「諏訪子様ー」
縁側でラムネ片手に夕涼みをしている私の名前を呼ぶ声がする。早苗だ。
この時間だと、そろそろおゆはんの支度ができたのかな。
今日はなんだろう。最近では竈での調理に慣れてきたのか、早苗の料理の腕は上がってきている気がするから、楽しみだ。
時間は夕方。縁側から眺めた景色は大体橙色に染まっていて、空のはじっこはもう藍色に近くなっている。それは世界中どこででも見られる黄昏時の風景。
白っぽい月と輝く金星が浮かんだ空を眺めながら、私は残り少なくなったラムネを煽る。
食事時にジュースを持ちこむと早苗は怒る。
「ああ、こんな所にいらしたんですか」
「うん」
柱の陰から姿を現した早苗はいつもの巫女服の上からデフォルメされたカエルのイラストがプリントされたエプロンをつけて、ほっとしたように微笑んだ。料理をしているときに邪魔だったのか、いつもはじっこだけ結んでる髪をシュシュで一つにくくっている。
「もう、ちゃんと返事をしてくれないから、いないのかと思っちゃったじゃないですか」
「あはは、ごめんごめん」
両手を腰に当てて、ちょっと頬を膨らませて早苗は私を見下ろしている。
お母さんが小さな子どもに言い聞かせるみたいな感じ? 神奈子はもちろん、早苗よりも幼い容姿のせいか、たまに早苗はこういうお姉さんぶった物言いをする。
よその誰かがこんな言い方をしたら、このミシャグジ様に向かって無礼な!とか、ちょっとばかりむっとするかもしれないけど、早苗のこの言い方はどこか嬉しい。
「諏訪子様、何で笑ってるんですか?」
「ううん、なんでもないよ」
くすくすと笑ってしまう私を見て、早苗はちょっと困った顔をする。
それが、尚更おかしくて、私の笑いは止まらない。
「諏訪子様?」
「いいからいいから、ご飯でしょ? 早く行こうよ」
「え、あ、はい……」
どっか釈然としない様子の早苗の背中を押して、居間へと向かう。
きっとまんまるのちゃぶ台には、美味しいごはんとお酒が並んでいるはず。神奈子が待ちくたびれているはず。
神奈子がいて、早苗がいて、私がいて。
三人で食卓を囲むのが今の私の一番の楽しみだ。
私は透明人間だった。
いや、人間ではないけれど。神様だけど。うまい表現が思いつかないけど、とにかく私は透明人間だったのだ。
科学万能の時代がやってきて、信仰がどんどん失われていって。まあ、時代の流れというか、人間もいつまでも神様に甘えてられないってことだったのかもしれない。
当然、かつてミシャグジ様を束ねていた私への信仰だって、どんどん薄らいでいった。
神奈子の影に隠れていた分、そのスピードは速かったような気がする。
私の姿を見ることのできる人間が減ったのは一体いつからだっただろう。
私の名前が忘れられたのはいつ?
私のことを守矢の風祝が認識できなくなったのは?
分からない。分からない。
毎日、気付かないくらいに、ほんの少しずつ、事態は進行していたのだ。
気付いた時にはもう遅い。
私の存在はどんどん希薄になっていった。
そんな暮らしも、慣れてしまえばどうということもない。
むしろ、風まかせに、気ままな暮らしは、楽しいくらいだった。
町の様子を眺めたり、そこら辺で同じく消えちゃいそうな神さまと雑談をしてみたり。
たまに神社に帰れば、まだまだ踏ん張っている神奈子がお神酒を用意して待っていてくれたり。
人間風に言うなら、悠々自適の老後生活ってやつに近かったのかもしれない。
話し相手がどんどん減っていくことや、気付いてもらえないことに寂しさを感じることがなかったわけではないけどね。
早苗が生まれたのはそんな頃だった。
先祖がえりかと思うぐらい、強い力を持った風祝になるべき女の子。
現人神としての素質を備えた早苗に、私は夢中になった。
なんでだろう。
力があったって、私のことを認識できないのにはかわりがなかったのにね。
理由は今でもよく分からない。ただ、早苗の持つ何かに私は強く惹かれていった。
まるで、娘を見守る母親みたいに、その成長を見守っていくのが楽しかった。
ふらふらその辺を歩き回るのをやめて、いつだって早苗を見守っていた。
誰よりも近くで。誰よりもそばで。
初めて早苗が喋った時も、あんよが出来るようになった時も。
早苗の両親と一緒に飛びあがって喜んだ。
夜中に突然早苗が熱を出した時。
おろおろしていた回りと一緒に私も動揺していた。
はじめてのお留守番をしていて、早苗が涙ぐんでいた時。
聞こえないのは分かっていたけど、「大丈夫だよ」なんて、声をかけたこともある。
確か、あの時は神事で神奈子もいつもの場所にいなくて、すごく心細かったんだと思う。
泣き疲れて寝ちゃうその時まで、私は隣にいた。
お母さんのお化粧品をいたずらして、叱られていた時。
お母さんみたいになりたかっただけなのにね。
いけないことだなんて思わなかったんだよね?
