「留守番?」
小悪魔から持ちかけられた話にアリスは首を傾げる。
何が楽しいのか、小悪魔はどこかいたずらめいた表情でにやにやと笑いながら、頷く。その拍子に、ぱたぱたと耳の横の羽も揺れる。尻尾も楽しそうに揺れる。まるで子犬が大喜びしているかのような動作だった。
「はい、アリスさんにしかお願いできないんですよ。引き受けてくださいませんか?」
「そう言われても……、パチュリーに聞いてみないと」
「だぁいじょうぶですって。パチュリー様はアリスさんのこと大好きですから」
大図書館の書架と書架の間、めぼしい本を物色していたアリスは、後ろから声をかけられ、話を持ちかけられたのだ。今はアリスと小悪魔が事実上二人きりのような状態だった。
「どうしても、実家の法事に行かなくちゃいけなくって。だけど、パチュリー様をお一人にするわけにもいきませんし」
「子どもじゃないんだから、平気じゃないの? ほら、咲夜とか美鈴もいるし」
「パチュリー様はあれで、意外と自分では何にもできないひとですからねえ」
「それは分かるけど」
「お忙しい咲夜さんに、お屋敷の用事に加えて、パチュリー様の介護なんて面倒なことお願いできませんって」
「さりげなく、あなたパチュリーに辛辣よね……」
「愛ゆえです」
「愛ゆえなのね」
ほら、好きな子ほど意地悪したくなっちゃうじゃないですかー、と陽気に笑う。
まあ、悪魔だしそれも無理ないのかもしれない、と思いつつ、アリスはあいまいに頷く。アリスはどちらかと言えば、好きなものは心から溺愛し、愛でたり可愛がったりする方なので、そういう気持ちはあまり理解できないのだけれど。
「で、引き受けていただけませんか?」
「そうねぇ」
「ほら、邪魔が入らないままパチュリー様と二人っきりになれますよ!」
「……」
小悪魔の言葉に、アリスの心は一気に傾く。
確かに悪い話ではない。特別差し迫った研究もなければ、その日に用事があるということもない。
特に断る理由もないというのが、アリスの結論だった。
「いいわ、任せて」
「ありがとうございます!」
「これでいいの?」
まずは形から、というわけでもないけれど、仕事のしやすさの観点から、普段小悪魔の来ているのと同じ司書服に身を包んだアリスが首を傾げる。
気恥ずかしいのか、人差し指で頬を掻きながら、伏し目がちにパチュリーの前に立っている。
「ああ、意外と似合うわね」
「意外とってどういう意味よ」
「照れかくしよ。とっても可愛いわ、アリス」
「……それはどうも」
くすくすと笑うパチュリーに、ますます恥ずかしそうにアリスは頬を染める。
実際、司書服はアリスによく似合っていた。
普段は明るい色調の服とのギャップで、まるで違和感がないと言えば嘘になる。
しかし、黒を基調とした司書服に、肩口にかかるほどの長さのきらきらとした金髪が華やかさを与えている。また、背が高く、均整のとれた体つきをしているだけあって、装飾の少ない司書服ではそれがよく映えていた。
シルエットが普段よりも大人めいている分、普段は可愛らしさを感じさせる西洋人形のような目鼻立ちがはっきりしている顔立ちも、どちらかと言えばきりっとした怜悧な印象を与えている。
安楽椅子に身を預けたパチュリーは満足げにアリスを眺めている。
その視線がどこか恥ずかしくて、アリスは慌てたように、いつもより早口で言葉を紡ぐ。
「あ、えっと。そんなわけで、今日は私が小悪魔の代わりをするわ」
「ええ」
「だから、その。私のことを小悪魔だと思って、何でも言いつけてちょうだい」
「何でも……?」
「やめて、そのなにかいいことを思いついたみたいな表情やめて」
「今日一日、私はアリスを好きにしていいのよね?」
「卑猥な発想禁止!」
珍しくきらきらと夢見るように頬を火照らせて呟くパチュリーの頭に軽くアリスは手刀を当てる。ある意味いつも通りのパチュリーに緊張も解けたのか、はあ、と大きくため息をついた。
「一応、小悪魔からスケジュールのメモももらってるから」
「つまらないわ」
「あのねえ……」
「……ごめんなさいね、厄介なことをお願いして」
「ううん、気にしないで」
「でも」
「それに、案外新鮮で楽しいわよ? たまにはこういうのもいいんじゃない?」
「……アリス」
「パチュリー?」
「あなた、そういう性癖があったの?」
「性癖言わない」
