図書館を本の海と呼んだのは誰だっただろうか。
あまりロマンチシズムな物言いは好きではないが、言い得て妙だと思う。
この私でさえ把握しきれないほど多くの書物に埋もれたこの場所はすべての叡智が集う場所。ひたすら広大で、すべてを包みこむような静寂に満ちている。
母なる海という言葉がある。すべての生命が海から生まれ、やがてそこに還っていくことを比喩している。すべての生命の源。
この図書館に集まる本はすべての知識の源であり、幻想となって還ってくる。その意味でも海という表現はうまいと思う。
ならば、この本の海の底に住まう私は深海魚といったところか。
太陽の光すら届かない暗闇に満ちた冷たい海底で誰にも知られずに生きてきた深海魚。
過酷な環境で生存するために、独自の生態をもつ彼らは一体何を思っているのだろうか。
変質した身体はもはや陽のあたるところで生きていくのには適さない。ただひたすら海の底で行くよりほかはない。水圧の低い所に移動すればその身体は歪み、内蔵ごと爆発してしまうのだと言う。
暗い海底では必要のないために退化していった視力、移動することよりもその場にじっとして居続けることに特化した身体。
否、それは退化ではない。より環境に適応するための進化である。
そうして、生きて死んでいく深海魚達はそのまま海へと還っていき、やがて海の一部となるのだ。
ひたすら、この本の海に沈む私もまた深海魚のように、進化しているのだと思う。
動きまわれば喘息の発作が出て、息が出来なくなる。最早遠くを見ることに適さない視力。もうこの場所から離れては生きていけない。外に出ることはできない。
しかしこの場所に留まりさえすれば、視力は使い魔である小悪魔で補い、また、気配や足音、それから声で訪ねてくる相手を識別することができる。
小さなレミィに、七色の羽をもったフラン。銀色のナイフのような咲夜に年中クリスマスの美鈴。それから、黒白に、金髪の魔法使い。
私を訪ねてくる相手など両手で足りるほどしかいないのだから、これだけ分かれば問題ない。
悪化した喘息や貧血はこの場所に私を縛りつける鎖かもしれない。だが、それは誰にも邪魔をさせない無敵の盾となりうる。
だから、これらは退化ではなく、より本に集中できるように進化しただけのこと。
私はそう考えている。
そうして深海魚のように、この場所で果て、この図書館を構成する知識の一部となることが出来たのなら。それ以上に素晴らしいことなどない。
「……」
長く淡々とした語りを終えたパチュリーは、ふう、と大きく息を吐く。そして、そのまま愛用の安楽椅子に倒れこむように身を預け脱力する。その表情はいつも通り乏しく、考えを読み取ることは難しい。
だが、どこかその瞳には寂寥にも似た、拭いきれない哀しさのようなものが宿っている。
八意永琳による辛辣な診断結果を受けてから、パチュリーが、悩み、出した結論が今の語りだった。
あまりに無慈悲なその宣告をたった一人で抱え込み、受け入れるまでにどれだけの時間がかかったのだろう。幾夜眠れぬ夜を過ごしたのだろう。
そう考えるとアリスはやりきれない気持ちになる。
どうして、もっと早く話してくれなかったの?友達でしょう?
そう問いたかったけれど、淡雪のように拙い言葉は溶けてしまう。
もうどんな表情をしていいのか分からないまま、パチュリーを見つめていることしかできない。
アリスの隣に立つ、魔理沙もまたどうするべきか決めかねているのか、小さく俯いている。広い帽子のつばのせいで顔に影が差し、どんな表情をしているのか分からなかった。
そんな二人の様子を見たパチュリーはすん、と鼻を鳴らし、消え入りそうな声で呟く。
「だから、いいのよ、このままで」
その拍子に、埃を吸ってしまったのか、苦しそうに乾いた咳を繰り返す。
何のことはない、いつも通りの仕草であるにもかかわらず、どこか突き放されたように感じてしまう。
行き場のない思いに突き動かされたアリスは何を言うべきか分からないままに口を開く。
「どうして……、どうしてそんなこと言うの?」
「ただの事実でしょう?」
「そんな!このままでいいわけないじゃない……」
「アリス……、優しいのね」
「……そんなんじゃ、ないわ。ただパチュリーが……」
「私は平気よ。本当の深海とは違って、ここにはレミィという月の光も、貴女達のような太陽の光も射し込むんだもの。それだけで十分よ」
「パチュリー……」
たまらなくなったアリスはぎゅう、とパチュリーを抱きしめる。決してアリス自身も大柄というわけではないのに、少し力を入れれば折れてしまいそうな身体はあんまりにも細く華奢で、アリスの腕は余ってしまう。
