人肌の体温を伴った柔らかな感触が、後頭部を覆っている。
その事実に、驚いた。
確かに、確かにそう、人間たちの手にかかり、封印されたはずだ。
恩人である聖を救うことも叶わず、のみならず、私、村紗水蜜も、地底深くへと封じられたはずだった。
目を開こうとしただけで、全身が軋む。
息をするだけで一苦労だ。
だけど、構わない。
意識を瞼に集中させ、無理やりに眼を開く。
軋む、軋む、軋む。
構わない。
構うものか。
構ってなどいられない!
別々に封じられた恩人が、傍にいるかもしれない――可能性に、私は急く。
滲む視界に映るのは、かつて渉った海の波だった。
そう想起させたのは緩やかな長い髪。
青く、蒼い。
だから、聖じゃない……だれだ?
「起きましたか」
不意に耳へと飛び込んできたのは、少し低めの落ち着いた声。
視覚に比べ、聴覚は安定しているようだ。
一語一語がはっきりと聞こえる。
……いや、それも違う。
わざとらしく感じるほどに、口はゆっくりと動いていた。
此方を慮って、彼女はそうしたのだろう。
気を失っていた者に対する、適切な対処法に思える。
彼女は少女に見えた。私よりも頭一つ分ほど背が高い、波のような蒼い髪をした少女。
考えていたことと口にしたことは、全く別のものだった。
「ひ、じりは……」
絡まる痰のように不愉快な空気を吐き出し、どうにか、私は少女に問う。
答えが返されるまで、僅かの時間があった。
そう感じたのは、自身の状態と周りの景色が、おぼろげにとは言え意識の端に引っ掛かったからだ。
まず、私が、正確には私の頭が、彼女の膝に乗せられているだろうと言うこと。
此処が、海に面した崖にぽっかりと穿たれた洞穴のような場所と言うこと。
……全身を覆う湿り気は、それとも、私の思い込みだろうか。
そっと両肩に触れる手に、私の意識は再び少女の口元に集められる。
「あ――聖様は」
「……ひじり、は?」
「此処には、いません」
先ほどと同じく、彼女は静かに、だけど、聞き取りやすい声で、言った。
言葉は様々なものに例えられる。
剣や棘が浮かんだのは、私の精進が足りないためだろう。
しかし、今、真っ先に想像したのは、太く長い、縄だった。
平静と言う錨を引きぬく、荒縄だ。
「だったら!」
吠え、体を起こす。
起こすつもりだった。起こしたつもりだった。
四肢があろうが無かろうが、這ってでも、此処ではない何処か――聖のいる所に行くはずだった。
できなかったのは、意志の問題ではない。
引き抜かれたと同時、別の錨が突き刺さっていた。
そう例えれば、彼女は首を横に振るだろう。
『私の手は器物ではございません』。
両の肩を押さえる力は、普段の私のソレよりも、よほど強く感じられた。
「だったら、どうされようと?」
「聖の元に! 早く、速く!」
「無理なことを」
余りにも冷静なもの言いに、波がうねる。
うねったものは、私の心。
ただでさえ平静でいられなかったのだ。
小波は荒波へと転じ、私はそれを彼女へとぶつけた。
ぶつけざるを得なかった。
「できるできないの話じゃない!
やらなくちゃいけないんです!
