爽やかな風、穏やかな日差し。
春も大分深くなり、肌を刺すような空気もいまはない。そんな気持ちのいい天気の中、烏天狗の少女はとある一軒家の入り口に着地した。あまりに暖かな外気のせいで思わず欠伸が出てしまうが、これから取材だというのにだらしない格好はしていられない。
ぱんぱんっと。軽く頬を叩き、身なりや、道具を指差し確認。
『手帖とペン、良し』
『写真機、良し』
『多少魅力的な肌の露出、スカートの丈、完璧』
そして、最後に肩掛け鞄から手鏡を取り出して、にこっと微笑む。
『営業スマイル、言う事なし』
計算し尽くされたこの健康的な笑顔なら今日も取材はばっちりだと、自分に言い聞かせ、文は、一度深呼吸してからスライド式の入口に手を掛けた。それを横に動かし、元気良く朝の挨拶を口にする。
「こんにちは、清く正しい射命丸 文で――」
すると風を切る音と共に、太陽の日差しを反射し、輝く物体がいきなり目の前に。その鋭利な切っ先を爪だと判断できたのは、襲撃者の姿によるもの。
「くらえっ! 嘘吐き天狗!」
「あややややっ!」
正面玄関を開けた途端、弾丸と化した化猫が顔めがけて飛び掛ってきて、 咄嗟にしゃがんだ文の頭の上を物凄い速度で行き過ぎた。
「避けるな!」
「む、無茶言わないでっ! 何よいきなりっ!」
いくら天狗と言えど、化猫の一番の武器をまともに受ければ、痛いじゃ済まない。 本気で相手を切り裂くために使おうとするなら、大木すら豆腐のように分割することができる。今の化猫『橙』の一撃はもちろんその本気の攻撃に他ならず。ましてや、正面玄関付近の壁を蹴る加速つき。
文でなければ、今の不意打ちを避ける事すら難しかったかもしれない。それでも、取材用の口調から素の物言いに変化しているところからして、相当驚かされたのは確かだった。
「今度こそ!」
橙は、正面玄関前の地面に四つん這いで着地し、尻尾をくるりと回してバランスを取ると、間髪いれずに地をけって文の背中へと迫る。驚いているところに畳み掛け、思考をさせないまま制圧し無力化する。それが橙の計画に違いない。
「おやおや、これは困り者ですね」
しかし、既に文の口調はいつもの丁寧なものに戻っていた。穏やかで余裕の篭もった口調が意味するのは、単純な嘲り。それに合わせて動作も隙のないものへと変移していた。それでも真っ向から襲い掛かってくる橙を冷めた目で見下ろすと、ぱちんっと指を鳴らす。
「え? う、うわぁっ!」
たったそれだけで、文と橙の空気が巻き上がり、気流が変化する。その変化の中心は、橙の足元。避けようもないタイミングで真下から荒れ狂う風を受けた橙は、いとも簡単に屋根の高さほどまで吹き飛ばされ、足場という自由を失った。
『空中に投げ出されたのなら、飛べばいいのではないか?』
今の現状を客観的に観察するだけの者がいれば、そんな暴言を吐くかもしれない。しかし考えても見て欲しい。急に地面という基盤を失い、混乱の最中で手足を無様に振り回す。そんな橙に冷静になれと言うほうが到底無理な所業で、姿勢をなんとか維持するのがやっと。空中で体勢を立て直すことができたのは打ち上げられてから数秒が経過した頃で、再び文へと仕掛けようとする橙だったが。小さな体の周囲には、すでにもう一つ。別の戒めが完成していた。
「え、あ、あれ?」
真下に行こうとすれば、見えない力によって再び打ち上げられ。ならば右に身を振ろうとすると、見えない力に肩を押され、無理やり横回転させられる。
「はぅあっ! くそ、このっ!!」
左に行っても、同じ余計に目を回すことになるだけ。『なら一度上昇し距離を取れば!』そう橙が思ったときにはもう遅く。前後左右に加え、上下からも、不気味な圧力が橙の全身に加わり、身動きすらままならなくなってしまう。
「……ひ、卑怯者!」
不意をうったはずなのに、気がつけば空中で大の字に四肢を固定され、いとも容易く無力化された。その悔しさで牙を剥き、声を吐き出すがそれはすでに負け猫の遠吠えでしかなく。往生際の悪い相手としてしか、文の瞳に映らない。
「あのですね、卑怯な真似をしたのはそちらが先でしょう? しばらくそこで反省してください」
定期購読のお客に新聞を配るついでに、取材に来ただけ。なのにいきなり襲われるという理不尽な目にあった文は、珍しく不機嫌さを隠さずに襲撃者を見上げた。しかしそれでも、風の檻に捕らわれた橙は振り払えない風をなんとかしようと手足に力を込める。
「あんな変な新聞書くのが悪い! 藍様を馬鹿にしてっ!」
「……はて? 藍さんを馬鹿にする?」
「とぼけるな! 人里の、豆腐屋のことで、藍様を悪く書いてた癖に」
「言い掛かりはやめてくださいよ、私は別にそんな記事を書いたわけじゃないんですから。ただ、証言を正直に書いているだけで」
「嘘だっ!」
やれやれ、と言うように額に指先を触れさせて首を左右に振る。
どうやっても自分の意見を聞いてくれず、暴れつづける八雲の式の式を冷ややかな瞳で見上げ、もう相手にする必要はないと背を向け、
「すまない、ちょっと待ってくれないか」
しかし、その行動はいつのまにか隣に並ぶ九尾の式『八雲 藍』の声に止められた。気配なく側まで接近していた藍に対し警戒を強める文だったが、その顔を見て緊張を解いた。橙を苛めた仕返しをしようという気配など微塵もなく、その表情のどこにも険しさなどなかったから。
「私が言い聞かせるから、今日だけは許してあげて欲しい」
深々と頭を下げる、九尾の後ろ頭をちらりっと見て、大きく息を吐いてから、文はもう一度指を鳴らした。たったそれだけで、橙を束縛していた風が消え去り、橙は頭から地面へと垂直落下するが、そこは化猫の真骨頂。くるりっと、器用に体を捻って見事に足から着地する。膝で下半身の衝撃を殺し、上半身は地面に両手を突くことで支えた。
そうやって地面に這い蹲るような体勢から、橙は再び獲物に狙いをつける。両手の先を文の方へと向け、懲りずに攻撃を繰り返そうとする。
しかし、それを許す藍ではない。
「橙っ!」
いきなり空気を震わせた鋭い怒鳴り声に、橙をびくりっと大きく肩を跳ねさせた。
橙が、怖々と声の方へ顔を向けると、鋭い眼光をした藍がそこにいて、『頭を下げた私に恥をかかせるつもりか?』とでも言うように、大きく尻尾をくねらせていた。
主の強い意志をぶつけられた橙にできることと言えば、ぺたんっと耳を倒し、すごすごと文の前から藍の後ろへと移動することだけ。
ただ、藍に見えない位置まで移動してから『あっかんべー』を文に向かって実行した。最後の抵抗のつもりなのだろう。
そんな可愛らしい反撃を知ってか知らずか。ほっと一息ついた藍は文に向かって屋敷の中を指し示す。
「さて、では無礼の詫びだ。少々お茶などいかがかな?」
「はい、こちらも記事のことで確かめたいことがあったので是非とも♪」
対照的な態度の二人の式に案内されて、文は家の中へと足を進めた。
◇ ◇ ◇
「油揚げが、ない?」
「ああ、おそらく文がこの写真を新聞に乗せた日から今までずっと、もう五日間になるかな」
二畳分ほどの大きさの座卓についた文の前に、藍はすっと一枚の新聞を差し出した。その新聞の名は文々。新聞、もちろん文が作成したものである。その新聞の見出しも内容も見覚えがあり、可愛らしい字で書かれていることからしても間違いはない。
「ふむ、それは奇怪ですな。私が情報を集めていたときは、まだ店頭に油揚げがあったはずなんですが」
「……追跡調査はしていないのかい?」
「はい、少量の油揚げが盗まれたとしか店主から聞いていませんでしたし」
文が手帖を広げて、最近手に入れた万年筆を走らせていると、どんっと言う音と共に、お茶が手元に置かれた。あまりに荒々しくおかれたので水面が波打ち、その雫の一つが文の右手に降りかかってしまう。
「熱っ! はは、どうやら、嫌われましたかな?」
「こらっ! 橙! お客様に対して失礼だろう!」
「こんな烏、ただ邪魔なだけで――」
文の対面でお手本のような正座をする藍の横。そこに座りながら文に人差し指を向けるという、客人に対し失礼な行為。それを何の悪気もなく行う橙を見つめていた藍の瞳が一瞬だけ、金色に輝いた。
「へえ、お客様に指を向け、邪魔だと? 私がいつ、そんなことを教えたの?」
「あっ! ご、ごめんなさぃ……」
文に茶を配ってから戻ってきた橙を見つめる藍の表情は、さっき正面玄関付近で見せた微笑みと大差ない。それなのに纏った気配の重さが違うせいで、橙が正座したままカタカタと震え始めてしまう。手を膝の上でぎゅっと握り、顔色もどんどん青くなっていく。そんな橙の頭の上に藍が、すぅっと手を持って行くと、次に襲い掛かるはずの痛みを想像した橙が体を縮めて、きつく瞳を閉じた。
しかし、頭の上に振り下ろされたのは、暖かい手の平で。ぽんぽんっと軽く頭の上で弾むだけ。一瞬だけ張り詰めた空気があっという間に霧散していく。
「二度も嫌な思いをさせてすまないとは思うが、一応この場はこれで流してくれると助かるよ」
「いえいえ、構いませんよ。私としては記事になりそうな情報が第一ですからね。では、話を続けていただけますか?」
「ありがとう。そう言ってくれると気が楽になる」
机の上にぐっと身を乗り出し。待ちきれないといった様子で万年筆を揺らす文は、正直橙の躾のことなんてもう頭の片隅にすらなかった。情報という餌を目の前で吊るされてお預け状態なのだから。そんな文の様子を見てくすり、と一度微笑んでから。藍は新聞の中の写真を指差す。
「では、話を続けるが、記事の中で『人里で泥棒事件発生、狙われたのは油揚げ』とあるだろう? そして写真でもその泥棒と思われる姿も少しだけ見て取れる」
「まあ、私も偶然その場に居合わせただけですからね。怒鳴り声がした方向へ反射的にレンズを向けたら、その尻尾だけが撮れたといいますか」
文がこの事件に出くわしたのは、六日前。人里で取材を行っているときだった。いろんな出店や、民家、寺子屋を回って何か記事になる事件や、ちょっとした出来事を探していたわけだが。花見や春祭りが終わった後の人里でそうそう話題が転がっているわけがなく、『そろそろ田植えの時期だなぁ』くらいの話しか聞けなかった。もちろんそれも記事にする予定の内容ではあるが、季節の定例行事ばかり記事にしては面白くないのでどうしたものかと腕を組んでいると。
ちょうど文が通り過ぎた豆腐屋で、唐突に大きな声が響いた。
『ど、どろぼー!』
これは、スクープかもしれない、と。
一瞬で叫び声の方に振り返り動く影へ向けてシャッターを切った。しかし写真として残せたのは揺れる黄金色の立派な尻尾の先だけ。ちょうど細い路地へと姿を隠そうとしているところだった。慌てて後を追ってみたが、見失ってしまい。
「曲がったところで人里では珍しい、白い髪の少女を見つけて声を掛けてみたんですが、やっぱり犯人らしい尻尾持ちは、見ていないとのことでしてね。仕方なく道を戻り、店主に尋ねたところ」
「この記事のようなことを聞かされた、と?」
「はい、間違いなく」
文の話を聞いているうちに、前のめりになり始めていた姿勢を一度正し。藍は新聞の記事を見た。何度も何度も、目に焼き付くほど読んだその内容をもう一度読み返せば。店主の証言にこんなものが。
『藍ちゃんの妹かなんかじゃないのかい? 立派な尻尾だったけど。もしそうならちゃんと躾とかして欲しいもんだ』
はっきり言って。
この記事を読んだとき、藍はしばらく何も考えることができなかった。
大好きな油揚げが盗まれたから、ではなく。
『立派な尻尾』と『藍の妹』。
という二つのキーワードで、心臓が止まるのではないかと思うくらい衝撃を受けた。それが意味するものは当然、一つしかない。あまりに力を持ち過ぎたため、人間に狩られ、又は神や仏となって地上から消え失せた者たち。
『九尾の一族』
それが、この幻想郷の中に残っていたか。
それとも、そう思わせたい誰かが動いているか。
もしくは、また別の何かか。
それを考えただけで表現しきれない焦燥が藍の中を駆け巡った。
「妖怪の山で妙な妖怪を見た、という情報はないのかい?」
「いえ、特には。白狼天狗の日報や調書にも何も。もちろん、私以外の烏天狗も特に情報を得ていないようです。見つけていれば新聞になって配布されるでしょうからね」
「それもそうか。噂好きの鴉天狗が、妖怪の山の中で出し惜しみするはずがないしね」
「そういうことですね、まあ、それでも『犯人は九尾か?』って部分は載せない方がよかったかもしれませんな。そちらのお嬢さんを不快にさせてしまいましたし」
文が苦笑しながら橙に手を振るが、まだ納得のいっていない橙は頬を膨らませて文を睨み続けている。確かに、藍も記事を見たときは腹立たしいと思う部分はあった。しかしそんな感情が生まれたのは一瞬だけで、胸の奥から何か暖かいものが溢れ出すようだった。まるで故郷を思い出したときの懐かしさが満ちるように。
「あの命蓮寺の正体不明の妖怪や、永遠亭の波長を狂わせる妖獣であれば、錯覚を引き起こすことはできるかもしれない。ただ、こうもしっかり写真として残るのは考えにくい。写真機は光の反射を利用して映像を生み出す機械だからね。精神を狂わせたとしても、客観的に見る外見は変わらないはず。そうなれば尻尾を能力で再現できる者としては、霧状態になり姿を変えられる鬼が上げられるが、種族的観点から考えて嘘を付くのは論外。消去法で判断していっても、この写真の尻尾の持ち主は何かの妖獣か獣人である可能性が高いね。さらに尻尾のボリュームからして、一尾とは考えにくい。しかも油揚げしか狙わないのなら……必然的にね」
「あやや、フォローどうもありがとうございます」
「いやいや、こちらこそ。久しぶりに昔を思い出すきっかけを新聞から貰ったんだ。私がお礼を言いたいくらいだよ」
幻想郷を駆け回る天狗でも知らないとなると、やはりその獣は最近になって人里に出没するようになったと見て間違いない。幻想郷の中にいた相手か、それとも外にいた獣かまではわからないが。それを確認しておかなければ大変なことになる。もしずっと幻想郷の中で隠れて暮らしていたのなら、スペルカードでの争いごとや、人里で人を襲わないようにと、人間の数を維持するため、紫が古参の妖怪たちと決まりごとを作ったのも知っているはず。
しかし、幻想郷の妖怪を呼び込む結界が作用し、外から呼び込んだと考えるのなら。その妖怪は、スペルカードルールも妖怪たちの暗黙のルールも知らない。
