[はじめに]
・長大になってしまったので連載モノの体裁を取らせていただきます。
・不定期更新予定。
・できるだけ原作設定準拠で進めておりますが、まれに筆者の独自設定・解釈が描写されていることがあります。あらかじめご注意下さい。
・基本的にはバトルモノです。
以上の点をご了承頂いた上、ぜひ読んでいってください。
前回 N-2 N-3 N-4
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【 】
「ふんふっふ、ふんふっふ、ふーふふー♪」
相変わらず、倉庫の中ではにとりの鼻歌が響いていた。
一人になった途端に上機嫌な調子も復活。ついさっき別れたばかりの鈴仙と永琳のことなど、すでに彼女の頭の片隅にも無かった。
指摘されたにもかかわらず、同じままに不審者の様相のまま。彼女は手元の小さな照明器具だけを明かりに、カチャカチャと倉庫内を物色していた。
ついさっきまで触っていたラジコン人形はひとまず床に置いておき、それに付随する何かを求めて勝手気侭に倉庫をひっくり返す。
あとで片づけることなど、ひとまず二の次。思いつくままに棚から物を引っ張り出しては、気のむくままにそこらに置いておく。
それなりにスペースの取られていた倉庫ではあったが、足の踏み場がなくなるまでに、おそらくそれほど時間はかからないだろう。
「うーん、大型のラジエーターなんてやっぱり無いかなー。この際ロケットエンジンとかでもいいんだけどなー」
誰に言うでもなく呟き、手にしていたなんだかよくわからないものをひとまず空いている棚の上に適当に転がしておいた。手に収まるサイズでしかないそれに、もちろんロケットエンジンなんで巨大なものはついているわけもなく。
そんな大型な物は一目見ればわかるのだが、そこには彼女以外に誰もいないので誰もそれを指摘しない。
にとり自身もそんな大型の動力をさほど期待してはいなかった。小型でも、完成品さえあればサイズを変えて模造する自信がある。モーターかエンジンか、それに類するような動力源を確保しておきたかったのだ。
さきほどまでイジっていたラジコン人形にも、もちろんそれが搭載されているのだが、それに気づきつつ、にとりはあえて別の物を探していた。
ラジコン人形を解体し、その上で元に戻すことも自分には出来るという自負は当然あったが、それにしても、できればまだバラバラにしたくはない。
彼女の頭に浮かんだ図面とその作業予定表に則り、ひとまずは外部動力を探そうと思い立っているところなのである。
誰もいない倉庫の中であったが、そこはすでに音で満ちていた。カチャカチャなんて慎ましい音ではなく、すでに、ガッチャガッチャと騒々しい域にまで達している。
彼女自身、興も乗ってきてしまっていて、そんなことはもちろん気になっていない。
だから――――
「ふむふむ。河童の少女の職場放棄。今、嘆かれる“協調性とは何か!?”――河童たちの土産話にはなりそうなネタね」
「人のことは言えないんじゃないかなー」
そんな二人分の声が聞こえた時、にとりは再び肩を跳ね上げた。
少し前の時と同じく「うぉわっ!」という声まで上げてしまっている。あまり少女らしい叫び声とは呼べないが、心底から驚いたとき、そうそう可愛らしくも叫んではいられない。
「またか!毎度毎度人の後ろから声をかけ……て、っと。ありゃ、予想外の顔だねぇ」
手元の小さな照明ごと、背後の声の主の方へと振り返る。
その先――倉庫の入り口に立っていた二人の少女の内、一人は顔見知りだった。
最初に紅魔館へ行く時には一緒で、違うチームへと別れてからここまで顔を合わせることはなかったから、かれこれ三日ぶりということになる。
「なんだか久しぶりだね、文さん」
「そうですね、初日で別れた以来になっちゃいましたね、にとりさん」
挨拶を交わし、にとりは文のいる入り口まで出てきた。文は入り口に立ちっぱなし。それは妖怪の山にある、にとりの工房を訪ねる時と同じ感じだった。