恩人を、聖を、助けなくては!」
叫ぶたび、息が荒くなる。
力が戻ってきていることも感じた。
時に激情は、あり得ないほどの活力となりえる様だ。
だけど、肩はまだ掴まれたままだった。
「……私の力からすら逃れられない今の貴女に、何をやれましょう」
言葉を返せない。
開いた口を、きつく閉じる。
唇を噛みしめすぎたためだろう、歯に、ぬるりとしたものがついた。
「此処は何処でしょう。
聖様は何処にいるのでしょう。
私たちと聖様は、どれほど離れているのでしょう」
ぴたりと止まる。
独白のような彼女の言葉が、ずっしりと響く。
静かな声は辺りの岩々に反響しているのではない。
私の胸に、響いていた。
「それすら解らない今、徒に動くのは愚の骨頂――そう思いませんか」
彼女の指摘は、恐らく、正しい。
「……っ! 放してください! 放してっ! 放せっ!!」
だから、私は、駄々をこねる童のように、ただ同じ言葉を繰り返した。
ふと、右肩が軽くなる。
私の言動に辟易したのだろうか、彼女の手が離れた。
左肩はそのままだったが、構うものかと、半身を起こす。
矢先、彼女の左手が前から右肩に回され、力が加えられた。
正坐の少女。
膝立ちの私。
正面から向き合って、漸く初めて、視線が絡まった。
少女の顔でまず目立つのは、不自然な額の赤みだった。
ついで、私を捉えた、波のような蒼い髪。
そして、黒く大きな目。
何処かで見たことのある、瞳の色だ。
聖や私が封じられる直前、目を見開いていた金髪の女性の裾を掴み、直立していた少女の瞳。
初めて私が恩人に会ったあの日、聖が私に投げかけた瞳。
まだ人間だった頃、見送る陸の友が向けてきた瞳。
事情はそれぞれ違うだろうが、各々、情の籠ったものだった。
「船長」
「……え?」
「ムラサ船長」
私の通称だ。
唐突な呼びかけに、頭が白くなった。
目を瞬かせながらも、向き合う彼女の真意を読みとろうと試みる。
すると、するりと腕が伸ばされた。
速い。
瞬く間だった。
気付けば、拳に両目を寄らせていた。
避けると言う選択が頭に浮かぶよりも先に、私は額を弾かれていた――ぴんっ。
場所と雰囲気に似つかわしくない可愛らしい音が響き、私の頭は更に真っ白になった。
そんな此方を見透かしていたのだろうか。
見透かしていたのだろう。
後日確認した折には、首を傾げて惚けられたが。
「船長」
ともかく、少女は、口を開いた。
「此処は何処でしょう。
聖様は何処にいるのでしょう。
私たちと聖様は、どれほど離れているのでしょう」
二度目の言葉。
今度は、その節々から覗く感情が読みとれた。
どうと言うことはなく、彼女もまた、私と同じなのだ。
「それすら解らない今、徒に動くのは愚の骨頂……だから――」
そう、この少女も、聖を助けたい一心で、同士たる私の軽挙妄動を諭しているのだろう。
白い頭に、航路が浮かぶ。
「――‘力‘を、整えましょう」
言葉を継いで、私は続ける。
「此処は何処か。
聖は何処にいるのか。
私たちと聖は、どれほど離れているのか。
全ては解りません。
人間たちもよくやったものです。
聖と、付き添う者を分断した。
その手腕を認めましょう」
彼らを憎んでいないと言えば嘘になる。
しかし、だからと言ってその感情だけを膨らませても意味がない。
敵を認めた上で冷静に分析し、ではどうすれば良いのか、と考える。
それは、海の上、船にて荒波に向き合う時の心境と、似ていた。
「聖は封じられた。
私も、いいえ、私たちも封じられた。
その身だけでなく、‘力‘も、封じられた。
ですが――それだけです。
或いは、聖に対する術は私たちに向けられたものよりも強いでしょう。
私たちと違い、彼の方は、動くことも、話すこともできないのかもしれません」
彼らは、封じた。
どういう理由があったのか、知る訳もない。
もしかすると、理由などなくて、封じるしかなかったのかもしれない。
だけど、あぁ――「だけれど、聖は、何処かで、生きている」。
区切った言葉は、自身を奮い立たせるためだった。
目論見は十分に、いや、十二分に果たされたと言えよう。
私の肩を掴む少女の目にも、今まで以上の力強さが宿っていた。
「ならば!
私たちは封じられた‘力‘を取り戻しましょう!
いいえ、その時まで――私たちの封印が解かれる、何十、何百、何千の歳月をもって、更なる‘力‘を手に入れましょう!」
彼女の髪に大海を重ね、私は、拳を握り、宣言する――。
「封じられた我が聖輦船と共に、封じられた我が同胞と共に、今度は、私が聖を救う番だ!」
「おー流石はセンチョ、そこまで考えなんだ。うーん、とは言え、何千はヤだなぁ」
……はい?
