薬の行商の帰り道。藪の中から男が出てきた。
両手でクマザサをかき分けて、ふらふらとした足取りで抜け出してきた。
その顔が急に明るくなった。飛び跳ねるように里の方へ走っていく。びしゃびしゃ。水たまりを駆け抜ける音が響いた。
今日もまた、竹林の案内人が大活躍、というわけだ。遠ざかっていく男から喜びの波が飛び散っている。そのほとんどは私をかすめるように竹の群に中へ向かっていった。その中にぼんやりと見えるウサギの姿から見ても、てゐの仕業で間違いない。
もうひとつふたつ、画像が飛んできた。袋に入った錠剤に、男と並んで立つ女。意味は、説明なんかなくてもわかる。
間の悪い奴だ。ついさっき私が里を回ってきたばかりだというのに。入れ違いだったみたいね。
待てばいいじゃない。私の行商の日付は前もって伝えてある。待って、私から買えば楽。なぜ無駄な労力を払いたがるのかしら。
クマザサの群を横目に歩き、細い道の前まで来た。そこで進路を曲げて竹林の中に足を進める。
左右から飛び出る笹で見通しが悪い。道をふさぐように飛び出した葉っぱを、首をすくめて避ける。大ぶりの笹に耳が触れて水滴がこぼれ落ちた。
「きゃっ!」
ひやっとした物がほおを伝い、首筋に飛びこむ。上を見、細かな水滴をまとった犯人を見つけた。
目で吹き飛ばしてやろうとして、止めた。あまりにもバカバカしいし、八つ当たりにすらならない。
胸元に抱えた箱を持ち直し、また歩きだした。上等紙で作られた箱の隙間から甘い香りがする。じっとりとした空気の中にひろがる芳香は私の気持ちはいくらか和らげてくれた。
しかし、こいつのせいで両手がふさがっているのも事実。水滴を浴びて情けない声を上げることはなかっただろうし、もやもやする。
二三日降り続いた雨のせいで地面には水たまりが多数できていた。
当然よけて歩くが、むき出しの地面も水気を多く含んでおり、踏む度にぐちゃぐちゃと崩れていく。靴に、泥が。
「いつもお疲れさまです。長雨の後ですからね、地面が泥だらけだったでしょう」
水の入れたタライと手ぬぐいを差し出されて、そんなことを言われた。行商に行く度に薬を買ってくれる、お得意さんの屋敷でのことだ。
空を飛べる私は泥なんか付かない。磨いたときのままに輝いた靴を見て、屋敷の使用人が手を引っ込めた。
通いなれた廊下を進み主人のもとまで行く。薬臭い布団に横たわった老人は、私を見て弱々しく笑った。
床から出ることのできない病人から、診察してくれ、と頼まれることがある。ふつうは断るのだが、この老人の熱心さに負けて引き受けた。私が出来ることなど限られているし、たいして何もしていないけど、彼は満足してくれているようだ。
使用人に引き起こされ、背もたれに身体を預けている。助け無しではもう動くことすらままならない。
「何か変わったことはありました?」
「いいや、特に。最近は調子がいいんだ。先生の薬のおかげですな」
嘘をつけ。
私の見立てでは、この男性はもって半年。薬を飲んでも治るものではない。長く生きすぎた、というだけのこと。
効きもしない気休めの薬を飲んでいるだけ。飲ませているのは、私。
老いに侵された醜い体で生にしがみついている。無意味だ。一度師匠に質問したことがあるけど、明確な答えは貰えなかった。
形ばかりの診察をすませてから薬を出した。
薬箱を背負い、ではこれで、と立ち去ろうとする私に白い箱が手渡された。「いつも診てもらっているお礼です」と言う。
断ろうとしたけど、病人らしからぬ熱心さで押し通されてしまった。往診の依頼といい、粘り強いじいさんだ。
「外から作り方が伝わったばかりの珍しい物だそうです。どうか、皆さんで召し上がってください」
ぐちゃぐちゃ。ねちゃねちゃ。足下からは不快な音と感触が離れてくれない。
箱のせいで足下はよく見えないけど、靴はもう泥だらけなんだろう。今朝、磨いたばかりだったのに。忌々しい。
箱の中には、洋菓子が並んでいた。果物が贅沢に使われ、白いクリームが今にも溶けてしまいそうな。つまり、振動に弱い。
