口の端に痛みにも似た違和感を覚えて、パチュリーは目を覚ました。
柔らかく沈み込んだ枕に押し付けていた顔をもたげる。と、今度ははっきりとした鈍痛が頭の中を突き抜ける。
「…………ぅ」
掠れたような呻き声を上げながら、うつ伏せのまま身をよじる。
寝ている間にはだけてしまったらしい布団は、両脚に覆い被さっていた。自分はこんなに寝相が悪かっただろうか、そんな事をぼんやりと思う。
(あぁ……わかってる。覚えてるわ)
昨夜は宴会だった。
遠慮したにも拘らずレミリアや咲夜、それに魔理沙らに無理矢理博麗神社へ連れて行かされたのだ。
傍目からして呆れるほどの開催頻度だというのに、その夜も沢山の妖怪たちが集まり騒いでいた。普段から欠席しているパチュリーに気兼ねなく接し酒を勧めてくる少女たちに、戸惑いを感じながらも。いつの間にか、読みかけだった本の続きも気にならなくなっていた。
(……楽しかったな)
ただ悔やまれるのは、宴の記憶が途絶していて全く思い出せない事だ。
(いつ、ここに帰ってきたのかしら……)
半開きの瞼をそのままに、パチュリーは部屋の中を一瞥した。
紅魔館の地下図書館。その隅にひっそりと設えられた、彼女の部屋。といっても、最低限の調度品のほかには幾つもの本棚が設置されており、彼女が気に入った内容の本がまるで倉庫のようにぎっしりと詰められている。
窓がないためいつも薄暗く、古書特有の黴臭さが蔓延するこの空間から癒しを得られるのは、パチュリーの他には誰もいない。
のそりと上半身を起こし、掛け時計へと目をやる。意外にも、まだ朝と呼んで差し支えのない時間だ。
両腕を頭より上に伸ばして大きく伸びをすると、欠伸も一つ零れ出た。
未だ頭痛は治まらないものの、体調に比べて気分はそれほど悪くない。ひとまず、眠気覚ましに紅茶でも淹れてもらおうか。
鈍重な動きで両脚をベッドから降ろし―――
(……身体が、軽い?いいえ、なんだろう……)
きびきびとした動作で、彼女は立ち上がった。
指先を適当に開閉してみても、やけに反応が早い。
それにこの薄暗闇の中で、眼鏡も掛けず壁に掛けられた時計の盤面を読み取れるほど、視力は良くなかったはずだ。
まるで、寝ている間に自分の肉体ではなくなってしまったかのような喪失感に、寒気を覚える。
パチュリーはベッドの向かいに設えられたドレッサーの前へと歩み寄った。
最近はこの広い紅魔館の中を歩く時にも多少なり身だしなみを整えるようになった為、机上には幾つかの化粧品が散らかっている。それらを適当に端に寄せて、パチュリーは閉じられた両開きの鏡を勢いよく開いた。色白で無愛想な自分の顔と眼が合う事を祈りながら。
映った先には、誰もいない。
(――――は?)
誰もいない。胸中で何度も反復する。
薄暗く埃っぽい寝室がただ映っているだけで、今もなお鏡を覗き込んでいる筈の自分の姿がない。
見えてはいなくとも、自分の眼が泳いでいるのはわかる。渦を巻き平衡を失った理性の片隅で、小さな紫色の少女が囁く。落ち着け、考えろ。
メイド長がこんな大掛かりな手品をした事はなかったはずだ。何よりパチュリーの部屋に仕掛ける意味がない。
あるいは人を死に誘うとかいうあの桃色幽霊の仕業か。しかし、自分は今こうして二本の脚で立っている。死んでいるというのなら、妙に生気の溢れるこの身体の違和感は一体なんだ?