私は、口を数度開閉させる。
拳も同じく、握っては緩め握っては緩めを繰り返した。
どちらも意味なんてない。あるとすれば、『何と言いました?』の言葉代わりだ。
少女は、物静かでともすれば冷たいとも取られかねないと思った少女は、妙に人懐こい笑顔を浮かべている。
「あ、でも、頑固親父と二人きり、いやぁん♪ ってな状況よりは、よっぽど上等だね」
わざとらしい悲鳴をあげた折には、これまたわざとらしく両拳を口にあてがっていた。
どうと言うこともなく、今度も胸中が見透かされていたようだ。
どうやら、私と彼女の相性は良いらしい。
……ではなくて。
「そ言えば、センチョは‘力‘も封じられてるんだっけ?
‘力‘持ちから封じたのかしらね、人間たちは。
うん、だったら、私が守るよ」
彼女の変貌に、私は面喰らい、呆然とし、つまりは、驚いた。
「あ」
「んぅ?」
「あ……の、先ほどの、怜悧な、だけど仄かに暖かい心を持っている、そんな貴女は……?」
動揺により震える掌を向けると、がっしと握られた。
「演技」
言い切った。なんだその笑顔。
「だって、姐さんのことを聞いてきた時、とにかく焦ってたでしょ?
そーゆーのには、冷たく正論を吐くのが手っ取り早いのよね。
センチョなら、自棄にならないと思ったし」
これはちょっと読み違い、と舌をちろりと出してくる。
「そうそ、センチョは私を知らないみたいだけど、私はセンチョを知ってるんだよね。
と言うか、あんな大きい舟をばぁんと見せられたら誰だって一発で覚えるよ。
私の相棒も大きいことにゃ大きいんだけど、普段は小さいしねぇ」
普段ってなんだ。
大小を自在に変えられるものなど……。
いや……よくよく思い出せば、いた気がする。
「雲……?」
「んぅ、ビンゴ!」
「び、え、なんです?」
自身の額に指を当て、彼女は構わず続けた。あれ、流されちゃった?
「これもさ、雲、雲山にやられたんだよね。
センチョには私がやったでしょ?
あれ」
確かに指で弾かれた。
「あいつは、殴ってきやがったけど」
ぐるぐると腕を回し、頬を膨らませる彼女。
視線の先には、なるほど、被っていたのだろう頭巾が残されていた。
その壁に、彼女が叩きつけられた点を中心にして罅が入っているように見えるが、きっと元からあったのだろう。
つぅと冷たい汗が流れる。
「……エラそうなこと、言ったけどさ」
頬を拭おうと動かした手が、伸ばされていた彼女の指に触れた。
指は、力の割には細く、けれど、しっかりとしている。
頼もしく感じた。
「私も、センチョと同じだったんだよね。
うぅん違うな、もっと酷かった。
殴り返したし」
握られている右手か、それとも、触れられている左手か。
「そこに叩きつけられた後、『少し落ち着け。起こしてしまうぞ』って、雲山がね。
あはは、今にして思えば、あいつも焦ってたんだろうね。
最初はセンチョが映ってなかったんだと思う。
……その後、雲山は、『周囲を見てくる』って行っちゃった。
んぅ、此処が何処だか相変わらずわかんないけど、易々とやられるあいつじゃないよ。
あ、勿論、それは私も同じ――うーん、封じられた後に言っても、我ながら説得力がないな」
私は、左手を掴み、彼女の右手に重ねた。
「殴り合いなら大概の奴に負けない自信があるんだけどねぇ。
だけど、その分、考えるのはちょっと苦手。
あ、こすい立ち回りは得意よ?」
自慢にならないか――快活に笑い、立ち回りが得意な、つまりは要領の良い彼女も、手に力を込めた。
互いの手を絡ませながら、視線も向け合う。
「力仕事は我々にお任せください」
「あぁ、私は、同胞を運ぶための舵を切ろう」
「雲居一輪、雲山、以上二名、ムラサ殿の指揮下に入りまする」
悪戯っぽい瞳に、私も合わせて応えた。
「ふふ」
「くくく」
「あははははっ!」
――暫くの後、私は目元を拭いながら、少女、一輪に、問うた。
「そう言えば、自己紹介をしていませんでしたよね?」
「ん? ムラサじゃないの?」
「通称はそうですけど」
長い付き合いになるのだ。
苗字で呼ばれるのは味気ない。
いやいや、ともかく、私は、名を告げた。
「苗字は村紗、名は――」
こうして、私と彼女、勿論、彼も含めての、長い永い日々が、始まったのだった――。
<幕>
《幕後》
語り終えた後、周りの一同から息が零れたのを感じた。
海に生きた私にすれば、甘過ぎるきらいがある匂いの吐息だ。
闇夜に消えたものもあれば、枕に籠ったものもあったように思う。
参加者の一人に考慮した、果実酒の所為だろう。
場所は博麗神社で、時刻は夜更け。
同じ年頃――容姿の話だ――の少女たちにお呼ばれされ、私と一輪は此処にいる。
すわお礼参りか手荒な歓迎かと身を固くした私だったが、どうと言うこともなく、寝巻の宴だった。
「センチョ、パジャマパーティって言うんだよ」
流石は一輪、すかさずフォローを入れてくれる。え、口に出してた?