殊勝な態度はどこへやら、いつものようなつかみどころのない表情で、そういうの、嫌いじゃないわと呟くパチュリーに、アリスは困ってしまう。
明らかにからかわれているのは、分かっているのだが、どうにも慣れない。
パチュリーの視線から逃れるように、小悪魔から渡されているメモ書きに目をやる。
今の時間にするべきことはなんだっただろうか。
「掃除の時間みたいだから、そろそろ行くわ。用があったら、いつでも呼んで」
「ん。アリス」
「パチュリー?」
立ち去ろうとしたアリスの服の裾をパチュリーがそっと掴む。
何か忘れていることがあっただろうか、と考えながら振り返ると、今度はぐいっと、ネクタイを引っ張られる。
「ちょ、苦しいってば」
「大人しくしなさい、アリス」
ネクタイを引っ張った勢いに任せて、身を乗り出したパチュリーの唇がアリスの頬に触れる。熱く、柔らかな感触を感じたアリスは頭の中が真っ白になるのを感じていた。
「仕事、頑張って」
「……うん」
キスをされた頬を押さえて、ふらりとよろめきながらアリスはパチュリーに背を向ける。
不意打ちは、ずるい。
そんなアリスの後ろ姿を、パチュリーは心なしか楽しそうに見守っていた。
「こんなものかしら」
ふう、とため息をついたアリスはぐいっと額を拭う。
ただでさえ広い図書館である。今日やるべき場所を指定されているとはいえ、埃を取り除いて行くだけで一苦労だ。
上海や蓬莱をはじめとする人形を使って、人海戦術的に掃除をこなしていったけれど、やはり骨が折れる仕事であることには変わりがない。
「これを一人でやってるって言うんだから頑張るわよねえ」
アリスは普段ここの掃除を一手に引き受けているという小悪魔に思いをはせる。
今日のアリスにとって、小悪魔は越えるべき壁であるけれど、素直にすごいと感心してしまった。喘息持ちのパチュリーにとって埃の有無は死活問題であるとはいえ、きちんときれいに保つのにどれほどの労力がいることか。
小悪魔のパチュリーに対する思いが伝わってくるようだった。
こういうものに勝ち負けがないのは分かっているけれど。
晴れて恋人同士になったのだから、負けてはいられない。そんな思いに突き動かされ、アリスは余った時間をも使って、掃除を続けることにした。
「アリス、アリス」
不意に、パチュリーのか細い声が図書館に響く。
図書館内でも比較的離れた場所にいるのにも関わらず、その声がアリスの耳に届いたのは、そういう魔法を使っているためだ。
まだ、使い魔を呼び出していないアリスには分からないけれど、使い魔と主の間には精神的になにがしかのリンクがあるらしい。こうして離れて作業していても、小悪魔はパチュリーの呼び声に応えることができるのだという。
流石に恋人同士といえど、アリスとパチュリーの間にそういうリンクはない。
別に嫉妬というわけではないけれど、なんとなく寂しい。
前は一緒にいられるだけで満足だったのに、欲望というものは本当に際限がない。アリスはそんな自分に苦笑しながら、立ちあがりパチュリーのもとへと向かうのだった。
「パチュリー、呼んだ?」
「遅い」
「ごめん、ちょっと迷っちゃって」
安楽椅子の上で、むすっとしているパチュリーに苦笑する。今日掃除しておくように頼まれた場所はアリスが普段利用しない区域で、うまくパチュリーのもとへ戻る道が見つからなかったのだ。
膨大な本をおさめた本棚は必ずしも規律を持って並べられているというわけでもなく、大迷路のようなものであるから、それも仕方がない。
「この本の続きを持ってきて」
「えーっと……」
とってきてと言われても。渡された本の表紙を眺めてアリスは途方に暮れてしまう。
先ほどまで道に迷っていたほど、全体を把握し切れていないのだ。
ピンポイントで本を探してきてほしいと頼まれても、どれだけの時間がかかるか分からない。パチュリーとアリスの専門分野は大きく異なっているため、何を目安に探せばいいのか。
「アリス?」
「ごめん、無理」
素直に断る。いくら頼まれたからって、できることとできないことがある。
怪訝そうな顔で見上げてくるパチュリーと、信頼して留守を預けてくれた小悪魔に申し訳なく思いながら、顔の前で両手を合わせた。
そんなアリスにパチュリーはふん、と一度鼻で笑う。
「しかたがないわね」
「しかたないでしょ、て、パチュリー?」
「こっちよ、ついてきて」
