「ああ、もう」
図書館に響く苛立ちまぎれの声。大きくため息をついて、じと目で読みかけの本のページをねめつける。
けれど、いつものまわりを呆れさせるほどの集中力はどこへやら。どうにも気が散ってしまって、並ぶ文字をどんなに眺めても、頭に内容が入ってこない。
大して難しい内容でもなければ、ものすごくつまらないということもない、ごく普通の魔導書だ。むしろ、斬新な視点から見解が述べてあって、どちらかと言えば面白いと感じていたはずなのだけれど。
もう一度。今度は小さく吐息のようなささやかなため息。半ば投げ出すようにして、やる気なく机の上に開きっぱなしの本を置く。
これ以上続けても仕方ない。今日のところは中断しようとらしくもなく考えて、最後に使ってから久しい栞を探す。
けれど、たくさんの本やインク、羊皮紙や何かが陣取る机の上は、一言で言うならば散らかっていて。思うように、見つけることができない。
「はぁ」
なんだか面倒臭くなってしまって、安楽椅子の背もたれに、ぽふんと頭ごと身を預ける。帽子がほんの少しずり落ちて、長い髪がさらりと揺れた。
そして、その時、ふわりとよく知った匂いがパチュリーの鼻をくすぐった。
甘酸っぱくさわやかないくつかの花の香りに、とびきり甘いはちみつとバニラとがほんのり混じったような。それでいて、浮ついた感じはしない落ち着いた香り。
やわらかなその香りは、図書館への訪問者がまとっているのと同じもの。アリスの匂いだ。
ふわり。
ページをめくる時、軽く首を傾げる時。パチュリーがほんの少し動くたびに香る。
その拍子に脳裏に浮かぶのはアリスの顔。笑顔だったり、本を読んでいる真剣な表情だったり、しかたないなあ、というような表情だったり、はたまた照れ怒りをしている表情だったりするのだけれど。
そのたびに、パチュリーの心は乱される。ちらつくアリスの影に、翻弄されてしまう。
目の前のことに集中できない。
本人がいても、そんなことにはならないのに変な話だとは思うのだけれど。どうにもどきどきしてしまってしかたがない。
「あ……」
また、ふわり。
ああもう、とパチュリーは、椅子の上で膝を抱える。けれど、またその拍子にふわり。
どうしてこんなことになってしまったのだろうか。
これではどうしようもないではないか。
頭の中に住みついてしまったかのように離れていかないアリスを振り払うように、パチュリーは、今日の記憶を反芻する。
「おすそわけよ。いつも本を借りてるお礼も兼ねて、ね」
それは今日の昼過ぎのこと。いつものように本を借りにきたアリスはそんな言葉と共に小さな小箱を差し出してきた。
安楽椅子に腰かけていたパチュリーは読んでいた本からゆっくりと顔をあげて、それを受け取った。アリスがこうして、お礼と称して、何かを贈ってくれることは珍しくない。
大抵の場合、食事を必要としない魔法使いらしくもなく、手作りのお菓子だったり、紅茶だったりする。だが、本当は必要ないものをあえて用意するというのは、考えようによってはとても贅沢なことであるわけで。
ほとんど知られていないけれど、甘党であるパチュリーはそれを密かに楽しみにしている。小悪魔や咲夜に用意させると、あとでどうにも子ども舌だとからかわれるのが、腹立たしいのだけれど、アリスはそんなことは言ったりしない。なにより、アリスの作るお菓子はおいしいのだから。
だから、今回もそれを期待して受け取ったのだけれど。
「お菓子じゃない」
木箱を開けたパチュリーはむすっとして、そんなことを呟いた。
可愛らしく装飾のなされた木箱の中から出てきたのは、まっしろな石鹸だった。箱の外にまで香ってくる甘い香りはお菓子のようだったのに。
少しばかりむくれているようにも見えるパチュリーに、アリスは頬をかきながら苦笑する。
「ちょっと作りすぎちゃったのよね。あんまり置いておくと匂いが飛んじゃうし」
「お菓子じゃないのね、アリス」
「……そんなにお菓子が良かったの?」
そういうところ子どもっぽいわよね、と続けたアリスを、じと目で睨みつける。
アリスは、そんなにお菓子を楽しみにしていてもらえたことが嬉しくもあり、拗ねている様子がおかしくもありといった様子。それらの感情をすべて混ぜ合わせて、しかたないなあ、という表情になっている。