こほん。
私たちは、飲み、食い、騒ぎ、楽しんだ。
全員が床につき睡眠の時間かと思ったのだが、どうやらそこからが本番だったらしい。
そして、集中砲火を受けた。
『……もう慣れた?』
『なぁ、やっぱりあの船にはもう、珍しい宝はないのか?』
『変形しますよね? 変形しますよね!? ちょうじくうよーさーっい!!』
『雲の彼は? ……そう。もっと大きくしないといけないわね』
『貴女たちは随分と一緒だったようね。飽きなもがもが』
魔女の発言は、両脇に陣取る魔法使いと人形遣いに押さえられた。
結局、ぷんすかと拗ねる彼女の要望に近い話を、つまり、私たちの出会いを語ったのだった。
努めて明るく話したが、重すぎたのだろうか。暫く、誰も口を開かなかった。
夜は時間を捉えにくい。
一分か、それとも、もっとだろうか。
先ほど雄たけびを上げた少女の影が、動いた。
ずいと身を乗り出し、私ではなく、傍の一輪に、問う。
「その時も、やはり、『みなみちゅ』と?」
「えぇぇぇぇ、そんなことですか!?」
「うん、可愛かった」
真面目な顔で応えないでください、一輪。
「やー、可愛くて可愛くてしょうがなくて笑っちゃったんだけど、エラく怒らせちゃってねぇ。
さっきのパチュリーみたいにさ、水蜜、そっぽ向いちゃった。
だから、私は素直に白状したんだ。可愛いって」
続けないでください、一輪。
「慣れてなかったのかなぁ。
ものすごく顔を赤くしてさ。
そうそう、こんな、今みたいな感じ」
暗くて見えないはずなのに当てないでください、一輪。
「恥ずかしい話、我慢できなくてさ。
何処でもよかったんだけど、おでこをぺろっとね。
『赤みが残ってたから痛いの痛いのとんでけー』って、我ながら下手な言い訳だ」
ほんとに恥ずかしい上に、ほんとに下手な言い訳です、一輪。
「水蜜、固まっちゃった。
あちゃーって思ってたら、袖を引かれたんだよね。
そんで、凄い小声で、『ココも痛いです……』って、服を」
いい加減にしてくださいと言うかヘッドロックを解いてくださいと言うか口を塞ぐなら同じ部位で――違う!
「服を!?」
「指が示すのは覗く」
「ストップ! そこまで!」
制止の声と同時、二つの枕が一輪を打ちすえた!
「何故ですか霊夢さん!?」
「何故じゃない! あ、どさくさに紛れて布団に潜り、あんたまだ酔ってるでしょ!?」
「良い匂いがします。……じゃなくて、きっと、聞きたい方がいるんです! 妖夢さんとか!」
酷い道連れだ。
「止めろよ、って言うか止めろよ、パチュリー!?」
「ふふ、パチェも少女、興味はあるわよね」
「あ、え、その……むきゅー」
魔女は枕に突っ伏した。あら、愛い。
少し前の静寂が嘘のように、今や広い寝室は騒然としている。
その原因が私の肩を掴み、上半身を起こそうとした。
愉快そうに笑んでいるのが、解る。
虫が良すぎる――そう思い、私は、抗った。
「おや?」
手を払い、くるりと振り向き、倒れこむ。
「わぉ……襲われているようだ」
「がおーっ、では、星ですね。むらむらー!」
「ごめん水蜜、素で言わせてもらうけど、それはどうかと――」
思う、と言おうとしたのだろう。今になっては解らない。彼女の口は、私に、塞がれたのだから――。
《幕後》
その事実に、驚いた。
確かに、確かにそう、人間たちの手にかかり、封印されたはずだ。
恩人である聖を救うことも叶わず、のみならず、私、村紗水蜜も、地底深くへと封じられたはずだった。
目を開こうとしただけで、全身が軋む。
息をするだけで一苦労だ。
だけど、構わない。
意識を瞼に集中させ、無理やりに眼を開く。
軋む、軋む、軋む。
構わない。
構うものか。
構ってなどいられない!