はあ、と一度だけため息をついて、おもむろに立ちあがったパチュリーは、書架へと歩き出す。その子どものように小さな手は、さりげなくアリスの白い手を掴んでいて。
アリスはとくん、と鼓動が早まるのを感じる。
「あ……」
「アリス?」
「……手が。あ、ううん、なんでもない」
「ふふっ、相変わらず初心ね」
「う、うるさい」
にやりと唇の端をあげて、薄い笑みを浮かべるパチュリーに、顔が熱くなる。
子供じゃああるまいし、いつまでもこんなことでドキドキしていては身が持たないのは分かっているけれど。
そうそう簡単に身体はいうことを聞いてはくれない。
「あ」
「アリス?」
「そろそろ、薬の時間みたいね」
パチュリーの蘊蓄を聞きながら、本を探しているうちに、あっという間に時間は過ぎていった。アリスがふと、腕時計に目をやれば、小悪魔のメモに指定されていた時間に近づいている。
喘息の関係で、日に何度か定期的に薬を飲まなければならない、放っておくとすぐに忘れるので注意しておいてください、と小悪魔のメモにはアンダーラインつきで書かれている。
「……む」
アリスの言葉を聞くや否や、嫌そうに顔をしかめるパチュリー。先ほどまでの楽しそうな表情はどこへやら、かなり不機嫌そうに見える。
突然の表情の変化に、アリスは戸惑いを隠せない。
「パチュリー?」
「平気よ、飲まなくたって」
「いや、でも」
メモにはイラスト付きで、絶対飲ませてくださいね!と書いてある。
ぷい、と視線をそらすパチュリーの様子はまさに拗ねた子どものそれと変わりがない。
外見相応に子どもっぽい所作に、なんとなく理解が出来たような気がして、アリスは頭痛を覚える。
いや、だって、流石にそんなことはないわよね。最早、祈るような気持ちでアリスは問う。
「子どもじゃあるまいし、薬が嫌とかそういうのじゃない、わよね?」
「……だって」
図星だったらしい。顔を伏せるパチュリーはいつも以上にぼそぼそとした声で語り始める。
「苦いのよ、その薬」
パチュリーが嫌そうに語ったところによれば。
最近縁あって、永遠亭で薬を処方してもらうことになったのだという。流石、永琳謹製というべきか、これまで自前で苦手な調合をして作っていた薬とは一線を画した効き目がある。実際に体調を崩す回数も減ってきているのだ。その点については感謝していないこともない。
しかし、その薬というのが、悶絶するほどに苦いのである。
純粋な苦みが強いことに加えて、謎の青臭さ、渋みも加わっている。飲んだ後うがいをしてもしばらく、口の中に苦みが残り続けるほどの苦み。
体調が悪かった時はそれでもありがたく我慢していたのだが、こうして体調が回復してくると、途端に飲むのが億劫になってくる。喉元過ぎれば熱さを忘れる、というのはこう言うことをいうのかもしれない。
「ああ、気持ちは分からなくはないけど」
「これは、あれかしらね。永遠亭からの嫌がらせかしら」
「むしろ親切でしょうに。良薬口に苦しっていうじゃない」
余程嫌なのか、うんざりした顔でため息をつくパチュリー。
気持ちは分からないわけではないけど、と呟きながら、アリスはメモに書かれていた引き出しから、薬の包みを取り出し、魔法でグラスに水を注いでいく。
それを恨めしそうに眺めるパチュリーの視線をびんびんと背中に感じながら。
「分かってるけど……」
「子どもじゃないんだから、飲みなさいよ」
「簡単に言うけどね。アリスはこの薬の破壊力を知らないからそう言えるのよ」
「破壊力って……」
「ええ、破壊力よ。私の味覚が破壊されるわ」
「なにそれ」
うーん、と困ったように首を傾げつつ、薬を差し出してくるアリスを眺めるパチュリーはふと、何かを思いついたような表情になる。
「ねえ、アリス」
「ん?」
「キスして」
「は、はあ?」
話の流れからは、まったく脈絡のないパチュリーの言葉にアリスは目を白黒させる。
確かに、パチュリーとアリスは俗にいう恋人同士のような関係にあるし、キスをすることだって、それ以上のことをすることだってある。だから、キスをすること自体は全く構わないのだけれど。
そんなアリスの戸惑いを見抜いたのか、どこかいたずらっぽい瞳で、パチュリーはさらに言葉を重ねる。
「いいでしょう? ご褒美がほしいの」
「あ、ああ。そういうことなのね」
「お願い、アリス」
「……ちゃんと、薬を飲んだ後なら」