ごくりと息を呑むと、先ほどの口内の痛みを再び感じる。パチュリーは口の端に指で触れて、鋭く固い何かに触れた。
何か?否、それは紛れもなく、異常に鋭く尖った八重歯だった。
(鏡に映らない身体……鋭い牙……)
パチュリーは背後に向けて、一枚の符を投擲した。
宙に浮かんだまま静止するそれを見据えることなく、呟くように唱える。
「アグニシャイン」
直後、光が生まれる。ぽつりと灯された火の玉は瞬く間もなく周囲を照らし、光と影のコントラストが室内を彩った。
背後から熱を帯びた光明を受けながら、パチュリーは俯き床を―――足元から伸びる、自身の影を見下ろした。
着膨れた長髪の少女。そのシルエットの左右の腰の辺りから、蝙蝠の翼のような物体が生えている。
その先端が、ぴくりと動いた。
「な……な……」
喉の震わし方さえ忘れていなければ、悲鳴を上げるところだった。
炎が消え、室内は再び闇に包まれる。
視界の変化のせいだけでなく眩暈がして、身体がよろめくのを必死に堪えながら、頭の片隅で下された結論はあまりに簡潔だった。
吸血鬼になってしまった。
「どぉいう事なのよぉぉぉぉぉぉ!?」
声を張り上げる必要は、ないといえばない。
それでもなお、紅魔館の隅々にまで響くほどの勢いで、目の前で絨毯の上に正座する少女に向けて、パチュリーは怒号を浴びせた。
「あ、あはははははは……」
苦し紛れな笑顔を浮かべながら見上げる、レミリア。
紅魔館の主人は握り締めていた帽子を膝の上に置くと、胸の前で掌を合わせた。
「ごめん、パチェ!」
「ごめんじゃなくてね、レミィ……」
靴の底で床を叩きながら、パチュリーは苛立ちを隠すことなく深く溜息をついた。
「一体、なにがどうしてこんな事になったの?」
指で示すまでもなく、腕を組んだままパチュリーが指摘したのは自分自身の容姿についてだった。
今もなお異物感を拭えない、口の両端から生えた鋭い牙。何重もの衣装を突き破って背中から生える一対の翼。肩甲骨に力を入れるよう意識すると、それはゆっくりと上下に動く。
どれも仮装の類ではなく、紛れもなく身体の一部であるパチュリーの牙や翼。
それらとまったく同じものを生やしている、彼女の友人へ。威圧を込めた視線を落とす。
「昨日は少ぉしだけ呑み過ぎちゃって、少ぉぉしだけ調子に乗っちゃったもんだから」
レミリアは釈明しつつ、親指と人差し指で「少ぉし」とやらの量を示してみせる。
「だってパチェが宴会に参加するなんて珍しいじゃない?はりきっちゃってさぁ」
「無理矢理連れていかされたんだけどね」
そこだけは譲れず指摘するが、レミリアは聞いてはいないようだった。気恥ずかしそうに苦笑する。
「私の飲みっぷりを披露しようと思ったのに、パチェったらすぐに潰れちゃうんだもの。起こそうとしてるうちに首元に目がいっちゃって、こう……」
「……吸ったの?」
パチュリーは自身の首の辺りを指でなぞってみる。
すると、丸く小さな、腫れたような跡を二つ発見する。既に瘡蓋になっていて痛みはないもの、それは刺し傷のようだった。
パチュリーの腕がぴたりと硬直するのを見届けてる、レミリアは再び掌を合わせて一礼する。
「美味でした」
「堪能するな!」
うんざりと、叫ぶ。
と、唐突に部屋の扉がノックされ、その向こうから従容な声が聞こえてきた。
「お嬢様、パチュリー様。失礼してよろしいでしょうか?」
「どーぞー」
間髪いれず、レミリアが答える。
それはもちろんここが彼女の部屋だからだが、自分の名前まで呼ばれた事が多少意外ではあった。
扉を開け、台車を引いて入ってくる紅魔館のメイド長。
運んできたティーセットを机上に広げながら、正座するレミリアを見て苦笑する。
「……やっぱり叱られてますね」
「やっぱり叱られてるのよ」
何故か笑い事のようにわざとらしく首をすぼめてみせる、吸血鬼。
同じく、カップを並べる咲夜も妙に楽しそうな事に疑問を抱く。と、