別々に封じられた恩人が、傍にいるかもしれない――可能性に、私は急く。
滲む視界に映るのは、かつて渉った海の波だった。
そう想起させたのは緩やかな長い髪。
青く、蒼い。
だから、聖じゃない……だれだ?
「起きましたか」
不意に耳へと飛び込んできたのは、少し低めの落ち着いた声。
視覚に比べ、聴覚は安定しているようだ。
一語一語がはっきりと聞こえる。
……いや、それも違う。
わざとらしく感じるほどに、口はゆっくりと動いていた。
此方を慮って、彼女はそうしたのだろう。
気を失っていた者に対する、適切な対処法に思える。
彼女は少女に見えた。私よりも頭一つ分ほど背が高い、波のような蒼い髪をした少女。
考えていたことと口にしたことは、全く別のものだった。
「ひ、じりは……」
絡まる痰のように不愉快な空気を吐き出し、どうにか、私は少女に問う。
答えが返されるまで、僅かの時間があった。
そう感じたのは、自身の状態と周りの景色が、おぼろげにとは言え意識の端に引っ掛かったからだ。
まず、私が、正確には私の頭が、彼女の膝に乗せられているだろうと言うこと。
此処が、海に面した崖にぽっかりと穿たれた洞穴のような場所と言うこと。
……全身を覆う湿り気は、それとも、私の思い込みだろうか。
そっと両肩に触れる手に、私の意識は再び少女の口元に集められる。
「あ――聖様は」
「……ひじり、は?」
「此処には、いません」
先ほどと同じく、彼女は静かに、だけど、聞き取りやすい声で、言った。
言葉は様々なものに例えられる。
剣や棘が浮かんだのは、私の精進が足りないためだろう。
しかし、今、真っ先に想像したのは、太く長い、縄だった。
平静と言う錨を引きぬく、荒縄だ。
「だったら!」
吠え、体を起こす。
起こすつもりだった。起こしたつもりだった。
四肢があろうが無かろうが、這ってでも、此処ではない何処か――聖のいる所に行くはずだった。
できなかったのは、意志の問題ではない。
引き抜かれたと同時、別の錨が突き刺さっていた。
そう例えれば、彼女は首を横に振るだろう。
『私の手は器物ではございません』。
両の肩を押さえる力は、普段の私のソレよりも、よほど強く感じられた。
「だったら、どうされようと?」
「聖の元に! 早く、速く!」
「無理なことを」
余りにも冷静なもの言いに、波がうねる。
うねったものは、私の心。
ただでさえ平静でいられなかったのだ。
小波は荒波へと転じ、私はそれを彼女へとぶつけた。
ぶつけざるを得なかった。
「できるできないの話じゃない!
やらなくちゃいけないんです!
