ぎしり、と。
薄暗い部屋の中、ベッドのスプリングが軋む音がやけに耳に残る。
腰かけているベッドは、さすがに紅魔館のものだけあって、パチュリー一人が眠るには十分過ぎるほどに大きい。今しがた、そうであったように二人横になったとしても余裕のあるサイズだ。
何を思ってレミリアが小柄なパチュリー一人のためにこんな大きなベッドを用意したのか分からない。いつか感謝する日が来るわよ、なんて笑っていたけれど、まさか、今の状態を予見していたわけもない。
単なる見栄なのだろう。そう、パチュリーは自分の中で結論付ける。
今の時刻はいかほどだろうか。
もともと不規則この上ない生活を送っているパチュリーである。体内時計は狂いっぱなしで当てにならない。
やたら重厚感のある暗幕仕様のカーテンでは、外の様子を窺い知ることはできない。もう少しカーテンが薄ければ、朝日が昇ったか否かぐらい確認できたのだけど。
静けさに満ちた部屋の中、掛け時計の音が規則正しく響く。けれども、この暗さの中、パチュリーの弱い視力では確認することは叶わなかった。
「はぁ……」
思わず、ため息。
別に早起きをしなければいけない理由なんて、露ほどもない。けれど、あまり遅い時間にレミリアや咲夜に出くわしたなら、にやにやとした笑顔を見る羽目になる。
昨晩はお楽しみでしたね、なんて言われてしまったら、どうしていいか分からない。
不意に肌寒さを感じて、パチュリーは身を震わせる。
精神的なものかとも思ったが、今身に付けているのはスリップ一枚きり。外気に晒された腕はわずかに鳥肌がたっている。
ぐず、と鼻をすすったパチュリーはきょろきょろと辺りを見回してなにか羽織るものを探す。
目的のものはすぐに見つかる。ベッドの足元。昨晩脱ぎ散らかしたガウンだ。
それを拾おうと立ち上がりかけて、それが不可能であることに思い至る。すぐに気づかない程度には、パチュリーの頭も溶けているらしい。
こんなことはそうそうあってはならないのに、と少し嫌になる。
仕方なしに、そこらにあった真っ白なシーツを被る。毛布を奪い取らなかったのは、一応、良心。右手だけでそれをするのは骨が折れたけれど。
「本当、仕方ないんだから」
ため息混じりに小さく呟いて、パチュリーはベッドの上、自らの左側を呆れたように見下ろした。
パチュリーの左手をしっかりと抱くようにして無心に眠る少女。さらさらとまっすぐで、鮮やかな紅色の髪の下、嘘のように整った顔立ち。寝息をたてる度に、耳元の羽がぱたぱたと動く。
シャツ一枚で眠る彼女のはだけた胸元は妙に艶かしくて、パチュリーは目のやり場に困ってしまう。
普段は怒ったり笑ったり、パチュリーの分まで使っているのではないかと思うほど表情豊かだけれど、ただひたすら無心に眠る今はそこから何かを読み取ることは叶わない。
まるで、人形のように。
なぜかそれが少しだけ寂しい。
基本的にパチュリーは静寂を好む。余計な物音などなしに暮らしていきたい。
けれど、この小悪魔のくるくる変わる表情だとか、慌てる声、笑う声。ねえねえと話しかけてくる声は不思議と不快ではなかった。
眠っている今、それを聞くことができないのが、つまらない。
とても従順とは言えない。
ものすごく有能だというわけでもない。
やかましくて、意地悪で、お調子者で。
どうしようもないいたずらもする。わがままを隠そうともしない。
それでも、パチュリーはそんな小悪魔が好きだった。
その明るさに癒しを感じている。本人には言わないけれど。
小悪魔がそばにいることをパチュリーはよく知っている。
パチュリーの左手と小悪魔の右手。指先が絡み合うほどに、しっかりと繋いだ手から伝わる温もりがそれを証明している。
あんまり小悪魔がきつく握るものだから少し痺れているけれど。それすらも肯定的に捉えてしまう。
枕元に置きっぱなしだった本を開きながら、パチュリーは小さく微笑んだ。
「ん……パチュリーさま……?」
パチュリーが目覚めてから大分経った頃、小悪魔は身じろぎと共に、小さな声でパチュリーを呼ぶ。眠気を多く含んだ舌足らずな甘い声。
ぼんやりと細められた大きな瞳が、やがてパチュリーをとらえて、ぱちりと開く。
「やっと起きたのね」
「もう、朝ですか?」
