<1>
幻想の地にいながら、夢を見ることがあるとすれば。まどろみから覚めるほんの一瞬、それだけが現実なのではないか。
それを聞くと、主人は馬鹿にするように笑って答えた。
亡者が現実を語ること、それこそが夢想である。霊が抱く夢想とは、即ち未練にほかならない。だから貴女は半人前なのよ。
その声は夢か、あるいはただ思い出しただけか。妖夢は目を覚ました。
覚悟していたのは、布団の隙間から入ってくる冷徹な外気だったが。別段寒くもなければ、毛布の温もりも感じない。それどころか、寝ているうちにはだけてしまったのか布団を被ってすらいなかった。
不覚を悔やみつつ起き上がると、何やら身体が酷く浮つく。昨晩の酒が残っているらしい。
鬼と呑み比べをさせるなど、無茶振りにもほどがある。勢いに乗せられた自分にも失点はあったが。
不覚、不覚。どれもこれも不覚。どうせ自分は半人前なのだから。
とはいえ、こなすべき仕事は人一倍ある。身支度を整えるため鏡に向かうと、陽の遮られた薄暗い室内に浮かぶ半霊が映った。
しばし固まる。
いつになく頭の回転が遅い。昨晩の酒に何か混入されたか、はたまた老化現象か判断に迷いつつ、目を凝らして鏡の奥を覗き込む。
丸々とした半霊が透けて、床に敷かれた布団が見えた。人型に膨らんで、枕の側には白髪の頭まで転がっている。
ふと、こうすればいいと気付いて妖夢は振り返った。鏡の中とほぼ同じ光景が広がっている。むしろ鏡を覗くよりはっきりとそれは確認できた。
布団を被せられて仰向けに眠る、白髪の少女。間近にいるというのにやけに現実感が薄いのは、何も寝息がまったく聞こえてこない為だけではあるまい。少女は見知った顔によく似ていた。
というか妖夢だった。
なら、それを見ている私は何だ?
主人の仰るとおり、自分は未熟だ。以前刀で斬られる夢を見て、慌てて起床し腕を捲って確かめた事がある。恥ずかしい話、その時は本気で焦ったものだ。
今回もそうだ。そのうち目覚めて、頭の天辺から四肢の指を二十本まで数え上げてようやく安堵の息をつくはずだ。事の顛末を話して主人にからかわれながら、朝食の支度をするのだ。
「妖夢ー」
聞こえてくる声があった。やや間延びして上品な、主人の声。
どうやら自分は寝坊してしまったらしい。主人に起こしに来られるなんて従者失格だ。誠心誠意お詫びして、おかずを奮発しよう。とっておきの漬け物を出そう。だから早く起きよう。
必死に決心を促すも、目の前で暢気に寝こける自分の身体はいっこうに目覚めようとしない。否、そもそもこの状況こそ夢ならば、目覚めるべきは自分なのか。
頭を抱えて悩もうにも、腕を伸ばす事が出来ない。そもそも自分の頭がどの部分かすら判断つかない。相変わらず半霊の映り込む鏡と、呼び声のする方とを忙しなく見回しているうちに。足音もなく、障子に人影が浮かんだ。
「妖夢ー? まだ寝ているの?」
この姿を見て、主人なら何と言うか。もし慌てふためくような事があれば、これはきっと夢だ。愚にもつかない確信が脳裏によぎる。
それが仇になったか、どう返事をしていいものかわずかに躊躇してしまったその隙に。あっさりと障子が開け放たれる。
その瞬間の幽々子の表情からは、何も読み取ることが出来なかった。
朝日に照らされ、無機質で青白い肌を露にして眠る妖夢と。無気力に漂う半霊を見比べて。彼女が口にした明瞭な一言は、妖夢が受け入れるにはあまりに残酷だった。
「あら。死んでる」
<2>
「あー、こりゃもう駄目ね。手遅れ」
兎はそう言うと、それこそ匙を投げるような仕草をしてみせた。
亡霊がしばしば夜更けの地上を徘徊するのに比べ、人間が冥界へ足を踏み入れる事はあまりない。それは、二つの世を阻む結界が失われてからも変わらない。せいぜい春に花見の席として開放する程度である。
転生を待つ亡霊たちが、地上に思いを馳せるように。冥界の華やかな様子を生者が知れば、現世への執着を失いかねないのだ。
