紅魔館の地下。
そこに座する図書館は静謐の二文字だけに満たされていた。
誰かに言わせればたった5分も留まることが出来ないほどの場所らしいが、私には心地良い。私が心地良いのだから、それでいい。
ここは魔女の異界。
私が支配する、私そのものが染み込んだ場所なのだ。
「小悪魔、この本の続きなかったかしら――」
私は、司書を任せている使い魔を呼んだ。
見通せないほど深い闇は呼応するように揺らぎ、
「はぁぁい、パチュリーさぁまぁぁぁ」
太い声を返した。
姿を現したそれは、身体も太ければ四肢も太い筋肉質。おまけに吐く息も太く感じられる。
その身躯は私にかのアークデーモンを思い起こさせた。
「続きをお持ちいたしましたぁ」
――誰だこいつは。
何かの錯覚かと思い目を擦ったが、眼前咫尺の禍々しい硬質生命体は消えなかった。
私の小悪魔は華奢な身体、紅い髪の流れから小さく悪魔の羽を伸ばすもっと人受けの良い外見をしていたはずだ。
だが、こいつはそうじゃない。いつか読んだ「モンスター図鑑」のアークデーモンそのものだった。
「あるぇー、間違えましたかぁぁ?」
私は小悪魔を呼んだのだ。お前が出てきたこと自体間違いだ。
私は、小さく息を吐く。
「小悪魔、いるんでしょう? ふざけていないで早く出てきなさい」
その声に、しかし、目前のアークデーモンはにかりと笑い、
「ここにいるじゃないですかぁぁ」
と言った。
その相貌でどこが小悪魔か、――私は声を上げようとしたが、堪えた。
アークデーモンの口調が小悪魔そっくりだったからだ。声も、良く聞けば小悪魔そっくりに聞こえる。
もしや――思考は、私の口を動かす。
「貴方、小悪魔なの……?」
「最初からぁ、そう言ってるじゃないですかぁあ」
その言葉は、唸りのように図書館を響かせる。
――嘘だ。
否定する。こんな暑苦しい生物があの小悪魔なんて、私は認めたくない。
小悪魔だという証拠はない。
――だが同時に、あれが小悪魔でないという証拠もなかった。
それに、アークデーモンから懐かしい雰囲気を感じてしまって、私は言葉が出なかった。
嫌な想像だけが頭を駆け巡る。身体が強張る。
それを見て、アークデーモンがまた、にかりと笑う。
「違う」
自らを奮起させるように、言う。
「……違う!」
声を荒げる。
「お前みたいなもの、小悪魔じゃないっ!」
――アークデーモンが、口元を大きく歪ませる。
「だったら、その本物の小悪魔をつれてくればいいじゃないですかぁ」
――えっ?
それはまさしく、悪魔の証明――その考えが少しでもよぎった頭を振る。
そんなことはない。むしろ、アークデーモンの言うとおりだ。本物の小悪魔を見つけ出せばいいのだ。
笑わせる。
悪魔の証明など、この幻想郷にはあってないようなものだ。
私は、顔に笑みを浮かべる。無理矢理、笑う。
「いいわ、見つけてきましょう」
そして、こんなもの早々と追い出してやるのだ。
「えぇ――心ゆくまで捜索を。一縷の望みと束の間の喜びを」
アークデーモンは、最後までその笑みを絶やすことはなかった。
飛ぶ。
眼下の本棚。その隙間を隈なく見る。その姿を探す。
「小悪魔! 小悪魔ぁ!」
柄にもなく叫ぶ。息は乱れたが、気にならなかった。
気持ちが焦っている。
何が私をそこまで不安にさせるのだろう――それは、わかっている。
あのアークデーモンが、どうしても小悪魔そっくりに思えるのだ。あの嫌らしい目つきも歪む口元も小悪魔そっくりなのだ。そして、どうしてもそれが納得いかないのだ。
何で、……何でよ!
