霖之助は、天子の淹れたお茶を啜り、ほう、と溜息を付いた。
「うん、美味しいな」
「憶える必要もなかった作法がこんな処で役立つなんてね。何だか皮肉めいた話だわ」
外では今、雨が降っていて出歩くことは適わない状況である。
天子が訪れた時には、まだ雨は降っておらず、だが、何時振りだしてもおかしくない雲行きであった。
「まあそう云うなよ。ほら、君の御陰で美味い茶が飲めるんだ」
「そ、そう。それなら憶えた甲斐があったというものね」
天子は口元が緩むのを感じた。
不思議と悪い気なしなかった。
「それより、良いのかい?帰らなくても」
「雨、降ってるじゃない。傘貸してくれるの?」
「何!?霖ちゃん以外にゃ貸してあげないよ~だ」
傘立てからひょこりと顔を出したのはお化け傘の多々良小傘である。
ひょんなことからこの店の傘としてちょくちょく訪れるのだ。
ゴトリ、と霖之助は湯呑を置いた。窓から望む景色は空が曇っているのもあってか暗い。既に日も暮れているのだ。
「霖ちゃ~ん、何時になったらわちきを使ってくれるのぉ」
「日暮れだ。夜道は危ないから今日はもう出歩かないよ」
「何時から其処に居たのよ。てかなんでそんな処に?」
「ああ、彼女はお化け傘なんだよ。解ってやってくれ」
「成程ね」
「んん?なんか小馬鹿にされてるよう」
そう云うと小傘は頭を引っ込めてしまった。
霖之助は再び、湯呑に口を付けた。
少し温くなっていたが、味にさほど変化はなく美味であった。
さあさあと雨が降り止まないので霖之助はカウンターの傍の小さな本棚から適当に一冊本を取り出し読書に耽る。
「雨、止まないね」
「ああ、梅雨だからね。まだまだ降るんじゃないかな」
「ねえ、何読んでるの?」
天子は腰掛けている要石を宙に泳がせ、しな垂れるように霖之助に凭れかかる。
霖之助は背中に僅かに重さを感じ取った。払い除けようかと思ったが何か云われても面倒なのでそのままにしておいた。
「本のタイトル、石子田村?変な名前ね」
「違うよ、厚田村だ。まあ、間違ってしまうのも無理はない。この筆跡じゃあね」
「それもそうね」
それだけ尋くと興味が失せたのだろう、天子は霖之助からするりと離れた。
「霖ちゃ~ん」
霖之助が本に視線を戻そうとすると、小傘が傘立てからひょっこりと顔を出して口を開いた。
「何だよ、今日はもう出ないって云ったろう?」
「違うの。今気付いたんだけど傘のね、骨が折れちゃってるの」
「へえ、それを修理してくれと、君はそう云いたいのだね?」
「うん、お願ーい」
小傘は紫色の、矢張り色の悪い傘を差し出して破顔した。
そして色が悪いと評価している傘を使う自分も趣味がおかしいとも思わないでもない。
「また今度だ。今は余り気乗りしないんでねぇ」
「…けち」
負け惜しみ染みた捨て科白を残して小傘が頭を引っ込める情景が少し滑稽に思えた。
「処でだ。天子、君は帰らなくて良いのか」
「あら、もしかして心配してくれてるの?」
「そう聞こえたかな。まあそれなら良いや」
「別に帰らなくたって問題無いわよ。居なくても困るってモンじゃないしね」
二度目の問答も曖昧にはぐらかされる結果で終わってしまった。
このまま居付かれると泊める羽目になるのだが、風呂と寝床を提供できる位には困る訳ではない。
唯、目の前のお嬢さんが霖之助の持成す食事と客人用の布団に満足するのかが懸念である。
「此処に居ましたか、総領娘様」
霖之助が色色考えていると突然、カウベルの来客を知らせる音が響いた。
「いらっしゃい、全身ずぶ濡れの濡れ鼠状態のようだけど。おっとそのままで上がり込まないで頂きたい」
「衣玖。どうして此処が判ったの?」
「えぇ、まぁ。貴女の行きそうな場所ならこのメモ用紙に…ってあれ?」
衣玖と呼ばれる少女がポケットから取り出した紙切れ、正確にはそれだったモノと云うべきだろう。
水を吸ってぐしゃぐしゃに溶けてしまっていた。
「あらら、これじゃあ使い物にならないわ」
衣玖は傘立てとしては大き過ぎる壺をゴミ箱だと勘違いしたのかぐしゃぐしゃの紙をそこへ投げ捨てた。
「おいおい――」
「わぎゃっ、もう!一体何なの!」
霖之助が注意する前に中にいた小傘が驚嘆の声を上げた。
「おや?何か居ましたわ」
「何かとは何だよぅ。これはゴミ箱じゃない!」
「それはそれは、済みませんでした」
「むぅ…」
「まだ何か?生憎、霊薬なんて持っておりませんよ」
「訳が解らない。何を云ってるんだ」
「ああもう!口に紙がっ」
「はいはい、顔中紙塗れだから洗っておいで」
小傘は傘立てから飛び出すと真っ直ぐ井戸の方へと走って行った。
小傘の姿が見えなくなると突然衣玖が店の真ん中まで進み口を開いた。
「あ、そうそう。貴方に伝えなければいけない事があります」
「僕に?何だろうね」
「もうすぐ梅雨明けです。雷が落ちますよ」
「お、それは良い。漸く洗濯ものが干せる」
「――ここに、もうそろそろかな」
「え?」
霖之助は思わず素っ頓狂な声をだしてしまった。
その次の瞬間、凄まじい轟音と白光を五感が捉え、激痛を伴い意識を手放した。
