からん、と汗を掻いたグラスの中で、溶けた氷が涼しげな音色をあげた。
木目模様の美しい丸テーブルに肘をついた雛は、その音を耳にして、うっとりとした笑みを浮かべた。
「厄ぅい」
それでいて、口をつく言葉はいつも意味を成さないことばかり。
すでに慣れきっている私は、特に言及することもなくストローを口に咥える。
啜ると、冷えた珈琲の澄んだ苦味が、舌いっぱいに爽やかな広がりを見せた。
夕暮間近の喫茶店。
傾きかけた茜色が足元の影を斜めに断っていくのに合わせ、燃えるような熱気も、優しい夜の気配にかき消されつつある。そんな時間。
「聞いてるぅ?」
手元のグラスに目を落としたままだった私に業を煮やしたのか、雛はテーブルの上に組んで重ねた両腕にぺたりと頬をつけて、こちらを覗き込んできた。
可愛らしいリボンで纏められた若草色の髪が、さらさらとこぼれて広がる。
素直に綺麗だと、そう思う。同時に、どろりと濡れた黒い情念が湧き上がる。
「……なにがよ」
しかし私は、そんな内心などおくびにも出さず、無愛想に聞き返した。
何故だかわからないけど、こいつにだけは、無様に妬んでいる素振りを絶対に見せたくなかった。
たとえそれが薄っぺらい意地だとしても。
たとえそれが、見透かされているかもしれなくても。
「氷のことよ」
「氷?」
「そぅお。氷」
「氷って、……この氷?」
「当たり前じゃない。おばかさんねぇ」
くすくすと笑う。憮然とする私にまるで頓着せず、雛は白く細い指先でぴんとグラスを弾きながら、いっそ感嘆するかのような調子で呟いた。
「氷って、厄いわぁ。だってそうでしょう。元々、水なんて、定まった形も、理由もない、欠けることも喪うこともない、詰まらない存在でしかなかったのに、ただ冷たく研ぎ澄まされた空気に閉ざされただけで、ほぅら、こんなに綺麗になるのですもの。まるで、凍りつくような静止画ね。閉鎖的なのに、どこまでも優美で、明け透けで。時に火傷をするほど残酷なのに、自分ではきっと、そんなことにさえ気がついていないのよ。それがねぇ、たまらなく不憫で、怖いほど、愛おしいの。ああ、厄い、厄いわぁ」
雛は、身を起こした。
そうして、指が濡れるのも構わず、グラスに手を入れて、溶けかかった氷をつまみ出す。
持ち上げた。
夕日に透けて、紅く乱れた光が、雛の顔に降り注ぐ。
雛は目を細め、端正な顔を愉悦じみた形に歪めた。
私は、どうしてよいかわからずにグラスに口をつけた。困惑混じりに、珈琲をぐっと飲み込む。
溜息をひとつ。居心地は最悪だった。
私は、彼女が苦手だ。
何を考えているのか、さっぱりわからない。
今日だって、突然お茶に誘われたかと思えば、嫌がる私の腕を引き引き、半ば強引に地上に連れ出されたのだ。
「素敵なカフェーを見つけたの」と言って、どこへ連れ込まれるかと思えば、あろうことか人里の、人間の店である。
先ほどからちらちらと突き刺さる、無遠慮な視線が煩わしい。
人外が人里へ来るのが、そんなに可笑しいか。人ならざる異形は、そんな物珍しげな目をされるほど、醜いか。
人だけで構成された、人だけの居場所。人が大手を振ってのさばれる場所。そこで異端の存在を見下すのは、さぞかし心地がいいことだろう。
嗚呼、悔しい。おお、おぞましい。妬ましくも、狂おしい。
「怖ぁい、顔」
気づくと、目の前に雛の顔があった。鼻先が触れ合うほどの距離。
私は顔を顰めて身を引いた。ねちっこく、嫌味の一つもぶつけてやろうと口を開いた。
「んむっ」
ぴたりと、その唇をひんやりしたもので塞がれて、私は気勢を削がれた。
それは、わずかに濡れた指に摘まれた、氷。
私は目を白黒させる。
「くち」
顔を上げる。
妖艶な、微笑。
「開けなさぁい」
私は黙って言われたとおりにした。
ころん、とあっけなく、氷は私の舌の上に転がる。