今は油揚げだけしか被害が出ていないが、もし満月の夜に暴走しようものならどうなるか。それが本当に九尾だったら、被害はどれほどのものになるか。考えただけでも同属として頭が痛くなる。しかも、満月は二日後という押し迫った状況だ。
「そういえば紫さんの姿が見えませんね。やはりその事件のことで何か行動をしていると?」
「そうなんだ。今日から本格的に動くとおっしゃってね。不肖、私がお客様の相手をさせて貰っているよ。一人の方が勝手が良いと同行は拒否され、留守番を命じられてしまった。少しだけ家に戻ったあとはずっと境界と里の様子を探っていらっしゃる」
「朝食だけ摂りにお帰りになられましたよね?」
「ああ、橙が寝ていたころにね」
「ふむふむ、なるほど、これはかなり厄介ですな」
文も、事の重大さに気づいたか、手帖に素早く文字を書き込みながら唸り声を上げている。きっと頭の中では、その事件をどう書こうかとイメージが膨らんでいるに違いない。
「あ、ところで、霊夢さんには?」
「詳しいことは知らせていないよ。おそらく新聞で得た情報しか持っていない。それでも直感で何か気づくかもしれないけどね」
「人里から退治依頼が出るまでは特に動きはない、と、見るべきかもしれませんね。しかし紫さんの性格からすれば、霊夢さんの教育のために何かさせようとするはずだと思ったのですが……っと、っとと。失礼、これは無粋でしたな」
苦笑し、万年筆を置く文の前で、藍も微笑を返す。紫がこうも内々に処理したがる理由が、文の目の前にあったから。
「まあ、そういうことだよ。私のことなど気にしなくていいと思うんだがね」
もしも、最終的に『処理』を行う必要がある案件だとしても、式として、家族として。共に生活してきた藍と同じ種族かもしれない相手に対して、安易に判断することができない。藍を大切に思う感情こそ、紫が直接動くこととなった理由なのだから。
「なるほど、では私も安易に新聞にはできませんな。もう少し詳しい情報を集めてからでないと。紫さんからお仕置きを受けることだけはなんとしても避けたいですし」
「そうしてくれると助かる、こちらもあまり波風を立たせたくないのでね。泥棒事件だけで収められればいいんだが」
「新しい妖怪が悪さをするかもしれないという憶測だけでも、人間が怯えるには十分すぎる情報ですし。同じ妖怪として人里の出入りが難しくなるのはこちらとしても望みませんからね。慎重にいきましょう」
『取扱い注意』――
そんな文字を手帖に書き加え、文は胸のポケットの中にそれをしまい込む。藍の前だからどうしても奇麗事を口にしてしまうが、それでも彼女は新聞記者の端くれ。なんとか自分の新聞で大きく報道したいのが本音であった。
なので。
「さて、それでは私も夕飯の買出しのついでに、人里で聞き取りでもしてみようか。文はこれからどうする? もし良ければ一緒に情報収集でもしてみるかい?」
こんな美味しいお誘いを、文が断るはずがなく。
「大賛成です。あ、それと、ちょっと会話の中で気になることがあったので、向かいながら質問させて貰っていいですか?」
「ああ、答えられれることなら構わないよ。それじゃあ、橙は……」
留守番を。
たったそれだけ告げようと橙の方を藍が見下ろすと。
頬を膨らませて、服をぎゅっと掴むという。
破壊力抜群の仕草で、上目遣いのまま藍を見つめていた。
しかし、藍はじっと見つめ返し、とんっと橙の両肩に手を置く。そしてそのまま押さえつけるように軽く力を加えた。
その行動が何を意味するかを察した橙はしゅんっと、肩を落とし。瞳に涙を溜め始める。
しかし彼女の、藍の判断は変わらない。
言わばこれば、紫の命令外の行動。
本当なら主である紫の意思を確認した上で行動しなければ、実力をすべて出し切ることもできない。さらに、紫が本気で調べまわっている状況で、式である藍が動くということは。『主を信頼していない』と受け取られても否定できない行動だ。それを知られれば紫からお叱りは必須。いままではなんとか『駄目だ』と自分に言い聞かせて耐えてきたが、文という要素のために我慢しきれなくなった。
いわば、単なる藍の我侭でしかない。
(そんなものに大切な橙を巻き込んで、紫様から処罰を受けさせるわけにはいかない。こんな愛らしい橙を、ちゃんと自分が守らなければいけない。ああ、もう、可愛いなぁ。橙はやっぱり可愛いなぁ。泣きそうな顔も可愛い。ああ、可愛い、可愛い……)
「一緒に行こうか♪」
「はい♪」
「えぇっ!?」
橙のことになると駄目になる。
そんな噂は聞いていた文だったが、ここまでとは知らず。思わず手帖を取り落とし、素っ頓狂な声を上げてしまう。てっきり藍が断るものとばかり思っていたのに、結果はコレ。
「連れて行くんですか……?」
明らかに取材の邪魔、というトーンで問い掛けてみるが。
「ああ、橙も行きたいらしいからね。家のことは大丈夫だよ。留守は紫様から預かった『前鬼·後鬼』に任せるから」
もう、今からピクニックにでも出かけるようなノリノリの口調で返されてしまう。その手はしっかりと橙の頭の上で、優しく左右に動いているし。撫でられている方は、『どうよ』とでも言いたげに文に視線を向けている。
「そうですか、では、準備が出来次第出発ということで」
取材する側、という立場のせいであまり反論もできない文は。ぺちっと手帖で自分の額を叩いてから、素早く立ち上がり。肩を竦めたまま廊下へと出て行く。その背中は藍と橙にただただ呆れているようにしか見えず。 藍も、複雑な表情でそれを見送る。
その視線が消えてから、文は廊下から一気に正面玄関まで抜け。
「……さて、と。藍さんが式を連れて行くのなら、私も少々」
正面玄関から外に出た文は、つぶやきながら徐に右腕をまっすぐ上げた。すると、それを待っていたかのように真っ黒な影が近くの茂みから踊り出る。文が使役する鴉の一羽だ。主人の腕を腕を宿木代わりに止まる鴉は、『何か御用?』とでも言いたげに首を傾げ。そんな烏の頭を指先で撫でる文は、そっと唇を近づけて微かに動かした。
その眷属の鴉にしか聞こえないように、細心の注意を払い、たった一言だけ。それを聞き終えた鴉は一直線に、空の彼方へと消えていく。
通常の烏とは比べ物にならない速度で離れていく黒い影。それを見送る文の表情は、いつものにこやかな新聞記者の顔ではなく。
鷹のように、鋭く尖った目をしていたという。
◇ ◇ ◇
「……へ? 葉っぱだった?」
「ああ、そのとおり。よく狐が使う手段さ」
人里へゆっくりと、会話ができる程度の速度で飛びながら文が質問をしたら。少々気恥ずかしそうな藍の声が返ってくる。文と藍を引き離すように、間に割って入って飛ぶ橙も意外そうにその表情を見つめていた。
「えっと、私が犯人を見つけて追いかけたとき。残っていた油揚げが全部。葉っぱにすり返られていた。ということでいいんでしょうか」
「ああ、そういうことだね。犯人は数枚だけ盗んだと見せかけて、一瞬のうちにすべてを入れ替えたんだろう。すばらしい手際だよ」
「ふーん、となると。油揚げが大好きな種族ということで、やはり狐の可能性が高いというわけですね。これは重大な情報をありがとうございます」
「店の主に聞いても、似たような話は聞けると思うよ? 調べるのなら、何度も足を運ばないとね」
「あやややや、また耳の痛いことを」
舌をぺろっと出して、指先を額に触れさせる。
そんな仕草を見せ、文はぱらぱらと手帖を開いた。
普通、空を飛びながら書物を開くことなどできるはずがないのだが、この鴉天狗である文は風を操ることができ。ほとんど羽を動かさなくても飛ぶことが可能なほど自由自在。だから手元だけ無風状態にするなど簡単なのだろう。
「しかし、それを見抜くとはさすが藍さんですね。人里で買い物したときにでも発見したのですかな?」
「あー、それはだね……」
するとまた、頬を染めてぽりぽりと頬を掻き。
少し間を置いてから口を開いた。
「……化かされたんだよ」
「はい? 藍さんがっ?」
「ああ、油揚げだと思って手に取ったら、その瞬間どろんって、葉っぱになった。あまりに見事にね」
文は、『ふむ』と小さく唸り、すばやく万年筆を動かす。藍の証言が確かなら、相手は狐や『ぬえ』のような変化させる力を持っている。しかも藍をあっさり騙せるほどの能力者であるのなら、かなりの強者。
そんな相手がもし、油揚げ以外を狙ったとしたら、人里は一夜にして地獄と化すかもしれない。
「ま、そのへんのことも踏まえて、とりあえず豆腐屋へ直行でもいいですかね?」
「そうだね、ちょうど見えてきたし」
会話をしながら飛んでいる間に、眼下の世界が緑から黒や茶色へと変わる。黒い屋根たちの間では忙しそうに人間たちが動き続け、いつもと変わらない日常を過ごしているように見えた。遠目で見ただけでは特に異変はないように見えるが。
「やあ、店主、景気はどうだい?」
藍が馴染みの豆腐屋の屋根を見つけて着地し、声を掛けた瞬間。
「ら、藍ちゃぁぁぁ~~ん!」
いきなり男が泣きながら店から出てきて、藍に抱きついてくる。豆腐を入れてある大きな水槽が、比較的に見て他の店より通りに近い位置にあるため、すぐに通りまで出るのは可能と推測はできるが。今の店主の初速は、人間とは思えないものだった。
しかも藍以上に大きい、ちょっとぽっちゃりした人物の出した速度とは到底思えない速さ。普通なら、体当たりの衝撃で後ろに下がったり、勢いあまって倒されてたりして、危ない絵面になる可能性が高いのだが。
「おやおや、常連だからといって、お客さんに抱きついてはいけないよ」
藍は微動だにしない。平然と体全体で男を受け止め、困ったように軽く手を上げているだけ。普段から今の何倍も速い橙のタックルを笑顔で受け止め続けている藍だからこそ、重心の移動は完璧。ぶんっと尻尾を振り回しただけで、逆に男を押し返してしまう。その反動で体を男から自然と引き離すと、再び抱きつかれないように尻尾の一本を男との間に差し込んだ。
「そうだ! 変態! 藍様に近づくなっ!」
「ふむ、九尾と人間の、油揚げが繋ぐ愛、豊満な体をぶつけ合い気持ちを確かめる、と……良い写真が取れました」
「……揚げは揚げでも、でっち上げはやめてくれないか」
「お、上手いですね。まあお蔵入り写真ということで」
「ちゃんと破棄しておくようにね」
藍に続いて降りてきた二人を振り返った後で、また正面の店主の方へと向き直る。多少落ち着いてくれればいいと期待をする彼女ではあったが、店主はまだ落ち着きを取り戻してはいないようで、ハンカチで溢れ出る涙を拭いていた。
「今日もやられた、やられちまったよぉ」
「まあまあ、落ち着いて。何があったか話してくれないか」
しくしくと悲しみに暮れる店主の背中をさすって、励ます藍だったが、内心は穏やかではない。正直驚きだった。
ぽつり、ぽつり、と事情を説明する店主の話の中から見えるその手際が実に素晴らしいから。
最初の一回目だけしか、藍のような九尾の姿を見せず。
被害者曰く、ある日は子供の姿、
またある日は、大人の女性の姿、
毎日その姿が変わるのだそうだ。
そしてそのお客が。
『あっちにある商品は何?』
と尋ねたり、店主が油揚げから視線を外す行動をわざと取らせて。
その、ほんの一瞬で油揚げと、偽物をすり変えるのだと言う。
一度目は姿を見せたまま犯行に及び、逃げるときまで妖狐の姿。
二度目以降は、葉っぱになる油揚げが残されるだけで、その姿も忽然と消えていた。それがここ最近、油揚げが消える事件の真相なのだが。
――やはり、不自然すぎる。
「んー、姿を隠さないまま泥棒すると捕まりそうだから、二回目からはこっそりってことでしょうか?」
「そうだね、橙。変化を覚えたばかりの人との関わりが少なかった狐ならそうも考えられる。でも、そうなると納得いかないことが多すぎるかな」
「そうですな、少なくとも物を買うという知識を持った妖怪のようで。むしろ人間社会に詳しい部類かと。本気で油揚げを欲しているとは思うのですが、狩りの真似事をして遊んでいるだけ。そんな気もするんですよね」
実際、そうなのである。
最初から狐という姿を見せず、油揚げだけに固執しなければ。いくらでも偽装できたはず。それなのに盗んでいくのは油揚げばかり。文の話ではそれ以外で被害にあった品目はないとのことで、それが生むのは……
容易な種族の固定と、いらぬ疑惑。
普通犯人であれば自分にたどり着く証拠を消そうとするはず。
「むしろ、自分がここにいるのを。誰かに示しているような……」
手帖に文字を走らせながら文がぼそり、とつぶやいた言葉に、藍は心の中だけで同意した。
野生の世界でも、相手の縄張りに自分がいることを示すことは多々ある。その多くは争いにつながってしまうけれど、今回もその自己主張が強いと考えた方が自然。
「ふむ、長々と悪かったね。また油揚げがあるときに足を運ぶよ。犯人についてはこっちでも調べてみるから。気をあまり落とさないようにね」
助けを求めるように向けられ続ける店主の視線を気にしながらも、藍はくるりっと背を向けて、里の中央へ向けてゆっくりと歩き出す。目的地があったわけではない。ただ、なんとなく歩きながら考えてみたくなったから。
それと、確かめてみたいことが一つ。
『何してるんですか?』
と、文や橙が問い掛けても。
『まあまあ、いいから。もう少し歩いてみようじゃないか』
歩きながら雑談を続けようとする。
人通りの多い道ばかりを選んで歩いているのかと思えば、不意に裏路地に足を運んでみたりと。まるで一貫性がない。本当に散歩しているだけにも思える。
無駄なことをするくらいなら、一人で取材をしようか。文がそう思って、藍から離れようとしたのは、本日三回目の裏路地進入のとき。誰もいない道を進んでいるときだった。
民家の間に作られた、移動のためだけに使われる通路。屋根のせいで昼頃でないと通路に光が当たらない場所。大人三人がやっと歩けるような狭さと薄暗さで、露店など開けるはずもなく。時折、家の中から聞こえる誰かが咳き込む音や、砂と擦れ合う乾いた足音がよく響く。そんな閑散とした空間に長々いたとしても、利益があるとは考えにくい。
やはり、ここらが潮時か、と。
文は手帖を胸にしまい込み、静かに藍と橙の足音から離れるようと足を遅くしたら、足音が止まった。
藍や橙のものではない。
二人は文の前でゆっくり歩いているし、音がとまるはずもない。
彼女自身も速度は緩めたが、決して止めたわけではないのに、耳は、一つの音が止まったことを感じ取っていた。
