「たまらないわ」
かつては月の頭脳と呼ばれ、この幻想郷においても有数の実力者である八意永琳が紅魔館地下に広がる大図書館を訪れ、パチュリーを見るなり言い放った一言がそれだった。
意味が分からない。
ぐったりと気だるげに安楽椅子にもたれたパチュリーは怪訝そうに眉を寄せ、発言の意図を探ろうとする。
にっこりと微笑んだ様子からは、敵意や嘲り、策略といったようなものは感じられない。
かつてレミリアの月旅行云々の件で侵入してきた時の胡散臭い笑顔とも、その後図書館で行われた宴会で紫に見せていたひきつった笑顔とも違う。
あえて言うのならば、彼女が溺愛してやまないという月の姫に向ける笑顔に一番近い気がする。
しかし、出会ってそうそうそんな笑みを向けられる謂れはない。
むしろ、パチュリーとしては、侵入の一件からお互い気まずいぐらいの間柄であるという認識なのだが。
「お前は何を言ってるんだ?」
同じく疑問符を浮かべていた魔理沙がうろんげに視線を向けつつ言う。
しかし、永琳は気にとめる様子もなく、あっさりと言葉を返す。
「そんなの決まってるじゃない」
あまりにも自然なその言葉に思わずああ、そうよね、決まってるわよね、と言ってしまいたくなる。なにがどう決まっているのか分からない。
「あー……、ここの蔵書は確かにたまらないよな」
思いつく限りでもっともありえそうな無難な点をあげてみる魔理沙。
確かに、この図書館はちょっとした知識人ならば虜にしてしまいそうな程の蔵書量を誇っている。もちろん、種類の幅も質も豊富に取りそろえている。幻想郷にあるすべての本を足しても叶わないほどの冊数を所蔵している図書館。外の世界を含めて考えてもその規模は稀有なものと言えるだろう。
しかし、それが正答でないことをパチュリーは知っている。
すでに三回はこの図書館を訪れたことのある永琳だが、いずれの時も蔵書に興味を示したことはない。もっともそのうち二回は穏やかではない訪問だったわけだが。
「いいえ。確かにここの本にも心惹かれるけど、違うわよ」
案の定、首を横に振る永琳。
じゃあ、一体なんなんだ、と言うように魔理沙が睨む。
すると、永琳は仕方がないわねえと言わんばかりに、どこか母性を感じさせる笑みを浮かべて、決定的な一言を放った。
「パチュリー・ノーレッジ。貴女、たまらないわ」
「は……?」
永琳、いい笑顔。なにがそんなに嬉しいのか、分からない。
同じようなことを考えたらしい魔理沙がこいつどうにかしてくれよ的な視線をパチュリーに向かって送ってくる。
むしろどうにかしてほしいのはこちらの方だと思いつつ、パチュリーは嘆息した。
元はと言えば魔理沙が永琳を連れてきたのだから。
否、魔理沙とて悪意があった訳ではない。むしろ、善意である。パチュリーが個人的に気が進まないということを除けば、その時魔理沙が取り得た最善の手段であったはずなのだが。
どうしてこうなった。
事の経緯はさして複雑なものではない。
いつも通り本を盗みに入った魔理沙との弾幕ごっこの最中、パチュリーが喘息の発作を起こす。それ自体はわりとよくあることだ。
しかし、今日は風邪気味で元々体調が芳しくなかったことも手伝って、ここ数年なかったような重い発作だった。
いつにもまして苦しげに咳きこみ、呼吸困難に陥るパチュリーの姿を見て焦った魔理沙は誰かを呼ぼうと試みた。だが折悪くレミリアと咲夜は博麗神社に、小悪魔と美鈴は月に一度の買い出しにそれぞれ出掛けており留守であった。また地下室からフランドールを呼びつけたところで対処のしようがない。
そこで魔理沙は永遠亭へと向かったのだ。
病人が出たから医者を呼ぶ。
