輪さ、海好きだよね」
「は? え?」
急に何を、と思う間もなく村紗がクッと小さく笑った。
「あーずっと昔さ、一輪、雲山に乗って海を見に空の上まで昇っていったよね。それで気絶して帰って来たの。バカだなぁって思ったよ」
「え、なん……あっ、あれは、っていうかなんでアンタがそんな事覚えてるのよ」
確かにそんな事があった。お山の中にあるお寺で地平線の先を見ていたら、ふと思い立ったのだ。もっと上空に行けば山の中腹にあるお寺からだと見えない、あの海を見られるんじゃないか、と。
当時の村紗とはお世辞にも仲がいいとは言えなくて、というかてっきり私には興味ないと思っていたのに。
あの日の事を思い出す。朦朧とした意識の先にいたのは心配の顔をしている姐さんと、相変わらず私に、というか人間に対しては無表情な村紗だった。クスクスと笑っている今の村紗とは随分と違う、無機質な顔で私を見つめていた。
「だっていきなり『海が見たい!』って寺の上にアッと思う間もなく飛んでいってさ。で、慌てて雲山が降りてきたと思ったら一輪はぐったりしてるし、雲山はいつも図体でかい癖に小さくなってオロオロしちゃって。私あの時ほど『人間の癖にバカだなぁ』って思った事なかったよ」
「もう、いいじゃない。あの頃はまだ若かったの!」
あの時は雲山が一気に昇っていったのも悪い。ゆっくりだったらあんな結果にはならなかったと思う。
にやにや笑いながら村紗がまた私の頬を撫でる。そのまま手のひらが顎を固定して、視線が固定されて、綺麗な青緑の目に囚われる。
「あの時は、海見えた?」
「……昇っていく途中に、一瞬ね」
一瞬だけ見えた水平線の彼方。きっとあれは海だった筈だ。
「そう。でもね、今はどんなにあがっても、一輪が気絶しなくても」
言葉が切れて、村紗の顔が近付く。海の匂い。懐かしい海の風景が見える。
「……村紗」
「いいよ、一輪。キスしてあげる」
海の味がするかもよ? なんて無責任な台詞を言われて、呼吸が止まった。
*
村紗のキスを受けながら、海辺にたつ。視界の端にどこかの島の影が見えて、その先では空と海が向き合って、近くではザザン、ザザンと波のぶつかる音がうるさく響いていた。
水に潜るというのは、なかなか勇気の必要なことだと思う。なにせ呼吸ができない。しかも水に慣れてない私の体は水中でまともに目も開けていられない。水を掻いて前に進むのも一苦労だった。生まれる前は母親の胎内の水に浸かっていたというのに。自分の体が退化したのか、それとも私は、母親から自立したという事なんだろうか。
(棄てられたのかも)
波打つ潮騒の子守唄につられて、ゆらゆらと漂って浅瀬で潜ってみても、もっと深くまで潜る勇気がないからすごすごと浜辺へと帰るしかなかった。水に濡れた体が足取りを重くさせて、砂が足に絡みついて、綺麗な癖に鋭利な貝殻がふやけた私の体を傷つける。私を拒絶した癖に、海は変わらずに私をじっと見つめて優しい子守唄を歌っている。
遠くで子供が溺れたという声が聞こえた。真っ先にある少女を思い浮かべる。漂ってそのまま海の中へ誘われるように、沈んでいく。ソレについていけば龍宮城のあるような深い所まで潜れるんじゃないだろうか。ただあの浦嶋子のように、自分のいた陸の上に帰る事はできないのだろうけど。
下唇を噛まれて不意に現実に戻された。
村紗の冷たくて少し硬い唇がキスを続けているうちに少しずつ柔らかくなっていた。どちらからともなく舌を突き出して絡みついて、ぬるい唾液を飲む。少女の後を追うように深く潜ろうとして、けれどその前にパッと村紗の顔が離れる。
「苦しい」
「ふっ……もう息もしなくても平気な癖に?」
「いやまぁそうなんだけど、結構腰にくるねこの体勢」
起き上がって村紗の首に腕を回す。腰を支えられながら寄りかかって名前を小さく囁けば村紗は何も言わずに顔を寄せてくれた。
啄ばまれるようなキスでは足りなくて村紗の口を割って咥内を探る。海の味はどこにもしない。
深く繋がって、呼吸の仕方さえ曖昧になる。海の中で鼻を吸ったら痛くて泣いた事を思い出した。だから泣いている今だって呼吸の仕方をまずったのかもしれない。苦しくて辛くて、早く解放されたい。なのに口は塞がっていて想いすら吐きだせない。