つまり、通路の中に三人以外の別の足音があったということ。
文が分かれて聞き込みをするために速度を落としたため、それが急にぴたりと止まったわけだ。
そのせいで音が変化し、無音が第三者の存在を知らせた。
そんな文のわずかな変化を気にしながら尾行していた者が。
怪しい奴がここにいると、風が教えてくる。
風が知らせる距離は、10メートル。
しかも藍と橙はすでに出口まで辿り着いていて。音を出す影はちょうど通路の真中あたり。物陰に隠れられるような場所もない。
「もう、文は駄目だね、堪え性がない」
油揚げ事件と、九尾が出たという噂。
それをわざと広げたのだとしたら、その犯人は何かの目的で藍のような九尾を探している可能性がある。もしくは、妖狐という種族か。
それを確かめるために、散歩するようにうろついたら、見事に掛かった。
「もう少ししたら人里から出るというのに」
そんな後ろの変化を感じ取り、背中を文に向けたまま藍は肩を落とす。
「ちゃんと説明してくれないからですよ。もう別なところ行こうかと思って、速度を緩めたら。見つけてしまったわけでして。故意ではないことを訴えさせていただきます」
「知らせるとどうしても行動が不自然になると思って知らせなかったんだが、裏目にでてしまったか。狐の妖怪は細かい変化を敏感に感じ取るから、下手に意識すると尾行してくれないしね。それに、だ」
藍がゆっくりと振り返り、文も釣られるように後ろに視線を向ける。
すると――
「あっ!」
思わず、文は声を上げていた。
薄暗い狭い路地の中でうつむき加減で立っていたのは、あのときの少女。
文が最初の事件のときに、妖狐を追いかけたとき曲がり角で出会った。
まだ、どこかにあどけなさの残る、白髪の少女だ。ただその暗がりの中でも、爛々と光る金色の瞳だけが、異質さを表現していた。
人ではない『何か』であることを証明するかのように。
「人里の中で、妖狐が本気で力を振るうことは避けたかったんだけどね」
「……」
正体を暴かれたにも関わらず、少女は何の反応も示さない。
薄暗い路地の中で、じっと前を見据えている。
いや、前というより。
その視線は文や橙を完全に無視して、藍だけに注がれているようにも見えた。
「そちらの意図は理解しているよ。ここまでしっかりと尾行してくれたんだ。人里に妖狐がいることを広めて、他の妖狐を呼び出したかったんだろう? 餌場と縄張りの確認のために」
いつも胸の前で組んでいる手を解き。
藍はだらりと両腕を垂らすと、その手元を長い袖で隠しつつ、わずかながら妖力を開放させる。尻尾もできるだけ広げて、少しでも体を大きく見せるように。
相手より自分を大きく、動物でいう威嚇の行動だ。
そんな中で手を隠しているのは文字通り手の内を隠すため、相手を化かし、不意をうつと言われる妖獣、その最高峰である九尾の藍の戦い方は巧妙にして奇怪。奢らず、ただ的確に相手を砕く一手を計算し実践する。そのために何度も相手を惑わし、抵抗力を奪うのである。
「さあ、この場でやるかい? それとも……移動するのかな? 個人的には穏便にすませたいところなんだけどね」
九尾同士の戦いとなると、直接的な妖力の衝突だけで周囲を破壊する恐れがある。
それを理解しているのか。
白髪の少女は脅しにもまったく動じず、本来の姿に戻ろうともしない。
藍が力を少しだけ解放して見せても、わずかに体を震えさせただけでそれ以降はただ、観察するように藍へと金色の瞳を向けていた。意思をほとんど感じさせない瞳は、まるで。
『あなたの力はこの程度か』
と、落胆しているようにも見える。
しかし、それは仕方ないというもの。藍は『八雲 紫の式』として幻想郷に存在している。命令どおりに行動するのであれば、その力は無類の強さを誇るが。
今、藍は紫の『家で待機する』という命令を破って行動している。
命令を破ること事体、普通の式ではありえないことなのだが。当然、主の意思を裏切る行動には束縛がかかる。
だからもし、目の前の少女が証言どおり九尾で、その性格が獰猛極まりなかった場合。藍は、足枷、手枷を付けられた状態で戦わなければいけないということ。しかも相手が、世界の境界を越えて現れた新参だとするなら。スペルカードルールも通用しない。
だから必死で考える。
この場で戦闘せずに乗り切る方法を。橙を、人里を、紫が愛する幻想郷を、少しでも傷つけない方法を探す。わずかな時間で、稚拙な策を何度も練り直し。導き出された最良の選択肢は、やはり。
「文、少々頼みたいことがあるんだが」
「ん~、妖怪の山に関する争いごとしか荷担しないことにしてるんですけど」
「頼むよ、後で何か目一杯取材に協力するから」
「ふむ、それならば」
一対一で勝利が見えないのなら、一対二。
それでも駄目なら、藍の力を上乗せした橙を使う。
平静な仮面の底に、不安を押し隠し。藍は何の行動も示さない相手に、再度口を開こうとする。しかし、それより早く。
「とりあえず、取材の約束はちゃんと守っていただきますよ♪ 何があろうと」
「あ、こら、文! 危険だっ!」
何を思ったか、文がカメラを片手に無防備に少女へと近づく。正体を隠した狡猾な九尾へと、足取り軽く歩み寄り。
ぱしゃりっと写真を一枚。
それでも少女は瞬きすらしない。
本当に、藍しか相手にしていないように、じっと。文が手を伸ばせば触れられる位置まで、容易に接近を許した。
「馬鹿、早く離れるんだ!」
しかしその距離はいくら鴉天狗と言えども少女の射程内。
藍がいくら叫んだところで、相手がその気になれば、一瞬のうちに文に深い傷を負わせることくらいは……
「ふむ、藍さん。どうやら勘違いされているようですが」
それでも文は余裕の笑みを崩さずに。
軽い握り拳を作って、少女のおでこへとゆっくり近づけ。
こんっと。
扉を優しくノックするように叩く。
「なっ!?」
あまりに不用意な行動に藍は驚き、身構える。
さすがにそこまでされて、じっとしていられるわけがない。
少女は叩かれた力で、一度後ろへと上半身を傾け。
勢いをつけるために、その身を屈め――
文の喉笛に手を伸ばす。
――ようなことはなく。
少女は藍の目の前でどんどんと後ろに傾き続け。
どさりっと。後頭部をまともに打ち付ける形で倒れてしまう。
その様子を、目を丸くする藍が見守り、文は動かないことを頬をついたりして確認してから、おもむろに片足を掴んだ。
「どうやら、人の様子や顔色を探る技術なら。私の方が上のようで」
掴んだまま、ずりずり、と藍のところに持ってくる。
最初の藍の『軽い気当て』だけで気絶してしまっていた、情けない少女を。
「……紫様には、今のやり取りを内緒にしてくれないか」
そんな少女に向けて、自分が大袈裟な態度をとっていたことを思い出した藍は、咳払いをしながら頬を赤らめ、文へと片目を向ける。
すると、文は指を三本立てて。
「密着取材、三日間」
そう宣言してきたのだという。
こうして、藍の奇妙な共同生活が幕を開けたのだった。
◇ ◇ ◇
さわやかな小鳥の囀り。
春告精が運んできた、うららかな季節の中。
橙と、白い狐型の妖獣は楽しそうに中庭で飛び跳ねていた。
紫は縁側で腰掛けながらその様子を見守り、母性の溢れる瞳で眺める。
そんな、優しい、優しい、ひと時の中で。
「まことにっ! 誠に申し訳ありませんでした」
一匹の九尾が、ガタガタと震えながら土下座していた。
額を冷たい廊下に擦り付け、これ以上ないほど体を強張らせて。
その服は毛穴から噴出した冷や汗でぐっしょりと濡れており、尻尾も力なく廊下の上で放射状に広がっていた。
「あら、らぁん? 何を謝る必要があるのかしらぁ?」
間延びした、間抜けとも取れる口調。そんなおっとりした声音で藍の頭を撫でる、主人の手。顔を廊下に向けているので藍はその表情を見ることはできないが、その表情は見なくても予測できる。
笑っているはずである。
いつもの紫からは想像できない、屈託のない、満面の笑みで笑っているはずなのである。
「らぁんちゃんはぁ~、私が頼りないからぁ、自分で動いてぇ~、私の判断も仰がずに勝手に見ず知らずの妖狐を連れ込んでぇ~、それに部屋まで与えたのよねぇ~♪」
藍の後頭部を押さえるその手が、髪の毛を梳き込むようなその指が、どんどんと力を帯びていく。
笑っているはずなのに、笑えない力が込められていく。
「も、申し訳ありません、しかし妖狐が出たとあっては、どうしてもじっとしていられなくなりまして……」
「それで私の言い付けを破っても良いと? 立派になったわねぇ♪」
「あ、え、いや……決してそのような……」
それは昨日のこと。
気絶した少女をどうしても放置できなくて。
日が暮れた頃に橙と一緒に、紫の屋敷へと連れ帰り。
空いた部屋に布団を敷いて休ませた。安らかな寝息を立てるその白い髪の少女の顔を覗き込んでいると。
「あっ!?」
その直後、すっと藍の背筋を誰かが指でなぞって来て。
「こら橙、いたずらをしてはいけないよ」
と、振り返って優しく叱り付けるが、橙はぶんぶんっと首を横に振るばかり。
そして畳の上に置かれた一枚の白い紙を指差した。
さっきまでそこになかったはずの、二つの手の平よりも大きな紙。それを訝しげに藍が拾い上げたら……
『明日、ゆっくり話し合いましょうか』
と、白い紙の上に見たことのある流麗な文字が並んでいて。
藍を激しい寒気が襲った。
そして今日、こうやって話し合う機会が与えられたわけだが、藍にできるのは頭を廊下に擦り付け平謝りすることだけ。それ以外の行動を取ろうとしても威圧感が勝り、土下座を継続するしか選択肢はなかった。
しかしそんな重い空気を打ち破る声、天の声が、まさしく空から。
「大妖怪は責めるのがお好き、毎日妖狐さんと妖艶なる日々を、ふむ、」
屋根の上から声がした直後、いきなり人影が逆さ吊りになって振ってくる。だが、地面までは落下することなく、しっかりとふくらはぎで体重を支えて、ゆらゆらっと。二人に背を向け、屋根から足でぶら下がった体勢で手帖を取り出していた。
天地真逆なのに、しっかりとスカートの中身をガードできているのは、風を扱う能力の無駄遣いといったところか。帽子が外れないのも同じ原理に違いない。
「そういえば、あなたが入り浸るのも藍が認めたんだったかしら?」
「い、いえ、私はただ密着取材を認めただけでして……まさか、私の部屋に寝袋まで持ってくるとは思わず……」
「ああ、別に気にしなくてもいいですよ。艶やかな夜の生活をしていただいても全然かまいません、名前は伏せますし」
「気にしない方が不可能だろう。それに私が誰とそういう生活をするっていうんだい?」
「ほら、そこの」
身を捻り、綺麗に着地し。ぴっ、と手帳で藍の頭をぐりぐり撫でる主人を指すと。
すかさずパシャリっと写真を一枚。
「妖獣虐待犯さんと」
「あら、失礼ね」
写真を撮られても動揺すら見せない紫であったが。正面に立つ文を一瞥してから藍の頭から左手を退け、指先を空中でゆっくりと縦に動かす。すると彼女の頭上に小さな隙間が出現し、その中から彼女のお気に入りの扇子が零れ落ちる。
それを掴んで大袈裟に音を立てて広げると、口元を隠すように顔の前へと運んだ。
「式として、独断で行動したことについて注意しているだけだというのに」
「そういうものなのですかな?」
「そういうものなのよ、私の命令だけを聞いていれば私の力の上乗せができる。その状態ならば大抵のことは解決できるはずなのに、わざわざ力を抑制させる行動をとるなんて。あの子がもし九尾だったら、あなたはどうやって責任をとるつもりだったのか。死を以って償うのは、残された者への思いやりがない証拠じゃありませんこと?」
「……おっしゃるとおりです。私浮かれた気分で、独り善がりの行動を」
「以後、気をつけなさい、私はもう少し眠ってくるわ」
言うが早いか、紫は自分の背中に隙間を開いてそこに自然と体を倒していく。寝転がりながら消えていく体というのもなかなか、シュールなもので。隙間に気がつかなければ、廊下が水面に似た流体になってしまったと錯覚するかもしれない。
倒れ込みながら頭から肩、肩から腰、と順々に消えていきつま先まで飲み込んでからリボンのついた隙間ごと、その姿を消した。
「おやおや、仮眠ですかな?」
「いや、熟睡するつもりだろう。昨日まで結界の管理と調査を寝ずに行っていたようだからね」
なんとかプレッシャーから開放された藍は、強張った肩をコキコキっと鳴らしながら縁側に腰掛ける。疲労感がしみじみ伝わる、重いため息を吐きながら。
「おやおや、年より臭い」
「これでも千年以上生きている身でね。年寄り発言大いに結構、もう少しいたわって欲しいよ」
「じゃあ、私もそれに当てはまりますね。いたわってくださるべきかと、ほらほら、情報提供お願いしますよ」
「お願いだから少し休ませておくれよ、それに一眠りしただけで、何の進展もしていないじゃないか」
藍の言うとおり、いくら文が背中から体を擦り付けるようにねだって来ても、出せる情報がなければどうしようもない。昨日一緒にあの白髪の少女を保護し、その行動の一切を『密着取材』して、藍の部屋で一泊したのだから、それくらいは心得ているはずなのだ。
それでも何故か文は、位置を変え口調を変えて情報が欲しいと告げてくる。心的疲労が溜まる一方で、正直泣き出してしまいたいほど。
「もうもう、だから惚けないでくださいって、ほらほら♪」
白い指が示す方を見れば、未だに橙と追いかけっこを続ける白髪の少女。仕草と明るい表情からして彼女の情報が欲しいということに間違いはないようだ。
「あの子についてなら特に見覚えはないかな、知り合いの子供というのも思い浮かばないし。 そもそもそんなに友好範囲は広くなくてね。九尾でも知った顔は3人くらいしか」
「ああもう、そういうことじゃないんですよ! ほら、種族についてですってば」
しびれを切らした文が、手を扇のように上下に揺らす。早く早く、と鴉なのに招き猫に似た仕草で落ち着きなく、藍の周囲を飛び回りながら告げる。数秒すらじっとしない彼女に対し、藍は子供に指示するようにとんとんっと自分の横の廊下を叩いて、無言で大人しく座るように意思表示した。
「私もそろそろあの子が一体何なのか知りたくなってきたところだから、ちょっとだけ静かに頼むよ」
「あれ? 藍さんもわからない?」
「妖狐というのは種族という点から見ると、いろいろ枝分かれするからね。本人の口から聞いてみないと、はっきりとしたことはわからないんだよ」