もごもごと、動かす。
「……あに、ふるのよ」
「うふふ。何を言っているのか、ぜぇんぜん分からないわ」
ころころと、屈託ない笑い声を上げる。
ああ、まただ。
またこいつは、こんなにシアワセそうな顔をする。
私がどんな気持ちで、それを見ているか、知りもしないで。
きりりと奥歯を噛む。でも、それを表には出さない。出してなんか、やらない。
強がる私を尻目に、雛はぺろりと舌を出した。
そうして、指を舐めた。
小ぶりな、赤く滑った軟体がちろちろと、ほっそりとした指先を甘くねぶる。
私の唇に氷を押し当てた、冷たい指を。
わけもなく、ぞっとした。
鳥肌の立つ腕を、そっと擦る。
雛が笑う。おどけた様な、無邪気な笑い声。
私は眉を立てて、そんな彼女を睨みつけた。
雛は、ただでさえ目つきが悪いと自覚しているその凶悪な視線を、平然と受け止めた。
傍目には困ったように見える表情で、髪を掻き上げる。
そうして、嘯くような調子で、言葉を繋いだ。
「きっと、ねぇ。水は、氷になりたいのよ。溶けて、凍えて、固まって、……ひとつになってしまいたいのよ。主体もなく、形もなく、ふらふら、ゆぅらゆら、揺れて、流されるばかりで。だから孤高に佇む、凛と冷たい氷に、どうしても惹かれてしまうのよぉ。強くて、美しくて、あまりに気高く他者を拒む、純粋な氷に、ねぇ」
悪戯っぽく微笑む。
けれど、目だけは笑っていない。
そこでようやく、私は気づいた。
雛の纏う空気の、異質さに。
雛は手慰みのように、白磁のカップに、銀のスプーンを差し入れた。
ゆっくりと、手を動かす。彼女の手元で、かき混ぜられる珈琲が、くるくると渦を巻く。
黒々と蟠る、彼女を取り巻く何かを、落とし込んだみたいに。
私の胸が、ずくりと疼く。
心地よい感覚だ。私を、私たらす感情が、どこかで横たわっている。私を惹きつけている。
産声を上げたばかりの、淀んだ情念の芽が、私に囁きかけている。
私は、ここにいるのだと。
雛は私を見ている。
ちろちろと瞬く、翳った光を瞳に宿らせて。
まるで、羽ばたくことを知らない鳥のように。
まるで、濁流に溺れた魚のように。
まるで、咲くことを忘れた花のように。
私の、ように。
「――変わりゃ、しないわ」
「え?」
たから私は、吐き捨てるように言った。
「水も氷も、元を正せば同じものじゃない。姿、形にちょっと差異があったからって、それが何だって言うのよ。流れるか、留まるか、仮に違いがあるとしても、それはその程度の性質の差よ。与えられた役割が違うだけで、自分の価値を否定するなんて、ああ、まったく、信じられないような贅沢だわ」
苛立ち混じりに、グラスの中の氷をストローで強くつつく。削れた欠片が、溶けた黒真珠のような水に零れて、また少しだけ、その純度を薄めていく。
何かが混じれば、何かは変わる。不可避的に、曖昧になっていく。存在の確かささえ、わからなくなる。
それまで孤独に寄って支えられていた、苦い珈琲が、ミルクという他者との出会いで、反吐が出るほど口当たりよくなるように。
「それにね。氷と水とを比べたら、きっと、皆が愛するのは水の方だわ。氷なんてちょっとした衝撃で砕けたり、溶けたり、ちっぽけで弱っちいものなのに、水ときたら多少温かろうが、寒かろうが、岩に打たれようが、濁ろうが、“水”であるということ、その性質を中々変えたりはしないじゃない。変に脆い氷からすれば、そのあり方はよっぽど強くて、尊くて……とても、眩しい」
私は、何を言っているのだろう。
雛はぽかん、と私を見つめている。まん丸な瞳は、円らであくまでも愛らしい。彼女のたおやかな美貌ときたら、こんな間抜け面を晒していても、くぅるりとまた、一味違った親しみある魅力に化けるのだから、救いがない。
彼女は厄神。厄を祓う女神。たくさんの人のために、広い世界を流れて踊る、艶めかしい黒の揚羽蝶。