恩人を、聖を、助けなくては!」
叫ぶたび、息が荒くなる。
力が戻ってきていることも感じた。
時に激情は、あり得ないほどの活力となりえる様だ。
だけど、肩はまだ掴まれたままだった。
「……私の力からすら逃れられない今の貴女に、何をやれましょう」
言葉を返せない。
開いた口を、きつく閉じる。
唇を噛みしめすぎたためだろう、歯に、ぬるりとしたものがついた。
「此処は何処でしょう。
聖様は何処にいるのでしょう。
私たちと聖様は、どれほど離れているのでしょう」
ぴたりと止まる。
独白のような彼女の言葉が、ずっしりと響く。
静かな声は辺りの岩々に反響しているのではない。
私の胸に、響いていた。
「それすら解らない今、徒に動くのは愚の骨頂――そう思いませんか」
彼女の指摘は、恐らく、正しい。
「……っ! 放してください! 放してっ! 放せっ!!」
だから、私は、駄々をこねる童のように、ただ同じ言葉を繰り返した。
ふと、右肩が軽くなる。
私の言動に辟易したのだろうか、彼女の手が離れた。
左肩はそのままだったが、構うものかと、半身を起こす。
矢先、彼女の左手が前から右肩に回され、力が加えられた。
正坐の少女。
膝立ちの私。
正面から向き合って、漸く初めて、視線が絡まった。
少女の顔でまず目立つのは、不自然な額の赤みだった。
ついで、私を捉えた、波のような蒼い髪。
そして、黒く大きな目。
何処かで見たことのある、瞳の色だ。
聖や私が封じられる直前、目を見開いていた金髪の女性の裾を掴み、直立していた少女の瞳。
初めて私が恩人に会ったあの日、聖が私に投げかけた瞳。
まだ人間だった頃、見送る陸の友が向けてきた瞳。
事情はそれぞれ違うだろうが、各々、情の籠ったものだった。
「船長」
「……え?」
「ムラサ船長」
私の通称だ。
唐突な呼びかけに、頭が白くなった。
目を瞬かせながらも、向き合う彼女の真意を読みとろうと試みる。
すると、するりと腕が伸ばされた。
速い。
瞬く間だった。
気付けば、拳に両目を寄らせていた。
避けると言う選択が頭に浮かぶよりも先に、私は額を弾かれていた――ぴんっ。
場所と雰囲気に似つかわしくない可愛らしい音が響き、私の頭は更に真っ白になった。
そんな此方を見透かしていたのだろうか。
見透かしていたのだろう。
後日確認した折には、首を傾げて惚けられたが。
「船長」
ともかく、少女は、口を開いた。
「此処は何処でしょう。
聖様は何処にいるのでしょう。
私たちと聖様は、どれほど離れているのでしょう」
二度目の言葉。
今度は、その節々から覗く感情が読みとれた。
どうと言うことはなく、彼女もまた、私と同じなのだ。
「それすら解らない今、徒に動くのは愚の骨頂……だから――」
そう、この少女も、聖を助けたい一心で、同士たる私の軽挙妄動を諭しているのだろう。
白い頭に、航路が浮かぶ。
「――‘力‘を、整えましょう」
言葉を継いで、私は続ける。
「此処は何処か。
聖は何処にいるのか。
私たちと聖は、どれほど離れているのか。
全ては解りません。
人間たちもよくやったものです。
聖と、付き添う者を分断した。
その手腕を認めましょう」
彼らを憎んでいないと言えば嘘になる。
しかし、だからと言ってその感情だけを膨らませても意味がない。
敵を認めた上で冷静に分析し、ではどうすれば良いのか、と考える。
それは、海の上、船にて荒波に向き合う時の心境と、似ていた。
「聖は封じられた。
私も、いいえ、私たちも封じられた。
その身だけでなく、‘力‘も、封じられた。
ですが――それだけです。
或いは、聖に対する術は私たちに向けられたものよりも強いでしょう。
私たちと違い、彼の方は、動くことも、話すこともできないのかもしれません」
彼らは、封じた。
どういう理由があったのか、知る訳もない。
もしかすると、理由などなくて、封じるしかなかったのかもしれない。
だけど、あぁ――「だけれど、聖は、何処かで、生きている」。
区切った言葉は、自身を奮い立たせるためだった。
目論見は十分に、いや、十二分に果たされたと言えよう。
私の肩を掴む少女の目にも、今まで以上の力強さが宿っていた。
「ならば!
私たちは封じられた‘力‘を取り戻しましょう!
いいえ、その時まで――私たちの封印が解かれる、何十、何百、何千の歳月をもって、更なる‘力‘を手に入れましょう!」
彼女の髪に大海を重ね、私は、拳を握り、宣言する――。
「封じられた我が聖輦船と共に、封じられた我が同胞と共に、今度は、私が聖を救う番だ!」
「おー流石はセンチョ、そこまで考えなんだ。うーん、とは言え、何千はヤだなぁ」
……はい?
私は、口を数度開閉させる。
拳も同じく、握っては緩め握っては緩めを繰り返した。
どちらも意味なんてない。あるとすれば、『何と言いました?』の言葉代わりだ。
少女は、物静かでともすれば冷たいとも取られかねないと思った少女は、妙に人懐こい笑顔を浮かべている。
「あ、でも、頑固親父と二人きり、いやぁん♪ ってな状況よりは、よっぽど上等だね」
わざとらしい悲鳴をあげた折には、これまたわざとらしく両拳を口にあてがっていた。
どうと言うこともなく、今度も胸中が見透かされていたようだ。
どうやら、私と彼女の相性は良いらしい。
……ではなくて。
「そ言えば、センチョは‘力‘も封じられてるんだっけ?