そのせいでどろどろの地面の上を歩かされている。飛行じゃ揺れてしまうから。
前後を箱に挟まれ、見通しも悪ければバランスも悪い。歩くだけでも神経を使う。
つま先で地面を探った。水たまりではなかったはずのそこも、体重をかければ簡単に崩れてしまう。
もう片足を持ち上げる。獲物に食らいつくヒルのように、泥まで一緒に付いてきた。
泥が這い登ってくるような想像をして、ぞっとする。気持ち悪い。
この箱がただの贈り物なら、とうに捨てて帰っているだろう。でも、皆さんで、と言われた。師匠や、姫様への贈り物でもある。
私だけの物ではないのだ。
難題を抱えたまま歩いていると、耳に新しい波が届いた。さざ波のような特徴的な波長に私はため息をついてしまう。こんな時にてゐまで来るなんて。
「鈴仙、お疲れ。今日はどうだった?」
「……」
「ちょっとぉ。無視しないでよ」
「まだ仕事は終わっていないの。邪魔しないで」
「邪魔? しないしない! 荷物が重そうだから手を貸そうと思って。同族のよしみってやつ?」
「……間に合っているわ」
予想していたとおりの会話が始まってうんざりする。おおかた箱から漂う香りにつられてやってきたんだろう。渡した途端に逃げていって独り占めするお決まりのパターンじゃないか。
相手にしないでいると、隣に並んで歩きながら声をかけてくる。甘えたような声を出しても無駄だ。渡すもんか。
「ねえねえ鈴仙。ねえねえ」
「いい加減にして。てゐ、この箱はね、貰い物のお菓子が入っているの」
「みたいだね」
「姫様や、師匠の物よ。あんたの分もあるから、大人しくついてきて。変な気を起こさないでね。これ、崩れやすいから」
「ちょっと酷いんじゃない? 盗むつもりなんかないのに」
「どうだか」
これっきりで無視して歩き出す。諦めたようにてゐも無言で隣をついてくる。
隣を歩く裸足の彼女がぴしゃぴしゃと音を立てている。水たまりの上に来ると、わざと力一杯に蹴飛ばしているようだ。
またか。こいつの無神経さには我慢ならない。
私がわざわざ避けて歩いていることに気がつかないのか。飛び散った泥水が私に降り懸かっていることに気がつかないのか。
歩みを遅くした。前後に分かれて歩く格好になる。
「どしたの?」
「泥が跳ねる」
「あぁ、ごめんね。鈴仙はきれい好きだからなあ」
「誰だって、汚れるのはいやよ」
「そうだけど。鈴仙のはね」
「潔癖すぎると言いたいの?」
「そうまでは言わないけど」
「……」
「……」
すぐに会話が途切れた。いや、途切れさせた。
私はてゐが好きではない。無神経だし、迷惑ばかりかけるし、約束ごとを守らないから。
彼女と一緒にいる記憶に、楽しい物などほとんどない。たいていは邪魔をされるばかり。
幸運を与えるなど嘘っぱちじゃないか。ああ、受け取るのは人間だけだったね。嘘の幸運を。
前のてゐが、ちらちらと振り返ってきた。特に言うことはない。黙って歩けと目で促した。
そのまましばらく歩いた。泥を踏むくぐもった音が耳に残る。水気を含んだ空気が絡みついてうっとうしい。
ぐちゃぐちゃ。ぴちゃぴちゃ。
靴の中が湿っていた。水を吸ってしまっている。不快感が蛇になり這いずり回る。
お気に入りの靴だったのに!
どうすりゃいいんだよ。
甘い香りが紙箱からあふれでている。代わりに湿気を取り込み腐ってしまいそうだ。
早く帰りたい。でもお菓子が。靴、洗えば元に戻るかな? 早く、早く、でも慎重に。
「鈴仙。私も荷物を持つって」
「うるさい! あんたなんかね、あっ」
一歩踏み出した地面がぐらりと揺れた。石を踏みつけてバランスを崩したのだとわかったのは、しばらく経ってからだった。
目の前にあったてゐの顔。胸元のペンダント。膨らんだスカート。白い脚。そしてさいごにはどろどろの地面が見えた。
とっさに手を前に出す。白い箱が頭上に消えていった。
ばしゃん。
間抜けな水音をたてて顔面から水たまりに倒れこんだ。小石や砂利が体中に突き刺さる。重量のある薬箱が私に覆いかぶさった。
痛い。そして悔しい。
なんで。なんで私ばっかりこんな目に? 酷い目に遭わなくちゃいけないの?
