天狗の持つカメラよりも鋭く引き絞られた真っ赤な瞳の焦点。
怪しげに輝く満月の下、狙うのは肌艶のいい娘の丸みを帯びた喉元、ではなく。
肌よりも濃い小麦色に焼けた、美味しそうな四角いクッキーだった。
「今日の咲夜は機嫌がいいのかね。こんなにたくさん焼いちゃってさ」
私たちだけじゃ食べきれないわ、と苦笑いを浮かべながらしゃくしゃくと獲物を頬張っているのは、我らが紅魔館の主レミリア=スカーレット。
「機嫌がよかったら、毒蜜入りのクッキーなんて作らないと思うけど?」
そんな見当違いな感想を述べている親友に、もっともらしい疑念を率直に投げつけてから、私は紅茶のカップを少しだけ傾ける。
その中身は血のように真っ赤だけれども、普通を装う不気味なクッキーよりは幾分かましに見えた。
「え、これ毒入ってんの?」
「……やっぱり気づいてなかったのね」
「毒なんて食べても分からなきゃ、もう毒じゃないわよ」
「食べても分からないからこそ、毒なのよ」
月明かりだけが照らす静かなはずのバルコニーで、物音すら立てづらいような優雅なはずのお茶会で。
私たちは傍から聞くと馬鹿らしい冗談を、いつものように騒がしく交わし合っていた。
「ところで、パチェ」
「何かしら、レミィ」
「そろそろアロウィンだか、ハロヴィンだか、ハロエーンだかの時季でしょ」
「ええ、そうね。ハロウィンの季節だわ。で、それがどうかしたの?」
「うちでもさ、何かパーティのようなものを開きたいわけよ」
「悪魔の館なのに?」
「悪魔の館だからこそ、なのよ」
誰かさんの口調を真似しては宴の盛況を想像し笑う吸血鬼に、私はとりあえず呆れのような諦めのような複雑な視線を黙って送った。
メイド長あたりならここで、無計画そうなその提案に忠言の一つでも呈しているかもしれないが。
長年の親友だからこそよく知っている。
この小さな小さな吸血鬼は、これと決めたらひたすら一直線に駆け抜けるのだ。
どんな我侭であろうと、愚行であろうと、振り向きもせずに。
止める者すら惹き込んで、ただただ真っ直ぐに進んでいくだけ。
「せっかくのお祭りなんだし、皆でめいっぱい楽しもうじゃないか」
ゆえに、だからこそ、これ以上の言葉はいらない。
暗い夜を明るく染める月よりも頼もしく、心強いその笑顔を、今宵もまた信じてやるだけだ。
「……消えにくいランタンなら、用意してあげられるけど」
「さすがパチェ、話が分かる。おっきなかぼちゃで作って頂戴な」
「仕方ないわね」
不本意さを装いながらも頷けば、レミリアはさらに喜びに相好を崩した。
誕生日を待ちきれない子のように、ぱたぱたと羽を踊らせてはテーブルの下で軽快なステップを繰り返す。
時折見せるこの大所帯の主らしからぬ子供っぽさは、けれども彼女にはぴったりお似合いで。
思わず、広げた魔道書の影でくすりと笑ってしまった。
「よし、そうと決まれば衣装を準備しないとね」
「今の格好でも充分でしょう」
「普段と同じじゃつまらないよ。だからさ、パチェも一緒に魔女の格好をしよう」
「それこそいつもと変わらないじゃない」
「いやいや、でもそれパジャマでしょ」
また軽口を叩き合っては、仄かに香しい月見茶を交互に啜る。
少しだけその味が甘ったるくなったのは、きっと気のせいではないだろう。
笑顔という自分には似合わない表情が、しかし自然と深まっていくのを、私は本の向こう側でひしひしと感じていた。
「せっかくだし、人間たちも招待しようか」
「また人里に招待状バラまくの? この前、期待を裏切られて半べそかいてたのは、どこのどなただったっけ」
「あ、あれは、忙しながらも来てくれた人間たちに感動しただけよ」
「人間たちって言っても、紅白巫女と黒白鼠だけだけどね」
「……今回は二人だけに、特別な招待状でも作らせようかな」
ああ言えばこう言う。決して弱みを見せたがらない強がり吸血鬼。
それでも、やはりそれは単なる強がりでしかなく。
ちらりとページの隙間から彼女を見やれば、顔は若干俯きがちになり、踊っていたはずの羽と足も酔ったようにとち狂っていた。
いつのまにか見るも無残な腐り状態になっている親友の姿に、仕様がない吸血鬼様ね、と私は話題を変えてみることにした。
「ねえ、レミィ」
「なあに、パチェ」
「あなたって、本当に人間が好きよね」