もっと深く、と思った瞬間にグッと体を押されて、唇が離れる。そこでようやく呼吸ができた。
「溺れちゃうよ、一輪」
「は……海の中じゃあるまいし……」
「うん。でもね一輪。海の中で死んじゃうのは、あまりお勧めできないからさ」
「別に死にたいわけじゃないもの」
ただ海を懐かしくなっただけ。これも変な言い訳に聞こえるんだろうか。
「どうだろ、海の味はしたかな」
「そんなの昔から知ってるわよ。村紗の口の中がしょっぱいだなんて思った事ないんだから」
そう、と困ったような顔をした村紗が私の頬を舐める。そのまま口付をされて、そのしょっぱさに顔をしかめた。舐められて唇を啄ばまれて、繰り返されて、海の味を微かに思い出す。
「海は怖い所だからね。あまり、そう不用心に近づいちゃダメだよ。まぁ今はどこにもないんだけどさ」
当たり前だ、私が確認したのだから。この船幽霊だって、姐さんに救われて海から切り離されて、陸の上にいるしかなくなってしまったのだ。何の心配はいらないはずなのに。
キラキラ輝く海は幻想郷のどこにもない。此処にあるのは少女を捕えて離さない暗い冷たい海の思い出だけだった。
「私はしょっぱくないけど、こんな感じでさ、私が一輪の好きな海の代わりになってあげるから。ねぇ一輪、そこらへんの水辺で溺れちゃダメだからね」
小さな子供を安心させるように、頭を撫でられて、手をぎゅっと握られた。指先に力を込めて握り返す。霞んだ思考のどこかでこれでもう私も彼女もどこにもいけないな、なんて思った。
指先の熱が少し疼いて仕方がなかったけれど。
*
「海は怖い所って誰かにもアンタにも言われたけど」
村紗の背中に寄りかかって、なんとなく会話がしたくなって口を開いて出てきたのがこれだなんて、ちょっと未練がましいかな、って自分でも思う。
「でも私、そんな怖いイメージないんだ」
「ふぅん……ところで一輪、泳げるの?」
「どうかな。あんまり得意じゃないかも」
キラキラ輝く海面とか、聞こえる潮騒の音とか、多分そういうのが好きなんじゃないかなぁと思う。
「海は怖い所だよ。昔の私にとっては神様みたいな、だけどなんていうのかな、隣人みたいな感じだったけど」
怒らせたら怖いんだ、なんていう。
「村紗は、今……は、海のこと」
「複雑。わかんないや」
そうだろうな、と思う。そもそも私と村紗じゃ認識の幅が広すぎるのだ。海面しか見られない私と、海底を見ている彼女とでは。
「でも一輪が海を見たいっていうなら、一緒に並んで見たいかも」
「……でももう無理ね」
「うん、無理だ。残念だけど」
少しだけホッとした。海がなければ、村紗は底にいけないから。
「砂浜に立ってさ、変わる空の色を見て、ずぅっと潮の満ち引きの音を聴くの」
想像する。
砂浜で二人、手を繋いで水平線の先を見つめている。同じ水平線の先を見ている筈なのに、私は海を見ていて、彼女は空を見ているんじゃないかなって思う。
「素敵ね。でもそのまま私を海に引きずり込まないでよ」
「あっは、それはそれでいいかもしれないけど」
よいしょ、と村紗が動いて、少し強く引っ張られた。後ろに倒されてそのまま、またあぐらをかいた村紗の足に頭が乗っかる。
「まぁでも今は帰る家もあるしね。それに一輪が手を繋いでくれてればどこにも行かないからさ」
だからしっかり繋いでてよ、って笑う。差し出された手を掴むと満足そうに頷いた。
「ねぇ村紗」
なぁに、と首を傾げる村紗の綺麗な瞳を見つめて、なんでもない、と目を閉じた。
海を臨みながら村紗を繋ぎとめている気になっているけれど、実際に繋ぎとめられているのは私の方だ。彼女が陸にいるから私は海に行かなくて済むのだから。それは船幽霊にとってはあまり好ましくないことなのかもしれないけれど、彼女がまた一人飲みこまれて私を置いていってしまうぐらいなら私を理由にここで留まっていてほしい、なんて事も思う。
だって私には姐さんみたいに村紗の手を掴んで引っ張り上げるなんてできないのだから、無理やりにでも村紗を陸の上に縛り付けなくちゃいけないのだ。