ご褒美も何も、そんな口実がなくても、アリスが図書館に訪れれば、キスの一度や二度は当たり前。あえて、ご褒美としてキスを要求してくるのはなぜなのだろうか。
そんな考えが頭をよぎるけれど、きっときっかけとか、そういうものが欲しいに違いないと思い、アリスは首を縦に振る。
それを見たパチュリーが獲物を見つけた肉食獣のような光を瞳に宿しているのには、気付かない。
「……ん」
グラスを手に持って、薬の包みを破ったパチュリーはそれを口元へ運ぶ。
ごくり、と一度つばを飲み込んで、ゆっくりと口の中へ粉薬を注いでいった。すべて口の中に含むまでにさほど時間はかからない。広がる苦さに顔をしかめられていく。
粉っぽさにむせてしまわないように気をつけながら、ぐいっと水で薬を流し込む。
余計に口の中に苦みが広がったのか、ほとんど涙目だった。
「アリス」
「パチュリー」
ちゃんと飲んだわ、というように、白磁の頬を朱に染めたパチュリーは潤んだ瞳でアリスを見つめている。言葉よりも雄弁に瞳が想いを語っていた。
約束を果たしてくれるのを待つように、静かに瞳を閉じるパチュリーに、アリスは愛おしさを感じた。衝動に突き動かされるまま、どこかぎこちなさを感じさせる仕草で、アリスはそんなパチュリーの長い髪へと手を差し伸べた。パチュリーもまた、アリスの頬へと指先を伸ばす。
ゆっくりと二人の唇と唇が触れあう。
「ん……」
「……っ」
触れるだけだったキスだけれど、唇と唇の間を撫でるようにして、パチュリーの舌がアリスの口内への侵入を試みる。お互いの唾液が混じり合っていく。拒否する理由もなく、お互いの温度を感じあっていたことで、甘く溶けはじめていたアリスはそれを従順に受け入れる。
しかし。
「……っ、げほっげほ」
パチュリーの舌がアリスの舌に触れたその時、アリスは予想外の刺激に思わず噎せこんでしまう。ばっと顔を離して、口元を押さえる。
噎せたせいで僅かに赤らんだ頬と、生理的に出た涙で潤んだ瞳。
それを見つめるパチュリーは無表情でありながらも、どこかしてやったり、といったニュアンスを宿した瞳で、アリスを見つめている。
「にっがい……」
「だから、言ったじゃない。苦いって」
「分かっててやったの?」
「飲みたくない気持ちを分かってほしかったのよ」
「怒ってる?」
「ちょっとした嫌がらせよ」
しれっとして呟くパチュリー。確かにこれを毎日口に含まなければならないというのは、厳しいものがある。簡単に飲めとか言って悪かったとも思う。
けれど、こんな形で復讐することないじゃない。
口の中から消えない苦みに顔をしかめながら、アリスは小さく舌を出す。
こうして、外気に触れさせれば、少しは緩和されないだろうか。
「よかったら、飲む?」
「……うん」
流石にそんなアリスを見て申し訳なく思ったのか、パチュリーは薬を飲むのに使っていた水の入ったグラスを差し出してくる。
ありがたくそれを受け取ったアリスは、ちびちびと口の中に水を含んでいく。口の中をゆすぐように水を飲むと、その冷たさからか、少しずつ苦みが緩和されていくのを感じた。
ほっと一息。
「ねえ、アリス」
「パチュリー?」
「間接キスね」
「……っ」
濃厚なキスをした後なのに。別に子どもじゃないから気にすることもないはずなのに。
あえて言葉にして、間接キスと言われると恥ずかしくなるのはなぜなのだろう。
なんとなく気恥ずかしくて、目を合わせていられないアリスを見ながら、パチュリーは小さく微笑んでいた。
「さあ、私も口直しをしたいし、お茶の支度をして」
「はいはい」
気を取り直して、そう命じてくるパチュリー。意外と人使いが荒い。
普段はレミリアの影に隠れて分かりづらいけれど、同じくらいわがままな性格をしていることにアリスは最近気がついた。
けれど、そう言うところも好き、だなんて思ってしまうあたり、末期的である。
「今日のお菓子は?」
「さくらんぼのゼリー。嫌いじゃなかったわよね?」
「ええ」
紅茶の用意をしながら、アリスは返事をする。
お茶の支度をすれば、あとはもうしばらく仕事はない。いつも通りのお茶会を楽しむことができるだろう。
きれいな陶器のティーセット、銀色のスプーン。
支度をしながら、楽しくなってくる。
口の中にまだまだ苦味は残るけれど、気持ちはもう甘い世界へと旅立っている。
なにより、二人っきり、なのだ。
さくらんぼゼリーと同じくらい、甘酸っぱい時間が過ごせるに違いない。
