おうとつをなぞるように表面を撫でると、ザラザラとした感触がかえってきた。
白玉楼、その庭。長い時を生きる桜の木の前に私は立っていた。二度三度と太い樹を撫で、指先と手の平で生命を感じ取る。
お昼前の時間になんとなく庭先に出て、そんなことをしていた。
何か思う事があったわけではない。ただ、ちょっぴり寂しくなって、ここに来て咲かぬ桜を撫でたりしてみたのだ。
理由なんて、あってないようなもの。
音もなくふいた風に目を細めて、靡く髪を軽く押さえる。ぱたぱたと着物のすそがはためく音が、どうしてか耳についた。
「幽々子様」
不意に、凛とした声が庭に響いた。振り返れば、縁側に妖夢が立っているのが見えた。
何があるわけでもないというのに、キリリと顔を引き締めている。
常に気を張る修行でもしているのかしら。
そんなことを思いつつ、なあに?と声をあげようとして、やめる。少し思いついてしまった。
とん、と地を蹴って跳び、十センチほどの高さに浮かぶ。それから、ふよふよと漂うように妖夢へと近づいて行く。
妖夢は私の顔を目で追いながら、私の到着をじっと待っていた。
「あまい」
「はい?」
妖夢の目前まで来て、開口一番にそう言ってみるとすぐに間の抜けた声がかえってきた。
「あ、あまい、とは…?」
「だから、あまいのよ。その意味も考えず」
答えてやれば、慌てて考え出す妖夢。眉を八の字にしてうんうんうなる様子には、もはや緊張の欠片もなかった。かわいい。
「それで妖夢、何の用なの?」
「……あっ、はい」
思いついたことをやって満足したので、私を呼びに来た理由を聞いてみた。
妖夢は背筋を伸ばして、紫様がお見えになりました、と言った。
◆
カコン、と、開け放たれた戸の向こうから小気味の良い音が聞こえてくる。
卓袱台を挟んで私の対面に座る紫は、妖夢の出したお茶を飲んで、息をついた。
静かに湯呑みを置き、こちらに目を向ける。いつもながらに思うのだけれど、
その動きのひとつひとつがいちいち艶っぽくて、それでいて幼い印象を受けるのだから、
何とも不思議な気分になる。
「……」
何時の間にか、私は紫の事を観察していた。
白く細い手に、瑞々しい唇に、綺麗な瞳。
そんな、いつもは気にならない、紫を形作るそれらが今日に限って目を引いた。
私が見ていることに気が付いた紫が僅かに首をかしげて見せるまで、私は紫から目を離さなかった。
誤魔化しに庭の桜の木を見ていると、紫はくすりと笑いを零して、それから他愛もない話を始めた。
外の世界がどうの、里がこうの。
式が良く働いてくれると紫が語るのが、あまりにも自慢っぽく聞こえて癪だったので、私も妖夢を自慢した。
妖夢が作るご飯はおいしいとか、ふとした時に髪を弄るのが可愛いとか。
流れるように会話は続いていく。
時々笑ったり、意見を言い合ったり。
それは、とても有意義で、優しい時間だった。
さて、と紫が呟いて、立ち上がった。
「行くの?」
私も立ち上がり、問いかける。
ええ、と紫は頷いて、私に笑いかける。
笑い返すと、すっと手が伸びてきて、私のほほに触れた。
「また来るわ」
何故だか、一瞬その言葉の意味が分からなかった。
理解したとき……雪が溶けていくように、私の胸の内にあった不安や、わけのわからぬ悲しみが流れて行った。
「いつでも。好きな時に」
紫の手に私の手を重ねて、そう言う。
紫はただ、小さくうなずいた。
◆
「幽々子様」
庭の桜の木を撫ぜていると、妖夢がやってきた。
何やら不安そうな顔をしている。
それが、私にはとんでもなく悲しげに見えて、そして妖夢には全然似合わない表情だから、
どうにかしようと思って、笑いかけた。
すると妖夢は拍子抜けしたかのような表情になって、
「えっと…もう大丈夫なのですか……?」
と言った。
何が―?と聞き返すと、もごもごしだす。
まったく、可愛いんだから、この娘は。
なんだか嬉しさがこみ上げてきた。
その嬉しさを顔いっぱいで表すと、妖夢から不安の色が消えた。
ぽん、と妖夢の頭に手を乗せて、撫でる。
「幽々子様、何を…?」
妖夢が声を漏らすのも構わず、思う存分撫でてから、ふとお腹が空いているのを感じた。
「妖夢、今日のご飯は?」
妖夢は嬉しそうに、今日の献立を言った――。
◆
ああ、忘れていたわ、可愛い妖夢。
私のそばには、紫やあなたがいることを。
悲しい気持ちなんて、あなたたちの前で抱く感情なんかじゃないわね。
ぽつぽつと雨が降り始めた。
妖夢が私を急かす。早く屋内に入りましょう、濡れてしまいます、と。
空から落ちてくる粒を手の平で受けて、空を見上げる。
どんよりとした雲。
涙のように振ってくる雨。
顔をおろし、妖夢を見る。
妖夢が私を呼んでいた。
「今行くわ」
と声をあげて、私は妖夢の元へと歩いて行った―――