「さあ」
横たわったまま尋ねてくる小悪魔に、パチュリーは肩を竦める。その視線は本に落とされたまま。
ただ、繋がれたままの手を上げてふらふらと揺らしてみせる。されるがままの小悪魔は脈絡のないその行動に首をかしげつつ、パチュリーを見上げてくる。
「知りたいのなら、手を離してほしいんだけど」
「あ」
司書らしく聡明なところのある小悪魔らしくもなく、今気がついたというようにぽかんと口を開ける。いつもよりも隙の多い仕草は寝起きだからだろうか。
ふにゃあと緩みきった笑顔で欠伸をする様は童女のよう。
なにか企んでいるようないつもの悪戯な笑顔はない。まるで昨夜の妖艶さが嘘のようだ。
「んー……離さなきゃ駄目ですか?」
「小悪魔?」
「今日はずっとこのまま手をつないでいたいなー、なんて」
甘えるように繋いだままの手に頬を擦り寄せる小悪魔。えへへーと微笑む姿のなんと幸せそうなことか。
どことなく気恥ずかしくなったパチュリーは、空いている右手で、ぺしっと軽く小悪魔の額を叩く。
「バカなこと言わないの」
「だってー」
「何?」
「このままなら、パチュリー様は私だけのものじゃないですか」
「……もう」
「もちょっとだけ、二人っきりでいたいです」
オブラートに包むことなく、素直な気持ちをぶつけてくる小悪魔。
あんまりにも直球すぎて、パチュリーは瞳を伏せる。
それを見た小悪魔は、どこかいたずらめいた顔になる。きらり、と獲物を捕らえた野生動物のように瞳を輝かせる。
いつも通りの小悪魔めいた表情だ。寝ぼけた頭も冴えてきたらしい。
「ああ、パチュリー様ってば、照れてます?」
「は?」
「そんなに恥ずかしがらなくてもいいんですよ? 私とパチュリー様の仲じゃないですか」
「その発言が一番恥ずかしいわ」
「またまたー。昨夜は可愛かったですよ、パチュリー様」
「う」
「小悪魔の心のアルバムにまた新たな一ページが刻まれました。あは、あんな表情もするんですねぇ」
「あんなって」
「例えば、こんなことをしちゃた時の表情とか?」
ちゅ。
小悪魔は繋いだままのパチュリーの手を口元へと運び、その手の甲に口付ける。
ぺろり、と赤い舌が触れると、とたんパチュリーの手は熱を帯びた。
「小悪魔!」
「えへ」
「えへ、じゃないわよ」
はあ、と深いため息とともに肩を落とす。
気恥ずかしさに任せて、くしゃくしゃとかき乱すように、紅色の髪の毛を撫でてやる。
少々乱暴な手つきにも関わらず、小悪魔は楽しそうに声をあげて笑った。
「もう、ぐしゃぐしゃになっちゃうじゃないですか」
「起きて梳かせばいいだけの話よ」
「そう言えば、パチュリー様も寝ぐせ酷いですね」
寝転がったまま、ベッドに広がるパチュリーの長い髪を左手で慈しむように撫でる。小悪魔が毎日心こめて手入れしているその髪は、さらさらと指通りがいい。
「小悪魔、本当に放して。本が読みたいの」
「やですってば。もっといちゃいちゃしたいです」
「いちゃいちゃ言わない」
「にゃんにゃんでもいいですけど」
「より直接的になってるから」
「ちゅっちゅもありですかね」
「ないわよ」
「きゃっきゃうふふ」
「いい加減にしなさい」
もう、と一度でこぴんをされる。けれども、たしなめるだけのそれには威力も迫力も込められていない。
「さんざん甘やかしたんだからもう、十分でしょう?」
「むしろ、普段から私が甘やかしてるとは思いません?」
「は?」
「いつでもパチュリー様のわがままを聞いて差し上げてるじゃないですか」
「当然でしょう」
パチュリーは魔法使い。その使い魔が小悪魔。
その関係は契約をなんらかの形で破棄しない限り、主従であることは変わらない。
それでも、こんな風に軽口を叩き合ったり、一緒のベッドで眠ったり。小悪魔が悪戯をしても平気な程度には、緩やかな契約なのだけれど。
それはパチュリーと小悪魔が、精神的には対等でいられる理由だ。それは同時に、結びつきが弱いということでもある。
精神的な絆を深めるならば今の状態がベスト。しかし、小悪魔としては、もっとがんじがらめに縛ってもほしい。束縛してほしい。
この先、パチュリーの命が尽きるその時まで傍にいられるように。
だが、それをパチュリーは望まない。小悪魔が小悪魔らしくいられることを望んでくれている。