「え? ああ、まあ美味しいからね」
とんだ拍子抜けの回答。
何かを思い出して今すぐ涎を垂らしそうなレミリアの大ボケな様子に、苛立ちよりも憐憫の感情が深まったのはなぜかしら。
「そうじゃ、なくって」
「何よ、いつも以上に回りくどいわね」
「咲夜や霊夢たちにしろ、人里の人間たちにしろ。そんなに気に掛けるのはやっぱり、食欲とは違った好意があるからなんでしょう?」
それは前々から頭の隅に居座っていたちょっとした疑問だった。
先ほど自ら言ったように、人間とは本来、吸血鬼にとっては食料という扱い。
ここ幻想郷では面白く興味深い人間たちも多いが。
吸血鬼としての誇り高いレミリアが、ここまで招き入れたがるほど彼らのこと気に掛けるなんて、何か特別な思い入れがあるに違いない。
ただそれが気になっただけの、話題を変えるためだけの単純な質問。
――だったのに。
「……ええ、好きよ」
薄暗闇に淡く咲いた彼女の表情は、私がずっと見守っていたはずのそれよりも、ひどく儚く見えた。
分厚い本を通り抜けて飛び込んできたその光景に、忙しなく動いていた思考が氷のように固まった。
「私よりも速く早く進んでいるから、つい追いかけ回したくなるの」
呟くように続いた声色は思考が再起動するくらい、驚くほど目の前の彼女には似つかわしくないものだった。
「どれだけスピードを上げようが、追いつけるわけもないのにね」
一人ぼっちになった時、もっとゆっくり走っておけばよかったって惜しむようになるくせにね、と。
縋りつくような声で、弱気な言葉で、寂しげな笑顔で。
普段は滅多に見せない感傷を月下に曝け出してしまっている、らしくもない親友に対して。
「――馬鹿ね、レミィ」
「パチェ?」
「それでも、並んで走ってやってるやつの存在まで、忘れてもらったら困るわ」
私は大きく開いていた本をぴしゃりと閉じて、それこそ滅多にない力強い口調と眼差しを彼女に向けた。
「ふ……ふふっ。そうだ、そうだった」
すると、今しがたの寂寥感はどこへやら。
雲間を縫って降り注ぐ月光よりも眩しくて、不敵な笑みを浮かべた次の瞬間には、レミリアはいつもの彼女に戻っていた。
「並んでも向かい合っても本ばかりだったから、忘れてたわ」
「悪かったわね」
「いや、それはそれでパチェらしいからいいの。むしろ、ちゃんと見てなかったのは私の方かもしれない」
冷めてしまったカップの中身をくるくると弄びながら、先ほどまでのことが嘘のように、今度こそ楽しそうに語り始めたレミリア。
それを見ていると私も、挟まれた戯言に律義に文句を返しながらも、思わず頬を緩めざるを得なかった。
「髪が伸びたとか、リボンの色変えたとか、今日のパジャマは可愛らしいとか、古典的な魔女の格好も似合うんだろうなとか。そんな表面的なことばかり見てた」
もっと見なくてはならないところはたくさんあったのに。
もっと知らなければならないこともたくさんあったのに。
ずっと逃していたなんて、本当にもったいないことをしたわ。
惜しむように悔やむように語る彼女は、それでも笑顔を咲かせたままだ。
「いつまでも人の尻ばかり追っかけてちゃ、いけないわね」
「その言い方だと、何だかやらしいわよ」
それが本当に嬉しそうで、楽しそうで。
それが本当に嬉しくて、楽しくて。
いつもと同じ雰囲気を、くだらない言い合いを再開しようとも。
だんだんと緩く崩れていく表情を、私は隠し通すことが出来なくなる。
「……うん。たまにはそうやって可愛い顔を見せてくれるのも、悪くない」
ますます緩んだと思ったら、次は赤くなってしまって。
誤魔化すようにまたそそくさと、この話はここで終わり、と本という名のバリケードを構え直す。
「さて、パチェ」
「どうしたの、レミィ」
そんなみっともない意固地さにも、こなれたように親友は。
「ティータイムはそろそろお開きにして、中でワインでも飲みましょうか」
脆いバリケードに張りついていた私の手を、奪うかのようにさっと掴み取った。
久しぶりに触れた彼女の柔肌は、冷たい闇に溶け込むほど白いのに、どこかじわりと温かくて。
まだ飲んでもいないのに、どくどくと心臓は鋭い鼓動を刻み始める。
「今夜は寝かせないわよ、うぶな百年魔女さん」
「どの口がそれを言うのかしら、おこちゃま五百年吸血鬼さん」