釈然としない様子でぶすくれる早苗の頭をそっと撫でたこともある。
一緒にテレビアニメを見て、なんとか体操をして。
気付いてもらえないのは分かっていたけれど、同じことをするのが楽しかった。
写らないのは分かっていたけれど、記念写真を撮る時はいつだって早苗の隣で、同じポーズをしていた。
早苗の好きだったヒーローやヒロインのポーズに、単なるピースサイン。
神奈子がそんな私を見て、苦笑してたのは気にしない。
いいじゃん、見た目は子どもだし。
早苗が少しずつ大きくなって、学校に通うようになって。
することもなかった私はしょっちゅう様子を見に行った。
クラスの友達と笑っている姿、意地悪な男の子に泣かされた女の子を庇って食ってかかっている姿。授業中に手をあげて、はきはきと先生の質問に答える姿。
みんなみんな見ていたよ。
運動会では、私も一緒になって頑張れ!と声を張り上げた。
音楽の時間には一緒になって声を合わせた。
初恋の彼を眺めるときは私までドキドキした。
楽しいことがあれば一緒に笑って、悲しいことがあれば一緒に泣いて。
気付いてもらえなかったけど、いつだってそばにいたんだ。
私が見える神奈子と一緒にいる時は遠慮して席を外したりもしてたけどさ。
神奈子と話す話題のほとんどは早苗に関することだったような。ああ、それは今もそんなに変わらないけど。
早苗と話をできる神奈子が少しだけ、羨ましかった。
私は透明人間で。気付かれることはありえない。
早苗という女の子が主人公の物語を読んでいる読者に過ぎなかった。
それでも十分と思えるほどには割り切って生活していた。
だけど、それはすごく、空しい。
それを実感したのは、幻想郷に来る少し前のこと。
ある日、早苗が帰ってくるなり、部屋にこもってしまったことがあった。
今から考えれば、あの日は早苗が最後に学校に行く前日だったと思う。そりゃ、寂しかったり、悲しかったりもするよね。だけど、私は幻想郷に行く件についてはほとんど知らなかったから、何があったのか分からなくて、すごく戸惑った。
カーテンを閉めた部屋で電気もつけずに背中を丸めて、嗚咽を漏らす早苗。お母さんやお父さんに気付かれないように必死に声を殺して泣く姿はひどく苦しそうで。
あんまりにも悲痛で、壊れてしまいそうだった。
ねえ、どうしたの?
何があったの?
誰かにいじめられたの?