特にここ、冥界の管理を担う白玉楼への立ち入りは厳重に取り締まっている。取り締まっている当人が言うのだから、間違いなく。
ゆえに、本来なられっきとした生者であるこの妖怪兎―――名前は確か鈴仙だかうどんだか―――は、屋敷の住人に招かれた正式な客人だった。
その彼女に向かって、妖夢は力一杯の絶叫をあげる。
「どぉぉぉゆぅぅぅことですかぁぁぁ!?」
「え、えーと」
長く垂れた耳を掻きながら、鈴仙は言葉を濁す。彼女の赤い瞳の奥には、何とも迫力のない半透明の物体が漂っていた。
誰に言われるまでもなくわかっている。人生のおよそ全てを共に過ごしてきた自分の半身。妖夢は今その霊体を通して鈴仙と向き合っていた。
そして、もう半身……妖夢の肉体の方はと言えば、未だ寝床に就いたままだった。
ただし、寝息もなければ体温すら感じられない。人形のように白けた自分の表情は、鏡で見るのとは明らかに印象が違う。そもそも鏡の中の自分は常に目を開いていたが。
何かに思い至ったように、鈴仙が顔を上げる。寝床の妖夢を診ていた彼女は半霊(私だ)に向き直ると、おざなりに掌を合わせた。
「お悔やみ申し上げます……って、死んだ本人に言うものだっけ?」
「知りませんけど果てしなく!?」
妖夢の自室は、朝目覚めて愕然とした時とほとんど変わていない。
というより、時間すらたいして経ってはいなかった。慣れない身体で慌てふためく妖夢をよそに、死体を前にした幽々子は頬に手を当てて言った。お医者を呼ばないと。
知り得る限り最も優秀な医者へ遣いを出した。ほどなくして連れてこられたのがこの兎だった。いわく、蓬莱人が冥界に踏み入るのを亡霊のお嬢さまは良しとしないでしょう、と言われて。
霊の溜まり場に初めはおののいていた鈴仙だったが、遺体を前にして覚めてしまったらしい。診断は殊更早かった。
死亡の原因に心当たりがあるからかも知れない。彼女も昨晩の宴会に参加していた一人だった。
「すごいわね。アルコール中毒死なんて、幻想郷で初めてなんじゃない?」
「……笑顔でそんなこと言ってると、大概地獄に堕ちますよ」
恨めしく呻く。
妖夢自身信じられなかった。得意でないとはいえ、それなりに楽しく呑む努力はしてきた。
だのに、巫女や魔法使いの水のような、鬼にいたっては霞のような鯨飲ぶりに、少しばかり張り合っただけこの結末か。言いようのない後悔が胸(半透明だが)を締める。
妖夢が酒に呑まれて意識を失う寸前、鈴仙も周囲にいた筈だ。颯爽と一気コールを飛ばしていた事は覚えていないのか、今の彼女は冷静を気取って何やら呟いている。
「半人間だからアルコール許容量も常人の半分しかないのかな……ねぇ、ちょっとこの書類にサインしてくれないかしら?」
「あからさまに遺体提供だの解剖だの書いてあるじゃない!」
霊体の尾に当たる細い部位で、鈴仙の手から紙束と筆記具をはたき落とす。冗談なのにと口をすぼめる兎に、妖夢はさらに尾をひらひらと振ってみせた。
「だいたい、こんな身体で筆が握れるわけないでしょう」
「なんか気合い入れたら先端が五本とかに分かれるんじゃ」
無視。天才の弟子でも兎は兎らしい。あの宇宙人ほど意味不明なことは言わないまでも、役に立たないのであれば呼んだ意味はなかった。
もとが半人半霊だから、というわけでもないだろうが。自分の死は衝撃的でこそあれ、失意はだいぶ和らいでいた。考えてみれば、生きながら冥界に住んでいる事の方が不自然だったのだ。
時刻はまだ昼を回っていない。日課の稽古は省くとしても、滞っている家事は山ほどあった。大体、まだ朝食の支度にも手をつけていないというのに……
熱を感じない筈の霊体が、尾の先から頭まで冷えあがる。脳裏によぎるのは、先ほどから姿を見せない主人の顔だった。
「ゆ、ゆゆゆ幽々子さま!幽々子さまは!?」
「……何回ゆって言ったでしょーか?」
「違う!早くお食事をお出ししなければ……!」