「ようやくパチュリー様にも、自慢のお茶を淹れて差し上げる事ができますわ……」
その呟きで、即座に納得する。
レミリアがいつも嗜んでいる真紅の液体。どういった製法かは理解しつつ想像もしたくないが、いくら体質が変わったからといって心象としてはおおいに遠慮したいところではあった。昏睡したパチュリーを屋敷の自室に運んでくれた恩義が、メイド長に対してあるとしても。
何にせよ咲夜は事態を理解している。構わず、パチュリーは話を進める事にした。
「……それで、レミィ?元に戻る方法はあるんでしょうね」
「ないわよ」
あっさりと―――否、ばっさりと言い切る友人に、パチュリーは絶句する。
「は……!?」
「吸血鬼になった人間が元に戻るなんて話、聞いた事もないわ。仮にあったとしても、私より貴女の方が詳しいと思うけど」
言われて、思案する。
吸血鬼の友人を持つゆえ、その種族についての文献はとうの昔に漁りとおした。
彼女たちの能力、弱点、伝承……図書館にあるだけでも湯水のごとく出てくる資料の中に、吸血鬼化の治療に関する確実な情報は見つからなかった。あるいは当人―――吸血鬼たちなら心得ているものとばかり思っていたが。
自分が今どんな顔をしているかもわからず、立ち尽くす。パチュリーの深く沈んだ心情を他所に、レミリアはさっさと立ち上がってしまった。
あっけらかんとした表情で掌をぱたぱたと振ってみせる。
「大丈夫、だいじょーぶ」
テーブルに着き、咲夜が茶を注いだカップを顔に近づける。
その芳香をひとしきり楽しんでから、レミリアは平然と言ってのけた。
「割と快適よ、吸血鬼って」
「……その代表格に割ととか言われても、全然安心できないわよ」
「暑い時は翼で扇げるでしょ、牙でクルミ割れるでしょ。あと、夜目が利くから消灯したままゲームしても咲夜にバレないし」
「うわ実用的」
「あとでお話があります、お嬢様」
指折りして数えるレミリアの真横に仁王立ちして、咲夜はあくまで笑顔のまま冷淡に告げる。
なにやら確執の生まれつつある二人の下に、仕方なくパチュリーは歩み寄った。席に着き、メイド長自慢の茶とやらを手に取って香りを嗅いでみる。意外にも普段飲んでいる紅茶より芳醇に感じるのは、咲夜の手腕か、体質のせいか。とりあえず口をつけるのは止してカップを置いた。
一方で、紅茶を飲み干しナプキンで口元を拭うレミリア。含みのある笑みを、パチュリーに向ける。
「何より、運命を操る程度の能力を手に入れたわけだしね」
「……それは貴女の力でしょう?他人の運命を意のままに操作するっていう」
「ちょっと語弊があるわね」
咲夜が無言のまま主人のカップを下げる。
それには一瞥もくれることなく、レミリアは続けた。多少、つまらなそうに。
「私―――私たちの能力は、何もそんな大それたものなんかじゃないの。人間の血を吸って下僕とする事で、その者の身体と心、そしてその生き死にすらも掌握する。運命を操る程度の能力っていうのは、要するにそういう事なの」
「あくまで、吸血鬼の特性そのものを指している……?」
「そう。程度とはよく言ったものよね。黙っておけばハッタリも利くし」
そこまで聞いて、ふとパチュリーの内に疑問が生まれる。
「……じゃあ、私は貴女の下僕になったって事?」
「それなんだけどね、私も驚いてるのよ」
そう言うと、レミリアはティースプーンを手に取り、おもむろにそれを床に落とした。
絨毯の上に音もなく転がる食器を指差して、妙に高圧的な声音で、
「パチェ、拾って頂戴」
「……嫌よ。何、いきなり」
彼女の態度と意味不明な要求に、パチュリーは眉をひそめて拒絶する。
と、レミリアはぱっと威圧感をゆるませて微笑を浮かべた。
「ほらね。パチェは私の命令に難なく逆らえる。血を吸った私の眷属でありながら、私の支配から既に解放されてるのよ」
