橙が散歩に出ると、通り道に猫が死んでいた。
見知った野良である。
猫の死因は、
(どうでもいいけど……)
と問題にならない。
大事といえば場所であった。
「ここは見えすぎるし、低すぎるよ」
橙は死体を拾うと、軽やかに地を駆った。
妖怪山の中腹まで来ると、
「止まれ」
白狼天狗が現れて刀を抜いた。
「ここから先は我々のテリトリーよ。何のご用?」
橙は服の中に死体を隠した。
「秘密の用事だよ」
「あっそ。じゃあ通さない」
「どうしてよ」
「そりゃ……よそ者や猫は嫌いだもの」
守るべき決まりというものは、どこにもあるらしい。
橙は自分の腹部へ声をかけた。
「ねえ。この辺でいい?」
返事はない。
(悪いけど、騙して通ろう)
橙は青空を指さして叫んだ。
「あっ、ユーフォー!」
ぴくりとも気が逸れない。
白狼天狗は哀れむような目をしていた。
(ちくしょう)
騙すことは諦めた。
「弾幕勝負!」
「最初からそうしなさい」
二匹は空へと跳んだ。
死体を抱いて動きの悪い橙に、白狼天狗は妙にあっさりと敗北し、
「適当なところで引き返すのよ」
言って、ひらひらと手を振った。
橙は地に降り、また山の中を上へと駆けた。
ドロドロと滝の轟く音が聴こえて、橙は加速した。
暗い山中。土を岩を、蹴っ跳んで進んだ。
滝のふもとに辿り着いて、
(この上まで行こう)
見上げると、黒い影が降ってきた。甲高い声が、轟音をすり抜けるようにして耳に届く。
「猫の訃報なんて記事にしても、二人くらいしか読まないわ」
かっ。
と下駄を鳴らして、鴉天狗が降り立った。
「お久しぶり」
「うに……?」
「変な顔しないで。私は射命丸文。前に取材したでしょ」
「あったような、なかったようにゃ」
「猫脳はこれだから」
射命丸はくすりと笑った。
「困るのよね……あなたを痛い目にあわせると、狐の祟りがあるから」
「きっともう少しだから、通してよ」
「だめ。マタタビあげるから聞き分けて」
「むう……」
橙はようやく思い出していた。
(そうだ。変な写真撮られたー!)
その時の記事は、藍が三部ほど取って保存している。
「別にいいけど。喋り方変わった?」
「必要なら下手に出ますよ」
「不必要」
「ふむ……」
互いに沈黙した。
さすがに、
(こいつ……藍さまとどっちが強いかな?)
という程度に、力量の差を感じていた。
今、勝ち目のない戦いをして遊ぶ気にもなれなかった。
(仕方ない。諦めよう)
と思い始めた時である。
「通してあげてもいいけど……」
射命丸が条件を出した。
「目玉を頂戴」
「へっ?」
「猫の目玉は大好きなの。きらきらして、夜でも光る宝石みたい。特にあなたのは」
「えへへ」
「目玉をくれるのね?」
橙は言葉に詰まった。
橙は光を失った。
両目を差し出すと、
「目も見えない猫二匹、どこへ行こうと誰も咎めやしないわ」
と言って目玉を取り、射命丸は飛び去ったようだった。
橙は匂いと勘を頼りに、手探りで上へ向かっている。
「猫二匹だってさ」
「……」
「あははっ。おかしいよね。こんな化け猫と、返事もしない死体だもん」
橙の声はか細く、闇へ溶けた。
この闇は、返事をした。
「何が悪いか」
橙はびくりと身をすくめ、危うく死体を落としかけた。
「気を付けてよ」
また、死体から声がする。
「あれ? 生きてたの?」
「死んでるよ」
「でも……」
「いいじゃない。何が悪いのよ」
橙は少し考えたが、
(まあいいや)
仕方なく納得した。
「そうそう。それでですね」
「……」
「こんな死体の私を、どこへ連れて行くつもり?」
「猫の楽園」
「どこにあるの?」
「知らない」
「えー」
「猫ならみんな知ってることだよ」
「猫にも色々なんですよ」
「えっとね。死期が来れば、猫はできるだけ高い場所に行くの。それで、誰にも見つからないようにして時を待たなきゃいけないの」
「ふむふむ」
「そうしないと、綿の国で生まれ変われない」
「わた?」
「綿の国。星の高さにある、綿雲の中にある国だよ」
しばらく声が止んだ。
闇の中、橙は上へと這い続けた。
「なるほど。猫の天界」
声が、納得したらしく言った。
「それで猫の死体……あやや、私を。そこへ連れて行ってくれようと?」
