桜も殆ど葉桜になり、新緑が隆盛を見せ始めた季節の頃。
幽人の庭師こと魂魄妖夢は、一日の刀の稽古を終え、本来の職業である庭の手入れを行っていた。二百由旬はあろうか、と主人に言われている庭の手入れが一人で全て出来るはずもないので、彼女は西行寺家の家屋の周辺の庭を主な仕事場にしていた。
「ふむ、この木の枝は枯れかけているな……」
ふと目の前の桜の木に、三十センチメートル程はあると思われる枯れそうな枝を見つけて、妖夢は呟いた。
そして、人間の迷いを断ち斬る事ができる短剣――白楼剣を鞘から抜き、それを枯れそうな枝の根元に向かって一閃した。
枯れそうな枝の部位のみが綺麗に切り落とされ、ゴトンという音を鳴らして地面に落ちる。
『桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿』という諺が有るが、妖夢はそれは正確ではないと思っていた。何故なら、いくらそのような格言が存在しようとも、やはり然るべき手入れをしなくては、桜も綺麗な形ではその花を咲かせないだろう、というのが彼女の持論だからであった。不要な枝を剪定しなくては、他の枝に害を及ぼすことさえあることを彼女は経験から知っていた。梅に比べれば、桜は切らずに済むこともあるのだろうが、やはり最低限の手入れはしなくてはならないのだ。
妖夢は刀に付着した木屑を払うために刀を横に一閃し、静かにそれを鞘へと収めた。
そして、家屋の周囲の桜の大体を見て回り終えたことに気付き、少し休憩することにした。地面に盛り上がっている桜の木の根の上に座りながら、少し俯き加減に、ふうと息を吐いた。
すると、
「よ~うむっ!」
という、気の抜けるような声が彼女を呼ぶのが聞こえてきた。
顔を上げて前を向くと、主人である西行寺幽々子が微笑みながらこちらへ向かって歩いてくるのが見えた。
「どうかなされましたか?」
機嫌の良さそうな幽々子に対し、妖夢も明るい声で尋ね返した。
だが、次の幽々子の言葉によって妖夢は硬直した。
「妖夢、幻想郷の春を集めなさい」
「……はい?」
主人の唐突な言葉に、思わず妖夢は普段ならありえないような、間向けな声を漏らした。
ちなみに、今は春が過ぎて夏に差しかかろうとしている時期である。それにも関わらず、妖夢の目の前の幽冥楼閣の亡霊少女は中々に不可解なことを言ってきた。かつて自分に全く同じように命令し、幻想郷中の春を集めまくった挙句、博麗神社の素敵な巫女に酷い目に遭わされたことを、綺麗さっぱり頭の中から忘却の彼方へと追い遣ってしまったのではないか、とまで妖夢に思わせるような発言であった。惚けたような性格であると、よく他の者たちに主人のことを評価されるのを妖夢は聞いていたが、それには心から同意していた。一言二言では、幽々子の言葉の真意は妖夢にとって分かりかねることが多かったからだ。それが己の未熟さから来ているということはさて置き、全くもって幽々子の真意を汲み取れない妖夢は、幽々子の言ったことの確認を取ろうとした。
「えっと……春を集めるんですか?」
「そうよ。もう一度ね」
「ええー……」
即答する幽々子に、妖夢は明らかに嫌そうな声を出した。また痛い目を見るのは、日を見るより明らかであるので、流石の妖夢も主人のその命令は勘弁願いたいと思っていた。
幽々子はそんな妖夢の様子を見てなお、微笑みながら言葉を続けた。
「私、考えたのよ。前に春を集めたとき、どうして西行妖が満開にならなかったのかを」
「はぁ」
幽々子の言葉に、妖夢は適当な相槌を打つ。さらに幽々子の話は続く。
「きっと春の集め方が悪かったのよ。春、といっても私たちが集めていた春では満開にならなかった。ならば、別の春で代替すればいいのよ」
「して、その別の春とは?」
力説する幽々子に対し、半ば呆れた表情の妖夢の適当な相槌も続く。
「春、といってもいろいろな形のものがあるわ。例えば……操とか」
「ゴフッ」
突拍子も無い単語を主人の口から耳にしてしまい、思わず妖夢はよくギャグ漫画などで見られる吐血の描写のような噴き出し方をしてしまった。実際に血を吹き出しているわけではないのだが。
「そんなもんどうやって集めればいいんですか!」
恥ずかしさに顔を赤らめながら、妖夢は叫んだ。
「あらあら、言葉を聞いたくらいで顔を赤くするなんて、妖夢もまだまだねぇ」
幽々子がニヤニヤと意地の悪そうな笑みを浮かべながらそんなことを言ってくる。
「それ今関係ないですから!」
顔を真っ赤にして妖夢は怒るが、それに対して幽々子は相も変わらず微笑むだけであった。
「ま、まあそれはさて置き。真面目な話、操なんてどうやって集めるんですか? まさか処女を人里からかっさらってくるとかそんなのじゃ……」
妖夢の言葉に、幽々子がチッチッチ、と言いながら人差し指を左右に揺らした。
「普通の人間の操なんて集めても、それの春度なんてたかが知れてるわ」
「そういうものですかねえ」
「そうよ! 多分」
どんな理論なんだと妖夢は思ったが、主従のうちの従者であるという自分の立場上、口からは出せずにいた。仕方が無いので、主人の話に付き合うしかなかった。
「ならどうすればよいのですか?」
妖夢の疑問に、幽々子は少し間を置く。次に彼女の口から発せられたのは、妖夢の常識を覆すとんでもない理論だった。
「そうねぇ。春度の高そうな、巫女の操を貰ってきなさい」
「ゴフッ」