弁を振るう彼女の横で、咲夜はやれやれといった動作で食器を拾い上げる。
それに気付いたレミリアは、従者に向けて小さく礼を囁いてから後を続けた。
「魔女の血と吸血鬼の血とが混ざり合った結果なのか、貴女に吸血鬼としての素養があったのか。何にせよ、貴女は限りなく真祖に近い正真正銘の吸血鬼になったわけ」
「吸血鬼の、魔女……?」
「あるいは魔法を使う吸血鬼。まさに無敵の種族だわ」
胸の前で腕を組み、レミリアは羨望の眼差しを向けてくる。本心からか、おだてているのかは定かでないが、彼女からすれば予期せず同族が増えたのは喜ばしい事なのだろう。
パチュリーは手前のティーカップを覗き込んだ。
未だ手をつけていない液体の表面に映っている筈の自分を連想する。もとより人間だったつもりはないが、それよりも幾歩か遠ざかった事は確かだ。
姿が映らない以上、決して見ることの叶わない自身の双眸。この飲料を象った血溜まりと、同じ色をしているのか。
(もう戻れない)
確信は、目の前の紅茶を美味しそうと思っている自分に気付く事ではっきりと固まった。
吸血鬼の特徴の一つとして、弱点の多さというのがある。
日光、炎、流水、ニンニク……日光にいたっては浴びただけで気化してしまうというのだから困ったものだ。ただし、レミリアの言うとおり十字架は触れても何の影響も受けなかった。
ともあれ、100年を生きる魔女とはいえ人間とほとんど変わらない生活をしてきた自分にとって、吸血鬼化という体質の変化は大きな支障をもたらす事になる。
今までどおりの生活を続ける事は、もはや不可能だろう。陽を避け、闇に潜み、血を飲んで生きていかなければならない。
薄暗闇の中にぽつりとランプの灯された地下図書館の中央に陣取って、ティーカップを片手に読書に耽ながら。
パチュリーは、何となく悲しくなった。
(まったく変わらないじゃない……)
しなければならない事は、いくつかはあった。
手持ちのスペルカード、七色の精霊魔法。その中から火・水・日の三種類の符を抜き取り、泣く泣く破り捨てた。自分の魔法で自分が手傷を負わされては元も子もないからだ。
問題は、これから自身の能力を何と呼称すれば良いのかだ。『木+金+土+月を操る程度の能力』では、アルバイトのシフト希望にしか聞こえない。
次いで、衣装ダンスに収められていた洋服の背中に翼を露出する為の穴を開ける針仕事。
作業量は膨大だったものの、使い魔を大量に呼び寄せた事であっという間に片付いてしまった。彼女自身は何もしなかったが。
急務を終わらせ、普段と変わらないメニューの昼食を摂り、もう数時間が経過していた。
今の時刻では、未だ外は陽が照っている事だろう。そんな風に外を意識した事は今までなかった。
小さな変化に、やはり少しずつ順応していく。自分の生きるスピードを体感しているような気分だ。
100年間、こんな緩やかな生き方をしていたから、突然の変化に戸惑ってしまう。
もともと吸血鬼の屋敷に住んでいながら、当の主人より日陰に居る事の多かった自分だ。今さら吸血鬼になったからといって困る事などあるものか。
開き直ったような心境で、本の文字を眼で追う。
(そういえば、喘息も出ない……これも吸血鬼化のおかげかしら)
冷めた紅茶で喉を潤しながら、そんな事を考えていると。
唐突に、入り口の扉がノックされた。
「パチュリー様、失礼してよろしいでしょうか?」
「……どうぞ」
振り向く事はせずに、返事をかえす。
扉を開けて入ってきた咲夜は、ティーポットを片手にパチュリーの元まで歩み寄ってきた。
「そろそろお茶のおかわりは如何かと思いまして」
「頂くわ」
完璧で瀟洒なメイド長は妙に頬を綻ばせながら、空のカップに紅茶を注ぐ。
彼女の自慢というだけあって絶妙な香りと味わいのそれは、あくまで吸血鬼の嗜好に合わせたものだ。主人以外をもてなすのにこの紅茶を淹れられるのは、彼女にとっても嬉しいのだろう。