「うん」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
橙の声が、いくらか投げやりになっていた。
(いいけどね。私だって、なんでこんなことしてるんだか……)
理解できなくなっていた。
「言っとくけど、迷信だよ」
返事はなかった。
よほど高いところまで来たのだろう。
風が強く唸っている。匂いを嗅ぐと、鼻の奥が冷たくなった。
「ここで、着いたのですか?」
「わからない」
橙はゆっくりと歩を進めた。
しばらく行くと、ふと、別の声がした。
「穢れを持ち込まないでよ。私の神社に」
地底を響くような声音である。
橙は足を止めて呟いた。
「誰?」
「洩矢諏訪子……」
と応えたのは、死体からする甲高い声だった。
「通して頂けませんか?」
「どうして」
「理由は……ちょっと私の口からは言えませんねえ」
「じゃ、諦めて帰りな。うちの般若が聞けば、まとめて鍋の具にされるところだよ」
「ハンにゃ?」
橙が聞き返した。
「うむ。般若とは怒り狂った女の顔さ。ここには、さなえという名の鬼女がいてな……」
産まれた時から角と牙が生えていたらしい。
足音がして、
「諏訪子さま? 今晩のおかずはカエルの唐揚げでいいですね?」
と言うのが聞こえた。
その鬼が現れたのかもしれない。
気まぐれで始めたことだった。
綿の国を目指して登り続ける内に、
(なんとなく……)
後に引けなくなり、感じるままに歩いてきただけであった。
(もう疲れたし、帰ろっかな)
と思い始めた頃である。
近くに足音がした。
「要は、その猫を成仏させてやりたいんだろ」
諏訪子の声である。鬼の説教が終わったらしい。
「綿の国とやらへ案内するよ」
「えっ?」
「猫党の般若に感謝するんだね」
橙が腹に抱えていた死体が、ばたばたと暴れ出した。
思わず地に落とすと、
「私だよ」
と声を発した。
「諏訪子さま?」
「うん」
「きゃー、かわいい! もうずっと諏訪のチビ猫さまで良くないですか?」
「さなえ、うるさい」
どうやら、猫の死体に取り憑いたらしい。
諏訪子の声が橙へと向いた。
「綿の国へ送ってやるよ」
「うん。ありがと」
「それじゃ、気をつけて帰りな」
「えっ?」
「ついて来るだけ無駄だよ。お前はどの道、綿の国へは辿り着けないんだから」
「どうして?」
「死んだ猫の居場所だよ。何より、お前はもう猫じゃないだろ」
諏訪子は当然のように言った。
橙は思案した。
「私も綿の国に行きたい」
「理由は?」
「ないよ。だって、猫だもん」
「言っておくけど、飛んだら駄目だよ」
「えっ?」
「猫の魂は、綿の国の重力の方を感じるように出来てるんだから」
「うーん?」
「駆ける、跳ねる、落ちる。この先も、それだけで進めってことさ」
「ふーん……」
「ついて来れるもんなら、ついて来な」
猫の足音がして、気配が上へ去った。
橙も、ここまでは可能な限り飛ばずに来ていた。
(猫だもん)
しかし今となっては道が分からなかった。
「おおっと。皆様こんにちは。清く正しい、射命丸です」
「……」
「先ほど頂いたお代、少しばかり多すぎましてね。はばかりながら、幻想郷最速を自負する天狗の翼、何かお役に立てることはありませんか?」
橙は闇の中、声をあげた。
「お願い、私を乗せて。雲に向かって落ちる猫がいたら、追いかけて」
「了解しました」
橙は翼のある背に負われ、空を駆けた。
風が雄叫びをあげていた。
「あやや。どうしたことでしょう?」
「あやや、どしたの?」
「真似しないで。いや、距離が縮まらないのよ」
「そんなに速いの?」
「私より速く進めるはずがない!」
橙の耳には、凄まじい風の唸りと、遠ざかる猫の足音が聞こえていた。
足音は一旦止まり、
(にゃあ)
と橙に向かって鳴いた。
「馬鹿にして!」
「違うよ。ありがとうって」
「なに? 聴こえない!」
風圧で耳が千切れそうだった。
「雲に入るよ!」
「水は嫌い……」
体毛が濡れ始め、力が抜けるのを感じた。
雲の中。速度はまるで緩めない。
「ああ、もう! 見失った!」
射命丸の怒声が雷鳴のように響く。
もはや耳鳴りにも慣れて、橙は何も見えず何も聞こえなかった。
そんな中、ふと感じた。
(あれ?)