‘力‘持ちから封じたのかしらね、人間たちは。
うん、だったら、私が守るよ」
彼女の変貌に、私は面喰らい、呆然とし、つまりは、驚いた。
「あ」
「んぅ?」
「あ……の、先ほどの、怜悧な、だけど仄かに暖かい心を持っている、そんな貴女は……?」
動揺により震える掌を向けると、がっしと握られた。
「演技」
言い切った。なんだその笑顔。
「だって、姐さんのことを聞いてきた時、とにかく焦ってたでしょ?
そーゆーのには、冷たく正論を吐くのが手っ取り早いのよね。
センチョなら、自棄にならないと思ったし」
これはちょっと読み違い、と舌をちろりと出してくる。
「そうそ、センチョは私を知らないみたいだけど、私はセンチョを知ってるんだよね。
と言うか、あんな大きい舟をばぁんと見せられたら誰だって一発で覚えるよ。
私の相棒も大きいことにゃ大きいんだけど、普段は小さいしねぇ」
普段ってなんだ。
大小を自在に変えられるものなど……。
いや……よくよく思い出せば、いた気がする。
「雲……?」
「んぅ、ビンゴ!」
「び、え、なんです?」
自身の額に指を当て、彼女は構わず続けた。あれ、流されちゃった?
「これもさ、雲、雲山にやられたんだよね。
センチョには私がやったでしょ?
あれ」
確かに指で弾かれた。
「あいつは、殴ってきやがったけど」
ぐるぐると腕を回し、頬を膨らませる彼女。
視線の先には、なるほど、被っていたのだろう頭巾が残されていた。
その壁に、彼女が叩きつけられた点を中心にして罅が入っているように見えるが、きっと元からあったのだろう。
つぅと冷たい汗が流れる。
「……エラそうなこと、言ったけどさ」
頬を拭おうと動かした手が、伸ばされていた彼女の指に触れた。
指は、力の割には細く、けれど、しっかりとしている。
頼もしく感じた。
「私も、センチョと同じだったんだよね。
うぅん違うな、もっと酷かった。
殴り返したし」
握られている右手か、それとも、触れられている左手か。
「そこに叩きつけられた後、『少し落ち着け。起こしてしまうぞ』って、雲山がね。
あはは、今にして思えば、あいつも焦ってたんだろうね。
最初はセンチョが映ってなかったんだと思う。
……その後、雲山は、『周囲を見てくる』って行っちゃった。
んぅ、此処が何処だか相変わらずわかんないけど、易々とやられるあいつじゃないよ。
あ、勿論、それは私も同じ――うーん、封じられた後に言っても、我ながら説得力がないな」
私は、左手を掴み、彼女の右手に重ねた。
「殴り合いなら大概の奴に負けない自信があるんだけどねぇ。
だけど、その分、考えるのはちょっと苦手。
あ、こすい立ち回りは得意よ?」
自慢にならないか――快活に笑い、立ち回りが得意な、つまりは要領の良い彼女も、手に力を込めた。
互いの手を絡ませながら、視線も向け合う。
「力仕事は我々にお任せください」
「あぁ、私は、同胞を運ぶための舵を切ろう」
「雲居一輪、雲山、以上二名、ムラサ殿の指揮下に入りまする」
悪戯っぽい瞳に、私も合わせて応えた。
「ふふ」
「くくく」
「あははははっ!」
――暫くの後、私は目元を拭いながら、少女、一輪に、問うた。
「そう言えば、自己紹介をしていませんでしたよね?」
「ん? ムラサじゃないの?」
「通称はそうですけど」
長い付き合いになるのだ。
苗字で呼ばれるのは味気ない。
いやいや、ともかく、私は、名を告げた。
「苗字は村紗、名は――」
こうして、私と彼女、勿論、彼も含めての、長い永い日々が、始まったのだった――。
<幕>
《幕後》
語り終えた後、周りの一同から息が零れたのを感じた。
海に生きた私にすれば、甘過ぎるきらいがある匂いの吐息だ。
闇夜に消えたものもあれば、枕に籠ったものもあったように思う。
参加者の一人に考慮した、果実酒の所為だろう。
場所は博麗神社で、時刻は夜更け。
同じ年頃――容姿の話だ――の少女たちにお呼ばれされ、私と一輪は此処にいる。
すわお礼参りか手荒な歓迎かと身を固くした私だったが、どうと言うこともなく、寝巻の宴だった。
「センチョ、パジャマパーティって言うんだよ」
流石は一輪、すかさずフォローを入れてくれる。え、口に出してた?