「ご気分、良さそうですね」
「まぁね。この身体もそんなに悪いものじゃないわ」
本のページに視線を落としたまま、咲夜の雑談に応じる。
「ですが、お嬢様のように頻繁に外出するのは止してくださいね」
「心配しなくても、日陰から出るつもりなんて毛頭ないわ」
「不安のあまり心臓が止まってしまいますわ」
「それはそれで興味深いけどね」
「今日会った時に驚くでしょうね、あの黒白魔法使いも」
その言葉を受けるや否や。
ばたん、と乱雑に本を閉じる。その風圧に押されるように、パチュリーは顔を上げた。
呆気にとられたようなメイド長の顔を凝視して、上擦ったような声を出す。
「ど、どどどどどういう事?」
「……牙のせいでまだ上手く喋れないんですね」
「そうじゃなくて!」
パチュリーはぶんぶんとかぶりを振って、咲夜へと詰め寄った。
「会う?今日?魔理沙と?どうして!?」
「会います。今日です。魔理沙と。昨日、宴の席で約束してらしたじゃないですか」
気圧され後ずさりながらも、咲夜は順を追って答えてみせる。
「見せたいものがある、と。パチュリー様もとても嬉しそうに快諾されましたよね。その後すぐ眠ってしまわれましたけど」
「…………」
「……覚えていないんですか?」
心配そうに尋ねるメイド長に頷く事すら忘れて、立ち尽くす。
昨晩の記憶を、思い出そうとしたわけではない。覚えてないものはないのだから、仕方がない。
だからといって何らかを思案していたわけではない。単純に、思考が完全に停止してしまっただけだ。
パチュリーと本棚とで挟まれて、迷惑そうにしている咲夜には構わず。
(魔理沙が来る)
脳裏に焼きついた文字列を、ひたすら単調に反芻する。
魔理沙が会いに来る。魔理沙が私に会いに来る。
魔理沙が、吸血鬼の私に会いに来る。
「お、終わりましたパチュリー様……」
背後から、疲弊しきった声色で小悪魔が呻く。
「ご苦労様。もう下がりなさい」
振り向かないまま告げて、パチュリーは自分の髪に触れた。
寝癖がついていないかを丹念に調べ上げて、続けて帽子のリボン、頬の感触、服の襟元も同様に確認する。
鏡に映らない身体では一人での身支度もままならない。
吸血鬼の欠点を一つ発見した。レミリアが咲夜をいつも傍に置いている理由がよくわかった。
ぱたり、と力なく扉を閉じて、小悪魔はパチュリーの部屋から出ていく。針仕事から主人の化粧まで手伝わされて、流石に疲れたのだろう。
労わりの意も込めて部屋の片付けだけは自分で行った。どうせ彼女には図書館での本の整理という仕事が残っているのだから。
咲夜から聞き出した魔理沙との会話によれば、約束の時間まではまだ遠い。
ベッドに腰かけて、シーツの皺を伸ばすように撫でる。意味はないとわかってはいても、何かしていないと気が気でない。
(見せたいものって、なんだろう……)
魔理沙が予告してパチュリーに会いにくる事など、今の今まで一度もなかった。
玄関か、窓か、あるいは門番を盛大に吹き飛ばして現れ、目ぼしい本の類をかっさらっていくあの泥棒魔女が。私に招かれてこの部屋を訪ねてくる。
(これって、俗に言う家デート……よね)
胸中で呟き、あまりの気恥ずかしさに翼がばたばたと羽ばたく。
その動きが、唐突に止まった。
目の前に設えられたドレッサー、その両開きの鏡に映る誰もいない部屋が目に入ったからだった。
吸血鬼の身体では、うかつに外出する事は出来ない。それは、魔理沙と外に出かける事の出来る機会が極端に減るという事だ。
元より行動家で蒐集家な彼女の事だ、毎日のように幻想郷中を飛び回っていないと退屈で死んでしまうに違いない。
暗がりから出られないパチュリーと一緒にいる時間など、果たしていくらほどのものか。
(そうよね。魔理沙には、昼も夜も関係ない……)
尖った八重歯で唇を噛み……あまりの痛さにすぐやめる。
(昼と夜……関係あるようにしてしまえば?)