橙と一緒に飛び跳ねるたびに揺れる真っ白な髪は、太陽の光を浴びて煌めき、風を受けて柔らかに揺れる。人間に擬態していたときと髪の長さが大きく違うのは、髪の長さで印象ががらりと変わるからだろう。
しかし髪をわざと短く見せていた偽りの姿よりも、やはり本来の長い髪の方が『白』という色から感じさせる儚げな魅力を引き出していた。髪の中から突き出た藍とそっくりのとんがった耳の毛並みも見事で、良家のお嬢様のようにすら感じる。
ただ、毛の色と体の大きさ以外でも、大きな違いがあるとすれば。やはり尻尾の数。
「紫様も、相当厄介な妖怪だと思っていたようで、あんな子供っぽい妖獣だと思わなかったんだろう。だから安心して床についた」
妖獣は尻尾が多ければ多いほど力が強いと言われ、尻尾が長ければ長いほど知力に優れると言う。そしてその白髪の妖狐の尻尾の数は、橙と同じ二本だけ。となれば、そうそう強い部類ではない。
「……妖獣ならではの強さの基準というやつですな、ふむ。確かに尻尾と耳だけならば、狐のものに見えますが、しかし、よく見れば見るほど」
「何か見覚えでも?」
「いえ、まあ気のせいでしょう、ありえないことですので」
さっきの活発さはどこへやら、文は手帖を唇に触れさせて『ふむ』と唸る。しかし藍の記憶にはほとんど引っかからない。
「そうか、では、遊んでいるあの子たちを呼び戻すことにしよう」
その態度に多少良からぬものを感じる藍であったが、今は優先すべきは白狐についての情報を集めること。精神的疲労が残る体を大きく一度伸ばしてから、大声で二人に声をかけた。
◇ ◇ ◇
彼女がいつ、二尾の妖狐であることが知られたかと言えば、早朝まで遡る。藍が紫のお説教という一大イベントを前にして胃をきりきり痛めさせていた頃。お日様が上がるのを横目で見ながら、長い廊下を歩いているときのことだった。
昨日人里から連れてきた少女の部屋が少しだけ開いていて、悪いとは思いながらも気になってそれを覗いてみたら。布団で隠れていない頭の上に、藍と同じような形の耳が見えた。寝ている間に無意識に変化が解けたことと、その耳が狐の妖獣であることの証明となり。
「橙、あの子を連れてきておくれ。そろそろ起きただろう」
朝食の用意を終えたころに橙にお願いして連れて来てもらった時、その着物の下から覗いていた尻尾は二本だけ。それで二尾の妖狐だと判明した。
ただその後というのが問題で、食事のときにいろいろ話を聞きたかったのに紫がいきなり藍を呼び出したものだから。
「橙、その子といっしょに遊んであげてくれないか」
それを告げることしかできなかった。
無理やり隙間に引き込まれながら、橙の元気な返事と、朝食をちゃっかりと食べにきた文の『いただきまーす』という声に送られる。行き先は地獄とも思える生暖かい廊下。暖かい春の日差しが苦痛という初めての経験を味合わされた藍は頭を下げ続け。
結局、今の今までまともな会話すらできずいた。
「この子、楠乃葉って言うんだって」
橙から紹介をされる始末。ひとまず客間に入った藍と文の対面に正座する妖狐の少女は、身を硬くして藍に頭を下げる。その横では橙が、『藍様優しいから、変なことしなきゃ大丈夫だよ』となんとか緊張を解そうとしていた。
「頭を下げなくても構わないよ。招いたのはこちらだからね。しかし、くすのは、か。変わった名前に思えるね」
普通は素敵な名前だと誉めるものなのだが、藍はあえてそれをしない。名前を大切にする種族であればここで不機嫌そうな反応をするだろうし、そうでなければさらりと流すはずだから。その判断を何気ない挨拶の中で行うために。
「か、変わっているのかどうかは不明でありまするですが、わ、わわわ、わったくし、の一族では女の子が生まれたら『葉』を最後につけるのがいきたりらしかりきでありますです」
「……無理に敬語を使わなくていいからね」
「え、あ、ほ、ほんとか! た、助かるのじゃ」
頭をゆっくりと上げて、かくかくと口を奇妙に動かしながら言う。どうやら名前にこだわりはないように見えるが、口調がなんだかおかしい。
「いやぁ、九尾殿は恐ろしい輩故、最大限の敬意を払えと聞いたことがあってな」
最大限の敬意を払った結果が、違和感しか与えられない日本語崩れではどうしようもないと思う藍であったが、本人に悪気はないのだから仕方ない。
「しかし、妙な話し方ですね、どこ訛りでしょう?」
「さあ、知らぬ。いろいろと陸地を回っておるうちにこのような話し方しかできないようになってしまった。年月とは恐ろしいものよ」
白く長い髪と、同じ色の耳と尻尾、そして淡い水色の動きやすそうな和装に身を包んだ少女は、ぱっと見ただけでは良家のお嬢様のようにも見えるのに。しゃべり方はどこぞの悪ガキと同程度。高い声音と、年寄りのような話し方で多少は緩和されているが、生意気そうな雰囲気は消しきれていない。
それでも、ぱっちりとした目や、整った顔立ちをしていることから、可愛さで誤魔化せば異性はなんとかなるに違いない。だが、ここには同性しかおらず、外見のアドバンテージなど皆無。しかも可愛さだけでいうなら、楠乃葉の横に座る橙の方が圧倒的に優勢なのだから。
つまり、外見に訴えて追求を逃れることなど不可能であり。
「ふむ、では、あなたのもう少し詳しい情報を隠し立てせずにちゃっちゃとお答えしていただきましょうか」
そもそも、文がいる時点で、誰だろうと根掘り葉掘り聞かれるのが運命。しかし、少女は特に気にすることもなく文を見返して。
「なんじゃ、天狗か、珍しい」
「おや? そちらは天狗の一族をご存知で?」
「ああ、あの山からなかなか下りて来ぬ、お山の大将ということで有名であったな」
「何か気になる言い方ですが……保守的な時代の頃のお話ですねそれは。私がまだ見習のころですから、600年以上は前かと。私の住む山は特に外界との積極的な接触はなかったようですし、遅い方でしたかね、あ、私は結構いろいろと飛び回ってましたけど」
普段は文の取材などうるさいだけだと思うのだが、他人に対する情報収集にはとても心強い、と、藍は再確認していた。外見で妖怪の年齢を判断してはいけないというのが通説であるが、どうやらこの少女もそれに該当するようで、少なくとも人間の平均寿命の10倍以上は重ねている可能性が高い。
「ふむ、結構なお年ということですな。何歳です?」
「数えたことがないからよくわからぬ」
「そうですか、高齢である、と。あ、それと油揚げを葉っぱに変えたという情報がありますが。それはあなたの能力で?」
「あー。まあ、その程度のことなら、そちらの九尾殿の方が詳しいのではないかな? 我等の種族はあまり直接的な力が強くない代わりに、化かす方は得意でな」
「ふむ、藍でいいよ、楠乃葉。ならば伝承と同じようなものかな、そちらの能力は」
一般的な二尾の狐の能力として、『化けることと化かすこと』の体現がある。それ以外は人間に多少毛が生えた程度の身体能力しかなく、人間社会の脅威にまではなり得ない、と。簡単なことを文に説明する。
「なるほど、紫さんが眠ったのは、幻想郷に対して害のない存在であるから、ですか」
「ああ、そのとおり」
その後も文が質問を繰り返し、楠乃葉が答えるという形式は続く。その際に何故買い物という風習をどこで覚えたのか、と質問した文に、過去に何度も足を運んだことがあるからだと答えた。
もちろん今の幻想郷とは違う里であるには間違いない。だから人里に少女が混ざって生活していたのに、誰も気づかず、問題にすらならなかった。
「しかしそうなると、余計にわかりませんな」
「何がだい?」
「ほら、考えても見てください。私たちは今、鬼の所有物だった山を使って生活しているじゃないですか、つまり鬼の縄張りというところです。天狗から見たら強大な力を持つ鬼のね。だから私たちは下手に山を騒がせることを好みません」
「……なるほどね、それは一理ある」
それが、今の状況にも重なるんじゃないか、と文は言っているのだ。九尾が幻想郷にやってきたのなら、今回のようにわざと騒ぎを起こして縄張りを奪おうとするかもしれない。しかしやってきたのは二尾の狐。九尾対二尾という勝負にならない相手だというのに、一度この楠乃葉は擬態した。毛の色も変え、金毛の九尾の狐が来たとわざと印象付けさせた。
その理由が、藍にも見当つかなかった。
「九尾に化けた理由というのを、教えていただけませんか?」
そう文が尋ねると、驚くでもなく、慌てるでもなく。まるでその質問を待っていたかのように、楠乃葉は両手を畳について、また深々と頭を下げる。しかしさきほどとは明確に纏う気配が異なり、静かに、その身を低くする。
「この度は、まず九尾を騙ったことをお詫びする。力を持たない我が思いつくのはこの方法しかなかったゆえ」
「そうだね、本来なら許されざることだ。二尾如きに九尾が舐められたとあっては、尻尾を刈り、腕を削ぐのが当然のことだけど」
「え、えっ! だ、駄目ですよ! 藍様! ちゃんと謝ってるじゃないですか!」
橙が動揺するのも仕方ない、彼女はただその行為がモノマネ程度だとしか認識していないから。しかし九尾という狐でも格の高さが違うものに対し、尻尾の少ないものがその名を騙るだけでも侮辱したと思われても仕方ないこと。しかも今回は、安っぽい泥棒を演じたことで名を貶めたのだから本来許されるべきものではない。
気性の荒いものなら事実を知った瞬間にくびり殺しているだろう。事実、藍だって過去に接触したことのある九尾の仲間が入ってきたのかと、少なからず期待した部分もあるのだから。騙されていたと知って良い気はしなかった、しかし、だ。
「尻尾の数は違うが同じ狐の妖獣同士。生き残ったことを喜び合い、その命を大切にしなければいけない。いまさら、昔のように肩肘を張るのも馬鹿らしいだろう?」
今はすでに、妖怪が闊歩する時代ではない。紫と身近にいる藍は、外の世界の妖怪たちがどれだけ肩身の狭い思いをして生活しているかを知っている。
『時代は、変わったわね』
と、少し悲しそうな顔で、藍につぶやくのを身近で聞いている。だから、藍も必要のない過去のしがらみには囚われてはいけない、と感じることのほうが多い。
「だから気にしなくていいよ。同尾とまではいかないが、同属なんだから。ここは出会いを祝おうじゃないか」
そんな藍の言葉に、橙は瞳を潤ませながら『さすが藍様』と、つぶやき、
文は『さすが藍さん』と、つぶやきながら嬉々とした表情で記事のネタを手帖に書き記し、
頭を下げていた、少女はすっと体を起こして。
「感謝する。しかし、それが我の狙いじゃ」
よくわからないことを、あっさりと言う。
今の言葉で多少は感動してくれると期待していた藍は、手を組んだまま無言でその様子を見守る。すると、楠乃葉はすっと、自分の耳と尻尾を指差して。
「我はある妖狐を探しておる。じゃから一番目立つ九尾の姿を取れば、警戒するか、あるいは興味本位かで必ず様子を見にくるはずじゃと、いきなり九尾がやってきたせいで、気絶するという恥ずべき姿を見せてしもうたが、この地域の狐を集めたかった」
「……探している狐は、九尾ではないのかい?」
つまり、一番名の知れた九尾を使って、周囲にいるかもしれないすべての狐に問い掛けた。その危険性を知りながらも。
「しかし警戒された場合は化けるだろうから気付くことはできないのではないか?」
「いや、可能じゃ」
「なぜだい?」
狐が自分の姿を別なものに変える場合、それはかなり力のあるものでないと見破るのは難しい。何せ高等な技術を持つものであれば人型以外にも変化することができるから。
それなのに、この二尾の少女はできるという。
事実上そんなことができるのは、かなり深い関係を持った狐だけ。
例えば、そう――
合図を決め合っている恋仲の異性同士か、血の繋がった家族。
「我と、その探しておる狐は血縁じゃからな。近づけばすぐわかるはずじゃ。例えほとんど面識がなくとも匂いや雰囲気で、あちらが気づいてくれるはず」
しかしそんな現象を一度も体験したことのない藍がどう答えていいものか思案しているうちに、楠乃葉は大きく息を吐いて、意を決してそれを口にする。
「藍殿はご存知ないだろうか? 名を『葛の葉』という我と同じ白毛の妖狐を。我の母親を。もし……もし、知っておるようなら教えていただきたい」
その名を聞いた瞬間、わずかに藍の顔に疑問の色が浮かぶ。
白狐『葛の葉』どこかできいたことのある名前だが、どこだったかが思い出せない。紫と雑談しているうちに聞いたものか、それとも自分で会ったことがあるのか。
「……そうか、しかし、私の知りうる限りでは」
幻想郷にそういった狐は紛れ込んでいると聞いた覚えはない。正直にそう告げようとしたとき、いきなり藍の視界の中に見たことのある扇子が振り下ろされて、思わず身を引き言葉を止めてしまう。藍に対してここまで容易に不意をうてる人物は、一人しかおらず。
「その依頼、こちらでお受けいたしますわ」
「……紫様」
大きな隙間が藍の頭上に開き、そこから上半身だけをのぞかせる、大人びた女性。言うまでもなく八雲紫その人である。
あまりに素晴らしいタイミングで話に割って入ったということは、明らかに隙間による覗き見を実行していたのだろう。
そんな介入が、異変や幻想郷の危機で言うならこれほど頼もしいものはない。
しかし、平和なときにその介入が発生した場合どうなるかは……
推して知るべし。
「一応、言っておきますが。真剣な話ですよ?」
「あら、じゃあ私が出るしかないじゃないの」
扇子を口元に当てて、藍に同意を求める流し目を送る。
そしてあまりに大袈裟な登場と、隙間を見せつけたせいで紫の力を知り、期待の視線を紫と藍に向ける楠乃葉。
二つの視線に挟まれた藍は、もう頬を引きつらせたまま苦笑いするしかなく。
(絶対暇つぶしに使う気だ……)
心の中で真理をつぶやいたのだった。
そんな困った主の登場に、動揺を見せる藍と、表情を明るくする楠乃葉。
「ねえ、何書いてるの?」
「少々お静かにお願いしますね」
取り残された感のある橙は、興味本位で文の後ろに回りこむと素早い手の動きを感心するように見つめた。しかし、文は手帖を閉じる時間すら惜しいとでも言いたげに、後ろからくる視線を気にせずにペン先を走らせる。
対照的な反応をする妖狐の反応、その言動、その仕草、瞳に映るすべてを白い四角形の中へと収めるために。
◇ ◇ ◇