勝手に踏み入って部屋の中に転がっている“何だか”を蹴飛ばしでもすると怒られるのだ。ここはあくまで永遠亭の倉庫だが、すでにその中の雰囲気は、にとりの家と大差なくなっていた。
「ってあれ。宵闇の妖怪……ルーミアだっけ?も一緒なんだね。珍しい組み合わせだ」
「おー、河童に名前知られてたのかー。それはビックリだねー」
文の隣に立っているルーミアは、やはり楽しげにケラケラと笑っていた。
ルーミアの名前を知ってはいたにとりだったが、その彼女が文と同じチームだったかどうかは、正直覚えていなかった。と、言うより、元よりあまりチーム戦に興味の無い彼女は、他のチームの構成員のことをほとんど覚えていない。
「文さんは……確か吸血鬼のトコのチームだったっけか?昨日永遠亭に来たよね」
「あぁ、昨日はそうだったみたいですね。残念ながら、私とルーミアさんは昨日はお休みだったのです」
「怪我してほとんど寝ててねー。文と紅魔館を歩き回った覚えしかないやー」
「ふぅん。そりゃ大変だったねぇ」
一応同意のような声を上げてはいたが、やはりどうにも興味薄な返事である。にとりの意識は、今だ倉庫の奥から出てきていないようだった。
そんなにとりを前にして、文は「ふむ」と呟いていた。
「その様子を見ると……にとりさん。今日は戦いに行くわけではないようですね」
片手には簡易照明。ポケットにはドライバー。足元にも工具は転がり、袖をまくっている彼女は、うっすらと埃まみれだ。
どこからどうみても不審者――もとい、ここで作業をしている者の恰好だった。
「そうだね。っていうか、昨日も一昨日もまったく戦ってないしね」
“今さら”と言わんばかりに彼女は首を竦めるだけだった。悪びれる様子などもまったく無いし、もとより、間違ったことをしているつもりなど、彼女には微塵もなかった。
紫の号令で始まったこの異変、確かに、戦闘を行うか否かは任意である。本人が必要と思わなければ、無理に行う必要は無い。
しかし、紫の言葉を受けるのなら、“まったく戦わない”という選択肢は、本来存在しないはずなのである。
“暇”――力を振るうことを求めている者のみを、彼女は萃め、そしてこの異変を起こしたのだから。
つまり、参加者の全ては、どういった形にせよ、戦うことを求めているはずなのだ。それが必要と感じたからこそ紫はこの騒ぎをプロデュースし、こうして異変にまで漕ぎ着けた。
だがもちろん。何事にも“例外”というものは存在する。
紫が魔理沙たちに話した説明はあくまで一般論――この異変に参加した多くについてを語っているに過ぎなかった。
「……にとりさん。私たちが山を出る時に受けた話、まさか忘れてませんよね?」
文は神妙な顔をして、そう切り出した。
「この騒ぎに参加することを天魔様に許され、その代わり、私たちはこの三日間における戦跡――他の妖怪たちの記録を持ち帰らなければなりません。お山の妖怪たちは、そうして全てを知っておかなければならないのです」
それが、彼女たちの役割。
言うなれば、それは間違いなく、スパイという意味だった。
山を統べる妖怪たち、現在その頂点にいるのは、天狗という種族である。
彼らは妖怪の山という閉鎖空間を独自に統治しつつ、幻想郷の他の妖怪たちにも目を向けているのだ。天狗に“新聞記者”という役職があるのも、元を正せばそういった背景からの成り立ちである。
天狗の上層――古くからいる古参の天狗たちの中には、特にそういった気風が強く残っている。
閉じた空間の中で、広がる世界の全てを識り、治めているという意識――それは他ならぬ、紫の思惑と相容れぬものである。もちろんそれを知っているのは、当の紫だけであったが。
文のその言葉を受け、にとりも遅ればせながら、口を開いた。
「そりゃあもちろん。忘れちゃいないさ」
彼女は文たちと向かい、倉庫の入り口にぼんやりと立ち、首を鳴らす。よっぽど長時間同じ姿勢でいたのか、ゴキゴキゴキッ、と必要以上に不安になるような音が出ていた。
「でもさ」
言葉を繋ぐ。
