「はあ……」
ふと人形の手入れの手を止めて、窓の外を眺めたアリスは小さくため息をつく。
工房に効率的に日の光が入るよう大きめに作った窓が切り取った景色は、どんよりと薄暗い。
普段ならば、昼には深い緑の木々、透きとおった空と、心地の良い日の光が、夜には濃紺の夜空に星々がきらめいているのが見える。人形の手入れに疲れた目を休ませ、楽しませてくれるというのに。
止まない雨で滲んだ窓の外。灰色がかった重苦しい雲に覆われていて、いつもは爽やかに見える木々もおどろおどろしく見えてくる。
「止まないわね……。梅雨だから仕方ないけど」
思わず一人呟く。けれど帰ってくる声はなく、ぼつぼつと屋根に当たる雨音にかき消されてしまう。いつも連れ歩いている上海人形も今は眠りにつかせているから仕方がない。
ここのところすっかり独り言がくせになってしまっている自分に苦笑しながら、アリスは再び針と作りかけの人形を手にとった。
アリス・マーガトロイドは梅雨を好まない。
じとじとと降り続く雨は鬱陶しい。肌にまとわりつく湿気は不快だし、天然でウェーブのかかった髪が普段以上に広がってしまうのが気に食わない。
洗濯物だって乾かないし、食べ物が痛みやすいのも、ダニや何かが発生しやすいのも困る。雨が降った後には庭の手入れだって面倒くさい。
何より、湿気で人形が傷みやすいということが一番アリスを悩ませる。もちろん、アリスはこの幻想郷において右に出るものがいないほど、人形の扱いには秀でているという自負があるし、それを回避するための対策だっていくらも思いつく。
けれど、一つ一つに処置をしていくのにはものすごい手間がかかる。それはもう、普段の研究開発が滞るほどに。
アリスは人形のひとつひとつを愛しているけれど、この手入れをしている時間を新しい人形やドレスを作るために使えたら、もっと有意義な時間が過ごせると思うともったいない。
多彩な四季を織りなし、それぞれに景色が移り変わっていく幻想郷をアリスは好んでいるけれど、梅雨だけはどうも好きになれそうにない。
「それに……」
色とりどりの布や糸、型紙で散らかったテーブルの奥、何冊も積み重ねられた臙脂色や濃紺の表紙の本をちらりと視界の端に映して、アリスは目を伏せる。
一週間前に大図書館から借りてきた本だ。雨で外出が滞っている分、すっかり読み終えてしまった本だ。
できることならば、さっさと返却して、次の本を借りてきたいのだけれど。
こう毎日雨ばかり降っていてはそういうわけにもいかない。普段のように気軽に紅魔館に行くことはできないのだ。
魔法の森から紅魔館まではかなりの距離がある。この雨の中、水気に弱い本を持って出歩けば、どういうことになるか考えるまでもない。
本がしなしなになってしまえば、あの気難しい魔女の機嫌は急降下するだろうし、意外に子どもっぽい彼女を宥めるのは面倒くさい。パチュリー自身もそれを分かっているのか、雨の日には本を貸してくれないし、持ってこないでと厳命している。
アリスとしても、そんなことで貴重な本が傷んでしまうのは本意でない。都会派としては借りたものは万全の状態で返してなんぼだと思う。
「パチュリー、どうしてるかしら」
思考を巡らせているうちに、浮かんできた気難しい魔女の姿。今、アリスが一番好きな人。
梅雨入りしてから、もう二週間も会っていない。
一応想いは通じあっていると思うし、仮に本を持っていけなかったとしても会いに行ったっていいはずなのだけれど。
どうも、いつも本を借りに行く、返しに行くついでに談笑していたという形をとっていたせいか、用もないのに会いに行くのが妙に照れくさくて。雨が降っている時は、二の足を踏んでしまう。
一度だけ、雨と雨の間。珍しく晴れ間を見せた日にこれ幸いと本を返しに行ったのだけれど、結果的に言えばその日もパチュリーには会えなかった。
詳しいメカニズムは分からないけれど、小悪魔が言うには、梅雨と喘息は相性が悪いらしく。体調を崩して寝込んでいるというパチュリーに会うことはできなかった。
看病のひとつやふたつできればいいのに、と思うのだけれど、変なところでプライドの高いパチュリーはそれをよしとしない。
「ばか」
会えばこ憎たらしいことしか言わないし、お互いに皮肉ばかり言いあっている。