極めて常識的な判断である。まあ、永琳は医者ではなく薬師だが、やってることはそう変わらないからいいだろう。また、永琳とパチュリーの微妙な関係を、当時月へ向かっていた魔理沙が知るはずもないため、そこを責めるのもお門違いである。
そうして、連れてきた矢先にたまらない発言。
どうしろというのだ。
顔を見合わせて困惑する二人の様子に、本気で分かっていないのか首を傾げつつ、永琳は口を開く。
「さてと、お喋りはこれくらいにして診察に入りましょうか」
「お、おお、そうだな。そうしようぜ」
どことなく漂う微妙な空気を振り払うかのように魔理沙がぶんぶん首を縦に振る。なし崩しになかったことにしてしまおうという魂胆が丸見えである。また、永琳も先ほどまでの笑顔はどこへやら、真剣な表情を見せている。
「いいわよ……。せっかく来てもらって悪いけれど、もう発作も治まったし、帰って」
先ほどは小悪魔も咲夜も不在だったため使用することができなかったが、自前の薬もある。発作が治まった今、診察を受ける必要はない。無駄に借りを作りたくはなかったし、なんとなくこの薬師の世話になるのは気が進まなかった。
というか、先ほどのたまらない発言にうすら寒いものを感じたため、というのが本音だ。
「でも、その様子じゃ今日のうちにまた発作が起きてもおかしくないわよ」
「その頃には小悪魔が帰ってきているから平気よ」
「小悪魔……?ああ、使い魔の」
「ええ」
「あの子じゃ、対処はできても治療はできないでしょう?」
「対処が出来れば十分よ」
パチュリーは正面に立つ永琳と目を合わせないようにしながら細く掠れた声で呟く。注射を嫌がる子供を宥めすかすかのような口調の永琳に少しばかり苛立ちを覚えた。断っているのにも関わらず、持参した鞄の中から医療器具を出す手を止めようともしない。
魔理沙は事の成り行きを黙って見守っている。心配半分、呆れ半分といった表情で。手持無沙汰なのか箒を握りしめたまま。
しばしの膠着状態。力づくで診察されてしまえば、体調の優れないパチュリーに逆らう手立てはない。それをすることなく同意を得ようとするのは永琳なりの誠意なのか。
やがて、ひとつ深いため息を落とすと、永琳は屈んで耳元に顔を寄せた。急な接近にパチュリーは反射的に身を竦ませる。
「ちょ……っ」
「あの時の借りを返しておきたいのよ」
魔理沙には聞こえない程の小声で囁く。息がかかるほどに顔を寄せられ、パチュリーは身動きがとれない。永琳の柔らかい銀髪が頬にふれてくすぐったさを感じる。
「借り……ねぇ」
「悪い話じゃないでしょう?別にとって食おうってわけじゃないんだから」
少し、考える。
確かに、アレは貸しと言えるだろう。だとすれば、あまり長いこと貸したままにしておくのも本意ではない。また、永琳の見立て通り今回の発作が長引くであろうことも、経験上理解している。当然そうなればかなり辛い思いをすることになり、本を読む時間さえ減ってしまう。
そこまで、考えを巡らすと、借りを返したいというのならば、受けてやってもいいかもしれないとパチュリーは思う。変な真似をするようなら、魔法の一つや二つお見舞いしてやればいいことだ。第一、永琳だって愚かではない。パチュリーを傷つければ、紅魔館を敵に回すことになることぐらい理解しているはずだ。
なにより、本を読む時間が減ってしまうぐらいなら、キモいのを我慢した方がマシだった。
「……分かったわよ」
か細い声で了承の意を示すと、すっと滑らかな動作で傍を離れる永琳。その速やかな挙動はどこか瀟洒さを感じさせ、咲夜に通じるものがあった。
ああ、彼女も従者なのだった、と改めて思う。
「話はまとまったのか?」
「ええ、おかげさまで」
「……不本意だけどね」
問いかけに笑顔で答える永琳と仏頂面で答えるパチュリーの対照的な姿に魔理沙は僅かに安堵を含んだ苦笑を洩らした。彼女は彼女なりに不安だったのだろう。
