ドッペルゲンガーを見たものは近いうちに死ぬらしい。
そんな噂話が幻想郷で流れていたのはいつだったか。
頭をひねっても出てこないぐらいにはすぐに消えてしまったくだらない噂話だ。
元より死に近い土地で生まれ育った私にとっては、輪をかけてどうでもいい話だった。
朝の掃き掃除を終えて、木刀で素振りをする。空を斬る音が朝の静けさをも切り裂いて心地よく感じた。
物心が付いた頃から、この一連の日課を欠かしたことがない。それは私の密かな自慢であった。
顕界は既に梅雨時を迎えている。比較的涼しい冥界も、一頃に比べれば随分と暖かくなり、もう二月もすれば本格的に夏が来る。
今年はこっそり、里のお祭りにも参加してみたいな……なんて。
――思えば、少々私は浮かれすぎていたのか。
魂魄家に伝わる宝剣、白楼剣と楼観剣が霧のように消え失せたその日は、日課をこなした後の、ちょっとだけ湿っぽい朝から始まった。
「ない! ない! どこにもない!」
ひっくり返しても裏返してみてもめくってみても、二振りの刀は陰も形も無くなっていた。掃き掃除のときまでは持っていて、それからきちんと部屋に置いていたはずなのに。
そも、二振りとも結構な大きさの物。日光を浴びると蒸発するだとか自我を持ったとか、そういう新機能が搭載されたとかでなければ消え失せるなんてことはあるわけがないのに。
「幽々子様が勝手にどこかへ……」
かぶりを振って、その想像を否定する。
いくら破天荒な主人とはいえ、人の物を勝手に持ち出してなんて――自分勝手に春を集めたりはしたけれども、それはそれ。人の部屋に勝手に入って持ち出すことをするほど彼女が非常識な人物だとは思えない。
とすると、第三者を疑う必要が出てくる。可能性があるのは白黒魔法使いか、何を考えているかわからない主人の友人くらいなもの。しかし、前者がやったことならば、自分が気付かないわけがない。
人間としては手練の魔法使いかもしれないが、気配を消すことに長けているわけではない。神経が研ぎ澄まされている素振りの最中に彼女が来たとしても、即座に迎え撃てる自信はある。
とすると、疑う相手は主人の友人――八雲紫様、になる。
しかし彼女が犯人だとして、いったい、二振りの刀を何に使おうというのか。
まさか理由もなく、他人の大事な物を持ち出したりはしないと思いたい。
しかししかし、現状疑う相手は彼女以外にはいないわけで……。
朝食を摂りながら、どう話を切り出したものかと悩んでいたせいで、空の茶碗からご飯をつまもうとしていた。
「お代わり、食べる?」
「ああいえっ、少し考え事を」
「そう? なんだか顔色も優れないし、ちょっと変みたい」
「そ、そうですか? そんなことないですよ! いつもより三割増しで体調は良いです!」
「ならいいのだけど」
「いやはや……」
そういうと幽々子様は自分のお茶碗に慎ましげにご飯をよそっていた。ご飯の量は自分で決めたいとのことらしい。人様のところではさすがにしないみたいだけど。
それはそうと、刀に関しては誤魔化せた、と思う。時々異常に鋭いところがあるから、突っ込まれる前に見つけ出したい。そのためにもまずは紫様に話を聞きにいかなければ。
しかし、困ったことに紫様の家には”招かれなければ辿りつけない”不可思議な境界が張られている。唯一、幽々子様だけは遊びにいけるそうだけど、私にはその資格はないわけであって。
刻一刻と、打つ手がないまま時間だけが過ぎて行く。
あら、剣はどうしたの? と言われないよう、今日は書に勤しみますと言い、部屋に閉じ篭って写経をかれこれ数刻。
命蓮寺の方から頂いた巻物の一字一句を書き写しているけれども、残念なことに内容が頭に入ってこない。
頭の中には、このままみつからなかったらどうしようという気持ちでぎゅうぎゅう詰めなので、ある意味煩悩だらけなのかもしれない。
解脱からはほど遠い。
「あら妖夢、写経しているんじゃなかったの?」
廊下から幽々子様の声が聞こえてきた。
一体何の話をしているんだか。そこらへんに生えてたキノコでも食べて幻覚症状でも見始めたんだろうか。
……ちょっとありそう。
「これからちょっと、お寺に行って参ります。聖様にお呼ばれしているので」
その声に一瞬心臓が止まりかけた。自分で聞いている声と、他人が聞いている声は違うとは聞いたことがある。けど、"魂魄妖夢"として会話している何者かは、さも当然のように幽々子様と会話している。
はじかれた鉄砲弾のように廊下に飛び出した私は、目を丸くして驚く幽々子様が口を開く前に言う。
「幽々子様! いま私がここに居たのですね!?」
「え、ええ……お寺に行くって、そのまま出て行っちゃったけど」