随分と年下で未熟者のくせに、お姉さんめいたその表情。咲夜がレミリアに向けるそれに似ていないこともない。親友はそれをあっさりと受け入れているけれど、パチュリーとしては、舐められているようで、癪に障る。
もっとも、嫌い、というわけでもないのだけれど。
「それは今度作ってきてあげるから。石鹸だって、使うでしょ?」
「……気が向いたらね」
「私が普段使ってるのと同じものなんだけど、結構自信作だから。よかったら使って」
「ふん」
本を読むことに全力を尽くしているパチュリーの反応が芳しくないことは、最初から想定済みだったらしく、つれない様子にも全く動じることなくアリスは、泡立ちがよくて気持ちがいい、とか、しっとり感が違うのよ、とか、使い心地についての説明を続けた。
そうして、生意気にも言うのだ。
「せっかく見た目は可愛いんだから、ちゃんとお手入れしなくちゃ」
「余計なお世話」
と、そんな具合に、反応の悪かったパチュリーではあるのだけれど。
まったくもってどうでもいいというわけでもないのだ。お菓子でなかったことは残念だったけれど、仮にも女の子であるから、いい匂いのする石鹸に興味がないわけではない。
むしろ、シャンプーや何かは小悪魔に命じて、調合にもしっかりこだわっている。
ただ、なんというか。百年を生きた魔法使いとしては、そこらの小娘のようにシャンプーごときではしゃぎまわるのもどうかと思う。それも、後輩であるアリスの前で、そんなことできるはずがない。
というわけで。極力楽しみにしてることを隠して、興味ない素振り。
仮にも後輩が用意してくれたものを無下に扱うわけにはいかない、とか、ちょうど普段使っているのがなくなったところだったとか、使わなければならない理由をでっちあげて、こじつけて。そうして、今日のバスタイムは、アリスの石鹸を使ってみた。
まっしろな泡のふわふわ具合とか、普段使っているものとは違う甘い香りとか、そういうものは楽しかった。
入浴の手伝いをしていた小悪魔がにやにやと笑っていたのは、気のせいだということにしておく。
思っていた以上の使い心地に、パチュリーはすっかり満足した。らしくもなく鼻歌を歌ってしまう程度には、ご機嫌だったのだけれど。
しかし。
お風呂からあがって、髪を乾かした後。図書館に戻ってきた時のことだ。
「……」
もう随分前に帰ったはずのアリスの匂いがした。最初はそれがどこからしてきたのか、分からなかったのだけれど、あまりにたびたび香るその匂いのもとに気付かざるをえなかった。
匂いの元はパチュリー自身。
固形の状態の時は匂いが強くて気付くことができなかったのだけれど、こうして実際に使ってみると、いい具合に薄まったその香りが、アリスのそれと同一だということがよく分かる。
考えてもみれば、確かにアリスは言っていたのだ。普段使っているのと同じものだと。
身だしなみにもしっかりと気を使うアリスが、匂いが残りやすい石鹸を使っているのは不思議ではない。ああ、あのいい匂いはこの石鹸のせいだったのか、なんて、パチュリーの中の冷静な部分がそんな風に納得した。
そうして、その時から今に至るまで、パチュリーはその匂いに翻弄され続けている。
下手に意識してしまったのが良くなかったのかもしれない。
「はあ」
そうして、記憶を思い返したところでどうにもならない。
匂いのせいで気が散ってしまっているなんて、と自己嫌悪。
パチュリー・ノーレッジが、七曜の魔女が、紅魔館の知識人が、こんなことに惑わされていては仕方がない。
「アリスのばか」
半ば八つ当たりで、アリスに対する恨みごとを呟く。妙に子どもっぽい物言いになっているのは自覚している。
もしも、本人にそう言ったならば、やっぱり仕方ないなあという顔をするのだろうけれど。クールぶっているくせに、妙にスキンシップに抵抗のない彼女のことだ、手をとったり、頭をなでたりして、宥めようとするかもしれない。
きっと、そうしたら。あの甘い香りがふわりと香って。
ちょうど今と同じように。
「……っ」
かあ、と顔が熱を帯びるのが分かる。頭の奥がはじけたようになる。
どうしていいのか分からなくなって、膝を抱える手にぎゅう、と力を込めた。