やる気をなくして呆けている鈴仙の頭を叩きつつ、妖夢が慌てふためいていると。
「そんな身体で台所に立てると思っているの? 妖夢」
声と共に障子が開く。
顎があれば、恐らく外れるほど開いていただろう。現れた幽々子は、頭巾に割烹着という出で立ちで、かつ口元に米粒をつけたまま佇んでいた。
震える声をかろうじて搾り出して、妖夢は尋ねる。
「ゆ、幽々子さま。そのお姿は……?」
「家の事をするのだから、当然でしょう」
米粒を指でつまみ口に含む仕草まであくまで優雅に、幽々子は平然と言う。
「ちなみに今朝はゴンベッサの切り身を白味噌で煮てみましたわ」
「おいしそう……」
呟く鈴仙には構わず、妖夢は身体を縮こませて床に伏せた。出来る限り土下座の態勢に見えるよう努めながら、
「申し訳ありません!すぐに仕事に取りかかります、なにとぞお許しを……!」
「お掃除もお洗濯も庭のお手入れも、もう済ませました」
弁明をぴしゃりと黙らせて、幽々子。
「言ったでしょう、その身体であなたに何が出来るというの」
淡白な言葉の一つ一つが、呪いのように心の臓を締め付ける。もはや喘ぐことすら出来ず、妖夢はその場に固まった。
人の身であろうと霊体であろうと関係ない。彼女の前に自分は無力だ。乞う命もとうになく、どのような罰であれ受ける覚悟はあった。
ただ、違和感が頭をよぎる。初春のように朗らかで、生者のごとく振舞う幽々子の、いつになく冷たく突き放すような眼差し。まるで亡霊のような……というのは間違いではないのだろうが。
冥界の嬢は顔色ひとつ変えるでもなく告げた。
「妖夢。あなたを解雇します」
死刑宣告。
ふと浮かんだ冗談に、笑う事も出来ない。掠れた声で妖夢は問い返す。
「幽々子さま?」
「鋏も握れない庭師に用はありません。荷物をまとめて即刻、白玉楼から出ていきなさい」
「幽々子さま……?」
「ご苦労さまでした。達者でね」
それだけ言うと、幽々子は足音さえ残さず部屋から立ち去っていった。
再び、二人だけが残される。鈴仙は目を点にしたまま微動だにしない。何ら関わりのない彼女は、話の半分すら聞いていなかったのではないか。そう思う、そうであって欲しいと願いすらする。
自分はまだ夢の続きを見ているのだ。この白髪の少女の遺体のように、目覚めることなく。たとえ覚めなくとも、夢だとさえ信じられれば救いはある。
ただ……痛みを感じないこの身体では、これを夢と確かめる術もなかった。
いつの間にか、部屋の外の景色はほの暗く曇っていた。雪のちらつく気配を、肌でというわけでもなく感じる。永い生活の痕跡が刻まれている筈の彼女の部屋は、うっすらと陰が差し、見慣れぬ灰色に塗りつぶされていた。
<3>
「んで、どうしてひとんちに集まってくるわけよ?」
博麗の巫女はあからさまに機嫌を損ねていたが、客人を追い返しまではしなかった。大晦日をひかえての掃除に明け暮れ、退屈していたせいもあるのだろう。風の強い日が続いていたそうで、閑散とした境内は決して片付いているとは言えなかったが。
「考えるに、なんかそういうフェロモンでも撒いてるんじゃないか。この神社」
縁側に腰掛けながら魔法使いが答えるが、彼女の場合は明らかに両手を塞ぐ湯呑みとお茶受けが目当てらしかった。帽子と箒をそこらに放ったまま、勝手知ったると言わんばかりにくつろぎきっている。家の大掃除がひと段落ついたから遊びに来たというが、その程も知れたものではない。
魔理沙の仮説をおおげさな溜息で一蹴する霊夢。戸の開け放たれた部屋の卓袱台に、気だるげに頬杖をついている。彼女と向かい合って座る銀髪の女が、今度は声を上げた。
「ね、だから役に立つと思うのよ。これでも鼠捕りには定評あるんだから。一貫九百からでどう?」
「どうとか言われても。ていうかあんたそんな副業やってんの?」
「ちょっとしたお小遣い稼ぎですわ」
陽は正午よりもやや傾き、紅魔館の主は熟睡している頃なのだろう。館中の掃除を終えて暇を持て余していたというメイドだったが、何故こんな寂れた神社でくつろいでいるのかと言えば。