余裕を保てたのは、その可愛くない憎まれ口までだった。
怪しげに輝く満月の下、狙うのは肌艶のいい娘の丸みを帯びた喉元、ではなく。
肌よりも濃い小麦色に焼けた、美味しそうな四角いクッキーだった。
「今日の咲夜は機嫌がいいのかね。こんなにたくさん焼いちゃってさ」
私たちだけじゃ食べきれないわ、と苦笑いを浮かべながらしゃくしゃくと獲物を頬張っているのは、我らが紅魔館の主レミリア=スカーレット。
「機嫌がよかったら、毒蜜入りのクッキーなんて作らないと思うけど?」
そんな見当違いな感想を述べている親友に、もっともらしい疑念を率直に投げつけてから、私は紅茶のカップを少しだけ傾ける。
その中身は血のように真っ赤だけれども、普通を装う不気味なクッキーよりは幾分かましに見えた。
「え、これ毒入ってんの?」
「……やっぱり気づいてなかったのね」
「毒なんて食べても分からなきゃ、もう毒じゃないわよ」
「食べても分からないからこそ、毒なのよ」
月明かりだけが照らす静かなはずのバルコニーで、物音すら立てづらいような優雅なはずのお茶会で。
私たちは傍から聞くと馬鹿らしい冗談を、いつものように騒がしく交わし合っていた。
「ところで、パチェ」
「何かしら、レミィ」
「そろそろアロウィンだか、ハロヴィンだか、ハロエーンだかの時季でしょ」
「ええ、そうね。ハロウィンの季節だわ。で、それがどうかしたの?」
「うちでもさ、何かパーティのようなものを開きたいわけよ」
「悪魔の館なのに?」
「悪魔の館だからこそ、なのよ」
誰かさんの口調を真似しては宴の盛況を想像し笑う吸血鬼に、私はとりあえず呆れのような諦めのような複雑な視線を黙って送った。
メイド長あたりならここで、無計画そうなその提案に忠言の一つでも呈しているかもしれないが。
長年の親友だからこそよく知っている。
この小さな小さな吸血鬼は、これと決めたらひたすら一直線に駆け抜けるのだ。
どんな我侭であろうと、愚行であろうと、振り向きもせずに。
止める者すら惹き込んで、ただただ真っ直ぐに進んでいくだけ。
「せっかくのお祭りなんだし、皆でめいっぱい楽しもうじゃないか」
ゆえに、だからこそ、これ以上の言葉はいらない。
暗い夜を明るく染める月よりも頼もしく、心強いその笑顔を、今宵もまた信じてやるだけだ。
「……消えにくいランタンなら、用意してあげられるけど」
「さすがパチェ、話が分かる。おっきなかぼちゃで作って頂戴な」
「仕方ないわね」
不本意さを装いながらも頷けば、レミリアはさらに喜びに相好を崩した。
誕生日を待ちきれない子のように、ぱたぱたと羽を踊らせてはテーブルの下で軽快なステップを繰り返す。
時折見せるこの大所帯の主らしからぬ子供っぽさは、けれども彼女にはぴったりお似合いで。
思わず、広げた魔道書の影でくすりと笑ってしまった。
「よし、そうと決まれば衣装を準備しないとね」
「今の格好でも充分でしょう」
「普段と同じじゃつまらないよ。だからさ、パチェも一緒に魔女の格好をしよう」
「それこそいつもと変わらないじゃない」
「いやいや、でもそれパジャマでしょ」
また軽口を叩き合っては、仄かに香しい月見茶を交互に啜る。
少しだけその味が甘ったるくなったのは、きっと気のせいではないだろう。
笑顔という自分には似合わない表情が、しかし自然と深まっていくのを、私は本の向こう側でひしひしと感じていた。
「せっかくだし、人間たちも招待しようか」
「また人里に招待状バラまくの? この前、期待を裏切られて半べそかいてたのは、どこのどなただったっけ」
「あ、あれは、忙しながらも来てくれた人間たちに感動しただけよ」
「人間たちって言っても、紅白巫女と黒白鼠だけだけどね」
「……今回は二人だけに、特別な招待状でも作らせようかな」
ああ言えばこう言う。決して弱みを見せたがらない強がり吸血鬼。
それでも、やはりそれは単なる強がりでしかなく。
ちらりとページの隙間から彼女を見やれば、顔は若干俯きがちになり、踊っていたはずの羽と足も酔ったようにとち狂っていた。
いつのまにか見るも無残な腐り状態になっている親友の姿に、仕様がない吸血鬼様ね、と私は話題を変えてみることにした。
「ねえ、レミィ」
「なあに、パチェ」
「あなたって、本当に人間が好きよね」
「え? ああ、まあ美味しいからね」