泣かないで。
早苗。早苗。
大丈夫だよ、ケロちゃんがいるよ。
私がそばにいるよ。
黙ってその小さな背中を見守っていることに耐えられなくなって、かけた言葉。
当然、届くはずもない。
だって私は透明人間だったのだから。
どんなに声を張り上げても、決して届くことはなくて、私は途方に暮れる。
小さな頃、よくしていたように震えるその手を握ることもできなかった。
だって、私がどんなに強く手を握っても、早苗は分からない。
結局、私の自己満足に過ぎないんだから。
とっくの昔に分かっていたはずなのに、それがどうにも苦しくて。
寂しくて、悲しくてしかたがなかった。
私は、その時の痛みを今でもずっと覚えている。
「諏訪子?」
「諏訪子様?」
不意にかけられた声に顔を上げると、そこに並んでいたのは二つの心配そうな顔。神奈子と早苗だ。
どうも、昔のことを思い出して、ぼんやりしてしまっていたらしい。
「あ、ごめん、ちょっとぼーっとしちゃった」
「おいおい、大丈夫かい? なんだか顔色が悪いような」
「えー、気のせいでしょ。お酒飲んでる神奈子に比べたらそりゃそうだよ」
「……なら、いいけどさ」
むう、と唸って納得したようなしていないような顔をする神奈子に私は笑ってみせる。
神奈子は、威厳たっぷり、泰然自若って感じに見えるけど、意外と心配性なところがあるから。幻想郷に越してきたのだって、自分の力のことはもちろんだけど、私や早苗のことを心配してくれてたからだし。
そういえば、早苗が元気がない時、私に何があったのか相談してきたこともあったっけねえ。
軍神というわりに、可愛いのだ、神奈子は。
「諏訪子様、本当に大丈夫ですか?」
「へーきだって。心配してくれてありがとね、早苗」
「でも……」
「ん?」
「なんだか、泣きそうに見えて……」
心配そうに眉を寄せて私を見つめている早苗。
うーん。顔にまで出てたのか。失敗したなあ。
今まで透明人間だった分、最近の私はどうもポーカーフェイスが下手になっている気がする。だって、ほら、人目を気にしなくてもよかったからさ。
「気のせいだってば。ほら、それよりごはん食べようよ。冷めちゃうよ?」
ちゃぶ台の上にはじゃがいものお味噌汁とごはん、それから、にらたまと冷奴。冷奴以外は熱々で湯気が立っている。美味しそうな匂いがする。
早苗のエプロンと同じキャラクターの絵が描かれた私専用のお茶碗とお箸を手にとって私は笑う。
ちなみに、このお茶碗とお箸は子ども用。早苗が小さい頃に使っていたものだ。
幻想郷に来てから、私の分が必要になって引っ張り出してきたものだったりする。
「いただきまーす」
「いただきます」
私がそう言えば、何かを察したのか、神奈子も仕方ないなあって感じの顔でお箸を手にとって、声を合わせてくれる。
長年の付き合いというか、そこのところはかなり分かってくれてるなあ、と思う。
とりあえず、まずは熱いお味噌汁をすする。
うん、美味しい。別に神様だから、食事は必要ないけれど、幻想郷に来てから食事を食べるのが楽しくなった。透明人間だった頃は、できたてのご飯を食べるなんてこともなかった。
贅沢だよね、熱いお味噌汁を飲むのって。
あんまり美味しくて、私はふう、とため息をつく。
同じようにお味噌汁を飲み終えた神奈子と目が合って、ちょっとおかしくなる。
こんなところまで息ぴったりってどういうことなの。
「あの、少しいいですか?」
「ん?」
「なんだい?」
次はご飯にしようか、にらたまにしようか迷っていたところ、不意に早苗に声をかけられる。冷奴をつつきはじめていた神奈子と目を合わせてから、早苗のほうへと向き直る。
どこか照れくさそうな、けれど、楽しげでもあるなんとも言えない表情の早苗は、後で手を組んで、こほん、と一度咳ばらいをして、まっすぐに私と神奈子を見つめている。
なんだか、そわそわした気持になって、私と神奈子は姿勢を正す。
「あのですね、今日は母の日なんです」
「ああ、そう言えばそうだっけ?」
「どうもこっちに来てから曜日感覚がないからなぁ」
もじもじとした様子の早苗の言葉に、そう言えばと思いだす。
向こうにいた時も曜日感覚なんてそんなになかったけど、日曜日だけは早苗のよく見ていた国民的アニメがやっていたからちゃんと分かってた。
そういえば、この時期はたいてい母の日ネタだったっけ。
「それで、いつもお母さんみたいに私のことを見守ってくださる神奈子様と諏訪子様に、これを受け取っていただけたらなーって」
そう言って、早苗は背中に隠していた手を私たちの方へと差し出してくる。
その手にあるのは、小さなカーネーションのブーケが二つ。
「いつもありがとうございます、とても、とても感謝しています」
「ああ、毎年ありがとう」