毎日がんばっているのに。勉強だって、師匠の言いつけだってちゃんとやっているのに。
いつも最後に酷い目に遭う。もうちょっとで失敗してしまう。あんなに気をつけていたのに。
「う、うぅぅ。なんでよ、なんでなのよぅ。私ばっかり。うう」
「大丈夫? 鈴仙、立てる?」
「そうだ。てゐのせいでしょ。またいたずらを」
「落ち着きなよ。運の巡り合わせが」
「あんたが! あんたのせいで!」
「鈴仙!」
「ひっ」
両手を捕まれた。泥水の中から引っ張りあげられる。
道の脇に座らされた。隣の乾いた石の上に、少しひしゃげた紙箱が置いてある。
「ねえ鈴仙。聞いてくれる?」
「……」
「ひとの運って、昼と夜みたいな物。良いことがあればその分悪いこともあるようになっているの」
「だから、なによ」
「いいから聞いて。悪いことから逃げても、絶対どこかで出会ってしまうものなの。逃げていれば逃げている分だけ、強力になったのとね。鈴仙さ、何でもかんでも完璧にやろうとしているでしょ。それだから大変なことになるんだと思う」
「なにそれ。全部、私のせい?」
「そう。生き急ぎすぎなんだよ」
「……」
「普段からちょっとずつ汚れたり失敗したりしておくとね、大きな失敗はしないの。長生きの秘訣」
「水たまりを歩いていたのも?」
「絶対転ばないよ」
「怪しいものね。今考えたデマカセでしょ」
「本当だって。わざと迷わせてから人間に幸運を与えたり、バランス取りって大変なんだから」
説教されてしまった。
そのまま信じる気には、なれない。でも少しだけ心に留めておこう。てゐの口調には長く生きている者の経験がにじみ出ていた。
心配そうに顔を向ける彼女に笑いかける。母親のような顔で笑い返された。
濡れネズミの体を起こした。顔や洋服から滴が落ち、靴の中はくちゅくちゅと鳴っている。ここまで濡れてしまうと逆にすがすがしい気分。
隣に置いてあった紙箱を持ち上げた。「上手い具合に投げてくれたから落とさずにすんだよ」と言われる。しかし中はひどいことになっているはず。
おそるおそる中を覗く。
菓子は無事だった。少し歪んでいるが、転んだはずなのにこれなら奇跡と言ってもいいだろう。
「鈴仙が転んだおかげだね。その分良いことが回ってきて、お菓子は無事助かった」
「なにそれ。無理に良いこと探しをしていない?」
「そういうものだよ。小さな良いことを探して、擦り傷くらいは黙って受ける。良い悪いの波を小さくするのが、本当の幸せ」
「これだけびしょ濡れなんだから、もっと良いことが起きても良いと思うけど?」
そうだなあ、と唸りてゐが考え出す。可愛らしく首を傾げていたが、満面の笑みでこちらに向きなおった。
「一番風呂に入れる」
「ぷっ。……ささやかねえ」
紙箱を渡し、二人並んで永遠亭まで歩く。ぴしゃぴしゃと水音が跳ね、私たちの周りをいつまでもついてきた。
コメント欄の姫様の可愛さに笑いました。
心なしか、前半はいつもよりも情景の描写に連続性がないというか、ブツ切りな印象を受けましたが、後半は持ち味を十分に発揮されてますね。偉そうな書き方ですみません。
てゐとも何だかんだで上手くやれているようで何より。
こういう関係って、微笑ましいですね。
表があれば裏もあり
表が大なれば裏も大なり
とは言われる、ふむ。
なかなか面白かったです。感謝。
この二人のこういう感じが凄く良い!
小さく失敗して、小さな幸せを噛み締めることが出来ることこそが、
本当の幸せなのかなあ、と。
話を進めるためだけの会話になってないか?
独特の柔らかい作風が後味の良さに繋がっていますね。
もう少し長い作品も読んでみたいかも。
あとがきの姫様www