ぷにぷに、ふにゃー。
図書館のいつもの場所に座っていたパチュリーは、先程からずっと何者かにほっぺたを弄られていた。その程度のことでは本を読むのに支障はなかったので、最初のうちは無視していた。けれども、本の整理をさせていた小悪魔にはニヤつかれ、掃除をしに来たメイド妖精たちに小声で囁かれたとあっては、さすがに気にならないわけにはいかなかった。
「妹様、いい加減止めてくれないかしら」
ひょい、と顔の右側にある細い手首を掴みながら振り向く。
「あれ、気付かれた？」
視線の先では、フランドール・スカーレットがわざとらしい驚きを顔に張り付けていた。蝋燭の灯りに反射して、青白い肌に紅が揺らめいている。
「気付かないわけがないでしょ。何してるのよ」
「こないだ紅くて白いのと、黒いのが来たじゃない？」
質問したら、逆に訊き返された。巷で狂ったと噂されている彼女との会話は、いつもちんぷんかんぷんになってしまう。まともな論理が展開されていないため、よく噛み砕いていかなければ、返答すらままならない。
今回は分かりやすいキーワードが、散りばめられていたため、まだましな方だ。大方、こないだレミリアの起こした霧の異変に乗り込んできた二人の人間のことだろう。
「霊夢と魔理沙のこと？」
「そうそう。わたし、初めて見たから驚いちゃった。生きた人間ってあんなにおもしろいんだね」
あれらを人間の基準として考えて良い物かどうか、多少の疑問は残る。吸血鬼を前にしても臆さぬどころか、屋敷へご飯や本までたかりにくるような奴らなのだから。
けど、事の詳細は大体掴めた。生まれて初めて見た人間に興味を持って、手近なところで遊んでみようと思ったのだろう。
ん？ でも待てよ。
「だからって何で私に纏わりつくのよ。私は魔法使いよ」
「だってパチュリーってさ、ちょっと人間っぽいじゃない」
その答えに、パチュリーの表情が曇る。仮にも百年以上生きた七曜の魔女に対して、人間らしいとはちょっと無礼ではないだろうか。
「どうせだったら、門番とこ行きなさいよ。あっちのほうがよっぽど人間らしいわ」
そう抗議すると、フランはパチュリーの横側へ回った。床に座り込んで、頭だけを膝の上に乗っけている。ぐりぐりと金色の髪ごと押し付けられて、少しくすぐったい。
「美鈴は固すぎるの。わたしが思いっきり叩いても、平気な人間は人間じゃないわ」
まさかの二番目である。というか、あの子大丈夫だろうか。いくら頑丈とはいえ、吸血鬼に本気で殴られてはただで済むとは思えない。
「それで、美鈴がパチュリーだったら弱っちいってこと思い出させてくれたから、ここに来たの」
前言撤回。やっぱりそのまま死んでくれてれば良かったのに。
「あのね、確かに私はあんまり身体が丈夫じゃないけど。それは魔法使いという種族にはよくある話で、私の場合は主に肺ってだけで……」
「べしべしべしべし」
「お腹殴らないで。痛いというか、こそばゆいからから」
もう、誰か助けてよ。
と、そこでこの館にはすでに真っ当な人間（こちらもある意味規格外だが）がいることを思い出した。
「そうだ、咲夜がいるじゃない。あれに相手してもらいなさいよ」
人間だし、メイドだし、などと良い考えだと思ったのだが、フランはそう思わなかったらしい。顔を伏せ、答える声は低い。
「……知らない、あんなの」
ああ、しまった。フランにはまだ咲夜の話は早かった。
どういうわけだか、フランと咲夜は先の異変が解決するまで、一度も顔を合わせたことがなかったらしい。
片やお屋敷の中を徘徊するしかないお嬢様。片や屋敷のすべてを取り仕切るメイド長。
そんな二人が全く出会わずに過ごせるはずがない。だが、それが上手くいってしまったのだ。おそらくはレミリアの持つ“運命を操る程度の能力”によって。