だから、小悪魔はこうしてパチュリーの手を握り締めたまま離さない、なんてわがままを言う。それが小悪魔の在り方だから。
「もう、放してってば」
「たまには小悪魔に優しくしてくれたって罰は当たらないですよ?」
「優しくしてあげたでしょう、昨日」
「まだまだ足りませんってば」
「ああ、もう。これだから、甘やかすのは嫌なのよ」
「悪魔だから、貪欲なんですって」
「さんざんくっついてたでしょうに」
にやにやと笑う小悪魔にパチュリーはぶつぶつと不平をもらす。
確かにたくさんキスをして、ぎゅうっと抱き合って眠って。
直に触れあった肌から伝わる温かさや、お互いの鼓動を感じあって。
ちょっとばかり感じていた寂しい気持ちがどこかへ行ってしまうぐらい、パチュリーを堪能した。
声も、表情も、匂いも、全部全部が小悪魔を満たしていった。
だけれど。
「あ、じゃあキスしてくれたら、放してあげてもいいですよ?」
にやにやとした表情で、ちょっと意地悪に囁く。
小悪魔は欲張りだから、ぱちゅこあ分をいくら補充したところで完全に満たされることなんかあり得ない。
もっともっとおかわりがほしい。
「は?」
「昨日は昨日、今日は今日ですよ、パチュリー様」
「ふざけないで」
「本当なら私はパチュリー様とずーっとこうしていたいんです」
「……」
「だけど、パチュリー様は私なんかより本の方が大好きだから。健気な小悪魔は身を引きます」
「自分で健気とか言わないの。ていうか、本に妬くの?」
「せめて愛人ポジションは私に下さいよ」
「意味が分からない」
「とにかく、本が読みたいんですよね」
「まあ、そうね」
「だから、お邪魔にならないように、おはようのキッスで我慢しようっていうのに」
それなのにパチュリー様ったら、よよよよよー。芝居がかった動作で目頭を押さえる。
完全に呆れモードに入ったパチュリーは、しらっとした視線でそれを眺めた。
「どこでそういうネタを仕入れてくるのよ」
「本ですよ? なんでもありますからねー」
「余計な知識ばかり増やされても困るんだけど」
「いえいえ、トリビアは人生を豊かにするんですよ。っていうか、雑学王のパチュリー様には言われたくないです」
「雑学王言うな」
はあ、ともう一度ため息をつくパチュリーの瞳はなんだかんだ言って優しい。
結局は小悪魔に甘いのだ。パチュリー自身、自分で自分に呆れてしまうほどに。
それをこの小悪魔は分かっているんだろう。
じと目で見下ろしてみれば、期待に満ち溢れた瞳と目が合った。
今日だけよ。そう聞こえないほどの声で呟いて、小悪魔の頬にパチュリーはそっと口づける。
「ん」
「これでいい?」
流石に恥ずかしかったのか、冷静さを失わない表情のままだけれど、パチュリーの頬は朱に染まっている。もともとが色白な分、桃色がよく映えていた。
幼い外見にその表情はよく似合う。
やわらかな感触に自然と小悪魔の頬は綻んで。にっこりと、満面の笑顔になる。
「はい!」
がばり、と身を起こした小悪魔の手からパチュリーの手は解放される。
ありがたいけれど、少し物足りないような気持ちになってしまう。
「おはようございます、パチュリー様」
「ああ、まだ言ってなかったわね。おはよう、小悪魔」
同じ高さのところで見つめあって、微笑みあう。
一日の始まりの挨拶をする。
「それじゃあ、私からも」
「え? ちょ、ちょっと小悪魔?」
「おはようのキス、ですよ」
「ほよ?」
いただきまーす、なんて言いながら、小悪魔はパチュリーの唇に深く口づける。
あまりにも唐突で勢いがあったものだから、パチュリーはそれから逃れることはできなかった。
やられた、と思うパチュリーはただただそれに甘んじる。
「だぁいすきですよ、パチュリー様」
「むきゅー」
絡んだ指先はほどけたけれど。
まだまだ、読書に戻ることはできそうになかった。
やっぱりちゅっちゅなんじゃないかー!
ガウンを脱ぎ散らかしてスリップ一枚シャツ一枚になった経緯はいかに?!
畜生やっぱり俺は小悪魔が好きだ!!
で、昨夜の様子はどこに行けば見れますか?
頼むから召還の仕方を教えてください!
小悪魔可愛い
くそう、幻視力が足りない!
胸いっぱいです。