幽々子が帰ってきたときに出迎えたのは妖夢だけではなかった。
「………お久しぶりです、幽々子様」
険しい目つきの老剣士が玄関で幽々子を見据えていた。これまでどんなに会いたかった人物なのかは自身がよく知っているのだが、いざこうなってみると案外返答に詰まる。
詰まった末、幽々子は剣士の名を呼んだ。
「妖忌………妖忌なのね?」
「お忘れですか、この私を」
懐かしい笑みを覗かせた妖忌をよそに妖夢は幽々子の荷物を受け取ると少し急かすような口調で幽々子を寝室へと連れて行く。
「………幽々子様、床を用意しております、もう遅いのでまずはお休みください」
「あ、ちょっと妖夢………」
夜、妖忌は縁側で輝く月を眺めていた。
「………師匠」
「幽々子様は寝られたか」
立ち上がって庭へ出ると、妖忌は妖夢にその背中を見せながら口を開く。
「妖夢、覚えとるか、ワシが昔ここでお前さんに木刀で素振りをさせたことを」
「良く、覚えております」
「初めて持つ重さにお前さん、つんのめって転んだのう。……それが今では」
はるかに重く長い刀を自身の手足のように振り回す妖夢に妖忌は素直な喜びと後悔を感じていた。
最初はほんの精神鍛錬で教え始めたはずだが、日に日に上達する妖夢の技量に感心し、ついつい熱が入ってしまった、と妖忌は言う。
「まぁ、中途で気づいてなんとか半人前のところで止められたけどな」
その時、妖忌の背後で玉砂利を踏みしめる音が響いた。振り向くと、妖夢が刀を鞘から抜き放ち妖忌に突き付けていた。
「どうした、妖夢」
妖夢は黙って、妖忌に切っ先を突き付けている。息は荒く、落ち着きがない。
普段の彼女らしくない、慌てている様子に妖忌は目を細め、両手をだらりと下げたまま口を開いた。
「落ち着け、まずは落ち着いて何処を斬れば良いか見極めよ」
妖忌の言葉に妖夢は従って、切っ先で天を衝くように刀を構えた。妖忌は二度三度頷いて更に言葉をかける。
「そうじゃ、相手は丸腰、一刀でその命を奪え」
無駄な動きはいらない、相手は枝すらも持たない老人、どうとでもやれる。妖忌は再三妖夢に語りかけた。
「良いぞ、こい!」
その声と同時に妖夢は大きく一歩を踏み出し、妖忌の額に刃を振りおろした。しかし、刀は玉砂利の地面に突き刺さっている。
「………落ち着きがないのう」
躓く寸前で堪えているような姿の妖夢を横から抱き起こすと、妖忌は妖夢の頭を撫でて去って行った。
だが、妖夢はもう一度妖忌の背中へ切りつけようと試みた。が、結局寸でのところで避けられ、今度は完全に玉砂利の地面にその体を打ち付ける。
「………どうして…………どうして!なんで!!」
妖夢は悔しくて悔しくてたまらなかった。恥も外聞もかなぐり捨てた背後からの不意打ちも難無く避けられ、自分は無様に地面に這い蹲っている。妖夢はこれまで自分の積み上げてきたものが、音を立てて崩れ去っていく様を感じた。
「うっ………うぅ…………」
その場で泣き始めた妖夢を妖忌は立ったまま眺めていた。まだ夜の白玉楼は寒いが、妖忌は黙って立って泣き伏している弟子を眺める。
「………妖夢、お前さんは、流されてきたんじゃよ」
妖忌はそう言い残して、妖夢を一人にすることにした。
「………幽々子様、聞いておきたいことがございます」
昼の食事が終わったころ、そう尋ねてきた妖忌に何が聞きたいのかと幽々子は聞いた。
「なにかしら、聞きたいことって」
「ご自分に疑問を抱かれたことは、ございませんか?」
「どうしたの、突然。………疑問なんてねぇ、考えたこともないわ」
そう言ったが、少しして疑問はいくらでもあると幽々子は言った。自分は最初から亡霊だったわけではない。そうでなければ、自身の両親はどうしたのか。他にも、何故あの西行妖は咲かないのか、咲いてはいけないのか、と。
「きっと、貴方と紫だけが知っているんでしょうね。ね、妖忌、教えてくれるの?」
「はい。ですがしかし、話によっては貴女様の心に深い傷ができるやもしれませぬ、それでもよろしいのですか」
「えぇ確かに、妖忌の言うことも一理あるわね。でも、私は大丈夫だから、教えて」
頷いて妖忌は話し始めた。自分と紫と幽々子の馴れ初め、父の自殺、母や親しい人の殉死、桜の力と幽々子の能力の自覚。
話しているうちに妖忌は涙で言葉を詰まらせた。その度に話を切り、ハンカチで目頭を押さえ、息を整え話を続ける。
しかし、幽々子は何時もの微笑を崩さず、妖忌の話を黙って聞いている。それが妖忌の心を幾分か軽くした。
「すみません、また………」
「良いわよ、貴方の調子で続けて頂戴」
ハンカチはもう涙を吸うことは出来ない。それでもこれまでのことを話し続ける。
そして最後に幽々子を殺したのはこの自分だ、その御身体に剣を突き立て息の根を止めたのだと妖忌はそう言って、頭を深く畳へと押し付けた。
「………………妖忌、きっと紫や貴方が私にその話をしてくれなかったのは、私を思ってくれてのことだったのよね?」
返答はなかったが、幽々子は構わず話を続ける。
「でも、大丈夫よ?私は貴方が思っている以上に強いんだから」
最後に、まだ顔があげられない妖忌の肩に手を当て、幽々子は静かに呟いた。
「妖忌、ありがとう」
「………妖忌が帰ってきたんですって?」
紫は隙間から半身を乗り出して幽々子に問いかけた。彼女は頷くと、今度は何故これまで内緒にしていたのかと紫に問い質す。
なんで友達に隠し事をしたのか等々、弾劾に近い問いかけを続けた。そのまま険悪な雰囲気へと移っていくか行かないかというところでいきなり幽々子はそれまでの険しい顔から何時もどおりのたおやかな笑みを浮かべた。全て冗談だと言って。
「だいじょぶ、私はそんなに弱い子でもないし、何も変わらない。今となってはもう踏ん切りもつけられるわ。………きっと明日は妖忌も私も元通りだから」
でも、と言って幽々子は頬杖をついて心配事はまだあると言った。一つ事が終わればまた一つ厄介が生まれる。紫は幽々子の言わんとしていることが即座に分かった。
「妖夢のことね」
幽々子は頷く。