村紗の冷たい手のひらが少しずつ温くなっていく。強く握ると握り返された。
そういえばあの時一瞬見えた海は空と混じり合っていたのを思い出した。お互いに見ている物は違くても、それが同じ色に溶け合っているなら、結局は同じ物を見ている事にならないかなぁ、なんてぼんやり思う。
「……外の世界の海はきっと変わらないんだろうね」
「うん。きっと変わってないよ。だってずぅっと変わっていなかったもの」
今度、まだあの本があの店にあったなら買おうと決めた。青い海と水色の空、その先に続く水平線を写した本。それを二人で見てどうでもいいような感想を並べて、想いを馳せて重ねて、無理やり留めて繋ぎとめてもらおう。
「村紗ぁ」
「んー?」
遠くで潮騒の音が聴こえたような気がした。やがてそれも彼女の呼ぶ声に、かき消される。
幻想郷に広がる空は澄みわたっていて、なのに地平線の先がどうなっているのかはわからない。
あの先には何があるんだろう。昔、そう幻想郷へ来る前までなら、そこには見えないけれど確かに海がある筈だった。
「海、見たいなぁ」
昔この身に感じた潮風を思い出してなんとなく呟く。それは近くにいた雲山の耳にも届いたらしく、彼はぬっと顔を突き出して「幻想郷に海はない」という。
わかってるわよ、と言い返すとじっと睨まれて、そしてまた「幻想郷に海はない」としつこく言われた。
多分、地上に出てきてから一度だけあっちこっちの偵察――という名の海探し――に連れ回した事をまだ根に持っているからだろう。
「純粋に海が見たいだけよ。晴れた日に……湖じゃなくってさ」
雲山がため息をついた。海も湖も変わらないだろうに、と文句が聞こえて少しムッとなる。そりゃ淡海だっていうけれど、海と湖じゃ全然違うじゃないか、と思う。
「なによぅ。湖は海と違ってしょっぱくないし、波はあまりない……と思う、し……それに、ええと」
しまった。言うほど詳しくないから違いがあまりわからない。
「……しょっぱくないし」
雲山の視線が痛い。多くを語らない大きな瞳はとても強くて、全て見透かされているような気分になる。
「あぁ、もうわかりました。とっとと帰りましょ」
そもそも買い出しの途中だったのだ。ちょっと寄り道をして、その帰り道、よく懐いてくれる子供から湖で釣ったという魚を少し貰って、どう調理しようか考えていたところだった。あまり遅くなるとみんなが心配する。子供じゃないのだから、とは思うのだけど。
「……ねぇ雲山。雲って海から生まれるんだって。信じられる? 海はしょっぱいのに、雨はしょっぱくないのよ?」
寄り道の最中に古道具屋で見かけた本。
不思議な本だった。ツルツルした堅い紙があの懐かしい青い海と白い雲をそのまま写していて、細かい字で水面の水蒸気がどうのこうの、と書いてあった。マジマジと見つめていると眼鏡をかけた店主が『そんな珍しいかな?』なんていってきた。
――海をこうして、また見られるとは思わなくて
私がそう答えると彼は笑いながら、最近流れ着いてきたんだ、と教えてくれた。
「雲山は知ってた?」
彼は少し困ったように「知らん」と顔を背けてしまった。何度かこの紫色の相棒を舐めたりかじったりした事はあったけれど、味もなにもしなかったな、なんて思い出す。そもそも雲山は入道雲のような大きい雲っぽいけど偽物だ。雲山自体は雨を降らせるなんて事はできない、偽物の雲なのだから。
「やっぱり、ちょっと欲しかったかも」
あの綺麗な本だ。安くしておくよ、なんて眼鏡の店主は言っていたけれど、あんな綺麗な物を一人占めするなんてできないだろう。それは皆の、彼女の目に触れて、やがて彼女に昔を思い出させてしまうような気がして、だからなんとなく買いづらかった。
すぐ近くで雲山の咳払いが聞こえた。ジロリ、と睨まれて帰る足を速める。思わず胸を圧迫する空気を吐き出した。
「あーあ、今までそんな気にならなかったのに」
海の写真を見ただけで波の音まで聞こえた気がするから末期だ。どうしてこんなに海が恋しくなったのだろう? もしかしたらあの本にそういう気持ちにさせる魔法でもついていたんじゃないかって思うぐらい。
「海、見たいなぁ」