「さて、じゃあ、今度こそ始めようと思うんだけど……」
カチャカチャと器具を鳴らしながら、ちらり、と魔理沙を一瞥する。その微妙なニュアンスを感じ取り、むっとした表情で肩をすくめる。
「なんだよ?」
「少し席を外していてもらえる?そう時間もかからないとは思うけど」
「私がここにいたら、なにか困ることでもあるのか?」
「ないと思う?」
「ないだろ。別に」
永琳の言わんとすることをパチュリーは早い段階で察して、二人の問答を見守る。まあ、別にパチュリーとしては魔理沙がいようがいまいがどちらでも構わないのだが。どちらかと言えば、いない方が望ましい。
なぜか肝心な部分を暈して押し問答を続ける永琳に加勢することにした。
「魔理沙」
「パチュリー!別に私がここにいたって構わないだろ?」
「ええ、そうね。でも、魔理沙」
「ん?」
「そんなに私の裸、見たいの?」
「はっ?は、裸?」
要するに、そういうことだ。診察を行う以上、服を着たままというわけにはいかない。それを示すかのように永琳の首には既に聴診器がかかっている。
パチュリーの着用している無駄に装飾が多く、露出の少ない服では脱がないことには始まらないだろう。ワンピース状のそれではちょっと捲ってすますのは難しい。
魔理沙がそのことに思い至らなかったのは、一重に彼女が病気知らずの健康優良児だったためか。パチュリーにそれを指摘された今、耳まで真っ赤になっている。
「分かった?」
「……分かった」
「よかったら、ドアの辺りででも待っていてくれない?レミィか小悪魔が帰ってきたら説明しておいて」
「任せとけ……」
よっぽど恥ずかしかったのか、あるいは見た目以上に初心なのか、両手で頬を押えてよろよろとその場を離れた。箒を置いていったあたり、慌てていたことがよく分かる。
そんな姿を見送って永琳とパチュリーは小さく笑いあった。
「はい、もういいわよ」
「ええ」
その後、図書室の隅に設置された仮眠スペースのベッドへと移動して、診察が行われた。
小悪魔以外に肌を見せたのは、もといきちんとした診察を受けたのは何十年ぶりだったか、とボタンを留めつつ、ベッドの上でぼんやり考える。発作止めとして打たれた注射の影響か思考がまとまりづらい。
永琳が思っていた以上に誠実な態度で診療に臨んでいたため、正直、見なおしてしまった。噂によればマッドサイエンティストの気があるとのことだったが、そういった様子は見受けられなかった。むしろ丁寧で、良心的。幾度も肌に触れた指は優しかった。
「とりあえず、この薬を渡しておくわね」
「ありがとう」
「一日三回、食後に飲んでちょうだい。風邪薬だから三日分」
「食後……ねえ」
「ああ、捨食の術を使ってるんだったわね。まあ、それらしい時間に飲んでちょうだい」
もっとも、身体が弱っている以上食事をとるに越したことはないんだけど、と永琳は肩を竦めて笑う。言われたところで従わないだろうことを見透かされている。
「……意外と真っ当なのね、貴女」
「あら、心外だわ」
「無断で侵入した揚句、館主に凶器を向けておいて何を意外そうに言ってるのよ……」
「ふふ」
笑うところではないだろうと思いつつ、パチュリーは首元の最後のリボンを結び終える。ベッドを下りて、魔理沙を迎えにいこうとすると、そっと押しとどめられた。
「寝ていなさい」
「…………」
「魔理沙には私が帰りに声をかけておくから」
なにか反論してやりたいのはやまやまだが、しかしその為の言葉を思いつかず、結局そのまま枕へと頭を沈める。絶妙のタイミングで毛布をかけてくる永琳と何となく目を合わせられず、目をそらす。
なんでそう無駄に優しげなのか。
「本当、貴女たまらないわ」
「どういう意味よ……」