「妖忌のことだからきっとあの子に刀を捨てろとか言ったんじゃないかしら、昨日からずっとぎこちなかったもの」
「ねぇ幽々子、あの子が妖忌の言葉に従うと思う?」
「従わないと思うわ。妖夢ったら頑固で融通利かないし、それに変な所に強いこだわりやら執着を持ってるのよ。妖忌の悪いところが似ちゃってるからね」
そこがとても危険だと紫は思った。
妖夢は、自分にとっての刀は師匠でありたった一人の肉親である妖忌と自分をつなぐ梯子のように見ている。だが、妖忌はそれを捨てろという。
「………頑固者同士、譲れない点を譲れと言いあってるわけね」
「やぁねぇ」
先日の立ち合いで怪我した左手はまだ治っていなかった。それでも妖忌はその手を焼酎で消毒して訪台を毎日取り換えながら白玉楼の仕事に従事していた。
「………師匠」
「妖夢か、ちょっと待ってろ、今庭木を見ているところでな」
妖忌が白玉楼に戻ってからというもの、彼はずっとこうやって庭木の面倒を見続けている。
本来、この仕事はもう妖夢のものだ。だが、自分も庭師と言うことで久しぶりにやりたくなったのだろうか、まだ手がつけられていない庭木の剪定をしていた。
「で、なんじゃ」
全てを終えて汗をぬぐいながら妖忌は聞いた。妖夢が話し始めると妖忌は鋏を仕舞い手拭いをきれいに折りたたみ、その話に耳を傾ける。
「師匠は私に刀を捨てろ、そう仰いましたね」
「おう。で、辞めるのか、刀を鋏に持ち替えるか?ん?」
妖夢の答えは言葉ではなく居合い斬りで返された。あまりの速さに一瞬反応が遅れたのか、妖忌の前髪の数本が妖夢の刀の犠牲となった。
妖夢の手には殺傷力の十分な刀が握られており、妖忌の手には庭木のか細い一枝が握られている。
「お前さんも懲りない奴じゃ」
そう言って妖忌はその場を離れようとしたが、妖夢はそれを許さなかった。前に回り込み、刀を首筋に突き付けて問う。
「師匠は、私はずっと流されてきたと仰いました、それはどういうことですか」
「分からんか、じゃあ話はそこで終わりじゃな」
横をすり抜けて去っていく妖忌の背中に妖夢は刀を振り下ろした。そして妖夢の切っ先は妖忌の右肩を正確に捉えたが、それに一番驚いたのはあろうことか妖夢だった。
これまで通りなら今の一撃は避けられてしかるべきだった、にもかかわらず妖忌は避けることも振り返ることもせずただ一太刀浴びせられたのである。
「え………な、なんで…………」
「流されるってのはな、そういうことよ」
妖忌は左手で震える妖夢の手を優しく解き、刀を綺麗に拭いて鞘に仕舞うとと懐から手拭いを取り出して傷口にあてると妖夢に向き直った。
「お前さんはな、少し自分勝手が過ぎるんじゃ。自分が刀を抜きたくないときは駄々をこねて、辛抱がたまらん時はこうやって場に流されて斬ろうとする。見っとも無いとは思わんか」
血に染まった手拭いを痛そうな顔で剥がし、新しいものをそこにあてると妖忌は縁側に座り込んで話を続ける。
「春雪異変もそうじゃ、お前さんは幽々子様を諌め道を外れぬよう補佐する役目じゃったのに一緒になって騒ぎを起こした。わしの教え方がまずかったのもあるかもしれんが、それ以前にお前さんはお前さんを作れておらん」
「私が、私を作れていない?」
「ほうじゃ。確立した自己があれば周りの流れに左右されることはない。良いか妖夢、自分を作れるのは結局自分じゃ、幽々子様があぁ言ったから、紫殿がこうしているから………これじゃいかん自分を保て」
「それがどうして刀を捨てることにつながるのですか」
そこが一番言いたいことだと言いたげに妖忌は小枝を妖夢に突き付けた。
「その刀は妖夢、いわば時代遅れの塊じゃ」
妖夢の沈黙に妖忌は微笑んで話を続ける。
確かに刀は誇りだと言えるかもしれない。だが、そんなものは時代という大きな生き物の前では今自分が持つ小枝のようにか弱く儚い存在だと妖忌は言った。
「妖夢、霖之助殿を知っておるだろう?彼はな、武器を扱っておった。わしも彼から拳銃とその弾薬を購入した。だが折悪く、彼のその武器商売は陰りを見せ始めていた」
そして霖之助の最大の顧客の自警団は解体の動きを見せ始め、彼は大きな決断を迫られた。その場所に妖忌は居合わせることは出来なかったが、霖之助は妖忌の考えていることを実行した。
「なぁ妖夢よ、お前さんには見て欲しくないんじゃよ、刀に執着して惨めに暮らす様を」
いつの日か武器を持ち歩くことが異常に見られる時代が来るはずだと妖忌は言った。
その時代の足音が聞こえ始めた今、もう諦め始めてもいいのではないかと妖忌は思っていた。が、妖夢にとってそんなに簡単にはいかないのだ。
「………師匠がいなくなってしまった時から私は、私は剣の道を究めようと研鑽を積んでまいりました。…………それが無駄になるということですか」
「まぁ、な」
「……………いやです」
妖夢にとって刀とはそれまでの自分である。
苦しいことや悲しいことを、半霊とその刀で乗り切ってきた。時代が変わろうが何をされようが捨てたくはない。
今の今まで妖忌に言われるまで妖夢はこれまで歩んできた道が正しいと思っていた。この道が自分の行くべき道であり、目指すものはその先にある。そう考え行動した。春の異変も、夜の明けぬ異変も、月の一件も。
「そんなこと………いきなり言われても……」
「妖夢、お前さんは良くやった、良くやったよ」
もう良いだろう。妖忌は妖夢の頭に手を置いて呟いた。
「ワシに刀を返してくれんか、ん?」
「どうしても………ですか?」
妖忌が頷くと、妖夢は声を張り上げ拒絶して頭に置かれていた手を振り払って刀を握ったまま部屋へと駆け出して行く。
半ば分かっていたのか、妖忌は妖夢を呼びとめもせず、追いかけもせずにその背中を見送った。
「…………まだ、出てこないの?」
幽々子の問いに妖忌は答えると固く閉ざされた襖を見やった。妖夢は今こうやって引き籠っている。
「まぁあの子なりにあるんでしょう。食事や仕事はワシがなんとかします」