最早理論として成り立つどころか破綻しており、頭の中の螺子が全て吹っ飛んでいるとしか思えない幽々子の発言に、妖夢は再びギャグ漫画で見られるような噴き出し方をしてしまった。
そして一度だけ深呼吸をして、平静を取り戻したところで、妖夢は幽々子に向かって言った。
「落ち着きましょう幽々子様。世の中には出来ることと出来ないことの二種類があって、幽々子様が今おっしゃったことは、明らかに出来ないことに分類されると思うのです。というよりその理論を何を根拠にして口に出されたのですか」
「何を言っているの妖夢。女は度胸、何でも試してみるものよ?」
幽々子は即座に妖夢の考えを否定した。どうやら、幽々子は本当に妖夢に巫女の操を奪ってくるように命令しているらしい。なぜこんなことになってしまったのか、と妖夢は頭を抱えた。主人の真意の掴めない連続爆弾発言に、最早妖夢はどのように対応すればいいのか分からなくなっていた。とにかく、矢継ぎ早に疑問をぶつけるくらいしか、妖夢は言葉が出てこなかった。
「ですから、操なんてどうやって奪うというのですか」
「あら、言葉通りの意味よ?」
口元を開いた扇子で隠し、にこやかな表情を取りながら幽々子は言った。
「わ、私にみ、巫女をおおお犯せと申されるのですかっ!?」
直感的に頭に浮かんだ、口に出すのも憚られるような単語を吐いたせいか、妖夢は声が上ずり、顔を真っ赤に染めていた。
そんな様子の妖夢を見て、幽々子はやはり口元を扇子で隠したまま、楽しそうに微笑むのであった。しかしどこか意地悪そうな、邪な雰囲気もたたえている幽々子の目を見て、妖夢はハッとした。
この時になって漸く、妖夢は自分が幽々子にからかわれているだけなのではないかと思い至った。幽々子はよく突拍子も無いことを言って、妖夢を困らせる癖があった。しかも、幽々子本人がそれを楽しんでいるのだから更に性質が悪い。
「もしや幽々子様、またしても私をからかっていらっしゃるだけなのでは……?」
妖夢は心に浮かんだ疑念をそのまま口に出すが、幽々子はそれに対して、
「あら、バレた?」
とニコニコしながら短く言うだけであった。
妖夢はそれに、やっぱりと言いたげな表情を一瞬浮かべた後、
「もーっ!」
と、とても子供っぽく怒るのであった。そんな様子の妖夢を見て、幽々子は堪らない表情を浮かべ、思わず妖夢に抱きついた。
「妖夢ったら、本当に子供みたいでかわいいわ~」
幽々子は妖夢の頭を撫でながら、そんなことを妖夢に向かって言ってきた。
「く、くるしいですよー」
幽々子は正面から妖夢を抱きしめていたので、妖夢は少し苦しさを感じていたが、同時に幽々子の纏う心地よい香りにあてられて、先程感じた怒りも何処かへと霧散してしまっていた。
「幽々子様は、いっつも私を困らせて遊んでますね!」
「だって、妖夢がかわいいんですもの~」
幽々子は悪びれた様子も無く言い切った。妖夢はそんな幽々子の無邪気な様子に、やれやれといった表情のまま抱きしめられ続けるが、悪い気はまったくしなかった。それどころか心の奥底では、
(幽々子様になら、別に騙されてもいいかも……)
なんて思ってしまっていた。
妖夢を抱きしめることに満足したのか、幽々子は手を離して妖夢を開放した。
「この間はあなたが未熟者だったから春を集めきれなかったけど、いつかあなたが成長したときには、もう一度春を集めてもらおうかしらね」
幽々子は妖夢の真っ直ぐな澄んだ瞳を見つめながら、そんなことをぽつりと漏らした。
「悪い冗談ですよ。また博麗の巫女に襲撃されますよ?」
妖夢は苦笑しながら答えた。
「あら、あなたがいつか博麗の巫女よりも強くなればいいことじゃないの」
「うぅ……修行します……」
幽々子の言葉は正論なのだが、如何せん弾幕勝負においては霊夢の方が自分より格上であることを妖夢は自覚していたので、そう答えるより他は無かった。
「期待してるわよ、妖夢」
少し凹んだ様子の妖夢を見て、幽々子は優しげな顔を浮かべながら、妖夢に激励の言葉を送った。
「……はい!」
妖夢はそれに勢い良く返事をした。幽々子のその言葉だけで、この先ずっと頑張っていけるような気がした。我ながら単純だなあ、とは思っていたが、それはそれで悪くない気分であった。仕えるべき主人がいて、その主人は自分に対して少しでも期待を掛けてくれている。その人の為に全力を尽くすこと、ただそれだけが使命だと強く思いつつ、刀の修行に励もうと再び強く思うのだった。
(いつか、あなたが立派になるのを楽しみに待ってるわ――)
幽々子が心の中で思い描いたその言葉は、我が子を慈しむような、ささやかな願いであった。
それは決して妖夢に聞こえることは無かったが、妖夢がこの何十年後に立派な御庭番に成長するのは、また別のお話。
>三十センチメートル程はあると思われる枯れそうな枝
長さが30センチなのか、太さが30センチなのかで意味合いがかなり変わるので明記したほうがいいのではないかと思います。
個人的に妖夢にあと足りないのは心のゆとりだと思うのですよ
>>1.名前が無い程度の能力 さん
やってしまった……。曖昧な表現を使ってしまい、すみませんでした。
ご指摘ありがとうございました。修正しました。
>>2.名前が無い程度の能力 さん
妖夢は寿命が長いから、精神的な成長が人間より遅いのかもしれませんね~。
一人前になった妖夢もいずれ書いてみたいなあ。