髭がじりじりと騒いで、どこかへ引っ張られるようだった。
その方向へ顔を向けると、
(猫の楽園……)
過ぎ去ってゆく闇の中、確かに橙を呼び寄せる存在を感じていた。
「ありがとう、あや」
雲を突っ切った時には、ずぶ濡れとなって力を失い、橙はただの猫の姿になっていた。
目覚めると、膝の上だった。
ちらちらと金色のしっぽが揺れて見える。
「藍さま?」
「うん?」
「藍さまのしっぽ、綿雲みたい」
「そうかい」
ふわふわの尾にくるまり、橙はまた眠りについた。
目が覚めては場所を変えて、幾度となく眠った。
「じゃあ橙。私は仕事があるから」
「私も」
「うん?」
「私もいつか、八雲の化け猫になって、手伝いに行きます」
「よしよし。待ってるぞ。ただし無理しないように」
藍はマヨヒガを去った。
「やっぱ、ただの猫にゃ戻れないよ」
橙は畳に寝転がり、ごろごろと喉を鳴らした。
後日。とある廃村……。
「どうも。清く正しい、射命丸です」
「げっ」
「なんですか、その反応」
「藍さまにまた変な写真渡したー!」
「仕方ないじゃないですか。私も命が惜しい」
射命丸は眼をこすって悩んでみせた。
(別にいいけど)
橙は箱一杯のマタタビを抱えている。
「で、何ですか? それ」
「前に言わなかったっけ? 猫の楽園づくり」
「聞いたような聞いたような」
「言ったでしょ。手懐けてしもべを作るんだって」
「私も、無理だと言いました」
「知らにゃい。猫だもん」
この日も何事もなく過ぎ去り、陽は、無数にちぢれた雲を橙色に染めあげて沈んでいった。
見知った野良である。
猫の死因は、
(どうでもいいけど……)
と問題にならない。
大事といえば場所であった。
「ここは見えすぎるし、低すぎるよ」
橙は死体を拾うと、軽やかに地を駆った。
妖怪山の中腹まで来ると、
「止まれ」
白狼天狗が現れて刀を抜いた。
「ここから先は我々のテリトリーよ。何のご用?」
橙は服の中に死体を隠した。
「秘密の用事だよ」
「あっそ。じゃあ通さない」
「どうしてよ」
「そりゃ……よそ者や猫は嫌いだもの」
守るべき決まりというものは、どこにもあるらしい。
橙は自分の腹部へ声をかけた。
「ねえ。この辺でいい?」
返事はない。
(悪いけど、騙して通ろう)
橙は青空を指さして叫んだ。
「あっ、ユーフォー!」
ぴくりとも気が逸れない。
白狼天狗は哀れむような目をしていた。
(ちくしょう)
騙すことは諦めた。
「弾幕勝負!」
「最初からそうしなさい」
二匹は空へと跳んだ。
死体を抱いて動きの悪い橙に、白狼天狗は妙にあっさりと敗北し、
「適当なところで引き返すのよ」
言って、ひらひらと手を振った。
橙は地に降り、また山の中を上へと駆けた。
ドロドロと滝の轟く音が聴こえて、橙は加速した。
暗い山中。土を岩を、蹴っ跳んで進んだ。
滝のふもとに辿り着いて、
(この上まで行こう)
見上げると、黒い影が降ってきた。甲高い声が、轟音をすり抜けるようにして耳に届く。
「猫の訃報なんて記事にしても、二人くらいしか読まないわ」
かっ。
と下駄を鳴らして、鴉天狗が降り立った。
「お久しぶり」
「うに……?」
「変な顔しないで。私は射命丸文。前に取材したでしょ」
「あったような、なかったようにゃ」
「猫脳はこれだから」
射命丸はくすりと笑った。
「困るのよね……あなたを痛い目にあわせると、狐の祟りがあるから」
「きっともう少しだから、通してよ」
「だめ。マタタビあげるから聞き分けて」
「むう……」
橙はようやく思い出していた。
(そうだ。変な写真撮られたー!)