今はそっとしておいて欲しい。妖忌がそう言って幽々子に頼むと彼女は何も言わずに首を縦に振った。
それよりも食事の支度をしてほしいという幽々子の願いを聞いて妖忌は台所へと向かった。妖忌の去って言った方向と、妖夢が引き籠っている部屋の襖を一瞥して幽々子もまた歩き出す。
その時襖の向こう側の妖夢はじっと座って二振りの刀を見つめていた。
『………妖夢、これはね、妖忌が貴方に渡せって言ってたものよ』
幽々子の言葉とともに握った刀の重さは、年々変わっていった。最初は抜くだけで心拍数が上がったし、これで何かを斬りつけただけで気分が悪くなることもあった。
今ではもう抜刀しても、斬りかかろうとも気が昂ることはない。そう、思っていた。だがつい先日に現れた妖忌と対峙して、それが錯覚であったことに気付いた妖夢は何か得体のしれないもの囚われ続けている。
斬れば分かる。かつて教えられた言葉に素直に従おうとしても捉えられない。捉えたとしても、何も分からない。
『お前さんはお前さんを作れておらん』
今日の言葉が耳で木霊する。
自分が作れていないということはどういうことなのだろうか、妖夢にはそれが分からなかった。
妖夢が部屋に籠ってもう幾日も経った。
「まだ出て来ませんなぁ」
茶を啜りながら妖忌は呑気に呟く。
だが、すぐにでもあの襖をこじ開けて外へと引きずり出したいという気持ちが彼の中にはあった。
「おなか減って動けないんじゃないかしら」
「…………私が見て来ましょうか?」
居間に聞きなれた声が響いた。いつの間にか紫が来ていて、茶を飲んでいる。
「あら紫、いらっしゃい」
「おや紫殿」
紫は妖夢が何をしているのか見て、それで出てくるように説得しようかと言ったが妖忌は首を横に振った。
自分で気づかせなければいけないのだと妖忌は言って急須から茶をもう一回注ぎ、啜る。
「妖夢は……妖夢にはもっと良い夢を持って欲しい」
そう呟いた妖忌に幽々子はとても楽しそうな顔をして話しかける。
「妖夢は刀を捨てないわよ、絶対」
それなら無理にでも止めさせる。妖忌はきっぱりと言ったが、幽々子はそれを聞いて笑った。
「貴方は絶対無理よ、楽しんじゃうもの」
「何を仰られてるか分かりませぬが」
「絶対分かるわよ」
幽々子は茶を一口すすると、呆れたような、それでいて慈しむかのような顔を妖忌に向ける。
「貴方と妖夢は血で繋がっているのよ?貴方が楽しいと思うことを妖夢が楽しくないなんて、思うわけないじゃない」
そんな話が居間で交わされている時も妖夢は薄暗い部屋で刀をじっと見ていた。
刃の根元から切っ先まで目を這わせていくと、妖忌の血がこびりついていた。それを懐紙で拭い清めると、もう一度床に置き眺める。
刀身には自身の情けない顔が映されていて、それが一層妖夢を惨めにした。
(……………こういうことか)
妖忌の言った『執着の先の惨めな己』が、今自分の顔を見て妖夢には理解できた。たったひと振りの刀を離したくないと粋がって、そして覚悟もしないままに血を流させて。
なんと、愚かなのだろう。妖夢はそう思いながらもやはり刀を手放したくないと思った。
(どうすれば、良いんだろうか)
ひたすら悩んだ末に楼観剣よりも短い刀が視界の隅に移った。迷いを断つ白楼剣。これは迷いが切れるという代物で、現に妖夢も何度か使用し、その効果は的確だと確認している。
(これを、突き立てれば………)
恐る恐る刀を慎重に抜き自分の心臓に向ける。ゆっくりと自らに刀を近づけていき、自らの胸元に切っ先が触れた瞬間、妖夢はいきなり恐怖に駆られて白楼剣を遠くに放り投げた。
妖夢が立てこもる部屋に顔を向けつつ妖忌は口を開く。
「………紫殿の意見を聞きたい」
自分が妖夢に言ったことは正しいのか、そう紫に尋ねると、彼女は肩を竦めてどっちともつかない返事を返した。
「妖夢はきっと、刀を手放す気は起きないと思うわ、貴方も分かっているんでしょう」
妖忌はゆっくりと首を縦に振り、紫に向き直る。しかしそれでも必ず刀を手放させる、とも言って。
「というか教えて欲しいんだけど、なんでいきなり貴方は妖夢に刀を捨てろなんて言ったの」
「血を見て取り乱すようなものに武具を持たせようと思うのですか?」
頑強な精神を作ることができなければ武器を持つことは許し難い大罪と成り得る、妖忌は紫にそのことを良く知っているはずだと問いかける。
妖夢は何故妖忌が自分に刀を捨てろと言ってきたのか、段々と理解できてきた。理解できると、一層自らを惨めにした。
(それでも、手放したくない………これまでが無駄になる……………)
だが、理解できたとしてもそれを唯々諾々と従うことはしたくなかった。分かっても出来ることと出来ないことがある。
「妖夢」
ふと、耳に聞きなれた声が聞こえてきた。
振り向くと見知った顔が見知った格好でこちらを覗いている。
「………紫様」
「なんにも食べてないんでしょ、はい」
妖夢は紫から竹の皮で包まれた握り飯を受け取っても食べることはせず、傍らに置いて口を噤んだ。
「妖忌はまだ貴方に刀を捨てて欲しいって言っていたわよ」
「……えぇ、知ってます」
「貴方みたいな子供が武器を持つなんて不安でしょうがないんだって」
「………だったら、だったら何で!何で師匠は私に刀を握らせたのですか!!」
激高した妖夢は言葉を伝えただけの紫に掴みかかり、押さえていた涙をあふれさせた。捨てさせようとするなら、最初から与えなければ良かったのにと嘆いた
「妖忌は貴方が全然成長していなかったことが残念だったそうよ」
「成長、していない?私が?」
頷く紫を保持する手から急に力が抜けた。再び塞ぎこんだ妖夢の肩に手を置いて紫は口を開く。
「えぇ、情に流されて刀を抜くようではとてもじゃないが預けられないって」
「でも………でも………」
どうすれば良いんだ。妖夢は力なく呟くと壁に寄りかかり涙をぬぐった。
「じゃあ逆に聞くけど妖夢、貴方はどうしたいの」
「刀を手放すなんてできません、絶対に嫌です」
「そう、それならもう解決出来るわね」
「え、あ、ちょっと………」
