紅魔館の屋根の上。
銀色に輝く半月を見ながら、私は何をするでもなく適当な場所に腰掛ける。
周りに遮るものは何もない。だから、初冬の冷たい風が容赦なく私の熱をさらっていく。
私は、反射的にぎゅっと抱きしめようとした。けど、腕の中には何もない。何もいない。
だから、抱きしめる事が出来たのは、自分の身体だった。
「あ……」
そのことが、無性に悲しかった。
そのことが、どうしようもないほどの喪失感を与えてきた。
そして、考えないようにしようとしていたことを思い出してしまう。
――今日の昼、十何年と飼っていた猫が死んだ。
その子は、館の庭で拾った黒猫だった。
最初は、ただ迷い込んできただけなんだろうと思って、そのままにしていた。少しだけど食べ物はあげていた。
けど、数日経ってもその子は庭から離れなかった。もしかしたら、快適に住める場所を探していたのかもしれない。そして、その子はこの館が住みやすいと思ってくれたんだろう。
だから、私たちはその猫を飼うことにした。首輪も何も付けず、もしここが気に入らなかったらすぐに新しい飼い主を捜しに行けるようにして。
世話は私と咲夜がほとんどしていた。食事を咲夜が、それ以外の世話を私が、というふうに分担した。
時々、お姉様やこあと遊んでたり、美鈴からおやつを貰ってたりもしていた。
パチュリーは積極的に関わるようなことはなかった。だけど、私たちにアドバイスをしてくれたりと、パチュリーなりに気にかけてくれてるみたいだった。
私たちにとって、あの子は家族の一員だった。
誰にも可愛がれて、誰にも大切にされていた。
だけど、今日の昼、あの子は死んでしまった。
私たち皆が集まってる部屋の中でひっそりと。
あまりにも静かだったから、最初は寝てるんだと思った。
もしかすると、日に日に弱っていっていたのが分かっていたから、死んだのだと思いたくなかったのかもしれない。
けど、わかってしまった。あの子がもう死んでしまってるんだって。
誰かが、特に私か咲夜が近づけば、眠っていても尻尾を揺らすはずだ。それなのに、あの子の尻尾はぴくりとも動かなかった。
それから、私は恐る恐るあの子に触れて、冷たくなっていることを知った。
その後のことは、よく覚えていない。
気が付けば、私は日傘を差して立ち尽くしていた。あの子の名前が刻まれた小さなお墓の前で。
ただ一つだけ覚えているのは、パチュリーの、「私たちのいる所であの子が息を引き取ったのは、それだけ信頼されていたという証よ。あの子は、幸せにこの世を去ることが出来たわ」という言葉。
いつ、どの場面でそう言っていたのかは覚えていないけど、その言葉だけは鮮明に残っていた。
あの子は私たちを信頼してくれていた。
あの子は幸せだった。
それは、とても喜ばしいことなのかもしれない。
それは、笑顔を浮かべて受け止めてあげるべき言葉なのかもしれない。
だけど、私はその言葉が悲しくて悲しくて仕方がなかった。
これ以上にないくらいに、もうあの子がいないという現実を突きつけられる言葉だったから。
いつの間にか、視界が歪み始めていた。
胸の奥から、何かが溢れ出しそうになっていた。
悲しくて、痛い。
辛くて、苦しい。
初めて間近で見た死は、こんなにも私の感情を揺さぶる。
それと同時に考えてしまうのだ。後、何度同じ想いを抱くことになるのだろうか、と。
そして、私は怖い。
私に喪失を与えてくる死がとても怖い。
「……フラン。こんな所にいたのね」
不意に、背後から声が聞こえてきた。それは、お姉様の声だった。
「隣、いいかしら?」
「……うん」
私は座ったまま自分の膝を抱えて顔を隠す。泣きそうな顔を誰にも見せたくなかった。その相手が、例えお姉様だとしても。
お姉様は、そんな私の姿を見ても何も言わずに隣に座る。少しだけ、周りが暖かくなったような気がする。
たったそれだけのことに、涙腺が刺激されてしまう。
「今日は、つまらない月ね。新月に比べれば全然いいんだけれど」
「……」
私が何も答えないから、お姉様の言葉は何処にも届かない。そのまま宙に霧散してしまう。
それっきり、お姉様も黙ってしまう。
風が吹く。