『油揚げ好評発売中!!』
そんな立て看板を見て、藍は乾いた笑い声を響かせていた。まさかここまで派手な反応を見せるなんて思っても見なかったからである。
「油揚げ泥棒は捕まえたから、今日からはもう大丈夫だよ」
豆腐屋の主人にそうやって教えてあげただけだというのに、嬉しそうに半紙と筆を持ち出して一筆走らせたというわけである。その喜びようは油揚げ好きとして共感できるものはある。よかったね、と肩をたたいてあげたい気分にもなるかもしれないが……
「藍ちゃぁぁんっ!! ありがとなぁっ!!」
「あはははは……抱きつくのはやめて欲しいんだが」
その感謝の気持ちとして、抱きついてくるのはどうかと思う。恰幅のいい大人が物凄い勢いで突進してきて飛び付いてくる姿を想像していただければ、藍の複雑な心境を察することができるだろうか。
「あまりこういうことをして女性客が減っても知らないぞ?」
「お、おっとっと、それは困るな」
やっと周囲の通行人の視線の痛さに気がついたのか、やっと店主が元の位置に戻りぱんぱんっと手を叩いて客を呼び込み始めた。すると、少しずつ買い物カゴをもった人たちが集まり始めた。もちろん藍もそのお客の一人で、昼食用の楠乃葉と自分用の油揚げを買いにきただけ。たったそれだけだというのに、店主は小声で『おまけだ』と二枚ほど多く油揚げを入れてくれた。
泥棒退治のお礼が含まれているのだろう。
「遠慮なくいただくよ」
藍は会釈をしてその店を後にすると、回れ右して家路をいそ……
「ちょっと待ったぁっ!」
「ん? いきなりなんだ、文? 危ないじゃないか」
帰ろうと向きを変えた藍の目の前にいきなり黒い弾丸が降ってきて、ほとんど土煙を立てないまま着地する。そして買い物カゴの中身を藍が静止する前に覗き込んで。
「ふむ、鶏肉はなさそうですな。合格です」
「文に審査してもらういわれはないんだがね」
「何を言うんですか、密着取材たるものその家庭と同じものを食べなくてはいけない。それなのに、それなのにですよ? 美味しいと評判の藍さんのお料理に鶏肉が入っていようものなら、泣く泣く残すしかないじゃないですか。そんなのご免ですよ」
「……自分の思想を押し付けると良い取材ができないかもしれないよ?」
「それはそれで結構、腹が減っては戦はできぬというでしょう? 私の戦とはつまり、取材。ということでお腹が空いたら取材どころではないですし」
どうやら文の中で密着取材というのは寝食を共にするする取材、という意味らしく、三日間の密着取材の初日からすでに泊り込み、食事も八雲家で摂っている。普通よりもしつこいだけの取材をイメージしていた藍は、文の要望を軽々と受けたことでも紫から説教を受けた。相手の意図がわからない場合は易々と首を縦に振ってはいけない、と。
それでも一度認めてしまっては仕方ないと、藍の顔を立てて文の滞在を許可した。しかも……
『好きなだけ飛ばせておいてもかまいませんわ』
と、少々謎掛けのようなことを。『自由に泳がせる』という言葉を天狗になぞらえただけだと判断できるが、それくらい素直に伝えて欲しいと正直思う藍であった。
「これからはちゃんと食事の買い物をチェックさせていただきます」
「本当に厄介なお客様を招いたものだ……」
献立をすでに決めている彼女にとって、文の行動はうざったいことこの上ない。しかし家事の手伝いをしてくれたりもするので、助かっている部分もあり、困る部分もあり、少々複雑な気分。
「あ、そうそう、ところで藍さん、今後のご予定は?」
「今から家に帰って昼食の準備をするだけだけど、どうかしたのかい?」
「つまり、それ以外はなし、ですな?」
含み笑いを零し、藍の横へと回り込むと腕の部分を軽く右手で掴む。その仕草からどこか寄り道をしようという意思は明白だ。
藍は太陽の高さを確認し、時刻と食事の準備までの猶予を一瞬の内に計算する。昼食時間を遅らせないためには、使えて半刻。
「あまり遅いと、また紫様の雷が落ちるかもしれないよ。そっちの頭にも」
「いやぁ、9本も避雷針があると安心できますからね」
「本当に口の減らない人だね。一応行き先次第で考えるけど?」
そして文の手伝いがあれば四半刻。その時間だけで何ができるかは不明であるが……
「葛の葉という名前、少々気になるとは思いませんかな?」
たったそれだけ聞いて、藍は理解する。
昼食は、遅らせることになりそうだなと。
◇ ◇ ◇
『葛の葉』
歴史上で人間と接触し、子を残したと言われる珍しい妖狐。人間と生活をし始めたきっかけは、人間に退治されそうになったところを一人の男性に救われたことから。退治しようとしていた人間が、特に陰陽道に詳しいものではなかったことから推測すれば、力の強い妖狐ではないと判断できる。しかし敢えて力を隠していた可能性も捨てきれずそのあたりは定かではない。
「ふーん、なるほど。人間との間に子を成した珍しい妖獣っと。しかしそんな歴史書まで持っているなんてさすがですな」
「いえ、書物を書く際には文献を大いに参考にしますので、過去の歴史が記載されたものがあると大助かりですね。何度も読み返すことすらありますから。特に幻想郷に存在する妖怪と姿形が似ているものなら尚更ですね」
楠乃葉から出た狐の名前、その情報を探ろうとするとき、まずどこに立ち寄るべきか。それはもちろん、人里の歴史の管理人、稗田家であろう。
歴史を操る慧音に聞くという選択肢もあるが、まだ寺子屋で子供たちに勉強を教えている真最中であり、それを待っていては昼食に多大な影響が出る。消去法で考えても、二人はここに立ち寄るしかなかったというわけだ。
急な訪問ではあったが、少しだけなら時間を取れるとのことで、二人は仕事机についた阿求の前に案内された。そして対面で正座するが早いか、文が『葛の葉』という狐について相談をしたというわけだ。
「ふむ、確かに伝承はいろいろあるけれど、そんな個体がいたとはね」
「それなりに種類が多い種族ですし過去の誰かが編集したんでしょうね。中には神に近しい辰狐という記述もあって。千差万別、興味深いですよ」
「ふむ、それでその『葛の葉』という狐の方は白狐の二尾、と?」
「その狐については多々文献があるのでどれが正しいのかははっきりとは言えません。ただ、白狐という記述が多いのは確かで、尻尾が二本あったかまでは。実際その葛の葉という狐よりもその子供の方が有名だったようですし」
と、そこで藍と文は、どちらからとも言わずに顔を見合わせた。思い当たる節があり過ぎたからである。
「その子供というのは、やはり女性で?」
それでも一応確認のために聞いてみた。
まあ、答えはひとつしかないことを知りなが――
「いえ、男性で外見は人間そのものだったそうです。名は『安倍晴明』」
「はい?」
「おや?」
二人はまた顔を見合わせる。その答えがあまりに予想外であったから。
「何か不自然なことでも?」
「い、いえ、その人に兄弟とか姉妹とかいなかったのかなーって」
「さあ、そこまでは。その子供の伝承だけを見ると、今度は母親が狐だったという記述がないものもありますし。歴史というものはそうやって推測できる部分があるから楽しいのですが」
「ふむ、そうですか。男の子供、と」
他に子供がいたかもしれないが、伝承では一人しか描かれていない。首を傾げるしかない情報ではあったが、文と藍は平静を装ってその言葉を耳に入れる。
藍は主に動揺を隠し、文は主に高ぶる気持ちを抑えて。
「では、その子供はどうなったのでしょうね。老いない母親を見て変にはおもわなかったのでしょうか」
人間と妖怪が親子になるということで必ず生まれる命題、命の時間。記事にするにはやはりお涙頂戴という展開か、読者の心を動かす部分も必要。そう思ったのか、文知らず知らずのうちに身を乗り出し、声を大きくしながら問い掛ける。
すると阿求は、苦笑しながら手元の文献を一枚捲り、ある一文に指を置いた。
「その狐たちの掟では、人間の血を持つものと暮らしてもよいが、自分が狐だと知れたら一緒には暮らせない、とあります。これだけ説明すればおわかりかと思うのですが」
「なるほど、子供か夫にその姿が知れてしまったということですか」
「ええ、書物の中では子供とあります。それで一緒に暮らすことができなくなり、森へ帰っていったと」
人間であれば、今の話を悲劇と捉えるかもしれない。しかし同じ狐の妖怪である藍は、別な感情を抱いていた。もしそのまま家族として暮らせば、間違いなく、愛した夫と子の最期を看取ることとなり、長年生き続ける不自然さから化物扱いされてもおかしくはない。
故に、お互い愛情のあるうちに別れることができたのは、美しい思い出のままで残すことができてある意味幸せではないかと。
(しかし、だ)
ただ、ここまで話を聞いても、やはりあの新参の楠乃葉という狐の話が出てこないのは異様であり、不自然であるが……
「すまない、こちらからも質問させてもらいたいんだが、その歴史に他の情報が入り込む余地は?」
「もちろんあります。古い歴史では、時代の支配者だった者に都合のいいものしか残らないことが多いそうですし。あ、これは慧音さんのお言葉ですけどね」
「なるほど、ハクタクの意見らしいね」
歴史に穴があると仮定した場合、あの葛の葉という狐が森に帰ってから同じ種族の狐と子を成したと考えても不自然ではない。不自然ではないのだが、その場合何故、探す必要があるか。幼少期は一緒に暮らすことも出来たはずであるし、朝聞いた限りでは明らかに独り立ちする年齢に違いない。それなのに今更母親を探す必要性が薄い気がする。
そもそも――
彼女は本当に――『妖狐』であるのか?
そんな疑問が、藍の中に湧き上がってくる。何故かと言われればもちろん『わからない』と答えるしかない程度。何が不自然なのか、どこが異質なのかわからないのに。
「ありがとう、参考になったよ。急に訪ねて悪かったね」
内心の迷いを出すことなく、藍は畳の上に手を付き軽く頭を下げる。文はまだ何か聞きたそうではあったが、あまり長居をするわけにもいかない。
腰を上げ、連れの文を無理やり引き上げたとき、阿求は本を片付けながら。
「普段なら書庫から探してこないといけないのですが、二日前に妖怪の事を聞きたいと尋ねる女性の方がいらっしゃいましたので、そのときから本は出しっぱなしでしたから準備は簡単でしたよ」
「あら、また何か妖怪が悪さでもしましたかな? どんな妖怪のお話を?」
人里において妖怪の情報を欲する場合、『妖怪に気をつけろ。妖怪を退治しろ』というケースが多い。そのため、事件の香りを感じた文が藍に連れ去られながらも振り返るが。
「いえ、天狗のことをお尋ねに」
「さすが悪さをする妖怪だ」
「失敬な……」
二人に見つめられ、バツが悪そうに文は早足で廊下を歩いていく。それに少し遅れる形で藍が外に出ると、ちょうど文が使いの鴉と何か会話を終えて見送っているところだった。
◇ ◇ ◇
幻想郷を覆う妖怪を呼び込むためのシステム、そんな結界を張ってすでに何体もの妖怪がここに呼び込まれたか。その数は稗田家でも把握しておらず、できないほどに多種多様。しかし呼び込まれたはずの新しい妖怪を見たと証言する人間や妖怪は少数である。それは何故か。
『幻想郷は全てを受け入れる』
それは間違いのないことである。
八雲紫は、見知った妖怪や人間たちにそんな言葉を伝えてきた。それはとても『残酷』であると。
しかし、式である藍だけには、こうやって言葉を続ける。
『幻想郷が受け入れたとしても、私が受け入れるかどうかは別問題ですわ』
そしてその残酷さの一役を担っているのが、八雲家であると。もしこの世界に不具合が生じる可能性があるモノが流れ着いた場合。処分する役割を自分たちが受け持たなければならないと。故に世界を壊す恐れのある異物は、早々に世界から消してきた。
必要に応じて、それは巫女であったり、人里の人間であったり、その他の人妖であったが。そのほとんどの処理を、最強の妖獣が行ってきた。
八雲紫が命じるままに、人も、妖怪も、同胞である妖獣すら、その手にかけた。
「藍……やりなさい」
そして、今も藍の前には一人の妖怪がいた。無防備に背中を向ける、美しい女性の妖怪が。
「わかりました、加減のほどは?」
「無しよ」
「……わかりました。紫様がそうおっしゃるのなら」
ただ命じられるまま藍は手を動かす。相手が最も弱っている部分を的確に見つけた藍は、背中から馬乗りになり、両手を背中に触れさせて。
容赦なく、力を込める。
「――――っ!」
九尾の恐るべき腕力で押さえつけられた妖怪は、悲鳴か嬌声か判断のつかない叫び声を上げ、手足を目一杯に伸ばす。二つの手から加えられる力が弱まることはなく。
悲鳴が聞こえなくなった頃には、女性の四肢はまるで糸の切れた操り人形のようにだらりと下がり。重力に縛り付けられた手足は動くことを諦めたように見えた。
「あぁぁぁぁ~~、藍のマッサージは最高ねぇ……ほら、お茶とって」
「少しは起きてくださいよ」
「あら、女性の朝は優雅に、ゆったりと過ごすものですわ?」
「優雅な女性はあんな声出しませんし、それに昼間起きて朝とか言わないでしょう?」
気持ちよさの余韻により、体を動かすのを放棄した紫は枕元に置いてあった湯飲みの下に隙間を開くと、背中に乗ったままの藍の手元へと狙いをつけて空間を渡らせる。無理やり湯飲みを受け渡された藍は、仕方ないというようにため息をついてから、うつ伏せになりながら枕を胸に抱く主の正面へと回り込み、ゆっくりと傾けた。
途中で、『ぬるい』という文句が出るが、当然だ。
もうそろそろ起きようと思うから、寝覚めのお茶を準備しておいてと言ってから既に一刻以上経過しているのだから。
「二度寝は確かに気持ち良いかもしれませんがほどほどにしてくださいよ、橙の教育にもよくありませんし」
「それはあなたが頑張りなさいよ」
「その頑張る時間を最近頂けていないのですが?」
「あら、それは酷い話があったものね、コワイコワイ」
お茶を半分ほど飲み干して大欠伸、乱れたネグリジェ姿を直そうともせずに起き上がると。藍が肩を落とす前で隙間を開いて全身を覆いつくし、わずかな時間で着替えを完了させる。境界の能力を使った、一瞬の早業。俗に言う、『能力の無駄遣い』。
一瞬で脱ぎ捨てたパジャマ代わりの薄い生地を藍へと投げ捨て、また大欠伸。
「これくらい自分で片付けるとか」
「どうせ洗うのだからいいでしょう? さあ、朝餉といきましょう」
「昼ですから……」