「せめて無駄足は踏みたくないもの。あの辻斬り娘が面白い事になってるから、って連れてこられたかと思えば……」
「まぁ確かに、外見的にはいつもの半分になっただけだったな。つまらん」
咲夜と魔理沙が揃って視線を向けた部屋の隅に、妖夢はいた。
尾を巻いてうずくまり、涙も出なければ眼さえないまま泣き腫らしていたが。あまりに相手にされないのでいい加減泣きやみ、所在なくしていたところだった。
頭を上げ、心ない眼差しの二人へ非難を口にする。
「どうしてそう薄情ですかあなたらは? 死んだんですよ、私!」
「前から半分死んでたじゃない。まぁ、驚きも半分ってところだったけどね」
妖夢の意気をあっさりと挫く霊夢。言う割に、妖夢の姿を見た時でさえ大して狼狽えもしなかったが。
絶望にくれながら冥界を後にし、彷徨の果てに辿り着いたのがこの場所だった。霊体の成りをした妖夢に霊夢が気づいたのは、ひとえに目印があったためだ。
妖夢の胴に紐で括りつけられたニ差しの刀、楼観剣と白楼剣。元を辿れば西行寺家の所有物であるうえ、今となっては鞘から抜く事さえ叶わないが。どうしても肌身離す気になれず、鈴仙に手伝わせて持ち出したのだった。
湯呑みを空にした魔理沙が、寝転がるような態勢でこちらに向き直る。両手の人差し指を並べ立てて、
「その身体はもともと半霊だったんだよな。お前、それでそっくりの分身作ってたじゃないか。それをやればいい」
巫女に泣きつき事情を説明していたところへ、申し合わせたように現れたのがこの彼女だった。すぐさま帰ったと思えば、大きな荷物を伴って再び訪ねてきた。曰く、誰かが面白い事になっているから、だそうだが。
魔法使いもメイドも、妖夢を見た反応は霊夢と大差ないものだった。メイドの方が幾分か同情してくれたのが気にはなったが。
「待って。それって確かスペルカードの効果だったわよね? 刀も振れないって言うんだから、あなた……」
咲夜は神妙に呟くと、続きをこちらへと投げかけてきた。妖夢は頷き答える。
「……試しはしました。けど、カードを所有していたのは半人の私でしたし、仮に発動出来たとしても模する肉体がなければ意味はない。カードはすべて副葬品として置いてきました。火葬の手続きは済んでいます」
「なんだ。なら残された道はひとつだな」
立てていた人差し指の一本だけをくるくると回し、魔理沙はそれを天井へ向けて伸ばした。ついでに口の端を皮肉げに歪め、
「その姿が不便なら、さっさと転生しちまえばいい。蚯蚓になろうとオケラになろうと、良い事あれば生きていけるだろ」
「気楽な。そりゃあなたは茸にでも生まれ変われれば本望でしょうけど」
「いや。十中八九地獄逝きだから、こいつ」
魔理沙の軽口を聞き咎めたのは、咲夜と霊夢だった(後者は少し違う気もしたが)。しかし、
「……羨ましいよ。人生を初めからやり直せるなんてさ」
態度を改めはしなかったが、彼女の声色が僅かばかり低くくぐもったように聞こえた。それはひょっとすれば、独り言のなり損ないだったのかも知れない。
何となく妖夢は返す言葉に貧したが、代わりに言葉を紡いだのは霊夢だった。背筋を更に曲げて卓上に突っ伏し、妖夢を睨む。
「何でもいいから早く出てってよ。神社に取り憑く幽霊なんて御免だわ。やりたいようにやればいいじゃない。あの亡霊に泣きつくにしろ閻魔に泣きつくにしろ、あんたの勝手でしょ」
「それは、そうだけど……」
そうだった。
思い抱かなかったわけではない。ただ、深く考える事を躊躇ってしまっていた。
長く仕え、また更に長く仕える事になる筈だった主からの、唐突すぎる追放命令。流されるままに、こうして漂ってきてしまったが。去る彼女に追い縋る事は、本当に出来なかったのか。
出来なかった……筈だ。軽蔑を避けたのではない。彼女の本心を追求するのが怖かった。かといって転生にも躊躇い進退窮まった結果が、こんな哀れな有様だというのに。