冷たい風が私たちの体温をさらっていく。暖まったと思った空気がまた冷える。
このままここにいて、全ての体温を奪われたら私たちもあの子のように死んでしまうんだろうか。
それは、嫌だった。
首を振って拒絶するくらいに嫌だった。
それは、どうしようもなく怖い。
ふるふると小さく身体が震えてしまうくらいに怖い。
これ以上熱を奪われてしまうのが嫌で、膝を抱く腕に力を込める。これでもまだ、体温が逃げていっているような気がする。
「……寒いわね。本当、寒いわ」
その声には、悲しさが込められていた。掠れたような声で、私に向けられた言葉のようには感じなかった。
お姉様自身、気付かず口にしてしまったことなのかもしれない。
……お姉様も、あの子が死んで辛い思いを抱えてるんだろうか。
ずっと周りを見ていないから、他の皆がどんな表情を浮かべていたのかが分からない。
「ねえ、フラン……」
今にも、泣き出しそうな声で名前を呼ばれる。私は驚いて、思わず顔を上げてしまっていた。
でも、お姉様の顔を見ることは出来なかった。いつの間にか、私は抱きしめられてしまっていたから。
「悲しいなら、思いっきり泣いていいのよ。溜め込んでるだけでは、毒にしかならないわ」
ぽた、ぽた、と水滴が落ちてきて、私の頭を濡らす。それで、お姉様が泣いてるんだって、気付く。
「……お姉様が泣いてるのに、泣けるはずがないよ」
「……それも、そうね。……ごめん、なさい、貴女の方が、悲しい、はず、なの、に……っ」
それ以上お姉様の言葉は続かなかった。
声は全て嗚咽へと変わってしまう。
謝らないで、とは言えなかった。
きっと、嗚咽の中に溶け込んで届かないだろうと思ったから。
◆
「お姉様、落ち着いた?」
鼻のすする音も聞こえてこなくなってきた頃にそう聞いた。今もまだ、私はお姉様に抱きしめられたままだ。
お姉様が泣いているのを聞いているうちに、私の泣きたい気持ちはどこかにいってしまった。だけど、悲しい気持ちは残っている。
「……ええ。ごめんなさい、取り乱してしまって……」
「ううん、いいよ」
抱きしめられたまま、首を振る。いつもは私ばかりが支えられてるから、こんな時があっても良いと思う。
「情けないわね。……貴女が、とても強く見えるわ」
「そんなこと、ないよ……」
今だって、悲しいし辛い。
今もまだ、胸が痛いし苦しい
それにあわせて、不安まで溢れてきそうになっている。
恐怖が心を満たそうとしている。
そんな私が強いなんてはずがない。
私は、ずっとずっと弱い。
「私だって、悲しいよ。どうしようもないくらいに悲しいよ」
一度言葉を放つと少しずつ感情の一つが尖り始める。
それは、恐怖。臆病な私にとって最も表に出て来やすい感情。
「でも、それ以上に怖い。もっとたくさんの死を見ることになるんだろうってことが怖い」
私たち吸血鬼はほとんど不老不死と言ってもいいような存在だ。だから、きっとこれからもっとたくさんの死と出会うんだろう。
それに、
「ねえっ! 十何年一緒にいただけでっ、こんなに痛いんだよ! こんなに、苦しいんだよ! ならっ! その何倍も一緒にいることになる咲夜が死んだらっ、どんなに苦しいのっ? 私はっ、それにっ、耐えられる、気がしない……よ……」
嗚咽が溢れてくる。言葉を紡げなくなる。
だけど、これだけは聞きたい。
「ね、え……、お姉、様は、咲夜の死に、耐えられる?」
この館の中で唯一人間である咲夜の死は誰よりも近い。今も、外見年齢だけなら館の誰よりも上だ。
死は確実に迫ってきている。そして、それから逃げることは出来ない。
だから、どんなに怖くても、私は身体を震わせていることしか出来ない。
「それ、は……」
お姉様が言葉を詰まらせてしまう。
私もこれ以上は喋ることが出来ない。
私は泣く。
あの子の死が悲しくて泣く。
これからの数え切れないほどの死が怖くて泣く。
避けることの出来ない咲夜の死に怯えて泣く。
苦しくて苦しくて、誰かに助けてほしいと叫びたかった。
だけど、私は泣くばかりだった。
だけど、お姉様は言葉を失うばかりだった。
死が、私たちを冷やすばかりだった。
Fin
どんな生き物にも…
切ないなぁ…