こほん。
私たちは、飲み、食い、騒ぎ、楽しんだ。
全員が床につき睡眠の時間かと思ったのだが、どうやらそこからが本番だったらしい。
そして、集中砲火を受けた。
『……もう慣れた?』
『なぁ、やっぱりあの船にはもう、珍しい宝はないのか?』
『変形しますよね? 変形しますよね!? ちょうじくうよーさーっい!!』
『雲の彼は? ……そう。もっと大きくしないといけないわね』
『貴女たちは随分と一緒だったようね。飽きなもがもが』
魔女の発言は、両脇に陣取る魔法使いと人形遣いに押さえられた。
結局、ぷんすかと拗ねる彼女の要望に近い話を、つまり、私たちの出会いを語ったのだった。
努めて明るく話したが、重すぎたのだろうか。暫く、誰も口を開かなかった。
夜は時間を捉えにくい。
一分か、それとも、もっとだろうか。
先ほど雄たけびを上げた少女の影が、動いた。
ずいと身を乗り出し、私ではなく、傍の一輪に、問う。
「その時も、やはり、『みなみちゅ』と?」
「えぇぇぇぇ、そんなことですか!?」
「うん、可愛かった」
真面目な顔で応えないでください、一輪。
「やー、可愛くて可愛くてしょうがなくて笑っちゃったんだけど、エラく怒らせちゃってねぇ。
さっきのパチュリーみたいにさ、水蜜、そっぽ向いちゃった。
だから、私は素直に白状したんだ。可愛いって」
続けないでください、一輪。
「慣れてなかったのかなぁ。
ものすごく顔を赤くしてさ。
そうそう、こんな、今みたいな感じ」
暗くて見えないはずなのに当てないでください、一輪。
「恥ずかしい話、我慢できなくてさ。
何処でもよかったんだけど、おでこをぺろっとね。
『赤みが残ってたから痛いの痛いのとんでけー』って、我ながら下手な言い訳だ」
ほんとに恥ずかしい上に、ほんとに下手な言い訳です、一輪。
「水蜜、固まっちゃった。
あちゃーって思ってたら、袖を引かれたんだよね。
そんで、凄い小声で、『ココも痛いです……』って、服を」
いい加減にしてくださいと言うかヘッドロックを解いてくださいと言うか口を塞ぐなら同じ部位で――違う!
「服を!?」
「指が示すのは覗く」
「ストップ! そこまで!」
制止の声と同時、二つの枕が一輪を打ちすえた!
「何故ですか霊夢さん!?」
「何故じゃない! あ、どさくさに紛れて布団に潜り、あんたまだ酔ってるでしょ!?」
「良い匂いがします。……じゃなくて、きっと、聞きたい方がいるんです! 妖夢さんとか!」
酷い道連れだ。
「止めろよ、って言うか止めろよ、パチュリー!?」
「ふふ、パチェも少女、興味はあるわよね」
「あ、え、その……むきゅー」
魔女は枕に突っ伏した。あら、愛い。
少し前の静寂が嘘のように、今や広い寝室は騒然としている。
その原因が私の肩を掴み、上半身を起こそうとした。
愉快そうに笑んでいるのが、解る。
虫が良すぎる――そう思い、私は、抗った。
「おや?」
手を払い、くるりと振り向き、倒れこむ。
「わぉ……襲われているようだ」
「がおーっ、では、星ですね。むらむらー!」
「ごめん水蜜、素で言わせてもらうけど、それはどうかと――」
思う、と言おうとしたのだろう。今になっては解らない。彼女の口は、私に、塞がれたのだから――。
《幕後》
やっぱ一輪さんはこういう性格のが好きだな。
「苗字は村紗、名はみなみちゅ」一体何年間みなみちゅと呼ばれ続けたのだろうかww