「……冥界へ戻りましょう」
一瞬、自分が発言したものと思った。霊夢と魔理沙も同様に驚いたらしい、三人はそろってメイドを見返した。
この中では比較的大人びた貫禄を持ち、今一つ思考の読み取れない彼女だったが。わかる、咲夜の言葉の節々に、小さな高ぶりが感じられた。
「あの亡霊嬢と話を付けるのよ。私も同伴するわ」
「ほ、本当ですか?」
思わず声が裏返る。彼女の後押しが得られるのは、正直なところ非常に心強かった。
咲夜が差し出した手の意図に遅れて気付き、妖夢は慌てて尾を伸ばした。それを握って同意が成立すると、咲夜は満足げに頷いてみせた。
「一緒に、労働者の何たるかを思い知らせてやりましょう」
「は……い?」
不穏な言葉を聞いて尾を引き戻しかけるも、咲夜の手に堅く掴まれて離れない。メイドはあくまで意気揚々と語る。
「まったく不当解雇も甚だしいわ。同じ雇用者の立場として見過ごせません。大丈夫、泣き寝入りなんてさせないわ。しっかり直訴して、がっつり退職金ふんだくるのよ」
「あんただって無給でしょーに」
「うちはライフイズサラリーの契約なの」
おざなりに指摘する霊夢に、咲夜はしれっと答える。
ようやく妖夢は、メイドが曲解どころではない勘違いをしていると気づき、なかば悲鳴にも似た声をあげた。
「いや、別にそんな生々しい不満はないですから!冥界は治外法権ですから!」
「あら、知らないの?」
妖夢の拒絶をそよ風のように無視して、ふと咲夜は巫女と魔法使いをそれぞれ一瞥した。
異変解決などという酔狂にちょくちょく出張っている事で有名な三馬鹿人間。彼女らだけに通じるものがあるのかどうかは、果たして知れないが。
霊夢と魔理沙が揃って苦笑するのを見て妖夢は、ついこの間も、三人が暫く姿を見せなくなった事があったのを思い出した。
「最近じゃあ、月でだって通用するようになったルールがあるのよ」
<4>
季節が傾けば、色鮮やかに咲き誇っていた桜など見る影もない。ただしその代わりに空を染めるのは、決して無色透明ではない。暖かな風に呼び覚まされ芽吹いた生命は、老いていく過程の中で極彩色に移り変わる。たとえ色素までが枯れ、土の下に還る時が来たとしても。新たに芽吹く色がある。
冥界の景色もまた、その理に従順だった。白靄の空からちらつく雪は緩やかに積もり、ここが地上より標高の高い場所であると改めて気付く。
枯れ木の立ち並ぶ階段をつたい、下ってくる人影を見つけた。彼女もまたこちらを見て、首を傾げる。
「まぁ。なんとも玉のような幽霊ですこと」
「紫さまー!」
すぐさま、妖夢は絶叫した。
あくまで浮遊したまま、全力で段差を駆け上がる。大妖怪の眼前で制止したはいいが、人間であった頃の性か、息苦しさにうずくまってしまう。
紫は何も言わず待ってくれた。差した傘の柄を指先で弄びながら、超然たる微笑で見つめてくる。
ようやく落ち着きを取り戻して、妖夢は顔を上げた。紫の身体に負傷が見られないことに安堵して、
「よかった、『幻労会』には遭遇しなかったのですね」
「仰りたいことがわかりませんけれど。失礼ですがどちら様でしょう?」
まじまじと凝視してくる妖夢に引きつつ、紫が尋ねてくる。自分の今のなりを思い出して、妖夢は背負った二差しの刀が相手に見えるようわずかに身をよじった。
「申し訳ありません。私です、はく……元白玉楼庭師の魂魄 妖夢です。やむない事情により、その、死んでしまいまして」
「知っていますよ。私は白玉楼から帰るところなのですから」
「はぁ……って、そうなのですか!?」
言われてみればと妖夢は、紫とその背後に連なる階段の向こうとを見比べた。
妖怪の賢者である彼女と西行寺家の令嬢が、それなりに旧知の間柄だというのは聞き及んでいる。それについて詮索する事ははばかまれ、またどうせ理解出来るものではないと思っていたが。
紫はどうしてここへ? 幽々子が自分の事を話したのか?