白玉楼、その庭。長い時を生きる桜の木の前に私は立っていた。二度三度と太い樹を撫で、指先と手の平で生命を感じ取る。
お昼前の時間になんとなく庭先に出て、そんなことをしていた。
何か思う事があったわけではない。ただ、ちょっぴり寂しくなって、ここに来て咲かぬ桜を撫でたりしてみたのだ。
理由なんて、あってないようなもの。
音もなくふいた風に目を細めて、靡く髪を軽く押さえる。ぱたぱたと着物のすそがはためく音が、どうしてか耳についた。
「幽々子様」
不意に、凛とした声が庭に響いた。振り返れば、縁側に妖夢が立っているのが見えた。
何があるわけでもないというのに、キリリと顔を引き締めている。
常に気を張る修行でもしているのかしら。
そんなことを思いつつ、なあに?と声をあげようとして、やめる。少し思いついてしまった。
とん、と地を蹴って跳び、十センチほどの高さに浮かぶ。それから、ふよふよと漂うように妖夢へと近づいて行く。
妖夢は私の顔を目で追いながら、私の到着をじっと待っていた。
「あまい」
「はい?」
妖夢の目前まで来て、開口一番にそう言ってみるとすぐに間の抜けた声がかえってきた。
「あ、あまい、とは…?」
「だから、あまいのよ。その意味も考えず」
答えてやれば、慌てて考え出す妖夢。眉を八の字にしてうんうんうなる様子には、もはや緊張の欠片もなかった。かわいい。
「それで妖夢、何の用なの?」
「……あっ、はい」
思いついたことをやって満足したので、私を呼びに来た理由を聞いてみた。
妖夢は背筋を伸ばして、紫様がお見えになりました、と言った。
◆
カコン、と、開け放たれた戸の向こうから小気味の良い音が聞こえてくる。
卓袱台を挟んで私の対面に座る紫は、妖夢の出したお茶を飲んで、息をついた。
静かに湯呑みを置き、こちらに目を向ける。いつもながらに思うのだけれど、
その動きのひとつひとつがいちいち艶っぽくて、それでいて幼い印象を受けるのだから、
何とも不思議な気分になる。
「……」
何時の間にか、私は紫の事を観察していた。
白く細い手に、瑞々しい唇に、綺麗な瞳。
そんな、いつもは気にならない、紫を形作るそれらが今日に限って目を引いた。
私が見ていることに気が付いた紫が僅かに首をかしげて見せるまで、私は紫から目を離さなかった。
誤魔化しに庭の桜の木を見ていると、紫はくすりと笑いを零して、それから他愛もない話を始めた。
外の世界がどうの、里がこうの。
式が良く働いてくれると紫が語るのが、あまりにも自慢っぽく聞こえて癪だったので、私も妖夢を自慢した。
妖夢が作るご飯はおいしいとか、ふとした時に髪を弄るのが可愛いとか。
流れるように会話は続いていく。
時々笑ったり、意見を言い合ったり。
それは、とても有意義で、優しい時間だった。
さて、と紫が呟いて、立ち上がった。
「行くの?」
私も立ち上がり、問いかける。
ええ、と紫は頷いて、私に笑いかける。
笑い返すと、すっと手が伸びてきて、私のほほに触れた。
「また来るわ」
何故だか、一瞬その言葉の意味が分からなかった。
理解したとき……雪が溶けていくように、私の胸の内にあった不安や、わけのわからぬ悲しみが流れて行った。
「いつでも。好きな時に」
紫の手に私の手を重ねて、そう言う。
紫はただ、小さくうなずいた。
◆
「幽々子様」
庭の桜の木を撫ぜていると、妖夢がやってきた。
何やら不安そうな顔をしている。
それが、私にはとんでもなく悲しげに見えて、そして妖夢には全然似合わない表情だから、
どうにかしようと思って、笑いかけた。
すると妖夢は拍子抜けしたかのような表情になって、
「えっと…もう大丈夫なのですか……?」
と言った。
何が―?と聞き返すと、もごもごしだす。
まったく、可愛いんだから、この娘は。
なんだか嬉しさがこみ上げてきた。
その嬉しさを顔いっぱいで表すと、妖夢から不安の色が消えた。
ぽん、と妖夢の頭に手を乗せて、撫でる。
「幽々子様、何を…?」
妖夢が声を漏らすのも構わず、思う存分撫でてから、ふとお腹が空いているのを感じた。
「妖夢、今日のご飯は?」
妖夢は嬉しそうに、今日の献立を言った――。
◆
ああ、忘れていたわ、可愛い妖夢。
私のそばには、紫やあなたがいることを。
悲しい気持ちなんて、あなたたちの前で抱く感情なんかじゃないわね。
ぽつぽつと雨が降り始めた。
妖夢が私を急かす。早く屋内に入りましょう、濡れてしまいます、と。
空から落ちてくる粒を手の平で受けて、空を見上げる。
どんよりとした雲。
涙のように振ってくる雨。
顔をおろし、妖夢を見る。
妖夢が私を呼んでいた。
「今行くわ」
と声をあげて、私は妖夢の元へと歩いて行った―――
個人的にはすらすらと読めてよかったです