運命を操る程度の能力と、レミリアは呼んでいた。
愛しい人の運命を操ることも出来るのか。
暗闇の中で永遠を共に生きることも出来るのか。
思い浮かべるのは、黒と白の膨らんだ衣装の下に隠された、しなやかで健康的な淡い色の肌。
耳の下から鎖骨の端にかけて曲線を描く首元に、ぷつりと牙を食い込ませる。
どんな感触がするだろう。どんな声を上げるだろう。彼女の生き血は、咲夜の淹れた紅茶よりも美味だろうか。
肢体にかぶりつくあまりに背徳的な妄想に、パチュリーは肩を震わせる。ただし、自身の考えに畏怖したわけではなく。
気付けば、彼女の手によって強く握り込まれたシーツは、くしゃくしゃに歪んでいた。
尻を敷いていた跡もそのままに立ち上がり、鏡の中にいる筈の自分へと強く命令する。
魔理沙を手に入れろ。彼女を吸血鬼にしてしまえ。
「珍しいな」
「何が?」
「お前が、こんな場所に人を誘うなんて」
微笑む魔理沙。その背後から月明かりが照らし、帽子を脱いだ彼女の金髪をより煌びやかに見せる。
紅魔館の外観、庭から遠方の湖すら見渡せるバルコニーに彼女たちは居た。当然二人きりで、無数の星が瞬く夜景の下。彼女の憧れていた、絶好のシチュエーション。
背中から手摺に寄りかかる魔理沙の隣に、パチュリーは歩み寄る。
折り畳まれて衣装の下に隠してある翼に、魔理沙が気付く様子はない。休憩中の小悪魔を呼び出して、服の背中を縫い直させておいたのだ。
普段から口数の少ない自分だ、牙を見せないよう喋るのもそう難しくはない。更に眼には薄いフィルムを貼る事で、赤い瞳をも偽装している。
魔理沙に悟られてはいけない。自分が吸血鬼になった事を。
「魔理沙こそ珍しいじゃない」
「何がだ?」
「変な騒ぎも起こさないで、客人としてこの屋敷に来るなんて」
「いつも同じ事の繰り返しじゃ芸がないからな。これもサプライズの一環だ」
魔理沙は庭先へと振り返り、正門の方を指さす。
暗く色を落とした庭の一角に、黒ずんだ人間大の物体が落ちていた。
「門番は吹き飛ばしといたけどな」
「同じ事の繰り返しは芸がないんじゃないの?」
「日課っていうのは繰り返す事に意味があるんだ」
笑いあう。黒焦げの門番に対しては、案の定なんの感慨も浮かばなかった。
(そう、この時間……)
怪しまれるとわかっていても、彼女の襟足に眼が向いてしまう。
舌なめずりしてしまいそうなほど、欲求をそそらせる首筋のライン。見ているだけである種の衝動が胸を締め付けた。
所詮、私は妖怪だ。人間より乱暴で、残虐で、欲望に忠実。
力を得た以上は、それを振るわなければならない。
望むものがある以上は、それを手に入れなくてはならない。
私は変わってしまった。自分の意思とは関係なく、ならば誰の意思なのかと問われれば、今となっては彼女の確信犯としか思えないが。
恨む?否、感謝したいくらいだ。
変えられてしまった運命には、従うほかないのだから。
(この時間を、永遠のものにする……)
胸中で浮かべた決意と共に、パチュリーはゆっくりと身体を移動させた。
ひらりと舞い落ちる木の葉のようにさりげなく、魔理沙の背後へ。
「見せたいものって、何?」