その時の記事は、藍が三部ほど取って保存している。
「別にいいけど。喋り方変わった?」
「必要なら下手に出ますよ」
「不必要」
「ふむ……」
互いに沈黙した。
さすがに、
(こいつ……藍さまとどっちが強いかな?)
という程度に、力量の差を感じていた。
今、勝ち目のない戦いをして遊ぶ気にもなれなかった。
(仕方ない。諦めよう)
と思い始めた時である。
「通してあげてもいいけど……」
射命丸が条件を出した。
「目玉を頂戴」
「へっ?」
「猫の目玉は大好きなの。きらきらして、夜でも光る宝石みたい。特にあなたのは」
「えへへ」
「目玉をくれるのね?」
橙は言葉に詰まった。
橙は光を失った。
両目を差し出すと、
「目も見えない猫二匹、どこへ行こうと誰も咎めやしないわ」
と言って目玉を取り、射命丸は飛び去ったようだった。
橙は匂いと勘を頼りに、手探りで上へ向かっている。
「猫二匹だってさ」
「……」
「あははっ。おかしいよね。こんな化け猫と、返事もしない死体だもん」
橙の声はか細く、闇へ溶けた。
この闇は、返事をした。
「何が悪いか」
橙はびくりと身をすくめ、危うく死体を落としかけた。
「気を付けてよ」
また、死体から声がする。
「あれ? 生きてたの?」
「死んでるよ」
「でも……」
「いいじゃない。何が悪いのよ」
橙は少し考えたが、
(まあいいや)
仕方なく納得した。
「そうそう。それでですね」
「……」
「こんな死体の私を、どこへ連れて行くつもり?」
「猫の楽園」
「どこにあるの?」
「知らない」
「えー」
「猫ならみんな知ってることだよ」
「猫にも色々なんですよ」
「えっとね。死期が来れば、猫はできるだけ高い場所に行くの。それで、誰にも見つからないようにして時を待たなきゃいけないの」
「ふむふむ」
「そうしないと、綿の国で生まれ変われない」
「わた?」
「綿の国。星の高さにある、綿雲の中にある国だよ」
しばらく声が止んだ。
闇の中、橙は上へと這い続けた。
「なるほど。猫の天界」
声が、納得したらしく言った。
「それで猫の死体……あやや、私を。そこへ連れて行ってくれようと?」
「うん」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
橙の声が、いくらか投げやりになっていた。
(いいけどね。私だって、なんでこんなことしてるんだか……)
理解できなくなっていた。
「言っとくけど、迷信だよ」
返事はなかった。
よほど高いところまで来たのだろう。
風が強く唸っている。匂いを嗅ぐと、鼻の奥が冷たくなった。
「ここで、着いたのですか?」
「わからない」
橙はゆっくりと歩を進めた。
しばらく行くと、ふと、別の声がした。
「穢れを持ち込まないでよ。私の神社に」
地底を響くような声音である。
橙は足を止めて呟いた。
「誰?」
「洩矢諏訪子……」
と応えたのは、死体からする甲高い声だった。
「通して頂けませんか?」
「どうして」
「理由は……ちょっと私の口からは言えませんねえ」
「じゃ、諦めて帰りな。うちの般若が聞けば、まとめて鍋の具にされるところだよ」
「ハンにゃ?」
橙が聞き返した。
「うむ。般若とは怒り狂った女の顔さ。ここには、さなえという名の鬼女がいてな……」
産まれた時から角と牙が生えていたらしい。
足音がして、
「諏訪子さま? 今晩のおかずはカエルの唐揚げでいいですね?」
と言うのが聞こえた。
その鬼が現れたのかもしれない。
気まぐれで始めたことだった。
綿の国を目指して登り続ける内に、
(なんとなく……)
後に引けなくなり、感じるままに歩いてきただけであった。
(もう疲れたし、帰ろっかな)
と思い始めた頃である。
近くに足音がした。
「要は、その猫を成仏させてやりたいんだろ」
諏訪子の声である。鬼の説教が終わったらしい。
「綿の国とやらへ案内するよ」
「えっ?」
「猫党の般若に感謝するんだね」
橙が腹に抱えていた死体が、ばたばたと暴れ出した。
思わず地に落とすと、
「私だよ」
と声を発した。
「諏訪子さま?」