紫は最近はずっとこんな調子で、だらしない生活を続けていた。楠乃葉という妖狐の危険性が薄まった日から始まって、今日で五日目。夜の比較的浅い時間に寝て、昼起きるという、二分の一以上を睡眠に当てるという徹底ぶり。
しかもそんな紫に注意されないことをいいことに、密着取材三日といっていた文もすっかりと居着いてしまい、天狗の山の仕事もこの家から出発する始末。
さらに言うと、人里で野宿まがいのことをして生活していた楠乃葉も、この家が気に入って居候と化してしまった。
なので、家事を少しは手伝って欲しいと藍が命令、いや、かなり必死に懇願しても。
「いやぁ、実に残念です。今から取材の予定がありまして」
と、文はすぐに出て行ってしまう。
ただ、文は取材がなければ嫌々ながら手伝ってくれるのでまだいいのだが、もう一人の方はというと。普段は縁側でお茶を飲み、隠居した老人のような生活を送っているというのにも関わらず。
「楠乃葉! どこだ、楠乃葉っ!!」
家事の手伝いを指示しようと接近した途端、逃げるのである。お得意の変化を使って木の幹にはりついてみたり、布団に擬態して押入れに隠れてみたり、全力でサボるのだから性質が悪い。で、家事が終わる頃くらいに、わざとらしく姿を見せて、
「おやぁ、せっかくやろうと思っておったのにのぅ」
と、凄く苛立つ台詞を吐いて去っていく。むっとした藍が捕まえてやろうとしても、逃げ足が妙に素早くて、気が付けば撒かれている始末。橙よりも少し身長も大きく、言うなれば二尾の先輩とも言える年齢なのに、悪いお手本にしかならない。
そして唯一の心の拠り所である橙はというと、目を離した隙に外に遊びに行ってしまうという悲しさ。結局、二人分の家事が増えただけになってしまった藍は毎日、家事と、結界管理補助と、紫の命令による裏家業、の三つに追われるだけになって。気晴らしをする時間がほとんどない。
時間ができれば、あの楠乃葉について再度情報を集めたり、説教でもしてやろう思っていたのに、藍の思惑は簡単に潰されることとなってしまった。
(明日、家出しよう……)
わずかに得た休憩時間の度にそう思う毎日になってしまい。楠乃葉を気にする前に、自分がストレスでつぶれてしまう恐れすらあった。だから、この提案は苦渋の決断。もう一人の従者にかなりの負担をかけることになる、諸刃の剣。
こればっかりは使うまいと、思っていた最悪の選択肢。
「そ、そろそろ、幽々子様のところで宴会など如何でしょう?」
「あら、いいわね。手配してくれる?」
逃避『困ったときの白玉楼』
藍は心の中で妖夢に深く、深く土下座しつつ、紫と共に部屋を出て、昼食の準備してある居間へと向かった。
ほっとしたような、それでいて、罪悪感で胸を満たしながら。
◇ ◇ ◇
前略―― お師匠様へ
花見の時期も終わり、やっと白玉楼には静けさが戻り始めました。宴会で汚れた庭の清掃も、本日やっと終焉を迎える結果となり、綺麗になった玉砂を見ると心があらわれるようです。鬼や妖怪や霊夢が飲み散らかした宴会のちょっとした残りを探し、拾い続けること一ヶ月。
やっと本来の庭師兼指南役に戻れると思うと、胸が熱くなります。庭木も満足に整えられていない状況ですし、緑の季節が本番となる中で意欲も増すというもの。
増すというもの、なのですが……
油断大敵、というものなのでしょうか。
若いころの苦労は買ってでもしろというのでしょうか。
○月×日 妖夢の日記より抜粋
「ほうほう、これは便利ですね! と、お邪魔します」
「うむ、邪魔するぞ! おお、これは広い宴会場ではないか!」
「楠乃葉、行儀良くしないと藍様に怒られちゃうよ!」
白玉楼の居間にダイレクトに連結された大きな隙間、それを通って八雲家ご一行(おまけつき)が一気にその姿を見せる。元気に三人が先に飛び出して、その後に落ち着いた様子で紫が、そして最後に少々苦笑いした藍が足をつけた。すると、その横にすっと妖夢が近寄ってきて。
「藍さん……?」
「……わ、悪気は、ないんだよ?」
実は悪気だけだという、悲しさ。
今にも泣き出しそうなほど瞳を潤ませて見上げてくる。そんな妖夢の視線が痛いこと、痛いこと。藍は食事の準備くらいは手伝うと告げて、逃げるように紫の後を追う。歩を進めつつ、視線を先に伸ばせば幻想郷と冥界の二本柱が落ち着いた様子で、中央の座卓につき世間話に花を咲かせていた。
そして、残りの三人組はというと、藍の心配を良い意味で裏切り、割と静かに座っていた。
「このボタンを押すと写真が取れるんですよ」
「へぇ……じゃあ、これは?」
紫の対面で意外と仲良く会話する文と橙。同じ屋根の下で奇妙な共同生活を始めてから、橙に薄っすらと仲間意識が芽生え始めたからか。そして橙を真中に置く形で文の反対側に座っている楠乃葉は……
「むぅ……」
小さく呻き声をあげながら、まっすぐ手元の机の上を凝視していた。あまりに真剣に見つめるので机の上が汚れているのかと思い、白い尻尾を避けつつ藍が近づいてみるがなんの変哲もなく、綺麗に拭かれた面しか見えない。
九尾の藍にも見えないのに、
「何か気になるのかな?」
気になって声を掛けてみると、目を半分だけ閉じて振り向き。額に脂汗を浮かべそうなほど深刻な顔つきで。なので体調でも悪くしたのかと思った藍は、背中を擦ってやろうと膝を突いて手を伸ばし、
「茶が出ぬ……」
ぺち、と。
背中に伸ばしかけていた手を引っ込めて、今度は逆の手を楠乃葉の額に当てる。
「な、なんじゃ、痛いではないか!」
「少しくらい我慢しなさい」
大袈裟にもほどがある。
楠乃葉の素行は家事や他の業務に追われていた藍より、橙の方が詳しく。
『だいたい、縁側に座ってるから、お茶あげれば幸せな顔してますよ?』
と聞いた覚えがある。確かに洗濯物を干しているときなどは、隠居老人のようなのんびりとした仕草で茶を傾けていたが。まさかここまで茶を欲するとは思わなかった。酒中毒ならぬ、お茶中毒といったところか。
しかし、そんな報告を聞きながらも藍には疑問が残ってしまう。あれだけ真剣に母親を探して欲しいと言っていたのに、紫が『こっちで引き受ける』という発言をしてからは待ちの一手のみ。自分で足を運んで情報収集すらしようとしないのは、どこか不自然。そんな部分についてできれば考察して欲しいと、願う彼女であったが、橙にそれをアドリブでやれというのは酷なこと。
今日は時間があるからこちらで尋ねてみようかと、藍が思ったとき。
「お待たせしました、お口に合えばいいのですが」
お茶を要求した楠乃葉の声。それが聞こえたわけではないのだろうが、紫と幽々子にお茶を運び終えた妖夢が藍の隣にやってきてお盆の上のお茶を置いていく。そして藍を含めて四つ並べ終えてから自分のを作りに、部屋の隅の棚へと戻っていった。
どうしても彼女の負い目がある藍は、無意識にその動きを追い背中に向かって小さく会釈。一息ついてから体の向きを戻して、炒れてもらったお茶の風味を楽しもうと、湯飲みを口元へ持っていったとき。
「はぁぁぁ……」
なんだか、隣から奇妙な声が聞こえてくる。
一人しかいないので予想は容易い。
「はぁぁぁぁぁぁ……」
だが、その声があまりにも悦に入っていたためどうしても気になり。興味本位で横を向いた直後、藍の心に浮かんだのは……
(なんだろう、この無駄に愛らしい生き物は)
そんな素直な感想だった。
うっすらと瞳を開けて、お茶の香りを存分に楽しんでいるその姿はまるで、恋人に出会った少女のようで、惜しみない羨望の眼差しを向けていた。
興奮に耳を立て、尻尾すら斜めに持ち上げつつ先端を小刻みに揺らしては、体全体で喜びを表現し。感動に打ち震える唇は、その命の雫を今か今かと待ち構えている。そしてついに、唇と湯のみが神秘の出会いを果たし。
その活力あふれる緑が、とうとう少女の身体へと――
「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああ!!」
「……うるさい」
ぺちんっと。
藍の本日二発目となる必殺平手打ちが炸裂する。
「いたっ! いたぁっ! 酷いな藍殿は! 暴力か! どどめきっくばいおれんすか!」
「ドメスティックバイオレンスね」
「そう、それじゃ! 人がわびさびを心から楽しんでおるというのにっ!」
今の叫び声のどこにわびさびがあったというのか。
藍を含め、隣の橙や文、だけでなく対面の主人二人組も唖然とした顔で楠乃葉を見つめていた。後から文の横に座った妖夢にいたっては、目をパチパチしながらその怒りの様子を眺めていた。
彼女の疑問はよくわかる。一見幸薄そうな大人しい少女に見える楠乃葉が、いきなり大声を上げて奇妙な口調で語りだしたのだから。
「あら、妖夢やっと気が付いたの? しょうがないわね」
「え、ええ? ゆ、幽々子様はあの妖狐を見て最初から気付いていたのですか!」
「そうよ、すぐ見てわかるじゃない。本当にどこか抜けているのだから」
「も、もうしわけありません」
駄目な従者を戒めるのは主人の仕事。いつまでも驚きの仕草を繰り返していた妖夢に閉じた扇子の先を向け、そこからすっと横に動かし。楠乃葉の前で停止。
「ほら、ちゃんと持ってきてあげなさい」
「……は? いえ、あの幽々子様?」
人数は四人、妖夢を入れても五人。
湯飲みの数もしっかり5つあり、配り終えたはずなのに。
「お茶請け、ですか?」
「違うわよ。ほら、二つ足りないでしょう?」
「いや、しかし五つで十分なはずですが?」
「七人でしょう?」
「……いえ、こちらは五人ですよ?」
「……あら?」
幽々子は指で人数を数え始め、しっかり七つ数え終わる。
それはもちろん、対面である自分たちの姿も入れた数字であるが。
「あら、あなたらしくないのね」
「でも7人なのよ?」
「そうね、7人よ。私たちを入れたら」
少々おっとりとした幽々子の横で、彼女の親友である紫が呆れたように頬杖を付く。それでもまだ納得しきれていない幽々子は頭の上にハテナマークを浮かべ続ける。しかしそこは掴み所のないことで有名な冥界の姫君らしく。平然と顔色を元に戻し。
「ん~、それにしても、しばらく見ない間に式が増えたのね。狐さんが一匹に、見覚えのある鴉が一羽」
「式、とな?」
「いえいえ、私のような鴉が紫様の式などとは恐れ多い」
「照れなくてもいいのよ?」
「これっぽっちも照れなどありません。まったく相変わらずよくわからないことをおっしゃる」
こんな宴会の前のことまで何の記事に使うかは不明だが、文は困った顔で返答しながらも手を動かす。
「紫様の式は、私と藍様以外いりません!」
「ふふ、それもそうですわね。子猫ちゃんに失礼をしてしまったかしら?」
「気にしないでいいわよ、幽々子。橙が八雲姓を名乗るのはもう少し先でしょうから」
「もう、紫様まで! 文、あっちで遊ぼうよ!」
「あ、これこれ、私は取材がっ!」
橙は文の手を掴み出て行こうとする。それでも文は取材をしたいからと机を立とうとしない。するとちょうどお茶を飲み終えた楠乃葉が、すっと立ち上がり。
「我が行こう、ここはなかなか庭園が綺麗なのじゃろう?」
橙の横に並び、二本の尻尾を大きくくねらせ、文の腕を掴んでいた橙の手を尾の中心をぶつけて解く。ただ、庭のことになると煩いのがこの場におり。
「ええ、もちろん。ここの庭に勝るものは幻想郷にはない。そう自負しております」
正座をしたままの銀髪の従者が、瞳を輝かせて二人へと向き直る。
「では、えーっと……」
「妖夢です」
「うむ、妖夢殿、案内を頼めるかのぅ?」
「はい喜んで、多少暴れてもかまいませんが、庭木は折ったりしないようにお願いしますね」
橙は一緒に行く人数が三人になったことに喜び戸を開けて廊下へ、楠乃葉は特になんの意思も示さず橙に続き、最後に『では行ってまいります』妖夢が出入口のところで正座し、一礼してから二人を追い掛ける。
「じっとしていることに痺れを切らした橙を巧く使ったものね」
「あなたも同じことをしようとしていたでしょう? お互い様ですわ」
そんな騒がしさが過ぎ去った後には。さきほどとまったく違う、重い雰囲気がその場を支配し始めた。
二人が意味ありげな視線を交わしてから。そこから空気が一変してしまった。肌に纏わりつくように、絡みつくように体を縛り付けるのに、不快ではない。飲み込まれてしまいそうなのに、その気配の中にいるべきだと、体が判断し。適度な高揚感により武者震いが起こり始めてしまうほど。
そこまで感じて、やっと藍は理解した。紫が藍の白玉楼に行かないか、という提案にあっさり乗ったのは、このためだったのだと。
「藍、これから話すことが何か、わかるわね?」
「例の件、ですか」
先日、紫が引き受けた、『葛の葉』という狐の話。
それが幻想郷にいるかどうかを調べ、結果を知らせるだけであるなら紫の屋敷で済むはず。
しかし、紫は白玉楼を選んだ。
魂が集う場所、転生する魂が優雅に暮らすこの冥界で話を進める。それに意味があるとするのならば……
「私もご一緒で、よろしいのですかな?」
「ええ、構いませんわ。出て行けといっても聞き耳を立てるつもりでしょう?」
余計な動きをされるよりも、静かに聞かせた方がいい。そう、判断したのだろうか。紫は藍と文を視界に収めながら、ぽつりっと、一番最初にその言葉を投げかける。
「私たちが判断した最終的な結論を最初に言うならば……」
そこまで言い掛けてから、藍の瞳をまっすぐ見つめて。
「楠乃葉は妖狐という種族に分類されない」
はっきりと、言い切り、その理由を語り始める。
◇ ◇ ◇
宴は終わった後の方が楽しい。
藍は、そんな持論を持っている。すべて忘れて酔って騒ぐのも確かに悪くはないが、狐という相手の心を探る種族であるが故か。
『なぜあのとき、酔ったあの人はあんな行動を取ったのか』
『いつも大人しいあの人が、こうも心を曝け出すのは何故か』
そんなことを思い出しながら。
早過ぎる迎え酒として一杯だけ、熱燗を喉へと流し込む。
アルコールの強い香りが一気に口の中に広がったかと思うと、喉が別の生き物のように熱くなり。少しだけ高ぶった気分の中で、宴席の場の出来事を思い出しては、くすり、と笑う。あまり良い趣味ではない、と、藍も理解はしているがやめられないのだからしかたない。
騙し、騙されることを常としていた、過去の自分。
九尾であることを誇りに思い、他の種族を見下していた、古い自分。
自分以外のすべてが、九尾以外のすべてを敵と思っていたときの、愚かな自分が。楽しむべき時間さえ、身を守るための情報収集に使いたがる。