ベッドの中から永琳を睨みつける。一連の流れである程度見なおしたとは言え、その言葉の意味が分からないのは変わらない。
永琳はあら、と呟くと歌うような調子で夢見るように語りだした。
「幻想郷の人妖って、みんな身体的に強いでしょう?だからこそ胡蝶夢丸のような薬にはかなり需要があるんだけど」
「そうね、レミィにしても美鈴にしても妖怪ってそういうものよね」
「でも、それだとやりがいがないのよねえ」
さらっと、爆弾発言をする永琳にパチュリーは眉を寄せる。一気に話がきな臭くなってきた、気がした。やっぱり、マッドサイエンティストの名は伊達ではなかったのか。
少しでも見なおしてしまったことを後悔し始めるパチュリーをよそに、永琳はさらに言葉を紡いでいく。
「勘違いしないでね?みんなが健康であることは素晴らしいことだと思ってるわ」
「……」
「ただ、こう、誰かを治すことに専念したいのよ」
「……人間でも相手にしていればいいじゃない」
「人間を治しすぎると、スキマに文句を言われるもの」
「それで私に目をつけたわけ?」
「ええ」
あっさり頷く永琳に冷やかな視線を向けるパチュリー。パチュリーも魔女であり、言いたいことは分からないでもない。目的もなく本を読んでいるときよりも、何か目標を決めて研究をしている時の方がやりがいがあるということだろう。
ある意味、職務熱心、と言えなくもない。
「どう考えても捨虫の術を使って、それでも治らない喘息も貧血もおかしいじゃない?」
「余計なお世話よ」
「貴女自身の未熟さゆえかとも考えたけれど、七曜を極め、賢者の石の錬成に成功している以上その線も薄い」
「……」
「貴女を治したいの」
その言葉だけ聞いていれば、いいセリフに聞こえたものを。また、言っていることがいちいちもっともなのにも腹が立つ。しかも、診察を行っていた時と同様、その瞳には真摯な光が宿っており、本気であることがパチュリーにも伝わってくる。
「悪い話では、ないでしょう?」
「……私に貴女のモルモットになれと?」
「いいえ。私の患者にしたいのよ」
「どう違うのよ?私には同一のものにしか思えないんだけど?」
「まさか。患者様には誠心誠意を尽くして付き合うつもりよ。安全性が確認されていない薬を使ったりもしないし」
「……」
「永遠亭の評判を聞いていないとは言わせないわ」
いつの間にかベッドに腰を下ろしていた永琳は、パチュリーの迷いをお見通しだと言わんばかりに瞳を覗きこむ。目を伏せてそれを避けるようにパチュリーは寝返りをうち、背を向けた。
「帰って」
「……次に来た時には答えを聞かせてもらうわよ?」
パチュリーの髪を一度撫でると、永琳は立ちあがって器具を片づけ始める。
その手つきは優しく、壊れものを扱うかのように繊細で、戸惑ってしまう。
「喘息の方の薬は後でうちの兎に届けさせるから」
「……」
「じゃあ、またね。パチュリー。お大事に」
やがて足音が遠ざかり、ドアが閉まる音がした。
「なんなのよ……もう」
毛布にくるまれたまま、パチュリーは瞳を閉じて思索にふける。
その内容は、たった今立ち去ったばかりの銀髪の薬師について。
言っていることこそおかしいが、行動や仕草には誠意や優しさがあり、人柄の良さを感じさせた。もし、爆弾発言を聞いていないままだったなら、患者となるのもやぶさかではなかっただろう。
しかし、聞いてしまった今もなお、断る以外の選択肢を検討している自分がパチュリーには信じられない。
薬の影響か、強い睡魔に襲われて考えがまとまらない。
意識を手放すその直前、パチュリーの頭を過ぎったのは、永琳が次に現れたその時にはお茶くらいは出してやってもいいかもしれない、ということだった。
敵に?
後書きで持ってかれたwww
誠実というかSEIJITUってやつやね、それなら仕方ないな