「わざわざ天狗に許可を貰う、っていうのも変な話ではあると、私は思ってるよ。だから私ゃ、“連中に土産話くらいなら聞かせてやってもいい”――それくらいなら、と承諾したつもりさ」
目の前に、その天狗を置いたまま、彼女はあっけらかんと言い放った。
その河童の少女の意見が、まるで全河童の総意であるうかのように。
「天魔様からのお言葉を受けたにしては、ずいぶんと尊大な物言いですね」
「天魔様とやらのお言葉を受けて、それをそのまま自分が尊大であるように振舞う天狗も流石だと思うよ」
奇妙な緊張感が生まれる。同じく山の者同士であるが、棘を孕んだようなその会話は、すでに互いが臨戦態勢の時のそれと同じである。
共に妖怪の山から出て、ここは永遠亭。月人の屋敷の誰もいない倉庫の入り口。そこで火花が散るかと思えるような言葉の交換を経た彼女たちは、だが――――
「あはははっ」
という文の笑い声で、一気に緊張が解けていた。
「にとりさんは相変わらずですねぇ。私の知ってる河童で、そこまで言ってくれる人はなかなかいませんよ」
そう言って、文はケラケラと笑い、
「文さんも人のこと言えないでしょ。どーせこれから撮りに行く写真も、山に帰って提出はしないつもりなんでしょ?それこそ怒られそうだねぇ」
にとりも追従するようにして、カラカラと笑っていた。
「まぁ報道は自由であるべきですよ。社会的拘束から解き放たれた身分だからこそ、語れることがあると思っているのです」
「うーん、そりゃ知らんけども。まぁ面白そうだから撮った写真は私に現像させておくれよ。綺麗に写してあげるから」
「えぇ、それはぜひに。にとりさんトコは他の河童よりも腕がいいと評判ですからね。同じくらい、時間がかかるというクレームも承ってますが」
「クォリティは妥協すると下がる一方だからねぇ。クォリティが下がれば興味が下がる。私の」
「なかなか深いセリフですね」
すでに二人の頭の中に、天狗の上層部からの通達についての話など、カケラも残ってはいなかった。
それほどまでに、“どうでもいい”話である。
『山から出て来れた時点で、私はただの新聞記者ですから』
初日に文が零したこの言葉こそ、文の、そしてにとりの内心を表した、端的な言葉だったのかもしれない。
彼女たちは笑い、そして一人、ここまで口を挟まずにいた少女が、大きくあくびをしていた。
「……もう終わったー?」
天狗と河童の二人は同時に首を竦め、互いに顔を見合わせた。
そう、まだ、夜は始まったばかりなのである。
【 Q-2 】
ここ永遠亭は、文字通り、永遠に時の進まない屋敷だった。
逃亡者である月人たちは、幻想郷に居を構えるに際して、そこが月から見つからないように、その屋敷全体に時間停滞の術をかけた。永遠を操る姫の力さえあれば、その程度は造作もないことである。
そしてその術はまんまと効果を発揮した。おかげで千年近くの永きに渡り、この建物は月から発見されることもなく、また、広大な竹林のど真ん中という立地もあり、滅多なことでは地上の人間にすら見つかることもなかった。
だが、二人の逃亡者――姫とその従者は、ある時気づいたのだ。
“幻想郷自体が閉鎖された空間であり、ここにいる以上、月から見つかることは無い”
それ以来、彼女たちは屋敷に時間停滞の術をかけるのを止めた。
止まっていた時は、世界と並び、屋敷内の全ては変化の中を生きるようになる。
鉢に据えられた植物は成長を始め、日一日と違う顔を見せ、そしていつか死ぬのだろう。
無機物も同じ。酸化し、燃焼し、還元するし、劣化し、破損し、自壊する。
万象の生と死が、時相応に観測できる場所。それは普通のことだが、永く永遠を歩んだ姫と従者には新鮮だった。
そう、生物はいつか必ず死ぬし、モノはいつか必ず壊れる。
それにしても――――
「……これはまた、派手にやったわねぇ……」
さすがの永琳も、その光景を前に最初は絶句せずにはいられなかった。
大広間というものは、機能上、来客を加味して設計される。