大人っぽくて子どもっぽい、気まぐれでわがままなパチュリーに振り回されるばっかりなのだけれど。帰ってきて心底疲れてしまうこともある。
普段だって、毎日会っているわけでもなくて、二三日会わないことも、図書館に行ってもお互いに研究に集中してまるきり言葉を交わさないことだってある。
そもそも、アリスは一人でいることが好きなのだ。こうして、家の中にこもってひたすら人形の世話をできるのなんて、願ったりかなったりだ。今だって、充実した時間を過ごせていると言えば、過ごせているのだ。ただ、できれば、梅雨のためのメンテナンスではなくて、あらたなものを作り出したいのだけれど。
だけど、こうして会えない時間が長く続くと、どうにもこうにも落ちつかない。
あの寝巻きのような不思議センスの、ひらひらとした衣装が、艶のあるまっすぐな紫陽花色の髪が、赤と青のマジックアイテムが。
愛想のない仏頂面が、アリスをからかう時だけに見せるいたずらっぽい笑顔が、不意打ちで甘い雰囲気になった時の恥じらった表情が、見たくてたまらなくなる。
「会いたいな」
気がつけば考えるのはそんなことばかりで。思わず作ってしまった人形を眺めて、アリスは苦笑する。
そして、立ちあがり窓際につるすのは、二つのてるてる坊主。赤青白のと、薄桃色のふたつ。普通の顔をしたのと、じと目をしたの。
子供じみたおまじない。けれど、魔法使いがやれば、何らかの効果がありそうな気がした。意味もないお遊びだとは分かっているけれど、やらずにはいられなかったのだ。
「早く梅雨明けしないかな」
「小悪魔、紅茶」
紅魔館、大図書館。いつも通りの安楽椅子にもたれるように腰かけたパチュリーはかすれた消え入りそうな声でそう呟く。当然顔を上げることもなく、視線は分厚い本に落とされたまま。
どうしようもなく不機嫌である。傍目にはいつも通りの退屈そうな姿に見えるだろうし、感情のこもらない声に聞こえるだろう。けれど、付き合いの長い小悪魔には分かる。
パチュリーは不機嫌だ。
「はいはい、少々お待ちくださいねー」
そんな主のテンションの低さを補うように、明るい声で返事をする小悪魔は、司書の仕事の手を止めて、台所へと駆ける。
主の機嫌の悪さの理由がよく分かっている小悪魔としては、申し訳ないと思いつつも、落ち着かない様子でぶすくれている主の姿を見ていると楽しくて仕方ないのだ。
当然、笑ってしまった姿を見られてしまえば、パチュリーは本格的に機嫌を損ねてしまうだろうから、こうして小悪魔は駆けるのだ。
「本当にパチュリー様ってば可愛いなー」
くすくすと悪魔らしく笑いながら、小悪魔はやかんを火にかける。尻尾をふりふり、羽根をぱたぱたさせながら、ティーカップや茶葉の準備をする。
主の不機嫌の理由は単純明快。
梅雨入りしてから二週間。パチュリーは想い人であるアリスに一度も会えていない。
それが寂しいというか、落ち着かないというか、そんなところだろう。本人はそれをほとんど自覚していなくて、ただただ湿気だのなんだののせいだと思い込んでいるところがまた、おかしくてたまらないのだけれど。
「ほーんと、二人とも意地っぱりと言うかなんというか」
二人とも、基本がひねくれた魔法使いという種族だからなのか、変なとこころで意地を張る。
たとえば、一週間前、アリスが晴れ間を見計らって訪れたとき。パチュリーは気圧の変化の影響か体調が優れず寝込んでいた。
あの時に、後輩魔法使いに弱みを見せたくないとかなんとか変な意地を張らないで、見舞いなり、看病なりしてもらえばよかったのだ。
その方が自然といちゃいちゃできたはずだ。面倒見のいいアリスであるから、すりりんごをあーん、とか、おでことおでこをひっつけて熱を計るとか、手を握っていてもらうとか普通にしてくれるはず。
普通に考えれば、その方がよっぽどおいしいはずなのに、プライドの高いパチュリーはそれをよしとしない。
結果として、今、こうして寂しがっているのではどうしようもない。
アリスだってそうだ。パチュリーに会いたくてしかたなくて、折角会いに来たのに、あっさりと引き下がってしまうし、そもそも、本がなくたって遊びに来ればいいのに。