「あの! 白楼剣と楼観剣をそいつはもっていませんでしたか!?」
ドッペルゲンガーを見たものは近いうちに死ぬらしい。
じゃあ、そのドッペルゲンガーが物を勝手に持ち出してどこかへ行くなんていうことはあるんだろうか。
『背負ってたわよ、二振りとも』
全速力で階段を駆け下りて、目指すは命蓮寺。
幻想郷の中に寺はその一つのみ。
刃の付いていない練習用の刀を背負って飛び出したはいいものの、私はドッペルゲンガーと出会ってどうするのか。
どう転ぶかはわからないけれども、たぶん戦うことも覚悟しなければならないだろう。
相手が化けているだけの妖怪ならばこの刀でも斬り潰す自信はあるが、もしも自分と全く同じ技量を持つ相手ならば、得物の分こちらのほうが不利。
もしも敗れるなんてことがあれば、今日から魂魄妖夢はそいつだということになってしまう。つまり、いままで魂魄妖夢だった私は死ぬということ、それだけはなんとか避けなくてはいけない。
休憩する暇も惜しんで駆け続けたけれど、先に出て行ったという背中はいっこうに見えてこなかった。となると当然、相手も走っているということになる。一体何の目的があって私から逃げているのか。もしくは、寺へ急ぐ理由があるのか。そもそもなぜ、寺へ行くのか。
何度か挨拶はしたことがあるぐらいで、私と寺にはほとんど接点がないというのに。
道すがら、烏天狗の射命丸文に会った。
くだらない取材に付き合っている暇はない。私はそのまま通り過ぎようと速度を上げる。
「あれ? 妖夢さん? え、さっきあっちに行ったのに……まぁいいや、さっきの約束、忘れないでくださいねー!」
その言葉に足が止まった。もとい、飛翔が止まった。
おのれ偽物め、誰の許可を得て勝手に約束なんてしてくれるんだ。
「……文さん、えぇとすみません、度忘れしてしまいまして……私は先ほど何を約束したんでしたっけ?」
嫌な予感がするも、聞かずにはいられない。
私の質問に文はほくほく顔で答える。
「えー? やだなぁ妖夢さん。一日密着取材で妖夢さんと幽々子さんのおはようからおやすみ、そしてその間にある濃密で濃ゆくて深いディープな情事まで全て語ってくれるって約束してくれたじゃないですかぁ~」
「あんの……偽物めッ!!」
怒り心頭に発するとはこのことだろう。
私は必ず二振りを奪い返す決意を新たに、さらにその上でギタギタに切り潰してやろうと心に誓った。
「え? 偽物? ガーン! じゃあさっきの約束は!?」
「もちろん、キャンセルです!」
「そ、そんなぁ……」
露骨にしょぼくれる文さんだったが、仕方ない。約束をしたのは私ではないのだ。
「ではこれで」
「あ、偽物と言えば」
去り際に背中から声をかけられる。
「新しく出来たお寺に、物体の認識を否定し、正体を判らなくするという妖怪がいるみたいですね。面白そうなので、いずれ取材したいと思っているのですが……」
それを聞いた私は地を蹴っていた。
そいつが犯人に違いない。
私はお寺までの道を急いだ。
命蓮寺の門をくぐると、そこには私が立って居て、船幽霊と頭巾を被った尼さんと談笑をしていた。
そしてこちらに気付くと、不敵に笑いかけてきた。
船幽霊と尼さんは状況が上手く把握できていないようで、顔を見合わせたり、こちらともう一人の私の顔を見比べていたりする。
「私の白楼剣と楼観剣を返してもらうぞ、偽者め!」
得体の知れない気持ちの悪さが湧き上がってくる。自分と同じ顔が目の前に立っていて、自分であるかのように振舞っているというのはこれほどまで嫌悪感を催すものなのか。
「偽者? それは私の台詞だ。どこの妖怪かは知らないが、さっさと変身を解いたほうがいいんじゃない? さもなくば、この刀の錆びになってもらう」
私が、構えを取った。私と呼ぶのには抵抗があるけれども、便宜上でもなんと呼べばいいのかわからないから私と呼んでおく。
それはともかく、他人の敷地内で仕掛けてくるつもりなのだろうか。
「それは私が祖父から受け継いだ大事な刀だ。お前のようなどこの馬の骨とも知れない奴に使う資格などない。構えだけは魂魄流を真似できているようだけど、魂魄流はそこまで浅くはない!」
ここで戦ってしまったらお寺にも迷惑がかかってしまうからどこか広い場所で――と思ったところで上段からの打ち込みを受ける。私は咄嗟にに鞘のままそれを防いだ。
「くっ!」
――周りへの迷惑お構いなしに闘るつもりか。
反射的に腹を蹴り飛ばそうとする。しかし予測されていたのか、ひらりとバク宙。そのまま距離を取られた。
「ふふ……」
練習用の刀しか持っていない私をどう料理してやろうかと、舌なめずりをするもう一人の私。
(……そんな下品なことを戦いの最中にしていいと誰に教えられたッ!)