同じ神でも、薄暗い橋の下で、臍をかんで人を羨んでいるだけの、妬く神などとは、比べることも――。
何故だか泣きたい気持ちになって、私は必死に、無感動の面を被った。
毒々しい響きの、静かで穏やかで、叫びのような悲痛な声が、溢れるように咽をついた。
「もしかしたら。辺りの淀みを巻き込んで、自由に流れる水に、憧れる氷だって……、いるかも、しれないじゃない」
目を伏せる。
はあ、と一息にぶちまけた想いに気疲れして、私は俯いた。
ああ、気持ち悪い。本当に私は、どうかしているのではなかろうか。あれだけ、こいつにだけは、意地を張りぬいてやろうと決めていたのに。
無様で、惨めで、意味不明な、青臭い台詞だ。実に私らしい。
雛は私を見ている。あの薄気味の悪い微笑はひっこんで、何やらやけに真剣な目つきをしている。
いっそ、笑ってくれたらいいのに。その瞳の奥に、蔑みの光を湛えてくれていたらいいのに。
そうすれば私は、大手を振って、妬むことができる。
ぼろきれのように、すすり泣きながら。
私は何も言わない。言えない。
雛は何も言わない。言ってくれない。
私は雛を、その目を確かめる勇気がなかったからで、彼女の方は、ちょっと、わからない。
後味の悪い沈黙が、のっぺりと張り付く熱の残り香に紛れて、私たちの間に落ちた。
涼しい夜の気配の忍び寄る、夏の午後。窓からは、さざめく蝉時雨と、風鈴の微かな音色。
爽やかなのか、息苦しいのか判別もしがたい空気の中、ただ、私の心にはようやく、落ち着きが舞い戻りつつあった。
自己嫌悪はまだ、心を蝕んで、ちくちくと痛むけれど、それでも、重苦しい手が、渇いた咽を潤すためにグラスに伸びる程度には、我を取り戻しつつあった。
ストローを除けて、残った珈琲を一気に煽る。
もう、お行儀とか、お淑やかさとかは、この際どうだってよかった。
「……そろそろ、いい時間ねぇ」
すると、私が珈琲を飲み干すのを見計らったようなタイミングで、ぽつんと言葉が挟まれた。
見れば、雛が、ようやく視線を私から外して、赤々と照らされる窓ガラスの向こうを、再び口元に笑みを刻んで、眺めやっていた。
それにつられて、私も窓の外に目をやる。
いつの間にか、紅い陽光は、どこへともなく失せていた。
「出ましょうよぉ」
ふらりと幽鬼のように立ち上がって、雛は私が首肯するのを確認もせず、伝票を手にレジへと向かう。
慌てて私も腰を上げると、華奢な背中を追いかけた。
レジでお金を支払うと、私たちは連れだって店を後にする。
ぐぅっと伸びをすると、関節が小気味いい音を立てた。
「あらあら、ばばむさぁい。どうしたの、まるで疲れたような顔をして」
「疲れたのよ」
「ひどぉい」
皮肉交じりに言うも、雛はくすくす笑ってそれをやり過ごす。
私を置き去りにくるり、と回ると、踊るように一歩、二歩と奇妙なステップを踏む。
やっぱり――その思考は、推し量れない。
「やれやれ」
私は深々と、あらゆる意味をこめて嘆息した。
戸惑いは、ある。
後悔もある。
結局何がしたかったのか、どうなってしまったのか、どんな顔でいればいいのか。
自分への嫌悪も拭えない。堪えきれずに吐露した心情は、思い返すだに、その一言一言が羞恥で私を悶えさせる。
それでも、私は我慢する。
まだまだ、痩せ我慢は、続いている。
だって私はまだ、彼女の前にいるのだから。
私は、ため息交じりに空を見上げた。
すると、すでに小さな一番星が、淡いきらめきと共に、紺色の空に昇っていた。
ほう、と私は感嘆の息をもらす。私らしくもないことに、それは嫉妬の念に塗れない、割と純粋な感情の発露だった。
それに気を取られて、私は最後まで気づかなかった。
くるくると蝶のように舞う少女が、そっと流した目で、そんな私を見つめていたことに。
「……おばかさぁん」