小悪魔がそう告げたのだけれど、頬を僅かに赤く染めて、視線を反らして、「気が向いたらね」なんて、肩をすくめてみせた。普段、さりげなく手をつないだり、抱き合ったりしているのに、何でそこで照れるのかが、分からない。
「あっと」
ぴぃーっと音を立てるやかんの火を慌てて止める。吹きこぼれてしまったら困るから。
手際よくティーカップを温めて、ティーポットにお湯を注いで、砂時計をひっくり返す。
静かに落ちていく紫色の砂を眺めながら、小悪魔は再び思索にふける。
アリスが来ても来なくても、基本的にパチュリーの行動は変わらない。本を読むことと研究をすること。ただそれだけ。
寝込んでいる時は除いて、最初の一週間はやたらと読むスピードが速かった。次の一週間はだんだんスピードがおちていった。小悪魔が見ていないと思っているのか、こっそり物思いにふけるようにため息をついていたこともある。
なにより、読んでいる本が『人形の歴史』だの薄い恋愛小説だの、アリスが前に借りていったものばかりなあたり重症である。
もっとも、昨日それを指摘した途端、まったく別の本を読みはじめた。脈絡もなく、日本の民族風習の本を。小悪魔的には、その時の反応もおもしろかったから、大満足。
「でーきた」
その時のことを思い出して、顔がにやついてくるのを必死に耐える。こんな顔を見られたら、間違いなくロイヤルフレア。
砂時計の砂は落ち切ったのを確認すると。トレイにポットとティーカップをのせて、小悪魔は行きよりは慎重に大図書館へと駆ける。
大して時間はかかっていないけれど、不機嫌な時の主はたいてい理不尽だ。急ぐに越したことはない。そんな自分勝手なところもまた、小悪魔は好んでいるのだけれど。
「お待たせしましたーって、あれ? それなんですか?」
「ああ、ありがとう」
図書館のいつもの場所に戻ると、パチュリーは珍しくも本を読んでいなかった。
先ほどまで読んでいた本はテーブルの上に広げられ、パチュリーが手にしているのは、真っ白な布切れとぐしゃぐしゃに丸めた紙。
小悪魔が紅茶を空いたスペースに置くと、パチュリーは布切れで紙を覆いながら、何でもないことのようにぼそぼそと呟く。
「これは古来日本に伝わる晴天を祈願した儀式に使う道具。手間もかからないし、退屈だし、試してみようかと思って」
「ああ、てるてる坊主ですか」
「ちょっとした実験よ、実験」
ようするに、晴れてほしいからおまじないをしようと。
わずかに反らした瞳だとか、ほんのり色づいた頬などを眺めながら、小悪魔はあいまいに頷く。きっと突っ込んだら面白いんだろうけどなぁ、と思うけれど、ここは我慢する。
決して不器用というわけではないけれど、慣れていない作業ゆえか、どこかぎこちない手つきで、てるてる坊主の首元を自らがつけていたリボンを外して結ぶ。
青いリボンのが一つ。赤いリボンのが一つ。なまじリボンがマジックアイテムなだけにリアルに効果が期待できそうだ。
それを眺めながら、小悪魔はひとつ楽しいいたずらを思いつく。
「顔は私が書いてもいいですか?」
「小悪魔?」
「ほら、パチュリー様お絵かきは得意じゃありませんし」
「うっさい」
けれど、それは自分でも自覚していたのか、比較的あっさりとてるてる坊主を手渡してくる。急ごしらえで作られたそれはやはりどこか不格好で、頭の形は妙にぼこぼこしているし、ひらひらしている部分も妙に偏っている。
「できたら、ついでに、窓際に吊るして来てちょうだい」
「おまかせくっださーい」
羽根ペンにインクをつけて顔を書きこんでいる小悪魔を眺めながら、パチュリーは疲れたように再び背もたれに身体を預ける。淹れたばかりの紅茶をふうふうと冷ましながら、口に含んでいく。
「了解しましたー。じゃあ、ちょっと行ってきますね」
「ええ」
「ねえ、パチュリー様」
てるてる坊主を完成させたことで満足したのか、生返事をするパチュリー。もう視線は本棚へと向かっていて、次に読む本を見つくろっている。
あるいは、これで晴れると安堵しているのか。節分の一件もそうだったけれど、意外とこの手の風習を信じているところがあるから。
小悪魔はそれが分かってしまった。だからこそ、こんどこそ抑えきれなかった笑みでからかうことにする。
「これでアリスさんが来れるといいですね!」