唖然とする妖夢を尻目に紫は何時もの動作で隙間を開くと薄暗い部屋から消えていった。しかし妖夢にはもう何をすべきかが分かっていた。支度を整え、妖夢は久しぶりに日の光を浴び部屋を出ていく。
「師匠」
「妖夢か、決心したか」
「………はい」
縁側に座っていた妖忌は口端を僅かに上げ、微笑もうとした瞬間、妖夢はそれに冷水を浴びせかけるかのような一言を発した。
「師匠、私は貴方がどのように言おうとも刀を捨てる心算はございません」
「………聞こえなかったのう、もう一度、はっきりと言ってくれ」
妖夢はもう一度、さっきと同じことを大きな声で伝えた。妖忌は、今度はあからさまに怒気を顔に浮かべ妖夢を睨みつけた。一瞬で部屋の空気が圧縮されたかのように重くなる。
「妖夢、お前は、わしにそう言ってどうなるか分かっておるのか」
気押されながらも妖夢は頷き、それでも刀を捨てずに研鑽を積んでいきたいと言った。
「この………戯け者がっ!」
妖忌は妖夢の襟を引っ張って中庭へ放り出すと自らもそこへ降りて、さらに平手打ちを加えて声を荒げる。
唾が顔にかかろうとも激しく揺さぶられようとも妖夢は妖忌を睨みつけるかのように見据えていた。
「………では刀で、決着をおつけなさい」
その時、縁側からとても優しい声が聞こえた。幽々子が微笑みながら二人を見つめている。
「妖忌、貴方が見極めなさいな、妖夢が本当に刀を捨てなければいけないのかどうか」
「幽々子様、お言葉ですが私はこの目で………」
「だから、見極めさないって言ったのよ」
幽々子の言わんとしていることを理解したのか、妖忌は頷いて妖夢をもう一度見据えた。
「妖夢、暫し待て」
そう言って消えた妖忌から解放された妖夢は体勢を立て直して幽々子に質問をした。何故あそこであんなことを言ったのかと。
「ねぇ妖夢、私は昨日までなんとなしにやってきたことを今日になっていきなり止めるなんてしたくないのよ」
それだけ。そう言って幽々子は屈託のない笑みを妖夢に向けたころ、妖忌が支度を整えて戻ってきた。
紫は焦っていた。自分の思い進めていた想像とまったく違ったからである。
幽々子ならばそれとなくやんわりと捻じ曲げて、妖忌と妖夢の仲を仲裁してくれるだろうと思っていたのだが、先ほどのやり取りでは悪化しているだけだと思った。
「容赦はせぬぞ」
「分かっております」
二人がその手に握っているのは木刀でも竹刀でもない。まごうことなき真剣である。
「師匠」
「なんじゃ」
「遠慮なくいかせて貰います」
そう言いきった瞬間、妖夢は妖忌に刀を振り下ろした。
妖忌はその一撃を無駄のない動きで避けると右手だけで保持している脇差を妖夢の首へ突き立てようとしたが、妖夢は身を捩じらせ躱す。
二人とも殺しにかかっている。紫は柄にもなく困惑していた。しかし、そんな紫をよそに幽々子はまるで観劇でもしているかのような穏やかな顔をしていた。
「………幽々子」
「何?紫」
「止めなくて良いの?あの二人、もう完全に殺しあってるじゃない!」
「黙ってなさいな」
幻想郷で一二を争う剣技を持つ師弟がその持てる技術を出しつくしている。これが真剣での立ち合いでなければ紫も幽々子と同じ顔を出来た。が、そうはいかない。
しかし、桜の花弁が舞う中での斬り合いを幽々子は美しいものだと思った。
何時間も経っているように感じた。妖夢は未だに突破口を見いだせずにいる。
(………隙が、ない)
思考も儘ならないほど妖忌の剣戟は鋭く速い。妖夢は考えることを半ば止め、向かってくる切っ先を防ぐことに集中せざるを得なくなっていた。
(………楽しい)
妖忌は脇差を振いながらそう思った。弟子に対してここまで技術を吐き出せるのがとても愉快だった。
妖夢は防戦一方だが、妖忌の一撃をその体には受けていない。それが妖忌を一層愉快にさせる。
(想像以上じゃ、妖夢!)
妖忌の一振りがついに妖夢の防御を崩した。
防御が上がってしまった無防備な腹を目がけた斬撃。その瞬間、妖忌の腕に鈍い衝撃が走る。
「………っく」
妖忌の切っ先は妖夢の服を裂き、腹に一文字の浅い傷を負わせたに過ぎなかった。妖夢の刀の柄頭が妖忌の刀を持つ腕に喰い込んでいた。弾かれた刀を強引に引き戻した結果だった。
だがまだ終わりではない。妖夢は柄を妖忌の腕から引き抜くとまた振りかぶり、妖忌の額目掛け振り下ろした。が、妖忌もそんな簡単にやられるつもりはないらしく、両腕が使えない状態であるとは思えないほど正確な回避をする。
「まぐれじゃな」
妖忌はほとんど精神で刀を握っている。右手に襲う激痛を何とか抑え、刀を構えた。
柄にもなく心拍数が上がっていくが、呼吸は落ち着いている、視界も明瞭。妖忌は興奮していた。何故自分が刀を握っているのかすらも忘れ、楽しんでいる。
(あれで落ちないとは、流石師匠)
彼を楽しませている弟子はそんな心持ではなかった。呼吸は乱れ、汗が噴き出て服が肌に張り付いて気持ちが悪い。
逃げ出したい。素直な気持ちに駆られた。もう戦闘は出来ないのにそれを根性で捩じ伏せてなおも刀を構える妖忌に妖夢は恐怖を抱いた。
それでも自分から売った喧嘩を投げ出すわけにはいかない。妖夢は今一度刀を握る手に力を込め、妖忌を睨む。
(良いぞ妖夢、その目じゃ)
だが受けた傷と元々おっていた傷、そしてこれまでの消耗で立ち会いはあと一、二回がせいぜい。
妖忌は全てを振り絞るつもりで刀を高く掲げ、踏み出した。そして妖夢も時を同じくして前へ踏み込んだ。
「そこまでにしなさい」
その言葉が耳に入った瞬間、妖忌と妖夢は急制動をかけ、その声の主を見据えた。幽々子がいつもと変わらぬ穏やかな表情で笑っている。
「妖忌、言ったじゃない、貴方は絶対楽しむんだからって」
その一言に妖忌はハッとした。自分は妖夢に刀を捨てさせようとしていたのに、妖夢との立ち合いに心を躍らせていたのだ。
「ねぇ妖忌、考え直してみない?」
幽々子の一言に妖忌は肯定とも否定ともとれる反応を返し、右手に込めていた力を緩め、妖夢に向き直る。
「妖夢、今日は止めじゃ」