小悪魔から持ちかけられた話にアリスは首を傾げる。
何が楽しいのか、小悪魔はどこかいたずらめいた表情でにやにやと笑いながら、頷く。その拍子に、ぱたぱたと耳の横の羽も揺れる。尻尾も楽しそうに揺れる。まるで子犬が大喜びしているかのような動作だった。
「はい、アリスさんにしかお願いできないんですよ。引き受けてくださいませんか?」
「そう言われても……、パチュリーに聞いてみないと」
「だぁいじょうぶですって。パチュリー様はアリスさんのこと大好きですから」
大図書館の書架と書架の間、めぼしい本を物色していたアリスは、後ろから声をかけられ、話を持ちかけられたのだ。今はアリスと小悪魔が事実上二人きりのような状態だった。
「どうしても、実家の法事に行かなくちゃいけなくって。だけど、パチュリー様をお一人にするわけにもいきませんし」
「子どもじゃないんだから、平気じゃないの? ほら、咲夜とか美鈴もいるし」
「パチュリー様はあれで、意外と自分では何にもできないひとですからねえ」
「それは分かるけど」
「お忙しい咲夜さんに、お屋敷の用事に加えて、パチュリー様の介護なんて面倒なことお願いできませんって」
「さりげなく、あなたパチュリーに辛辣よね……」
「愛ゆえです」
「愛ゆえなのね」
ほら、好きな子ほど意地悪したくなっちゃうじゃないですかー、と陽気に笑う。
まあ、悪魔だしそれも無理ないのかもしれない、と思いつつ、アリスはあいまいに頷く。アリスはどちらかと言えば、好きなものは心から溺愛し、愛でたり可愛がったりする方なので、そういう気持ちはあまり理解できないのだけれど。
「で、引き受けていただけませんか?」
「そうねぇ」
「ほら、邪魔が入らないままパチュリー様と二人っきりになれますよ!」
「……」
小悪魔の言葉に、アリスの心は一気に傾く。
確かに悪い話ではない。特別差し迫った研究もなければ、その日に用事があるということもない。
特に断る理由もないというのが、アリスの結論だった。
「いいわ、任せて」
「ありがとうございます!」
「これでいいの?」
まずは形から、というわけでもないけれど、仕事のしやすさの観点から、普段小悪魔の来ているのと同じ司書服に身を包んだアリスが首を傾げる。
気恥ずかしいのか、人差し指で頬を掻きながら、伏し目がちにパチュリーの前に立っている。
「ああ、意外と似合うわね」
「意外とってどういう意味よ」
「照れかくしよ。とっても可愛いわ、アリス」
「……それはどうも」
くすくすと笑うパチュリーに、ますます恥ずかしそうにアリスは頬を染める。
実際、司書服はアリスによく似合っていた。
普段は明るい色調の服とのギャップで、まるで違和感がないと言えば嘘になる。
しかし、黒を基調とした司書服に、肩口にかかるほどの長さのきらきらとした金髪が華やかさを与えている。また、背が高く、均整のとれた体つきをしているだけあって、装飾の少ない司書服ではそれがよく映えていた。
シルエットが普段よりも大人めいている分、普段は可愛らしさを感じさせる西洋人形のような目鼻立ちがはっきりしている顔立ちも、どちらかと言えばきりっとした怜悧な印象を与えている。
安楽椅子に身を預けたパチュリーは満足げにアリスを眺めている。
その視線がどこか恥ずかしくて、アリスは慌てたように、いつもより早口で言葉を紡ぐ。
「あ、えっと。そんなわけで、今日は私が小悪魔の代わりをするわ」
「ええ」
「だから、その。私のことを小悪魔だと思って、何でも言いつけてちょうだい」
「何でも……?」
「やめて、そのなにかいいことを思いついたみたいな表情やめて」
「今日一日、私はアリスを好きにしていいのよね?」
「卑猥な発想禁止!」
珍しくきらきらと夢見るように頬を火照らせて呟くパチュリーの頭に軽くアリスは手刀を当てる。ある意味いつも通りのパチュリーに緊張も解けたのか、はあ、と大きくため息をついた。
「一応、小悪魔からスケジュールのメモももらってるから」
「つまらないわ」
「あのねえ……」
「……ごめんなさいね、厄介なことをお願いして」
「ううん、気にしないで」
「でも」
「それに、案外新鮮で楽しいわよ? たまにはこういうのもいいんじゃない?」
「……アリス」
「パチュリー?」
「あなた、そういう性癖があったの?」
「性癖言わない」
殊勝な態度はどこへやら、いつものようなつかみどころのない表情で、そういうの、嫌いじゃないわと呟くパチュリーに、アリスは困ってしまう。