「あの、幽々子さまは……」
妖夢のふさぎがちな声に先んじて、紫が疑問を被せてくる。
「ところで慌てていたようだけれど。『幻労会』というのは何かしら?」
「え、あ、はい。『幻想郷における女性労働者の地位向上を弾幕的に訴える会』の略だそうです。白玉楼の方にその……三馬鹿っぽいものが向かった筈なのですが、見ませんでしたか?」
「見ましたよ。何やら三馬鹿っぽく飛んでいきました。いやはや暢気なものねぇ」
紫はくすくすと含みを持たせて笑う。と、遠くから響く轟音が辺りの木々を揺らした。
白玉楼の方角から空へと煙が上がるのを、妖夢は呆然と眺める。紫はまだ笑みを絶やさなかった。
「放っておいても、あの娘にはいい気分転換にしかならないでしょう」
「ゆ、幽々子さまー!?」
「落ち着きなさいな、妖夢」
憔悴し飛び出そうとする妖夢だったが、紫に窘められた。尾を踏み抜かれ、その拍子で段差にへばりつく。それで痛みを感じるわけではなかったものの、妖夢は不満を露わに(伝わったかは知れないが)紫を睨んだ。
「何をするんですか!」
靴底の除けられた尾を振り乱すが、届かない。紫は宙に浮いたかと思えば、空中に開いた"スキマ"へ颯爽と腰掛けた。距離をおいたまま見下ろしてくる。
「あなたは何をしたいの?」
おうむ返しに問い質され、妖夢は言葉に詰まる。紫はなおも畳みかけてきた。
「剣を持ち腐らせた剣士。霊たるその身も斬れなければ、迷いを断つ事さえ叶わない。さて、あなたに何が出来るのでしょう?」
「……わかりませんよ」
起き上がる事を諦めて、妖夢は呻いた。
霊の身体に、彼方で繰り広げられる弾幕合戦の余波が石段を通して伝わってくる。三馬鹿には申し訳なかったが、彼女らに幽々子が負ける姿が想像出来なかった。弾幕勝負なら対等、そんなお遊戯の取り決めには何の意味もない。彼女は決して負けない。
その傍に自分が仕えている事に、疑問を抱き始めたのは。彼女が現れてからだった!
「私はあなたらとは違うから」
抑える努力はした。しかし声は否応なく大きく、荒んでいく。
「どうせ私は、ただの召し使いだから……」
魂が、その本質によって形を歪めるのなら。今の自分はなんと醜悪に身を窶している事だろう。
妬いているのだ。敵う筈がないとも、だからといって諦めなどつけようもないともわかっていた。そのうえで触れられずにいたのなら、抑えようもあっただろう。とうの幽々子本人から役立たずの烙印を押され追放されてしまえば、そんな煩悶もただの笑い話でしかなった。
西行寺 幽々子と八雲 紫。彼女たちにしか見えないものがある。それが悔しい。
哄笑が霊体の表面を逆立てる。見上げれば、大妖怪は腹を抱えて身を仰け反らせていた。笑わば笑えと、妖夢は沈黙を決め込む。
目尻の涙を拭ってようやく気の済んだらしい紫は、緩やかにその高度を下げつつあった。
「あぁ愚かしい、愚かしい。うちの式神にも見習わせてあげたいわ」
「…………」
「でも、これではあまりに幽々子が可哀想ね」
決着がついたのかは知れないが。いつの間にか、弾幕の木霊は止んでいた。
その代わり、灰空を覆う雪は濃さを増してきたようだった。紫は妖夢のすぐ傍に着地すると、自然な動作で腕を伸ばしてきた。頭上に積もった雪を、拒む隙さえなく払い除けられる。
ちょうど相手の傘の下に入る位置にいる事を察して、妖夢は今度こそ階下へと後ずさった。ただ、このまま彼女の言葉に耳を貸さず引き返す選択もあると理解しながら。そうはしなかった。
「あの娘があなたを蔑ろにした事があって? 私にはむしろ、いつもあなたを気にかけていたように思うけれど」
「……そんな取り澄ましたような事が聞きたいんじゃありません」
何故なら。
この二人が友人であるのは、どうしたって認める他ないのだから。妖夢は躊躇わなかった。
「幽々子さまはあなたに何を話したのですか?」
「それは教えてあげません。でも、わかるでしょう?」
はぐらかされた……とは思わなかった。彼女は決して答えを与えてはくれない。だから、考えろと言っている。
巫女は教えてくれた。限られた道の中から選ぶしかない事を。魔法使いは代償を承知したうえで変わる事を望み、メイドはつけるべきケジメに立ち向かった。あの兎にまで、結局は自分の問題でしかない事を思い知らされた。私のするべき事なんて、私にしか決めようがなかったのに!