されるがままのパチュリーは一度目を見張ったけれど、やがて母に抱かれる幼子のように安らいだ表情で瞳を閉じる。
素直で穏やかなその様子はしかし、いつもの不満げな彼女からは考えられないもので、事態の深刻さを余計に感じさせる。
それを黙って見ていた魔理沙はやがて、信じられないといった表情を、やがて異なる趣を持ったものに変化させていく。強い決意を秘めた眼差しには、いつもの少女らしい輝きはなく、鈍い感情が宿っている。
「……っていうかさぁ」
暗い声音で紡ぎだされる言葉は、銀のナイフのように鋭く、重く沈殿した空気を切り裂いていく。いやいやをするように首を横に振り震えるパチュリーの身体を抱きしめたアリスは、すぐに投下されるであろう爆弾に耐えるように力を込める。
「眼鏡かければいいだけの話じゃないか」
要するに。
暗い図書館で休むことなく百年間、読書を続けた結果、パチュリーの視力は大きく低下していたのである。もはや本に顔を埋めるようにしなければ文字を追うことのできない状態のパチュリーを見かねた永琳が、視力や瞳に関する検査を断行した結果判明した事実である。
永琳曰く、このままの生活を続けていれば近い将来失明することもあり得ない話ではないとのこと。至急生活環境の改善、視力矯正の必要があるという。
しかし、そこは頑固な性格のパチュリー。素直にそれを受け入れることはしない。
永琳によって示された生活プランは、パチュリーにとっては受け入れがたいものだったのだから。やれ、明るいところで本を読めだの、やれ本を読む時間を減らして目を休ませろだの。言っていることは誰が聞いてももっともな話だが、本のそばにあることを自身の在り方と定義しているパチュリーにとってはまず、あり得ない。
せめて、眼鏡をかけるよう言われるが、それすらも拒む。
それでも、内心かなり動揺していたのか、三日ほど塞ぎ込んだ後、パチュリーはいつも通りの生活を再開した。
何があってもありのままに本を読み続けるという確固たる決意。それは己のありようを変革させるくらいならば、死を選ぶことも厭わないという強いものである。
強情な主の主張に音をあげた小悪魔がこうして魔理沙とアリスに説得を試みるように依頼したのが、今の状況だった。
「嫌よ」
呆れの色を隠さずに言う魔理沙に、にべもなく即答するパチュリー。
頑ななその態度にアリスは思わず、感心してしまう。逆にすごい。
「あくまで図書館に適応しただけだもの」
「適応、ねぇ。目が悪くなっただけだろ?」
最早、面倒臭いというように、乱暴に椅子をひいてパチュリーの横に腰をおろした魔理沙は鼻で笑う。その態度にむっとしたのか、パチュリーはアリスの腕の中から逃れ、身を乗り出して主張した。
「目が悪くなったんじゃないわ。遠くを見る必要性がないということよ。何の問題もないわ」
「弾幕ごっこをした時なんか危ないじゃない」
駄々をこねる子供のようなパチュリーをなだめるようにアリスは突っ込む。
純粋に魔女として、アリスはパチュリーのことを認めている。
膨大な魔力に、強力で独自色の強い七曜の魔法。賢者の石の錬成。たった百年と少ししか生きていない魔女としては十分すぎるほどの実力を持ちながらも、尚貪欲に知識を求めるその態度は尊敬に値する。
それが、こんなことで。こんなことで失われてしまうのはあまりにも惜しい。
それに親しい友人として、自分の終焉を受け入れたパチュリーを放っておくことなどできない。
まだまだこれから長い時間を共に過ごしていきたいのだから。
だからこそ、アリスはパチュリーの説得に協力することを同意したのである。
「大丈夫、その時はアリスが守ってくれればいいのよ」
「何その無茶ぶり」
「レミィもいるしね」
いつでも冷静に理論立てて、物事を語るパチュリーらしくもない暴論だった。
とはいえ、屁理屈という点では、アリスはどうやったってパチュリーには敵わない。人生経験の差なのか、単に相性の問題なのか、屁理屈力の差なのか分からないが、アリスではパチュリーを口で言いこめることはできない。
困ったアリスは魔理沙に助けを求める。胸元で人差し指を交差させてぺけをつくる。
「百歩譲って適応だって言うことにしてもいいけどさ」
頬杖をついて完全に呆れモードの魔理沙はそれでも、アリスの要請を受けて口を開く。
「肝心の本が読めなくなったんじゃ本末転倒じゃないか」
「……まだ読めるもの」
「どう考えてもあんなに近づいたら効率悪いって」
「……」
ストレートな物言いに口をつぐむパチュリーは流石にそれを否定することはできなかった。小刻みに震える肩は悔しさゆえか、それとも別の理由があるのか、アリスには分からない。
「そもそも、なんでそんなに眼鏡が嫌なんだよ?いいじゃん」
「確かに……」