はにかむように微笑んだ早苗からブーケを受け取った神奈子は嬉しそうに笑って、早苗の髪を撫でている。どこか、慣れた様子だった。
そう言えば、早苗は母の日には、実のお母さんと神奈子、両方に贈り物を用意してたっけ。
初めてたんぽぽをもらった時、肩たたき券をもらった時に、すっごいでれでれしていたのを覚えている。
「あの、諏訪子様?」
「え?」
「受け取って、いただけませんか?」
声をかけられて、我にかえる。
そっか、二つあるうちの一つが神奈子の分なら、もう一つは。
「……!」
自覚した途端、頭が真っ白になる。
あ、ああ。だって、そんなことって。
なにも考えられない。だって、これって。だって。
「諏訪子?」
「諏訪子様!」
嬉しい。
涙が出るほど、嬉しい。
ぽろぽろぽろ、と涙が頬を落ちていくのが分かる。
それを見た神奈子と早苗がおろおろしている。
そりゃあ、そうだ。いきなり泣き出されたら、驚くよね。
だけど、涙は止まらない。止めようとも思わない。
「早苗」
「あ、あの諏訪子様?」
「ありがと……、ありがと」
慌てた様子の早苗の首に腕を回して、ぎゅうっと抱きしめる。
どくどくした心臓の音と、あったかさと、優しい匂い。
五感全部を使って、早苗を抱きしめた。
「諏訪子様」
「早苗ー、ありがとー」
「もう、本当にあれだねえ」
何が起こっているのかよく分かっていない様子の早苗は、それでもぎこちなく、私の背中に腕を回して抱き返してくれる。
呆れたような、微笑ましそうな、そんな声で呟く神奈子が私の頭を小突く。
私は透明人間だった。
早苗に見つけてもらうこともできない。見守っていても気付いてさえもらえない。
そんな透明人間。
だけど、幻想郷に来てからは、違う。
私は透明なんかじゃなくなった。
早苗を抱きしめられる、早苗が私の声を聞いてくれる。一緒にごはんが食べられる。
なんて、幸せなんだろう。
その上、こんな、母の日だなんて。
私はもう透明人間じゃない。
早苗と神奈子と私と。三人で同じ時間を生きている。
縁側でラムネ片手に夕涼みをしている私の名前を呼ぶ声がする。早苗だ。
この時間だと、そろそろおゆはんの支度ができたのかな。
今日はなんだろう。最近では竈での調理に慣れてきたのか、早苗の料理の腕は上がってきている気がするから、楽しみだ。
時間は夕方。縁側から眺めた景色は大体橙色に染まっていて、空のはじっこはもう藍色に近くなっている。それは世界中どこででも見られる黄昏時の風景。
白っぽい月と輝く金星が浮かんだ空を眺めながら、私は残り少なくなったラムネを煽る。
食事時にジュースを持ちこむと早苗は怒る。
「ああ、こんな所にいらしたんですか」
「うん」
柱の陰から姿を現した早苗はいつもの巫女服の上からデフォルメされたカエルのイラストがプリントされたエプロンをつけて、ほっとしたように微笑んだ。料理をしているときに邪魔だったのか、いつもはじっこだけ結んでる髪をシュシュで一つにくくっている。
「もう、ちゃんと返事をしてくれないから、いないのかと思っちゃったじゃないですか」
「あはは、ごめんごめん」
両手を腰に当てて、ちょっと頬を膨らませて早苗は私を見下ろしている。
お母さんが小さな子どもに言い聞かせるみたいな感じ? 神奈子はもちろん、早苗よりも幼い容姿のせいか、たまに早苗はこういうお姉さんぶった物言いをする。
よその誰かがこんな言い方をしたら、このミシャグジ様に向かって無礼な!とか、ちょっとばかりむっとするかもしれないけど、早苗のこの言い方はどこか嬉しい。
「諏訪子様、何で笑ってるんですか?」
「ううん、なんでもないよ」
くすくすと笑ってしまう私を見て、早苗はちょっと困った顔をする。
それが、尚更おかしくて、私の笑いは止まらない。
「諏訪子様?」
「いいからいいから、ご飯でしょ? 早く行こうよ」
「え、あ、はい……」
どっか釈然としない様子の早苗の背中を押して、居間へと向かう。
きっとまんまるのちゃぶ台には、美味しいごはんとお酒が並んでいるはず。神奈子が待ちくたびれているはず。
神奈子がいて、早苗がいて、私がいて。
三人で食卓を囲むのが今の私の一番の楽しみだ。
私は透明人間だった。
いや、人間ではないけれど。神様だけど。うまい表現が思いつかないけど、とにかく私は透明人間だったのだ。
科学万能の時代がやってきて、信仰がどんどん失われていって。まあ、時代の流れというか、人間もいつまでも神様に甘えてられないってことだったのかもしれない。
当然、かつてミシャグジ様を束ねていた私への信仰だって、どんどん薄らいでいった。
神奈子の影に隠れていた分、そのスピードは速かったような気がする。
私の姿を見ることのできる人間が減ったのは一体いつからだっただろう。
私の名前が忘れられたのはいつ?