とんだ拍子抜けの回答。
何かを思い出して今すぐ涎を垂らしそうなレミリアの大ボケな様子に、苛立ちよりも憐憫の感情が深まったのはなぜかしら。
「そうじゃ、なくって」
「何よ、いつも以上に回りくどいわね」
「咲夜や霊夢たちにしろ、人里の人間たちにしろ。そんなに気に掛けるのはやっぱり、食欲とは違った好意があるからなんでしょう?」
それは前々から頭の隅に居座っていたちょっとした疑問だった。
先ほど自ら言ったように、人間とは本来、吸血鬼にとっては食料という扱い。
ここ幻想郷では面白く興味深い人間たちも多いが。
吸血鬼としての誇り高いレミリアが、ここまで招き入れたがるほど彼らのこと気に掛けるなんて、何か特別な思い入れがあるに違いない。
ただそれが気になっただけの、話題を変えるためだけの単純な質問。
――だったのに。
「……ええ、好きよ」
薄暗闇に淡く咲いた彼女の表情は、私がずっと見守っていたはずのそれよりも、ひどく儚く見えた。
分厚い本を通り抜けて飛び込んできたその光景に、忙しなく動いていた思考が氷のように固まった。
「私よりも速く早く進んでいるから、つい追いかけ回したくなるの」
呟くように続いた声色は思考が再起動するくらい、驚くほど目の前の彼女には似つかわしくないものだった。
「どれだけスピードを上げようが、追いつけるわけもないのにね」
一人ぼっちになった時、もっとゆっくり走っておけばよかったって惜しむようになるくせにね、と。
縋りつくような声で、弱気な言葉で、寂しげな笑顔で。
普段は滅多に見せない感傷を月下に曝け出してしまっている、らしくもない親友に対して。
「――馬鹿ね、レミィ」
「パチェ?」
「それでも、並んで走ってやってるやつの存在まで、忘れてもらったら困るわ」
私は大きく開いていた本をぴしゃりと閉じて、それこそ滅多にない力強い口調と眼差しを彼女に向けた。
「ふ……ふふっ。そうだ、そうだった」
すると、今しがたの寂寥感はどこへやら。
雲間を縫って降り注ぐ月光よりも眩しくて、不敵な笑みを浮かべた次の瞬間には、レミリアはいつもの彼女に戻っていた。
「並んでも向かい合っても本ばかりだったから、忘れてたわ」
「悪かったわね」
「いや、それはそれでパチェらしいからいいの。むしろ、ちゃんと見てなかったのは私の方かもしれない」
冷めてしまったカップの中身をくるくると弄びながら、先ほどまでのことが嘘のように、今度こそ楽しそうに語り始めたレミリア。
それを見ていると私も、挟まれた戯言に律義に文句を返しながらも、思わず頬を緩めざるを得なかった。
「髪が伸びたとか、リボンの色変えたとか、今日のパジャマは可愛らしいとか、古典的な魔女の格好も似合うんだろうなとか。そんな表面的なことばかり見てた」
もっと見なくてはならないところはたくさんあったのに。
もっと知らなければならないこともたくさんあったのに。
ずっと逃していたなんて、本当にもったいないことをしたわ。
惜しむように悔やむように語る彼女は、それでも笑顔を咲かせたままだ。
「いつまでも人の尻ばかり追っかけてちゃ、いけないわね」
「その言い方だと、何だかやらしいわよ」
それが本当に嬉しそうで、楽しそうで。
それが本当に嬉しくて、楽しくて。
いつもと同じ雰囲気を、くだらない言い合いを再開しようとも。
だんだんと緩く崩れていく表情を、私は隠し通すことが出来なくなる。
「……うん。たまにはそうやって可愛い顔を見せてくれるのも、悪くない」
ますます緩んだと思ったら、次は赤くなってしまって。
誤魔化すようにまたそそくさと、この話はここで終わり、と本という名のバリケードを構え直す。
「さて、パチェ」
「どうしたの、レミィ」
そんなみっともない意固地さにも、こなれたように親友は。
「ティータイムはそろそろお開きにして、中でワインでも飲みましょうか」
脆いバリケードに張りついていた私の手を、奪うかのようにさっと掴み取った。
久しぶりに触れた彼女の柔肌は、冷たい闇に溶け込むほど白いのに、どこかじわりと温かくて。
まだ飲んでもいないのに、どくどくと心臓は鋭い鼓動を刻み始める。
「今夜は寝かせないわよ、うぶな百年魔女さん」
「どの口がそれを言うのかしら、おこちゃま五百年吸血鬼さん」
余裕を保てたのは、その可愛くない憎まれ口までだった。