そうすると、身体を小さく丸めた分だけ、匂いが強く感じられる。
まるで、アリスに抱きしめられているような。
「なっ……」
そんな馬鹿げた考え。普段だったら、鼻で笑うような考え。
けれど、一度思い至ってしまったそれは消えない。
顔の熱さが、動悸が、激しくなっていく。恥ずかしくて、どきどきして。
なんだかもういっぱいいっぱいだった。今、小悪魔だのレミリアだのが入ってきたらどうしたものか、と思いながら、膝に顔を埋める。
早く熱が冷めるように、匂いに鼻が慣れるように、と思いながら、決意する。
明日、アリスにあったならば、絶対に文句を言ってやろう、と。
「さて、うまくいったかしらね」
今日の分の人形の冬服作りを終えたアリスは、ぐいっと伸びをしながら、そんなふうに呟いた。
ふよふよと辺りに浮かんでいる上海人形はお疲れ様、というように微笑むと、蓬莱人形たちと協力して、机の上に広げた裁縫道具を片づけていく。
橙のランプの光に照らされたその光景を微笑ましく見守りながら、思うのは、大図書館の主のこと。彼女にしかけたちょっとしたいたずらのこと。
いや、いたずらとも呼べないだろう。本人がアリスと同じように思ってくれる可能性なんて限りなく低いのだから。
「ま、どうせ気にもしないんだろうけど」
ぽつりと呟く。口ではそう言っているけれど、本当は少しだけ期待していたりする。
もしも、心を乱していているのなら、大成功。
それを確認することは難しいけれど、あの分かりにくいようで分かりやすいパチュリーのことだ。何かあったのならばきっと、次に図書館に向かった時には、それなりの反応を見せてくれるだろう。
たとえば、言いがかりのような文句を言ってくるだとか、不機嫌に妙な理屈をこねまわすとか、そういうことを。
別に困っているパチュリーを見て、喜ぶような嗜虐的な趣味はないのだけれど。
「だって、不公平じゃない」
作業を終えた人形たちの頭を撫でてやり、笑顔と共にありがとう、と告げる。
ちょうどきりもいいところだ、とベッドへと向かうことにした。まだ眠るには少し早いけれど、図書館で借りてきた小説を読んだらいいだろう。
そう考えたアリスは、鞄につめた本の中から特に薄い一冊を手にとった。最近、入荷したばかりだという外の世界の小説だ。
「あ……」
ふわり、と。
ぱらぱらと何の気なしにめくった本の匂い。古い紙とインクの匂いとほんの少しのかび臭さ。それから、ふわりと落ちつくお香のような甘い香り。
「パチュリーの匂いがする……」
それを意識すると、心臓がとくんと音を立てる。思わず、顔を近づけてしまいそうになって、慌てて自制した。別に誰が見ているでもないけれど。
たまにこういうことがある。本にほんの少しだけパチュリーの残り香がついていること。
普段の魔導書や何かでは、専門分野が離れていることもあってそういうことは少ない。けれど、小説などを借りた時には、ちょうどパチュリーが読み終えた後には、たまに匂いが残っていたりする。
意識しすぎだということは分かっているけれど、ページをめくるたびに、ふわり、ふわり。
なんだかパチュリーがすぐそばにいるように感じられて、顔が火照る。照れてしまう。
アリスひとりがそんなふうにドキドキしたり、赤くなっているのは、なんとなく悔しい。
そんな形でまで振り回されてしまうことが悔しい。なんだか、アリスばっかりパチュリーのことを好きでいるみたいで。
不公平だ。
そうして、思いついたいたずら。アリスが普段使っている石鹸を贈ること。
それで、アリスと同じように動揺すればいい、と思ったのだ。
理性はそんなにうまくいかないだろう、と言う。けれど、アリスの気持ちは、感情は、半ば直観的にうまくいくに違いない、という。
「この気持ちを味わえばいいのよ、パチュリーも」
寝室に着いたアリスは、ころん、とベッドに寝そべる。
天井を眺めながら、本を胸に抱きしめる。ぎゅう、と強く、けれど、そっと優しくいつくしむように、抱きしめる。
そんなふうに、アリスはパチュリーの匂いを抱きしめたのだった。
まぁ、いいや
ニヤニヤが止まりませんww
やっぱりパチュアリは良いですな
パチュリー様、可愛すぎる。
もうお前ら結婚しちゃえよ!
この二人、一緒にお風呂入ればいいと思います!