「なっ、ち、違うわよ。そんなんじゃ」
「いいんですよーう、小悪魔は分かってますから。じゃあ、ちょっと行ってきますね」
「小悪魔!」
案の定、声を荒げて、頬を染めて立ち上がる主の姿に小悪魔の頬は緩みっぱなしだ。
いたずら、大成功。
ぱたぱた羽を動かして、てるてる坊主を胸に抱いて、図書館を出て、窓のある廊下へと急ぐ。そのてるてる坊主の顔立ちは当然のようにじと目のと、普通の。普通のの方は赤いヘッドドレスの絵が描かれている。
「あれ?」
人差し指でそれをつまんで、窓際にひっかけていく。先ほどまでは、ただただ薄暗かった空が、ほんのりと明るくなりつつある。
さっそく効果があったというよりは、単にタイミングが良かっただけのような気もするけれど。窓際に仲良く並んだてるてる坊主の眺める外はもう雨がやんでいて。
「もう、晴れちゃいそうですね」
くすくすくす、小悪魔は心から楽しそうに笑ったのだった。
「ひさしぶりね、パチュリー」
「なによ、また来たの?」
梅雨の晴れ間。てるてる坊主の効能があったのかは定かではないけれど、雨が上がったのをいいことに、アリスはいそいそと大図書館を訪れた。
本を返す口実もある。たまたまゼリーも作っていたから、お見舞いの品もある。
自分の中で、いくつか理由づけをして、家を出発したのは雨がやんでからわずか十分後のことだった。
いつものように大図書館の真ん中、安楽椅子に腰をおろしたパチュリーはアリスが来たことなど気にも留めずに、本を読み続ける。
そんな姿を見ていると、寂しかったのは自分だけだったのか、なんて、アリスは少しだけ寂しくなる。
けれど、久々のパチュリーはやっぱり、パチュリーで。落ちつかなかった心がほっとするのを感じる。
会えたことがただただ嬉しい。
にやけそうになる頬を必死に押しとどめながら、ゼリーと本とをバスケットから取り出す。
梅雨の不安定な晴れだ。そう長いことはいられない。用件を済ませたらすぐ帰らなければ。
それでも、もう顔を見られただけで、声を聞けただけで、満足してしまったのだけれど。
「アリス」
「パチュリー?」
不意に名前を呼ばれて、首を傾げる。
視線で近くに来るよう促され、歩みよっていくと、小さな手がアリスの細い指先を握る。
いつもはひんやりと冷たいその手は今はほんのりと熱い。そっぽを向く長い髪の合間から見える白い頬はほのかに赤かった。
「まだ帰らないで」
「パチュリー」
か細い声で呟かれたその声に、アリスは自らの顔にも熱が集まるのを感じる。握られた手を強く握り返して。胸がどきどきと高鳴る。
なんだか恥ずかしくて、嬉しくて、何を言えばいいのか分からなくなる。ただ、手のやわらかさとか、ふわりと香るパチュリーの匂いとか、そういうものに意識が支配される。
「で、でも……。雨が降ったら帰れなくなっちゃうから。もう帰らなきゃ」
「だったら、泊まっていけばいいじゃない」
「だ、だけど! お泊りセットとか持ってきてないし」
「大丈夫よ、もう小悪魔に用意させてあるから」
「用意周到ね……」
「なんだったら、今すぐ私が雨を降らせるけど?」
「もはや脅しじゃないの……」
赤い顔のまま、かすかに震える声でとんでもないことを言い出すパチュリー。
どちらにしても帰れないじゃないの、という気持ちと、触れあってしまえばやっぱり満足なんてできなくて、もっと一緒にいたいという気持ちと。それぞれで胸がいっぱいになる。
「しかたないわね」
「アリス……」
「……会いたかったんだから」
「私はそうでもなかったわ」
「うそつき」
「魔女だもの」
お互いにためらいがちに視線を合わせて見つめあう。自然とお互い微笑みあって。
どちらからともなく手を伸ばしあって、お互いにお互いを抱きしめる。
ぎゅうっと伝わるぬくもりに、自分のものなのか相手のものなのか分からないどきどきとした心臓の音に。そのまま、ひとつに溶けあってしまいそうなほど。
「パチュリー」
「アリス」
「だいすき」
ニヤニヤが治まりません!!とっても良かったです
全然許せます。ニヤニヤ
久しぶりに出会えた時のラブ空間が読んでてとってもきゅんきゅんきた。
お泊り編あったらなお良かったなー。
個人的には前半の距離感のがすきかな。