私のことを守矢の風祝が認識できなくなったのは?
分からない。分からない。
毎日、気付かないくらいに、ほんの少しずつ、事態は進行していたのだ。
気付いた時にはもう遅い。
私の存在はどんどん希薄になっていった。
そんな暮らしも、慣れてしまえばどうということもない。
むしろ、風まかせに、気ままな暮らしは、楽しいくらいだった。
町の様子を眺めたり、そこら辺で同じく消えちゃいそうな神さまと雑談をしてみたり。
たまに神社に帰れば、まだまだ踏ん張っている神奈子がお神酒を用意して待っていてくれたり。
人間風に言うなら、悠々自適の老後生活ってやつに近かったのかもしれない。
話し相手がどんどん減っていくことや、気付いてもらえないことに寂しさを感じることがなかったわけではないけどね。
早苗が生まれたのはそんな頃だった。
先祖がえりかと思うぐらい、強い力を持った風祝になるべき女の子。
現人神としての素質を備えた早苗に、私は夢中になった。
なんでだろう。
力があったって、私のことを認識できないのにはかわりがなかったのにね。
理由は今でもよく分からない。ただ、早苗の持つ何かに私は強く惹かれていった。
まるで、娘を見守る母親みたいに、その成長を見守っていくのが楽しかった。
ふらふらその辺を歩き回るのをやめて、いつだって早苗を見守っていた。
誰よりも近くで。誰よりもそばで。
初めて早苗が喋った時も、あんよが出来るようになった時も。
早苗の両親と一緒に飛びあがって喜んだ。
夜中に突然早苗が熱を出した時。
おろおろしていた回りと一緒に私も動揺していた。
はじめてのお留守番をしていて、早苗が涙ぐんでいた時。
聞こえないのは分かっていたけど、「大丈夫だよ」なんて、声をかけたこともある。
確か、あの時は神事で神奈子もいつもの場所にいなくて、すごく心細かったんだと思う。
泣き疲れて寝ちゃうその時まで、私は隣にいた。
お母さんのお化粧品をいたずらして、叱られていた時。
お母さんみたいになりたかっただけなのにね。
いけないことだなんて思わなかったんだよね?
釈然としない様子でぶすくれる早苗の頭をそっと撫でたこともある。
一緒にテレビアニメを見て、なんとか体操をして。
気付いてもらえないのは分かっていたけれど、同じことをするのが楽しかった。
写らないのは分かっていたけれど、記念写真を撮る時はいつだって早苗の隣で、同じポーズをしていた。
早苗の好きだったヒーローやヒロインのポーズに、単なるピースサイン。
神奈子がそんな私を見て、苦笑してたのは気にしない。
いいじゃん、見た目は子どもだし。
早苗が少しずつ大きくなって、学校に通うようになって。
することもなかった私はしょっちゅう様子を見に行った。
クラスの友達と笑っている姿、意地悪な男の子に泣かされた女の子を庇って食ってかかっている姿。授業中に手をあげて、はきはきと先生の質問に答える姿。
みんなみんな見ていたよ。
運動会では、私も一緒になって頑張れ!と声を張り上げた。
音楽の時間には一緒になって声を合わせた。
初恋の彼を眺めるときは私までドキドキした。
楽しいことがあれば一緒に笑って、悲しいことがあれば一緒に泣いて。
気付いてもらえなかったけど、いつだってそばにいたんだ。
私が見える神奈子と一緒にいる時は遠慮して席を外したりもしてたけどさ。
神奈子と話す話題のほとんどは早苗に関することだったような。ああ、それは今もそんなに変わらないけど。
早苗と話をできる神奈子が少しだけ、羨ましかった。
私は透明人間で。気付かれることはありえない。
早苗という女の子が主人公の物語を読んでいる読者に過ぎなかった。
それでも十分と思えるほどには割り切って生活していた。
だけど、それはすごく、空しい。
それを実感したのは、幻想郷に来る少し前のこと。
ある日、早苗が帰ってくるなり、部屋にこもってしまったことがあった。
今から考えれば、あの日は早苗が最後に学校に行く前日だったと思う。そりゃ、寂しかったり、悲しかったりもするよね。だけど、私は幻想郷に行く件についてはほとんど知らなかったから、何があったのか分からなくて、すごく戸惑った。
カーテンを閉めた部屋で電気もつけずに背中を丸めて、嗚咽を漏らす早苗。お母さんやお父さんに気付かれないように必死に声を殺して泣く姿はひどく苦しそうで。
あんまりにも悲痛で、壊れてしまいそうだった。
ねえ、どうしたの?