それだけ言うと、庭から去っていった。
「………お久しぶりです、幽々子様」
険しい目つきの老剣士が玄関で幽々子を見据えていた。これまでどんなに会いたかった人物なのかは自身がよく知っているのだが、いざこうなってみると案外返答に詰まる。
詰まった末、幽々子は剣士の名を呼んだ。
「妖忌………妖忌なのね?」
「お忘れですか、この私を」
懐かしい笑みを覗かせた妖忌をよそに妖夢は幽々子の荷物を受け取ると少し急かすような口調で幽々子を寝室へと連れて行く。
「………幽々子様、床を用意しております、もう遅いのでまずはお休みください」
「あ、ちょっと妖夢………」
夜、妖忌は縁側で輝く月を眺めていた。
「………師匠」
「幽々子様は寝られたか」
立ち上がって庭へ出ると、妖忌は妖夢にその背中を見せながら口を開く。
「妖夢、覚えとるか、ワシが昔ここでお前さんに木刀で素振りをさせたことを」
「良く、覚えております」
「初めて持つ重さにお前さん、つんのめって転んだのう。……それが今では」
はるかに重く長い刀を自身の手足のように振り回す妖夢に妖忌は素直な喜びと後悔を感じていた。
最初はほんの精神鍛錬で教え始めたはずだが、日に日に上達する妖夢の技量に感心し、ついつい熱が入ってしまった、と妖忌は言う。
「まぁ、中途で気づいてなんとか半人前のところで止められたけどな」
その時、妖忌の背後で玉砂利を踏みしめる音が響いた。振り向くと、妖夢が刀を鞘から抜き放ち妖忌に突き付けていた。
「どうした、妖夢」
妖夢は黙って、妖忌に切っ先を突き付けている。息は荒く、落ち着きがない。
普段の彼女らしくない、慌てている様子に妖忌は目を細め、両手をだらりと下げたまま口を開いた。
「落ち着け、まずは落ち着いて何処を斬れば良いか見極めよ」
妖忌の言葉に妖夢は従って、切っ先で天を衝くように刀を構えた。妖忌は二度三度頷いて更に言葉をかける。
「そうじゃ、相手は丸腰、一刀でその命を奪え」
無駄な動きはいらない、相手は枝すらも持たない老人、どうとでもやれる。妖忌は再三妖夢に語りかけた。
「良いぞ、こい!」
その声と同時に妖夢は大きく一歩を踏み出し、妖忌の額に刃を振りおろした。しかし、刀は玉砂利の地面に突き刺さっている。
「………落ち着きがないのう」
躓く寸前で堪えているような姿の妖夢を横から抱き起こすと、妖忌は妖夢の頭を撫でて去って行った。
だが、妖夢はもう一度妖忌の背中へ切りつけようと試みた。が、結局寸でのところで避けられ、今度は完全に玉砂利の地面にその体を打ち付ける。
「………どうして…………どうして!なんで!!」
妖夢は悔しくて悔しくてたまらなかった。恥も外聞もかなぐり捨てた背後からの不意打ちも難無く避けられ、自分は無様に地面に這い蹲っている。妖夢はこれまで自分の積み上げてきたものが、音を立てて崩れ去っていく様を感じた。
「うっ………うぅ…………」
その場で泣き始めた妖夢を妖忌は立ったまま眺めていた。まだ夜の白玉楼は寒いが、妖忌は黙って立って泣き伏している弟子を眺める。
「………妖夢、お前さんは、流されてきたんじゃよ」
妖忌はそう言い残して、妖夢を一人にすることにした。
「………幽々子様、聞いておきたいことがございます」
昼の食事が終わったころ、そう尋ねてきた妖忌に何が聞きたいのかと幽々子は聞いた。
「なにかしら、聞きたいことって」
「ご自分に疑問を抱かれたことは、ございませんか?」
「どうしたの、突然。………疑問なんてねぇ、考えたこともないわ」
そう言ったが、少しして疑問はいくらでもあると幽々子は言った。自分は最初から亡霊だったわけではない。そうでなければ、自身の両親はどうしたのか。他にも、何故あの西行妖は咲かないのか、咲いてはいけないのか、と。
「きっと、貴方と紫だけが知っているんでしょうね。ね、妖忌、教えてくれるの?」
「はい。ですがしかし、話によっては貴女様の心に深い傷ができるやもしれませぬ、それでもよろしいのですか」
「えぇ確かに、妖忌の言うことも一理あるわね。でも、私は大丈夫だから、教えて」
頷いて妖忌は話し始めた。自分と紫と幽々子の馴れ初め、父の自殺、母や親しい人の殉死、桜の力と幽々子の能力の自覚。
話しているうちに妖忌は涙で言葉を詰まらせた。その度に話を切り、ハンカチで目頭を押さえ、息を整え話を続ける。
しかし、幽々子は何時もの微笑を崩さず、妖忌の話を黙って聞いている。それが妖忌の心を幾分か軽くした。
「すみません、また………」
「良いわよ、貴方の調子で続けて頂戴」
ハンカチはもう涙を吸うことは出来ない。それでもこれまでのことを話し続ける。
そして最後に幽々子を殺したのはこの自分だ、その御身体に剣を突き立て息の根を止めたのだと妖忌はそう言って、頭を深く畳へと押し付けた。
「………………妖忌、きっと紫や貴方が私にその話をしてくれなかったのは、私を思ってくれてのことだったのよね?」
返答はなかったが、幽々子は構わず話を続ける。
「でも、大丈夫よ?私は貴方が思っている以上に強いんだから」
最後に、まだ顔があげられない妖忌の肩に手を当て、幽々子は静かに呟いた。
「妖忌、ありがとう」
「………妖忌が帰ってきたんですって?」
紫は隙間から半身を乗り出して幽々子に問いかけた。彼女は頷くと、今度は何故これまで内緒にしていたのかと紫に問い質す。
なんで友達に隠し事をしたのか等々、弾劾に近い問いかけを続けた。そのまま険悪な雰囲気へと移っていくか行かないかというところでいきなり幽々子はそれまでの険しい顔から何時もどおりのたおやかな笑みを浮かべた。全て冗談だと言って。
「だいじょぶ、私はそんなに弱い子でもないし、何も変わらない。今となってはもう踏ん切りもつけられるわ。………きっと明日は妖忌も私も元通りだから」
でも、と言って幽々子は頬杖をついて心配事はまだあると言った。一つ事が終わればまた一つ厄介が生まれる。紫は幽々子の言わんとしていることが即座に分かった。
「妖夢のことね」
幽々子は頷く。