明らかにからかわれているのは、分かっているのだが、どうにも慣れない。
パチュリーの視線から逃れるように、小悪魔から渡されているメモ書きに目をやる。
今の時間にするべきことはなんだっただろうか。
「掃除の時間みたいだから、そろそろ行くわ。用があったら、いつでも呼んで」
「ん。アリス」
「パチュリー?」
立ち去ろうとしたアリスの服の裾をパチュリーがそっと掴む。
何か忘れていることがあっただろうか、と考えながら振り返ると、今度はぐいっと、ネクタイを引っ張られる。
「ちょ、苦しいってば」
「大人しくしなさい、アリス」
ネクタイを引っ張った勢いに任せて、身を乗り出したパチュリーの唇がアリスの頬に触れる。熱く、柔らかな感触を感じたアリスは頭の中が真っ白になるのを感じていた。
「仕事、頑張って」
「……うん」
キスをされた頬を押さえて、ふらりとよろめきながらアリスはパチュリーに背を向ける。
不意打ちは、ずるい。
そんなアリスの後ろ姿を、パチュリーは心なしか楽しそうに見守っていた。
「こんなものかしら」
ふう、とため息をついたアリスはぐいっと額を拭う。
ただでさえ広い図書館である。今日やるべき場所を指定されているとはいえ、埃を取り除いて行くだけで一苦労だ。
上海や蓬莱をはじめとする人形を使って、人海戦術的に掃除をこなしていったけれど、やはり骨が折れる仕事であることには変わりがない。
「これを一人でやってるって言うんだから頑張るわよねえ」
アリスは普段ここの掃除を一手に引き受けているという小悪魔に思いをはせる。
今日のアリスにとって、小悪魔は越えるべき壁であるけれど、素直にすごいと感心してしまった。喘息持ちのパチュリーにとって埃の有無は死活問題であるとはいえ、きちんときれいに保つのにどれほどの労力がいることか。
小悪魔のパチュリーに対する思いが伝わってくるようだった。
こういうものに勝ち負けがないのは分かっているけれど。
晴れて恋人同士になったのだから、負けてはいられない。そんな思いに突き動かされ、アリスは余った時間をも使って、掃除を続けることにした。
「アリス、アリス」
不意に、パチュリーのか細い声が図書館に響く。
図書館内でも比較的離れた場所にいるのにも関わらず、その声がアリスの耳に届いたのは、そういう魔法を使っているためだ。
まだ、使い魔を呼び出していないアリスには分からないけれど、使い魔と主の間には精神的になにがしかのリンクがあるらしい。こうして離れて作業していても、小悪魔はパチュリーの呼び声に応えることができるのだという。
流石に恋人同士といえど、アリスとパチュリーの間にそういうリンクはない。
別に嫉妬というわけではないけれど、なんとなく寂しい。
前は一緒にいられるだけで満足だったのに、欲望というものは本当に際限がない。アリスはそんな自分に苦笑しながら、立ちあがりパチュリーのもとへと向かうのだった。
「パチュリー、呼んだ?」
「遅い」
「ごめん、ちょっと迷っちゃって」
安楽椅子の上で、むすっとしているパチュリーに苦笑する。今日掃除しておくように頼まれた場所はアリスが普段利用しない区域で、うまくパチュリーのもとへ戻る道が見つからなかったのだ。
膨大な本をおさめた本棚は必ずしも規律を持って並べられているというわけでもなく、大迷路のようなものであるから、それも仕方がない。
「この本の続きを持ってきて」
「えーっと……」
とってきてと言われても。渡された本の表紙を眺めてアリスは途方に暮れてしまう。
先ほどまで道に迷っていたほど、全体を把握し切れていないのだ。
ピンポイントで本を探してきてほしいと頼まれても、どれだけの時間がかかるか分からない。パチュリーとアリスの専門分野は大きく異なっているため、何を目安に探せばいいのか。
「アリス?」
「ごめん、無理」
素直に断る。いくら頼まれたからって、できることとできないことがある。
怪訝そうな顔で見上げてくるパチュリーと、信頼して留守を預けてくれた小悪魔に申し訳なく思いながら、顔の前で両手を合わせた。
そんなアリスにパチュリーはふん、と一度鼻で笑う。
「しかたがないわね」
「しかたないでしょ、て、パチュリー?」
「こっちよ、ついてきて」
はあ、と一度だけため息をついて、おもむろに立ちあがったパチュリーは、書架へと歩き出す。その子どものように小さな手は、さりげなくアリスの白い手を掴んでいて。