私の呟きは海の色に似た空に溶ける。雨の代わりにコツンと軽い拳骨が降ってきた。
*
勝手口から家の中に入ると、村紗の背中が見えた。その瞬間、まるで何かに誘われるように彼女の後ろに海が見えた。キラキラ輝く水面と白い雲を泳がせた青い空を背景に、少女が海を臨んでいる。とても綺麗なのになぜかちぐはぐとした違和感を覚えるのはなぜだろう。
「んお、おーおかえり一輪。随分ゆっくりだったね」
「……ただいま。うん、ちょっとね」
村紗の声に呆気なく白昼夢が弾けた。
私を一瞬だけ見た村紗は「ちょっと待ってね」と空のコップに水差し――中には冷えた麦茶が入っていた――を傾けて麦茶を注いでいる。
「雲山は?」
「外で、泳いでる」
そっか、と言いながら村紗がコップをもう一つ戸棚からとりだして同じように注いだ。それをハイ、と私に向けるものだから、慌てて荷物を台の上に乗っけて冷えたそれを受け取る。
「早く冷蔵庫にしまわないとね」
「うん?」
「魚。匂いがする」
あぁ、と冷たい麦茶を一口飲んだ。
「里の子にね、貰ったの」
「ふぅん」
大して興味なさそうに、村紗は再び水差しを傾けて麦茶を注いでいた。傾いたコップから流れる水に、白い喉がコクン、と動く。
「……魚、魚ね。星が喜びそう」
「星はなんだって喜ぶわよ」
そういうと村紗は違いない、と空になったコップを水で洗い始めた。排水口に流れていく水の流れをじっと見る。この水はどこにいくのだろう。あの吹きだまりの地底を通って、もしかして。
「一輪?」
名前を呼ばれてハッとなる。不思議そうな顔に覗きこまれていて、なんでもない、と視線から逃げるようにコップの中身を煽る。
「どうしたの一輪、買い物の途中でなんかあった?」
「あ、あー……まぁ、うん。別にそんなたいしたことじゃないんだけどさ」
逸り始めた心臓を押さえながらゆっくり息をはく。
「……まぁ、そのままぼーっとして、指切らないようにね」
「うん?」
「包丁とか。なんか、危なっかしい」
「あぁ、そういう……ありがと、そうします」
まだ不信感の残る目に「大丈夫だって」と手を振る。村紗はまだ何か言いたそうにしていたけどまだやる事があったのか、じゃあ、と背を向けて歩き出した。その背中を見送りながら、少し残っていた麦茶を口に含む。意外と喉が渇いていたらしく、麦茶が喉に張り付いた気がした。体内の水が足りないのかもしれない。それこそ全身を浸かるほどの水が。
陸にあがった船幽霊。彼女はまだ、海の味を覚えているのだろうか。
*
料理の支度中に思い出した事がある。
幻想郷に海がないと聞いて、なんの表情も浮かべなかった彼女の横顔だ。
『海、ないんだって』
『うん。なんとなくわかってた』
無表情だった彼女は私の顔を見てやっと薄い表情で笑った。
『……海ないんだねぇ』
『わかってるって。船幽霊なんだから』
『大丈夫なの? 船幽霊の癖に』
『別に、水があれば結構なんでもできるって、一輪なら知ってるでしょ』
ふむ、とお風呂場とか、庭の池で襲われた事を思い出した。口には出さないけれど。
『まぁ、いいんじゃないかなって思うよ』
『は、え?』
『うん。今は聖がいるし、一輪も、みんなだって、いるから平気』
何かを思い出す様に、青い空の先を見ながら大丈夫だよ、と彼女が笑った。だから「なにが」と言いかけて、やめた。
『そうだね、みんないるからね』
私は知っている。彼女が海を忘れられないという事を。だって海の事を話すとそんな顔をするんだもの。肉体はここにあるのに、魂は遠い海の底にあるんじゃないと思うほど、空っぽの瞳で寂しそうに笑っている。
遠くに聞こえたような潮騒の音は彼女を呼び戻そうとする音だ。海を思い出すと聞こえる懐かしい音。同じ音が海を思い出す彼女にも聞こえているのだろうか。
だから、それをかき消す様に名前を呼んだ。村紗が私を見る。少し困ったような顔をして手を差し伸べてくる。それに触れようとして。
パチ、と指先に熱い何かが触れた。
*
「やっぱり怪我してる。気をつけろって言ったのに」
村紗が私の指についた包帯を見ながらため息をついた。
「違うわよ。これは、お魚を揚げた時に油が跳ねて」