カッと頭に血が上る。私は勢いに任せて突進。上段に構えた刀を力任せに振り降ろす。相対する私はそれを横にずれることでなんなく避ける。隙だらけになった顔面に、刀の柄で容赦なく殴られる。
「ぎッ!」
こめかみを痛打。距離が近かったことによって刃で反撃されないことが救いだった。
奥の奥を刺すような痛みが頭に響く。しかし、それによって私は冷静さを取り戻すことができた。
相手の狙いは、挑発して太刀筋を荒くし、できた隙に大技を叩きこむことだろう。先ほどは運が良かったとしか言いようがない。けれど、もはやその手は通用しない。邪道の剣を正面から打ち破るのが、祖父から教わった魂魄流だ。常日頃口酸っぱく言われていたことだ。
――心は常に平静に、一瞬の炎を以てして相手を制せ。
私はもう、そのことを思い出した。負ける道理などない。
数瞬の睨みあい。空気が重く感じられた。
こちらが動かないのに焦れたのか、舌打ちのような仕草をしてから刀を鞘に収めた。突進、抜刀術からの最速の一撃、未来永劫斬を狙っているだろうことは想像に難くはなかった。
対して私は青眼の構えから剣先を落として、下段の構えを取る。どちらかと言えば攻めたがりの私は、時を斬るとされる未来永劫斬は比較的早く身に付けることができた(もちろん、祖父が居ればうぬぼれるなと一喝されてしまうだろうが)。しかし、守りの奥義である六根清浄斬は身に付けるのに倍以上も時間をかけてしまったうえに、実戦でもほとんど使ったことがない。
けれども、いまはそれで受けるのが最善に思えた。対峙して、しばらく睨み合う。すっかり観客と化した二人が生唾を飲みこむ音までハッキリと聞こえてくる。ネズミが鳴く声がする。寺の中誰かが転んだ音がする。
既に私の手は刀をいなすために動いていた。一度動き出した動きを止めるのはとてつもない負担がかかる上に、刹那の隙が生死を分ける攻防で、後の先が取られたほうというのは、踏み込みも甘く、中途半端な攻めになる。
横なぎの一撃をいなして、体勢が崩れたところで懐にもぐり込んで。
――顔面を、思いっきりに殴りつけてやった。
「がッ!?」
きりもみになって吹き飛んだ偽者は、ずしゃりと音を立てて地に臥せる。そしてそのまま気を失って、どろんと元の姿へと戻った。
「――あっ」
「おっ」
その正体は、ドッペルゲンガーなどではなく、自らの半身である半霊だった。
物陰からの声に気付き、私はそちらを向いた。見ると確かあれは……。
「封獣、ぬえ」
正体不明の種を以て、そのものの認識をずらし、正体を判らなくする能力の持ち主だ。今回の一件に彼女が絡んでいるとすると、なるほど符号が付く。
「全て貴様の仕業か……!」
「えっ? えっ? えっ?」
刀に手をかけ、ずんずんそいつに近づく。
「答えろ! なぜこのような真似をしたッ!」
「へ、え? なんのこと? 意味わかんないんだけど!」
「白を切るか。ならば刀の錆にするまで!」
「わぁー! ちょっと待って! なになに!? あんたが二人になってたのなら私じゃないよ!?」
「嘘を吐くな!」
ちゃき、と鳴る刀を見てぬえは震え上がる。
「ぎゃあー!? ほほほ、ほんとだって! ずっとお寺にいたし! ねえ村紗! 一輪!?」
「んー、どうだったかしら。よく覚えてない。食事の後片付けをしないってことは覚えてるけど」
「ぬえっていっつもふらふらしてるしね。お掃除もしないで」
「わぁーんごめんなさいごめんなさい! これからはちゃんとするからぁー!」
そろそろ本気で泣きが入るぬえを見て、あっはっはと笑う船幽霊と尼さん。私は少しそら恐ろしいものを感じた。
「剣士さん、ぬえの言ってることは本当よ。ずっとお寺にいたわ」
「ええ、ぬえは悪戯好きでお掃除もしないし片付けもしないし靴下も脱ぎっぱなしでどうしようもなくずぼらな――」
「もういいでしょ!?」
「はいはい。そんなやつだけど、今回に関しては嘘はついてないわよ」
「そ、そうですか。それでは……」
ちらりとぬえを見やる。彼女はぬぇええんと泣いていた。ちょっとだけ心が痛んだ。