「うん」
「きゃー、かわいい! もうずっと諏訪のチビ猫さまで良くないですか?」
「さなえ、うるさい」
どうやら、猫の死体に取り憑いたらしい。
諏訪子の声が橙へと向いた。
「綿の国へ送ってやるよ」
「うん。ありがと」
「それじゃ、気をつけて帰りな」
「えっ?」
「ついて来るだけ無駄だよ。お前はどの道、綿の国へは辿り着けないんだから」
「どうして?」
「死んだ猫の居場所だよ。何より、お前はもう猫じゃないだろ」
諏訪子は当然のように言った。
橙は思案した。
「私も綿の国に行きたい」
「理由は?」
「ないよ。だって、猫だもん」
「言っておくけど、飛んだら駄目だよ」
「えっ?」
「猫の魂は、綿の国の重力の方を感じるように出来てるんだから」
「うーん?」
「駆ける、跳ねる、落ちる。この先も、それだけで進めってことさ」
「ふーん……」
「ついて来れるもんなら、ついて来な」
猫の足音がして、気配が上へ去った。
橙も、ここまでは可能な限り飛ばずに来ていた。
(猫だもん)
しかし今となっては道が分からなかった。
「おおっと。皆様こんにちは。清く正しい、射命丸です」
「……」
「先ほど頂いたお代、少しばかり多すぎましてね。はばかりながら、幻想郷最速を自負する天狗の翼、何かお役に立てることはありませんか?」
橙は闇の中、声をあげた。
「お願い、私を乗せて。雲に向かって落ちる猫がいたら、追いかけて」
「了解しました」
橙は翼のある背に負われ、空を駆けた。
風が雄叫びをあげていた。
「あやや。どうしたことでしょう?」
「あやや、どしたの?」
「真似しないで。いや、距離が縮まらないのよ」
「そんなに速いの?」
「私より速く進めるはずがない!」
橙の耳には、凄まじい風の唸りと、遠ざかる猫の足音が聞こえていた。
足音は一旦止まり、
(にゃあ)
と橙に向かって鳴いた。
「馬鹿にして!」
「違うよ。ありがとうって」
「なに? 聴こえない!」
風圧で耳が千切れそうだった。
「雲に入るよ!」
「水は嫌い……」
体毛が濡れ始め、力が抜けるのを感じた。
雲の中。速度はまるで緩めない。
「ああ、もう! 見失った!」
射命丸の怒声が雷鳴のように響く。
もはや耳鳴りにも慣れて、橙は何も見えず何も聞こえなかった。
そんな中、ふと感じた。
(あれ?)
髭がじりじりと騒いで、どこかへ引っ張られるようだった。
その方向へ顔を向けると、
(猫の楽園……)
過ぎ去ってゆく闇の中、確かに橙を呼び寄せる存在を感じていた。
「ありがとう、あや」
雲を突っ切った時には、ずぶ濡れとなって力を失い、橙はただの猫の姿になっていた。
目覚めると、膝の上だった。
ちらちらと金色のしっぽが揺れて見える。
「藍さま?」
「うん?」
「藍さまのしっぽ、綿雲みたい」
「そうかい」
ふわふわの尾にくるまり、橙はまた眠りについた。
目が覚めては場所を変えて、幾度となく眠った。
「じゃあ橙。私は仕事があるから」
「私も」
「うん?」
「私もいつか、八雲の化け猫になって、手伝いに行きます」
「よしよし。待ってるぞ。ただし無理しないように」
藍はマヨヒガを去った。
「やっぱ、ただの猫にゃ戻れないよ」
橙は畳に寝転がり、ごろごろと喉を鳴らした。
後日。とある廃村……。
「どうも。清く正しい、射命丸です」
「げっ」
「なんですか、その反応」
「藍さまにまた変な写真渡したー!」
「仕方ないじゃないですか。私も命が惜しい」
射命丸は眼をこすって悩んでみせた。
(別にいいけど)
橙は箱一杯のマタタビを抱えている。
「で、何ですか? それ」
「前に言わなかったっけ? 猫の楽園づくり」
「聞いたような聞いたような」
「言ったでしょ。手懐けてしもべを作るんだって」
「私も、無理だと言いました」
「知らにゃい。猫だもん」
この日も何事もなく過ぎ去り、陽は、無数にちぢれた雲を橙色に染めあげて沈んでいった。
元ネタも読んでみたくはあるが…手に入るだろうか…?
写真でしか見た事がないんですが昔から猫が好きでして、あの何ともいえない掴みどころの無さが
いい感じでした