もうすぐ月が、顔を出す。
木目模様の美しい丸テーブルに肘をついた雛は、その音を耳にして、うっとりとした笑みを浮かべた。
「厄ぅい」
それでいて、口をつく言葉はいつも意味を成さないことばかり。
すでに慣れきっている私は、特に言及することもなくストローを口に咥える。
啜ると、冷えた珈琲の澄んだ苦味が、舌いっぱいに爽やかな広がりを見せた。
夕暮間近の喫茶店。
傾きかけた茜色が足元の影を斜めに断っていくのに合わせ、燃えるような熱気も、優しい夜の気配にかき消されつつある。そんな時間。
「聞いてるぅ?」
手元のグラスに目を落としたままだった私に業を煮やしたのか、雛はテーブルの上に組んで重ねた両腕にぺたりと頬をつけて、こちらを覗き込んできた。
可愛らしいリボンで纏められた若草色の髪が、さらさらとこぼれて広がる。
素直に綺麗だと、そう思う。同時に、どろりと濡れた黒い情念が湧き上がる。
「……なにがよ」
しかし私は、そんな内心などおくびにも出さず、無愛想に聞き返した。
何故だかわからないけど、こいつにだけは、無様に妬んでいる素振りを絶対に見せたくなかった。
たとえそれが薄っぺらい意地だとしても。
たとえそれが、見透かされているかもしれなくても。
「氷のことよ」
「氷?」
「そぅお。氷」
「氷って、……この氷?」
「当たり前じゃない。おばかさんねぇ」
くすくすと笑う。憮然とする私にまるで頓着せず、雛は白く細い指先でぴんとグラスを弾きながら、いっそ感嘆するかのような調子で呟いた。
「氷って、厄いわぁ。だってそうでしょう。元々、水なんて、定まった形も、理由もない、欠けることも喪うこともない、詰まらない存在でしかなかったのに、ただ冷たく研ぎ澄まされた空気に閉ざされただけで、ほぅら、こんなに綺麗になるのですもの。まるで、凍りつくような静止画ね。閉鎖的なのに、どこまでも優美で、明け透けで。時に火傷をするほど残酷なのに、自分ではきっと、そんなことにさえ気がついていないのよ。それがねぇ、たまらなく不憫で、怖いほど、愛おしいの。ああ、厄い、厄いわぁ」
雛は、身を起こした。
そうして、指が濡れるのも構わず、グラスに手を入れて、溶けかかった氷をつまみ出す。
持ち上げた。
夕日に透けて、紅く乱れた光が、雛の顔に降り注ぐ。
雛は目を細め、端正な顔を愉悦じみた形に歪めた。
私は、どうしてよいかわからずにグラスに口をつけた。困惑混じりに、珈琲をぐっと飲み込む。
溜息をひとつ。居心地は最悪だった。
私は、彼女が苦手だ。
何を考えているのか、さっぱりわからない。
今日だって、突然お茶に誘われたかと思えば、嫌がる私の腕を引き引き、半ば強引に地上に連れ出されたのだ。
「素敵なカフェーを見つけたの」と言って、どこへ連れ込まれるかと思えば、あろうことか人里の、人間の店である。
先ほどからちらちらと突き刺さる、無遠慮な視線が煩わしい。
人外が人里へ来るのが、そんなに可笑しいか。人ならざる異形は、そんな物珍しげな目をされるほど、醜いか。
人だけで構成された、人だけの居場所。人が大手を振ってのさばれる場所。そこで異端の存在を見下すのは、さぞかし心地がいいことだろう。
嗚呼、悔しい。おお、おぞましい。妬ましくも、狂おしい。
「怖ぁい、顔」
気づくと、目の前に雛の顔があった。鼻先が触れ合うほどの距離。
私は顔を顰めて身を引いた。ねちっこく、嫌味の一つもぶつけてやろうと口を開いた。
「んむっ」
ぴたりと、その唇をひんやりしたもので塞がれて、私は気勢を削がれた。
それは、わずかに濡れた指に摘まれた、氷。
私は目を白黒させる。
「くち」
顔を上げる。
妖艶な、微笑。
「開けなさぁい」
私は黙って言われたとおりにした。
ころん、とあっけなく、氷は私の舌の上に転がる。
もごもごと、動かす。