眼鏡をかけることを拒む理由。そこに深い理由があるのならば、無理強いすることはできない。
外見こそアリスや魔理沙と同じぐらい、ともすればより幼いが、百年を超える時間を生きた魔女なのだ。長いその生の中で、眼鏡をかけることを拒むような出来事があったのかもしれない。あるいは、眼鏡をかけることによって失われる何かがあるのかもしれない。
しかし、若い魔法使いである二人には口で言ってもらわなければ分からないのだ。
パチュリーを見つめる真摯な瞳に心を打たれたのか、唇をゆっくりと動かして語りだそうとした。
その瞬間。パチュリーのそれよりも明るくはっきりとした声が図書館に響く。
「それはですね、昔一度だけパチュリー様が眼鏡をおかけになった時にレミリア様が大笑いなさったからですよ」
突然現れた小悪魔はパチュリーから十分距離をとり、魔理沙の背中に隠れるようにしてそう語る。
成り行きを遠くから見守っていた小悪魔は、今この時を勝機と見極め、勝負に出た。
「は?」
「え?」
「小悪魔っ!」
「パチュリー様もこれで意外と乙女ですからね、傷ついてしまったんでしょう」
「余計なこと言わないで!」
真っ赤になって立ち上がり、珍しく機敏な動作で小悪魔に詰め寄るパチュリー。しかし、予想外の事態を面白がっている魔理沙がそれを庇う。もとより運動能力で劣るパチュリーにはそれに対抗する手段はない。
ならば、とスペルカードに手を伸ばすけれども、今の視力では勝ち目が薄いことに思い至り、なす術を失ってしまう。小悪魔だけならともかく、魔理沙相手にスペルカード以外の魔法をかけるわけにもいかない。
「ちなみに、これがその時の眼鏡となります」
やはり、悪魔というだけあって、身の安全が確保されたことを悟った小悪魔はにやにやと笑いながら、ポケットの中から一つの眼鏡ケースを取り出した。
それを見るパチュリーの顔色はむしろ蒼白。ふらりと倒れそうになる身体をアリスが支える。
物々しいベルベットのケースを受け取った魔理沙はまるで冒険の末に財宝を見つけた海賊のような笑みを浮かべて、その中身をあらためる。
「うわぁ」
「これは……」
そこに堂々と鎮座していたのはいわゆる牛乳瓶底眼鏡。確かにこれをパチュリーがかけていたら笑うしかない。
いたたまれない様子で必死に顔を背けるパチュリーに二人がかけるべき言葉はただ一つ。
「眼鏡、かけろよ」
「眼鏡、かけなさいよ」
「ああ、やっぱり似合うじゃない」
「知識人って感じでいいんじゃないか?」
数日後、図書館を訪れた二人が見たのは、仕立て上げたばかりの眼鏡をかけて読書にいそしむパチュリーの姿だった。これまでよりもずっと姿勢がよく、また、ページをめくる速度も倍速に近い。
あの後、アリスと魔理沙は二人がかりでパチュリーを人里の眼鏡屋に連行した。すっかり抵抗する気力も消えうせたパチュリーはしかし、陳列された眼鏡を眺めて、衝撃を受けた。
今は眼鏡といってもこれだけ種類があるのか。
まさしく、目から鱗が落ちたと言わんばかりの様子のパチュリーと三人でわいわい、あれもいい、これもいいかも、などと選んで新しい眼鏡を注文するに至ったのだった。
そうして、パチュリーは、レミリアや咲夜にも褒められ、クリアになった視界に感動し、今では現金にも眼鏡を手放そうとしない。
「……ふん」
にやにやとおかしそうに笑う二人の顔が今までよりもずっと鮮明に目に映る。
それはなんだか眩しくて、パチュリーは本から視線をあげることができなかった。
でも、本も読めなくなったら大変だね、目は大切にね!
そこのアナタ!アナタもですよ!もっとモニタから目を話す!いいですね!?
私も視力0.1以下なので、眼鏡は手放せません。今、試してみましたが、マジで画面が見えませんでした。皆さんも目を大切にして、手遅れな方は素敵な眼鏡を手に入れましょうw
まぁ読書には十分かもしれないがww
穏やかな海のような作品でした。パチュリーさんがえらく可愛い。
友情っていいなぁ。
眼鏡パチュリーさんはすごくいいに全力で同意しますよ!
昔の知識人的な真ん丸いのとか鼻眼鏡が似合うなぁ
瓶底は流石にビックリだw
私は視力0.2なので本当にそろそろ眼鏡を買わなければ…orz
俺も最近また視力落ちたなぁ
ところでアレですよ、眼鏡屋さんの試着ってレンズに度が入ってないもんだから、
結局鏡の向こうの自分のメガネが似合ってるのか分からないですよね。
パッチェさんはリムレスとかモノクルが似合いそう。
アリスはスリムフレーム、魔理沙は太めのクリアプラスチックフレームとか。
眼鏡っ娘好きとして夢が膨らむわぁ♪
そんなぱちぇさんもいい…のかな。
あのデザインで牛乳瓶だったらそら嫌がるでしょうな。