此処はどこなのだろうか?
走っても走っても、景色は変わらない。
まるで水銀の中を泳いでいるような気持ち悪い感覚が付き纏う。
どのくらいたっただろうか?
一度立ち止まると、まるで泥沼にはまってしまったかのように動く事が出来ない。
それと同時に強烈な睡魔が襲ってくる。
私の意識はまるで溺れるように微睡みの中に落ちていった。
「―――――」
声が聞こえた。
あまりの眩しさに目を醒ます。
目に入るのは見慣れた天井、私の部屋だった。
しかし何だろうか?
何か大切な事を忘れているような気がする。
それに、何故だか分からないが、私は涙を流している。
「また…か。一体何なんだろう」
最近になって私は毎朝この感覚に襲われている。
悪い夢を見ただけ?
それにしては何かが違う、何故だか懐かしい気持ち。
気にはなるが、いつまでもベッドに寝ているのもいけない。
「よし、とりあえずシャワーでも浴びてさっぱりしよう」
私はさっとシャワーを浴びて、朝食を済ませ、学校へと向かう。
「はぁ…やっぱあんまり気乗りしないな」
学校という所はあまり好きではない。
話によると私は、神を先祖に持つ一族の末裔だそうだ。
現人神と言われ、崇められるとまではいかないが、未だに神様を信仰している老人達には畏れられ敬遠された。
良い意味でも悪い意味でも、子供は大人のまねをする。
子供達もまた私の事を敬遠するようになった。
それに加え、私は言動も少し常人離れしていたらしい。
他の子供達が犬や猫を可愛がるのに対し、私は蛇や蛙を可愛がったり、神様が見える、と虚空に向かって独り言を呟いていたり。
敬遠は最初、ただの無視にすぎなかった。
子供の社会では、異端分子は徹底的に除外される。
学年が上がるにつれて、その行動はエスカレートしていった。
ある日には机が無かったり、鞄がなかったり、教科書に落書きされたり。
もはやいじめと言われる行為にまでエスカレートしていたらしい。
それでも私はそのような言動を改めなかったそうだ。
しかし、私の人生に転機が訪れた。
去年、私の叔母が逝去した。
私は叔母の逝去と同時に倒れてしまい、入院を強いられた。
倒れた原因は不明だそうだが、叔母の逝去による心的ショックだろうと医者は言っていた。
私はそれから、過去の記憶が曖昧になった。
生活習慣や自分の名前など、基本的な事は覚えている。
しかし、所々ぽっかりと穴があいているような、スカスカのスポンジケーキのような、まったく思い出せない部分が多々あるのだ。
それからだろうか、私の言動はいわゆる正常になったらしい。
いじめは無くなった。まだギクシャクとしてはいるものの、子供たちは普通に接してくれるようになった。
だけど、何かが足りない。
私は時折、蕭々とした気分に陥ってしまう。 何が足りないのか?
自分に問いかけてみるも、思考は堂々巡りを繰り返すだけだ。
そんな事を考えているうちにあっというまに放課後だ、私は急いで教室を後にする。
ローファーを履き、駆け足気味に校門から飛び出す。
向かう先は、自宅近くの池。
ここに通う事は、もはや日課となっている。
雨の日も、雪の日も、休む事なく通い続けている。
何故かは分からない。だけど、ただなんとなく通っているのとは違う、何か意味を成すことのように私は思う。
その時、ふと気配を感じた。
私は振り返る、誰もいない?