「妖忌のことだからきっとあの子に刀を捨てろとか言ったんじゃないかしら、昨日からずっとぎこちなかったもの」
「ねぇ幽々子、あの子が妖忌の言葉に従うと思う?」
「従わないと思うわ。妖夢ったら頑固で融通利かないし、それに変な所に強いこだわりやら執着を持ってるのよ。妖忌の悪いところが似ちゃってるからね」
そこがとても危険だと紫は思った。
妖夢は、自分にとっての刀は師匠でありたった一人の肉親である妖忌と自分をつなぐ梯子のように見ている。だが、妖忌はそれを捨てろという。
「………頑固者同士、譲れない点を譲れと言いあってるわけね」
「やぁねぇ」
先日の立ち合いで怪我した左手はまだ治っていなかった。それでも妖忌はその手を焼酎で消毒して訪台を毎日取り換えながら白玉楼の仕事に従事していた。
「………師匠」
「妖夢か、ちょっと待ってろ、今庭木を見ているところでな」
妖忌が白玉楼に戻ってからというもの、彼はずっとこうやって庭木の面倒を見続けている。
本来、この仕事はもう妖夢のものだ。だが、自分も庭師と言うことで久しぶりにやりたくなったのだろうか、まだ手がつけられていない庭木の剪定をしていた。
「で、なんじゃ」
全てを終えて汗をぬぐいながら妖忌は聞いた。妖夢が話し始めると妖忌は鋏を仕舞い手拭いをきれいに折りたたみ、その話に耳を傾ける。
「師匠は私に刀を捨てろ、そう仰いましたね」
「おう。で、辞めるのか、刀を鋏に持ち替えるか?ん?」
妖夢の答えは言葉ではなく居合い斬りで返された。あまりの速さに一瞬反応が遅れたのか、妖忌の前髪の数本が妖夢の刀の犠牲となった。
妖夢の手には殺傷力の十分な刀が握られており、妖忌の手には庭木のか細い一枝が握られている。
「お前さんも懲りない奴じゃ」
そう言って妖忌はその場を離れようとしたが、妖夢はそれを許さなかった。前に回り込み、刀を首筋に突き付けて問う。
「師匠は、私はずっと流されてきたと仰いました、それはどういうことですか」
「分からんか、じゃあ話はそこで終わりじゃな」
横をすり抜けて去っていく妖忌の背中に妖夢は刀を振り下ろした。そして妖夢の切っ先は妖忌の右肩を正確に捉えたが、それに一番驚いたのはあろうことか妖夢だった。
これまで通りなら今の一撃は避けられてしかるべきだった、にもかかわらず妖忌は避けることも振り返ることもせずただ一太刀浴びせられたのである。
「え………な、なんで…………」
「流されるってのはな、そういうことよ」
妖忌は左手で震える妖夢の手を優しく解き、刀を綺麗に拭いて鞘に仕舞うとと懐から手拭いを取り出して傷口にあてると妖夢に向き直った。
「お前さんはな、少し自分勝手が過ぎるんじゃ。自分が刀を抜きたくないときは駄々をこねて、辛抱がたまらん時はこうやって場に流されて斬ろうとする。見っとも無いとは思わんか」
血に染まった手拭いを痛そうな顔で剥がし、新しいものをそこにあてると妖忌は縁側に座り込んで話を続ける。
「春雪異変もそうじゃ、お前さんは幽々子様を諌め道を外れぬよう補佐する役目じゃったのに一緒になって騒ぎを起こした。わしの教え方がまずかったのもあるかもしれんが、それ以前にお前さんはお前さんを作れておらん」
「私が、私を作れていない?」
「ほうじゃ。確立した自己があれば周りの流れに左右されることはない。良いか妖夢、自分を作れるのは結局自分じゃ、幽々子様があぁ言ったから、紫殿がこうしているから………これじゃいかん自分を保て」
「それがどうして刀を捨てることにつながるのですか」
そこが一番言いたいことだと言いたげに妖忌は小枝を妖夢に突き付けた。
「その刀は妖夢、いわば時代遅れの塊じゃ」
妖夢の沈黙に妖忌は微笑んで話を続ける。
確かに刀は誇りだと言えるかもしれない。だが、そんなものは時代という大きな生き物の前では今自分が持つ小枝のようにか弱く儚い存在だと妖忌は言った。
「妖夢、霖之助殿を知っておるだろう?彼はな、武器を扱っておった。わしも彼から拳銃とその弾薬を購入した。だが折悪く、彼のその武器商売は陰りを見せ始めていた」
そして霖之助の最大の顧客の自警団は解体の動きを見せ始め、彼は大きな決断を迫られた。その場所に妖忌は居合わせることは出来なかったが、霖之助は妖忌の考えていることを実行した。
「なぁ妖夢よ、お前さんには見て欲しくないんじゃよ、刀に執着して惨めに暮らす様を」
いつの日か武器を持ち歩くことが異常に見られる時代が来るはずだと妖忌は言った。
その時代の足音が聞こえ始めた今、もう諦め始めてもいいのではないかと妖忌は思っていた。が、妖夢にとってそんなに簡単にはいかないのだ。
「………師匠がいなくなってしまった時から私は、私は剣の道を究めようと研鑽を積んでまいりました。…………それが無駄になるということですか」
「まぁ、な」
「……………いやです」
妖夢にとって刀とはそれまでの自分である。
苦しいことや悲しいことを、半霊とその刀で乗り切ってきた。時代が変わろうが何をされようが捨てたくはない。
今の今まで妖忌に言われるまで妖夢はこれまで歩んできた道が正しいと思っていた。この道が自分の行くべき道であり、目指すものはその先にある。そう考え行動した。春の異変も、夜の明けぬ異変も、月の一件も。
「そんなこと………いきなり言われても……」
「妖夢、お前さんは良くやった、良くやったよ」
もう良いだろう。妖忌は妖夢の頭に手を置いて呟いた。
「ワシに刀を返してくれんか、ん?」
「どうしても………ですか?」
妖忌が頷くと、妖夢は声を張り上げ拒絶して頭に置かれていた手を振り払って刀を握ったまま部屋へと駆け出して行く。
半ば分かっていたのか、妖忌は妖夢を呼びとめもせず、追いかけもせずにその背中を見送った。
「…………まだ、出てこないの?」
幽々子の問いに妖忌は答えると固く閉ざされた襖を見やった。妖夢は今こうやって引き籠っている。
「まぁあの子なりにあるんでしょう。食事や仕事はワシがなんとかします」
今はそっとしておいて欲しい。妖忌がそう言って幽々子に頼むと彼女は何も言わずに首を縦に振った。