何があったの?
誰かにいじめられたの?
泣かないで。
早苗。早苗。
大丈夫だよ、ケロちゃんがいるよ。
私がそばにいるよ。
黙ってその小さな背中を見守っていることに耐えられなくなって、かけた言葉。
当然、届くはずもない。
だって私は透明人間だったのだから。
どんなに声を張り上げても、決して届くことはなくて、私は途方に暮れる。
小さな頃、よくしていたように震えるその手を握ることもできなかった。
だって、私がどんなに強く手を握っても、早苗は分からない。
結局、私の自己満足に過ぎないんだから。
とっくの昔に分かっていたはずなのに、それがどうにも苦しくて。
寂しくて、悲しくてしかたがなかった。
私は、その時の痛みを今でもずっと覚えている。
「諏訪子?」
「諏訪子様?」
不意にかけられた声に顔を上げると、そこに並んでいたのは二つの心配そうな顔。神奈子と早苗だ。
どうも、昔のことを思い出して、ぼんやりしてしまっていたらしい。
「あ、ごめん、ちょっとぼーっとしちゃった」
「おいおい、大丈夫かい? なんだか顔色が悪いような」
「えー、気のせいでしょ。お酒飲んでる神奈子に比べたらそりゃそうだよ」
「……なら、いいけどさ」
むう、と唸って納得したようなしていないような顔をする神奈子に私は笑ってみせる。
神奈子は、威厳たっぷり、泰然自若って感じに見えるけど、意外と心配性なところがあるから。幻想郷に越してきたのだって、自分の力のことはもちろんだけど、私や早苗のことを心配してくれてたからだし。
そういえば、早苗が元気がない時、私に何があったのか相談してきたこともあったっけねえ。
軍神というわりに、可愛いのだ、神奈子は。
「諏訪子様、本当に大丈夫ですか?」
「へーきだって。心配してくれてありがとね、早苗」
「でも……」
「ん?」
「なんだか、泣きそうに見えて……」
心配そうに眉を寄せて私を見つめている早苗。
うーん。顔にまで出てたのか。失敗したなあ。
今まで透明人間だった分、最近の私はどうもポーカーフェイスが下手になっている気がする。だって、ほら、人目を気にしなくてもよかったからさ。
「気のせいだってば。ほら、それよりごはん食べようよ。冷めちゃうよ?」
ちゃぶ台の上にはじゃがいものお味噌汁とごはん、それから、にらたまと冷奴。冷奴以外は熱々で湯気が立っている。美味しそうな匂いがする。
早苗のエプロンと同じキャラクターの絵が描かれた私専用のお茶碗とお箸を手にとって私は笑う。
ちなみに、このお茶碗とお箸は子ども用。早苗が小さい頃に使っていたものだ。
幻想郷に来てから、私の分が必要になって引っ張り出してきたものだったりする。
「いただきまーす」
「いただきます」
私がそう言えば、何かを察したのか、神奈子も仕方ないなあって感じの顔でお箸を手にとって、声を合わせてくれる。
長年の付き合いというか、そこのところはかなり分かってくれてるなあ、と思う。
とりあえず、まずは熱いお味噌汁をすする。
うん、美味しい。別に神様だから、食事は必要ないけれど、幻想郷に来てから食事を食べるのが楽しくなった。透明人間だった頃は、できたてのご飯を食べるなんてこともなかった。
贅沢だよね、熱いお味噌汁を飲むのって。
あんまり美味しくて、私はふう、とため息をつく。
同じようにお味噌汁を飲み終えた神奈子と目が合って、ちょっとおかしくなる。
こんなところまで息ぴったりってどういうことなの。
「あの、少しいいですか?」
「ん?」
「なんだい?」
次はご飯にしようか、にらたまにしようか迷っていたところ、不意に早苗に声をかけられる。冷奴をつつきはじめていた神奈子と目を合わせてから、早苗のほうへと向き直る。
どこか照れくさそうな、けれど、楽しげでもあるなんとも言えない表情の早苗は、後で手を組んで、こほん、と一度咳ばらいをして、まっすぐに私と神奈子を見つめている。