確かに気配はしたはず。
「気のせい…か。こんな所に来る人なんていないはずだし」
私は池に体を向ける。
すると、
「ごきげんよう」
誰、この人。
私に最初に芽生えた感情、それは恐怖だった。
それもその筈、目の前の人は水面に浮いているのだ。
纏う気配も明らかに人とは違う。明らかにに不可思議だ。
普段だったら逃げ出していただろう。しかし体がそれを拒んでいた、ここで逃げたら大切なものを失うと。
「誰…ですか?」
震えた声で私は訊ねる。
「私は八雲紫よ」
その顔に笑みを浮かべながら、彼女はこちらを見つめている。
怖い、怖い、怖い。
体の震えが止まらない。
けれども、黙っていては何も解決しない。
「あの、私に何か用ですか?」
自分でも驚くくらい、声が震えている。でもそんな事構っていられる余裕など、無い。
「あなた、真実を知りたい?」
「…真実ですか?」
「そう、真実。この世の理を超えた真実。あなたは最近、何かが足りないと感じている。そうでしょう?」
「何故そんな事知ってるんですか?」
私は戸惑いながら、そう訊くことしか出来ない。
誰にも相談なんてしたことは無い。誰も知ってる筈がないのだ。
「私に分からない事なんて無いのよ」
なぜこの女性、八雲さんはここまで言い切れるのだろうか。
訝しむ気持ち。同時に、この人ならどんなことでも分かるのだろう。という気持ちも湧き上がってくる。
「真実を知れば、この虚無感は無くなるのですか?」
「そうなるわね」
「それなら…私は、真実を知りたい」
そう私が答えると、彼女、八雲さんは妖しい笑みを浮かべた。
「ふふ、分かったわ。少し辛いけど我慢してね」
八雲さんが私に近づき、額に触れる。
その直後、私の記憶が蘇ってきた。
幼少時の記憶から些細な記憶まで全てが私の中に。
まるで走馬灯の様に過去から現在への記憶が蘇る。
「気をしっかり持つのよ」
八雲さんの言葉を聞いたのを最後に、私の意識は深い微睡みの中に沈んでいった。
「…う、ん」
目覚めた時には、辺りは暗闇に包まれていた。
かなりの時間、意識を失ってしまっていたようだ。
ここに来たときは、夕暮れ時だったはず。
声が聞こえた。
とてもとても、懐かしい感覚。
しかし今回は、はっきりとその声が認識できる。
「早苗、大丈夫かい?」
「大丈夫?早苗」
紫の髪を靡かせながら。
大きな帽子を揺らしながら。
私の前には心配そうに声をかけて下さる、二柱の神様。
山坂と湖の権化、風の神である八坂神奈子様。
土着神の頂点、山の神である洩矢諏訪子様。
あ…。
神奈子様?諏訪子様?
私はなんて事を…。
大好きで、大好きで、本当に大好きで。
どんな人よりも一緒に時間を過ごした二柱の神様。
ごめん…なさい。
無意識に涙が溢れる。
なんでこんなにも大切なお二人を忘れてしまっていたのだろうか。
「早苗、時間が無いから手短に話す、しっかり聞くんだよ。私達、神っていうのは信仰を糧に存在を保っているの。
だけどね、現代の技術進歩により人間は神を信仰する事が無くなった。神を畏れる事が無くなった。それによって招かれる事態は言わなくても分かるよね?
慢性的な信仰不足。
私や諏訪子も神として崇められる存在、信仰不足に陥っているのは私達も例外じゃないのさ」
神奈子様は申し訳なさそうに呟く。
「それでね、私達は存在の危機を感じて彼女、八雲紫に境界を弄ってもらい新たな信仰を求めて幻想郷という新天地に向かう事にしたの」
と諏訪子様は言う。
「もちろん、私達は早苗と一緒にこっちの世界で暮らしたい。だけどね早苗、この世界にいたら私達は消滅してしまう、仕方の無い事なんだ」
神奈子様は悔しそうに、本当に悔しそうに呟く。
涙を流しているのは何故ですか?