ここ永遠亭も、一応様式上はご他聞に漏れておらず、彼女のいるこの部屋も、客間として見せられる程度には華美な一室だ……った。
今やその面影はどこにも無し。
焼けた畳、骨の折れた襖、穴の開いた壁、天井。さらに言えば、と続けることができるが、それはあまりにキリが無い状況。
月明かりの光を満遍なく採り入れるようになった広間は、その白い光の中ではむしろ、一言で言えば、廃墟の方が近かった。
「う、うわぁ……………………」
一緒にいた鈴仙も、思わず言葉を失ってしまう。
二人とも、普段見る以上に広がっている空間については言及しない。そのこと以上に、目の前の惨状の方がインパクトとして大きかった。
「さ、さっきの河童をしょっ引きましょう!あれが実行犯じゃなくても、責任取らせてやる!」
永琳の後ろからついてくるようにして広間を覗き込んだ鈴仙だったが、目の前の廃屋風景に、彼女の方が先に憤慨の声を上げていた。
鈴仙にとってみても、ここはすでに住処である。少し前までは日常的に見ていた広間の風景が三日と置かないうちにこれほど荒廃していれば、彼女でなくとも声を荒げるだろう……と、鈴仙は思っていたのだが。
「落ち着きなさいな。あんまり良くないけど、別にいいわよ、これくらい」
今ものその場を飛び出しそうなほどに鼻息を荒くした鈴仙だったが、その熱量はすぐ隣の永琳には上手く伝播していないようだった。
早口でまくし立てた弟子をさておき、彼女は静かにそう言うだけである。自分よりも長く住んでいてこの反応である。いくら付き合いが長い師弟関係とは言え、本気で言っているのだろうかと、鈴仙は疑ってしまうほどだった。
だがそんな彼女の視線と疑念はさて置き、永琳はその部屋の風景を眺めながら、すたすたと部屋の真ん中まで歩き始めていた。
「あの河童の言った通りね。これだけ壊れてるなら、これから壊れてもあんまり気にならないわ。きっと」
もちろんそれは程度の問題などではなく、これ以上壊れないに越したことはないのだが――鈴仙はそれを指摘するより先に、口にしなければいけない言葉があった。
「やっぱり……やるんですか?」
永琳に続いて廃墟のような部屋の中へと歩を進め、おずおずと口を開く。
彼女はここに来てもまだ、自分が八意永琳と戦うためにここに立っている、という事実が意識の芯まで染み込まずにいた。
ある種、夢見心地であるとも言える。もちろん目覚めのいい夢ではない。
「あら、ここまで来てまだ言ってるの?」
壊れた天井から差す月の光を一身に受け、やれやれと嘆息を漏らす彼女を見ていても、まだ居心地が悪い。視線を外し、ほとんど吹き飛んでしまっている畳に目を逸らしていた。
そんな鈴仙の心境を、永琳も正確に感じ取っていた。
「仕方ないわねぇ」
しみじみと響く永琳のその声に、鈴仙はパッと顔を上げた。
もしかして諦めてくれたのか、と。
そして――その考えの甘さを知る。
彼女が顔を上げた先、視界は一面、弾幕だった。
真っ直ぐに見える遠くの壁から、鼻先に当たりそうなほど目の前を通り、すぐ背後にも魔力の気配がある以上、おそらく横も後ろもずっとそう。
彼女の周囲という周囲は、全て弾で埋め尽くされていた。
「蘇生『ライジングゲーム』。――まだタラタラしてるようだと、すぐに詰むわよ?」
弾幕は一切の動きを見せずその場に停止していたが、そんなものは当然あてになどならない。今の鈴仙は銃口を突きつけられているのと大差ない状況なのだ。
銃把を握るその指に戯れに力を込められただけで、彼女はほぼ無抵抗に崩れ落ちるだろうことが、目の前の弾の一発一発に込められた力の加減でわかる。
永琳の表情は変わっていない。
だが、その薄く微笑んだような顔の下に滲む彼女の本気が、遅まきながら鈴仙の中にまで深く浸透した。
「――――っ!師匠っ!!」
それでも、彼女は訴えることを止めない。
何を考えていたわけでもないが、思わず鈴仙の口は彼女の名前を叫んでいた。
永琳の顔がわずかに曇り――指先には力が込められた。