「小悪魔、さっさと出てきなさい!」
いくら呼んでも姿は見えず。
「早く出てこないと怒るわよ!」
いくら呼んでも姿は見えず。
声は静寂に飲まれ消え入る。
ただ、息は荒れるばかり、声は枯れるばかり。
「――げほっ、げほっ」
仕舞いには、咳が出た。
少し考えれば判ることだ。こうなっては咳は止まらない。
その音は、図書館によく響いた。
「げほ……ぁっ!」
パチュリーは思い出していた。
こんなとき、いつも小悪魔が助けに来てくれた。私が咳をするとすぐに駆けつけて背中をさすってくれた。咳払いひとつでも心配そうな顔をして「今日はもうお休みになられますか」なんて言った。
そうだ、もうすぐ小悪魔が来てくれるんだ。いつもそうだったから、今回もそうに決まっている。
ほら、聞こえるはずだ。
小悪魔が心配そうな声を上げて――、
「パチュリーさまぁあ、だいじょうぶですかぁ……?」
呼吸が、止まるかと思った。
誰も、お前なんか呼んでいないのに、小悪魔と同じ声を出すな。小悪魔と同じ反応をするな。
小悪魔がもうすぐ来てくれるんだ。邪魔をするな。
「こぁ……」
声が続かない。
気管支の異常を取り除こうと、横隔膜が忙しく動く。
床に降りて、うずくまる。そうやって凝然としている間にも、アークデーモンの低い足音が近づいていた。
――どうして小悪魔は来てくれないのか。
わからなかった。
ただ、疑問が咳となって喉から吐き出されるだけだ。考えることも出来ない。
「……はっ、げほっ――!」
そのときだ。
アークデーモンのものではない、小さな足音が聞こえたのは。
「……こぁ!?」
見上げる。
そこに立っていたのは、緑の髪。腋を露出させた巫女服。青のスカートには閉じ扇を散らした文様が描かれている。
私は、この衣装を知っている。
「――守矢神社から来ました」
その巫女、東風谷早苗は言った。
何故ここに山の神社の巫女がいるのか、何しに来たのかわからない。
ただ、紅の景色に佇む姿は異質に思えた。
「苦しいですか?」
私はその問いに咳で答えた。
早苗は優しく微笑む。
「――ならば祈りなさい。守矢の神に、八坂様に信仰を!」
早苗は両手を広げ、天を仰ぎ見た。
「そうすれば、あなたの想う人も戻ってくるでしょう」
戻ってくる。
祈れば、戻ってくる。
だったら、祈ろう。
私はそっと目を閉じる。そして、想う。
小悪魔を取り戻したい――。
「げほっ……祈り、ますっ!」
声を絞り出す。
「小悪魔を、取り戻してくださいっ!」
早苗は、にかりと笑った。
途端、私の身体が疼くのが判った。
右腕は痙攣し、左腕はむくれ上がる。両脚は言うことを聞かない。脈が激しく、各部の急激な躍動に身体は痛みを伝えるだけだ。全身の筋肉が伸縮を繰り返す度、己を硬く、肥大化させていく。
痛い。
身体のどこもかしこもが軋む。
まるで押しつぶされているかのようだ。それを押し返そうと必死になっているようだ。
三倍近くに膨れ上がった腕を見ると、さっきのアークデーモンが思い起こされた。
「ほぅら、あなたの小悪魔がもうすぐやってきますよ」
早苗は私を見下ろしながら楽しそうに言った。
嫌だ。
身体はどんどん大きく逞しく変貌し、さっきのアークデーモンそっくりになっていく。
嫌だ。
だったら、あれは同じようになった小悪魔だとでも言うのか。
――いやだ。
醜い。
助けて。
誰か、助けて。
激痛から逃れようと、目尻からは涙が溢れ出た。
この姿から逃れようと、涙が溢れて止まらなかった。
誰でもいい。
誰か。
「たすけぇ……ひっ――」
悲鳴は、普段よりもずっと低く、太かった。
「ひっ」
声。
瞼を開く。
電撃が走ったかのように、身体は跳ねた。
「……は」
声はいつも通り。
身体を見ても、普段通り、腕も脚も細い。不健康そうな自分の身体だった。
私は、溜め息を吐く。
頬に汗が伝っているのを感じた。そのまま顎に溜まって雫を垂らしている。
「は……ははは」
なんだ、あれは夢だったのか。
そう考えると、馬鹿馬鹿しくて笑いがこみ上げてくる。そうやって、乾いた笑いが口元から漏れた。
寝汗はまだまだ頬を伝う。
顎からは雫が落ちる。
それが止まらない。
「はは……」
腕で目元を拭ってもまた出てくる。
流れは止まらなかった。
「パチュリー様?」
小悪魔の声もいつも通り。その姿も普段通り。
ただ、少し霞んで見えなくなっていた。
だから私は、小悪魔に近づいて近づいて。
放さないように抱きしめた。
「ひえっ……!?」
頭を埋めた小悪魔の胸元は柔らかかった。少しくらい濡れても構わないだろう。
私は、声を押し殺すのを止めて、すすり泣いた。
腕は確かに小悪魔の華奢な身体の感触を伝えてくれる。
いつも通り、普段通りの小悪魔を強く抱きしめた。
「子供じゃないんですから……もう」
「守矢神社から来ました!」
あれに見えるは憎き東風谷早苗。
「――帰れっ! 誰がお前の神社なんか信仰するか!」
あと、「~の方から」だと、そこの所属ではない表現になりますよ。
…済まない。相手の夢にまで阻まれる早苗さんがあまりにも不憫で(;_;)
早苗さん頑張れ。
それにしてもパッチェさんとこぁの仲良しさは微笑ましい
裏切られて良かったです。