「紫さまっ」
妖夢は声を上げた。やや大仰過ぎたかも知れないが、紫は別段驚くわけでもなく聞き返してきた。
「なぁに?」
「お世話になりました!」
身体をくねらせて紫を避け、その横をすり抜ける。
「お達者で」
おざなりに手を振る紫の表情までは、確かめる事が出来なかった。身体を細く引き伸ばし、段差のすれすれを全速力で滑空する。いつもより速く過ぎる景色に目をくれず、降りしきる雪のベールを突き破り、目指す白玉楼との距離を瞬く間に縮めていく。
半分生きていた頃に比べ、段違いに身軽な身体。不便な姿だと決めつけて、嘆いてばかりいたが。
三馬鹿たちはまだ帰ってこない。かといって弾幕の衝撃も閃光も止んだきりだ。急がなければならない。幽々子はきっと、負けてしまっただろうから。
<5>
『幻想郷における女性労働者のなんとやら会』略して『幻労会』の構成員らが放った合体弾幕『夜霧の幻影ファイナル封印 瞬』は、白玉楼の二百由旬ある敷地のおよそ半分に到るまでに抜群の壊滅的被害をもたらしていた。
ターゲットと共に当初の目的までを見失い、庭の桜並木の前で立ち往生していた三馬鹿を怒り心頭で冥界から追い出したのち。妖夢は一息つく間もなく群がる亡霊の野次馬を除けて、白玉楼の屋内へと侵入した。ただし玄関は崩れた建材で塞がれていた為、中庭を目指して建物を飛び越える。
そして絶句した。
白波の連なる風靡な枯山水は見る影もなく、抉れて露出した地面や焼けた岩肌からは今も硝煙を上げていた。熱気が篭っているせいか、敷地一帯に雪は降ってこない。薙がれた木々が屋敷の屋根に突き刺さっているのでわかる通り、被爆地外への余波も半端ではないらしい。少女らに悪意あったわけではないと自身に言い聞かせるのも、この地獄絵図を見せられるまでだった。
必ず申告しよう。いつかあの三人を地獄へ堕としてもらえるよう。けれど、その前に。
西行寺家の令嬢はその生涯から死後にかけて、おそらく最もみっともない姿で焦土に転がっていた。
白石や橋の残骸に埋もれて、意識があるか遠目からでは判別つかないが。光弾で象られた蝶が頭上で右往左往している。掘り起こしたいのかも知れない。
瓦礫の隙間をすり抜け彼女の元へ近寄りながら、妖夢は呼びかけた。
「幽々子さまー。生きてますか?」
と。
「……あなたも言うようになったわね」
幽々子はそう答えると、残骸を跳ね除けてあっさりと上体を起こした。けほ、と一つ咳をする。衣装はところどころ焼け焦げ、髪の跳ねた頭には帽子の一部だったであろう布切れしか残っていない。それを毟り取ってそこらへ捨てると、幽々子は頬を膨らませて愚痴を漏らした。
「お庭を見ていたらいきなり空が光るんだもの。太陽の民が地球侵略に来たかと思ったわ」
「もうちょっと差し迫った危険を想定しましょうよ……」
実際、これだけの被害を受けた屋敷の中にいてなお余裕を取り済ましていられるのは、彼女くらいだろう。妖夢はひとまず安堵すると、改めてその位置から周囲を見渡した。かつては自分が手入れをしていた庭園だが。これは業者を挟まなければ元通りにはなるまい。それは建物の方も同様だった。呟く。
「……酷いものですね」
「仕方ないわ、どうせ手に余る土地だったもの。この際もっと小さなお家に引っ越そうかしら」
彼女があくまで悠然を気取っているため、妖夢は気付かない事にした。嬢の目元が、ほのかに赤いのを。まさかあの三馬鹿のせいだとは思わないが。
「隠居にもちょっと憧れてたのよね。この郷の何処に行ったって大概賑やかなんだし、自分の家くらいひっそりとした所に建てるのも悪くないわ」
「西行妖は手放すのですか?」
「それなのよねぇ。私が引越ししたら、自分で根っこ引き抜いてついてきてくれないかしら」
「いや、なんかそれ冗談っぽくないですから」
西行妖が二本足で歩く様を想像し、妖夢は苦々しく笑った。たとえ冗談で済んだとしても、そうと決めれば彼女はあの妖怪桜を手放すだろう。
それが変わるという事だ。何かを得る代わりに何かを失う。冬が終わる代わりに、新たな春が訪れる。ただそれが、今までと同じものだなんてどうして言える?