「……あに、ふるのよ」
「うふふ。何を言っているのか、ぜぇんぜん分からないわ」
ころころと、屈託ない笑い声を上げる。
ああ、まただ。
またこいつは、こんなにシアワセそうな顔をする。
私がどんな気持ちで、それを見ているか、知りもしないで。
きりりと奥歯を噛む。でも、それを表には出さない。出してなんか、やらない。
強がる私を尻目に、雛はぺろりと舌を出した。
そうして、指を舐めた。
小ぶりな、赤く滑った軟体がちろちろと、ほっそりとした指先を甘くねぶる。
私の唇に氷を押し当てた、冷たい指を。
わけもなく、ぞっとした。
鳥肌の立つ腕を、そっと擦る。
雛が笑う。おどけた様な、無邪気な笑い声。
私は眉を立てて、そんな彼女を睨みつけた。
雛は、ただでさえ目つきが悪いと自覚しているその凶悪な視線を、平然と受け止めた。
傍目には困ったように見える表情で、髪を掻き上げる。
そうして、嘯くような調子で、言葉を繋いだ。
「きっと、ねぇ。水は、氷になりたいのよ。溶けて、凍えて、固まって、……ひとつになってしまいたいのよ。主体もなく、形もなく、ふらふら、ゆぅらゆら、揺れて、流されるばかりで。だから孤高に佇む、凛と冷たい氷に、どうしても惹かれてしまうのよぉ。強くて、美しくて、あまりに気高く他者を拒む、純粋な氷に、ねぇ」
悪戯っぽく微笑む。
けれど、目だけは笑っていない。
そこでようやく、私は気づいた。
雛の纏う空気の、異質さに。
雛は手慰みのように、白磁のカップに、銀のスプーンを差し入れた。
ゆっくりと、手を動かす。彼女の手元で、かき混ぜられる珈琲が、くるくると渦を巻く。
黒々と蟠る、彼女を取り巻く何かを、落とし込んだみたいに。
私の胸が、ずくりと疼く。
心地よい感覚だ。私を、私たらす感情が、どこかで横たわっている。私を惹きつけている。
産声を上げたばかりの、淀んだ情念の芽が、私に囁きかけている。
私は、ここにいるのだと。
雛は私を見ている。
ちろちろと瞬く、翳った光を瞳に宿らせて。
まるで、羽ばたくことを知らない鳥のように。
まるで、濁流に溺れた魚のように。
まるで、咲くことを忘れた花のように。
私の、ように。
「――変わりゃ、しないわ」
「え?」
たから私は、吐き捨てるように言った。
「水も氷も、元を正せば同じものじゃない。姿、形にちょっと差異があったからって、それが何だって言うのよ。流れるか、留まるか、仮に違いがあるとしても、それはその程度の性質の差よ。与えられた役割が違うだけで、自分の価値を否定するなんて、ああ、まったく、信じられないような贅沢だわ」
苛立ち混じりに、グラスの中の氷をストローで強くつつく。削れた欠片が、溶けた黒真珠のような水に零れて、また少しだけ、その純度を薄めていく。
何かが混じれば、何かは変わる。不可避的に、曖昧になっていく。存在の確かささえ、わからなくなる。
それまで孤独に寄って支えられていた、苦い珈琲が、ミルクという他者との出会いで、反吐が出るほど口当たりよくなるように。
「それにね。氷と水とを比べたら、きっと、皆が愛するのは水の方だわ。氷なんてちょっとした衝撃で砕けたり、溶けたり、ちっぽけで弱っちいものなのに、水ときたら多少温かろうが、寒かろうが、岩に打たれようが、濁ろうが、“水”であるということ、その性質を中々変えたりはしないじゃない。変に脆い氷からすれば、そのあり方はよっぽど強くて、尊くて……とても、眩しい」
私は、何を言っているのだろう。
雛はぽかん、と私を見つめている。まん丸な瞳は、円らであくまでも愛らしい。彼女のたおやかな美貌ときたら、こんな間抜け面を晒していても、くぅるりとまた、一味違った親しみある魅力に化けるのだから、救いがない。
彼女は厄神。厄を祓う女神。たくさんの人のために、広い世界を流れて踊る、艶めかしい黒の揚羽蝶。