指は切ってない、と主張したつもりだったのだけど、村紗は「怪我には変わりない」と更に深いため息をつく。
いつものように眠るまでの間、二人で話すつもりだった。村紗が私の部屋に来ないから私が村紗の部屋へ訪ねたら開口一番にそう言われた。食事の席で何か言いたげにチラチラ私を見ていたのはこれのせいか。
「一輪って、変にごまかす癖あるよね」
「ごまかしてる? そうかな」
「そうだよ。指を切ったのも油が跳ねたのも、一緒だよ」
少なくとも油が跳ねたことに関しては偶然というか運が悪いというか、そういう要素もあると思うのだけど。まぁ不注意には変わりないか。
「どうしたの? 一輪」
「どうしたの、って?」
「なんか変。出かけてから。朝は普通だったのに」
思わずはぁ、と嘆息を漏らした。私はこの子の事をよく見ているつもりはあったけれど、彼女も私の事をこんなに見てくれているとは。
「そう、そうね。でも、特にはなにも」
嘘をついた。海を思い出している、だなんてなんとなく彼女には言いづらくて。別にタブーな話と言う訳ではないのに。これは私の身勝手な感傷でしかなかった。
「嘘でしょ」
けれど嘘はすぐにばれた。目の前に村紗の顔がずい、と近づく。
「一輪、嘘つくのヘタだよね」
「……村紗の前だからよ」
これは本心だった。というか、村紗が他人の嘘を見破りやすいのだと思う。この子の前ではあまり隠しごとができない。いつもすぐにバレてしまう。それともそんなに私はわかりやすいのだろうか。
「……大丈夫、だって」
綺麗な目には困った顔の自分が映っていて、そんな自分と目を合わせるのが辛くて少し視線をずらす。村紗は暫くじっと私を見つめた後、ふいと顔を反らして背中を向けてしまった。
「本でも、読もうかな」
そうして、あまり物の置いてない棚に珍しく置かれていた本――多分私がずっと昔に貸してあげた奴だ――を手にとって、少し猫背になりながら本を読み始めた。顔は見えないけれど、きっと無表情で本を読んでいるんだろうな、と思う。もしかしたら読んでいる振りなのかもしれない。
「村紗」
私の呼び掛けには答えてくれない。それでもこれがこの子の優しさだと私は知っている。
だから、遠慮なしにその体に寄りかかった。少し冷たいけれど、ちょっと熱いこの時期には、丁度いい。
「重い」
「我慢して」
短いやりとりでさえ耳に心地よかった。
*
小さい頃、それこそ私が人間だった頃。大人に海は怖いところだと教えてもらった。
先の見えない水平線。ザザン、と音を立てる波打ち際。汚い物も綺麗な物も打ち上げて、砂浜には生と死が綯い交ぜになっている。
飲みこまれるか、吐きだされるか。
連れていかれるか、残されるか。
私は吐きだされてしまった。彼女は飲みこまれてしまった。
だから彼女と私は決定的にどこか違う。透き通る水の膜に隔たれて、とても近くにいるように見えて、でも実際は厚く暗い色の水に阻まれてしまっている。手を伸ばして掴もうとしても水だけがザブリと零れて、何も掴めない。
それでも多分、その隔たりのお陰で私と彼女は出会えて、今も寄り添えているんだろう、と思えるようになったのは彼女と気持ちを共有して、彼女と共に在りたいと願った時からだった。
そうだ、きっとそうでもなければ私と彼女は出会えてすらいなかっただろう。
海は怖い所だよ、とある少女は大人と同じように、けれど大切なものを語るように言う。
『いちりん』
海の中から声が聞こえる。ずっとずっと寂しい声で呼ばれている。早く底に行きたいのにそこに行くにはどうしても厚くて冷たい壁がある。それを空気が必要な私がどうこうするのは到底できない話で、水嵩だけが増していく。
それなのに海から出来た雲は雨を落として、山に降り注いで、河を下って、やがてそこにかえっていく。なんて羨ましい。私も雲から落ちる雨のように溶けてしまえばきっとそこに辿りつけるのに、それができない。
海に棲む船幽霊が陸にあがっているだなんてちぐはぐでおかしいのだ。だから不安が尽きない。いつかフッと彼女がいなくなってしまうんじゃないかって。どろりと溶けて、吸い込まれて、河を下ってあの海に、暗くて冷たくて飲みこんだものを大事に大切に囲っているようなあの海に、私を残して、底へ。