それよりも食事の支度をしてほしいという幽々子の願いを聞いて妖忌は台所へと向かった。妖忌の去って言った方向と、妖夢が引き籠っている部屋の襖を一瞥して幽々子もまた歩き出す。
その時襖の向こう側の妖夢はじっと座って二振りの刀を見つめていた。
『………妖夢、これはね、妖忌が貴方に渡せって言ってたものよ』
幽々子の言葉とともに握った刀の重さは、年々変わっていった。最初は抜くだけで心拍数が上がったし、これで何かを斬りつけただけで気分が悪くなることもあった。
今ではもう抜刀しても、斬りかかろうとも気が昂ることはない。そう、思っていた。だがつい先日に現れた妖忌と対峙して、それが錯覚であったことに気付いた妖夢は何か得体のしれないもの囚われ続けている。
斬れば分かる。かつて教えられた言葉に素直に従おうとしても捉えられない。捉えたとしても、何も分からない。
『お前さんはお前さんを作れておらん』
今日の言葉が耳で木霊する。
自分が作れていないということはどういうことなのだろうか、妖夢にはそれが分からなかった。
妖夢が部屋に籠ってもう幾日も経った。
「まだ出て来ませんなぁ」
茶を啜りながら妖忌は呑気に呟く。
だが、すぐにでもあの襖をこじ開けて外へと引きずり出したいという気持ちが彼の中にはあった。
「おなか減って動けないんじゃないかしら」
「…………私が見て来ましょうか?」
居間に聞きなれた声が響いた。いつの間にか紫が来ていて、茶を飲んでいる。
「あら紫、いらっしゃい」
「おや紫殿」
紫は妖夢が何をしているのか見て、それで出てくるように説得しようかと言ったが妖忌は首を横に振った。
自分で気づかせなければいけないのだと妖忌は言って急須から茶をもう一回注ぎ、啜る。
「妖夢は……妖夢にはもっと良い夢を持って欲しい」
そう呟いた妖忌に幽々子はとても楽しそうな顔をして話しかける。
「妖夢は刀を捨てないわよ、絶対」
それなら無理にでも止めさせる。妖忌はきっぱりと言ったが、幽々子はそれを聞いて笑った。
「貴方は絶対無理よ、楽しんじゃうもの」
「何を仰られてるか分かりませぬが」
「絶対分かるわよ」
幽々子は茶を一口すすると、呆れたような、それでいて慈しむかのような顔を妖忌に向ける。
「貴方と妖夢は血で繋がっているのよ?貴方が楽しいと思うことを妖夢が楽しくないなんて、思うわけないじゃない」
そんな話が居間で交わされている時も妖夢は薄暗い部屋で刀をじっと見ていた。
刃の根元から切っ先まで目を這わせていくと、妖忌の血がこびりついていた。それを懐紙で拭い清めると、もう一度床に置き眺める。
刀身には自身の情けない顔が映されていて、それが一層妖夢を惨めにした。
(……………こういうことか)
妖忌の言った『執着の先の惨めな己』が、今自分の顔を見て妖夢には理解できた。たったひと振りの刀を離したくないと粋がって、そして覚悟もしないままに血を流させて。
なんと、愚かなのだろう。妖夢はそう思いながらもやはり刀を手放したくないと思った。
(どうすれば、良いんだろうか)
ひたすら悩んだ末に楼観剣よりも短い刀が視界の隅に移った。迷いを断つ白楼剣。これは迷いが切れるという代物で、現に妖夢も何度か使用し、その効果は的確だと確認している。
(これを、突き立てれば………)
恐る恐る刀を慎重に抜き自分の心臓に向ける。ゆっくりと自らに刀を近づけていき、自らの胸元に切っ先が触れた瞬間、妖夢はいきなり恐怖に駆られて白楼剣を遠くに放り投げた。
妖夢が立てこもる部屋に顔を向けつつ妖忌は口を開く。
「………紫殿の意見を聞きたい」
自分が妖夢に言ったことは正しいのか、そう紫に尋ねると、彼女は肩を竦めてどっちともつかない返事を返した。
「妖夢はきっと、刀を手放す気は起きないと思うわ、貴方も分かっているんでしょう」
妖忌はゆっくりと首を縦に振り、紫に向き直る。しかしそれでも必ず刀を手放させる、とも言って。
「というか教えて欲しいんだけど、なんでいきなり貴方は妖夢に刀を捨てろなんて言ったの」
「血を見て取り乱すようなものに武具を持たせようと思うのですか?」
頑強な精神を作ることができなければ武器を持つことは許し難い大罪と成り得る、妖忌は紫にそのことを良く知っているはずだと問いかける。
妖夢は何故妖忌が自分に刀を捨てろと言ってきたのか、段々と理解できてきた。理解できると、一層自らを惨めにした。
(それでも、手放したくない………これまでが無駄になる……………)
だが、理解できたとしてもそれを唯々諾々と従うことはしたくなかった。分かっても出来ることと出来ないことがある。
「妖夢」
ふと、耳に聞きなれた声が聞こえてきた。
振り向くと見知った顔が見知った格好でこちらを覗いている。
「………紫様」
「なんにも食べてないんでしょ、はい」
妖夢は紫から竹の皮で包まれた握り飯を受け取っても食べることはせず、傍らに置いて口を噤んだ。
「妖忌はまだ貴方に刀を捨てて欲しいって言っていたわよ」
「……えぇ、知ってます」
「貴方みたいな子供が武器を持つなんて不安でしょうがないんだって」
「………だったら、だったら何で!何で師匠は私に刀を握らせたのですか!!」
激高した妖夢は言葉を伝えただけの紫に掴みかかり、押さえていた涙をあふれさせた。捨てさせようとするなら、最初から与えなければ良かったのにと嘆いた
「妖忌は貴方が全然成長していなかったことが残念だったそうよ」
「成長、していない?私が?」
頷く紫を保持する手から急に力が抜けた。再び塞ぎこんだ妖夢の肩に手を置いて紫は口を開く。
「えぇ、情に流されて刀を抜くようではとてもじゃないが預けられないって」
「でも………でも………」
どうすれば良いんだ。妖夢は力なく呟くと壁に寄りかかり涙をぬぐった。
「じゃあ逆に聞くけど妖夢、貴方はどうしたいの」
「刀を手放すなんてできません、絶対に嫌です」
「そう、それならもう解決出来るわね」
「え、あ、ちょっと………」