アリスはとくん、と鼓動が早まるのを感じる。
「あ……」
「アリス?」
「……手が。あ、ううん、なんでもない」
「ふふっ、相変わらず初心ね」
「う、うるさい」
にやりと唇の端をあげて、薄い笑みを浮かべるパチュリーに、顔が熱くなる。
子供じゃああるまいし、いつまでもこんなことでドキドキしていては身が持たないのは分かっているけれど。
そうそう簡単に身体はいうことを聞いてはくれない。
「あ」
「アリス?」
「そろそろ、薬の時間みたいね」
パチュリーの蘊蓄を聞きながら、本を探しているうちに、あっという間に時間は過ぎていった。アリスがふと、腕時計に目をやれば、小悪魔のメモに指定されていた時間に近づいている。
喘息の関係で、日に何度か定期的に薬を飲まなければならない、放っておくとすぐに忘れるので注意しておいてください、と小悪魔のメモにはアンダーラインつきで書かれている。
「……む」
アリスの言葉を聞くや否や、嫌そうに顔をしかめるパチュリー。先ほどまでの楽しそうな表情はどこへやら、かなり不機嫌そうに見える。
突然の表情の変化に、アリスは戸惑いを隠せない。
「パチュリー?」
「平気よ、飲まなくたって」
「いや、でも」
メモにはイラスト付きで、絶対飲ませてくださいね!と書いてある。
ぷい、と視線をそらすパチュリーの様子はまさに拗ねた子どものそれと変わりがない。
外見相応に子どもっぽい所作に、なんとなく理解が出来たような気がして、アリスは頭痛を覚える。
いや、だって、流石にそんなことはないわよね。最早、祈るような気持ちでアリスは問う。
「子どもじゃあるまいし、薬が嫌とかそういうのじゃない、わよね?」
「……だって」
図星だったらしい。顔を伏せるパチュリーはいつも以上にぼそぼそとした声で語り始める。
「苦いのよ、その薬」
パチュリーが嫌そうに語ったところによれば。
最近縁あって、永遠亭で薬を処方してもらうことになったのだという。流石、永琳謹製というべきか、これまで自前で苦手な調合をして作っていた薬とは一線を画した効き目がある。実際に体調を崩す回数も減ってきているのだ。その点については感謝していないこともない。
しかし、その薬というのが、悶絶するほどに苦いのである。
純粋な苦みが強いことに加えて、謎の青臭さ、渋みも加わっている。飲んだ後うがいをしてもしばらく、口の中に苦みが残り続けるほどの苦み。
体調が悪かった時はそれでもありがたく我慢していたのだが、こうして体調が回復してくると、途端に飲むのが億劫になってくる。喉元過ぎれば熱さを忘れる、というのはこう言うことをいうのかもしれない。
「ああ、気持ちは分からなくはないけど」
「これは、あれかしらね。永遠亭からの嫌がらせかしら」
「むしろ親切でしょうに。良薬口に苦しっていうじゃない」
余程嫌なのか、うんざりした顔でため息をつくパチュリー。
気持ちは分からないわけではないけど、と呟きながら、アリスはメモに書かれていた引き出しから、薬の包みを取り出し、魔法でグラスに水を注いでいく。
それを恨めしそうに眺めるパチュリーの視線をびんびんと背中に感じながら。
「分かってるけど……」
「子どもじゃないんだから、飲みなさいよ」
「簡単に言うけどね。アリスはこの薬の破壊力を知らないからそう言えるのよ」
「破壊力って……」
「ええ、破壊力よ。私の味覚が破壊されるわ」
「なにそれ」
うーん、と困ったように首を傾げつつ、薬を差し出してくるアリスを眺めるパチュリーはふと、何かを思いついたような表情になる。
「ねえ、アリス」
「ん?」
「キスして」
「は、はあ?」
話の流れからは、まったく脈絡のないパチュリーの言葉にアリスは目を白黒させる。
確かに、パチュリーとアリスは俗にいう恋人同士のような関係にあるし、キスをすることだって、それ以上のことをすることだってある。だから、キスをすること自体は全く構わないのだけれど。
そんなアリスの戸惑いを見抜いたのか、どこかいたずらっぽい瞳で、パチュリーはさらに言葉を重ねる。
「いいでしょう? ご褒美がほしいの」
「あ、ああ。そういうことなのね」
「お願い、アリス」
「……ちゃんと、薬を飲んだ後なら」
ご褒美も何も、そんな口実がなくても、アリスが図書館に訪れれば、キスの一度や二度は当たり前。あえて、ご褒美としてキスを要求してくるのはなぜなのだろうか。