(いかないで)
深い底に、私はいけないのだから。
*
「……寝てた」
「うん、寝てたね」
目の前に村紗の顔があった。ぼんやり瞳を見つめていると少し呆れたような顔で「大丈夫?」と笑われた。後頭部が何かに乗っている感触がする。そこで漸くあぐらをかいた彼女の足に頭を乗せているのだと気付いた。
「疲れてるの?」
「んー……わかんない」
村紗の目を見ながら、いつの間にか頬に触れていた――何故かいつもより温かった―――手に軽く頬ずりをした。起きなくちゃ、と思うのだけど体がうまく動いてくれない。
「いいよ、暫くこうしてても」
冷たい指先が目尻に触れて、離れる。その動作は私が彼女の涙を拭う時のそれと似ていた。
「村紗ぁ」
「んー? なぁに一輪」
「うー……あー……海が見たいなぁとか思わない?」
胸の中のモヤモヤに負けて、せり上がってくる想いを吐き出してしまった。綺麗な物を見たのに、村紗と触れているのに、どうしてこんな不安になるんだろう。
「なに、どうしたの急に」
「海が恋しいなぁとか」
「ん? べつに」
村紗の顔が上へあがる。視線の先には天井があった。
「うーん……一輪は、空が恋しいの?」
「へ? え、なんで?」
「だってあの小娘に活動場所を大空って書かれてた」
「こむ……ってあぁあの子か」
里で何度か見た事がある。最近私達の事を書いた縁起を出していた。
「べつに、あれは雲山と一緒にいたからで。まぁ確かに好きだけど、常にいるって訳じゃ」
「私のもさぁ、水のある場所書かれただけだったし。だったらお望み通り里の井戸とかから飛び出してやろうかなぁとか思ったよ。っていうか聖にアレコレばれたのもさ、元をただせばあれのせいだよねぇ……ホント人間のくせにまぁ聖にあんな口きいちゃって」
「ちょっと物騒な事考えるのはやめなさいよ」
ブツブツと文句を吐き出し始めた村紗の顎を軽く叩いた。確かにあの座談会なるもののせいで、私達の悪行が姐さんにばれてしまったのだけど、そもそもあれは私達がいけないのであって、身から出た錆と言うか。
「あ、でもあれのせいか里の魚屋がなんか怯えてるっぽくてさ。私がいくといつもお魚おまけしてくれんだよね。うひひ、そこは儲けもんかな」
そういって村紗は楽しそうに笑った。
人間から恐れられ憎まれて迫害された私たちは人からの悪意に慣れっこだった。
「村紗」
「まぁいいや。私も船幽霊ですし、海が恋しいと思う事はありますよ。そりゃあね。でも、ねぇ一輪、幻想郷に海はないんだよ」
「……知ってる」
「うん。だからさ、私はもう恋しいとか言ってらんないの」
息がつまる。ごめん、と言いかけて頬を撫でていた手のひらに口を塞がれた。人差し指が一瞬だけ私の鼻を塞ぐ。
そうだ、私はこの世界に海がないのを知っている。確かめたじゃないか。雲山に乗って、どこにも海がないという事を。村紗が帰る場所はこの陸の上にしかないという事を。
「でもどうしたの急に」
「んむ……ちょっと写真を見たの。海の写真。多分外のどこかの海。空と一緒に写ってて」
「海の?」
「海の」
ふぅん、と村紗の目が遠くを見た。遠い日の海でも思い出しているんだろうか。また潮騒の音が聞こえて静かに心がざわつき始める。やっぱり言わなければよかった。彼女に海を思い出させて、帰りたいなんて言われたら。
「……それでなんか懐かしくなっちゃって」
「一輪さ、海好きだよね」
「は? え?」
急に何を、と思う間もなく村紗がクッと小さく笑った。
「あーずっと昔さ、一輪、雲山に乗って海を見に空の上まで昇っていったよね。それで気絶して帰って来たの。バカだなぁって思ったよ」
「え、なん……あっ、あれは、っていうかなんでアンタがそんな事覚えてるのよ」
確かにそんな事があった。お山の中にあるお寺で地平線の先を見ていたら、ふと思い立ったのだ。もっと上空に行けば山の中腹にあるお寺からだと見えない、あの海を見られるんじゃないか、と。
当時の村紗とはお世辞にも仲がいいとは言えなくて、というかてっきり私には興味ないと思っていたのに。