「うん、美味しいな」
「憶える必要もなかった作法がこんな処で役立つなんてね。何だか皮肉めいた話だわ」
外では今、雨が降っていて出歩くことは適わない状況である。
天子が訪れた時には、まだ雨は降っておらず、だが、何時振りだしてもおかしくない雲行きであった。
「まあそう云うなよ。ほら、君の御陰で美味い茶が飲めるんだ」
「そ、そう。それなら憶えた甲斐があったというものね」
天子は口元が緩むのを感じた。
不思議と悪い気なしなかった。
「それより、良いのかい?帰らなくても」
「雨、降ってるじゃない。傘貸してくれるの?」
「何!?霖ちゃん以外にゃ貸してあげないよ~だ」
傘立てからひょこりと顔を出したのはお化け傘の多々良小傘である。
ひょんなことからこの店の傘としてちょくちょく訪れるのだ。
ゴトリ、と霖之助は湯呑を置いた。窓から望む景色は空が曇っているのもあってか暗い。既に日も暮れているのだ。
「霖ちゃ~ん、何時になったらわちきを使ってくれるのぉ」
「日暮れだ。夜道は危ないから今日はもう出歩かないよ」
「何時から其処に居たのよ。てかなんでそんな処に?」
「ああ、彼女はお化け傘なんだよ。解ってやってくれ」
「成程ね」
「んん?なんか小馬鹿にされてるよう」
そう云うと小傘は頭を引っ込めてしまった。
霖之助は再び、湯呑に口を付けた。
少し温くなっていたが、味にさほど変化はなく美味であった。
さあさあと雨が降り止まないので霖之助はカウンターの傍の小さな本棚から適当に一冊本を取り出し読書に耽る。
「雨、止まないね」
「ああ、梅雨だからね。まだまだ降るんじゃないかな」
「ねえ、何読んでるの?」
天子は腰掛けている要石を宙に泳がせ、しな垂れるように霖之助に凭れかかる。
霖之助は背中に僅かに重さを感じ取った。払い除けようかと思ったが何か云われても面倒なのでそのままにしておいた。
「本のタイトル、石子田村?変な名前ね」
「違うよ、厚田村だ。まあ、間違ってしまうのも無理はない。この筆跡じゃあね」
「それもそうね」
それだけ尋くと興味が失せたのだろう、天子は霖之助からするりと離れた。
「霖ちゃ~ん」
霖之助が本に視線を戻そうとすると、小傘が傘立てからひょっこりと顔を出して口を開いた。
「何だよ、今日はもう出ないって云ったろう?」
「違うの。今気付いたんだけど傘のね、骨が折れちゃってるの」
「へえ、それを修理してくれと、君はそう云いたいのだね?」
「うん、お願ーい」
小傘は紫色の、矢張り色の悪い傘を差し出して破顔した。
そして色が悪いと評価している傘を使う自分も趣味がおかしいとも思わないでもない。
「また今度だ。今は余り気乗りしないんでねぇ」
「…けち」
負け惜しみ染みた捨て科白を残して小傘が頭を引っ込める情景が少し滑稽に思えた。
「処でだ。天子、君は帰らなくて良いのか」
「あら、もしかして心配してくれてるの?」
「そう聞こえたかな。まあそれなら良いや」
「別に帰らなくたって問題無いわよ。居なくても困るってモンじゃないしね」
二度目の問答も曖昧にはぐらかされる結果で終わってしまった。
このまま居付かれると泊める羽目になるのだが、風呂と寝床を提供できる位には困る訳ではない。
唯、目の前のお嬢さんが霖之助の持成す食事と客人用の布団に満足するのかが懸念である。
「此処に居ましたか、総領娘様」
霖之助が色色考えていると突然、カウベルの来客を知らせる音が響いた。
「いらっしゃい、全身ずぶ濡れの濡れ鼠状態のようだけど。おっとそのままで上がり込まないで頂きたい」
「衣玖。どうして此処が判ったの?」
「えぇ、まぁ。貴女の行きそうな場所ならこのメモ用紙に…ってあれ?」
衣玖と呼ばれる少女がポケットから取り出した紙切れ、正確にはそれだったモノと云うべきだろう。
水を吸ってぐしゃぐしゃに溶けてしまっていた。
「あらら、これじゃあ使い物にならないわ」
衣玖は傘立てとしては大き過ぎる壺をゴミ箱だと勘違いしたのかぐしゃぐしゃの紙をそこへ投げ捨てた。
「おいおい――」
「わぎゃっ、もう!一体何なの!」
霖之助が注意する前に中にいた小傘が驚嘆の声を上げた。
「おや?何か居ましたわ」
「何かとは何だよぅ。これはゴミ箱じゃない!」
「それはそれは、済みませんでした」
「むぅ…」
「まだ何か?生憎、霊薬なんて持っておりませんよ」
「訳が解らない。何を云ってるんだ」
「ああもう!口に紙がっ」
「はいはい、顔中紙塗れだから洗っておいで」
小傘は傘立てから飛び出すと真っ直ぐ井戸の方へと走って行った。
小傘の姿が見えなくなると突然衣玖が店の真ん中まで進み口を開いた。
「あ、そうそう。貴方に伝えなければいけない事があります」
「僕に?何だろうね」
「もうすぐ梅雨明けです。雷が落ちますよ」
「お、それは良い。漸く洗濯ものが干せる」
「――ここに、もうそろそろかな」
「え?」
霖之助は思わず素っ頓狂な声をだしてしまった。
その次の瞬間、凄まじい轟音と白光を五感が捉え、激痛を伴い意識を手放した。