そんな考えが頭をよぎるけれど、きっときっかけとか、そういうものが欲しいに違いないと思い、アリスは首を縦に振る。
それを見たパチュリーが獲物を見つけた肉食獣のような光を瞳に宿しているのには、気付かない。
「……ん」
グラスを手に持って、薬の包みを破ったパチュリーはそれを口元へ運ぶ。
ごくり、と一度つばを飲み込んで、ゆっくりと口の中へ粉薬を注いでいった。すべて口の中に含むまでにさほど時間はかからない。広がる苦さに顔をしかめられていく。
粉っぽさにむせてしまわないように気をつけながら、ぐいっと水で薬を流し込む。
余計に口の中に苦みが広がったのか、ほとんど涙目だった。
「アリス」
「パチュリー」
ちゃんと飲んだわ、というように、白磁の頬を朱に染めたパチュリーは潤んだ瞳でアリスを見つめている。言葉よりも雄弁に瞳が想いを語っていた。
約束を果たしてくれるのを待つように、静かに瞳を閉じるパチュリーに、アリスは愛おしさを感じた。衝動に突き動かされるまま、どこかぎこちなさを感じさせる仕草で、アリスはそんなパチュリーの長い髪へと手を差し伸べた。パチュリーもまた、アリスの頬へと指先を伸ばす。
ゆっくりと二人の唇と唇が触れあう。
「ん……」
「……っ」
触れるだけだったキスだけれど、唇と唇の間を撫でるようにして、パチュリーの舌がアリスの口内への侵入を試みる。お互いの唾液が混じり合っていく。拒否する理由もなく、お互いの温度を感じあっていたことで、甘く溶けはじめていたアリスはそれを従順に受け入れる。
しかし。
「……っ、げほっげほ」
パチュリーの舌がアリスの舌に触れたその時、アリスは予想外の刺激に思わず噎せこんでしまう。ばっと顔を離して、口元を押さえる。
噎せたせいで僅かに赤らんだ頬と、生理的に出た涙で潤んだ瞳。
それを見つめるパチュリーは無表情でありながらも、どこかしてやったり、といったニュアンスを宿した瞳で、アリスを見つめている。
「にっがい……」
「だから、言ったじゃない。苦いって」
「分かっててやったの?」
「飲みたくない気持ちを分かってほしかったのよ」
「怒ってる?」
「ちょっとした嫌がらせよ」
しれっとして呟くパチュリー。確かにこれを毎日口に含まなければならないというのは、厳しいものがある。簡単に飲めとか言って悪かったとも思う。
けれど、こんな形で復讐することないじゃない。
口の中から消えない苦みに顔をしかめながら、アリスは小さく舌を出す。
こうして、外気に触れさせれば、少しは緩和されないだろうか。
「よかったら、飲む?」
「……うん」
流石にそんなアリスを見て申し訳なく思ったのか、パチュリーは薬を飲むのに使っていた水の入ったグラスを差し出してくる。
ありがたくそれを受け取ったアリスは、ちびちびと口の中に水を含んでいく。口の中をゆすぐように水を飲むと、その冷たさからか、少しずつ苦みが緩和されていくのを感じた。
ほっと一息。
「ねえ、アリス」
「パチュリー?」
「間接キスね」
「……っ」
濃厚なキスをした後なのに。別に子どもじゃないから気にすることもないはずなのに。
あえて言葉にして、間接キスと言われると恥ずかしくなるのはなぜなのだろう。
なんとなく気恥ずかしくて、目を合わせていられないアリスを見ながら、パチュリーは小さく微笑んでいた。
「さあ、私も口直しをしたいし、お茶の支度をして」
「はいはい」
気を取り直して、そう命じてくるパチュリー。意外と人使いが荒い。
普段はレミリアの影に隠れて分かりづらいけれど、同じくらいわがままな性格をしていることにアリスは最近気がついた。
けれど、そう言うところも好き、だなんて思ってしまうあたり、末期的である。
「今日のお菓子は?」
「さくらんぼのゼリー。嫌いじゃなかったわよね?」
「ええ」
紅茶の用意をしながら、アリスは返事をする。
お茶の支度をすれば、あとはもうしばらく仕事はない。いつも通りのお茶会を楽しむことができるだろう。
きれいな陶器のティーセット、銀色のスプーン。
支度をしながら、楽しくなってくる。
口の中にまだまだ苦味は残るけれど、気持ちはもう甘い世界へと旅立っている。
なにより、二人っきり、なのだ。
さくらんぼゼリーと同じくらい、甘酸っぱい時間が過ごせるに違いない。
小悪魔編も楽しみにしてます。
…ステキです!