あの日の事を思い出す。朦朧とした意識の先にいたのは心配の顔をしている姐さんと、相変わらず私に、というか人間に対しては無表情な村紗だった。クスクスと笑っている今の村紗とは随分と違う、無機質な顔で私を見つめていた。
「だっていきなり『海が見たい!』って寺の上にアッと思う間もなく飛んでいってさ。で、慌てて雲山が降りてきたと思ったら一輪はぐったりしてるし、雲山はいつも図体でかい癖に小さくなってオロオロしちゃって。私あの時ほど『人間の癖にバカだなぁ』って思った事なかったよ」
「もう、いいじゃない。あの頃はまだ若かったの!」
あの時は雲山が一気に昇っていったのも悪い。ゆっくりだったらあんな結果にはならなかったと思う。
にやにや笑いながら村紗がまた私の頬を撫でる。そのまま手のひらが顎を固定して、視線が固定されて、綺麗な青緑の目に囚われる。
「あの時は、海見えた?」
「……昇っていく途中に、一瞬ね」
一瞬だけ見えた水平線の彼方。きっとあれは海だった筈だ。
「そう。でもね、今はどんなにあがっても、一輪が気絶しなくても」
言葉が切れて、村紗の顔が近付く。海の匂い。懐かしい海の風景が見える。
「……村紗」
「いいよ、一輪。キスしてあげる」
海の味がするかもよ? なんて無責任な台詞を言われて、呼吸が止まった。
*
村紗のキスを受けながら、海辺にたつ。視界の端にどこかの島の影が見えて、その先では空と海が向き合って、近くではザザン、ザザンと波のぶつかる音がうるさく響いていた。
水に潜るというのは、なかなか勇気の必要なことだと思う。なにせ呼吸ができない。しかも水に慣れてない私の体は水中でまともに目も開けていられない。水を掻いて前に進むのも一苦労だった。生まれる前は母親の胎内の水に浸かっていたというのに。自分の体が退化したのか、それとも私は、母親から自立したという事なんだろうか。
(棄てられたのかも)
波打つ潮騒の子守唄につられて、ゆらゆらと漂って浅瀬で潜ってみても、もっと深くまで潜る勇気がないからすごすごと浜辺へと帰るしかなかった。水に濡れた体が足取りを重くさせて、砂が足に絡みついて、綺麗な癖に鋭利な貝殻がふやけた私の体を傷つける。私を拒絶した癖に、海は変わらずに私をじっと見つめて優しい子守唄を歌っている。
遠くで子供が溺れたという声が聞こえた。真っ先にある少女を思い浮かべる。漂ってそのまま海の中へ誘われるように、沈んでいく。ソレについていけば龍宮城のあるような深い所まで潜れるんじゃないだろうか。ただあの浦嶋子のように、自分のいた陸の上に帰る事はできないのだろうけど。
下唇を噛まれて不意に現実に戻された。
村紗の冷たくて少し硬い唇がキスを続けているうちに少しずつ柔らかくなっていた。どちらからともなく舌を突き出して絡みついて、ぬるい唾液を飲む。少女の後を追うように深く潜ろうとして、けれどその前にパッと村紗の顔が離れる。
「苦しい」
「ふっ……もう息もしなくても平気な癖に?」
「いやまぁそうなんだけど、結構腰にくるねこの体勢」
起き上がって村紗の首に腕を回す。腰を支えられながら寄りかかって名前を小さく囁けば村紗は何も言わずに顔を寄せてくれた。
啄ばまれるようなキスでは足りなくて村紗の口を割って咥内を探る。海の味はどこにもしない。
深く繋がって、呼吸の仕方さえ曖昧になる。海の中で鼻を吸ったら痛くて泣いた事を思い出した。だから泣いている今だって呼吸の仕方をまずったのかもしれない。苦しくて辛くて、早く解放されたい。なのに口は塞がっていて想いすら吐きだせない。
もっと深く、と思った瞬間にグッと体を押されて、唇が離れる。そこでようやく呼吸ができた。
「溺れちゃうよ、一輪」
「は……海の中じゃあるまいし……」
「うん。でもね一輪。海の中で死んじゃうのは、あまりお勧めできないからさ」
「別に死にたいわけじゃないもの」
ただ海を懐かしくなっただけ。これも変な言い訳に聞こえるんだろうか。
「どうだろ、海の味はしたかな」
「そんなの昔から知ってるわよ。村紗の口の中がしょっぱいだなんて思った事ないんだから」
そう、と困ったような顔をした村紗が私の頬を舐める。そのまま口付をされて、そのしょっぱさに顔をしかめた。舐められて唇を啄ばまれて、繰り返されて、海の味を微かに思い出す。