何故レミリアがそんなことをしたのか、パチュリーには分からない。フランを信用していないのか、咲夜がよっぽど大事だったのか。だがどうであれ、それは自分が口出していい領分ではないのだろう。
さわさわ。
気がつけば、パチュリーの手はフランの髪の毛に触れていた。少し硬めの金髪は、あまりちゃんと手入れされていないのか、少し荒れていた。
「ちゃんと髪洗ってる？ ゴワゴワよ。今度シャンプーしてあげましょうか」
ふと、以前したレミリアとの入浴を思い出しながら提案してみる。
「吸血鬼にお風呂とか殺す気？」
「ちゃんとしたやり方をすれば大丈夫よ。シャワーを使わなければなんとでもなるわ」
自分にしては随分適当なことだと思う。それでも、フランには案外こういう何気ない会話が必要なんじゃいかと思う。もっと、意味がなく、難しくなく、日常的な。
と言っても、怪我などさせては以ての外だし、後でちゃんと調べておこう。レミリアとの経験があるとはいえ、素人判断はまずい。場合によっては咲夜に訊いた方が良いかもしれない。
「やっぱり、パチュリーって人間っぽいや」
フランは膝の上で、パチュリーを見上げながら言った。いつもの悪戯っぽい笑みが何とも眩しい。
「本物の人間なんて知らないくせに」
パチュリーの返しにフランはそうだね、と言って、目を閉じた。
このまま寝るつもりなのだろうか。この歪な膝枕は、決して寝やすいとは思えないのだけど。本当に毎度のごとく、この箱入り娘は行動が読めない。
パチュリーは小さくため息をつくと、彼女の帽子を脱がせて、机に置きっぱなしだった本を手に取った。右手は本に、左手はフランの頭に添えて、ようやく邪魔者がいなくなって文字の世界に飛び込んでいけることを喜んで。
「おやすみ」
「ええ、おやすみ」
図書館のいつもの場所に座っていたパチュリーは、先程からずっと何者かにほっぺたを弄られていた。その程度のことでは本を読むのに支障はなかったので、最初のうちは無視していた。けれども、本の整理をさせていた小悪魔にはニヤつかれ、掃除をしに来たメイド妖精たちに小声で囁かれたとあっては、さすがに気にならないわけにはいかなかった。
「妹様、いい加減止めてくれないかしら」
ひょい、と顔の右側にある細い手首を掴みながら振り向く。
「あれ、気付かれた？」
視線の先では、フランドール・スカーレットがわざとらしい驚きを顔に張り付けていた。蝋燭の灯りに反射して、青白い肌に紅が揺らめいている。
「気付かないわけがないでしょ。何してるのよ」
「こないだ紅くて白いのと、黒いのが来たじゃない？」
質問したら、逆に訊き返された。巷で狂ったと噂されている彼女との会話は、いつもちんぷんかんぷんになってしまう。まともな論理が展開されていないため、よく噛み砕いていかなければ、返答すらままならない。
今回は分かりやすいキーワードが、散りばめられていたため、まだましな方だ。大方、こないだレミリアの起こした霧の異変に乗り込んできた二人の人間のことだろう。
「霊夢と魔理沙のこと？」
「そうそう。わたし、初めて見たから驚いちゃった。生きた人間ってあんなにおもしろいんだね」
あれらを人間の基準として考えて良い物かどうか、多少の疑問は残る。吸血鬼を前にしても臆さぬどころか、屋敷へご飯や本までたかりにくるような奴らなのだから。
けど、事の詳細は大体掴めた。生まれて初めて見た人間に興味を持って、手近なところで遊んでみようと思ったのだろう。
ん？ でも待てよ。
「だからって何で私に纏わりつくのよ。私は魔法使いよ」
「だってパチュリーってさ、ちょっと人間っぽいじゃない」