「だから、早苗に今までの感謝とさよならを言いに来たの、そうそう、それとね私達の最後のエゴ。感謝の証として、早苗の願いを一つだけ。どんな願いでも叶えてあげる」
と、諏訪子様は寂しそうな表情を浮かべながら。
「早苗、私達はあなたをずっと見守ってきた。去年、早苗が倒れるまでは私達はあなたの認識の中にいた。だから会話も出来たし、早苗は私達の姿を見ることもできた。でも、倒れてからの早苗は私達を認識する事が出来なかったのよ。だから声も聞こえないし、姿も見ることが出来なかった」
認識をされないというのは、存在していても、存在していないというのと同義である。
例えば、空気粒子は目には見えない。
よって、認識の外側にある。
しかし実際、空気粒子は目には見えないだけで、大気中に存在している。
しかし、空気粒子を見ることの出来ない私達、認識をしていない私達はその存在を知る事は出来ない。
「それじゃさよならできないじゃない?」
諏訪子は苦笑する
「そうそう、必死に語りかけようとしたんだけどね」
と神奈子様。
「八雲紫に早苗の夢の境界を弄ってもらって、何度も早苗の夢に入り込んだんだからさ」
まぁ、早苗は気付かなかったけど。
と二柱の神は寂しそうに笑う。
「そろそろだね」
「そうね」
神奈子様、諏訪子様の姿は次第に霞んでいく。
―ねぇ、神奈子様
―ねぇ、諏訪子様
何故、お二人は涙を流しているのですか?
何故、お二人はそんなに勝手なのですか?
いつもいつも私を困らせて…。
でも、それでも!
お二人は私の大好きな神様なんです。
「神奈子様、諏訪子様、いきなり現れてそんなの勝手過ぎます。いい加減にしてください!」
「早苗、我が侭を言わないでおくれ。存在を保つ為には、幻想郷に行く以外に方法がない。仕方が無いんだ」
神奈子は苦笑しながら答える。
「それはお二人の説明で重々承知しています」
「なら尚更…」
二柱の神の言葉を遮って、私は叫ぶ。
「神奈子様、諏訪子様!私のお願い、何でも叶えて下さるんですよね?」
「それなら、私も幻想郷に連れていって下さい」
「…馬鹿を言わないの早苗。早苗にはこっちの生活があるじゃないの」
諏訪子様がため息混じりに答える。
お二人を困らせている事は分かっている、だけどここで退く訳にはいかない。
「神奈子様、諏訪子様。お二人のいない世界なんか、私には耐えられません。一度、お二人を認識出来なくなったけれど、もう忘れる事なんか出来ません。それに、私は巫女です。巫女が神様の傍にいないなんておかしいじゃないですか!」
「それに、だらしないお二人の生活を誰が支えるんですか、お二人の喧嘩を誰が止めるんですか、お二人の…うっ、うぐ」
一度、零れてしまった涙をきっかけに、まるで堰をきったように溢れ出す涙。
暫くの沈黙。
ふぅ…とため息をつく神奈子と諏訪子。
「こうなった時の早苗は私に似て頑固だからねー」
諏訪子は苦笑しながらも、嬉しそうに目を細める。
「全くだ」
と肩を竦める神奈子様。
「早苗、後悔はしないかい?本当にいいのかい?」
「はい!」
一瞬の迷いもなく、私は答える。
その返事の潔さに負けたのだろうか。
「まったく早苗は。よし、早苗の願い受け取った」
二柱の神は目を合わせ、そして手を合わせる。
「東風谷早苗。そなたの願いを叶えよう、私達と一緒に幻想郷へ」
神奈子様と諏訪子様を中心に光が広がる。
眩しい、とても眩しい光。
だけど、その光はお二人のようにとてもとても暖かい。
私達は光に包まれながら、幸せそうに微笑み合う。
暫く経っただろうか。
そこには、池の周りには、気配は無かった。
―さようなら
暫くの後、幻想郷では。
「早苗ー、ご飯ー」
「早苗、肩を揉んでおくれ」
「はーい、分かりました」
苦笑気味、だけど幸せそうな。
本当に幸せそうな、そんな声が境内に響き渡る。
私は澄みわたる青空を見上げる。そこにはまるで私達を祝福するかのように太陽がきらきらと輝いていた。
「戻って、来ましたよ」
「文さん文さん!山の頂上に不審な存在があるのですが!」
「あやや、これはスクープのネタになるわね。椛、あんたもついてきなさい!早速、取材にいくわよ」
山の頂上に不審な存在がやって来た。
哨戒天狗の報告を聞いた天狗の里が、警戒体制に入ったというのは、また別のお話。
完
とにもかくにも、神奈子様と諏訪子と早苗は三人一緒にいなきゃですよね。