「海は怖い所だからね。あまり、そう不用心に近づいちゃダメだよ。まぁ今はどこにもないんだけどさ」
当たり前だ、私が確認したのだから。この船幽霊だって、姐さんに救われて海から切り離されて、陸の上にいるしかなくなってしまったのだ。何の心配はいらないはずなのに。
キラキラ輝く海は幻想郷のどこにもない。此処にあるのは少女を捕えて離さない暗い冷たい海の思い出だけだった。
「私はしょっぱくないけど、こんな感じでさ、私が一輪の好きな海の代わりになってあげるから。ねぇ一輪、そこらへんの水辺で溺れちゃダメだからね」
小さな子供を安心させるように、頭を撫でられて、手をぎゅっと握られた。指先に力を込めて握り返す。霞んだ思考のどこかでこれでもう私も彼女もどこにもいけないな、なんて思った。
指先の熱が少し疼いて仕方がなかったけれど。
*
「海は怖い所って誰かにもアンタにも言われたけど」
村紗の背中に寄りかかって、なんとなく会話がしたくなって口を開いて出てきたのがこれだなんて、ちょっと未練がましいかな、って自分でも思う。
「でも私、そんな怖いイメージないんだ」
「ふぅん……ところで一輪、泳げるの?」
「どうかな。あんまり得意じゃないかも」
キラキラ輝く海面とか、聞こえる潮騒の音とか、多分そういうのが好きなんじゃないかなぁと思う。
「海は怖い所だよ。昔の私にとっては神様みたいな、だけどなんていうのかな、隣人みたいな感じだったけど」
怒らせたら怖いんだ、なんていう。
「村紗は、今……は、海のこと」
「複雑。わかんないや」
そうだろうな、と思う。そもそも私と村紗じゃ認識の幅が広すぎるのだ。海面しか見られない私と、海底を見ている彼女とでは。
「でも一輪が海を見たいっていうなら、一緒に並んで見たいかも」
「……でももう無理ね」
「うん、無理だ。残念だけど」
少しだけホッとした。海がなければ、村紗は底にいけないから。
「砂浜に立ってさ、変わる空の色を見て、ずぅっと潮の満ち引きの音を聴くの」
想像する。
砂浜で二人、手を繋いで水平線の先を見つめている。同じ水平線の先を見ている筈なのに、私は海を見ていて、彼女は空を見ているんじゃないかなって思う。
「素敵ね。でもそのまま私を海に引きずり込まないでよ」
「あっは、それはそれでいいかもしれないけど」
よいしょ、と村紗が動いて、少し強く引っ張られた。後ろに倒されてそのまま、またあぐらをかいた村紗の足に頭が乗っかる。
「まぁでも今は帰る家もあるしね。それに一輪が手を繋いでくれてればどこにも行かないからさ」
だからしっかり繋いでてよ、って笑う。差し出された手を掴むと満足そうに頷いた。
「ねぇ村紗」
なぁに、と首を傾げる村紗の綺麗な瞳を見つめて、なんでもない、と目を閉じた。
海を臨みながら村紗を繋ぎとめている気になっているけれど、実際に繋ぎとめられているのは私の方だ。彼女が陸にいるから私は海に行かなくて済むのだから。それは船幽霊にとってはあまり好ましくないことなのかもしれないけれど、彼女がまた一人飲みこまれて私を置いていってしまうぐらいなら私を理由にここで留まっていてほしい、なんて事も思う。
だって私には姐さんみたいに村紗の手を掴んで引っ張り上げるなんてできないのだから、無理やりにでも村紗を陸の上に縛り付けなくちゃいけないのだ。
村紗の冷たい手のひらが少しずつ温くなっていく。強く握ると握り返された。
そういえばあの時一瞬見えた海は空と混じり合っていたのを思い出した。お互いに見ている物は違くても、それが同じ色に溶け合っているなら、結局は同じ物を見ている事にならないかなぁ、なんてぼんやり思う。
「……外の世界の海はきっと変わらないんだろうね」
「うん。きっと変わってないよ。だってずぅっと変わっていなかったもの」
今度、まだあの本があの店にあったなら買おうと決めた。青い海と水色の空、その先に続く水平線を写した本。それを二人で見てどうでもいいような感想を並べて、想いを馳せて重ねて、無理やり留めて繋ぎとめてもらおう。
「村紗ぁ」
「んー?」
遠くで潮騒の音が聴こえたような気がした。やがてそれも彼女の呼ぶ声に、かき消される。