「えぇーと……ごめんなさい。ぬえさん」
「ばかぁー!」
はてさて。今一つ状況が上手く飲み込めていない二人に話を聞くと、なんでもここの主である聖白蓮が迷いを断ち切れる刀の噂を聞いて冥界へと手紙を出していたらしい。もちろん私はそんなことは知らなかったし、おそらく、幽々子様もそんな手紙のことは知らなかっただろう。
「同じ顔が二人現れたときはどうしようかと思ったけど、あなたの半分は幽霊だったのね」
「半人半霊の家系なので」
「幽霊って子供作れるのね」
船幽霊はその後も、幽霊が子供を作れるか否かについてを熱心に聞いてきたけども、途中で尼さんに頭を叩かれてしょぼくれていた。
聖白蓮ではなく、まずはこの船幽霊を斬ったほうが倫理的にも良いのではないかと思ったが、怒られそうなので口に出すのはやめておいた。
飛び出してきたネズミに驚いて転び、壷を割ったらしい妖獣が部屋から出てこないというどうでもいい事件はあったものの、しばらくして聖白蓮と対面することができた。
冥界に出した手紙の内容は、相談事であった。果たして自分はこの幻想郷で幸福に暮らしていいものなのか。自分を信じてくれた妖怪たちにそれで顔向けができるのか。その迷いを断ち切り自分の道を探りたいという旨が手紙に記されていたらしい。聖さんの吐露に対して、私は迷ったが、一応テキトーに白楼剣で斬るマネだけはしておいた。正直未熟者の身でこのようなことをするのは憚られるけれども、求められているのに何もしないというのも間違っている気がする。
感謝の言葉を貰いながら、少しばかしもやもやした気持ちで家路に着くと、幽々子様が見たことがないくらいに頬が膨れていた。
「いつのまにか二人に増えてたし半霊はどっかにやってるし理由もなく飛び出してくしでとっても心配したんだから」
「すみません……。でも、ちゃんと連れ戻してきたので大丈夫です」
「思春期なのかしらね。半霊が勝手に刀を持ち出してたの?」
「うっ……。バレてたんですか?」
「当たり前じゃないの。朝からずっとよそよそしいから何かしらって思って、紫のところにまで行ったんだから」
「すみません……」
「いいのよ。未来永劫斬をいなしてパーンチなんてかっこよかったんだから!」
あ、全部見られてたんだ。
なんか自分がしたことが急に恥ずかしくなってきた。半霊も段々色が濁ってきてるし同じ気持ちなんだと思う。
「ご飯できてるから一緒に食べましょ、おなかすいてるでしょ」
「えっ、幽々子様が作ったんです?」
「そうよー。自分の半霊を打ち破ったらそれが魂魄家の成人の証なのよ」
「なっ……」
朝からおろおろしていたのとか、ドッペルゲンガーを見たから死ぬんじゃないかとか、そういうことも全部私の空回りで、幽々子様は全部知ってらしたんじゃないか。
なんかもう。
「幽々子様の、ばかー!」
「ばかー、はどちらさんかしら?」
どこからともなく聞こえてくる声。次の瞬間、空間に亀裂が入り、ぱっくりと隙間ができる。
「ゆ、紫様……」
「あら、紫」
口元を扇子で隠し微笑む所作はいつも通りだが、目が笑っていないように見える。はて、何かしただろうか。
「あなた最初、私が犯人だと思い込んでいたわよね」
「ぎくっ! どうしてそれを!」
「ゆかりんにわからないことなんてありません。しかも、天狗の噂話に揺さぶられ、関係のない妖怪を切りつけようとする始末。あら大変。とっても半人前だわ、幽々子」
「そうねぇ」
まずい。妙な流れになってきた。
「成人として認めるには、まだ早すぎるかもしれないわよ。甘やかしたらダメ」
「そうかもしれないわね。うん、妖夢は当分半人前」
花が咲いたように笑うお二方。それを見て、思うことがある。
……今回のことで、心身ともに未熟な部分がまだまだあることを再確認させられました。魂魄の家の者として、西行家の従者として、学ばなくてはいけないことがあるように思いますが、今は目の前で笑う二人に未来永劫斬を叩き込みたいです。どうかお許しを、おじいちゃん。
おしまい
とても面白かったです!