ちりん、と。
何かの音に気が付いて軒下を見上げれば、気の早い風鈴が屋根からぶら下がっていた。あまりにも季節外れ過ぎて透き通った『てるてる坊主』にしか見えない。その奇妙な光景から瞳を逸らせば、吸い込まれてしまいそうな星空と。満月の輝きには遥かに及ばない、闇に切り取られてしまったかのような三日月が空に浮かんでいた。
――欠けた月は良い、実に良い。
まだまだ未熟者だとそう教えてくれるような欠けた月。
その朧げな姿が、藍は好きだった。
「風流を通り越して、滑稽じゃな」
風鈴を見て同じ感想持ったものが、もう一人。静かな足取りで縁側に腰掛ける。横目でちらりと覗けば、藍と同様に熱燗とお猪口を手にしており、月見酒を楽しみに来たのだとわかる。
「藍殿もあの月が好きなのか?」
「なんとなく見上げたくなる程度にはね」
「ふむ、それは微妙なところじゃな」
藍より幾分か小さな妖狐が、声を出して笑う。何がつぼに入ったのかは知らないが、大笑いして体を折り、長く白い髪を月明かりの元に照らし出した。そして笑い疲れた楠乃葉は今度は逆に背を伸ばし、後ろに手をつきながら天井を見上げる。
限りなく広がる空ではなく、何の面白味もない見栄えのしない場所を。
「いやぁ、酔うた。ここまで我を忘れたのは久方ぶりじゃ」
「そういえば、確かに騒いでいたね。これは『我の酒ぞ』と言いながら机の上に立って、一気飲みしてパッタリ、と」
「な、そ、そんなことをしておったのか! 我は!」
「冗談だよ?」
「むぅ、やはり藍殿は意地悪じゃな。そして、どどめきっくばいおらんすの使い手ぞ」
「ドメスティックバイオレンス」
「そう、それじゃ!」
久しぶりに騒いだ宴会、藍も片づけを気にせず盛り上がったせいで、宴会場はまだ地獄のような有様である。明日アレを片付けることになると思うと、気が重くなるが。そんな負の要因を掻き消してしまうほど、宴席を楽しんだことは間違いない。
「まあ、今宵は楽しめたからな許してやる」
「態度のでかい居候がいると困るね」
藍の隣にいる生意気な妖狐も、記憶が一部飛んでしまうほど楽しんだに違いない。酒の余韻で桃色になったままの顔を天井に向け続け、肌を撫でる夜風に身を任せている。今日ばかりは肌寒く感じる夜風も心地よく、程よく冷えた廊下に背中を預けてしまいたくなるが、白玉楼ではそれは愚行というもの。計算され尽くした庭木の配置と枝振りは景観だけでなく、風の流れや天候に合わせた美しさが表現される様は、まさに自然との一体感。
ぼぅっと眺めていると、風景を眺めている自分自身が屋敷の中から飛び出し、風景の中に包み込まれる。背中には確かに建物があるというのに、そんな錯覚すら感じさせる。
「見なくて良いのかい?」
それを意に介さぬように、殺風景な暗い場所を眺め続ける。奇妙な楠乃葉、尋ねてもすぐには何の反応も示さず、小さい体のせいで庭の地面まで届かない足を揺らしながら。
白い睫毛を夜風に震わせ、瞳をそっと閉じる。
「幻想郷、と言うらしいな、この世界は」
「おや? 知らなかったのかい?」
「当たり前じゃろう? 我はてっきり、妖怪の隠れ里のようなものを見つけたと思った。多少なりとも期待したのじゃが、まさか閉鎖された世界とはな。聞かされたのも三日前、橙殿と遊んでおったときじゃったし、お主や紫殿からはまったくと言って良いほど説明はないじゃろう?」
最後に、『困った困った』と続け、うっすらと目蓋を持ち上げる。
「橙殿はとても自慢げに語っておったよ。紫殿と藍殿で、妖怪たちのための幸せな世界を作ったと。閉鎖された世界の中ではあるが、妖怪が妖怪としてあり続けられる世界だ、とな」
呆れたようにつぶやく楠乃葉の言葉から、その様子が簡単に想像できる。いつものように縁側でお茶を飲んでいる横に橙がやってきて、八雲家の妖獣の先輩などと口にしつつ説明をしたんだろう。お姉さんになった気分で。
「しかし、我には母上殿を探しにいくという目的がある、だから外に出てみたい。そう言うとな、橙殿は首を振って、こんなことを返してきたよ。『一度幻想となった妖怪が外の世界に戻ることは、死ぬようなものだ』とな。世界の常識に押しつぶされて、存在自体を消されてしまう、と。高い声で我を叱り付けてきおった」
夜空のように、突き抜けた風景のない。
暗い、暗い、目で見える範囲で終わってしまう天井。そこに何を見てるのか。静かな口調ではあるのに、はっきりと。藍の耳に吸い込まれるその言葉は、淡々と語られているだけなのに。その胸を鋭く貫いていく。
「なあ、楠乃葉?」
どうしようもない同じ狐としての心の痛み。その静かな訴えに心を揺らされた藍は、ある質問をぶつけることにした。
「なんじゃ? 何か聞きたいことでもあるのか?」
それはいつか自分の口から言わなければならない。そう思っていたこと。昼間に紫と幽々子から告げられた真実と、藍が文と調べたことが示す、結論。
「お前は、妖狐ではないのだろう?」
そう告げた瞬間、楠乃葉は尻尾を跳ね上げさせ、信じられないものを見るようにして藍を見つめ返す。動揺のためか、緊張のためか。急に胸元に右手を持ち上げたがすっかり冷えたお酒を倒してしまい、廊下に染みを残していく。
しかしそんなことを気にしている余裕など彼女にはなく、体を強張らせて肩を震わせるだけ。
「紫様がおっしゃっていたよ、ある筋からそんな情報を得た、とね」
「ば、馬鹿な! 我の耳を見よ! 尻尾を見よ! これが狐ではくなんと言う! ら、藍殿と同じではないか!」
「そうだね、間違いなく。狐の尻尾と耳だよ」
藍に向かって、必死に尻尾と耳を指差し、『これが証拠だと示そうとする』しかし、藍は答えを知っている。人間でもなく、妖怪でもない。そんな存在を、すでに見たことがある。
「お前は、半人半妖だろう? 母親は間違いなく妖怪だが、父親が……」
「ち、違う! 違うぞ! 我はれっきとした妖怪じゃ、混血などではない!」
「嘘をつかなくていい、この世界にはそうやって他の種族と交わった者はいるし、生まれながらにして二つの種族を合わせた特徴を持つものもいる」
「じゃから、違うと言うた! 混ざり物ではないぞ、誇り高き母上の子である我が、穢れた紛い物であるはずがなかろう!」
その怒りが、その激情が。
真実がどこにあるかを明確に表現しているというのに、否定する。腕を振り、尾を、耳を目いっぱいに立て、自分が狐の一族であることを証明しようとする。
何故そこまで必死に純血であることに拘るのか。
何故ここまで必死に妖狐であることに拘るのか。
その根拠となるものは、歴史の中にあった。
「……人間との混血と知れたら、親子であろうと共に暮らしてはならぬ」
「――な、き、貴様っ!」
安倍晴明の伝承。
母親を狐と知ってしまったが故、共に暮らすことができなくなった。そんな名の知れた陰陽師の昔話。もしそれが、この楠乃葉にも適用されるならどうか。
そう仮定して遠回しに尋ねてみた。もしその掟が関係していなければ、首を傾げるだろう。何のことだと言わんばかりに。
しかし、その掟によって、親子が引き裂かれたのであればどうか。
この楠乃葉という妖怪が、母親を探しているということの説明がつく。
「あの葛の葉という妖怪は、安倍晴明を生み。その生活の中で、もう一人身篭ったのではないのかな? 一人目は人間の特徴を多く持った子供、そしてもう一人は……」
「やめよっ! 聞きとうないっ! そんな嘘で覆い尽くされた、馬鹿げた推測など、もうたくさんじゃ!」
引き裂かれた原因を無理やり思い出させることとなり、過剰な反応を見せるに違いない。しかもこの興奮状態なら、間違いなく。そんな藍の予想どおり、楠乃葉は藍に掴みかかろうとし、無理にでも口を押さえつけようとする。だが、悲しいかな、その力は本当に人間の女性とほとんど変わりなく。容易に両腕を掴んで押さえつけることができてしまう。
「その子供を生んだのは、狐と知られた後。森に帰ってからであったが、それでも掟は人間の血の入った子と親が共に暮らすことを許さず、二人を引き離した。おそらくは、妖怪の力でも容易に辿り着けぬほど遠くへ」
「……く、うぅっ」
楠乃葉は、もう言い返そうともしなかった。
尻尾の毛を逆立て、瞳を大きく見開いたまま掴みかかろうとする。
「でも、お前だってもう、わかっているんだろう?」
次に来るはずの、藍が話すと思う内容を予想し彼女は暴れる。
「やめよ……それだけは、言うな」
手足を動かして必死に、逃げ出そうとする。
腕を離して欲しいと、懇願する。
「お前は見たはずだ、楠乃葉。母親を探して一人旅を始め、狐の里があったはずの森を探し出したはずだ」
「見ておらぬ、まだ、母上殿の姿は見ておらぬ!」
それでも藍は離さない。
外の世界へ出て、母親を探したいと戯言を言いかねないこの頑固者に。自覚していながら妄想にすがる愚か者に、無理にでも理解させるために。
「でも、見たのだろう! 崩れた家を、畑を!」
「あっ……」
決定的な内容を、告げる。
「人間たちの使う道具で壊され、焼かれた妖狐の里を!」
「あぁぁ……」
焦点の合わない瞳を藍に向け、か細い声を上げる楠乃葉の肩を揺らして、藍は訴える。
「人の手で滅ぼされた、一族の残滓を!」
「あぁぁ……ぁぁぁぁっ!」
とうとう、自分の心を隠せなくなった。
化かすことのできなくなった狐は、押しのけようとしていた藍の腕を自分の体に引き寄せ。その胸の中に顔を埋めた。
◇ ◇ ◇
「お主の言うとおりじゃ……我は、混血の妖狐。それ故に本来暮らすべき場所を追われた」
涙を流し、泣き叫んでどれほど時間が経ったのだろう。
やっと落ち着き取り戻した楠乃葉がぽつり、ぽつりと言葉を紡ぎ始めたのは鳥たちがまだ暗い闇の中で騒ぎ始めた頃だった。
「じゃが、最初はそんなことを言われてもわからなかった。当然じゃろ? 我にとっての最初の仲間は育ての親と、その周囲の者だけ。物心ついたとき『お前は別の里の子供だ』そう言われても、なんの自覚もなかった。しかし、じゃ。子供というのは残酷でな」
はははっと自重気味に笑うその顔。涙で目元を汚したその顔は美しいとはいえないものであったが、藍は少しだけ見蕩れた。今までのどんな彼女の顔よりも、生きている表情に思えたから。
「偽者とか、紛い物とか、不潔だとか。ほんの少ししか人間の血が流れておらぬ我に対し、石を投げつけおった。おそらく奴等は、自分たちこそ群れから異質なものを追い出す勇者と思っておったのじゃろうな。何度大人から注意されても、我を別物としか見てくれなんだ」
すっかりと冷えた酒を離れた位置へ動かし、藍はただその語りに耳を傾け続ける。やっと本心を見せてくれた彼女の心を聞き逃さないように。
「じゃが、我は庇ってくれる大人たちを見て、なんとか耐えた。成人として、子を成すことのできる年まで、ずっと耐えて生きてきた、しかしじゃ。大人になって、夫に嫁ぐことができるようになった我を今度は大人たちが避け始めおった。混血を自分の家の嫁にはできぬ、と。急に手の平を返したように我を突き放したのじゃ。そこで我は、やっと理解した。この里には、初めから我の居場所などなかったのだと。可愛そうな一匹の狐を拾ってやっただけなのだと」
「そこから、旅へ?」
「ああ、おかげですっきりした。その点では感謝するべきかも知れぬ。じゃからな最初の旅の目的は『母親をぶん殴る』じゃった。出会ったらその顔に、尻尾の重い一撃でもくれてやろうかと、そう思って必死に探した」
掟で仕方なく彼女を手離した、それを当時の楠乃葉は頭では理解できていたが、どうしても感情では理解できなかったのだという。ぶんぶんっと、拳を振る真似事をして何かを殴る仕草を見せて、尻尾を一度大きく揺らす。
「なんとか自給自足の生活をして、人里や他の妖怪たちに話を聞き。また別の土地へ、血筋のおかげで寿命は長かったからのぅ。時間をかけて情報を集めること数百年余り、人間の言葉も覚え、作法も覚え、ようやくそれらしき情報が耳に入ってきてな。その後はどこをどう進んだのかいまいち覚えておらぬ、一心不乱にそこを目指したことだけは確かじゃ」
「そのときも母親を殴り倒してやろうと?」
「さあ、どうだったか。ただ、長く旅をする中で気づいたことが一つあった」
「なんだい、それは?」
「一人は物凄く寂しいということじゃて」
「はは、それは違いない」
数百年と、その寂しいという感情が。彼女の心の中でどう作用したのか、細かな部分は藍にはわからない。ただ、一つだけ言えることとすれば、その怒りにも似た感情を、恋しさに変えるには十分な時間だったのではないか、と、他人事ながら、そう思えた。
なぜなら、母親が話に出てきたときの彼女の表情はとても柔らかく。人里にいる子供たちとほとんど同じ表情に見えたから。
「ただ会いたい。そう思って我は寝ずに走った。妖獣であることを大いに活用してな。人間の部分が少なかったことをあのときほど感謝したことはなかったかもしれぬ」
「その結果は?」
「お主の調べたとおりじゃよ……正直、目を疑ったがな。何度も、何度も、森と妖狐の境界を往復し、このふざけた光景は夢ではないかと。幻ではないかと、出入りを繰り返して風景が変わってくれることを祈った。しかしやはり妖怪が願ったところで、事実など歪む筈はなかった」
彼女は言う。最初は何なのかまるでわからなかったと。
そう言いながら、昔話を語り続ける。
そこには確かに何かが住んでいた。たったそれだけしか判断できない崩壊した集落。破壊され、あるいは焼かれた家の残骸と。それを縫うように、逃げ惑う人々の残した足跡が残る土。
それをまた別の足跡が踏み潰し、その先にはくすんだ黒い染みが建物の端に残る。足跡が小さかろうが大きかろうがお構いなしに、最後にすべてを踏み潰すような足跡が残り、必ず行き着いたあとには、黒い染みだけが鮮明に当時の無残さを示していた。
容赦など、なかったのだと。
そんな陰鬱な空気が漂う中を、楠乃葉は進んだ。足を進めるたびに嫌悪感と怒りが湧き出て、後から後から、吐き気が込み上げてくる。それでも汚物を吐き出さなかったのは、彼らの土地をこれ以上汚してはいけないという意思によるものだった。その圧倒的な不快感を耐えているうちに瞳は潤み、風景が霞んでいく。
そのせいだと、楠乃葉は思ったのだという。
目が霞んでいるから、目の前にある奇妙な映像が何なのかわからないのだと。形から想像して広場があったと思われる場所に並ぶいくつもの不恰好の石は、数個の石がぶれて大量に見えるのだと、そう思っていた。