なんだか、そわそわした気持になって、私と神奈子は姿勢を正す。
「あのですね、今日は母の日なんです」
「ああ、そう言えばそうだっけ?」
「どうもこっちに来てから曜日感覚がないからなぁ」
もじもじとした様子の早苗の言葉に、そう言えばと思いだす。
向こうにいた時も曜日感覚なんてそんなになかったけど、日曜日だけは早苗のよく見ていた国民的アニメがやっていたからちゃんと分かってた。
そういえば、この時期はたいてい母の日ネタだったっけ。
「それで、いつもお母さんみたいに私のことを見守ってくださる神奈子様と諏訪子様に、これを受け取っていただけたらなーって」
そう言って、早苗は背中に隠していた手を私たちの方へと差し出してくる。
その手にあるのは、小さなカーネーションのブーケが二つ。
「いつもありがとうございます、とても、とても感謝しています」
「ああ、毎年ありがとう」
はにかむように微笑んだ早苗からブーケを受け取った神奈子は嬉しそうに笑って、早苗の髪を撫でている。どこか、慣れた様子だった。
そう言えば、早苗は母の日には、実のお母さんと神奈子、両方に贈り物を用意してたっけ。
初めてたんぽぽをもらった時、肩たたき券をもらった時に、すっごいでれでれしていたのを覚えている。
「あの、諏訪子様?」
「え?」
「受け取って、いただけませんか?」
声をかけられて、我にかえる。
そっか、二つあるうちの一つが神奈子の分なら、もう一つは。
「……!」
自覚した途端、頭が真っ白になる。
あ、ああ。だって、そんなことって。
なにも考えられない。だって、これって。だって。
「諏訪子?」
「諏訪子様!」
嬉しい。
涙が出るほど、嬉しい。
ぽろぽろぽろ、と涙が頬を落ちていくのが分かる。
それを見た神奈子と早苗がおろおろしている。
そりゃあ、そうだ。いきなり泣き出されたら、驚くよね。
だけど、涙は止まらない。止めようとも思わない。
「早苗」
「あ、あの諏訪子様?」
「ありがと……、ありがと」
慌てた様子の早苗の首に腕を回して、ぎゅうっと抱きしめる。
どくどくした心臓の音と、あったかさと、優しい匂い。
五感全部を使って、早苗を抱きしめた。
「諏訪子様」
「早苗ー、ありがとー」
「もう、本当にあれだねえ」
何が起こっているのかよく分かっていない様子の早苗は、それでもぎこちなく、私の背中に腕を回して抱き返してくれる。
呆れたような、微笑ましそうな、そんな声で呟く神奈子が私の頭を小突く。
私は透明人間だった。
早苗に見つけてもらうこともできない。見守っていても気付いてさえもらえない。
そんな透明人間。
だけど、幻想郷に来てからは、違う。
私は透明なんかじゃなくなった。
早苗を抱きしめられる、早苗が私の声を聞いてくれる。一緒にごはんが食べられる。
なんて、幸せなんだろう。
その上、こんな、母の日だなんて。
私はもう透明人間じゃない。
早苗と神奈子と私と。三人で同じ時間を生きている。
諏訪子様……辛かっただろうな。
これからはどんどん早苗に甘えちゃえばいいと思います。
すばらしい…
久しぶりに心が打ち震えました。
つらさも苦しさも乗り越えてこその今の一時。
諏訪子の幸せがいつまでも続きますように。
素晴らしいです。
こんなものも書けるのか……いい話でした。
諏訪子の健気な姿を想像しただけで、涙が……。
『贅沢だよね、熱いお味噌汁を飲むのって』
これは凄く名言だと思います。
素晴らしい作品でした
もう、優しさに溢れた人たちばっかりだな、この守矢神社は!
すごい満たされた気持ちになりました。家族だなあ、この人たちは。
良かったなあ、本当に
これは本当に読んでよかった
諏訪子に幸あれ
三人でいつまでも仲良く暮らしてください