「ん、そうだな……」
返事を待たず、パチュリーは魔理沙の身体に抱きついた。
彼女の二の腕を拘束するように両腕を回し、黒い衣装の胸元をきつく握り締める。魔理沙は拒んではこなかった。
「……困ったな。これじゃ見せられない」
さほど困った様子も無く、魔理沙がぼやく。
彼女の柔肌が、まつ毛が届くほど間近に迫っている。高ぶる心臓の鼓動が彼女に伝わらないだろうか、不安の種といえばそんな事くらいだった。
「魔理沙、見せて頂戴」
耳元で囁き、両腕の拘束を弱めてやる。
それでもなお、密着した体勢は崩さずに寄り添うパチュリーに対して、魔理沙は苦笑を洩らしたようだった。
彼女は半ば自由になった手で衣装のポケットをまさぐると、そこから何かを取り出す。こちらへ見えるように、魔理沙はそれを顔の横に掲げた。
掌大の、紙切れ一枚。それはパチュリーも良く知る類のものだった。
「スペルカード……?」
「最新作。お前の事を思って作ったんだ」
「……嬉しい。使ってみせて」
ねだるように呟く、その言葉に嘘はない。しかしそれより先に渦巻く本心を紡ぐ事はしない。
自分は我慢強い方だと思っていたが。
欲望を押し殺して、いつまでも魔理沙と密やかな会話にだけ興じているのには耐えられそうになかった。
(プレゼントを貰った後は、ケーキを食べる時間……)
早く。心音に合わせる様に、心の中の黒い感情が絶叫を上げる。早く。
口を半開きにしたまま、パチュリーは魔理沙の首筋へと顔を近づけた。
鼻息を抑えるのに必死で呼吸は荒くなり、興奮のあまり視野は極端に狭まっている。
もはや魔理沙が気付こうと気付くまいと関係ない。処女が接吻するかのように神妙な緩やかさで、彼女に肉迫する。
「いくぜ……」
魔理沙は手首のスナップを利かせて、満点の星空の彼方へ、スペルカードを投げ放った。
「これが、お前のスペルに影響を受けて作ったスペル―――」
頭をを斜めに傾ける。唇の触れるほんの手前で、パチュリーは八重歯を露出させた。
鋭く、湿った牙の先端が、魔理沙の肌に押し付けられる。
それよりも一瞬早く。
熱を帯びた眩い光が、パチュリーたちを真上から照らした。
「日符『――――――」
魔理沙の声はそれ以上届いてこなかった。
聞くに絶えない暴音を撒き散らしながら、魔理沙が符を放った上空から降り注ぐ、直視すら出来ない光の奔流。
闇夜に沈み込んだ地上をあまねく染め上げるそれは、昼間の空に浮かぶ太陽と寸分違わない神々しさを纏っていた。
太陽の光を再現するべく、パチュリーが作った日符。それと同じ名前を冠する、魔理沙のスペル。私のための魔法。
(あぁ。これが、運命……)
紫外線が肌を焼く一瞬の間に、全てを理解する。
そして。
パチュリーの身体は灰燼と化し、光と闇のせめぎ合う空の彼方へ舞い散っていった。
「―――こんな運命なんてどう?」
「やっぱり操れるんじゃないの」
血のように赤い紅茶と、それより幾分薄い色の紅茶を飲み交わしながら。
少女二人はくすくすと笑い声を洩らした。
ここが非常に面白かったですw パチュリーだから司書さんかな?
日+火+水は誰が図書館に居るんだろ?
つまり超魔生物パチュリーさんということですね