しかしいくら目を擦っても数が減らない。
10個か、20個か。
目を擦るたびに、視界が鮮明になるたびに逆に無骨な石の数は増えていく。そしてそれが50を越えたころから、楠乃葉は数えるのを止めた。数が多すぎたからというのも理由のひとつではあるかもしれない、しかし、もっと単純な理由だ。
数えるたびに指していた手を向けられないと知ったから。
そうやって無粋に指差して数えてはいけないものだと、知ったから。
手を向けるのをやめて、その手で顔を覆った。
無骨な石の一つ一つに、名前が刻まれているのを見て、
膝を折り、泣き叫んだ。
泣き叫びながら、膝で地面を擦るように歩き、一つ一つの名を確認する。
なんという拷問かと、思ったそうだ。
一族の墓を見て回り、母親の名ではなかったことに喜び、しかし仲間が死んだということに対して喜んだことに自己嫌悪し、嗚咽を零しながら吐き気に耐える。
それは悪夢のような時間だったと。名前すら知らない相手の墓石を震える指先で撫でて、一瞬でも安堵したことに対して詫びる。
それを繰り返しながら先へと進み、ふと視線を上げると。
周囲の墓と様子が異なる石がそこにあった。
列のように、集団のように並ぶ墓の最後に、一つ。
奇妙な墓が立っていた。
ぼろぼろの服の切れ端のようなものが掛けられた、最後のお墓。
そこには、名前ではなく。
『私とあなたのための墓』
という文字が彫られていて、その側には錆びた包丁。
よくわからず後ろに間輪りんだ楠乃葉は――
背面に彫られた文字を見て、耐えられなくなってしまう。
『私は、みんなのお墓を掘りました。
ここに私たちがいたことを歴史が忘れないように、
ここに来た誰かが、二度とこんな悲劇を繰り返してはいけないと思えるように、
だから、
あなたがこのお墓を見て、何かを感じてくれたのなら、
私はきっと報われたのでしょう。
みんなもきっと、救われるのでしょう。
そう信じて、私はここに眠ります。
いつしか、人間と妖が、手と手を取り合えると信じて』
楠乃葉は、ただ、その墓石を抱きしめ続けた。
名のない、誰かもわからない冷たい石を抱きしめて、言葉にならない嘆きをのどが壊れるほど叫び続けた。
「さて、昔話は、これで終わりじゃ。何の面白みもなかったじゃろ? よくある話じゃて」
「興味深くはあったよ」
「おや、できれば今のお涙頂戴を聞いて『ずっと面倒をみてあげるよ』と言うてくれると嬉しいのじゃが?」
「残念だけど、うちにはもう手間のかかる人が二人もいてね。家事をしてくれるなら考えてもいいが、まずは紫様に許可を取らないと本当の一員になるのは難しいね」
楠乃葉は、笑っていた。
あんな暗い昔話をしたばかりだというのに、何かすっきりした顔で微笑んでいた。
地平線が少しずつ明るくなる中で、朝日に照らされたその顔。
宴会の後で手入れもせず、一睡もせず、何度も泣いた。
そんな顔が、美しいと思えるはずがないのに。
「ところで、あの墓を見たあなたには、救いがあったのかな?」
「はは、愚問じゃな、藍殿」
半分だけ照らし出された彼女の顔は、芸術品のように美しく。
今にも崩れてしまいそうなほど儚く。
「そんな神がかった救いなど、はなから当てにしておらぬよ」
それでいて、何故か凛々しく見えた。
立ち上がっても藍の肩のところまでしか頭が届かないというのに、縁側で座り、藍の方を向けたその笑顔は、まるで藍よりも大人びたものに思える。
「ところで藍殿、最後に一つ」
「ん? 何かな?」
「そのあまりに正確な情報は、どこから手に入れたのじゃ?」
だから藍もお返しに静かな笑みを返して、はっきりと告げた。
「閻魔様から、こっそりとね」
「はは、洒落がきいておるな。困ったときの神頼み、しかも閻魔なら間違いようがない。ではついでにもう一つじゃ、閻魔代理殿? 我の母は、もうそちらに行ってしまったのかのぅ?」
冗談か、本気か。
どちらとも取れる声音で、楠乃葉は尋ねる。
立ち上がって、藍に背を向けながら。
「ああ、今は転生待ちの列に並んでいるそうだよ、もう一度狐で生まれ変わるか、それとも別の生き物として生まれるか。楽しみながら待っているらしい」
「そうか、達者であったか。さすが我が母上じゃな」
ハハハ、と。笑い声を残し、藍から離れていく。
そんな小さな影が廊下の曲がり角に差し掛かったとき。
「感謝する、嘘でも救われた……」
藍の耳に声が届き、振り返ったときにはもうその姿はない。
自分以外の人影がいなくなった廊下をじっと見つめながら。
「……嘘では、ないんだけどね」
冥界の姫君の権力を使った、死亡した者とその家族構成の調査。
そんな裏話を知る藍は、困ったように笑い。
新しい一日を告げる朝日に、目を細めた。
◇ ◇ ◇
白玉楼の春の宴会から数えて10日。
木々に葉が出揃った頃、やっと屋敷にも静寂が訪れ始めた。
文は白玉楼での宴会以来大人しく妖怪の山へと帰り、藍の精神的苦痛は多少取り除かれることとなった。
あくまでも、多少、であるが。
「う、にゅぎゃああああああああっ!?」
その日も、一人の妖獣の叫び声が響く。
縁側でお茶を飲んでいたと思われる狐の妖獣が自分の尻尾をひざの上に抱え、一生懸命両手で擦り、ふーふーっと涙目になって息を吐き掛けていた。
「ひ、ひどっ! 酷いではないか! 我の尻尾は『くっしょん』とやらではないぞっ!」
「いやぁ、すまないねぇ。洗濯物が一杯で足元が見なかったんだよ。まさか廊下の端まで伸ばしているなんて」
「く、くぅぅぅっ、ああ、そうか! わかった! 藍殿がそうやってわざと我の尻尾を踏み続けるならこちらとしても考えがある! 今後一切家事も何も手伝わな――」
「尻尾はもう一本あるが、どうする? 洗濯物をたたむのを手伝うのなら、少し手伝うだけで快適な午後をおくれると思うが?」
「……く、くぅぅぅぅぅっ! わかった! やる、やればよいのであろぅ!」
紫があっさりと滞在を許可した楠乃葉は、まだ居候生活を続けていた。本人にも出て行く気があまりなさそうなのが困りどころ。
橙はすぐマヨヒガに遊びに行くし、楠乃葉は何もしないし。特に橙は一時は紫の式として八雲姓を得ようと努力を繰り返し、ほとんどこの屋敷にいたというのに、春が来てからはどんどんと遠ざかっているようにすら感じる。
遊びたがりと怠け者、あまりに両極端な二尾をどう扱えばいいか、藍の悩みはつきない。
「あややや、これはこれは、相変わらずお忙しそうで」
「……はぁ」
「おや? そのため息はいただけませんね」
泣きっ面に蜂とはよく言ったもの。胸いっぱいの洗濯物を抱えながら、尻尾だけで『しっし』と追い払おうとするが、藍の横をすり抜けてあっさりともう一人の妖狐の元へ。
「今回はお邪魔はいたしませんし、取材もしません。ちょっとしたお願いに来ただけなんですから、ほら、カメラも手帖も持ってないでしょう?」
「ふむ、確かに手ぶらに見える」
「こらこら、紫様にはちゃんと挨拶をしたんだろうね? 勝手に入ったのならお仕置きもありえるよ?」
楠乃葉の目の前で胸ポケットを指先で広げて見せている文。藍は洗濯物をひとまず廊下に置いて、目を細めて無遠慮な鴉の首根っこを掴もうとするが。
その手と文の首の間に、隙間が開いて軽々と藍の手を掴む。
「間違いないわ、藍。この子は私が招いたんだもの。そうでなければ、そう簡単にここに出入りできるはずがないでしょう?」
「最近は結界を開き続けていると思いますが?」
「冬ではないからいいのですわ」
体を悠々と大きな隙間から滑らせ廊下に降り立つと、その場にいる三人に向けて優雅に微笑むと、扇子を広げて口元へと持っていく。
「いままでどちらにいらっしゃったのですか?」
「少し妖怪の山へ出掛けていたのよ。少し前から騒がしいと思っていたのだけれど、少々問題がおき始めたようだから、ねえ? 文?」
「お恥ずかしい話ですっと、さて少々お庭をお借りしますよ」
そう言いながら、文は三人が見ている前で、鴉天狗本来の羽を背中に生み出し。漆黒を羽ばたかせながらゆっくりと後退。庭の中央に来たところで、視線を集中させるためにわざとらしくゆっくりと羽をたたむと。
その場に膝を付き、躊躇いもなく額を地面につける。
「なっ!?」
プライドの高い天狗である文がまさか土下座をするとは思わず。藍は反射的に尻尾を緊張で大きく広げるが、その前に立つ紫が落ちつきなさい、と。手を上げて止める。
なぜならその仕草にさきほどまでの軽い雰囲気などどこにもなく。
背中が語るのはまっすぐな強い意思のみ。
「幻想郷の大妖怪と、その式を見込んでお願いします。二週間前に消息を絶った天狗の所在の調査にご協力をお願いしたい」
天狗は仲間意識の強い種族。例え普段はいがみ合っていても、有事であれば団結し問題解決に当たる。そんな大切な仲間が二週間以上も音信不通であるという。
文も取材をしながら鴉と連絡を取り合い、人里やマヨヒガ近辺を中心に探してみたが、手がかりはあれどその正確な足取りが掴めないのだという。
「都合の良い話だな、人の迷惑を顧みず取材をしていた癖に。こんなときだけ他人頼りかい?」
迷惑を掛け続けられた代表格、藍が不機嫌にそう伝えるが。文は声の調子を落とすことなく額を土に擦り付ける。
「それは重々承知している所存、しかしもう、天狗だけではこれ以上進展するはずもないところまで来てしまったのです。是非とも大賢者様のお知恵を……もしなんらかの事件に巻き込まれているのであれば、どうしても救い出したいのです!」
「では、天魔の書状を出しなさい、文」
「書状……」
「天狗の全員の代表者である天魔の意思を示せといっているの。少し前にお話させていただいたでしょう? 協力しても構わないが、結果、その人物が死亡したと判明しても。天狗からの報復行為の一切を行わない。それを約束しろと伝えたはずですが?」
「……はい、ここに……」
躊躇いながら上半身を起こし、文は胸元から白い封筒を差し出した。
それを自ら近づくことなく、隙間を利用して奪い取ると。紫は後ろにいる藍にも見えるようにそれをわざと大きく開いた。
じっくりと視線を紙の上に這わせ、ふんっと鼻を鳴らしてそれを文に投げ返す。
くしゃくしゃに丸めるという、余計な行為を付け加えて。
「話にならない、さっさと帰ってもらえるかしら?」
「て、天魔様はこの条件で駄目なら書き直すと申しております。ですから、今一度の猶予を!」
「不愉快だと言っているのよ? つまり天魔は、その書状の条件で通るなら。それで押し通せと、その程度の心意気なのでしょう? そんな人物が書き換えた書状の内容を守るという保証がどこにあるというの?」
「そんなことはありません。新しい書面をお持ちいたします! その書面どおり約束も守ります! 私の身をかけても構いません、ですから! 今しばらく、お時間を頂きたい……」
酷く冷たい目をして、天狗である文を見下す姿はまさに、幻想郷の一本の柱を担う大妖怪。そんな紫の機嫌を損ねてしまったことに深く後悔する文だが、もう遅い。そもそも、書面を覗き見る権利のない、鴉天狗の文には書面の訂正を依頼する権利すらないのだから、文に残された手段はなんとか猶予を貰い、大天狗を通して依頼文を提出するのみ。
「気が乗らない。藍、邪魔だから追い出してくれるかしら?」
「はい、紫様」
しかし紫は冷静に判断を下し、扇子越しに藍へと告げる。
一度だけ目配せをし、冷徹な笑みを浮かべた。
紫に拒否されても頭を下げ続ける文の背中、そこから伸びる黒い羽を藍は荒々しく掴み。無理やり起き上がらせると、微笑みかけながら吐き捨てた。
「書面を作るなら早くした方がいいよ。こちらが先にその天狗を見つけた場合、不機嫌になった紫様が何をするかわからないからね」
「は、はい! 急ぎます! 急がせていただきます!」
藍が翼から手を離すと、表情を明るくした文が翼を大きく羽ばたかせて空を舞う。そしてその姿が完全に消えてから、再び紫は藍の名を呼ぶ。
「命蓮寺へ向かいなさい、藍」
「わかりました、あのネズミが独断で動かぬよう釘を刺してまいります」
組んだ手を頭の上まで持ち上げ深く一礼をする。
そんな二人を間をすり抜けるように、一つの小さい影が動き。投げ捨てられ、忘れられたくしゃくしゃの紙の側へと近寄ると興味本位で、ゆっくりと開く。
するとそこには――
『犬走 椛』
やはり楠乃葉が見たことのない名前がはっきりと記されていた。
しかし同じ狐の妖怪である藍は、別な勘定を抱いていた。
勘定→感情
橙よりも少し慎重も大きく
慎重→身長
それでも文は取材を死体からと机を立とうとしない。
死体→したい
楠乃葉ちゃんのキャラもいいね
次がとても気になる話ですね!
特に紫や藍、文や天魔の関係が状況で変化する点がとても幻想郷らしくて興味深かったです。
それぞれのキャラクターの描写もとても魅力的でした。
にしても、藍様は苦労人が似合いすぎで‥(落涙)
第二話への引きも、続きを楽しみにさせてくれました
‥えー、できれば早い時期にお目にかかりたく思います♪
えっと、誤字かも知れないものを。間違っていたらごめんなさい。
その顔を見て手緊張を解いた。→その顔を見て緊張を解いた。
逆に無骨な意思の数は増えていく。→逆に無骨な石の数は増えていく。
これは続きが気になるw
誤字
>藍野目の前
藍の目の前
>面等
面倒
他にもあった気がしたけど忘れた
凄く好みの題材なので、続きが
楽しみです。
しかもまだ続きがあるとは・・・首を長くしてお待ちしております。
続きが気になる話。楽しみにしてます。
「阿倍清明」ではなく「安倍晴明」です。
蘆屋道満大内鑑の内容を設定に使用しているとはいえ、歴史上の人物の名前を出す場合は注意したほうがいいと思います。
作品は大変面白く楽しませて頂きました。
続きも期待してお待ちしています。
は、はやく続きを…
シリアスな八雲家かっこいいよカリスマあふれてるよ
話の構成もよくオリキャラも違和感なく読むことができました
次回作も期待してまってます
何かとんでもない大異変の前触れ、なのでしょうか……?
続きが気になる気になる!
あ、あと誤字の指摘に関して横から口出しますと
「安倍晴明」さんは「阿倍晴明」「安倍清明」など文献によっては表記に異同があり、
必ずしも「安倍晴明」が正しいとは言い難かったりします。
そもそも一次史料への登場が少ない方ですし。
まぁ某小説等のヒットもあって「安倍晴明」が最も一般的になってますけどね。