その答えに、パチュリーの表情が曇る。仮にも百年以上生きた七曜の魔女に対して、人間らしいとはちょっと無礼ではないだろうか。
「どうせだったら、門番とこ行きなさいよ。あっちのほうがよっぽど人間らしいわ」
そう抗議すると、フランはパチュリーの横側へ回った。床に座り込んで、頭だけを膝の上に乗っけている。ぐりぐりと金色の髪ごと押し付けられて、少しくすぐったい。
「美鈴は固すぎるの。わたしが思いっきり叩いても、平気な人間は人間じゃないわ」
まさかの二番目である。というか、あの子大丈夫だろうか。いくら頑丈とはいえ、吸血鬼に本気で殴られてはただで済むとは思えない。
「それで、美鈴がパチュリーだったら弱っちいってこと思い出させてくれたから、ここに来たの」
前言撤回。やっぱりそのまま死んでくれてれば良かったのに。
「あのね、確かに私はあんまり身体が丈夫じゃないけど。それは魔法使いという種族にはよくある話で、私の場合は主に肺ってだけで……」
「べしべしべしべし」
「お腹殴らないで。痛いというか、こそばゆいからから」
もう、誰か助けてよ。
と、そこでこの館にはすでに真っ当な人間（こちらもある意味規格外だが）がいることを思い出した。
「そうだ、咲夜がいるじゃない。あれに相手してもらいなさいよ」
人間だし、メイドだし、などと良い考えだと思ったのだが、フランはそう思わなかったらしい。顔を伏せ、答える声は低い。
「……知らない、あんなの」
ああ、しまった。フランにはまだ咲夜の話は早かった。
どういうわけだか、フランと咲夜は先の異変が解決するまで、一度も顔を合わせたことがなかったらしい。
片やお屋敷の中を徘徊するしかないお嬢様。片や屋敷のすべてを取り仕切るメイド長。
そんな二人が全く出会わずに過ごせるはずがない。だが、それが上手くいってしまったのだ。おそらくはレミリアの持つ“運命を操る程度の能力”によって。
何故レミリアがそんなことをしたのか、パチュリーには分からない。フランを信用していないのか、咲夜がよっぽど大事だったのか。だがどうであれ、それは自分が口出していい領分ではないのだろう。
さわさわ。
気がつけば、パチュリーの手はフランの髪の毛に触れていた。少し硬めの金髪は、あまりちゃんと手入れされていないのか、少し荒れていた。
「ちゃんと髪洗ってる？ ゴワゴワよ。今度シャンプーしてあげましょうか」
ふと、以前したレミリアとの入浴を思い出しながら提案してみる。
「吸血鬼にお風呂とか殺す気？」
「ちゃんとしたやり方をすれば大丈夫よ。シャワーを使わなければなんとでもなるわ」
自分にしては随分適当なことだと思う。それでも、フランには案外こういう何気ない会話が必要なんじゃいかと思う。もっと、意味がなく、難しくなく、日常的な。
と言っても、怪我などさせては以ての外だし、後でちゃんと調べておこう。レミリアとの経験があるとはいえ、素人判断はまずい。場合によっては咲夜に訊いた方が良いかもしれない。
「やっぱり、パチュリーって人間っぽいや」
フランは膝の上で、パチュリーを見上げながら言った。いつもの悪戯っぽい笑みが何とも眩しい。
「本物の人間なんて知らないくせに」
パチュリーの返しにフランはそうだね、と言って、目を閉じた。
このまま寝るつもりなのだろうか。この歪な膝枕は、決して寝やすいとは思えないのだけど。本当に毎度のごとく、この箱入り娘は行動が読めない。
パチュリーは小さくため息をつくと、彼女の帽子を脱がせて、机に置きっぱなしだった本を手に取った。右手は本に、左手はフランの頭に添えて、ようやく邪魔者がいなくなって文字の世界に飛び込んでいけることを喜んで。
「おやすみ」
「ええ、おやすみ」