唖然とする妖夢を尻目に紫は何時もの動作で隙間を開くと薄暗い部屋から消えていった。しかし妖夢にはもう何をすべきかが分かっていた。支度を整え、妖夢は久しぶりに日の光を浴び部屋を出ていく。
「師匠」
「妖夢か、決心したか」
「………はい」
縁側に座っていた妖忌は口端を僅かに上げ、微笑もうとした瞬間、妖夢はそれに冷水を浴びせかけるかのような一言を発した。
「師匠、私は貴方がどのように言おうとも刀を捨てる心算はございません」
「………聞こえなかったのう、もう一度、はっきりと言ってくれ」
妖夢はもう一度、さっきと同じことを大きな声で伝えた。妖忌は、今度はあからさまに怒気を顔に浮かべ妖夢を睨みつけた。一瞬で部屋の空気が圧縮されたかのように重くなる。
「妖夢、お前は、わしにそう言ってどうなるか分かっておるのか」
気押されながらも妖夢は頷き、それでも刀を捨てずに研鑽を積んでいきたいと言った。
「この………戯け者がっ!」
妖忌は妖夢の襟を引っ張って中庭へ放り出すと自らもそこへ降りて、さらに平手打ちを加えて声を荒げる。
唾が顔にかかろうとも激しく揺さぶられようとも妖夢は妖忌を睨みつけるかのように見据えていた。
「………では刀で、決着をおつけなさい」
その時、縁側からとても優しい声が聞こえた。幽々子が微笑みながら二人を見つめている。
「妖忌、貴方が見極めなさいな、妖夢が本当に刀を捨てなければいけないのかどうか」
「幽々子様、お言葉ですが私はこの目で………」
「だから、見極めさないって言ったのよ」
幽々子の言わんとしていることを理解したのか、妖忌は頷いて妖夢をもう一度見据えた。
「妖夢、暫し待て」
そう言って消えた妖忌から解放された妖夢は体勢を立て直して幽々子に質問をした。何故あそこであんなことを言ったのかと。
「ねぇ妖夢、私は昨日までなんとなしにやってきたことを今日になっていきなり止めるなんてしたくないのよ」
それだけ。そう言って幽々子は屈託のない笑みを妖夢に向けたころ、妖忌が支度を整えて戻ってきた。
紫は焦っていた。自分の思い進めていた想像とまったく違ったからである。
幽々子ならばそれとなくやんわりと捻じ曲げて、妖忌と妖夢の仲を仲裁してくれるだろうと思っていたのだが、先ほどのやり取りでは悪化しているだけだと思った。
「容赦はせぬぞ」
「分かっております」
二人がその手に握っているのは木刀でも竹刀でもない。まごうことなき真剣である。
「師匠」
「なんじゃ」
「遠慮なくいかせて貰います」
そう言いきった瞬間、妖夢は妖忌に刀を振り下ろした。
妖忌はその一撃を無駄のない動きで避けると右手だけで保持している脇差を妖夢の首へ突き立てようとしたが、妖夢は身を捩じらせ躱す。
二人とも殺しにかかっている。紫は柄にもなく困惑していた。しかし、そんな紫をよそに幽々子はまるで観劇でもしているかのような穏やかな顔をしていた。
「………幽々子」
「何?紫」
「止めなくて良いの?あの二人、もう完全に殺しあってるじゃない!」
「黙ってなさいな」
幻想郷で一二を争う剣技を持つ師弟がその持てる技術を出しつくしている。これが真剣での立ち合いでなければ紫も幽々子と同じ顔を出来た。が、そうはいかない。
しかし、桜の花弁が舞う中での斬り合いを幽々子は美しいものだと思った。
何時間も経っているように感じた。妖夢は未だに突破口を見いだせずにいる。
(………隙が、ない)
思考も儘ならないほど妖忌の剣戟は鋭く速い。妖夢は考えることを半ば止め、向かってくる切っ先を防ぐことに集中せざるを得なくなっていた。
(………楽しい)
妖忌は脇差を振いながらそう思った。弟子に対してここまで技術を吐き出せるのがとても愉快だった。
妖夢は防戦一方だが、妖忌の一撃をその体には受けていない。それが妖忌を一層愉快にさせる。
(想像以上じゃ、妖夢!)
妖忌の一振りがついに妖夢の防御を崩した。
防御が上がってしまった無防備な腹を目がけた斬撃。その瞬間、妖忌の腕に鈍い衝撃が走る。
「………っく」
妖忌の切っ先は妖夢の服を裂き、腹に一文字の浅い傷を負わせたに過ぎなかった。妖夢の刀の柄頭が妖忌の刀を持つ腕に喰い込んでいた。弾かれた刀を強引に引き戻した結果だった。
だがまだ終わりではない。妖夢は柄を妖忌の腕から引き抜くとまた振りかぶり、妖忌の額目掛け振り下ろした。が、妖忌もそんな簡単にやられるつもりはないらしく、両腕が使えない状態であるとは思えないほど正確な回避をする。
「まぐれじゃな」
妖忌はほとんど精神で刀を握っている。右手に襲う激痛を何とか抑え、刀を構えた。
柄にもなく心拍数が上がっていくが、呼吸は落ち着いている、視界も明瞭。妖忌は興奮していた。何故自分が刀を握っているのかすらも忘れ、楽しんでいる。
(あれで落ちないとは、流石師匠)
彼を楽しませている弟子はそんな心持ではなかった。呼吸は乱れ、汗が噴き出て服が肌に張り付いて気持ちが悪い。
逃げ出したい。素直な気持ちに駆られた。もう戦闘は出来ないのにそれを根性で捩じ伏せてなおも刀を構える妖忌に妖夢は恐怖を抱いた。
それでも自分から売った喧嘩を投げ出すわけにはいかない。妖夢は今一度刀を握る手に力を込め、妖忌を睨む。
(良いぞ妖夢、その目じゃ)
だが受けた傷と元々おっていた傷、そしてこれまでの消耗で立ち会いはあと一、二回がせいぜい。
妖忌は全てを振り絞るつもりで刀を高く掲げ、踏み出した。そして妖夢も時を同じくして前へ踏み込んだ。
「そこまでにしなさい」
その言葉が耳に入った瞬間、妖忌と妖夢は急制動をかけ、その声の主を見据えた。幽々子がいつもと変わらぬ穏やかな表情で笑っている。
「妖忌、言ったじゃない、貴方は絶対楽しむんだからって」
その一言に妖忌はハッとした。自分は妖夢に刀を捨てさせようとしていたのに、妖夢との立ち合いに心を躍らせていたのだ。
「ねぇ妖忌、考え直してみない?」
幽々子の一言に妖忌は肯定とも否定ともとれる反応を返し、右手に込めていた力を緩め、妖夢に向き直る。
「妖夢、今日は止めじゃ」
それだけ言うと、庭から去っていった。