季節は巡らない。失われたものは戻らない。それはとても悲しい事だと思うけれど。
「幽々子さま」
あなたがそう望むなら、私は変わろう。妖夢は意を決して告白した。
「私は三途の川を渡ろうと思います。いち霊魂として裁きを受け、転生を請願するつもりです」
「そう。わざわざそれを言いに?」
幽々子は聞きながら、跳ねた髪を手櫛で整えているせいで滑稽に首を傾げていた。妖夢も手伝いたかったが、今更思い出すまでもなく、自分の今のなりは心得ている。どちらにせよ手鏡なども無いため、幽々子はすぐに諦めてこちらへと向き直った。
「四季裁判長はバカ真面目な人だから。あなたも普段どおりバカ真面目にしていればいいわ」
「心得ます」
「もし虻蚊になっても私を刺しには来ないでね」
「言いつけであれば」
「刀は置いていきなさい。どうせ川に沈んでしまうから」
「わかりました」
妖夢の背中から、幽々子は刀を二本いっぺんに引き抜いた。その拍子で身体を括っていた紐も緩んで落ちる。自分が自分で無くなる瞬間が、あっさりと終わってしまう。全てを失う事は恐ろしくこそあれ、存外に苦痛ではなかった。とはいえ、彼女に見限られる事でもなければ、決して選べなかっただろう。そうして、手に入れるものがある。
幽々子は刀を傍に置くと、暫く考える様子をしていたが。やがて妖夢を見やり、微笑んだ。
「……あとは、そうね、もうないわ。さようなら妖夢。気をつけてね」
「はい。ありがとうございます……さようなら」
何も気付かない事にする。
あとはもう振り返る事なく、妖夢は白玉楼を後にした。転生を許されればまた暫くは冥界住まいだろうが、少なくともここの敷居を跨ぐ事は、もうない。
誰と遭遇することもなく階段を下り幽明結界を、ひいては現世を目指す。空は未だ曇ってこそいたものの、もうこちらの世界に雪はちらついていなかった。
大地を覆う白銀の名残もやがては陽気に溶かされ、季節の妖精が鳴く頃には、冬の面影など緑の息吹の前に忘れ去られてしまうだろう。失われるものは多い。同じものなど二度と生まれない。
それでも新しく訪れるのが、輝ける春だと信じて。私は生きる。
<6>
幽霊は柳の下に立っているというけれど。
私としては幽霊などより怖いものは沢山あった。道場の先生はその最たるものだったし、近所の猛獣は昔飼い主が首輪を繋ぎ忘れて以来、私を目の仇にしている。加えて、妖怪が歩いているのを見かけたら必ず遠回りを心がけるようにしていた。
いつだったかは忘れたが。家の屋根裏に潜む怪異の正体が鼠の親子だと暴いたのがきっかけだったと思う。
人間なのだから。怨霊だの呪いだのよりもっと別の、骨身のある恐怖に怯えているべきだ。怯えて、いつも気にかけていれば、いつかは立ち向かえるようになる筈だから。
私は急ぐでもなく、家路へと向かっていた。背に担いだ竹刀が地面を擦らないよう、たびたび持ち替える。紐を調節しようと思いながら、いつも玄関の隅に置いて忘れてしまうのだ。
おまけに寺子屋の宿題がまだ残っている。そちらが優先だ。ただ、したくも無い用事が待っていると思うと、どうにも足取りは重くなる。あぁ、怖い怖い。
と。
そよ風に乗って、桃色の吹雪の一片が鼻先を通り過ぎた。
思わず顔を引いて立ち止まる。はて、桜なんて今朝まで咲いてたかしら?
春と呼ぶにはまだ寒く、記憶の何処にも華やか景色などなかったけれど、実際に視界に映るのだから仕方ない。果たして薄紅の花を枝垂らせた巨木は、帰り道から逸れた路地の最中に聳えていた。
私は無様にも口をあんぐりと開けてしまった。こんな見事な桜、生涯(たった十数年だが)で一度だって見た事がなかった。里の住宅地にいつの間にか生えているなんて、いかにも奇妙だとは思いつつも、つい見惚れてしまう。
それどころか、いま目に焼き付けておかなければ、きっと死ぬまで見納めだと。そんな気にさえなった。
仰いでもまだ視界に収まりきらない入道雲のような天辺から、花びらの落ちる流れを視線で追う。そして、垂れ下がる枝を従えるように太く構えた幹の傍に、彼女を見つけた。
足はある。ただし地には着いておらず、着物に隠れた両腕ともども気だるげにぶらさげている。肌はいかにも白かったが、湛える笑顔はむしろ健やかで、穏やかで……
軽い物音で我にかえる。竹刀袋が肩からずり落ちてしまったらしい。砂汚れを気にして慌てて拾い上げ、ふと見ると、桜は何処にも咲いていなかった。
白昼夢? ……いや。ついでに摘み上げた花びらを、私は袖の下に閉まう。
きっとあの女の人も、お化け桜も、私が驚かないからがっかりして帰ってしまったのだ。仕方がないじゃない? だって、本当に怖くはなかったのだから。
竹刀袋を担ぎ直して、まるで何事もなかったように私は再び帰路へついた。それにしても、私の白髪も珍しいけれど、桜色の髪だって滅多にないわよね、なんて呟きながら。
<おしまい>
妖忌のじさまはついに会いに来なかったですか、彼らしいかも。
しかしやっぱり最後は切ないなぁ、うん。