同じ神でも、薄暗い橋の下で、臍をかんで人を羨んでいるだけの、妬く神などとは、比べることも――。
何故だか泣きたい気持ちになって、私は必死に、無感動の面を被った。
毒々しい響きの、静かで穏やかで、叫びのような悲痛な声が、溢れるように咽をついた。
「もしかしたら。辺りの淀みを巻き込んで、自由に流れる水に、憧れる氷だって……、いるかも、しれないじゃない」
目を伏せる。
はあ、と一息にぶちまけた想いに気疲れして、私は俯いた。
ああ、気持ち悪い。本当に私は、どうかしているのではなかろうか。あれだけ、こいつにだけは、意地を張りぬいてやろうと決めていたのに。
無様で、惨めで、意味不明な、青臭い台詞だ。実に私らしい。
雛は私を見ている。あの薄気味の悪い微笑はひっこんで、何やらやけに真剣な目つきをしている。
いっそ、笑ってくれたらいいのに。その瞳の奥に、蔑みの光を湛えてくれていたらいいのに。
そうすれば私は、大手を振って、妬むことができる。
ぼろきれのように、すすり泣きながら。
私は何も言わない。言えない。
雛は何も言わない。言ってくれない。
私は雛を、その目を確かめる勇気がなかったからで、彼女の方は、ちょっと、わからない。
後味の悪い沈黙が、のっぺりと張り付く熱の残り香に紛れて、私たちの間に落ちた。
涼しい夜の気配の忍び寄る、夏の午後。窓からは、さざめく蝉時雨と、風鈴の微かな音色。
爽やかなのか、息苦しいのか判別もしがたい空気の中、ただ、私の心にはようやく、落ち着きが舞い戻りつつあった。
自己嫌悪はまだ、心を蝕んで、ちくちくと痛むけれど、それでも、重苦しい手が、渇いた咽を潤すためにグラスに伸びる程度には、我を取り戻しつつあった。
ストローを除けて、残った珈琲を一気に煽る。
もう、お行儀とか、お淑やかさとかは、この際どうだってよかった。
「……そろそろ、いい時間ねぇ」
すると、私が珈琲を飲み干すのを見計らったようなタイミングで、ぽつんと言葉が挟まれた。
見れば、雛が、ようやく視線を私から外して、赤々と照らされる窓ガラスの向こうを、再び口元に笑みを刻んで、眺めやっていた。
それにつられて、私も窓の外に目をやる。
いつの間にか、紅い陽光は、どこへともなく失せていた。
「出ましょうよぉ」
ふらりと幽鬼のように立ち上がって、雛は私が首肯するのを確認もせず、伝票を手にレジへと向かう。
慌てて私も腰を上げると、華奢な背中を追いかけた。
レジでお金を支払うと、私たちは連れだって店を後にする。
ぐぅっと伸びをすると、関節が小気味いい音を立てた。
「あらあら、ばばむさぁい。どうしたの、まるで疲れたような顔をして」
「疲れたのよ」
「ひどぉい」
皮肉交じりに言うも、雛はくすくす笑ってそれをやり過ごす。
私を置き去りにくるり、と回ると、踊るように一歩、二歩と奇妙なステップを踏む。
やっぱり――その思考は、推し量れない。
「やれやれ」
私は深々と、あらゆる意味をこめて嘆息した。
戸惑いは、ある。
後悔もある。
結局何がしたかったのか、どうなってしまったのか、どんな顔でいればいいのか。
自分への嫌悪も拭えない。堪えきれずに吐露した心情は、思い返すだに、その一言一言が羞恥で私を悶えさせる。
それでも、私は我慢する。
まだまだ、痩せ我慢は、続いている。
だって私はまだ、彼女の前にいるのだから。
私は、ため息交じりに空を見上げた。
すると、すでに小さな一番星が、淡いきらめきと共に、紺色の空に昇っていた。
ほう、と私は感嘆の息をもらす。私らしくもないことに、それは嫉妬の念に塗れない、割と純粋な感情の発露だった。
それに気を取られて、私は最後まで気づかなかった。
くるくると蝶のように舞う少女が、そっと流した目で、そんな私を見つめていたことに。
「……おばかさぁん」
もうすぐ月が、顔を出す。