静止していた弾幕群は、のそりと動き出したかと思えば、すぐさま流れる土砂のようになって進行方向上の全てを呑み込んでゆく。
術者である永琳を器用に避け、大弾も小弾も進撃する。
ある弾は他の弾とぶつかって小さく炸裂し、ある弾は壁面まで到達してミシミシと建物を揺らす。
弾がその身で風を切る音と、爆発音と衝撃音。
そこはすでに、一面の爆心地だった。
阿鼻叫喚の広間の中に、弾幕の炸裂が一際大きい場所があった。そこはついさっきまで鈴仙がいた、まさにその場所である。
永琳は黙ってそこを眺める。
そこから生まれる閃光に、彼女の放っていない紅い光があることに、彼女は気づいていた。
永琳の装填した弾はそろそろ撃ちつくされる。
徐々に薄くなってゆく弾幕の影から、ぼんやりと鈴仙の姿が見えてくる。
彼女はまだ、そこに健常に立っていた。
眼前の弾幕を相殺するために放っていた『花冠視線(クラウンヴィジョン)』がその余韻を残して消えてゆく。
「各個相殺、ね。……やればできるじゃない」
少し感心したように呟く。もっとも、本当に感心はしてはいなかった。
彼女は目の前の弟子の力量を、本人以上に正確に把握していたのだから。
――ま、これくらいはできて当然。
「師匠……どうして……」
彼女は目の前の脅威が去ったことを確認し、静かにスペルを停止した。
無傷で立っている弟子のその姿を、そのこと自体には興味無さそうに眺めながら、永琳は呟く。
「でもそこでまだなんのかんのと言ってるあたりが、あなたとあのメイドの違いかしらね」
昨日のことが悔しくないのかしら、そこまで言いはしなかったが、込められた意味はそういうことだった。
思わず出てきたその代名詞に、鈴仙は顔を少し曇らせる。
吸血鬼に仕える人間の従者。
幻想を前に、自らも幻想を操って戦う、在り得ないメイド。
――いや、あのメイドでも主人と交戦はしない……はず。きっと。
ちょうどその頃、彼女は主人の館に乗り込んで、その主人の頭にナイフを突き刺していた、なんてことは、鈴仙には知る由も無い。
「そ、そうだ!師匠は昨日、私を助けてくれたじゃないですか!敵とか、味方とか、関係無しに!」
鈴仙はまずはメイドと比較されたことを棚上げし、なんとか思いついた言葉を口にした。
何でもいい、今はただひたすらに永琳の気を削ごうと、それだけに必死だった。
「だから言ったじゃない。昨日は“諏訪子の手助け”に入ったのよ。全力を出してもらうためにね」
だが、永琳はつまらなそうにそう返すだけだ。
ふぅ、という溜め息を掻き消すように、新しく弾幕が展開される。彼女はそこから一歩も動かず、黙々と弾を生み出してゆく。
青みのかかった丸い弾――不死の霊薬の材料とされる、水銀の玉のような青い弾。
少し経つころには、そこはすでに『水銀の海』だった。
「疑問をぶつけるのは構わないわ。でもそれで私が御座なりにされたんじゃあ、困るわね」
永琳は嘆くような声でそう言い、
「死力を尽くしなさい、ウドンゲ。私に問いかけることを思考し、目の前の弾幕に思考し、私に届く弾を思考し、それらを全て同時に処理した上で、行動なさい。どれかひとつでも手を抜いた瞬間、痛い思いをするのは……あなたよ」
それは、ここまでのどの台詞よりも、冷たく尖った声音だった。
鈴仙はゴクリとひとつ唾を飲み下し、改めて心を構える。
永琳に渡された課題は、ここまでの何よりも過酷なものだった。
弾幕が動き始める。
彼女の周りを覆いきった弾幕は、その準備段階を終えると、次はそのままに敵へと波打つ。
その弾たちは、だが相手を認識して動いているというわけではなく、箱にそそがれた水のように、ただ空いている鈴仙の方へと殺到するようだった。
こうして縦横無尽に迫る弾の方が、避ける側としてはやっかいである。
鈴仙は迫る弾の海を相手に、手始めとして、ここまで主張してきた疑問から始める。
「師匠!どうして私と師匠が戦わなきゃいけないんですか!」
彼女は右手で銃を作る。
ありったけの魔力をその人差し指に込め、ふっ、と一息に銃を乱射した。
左から薙ぐように右へ、横一線に弾を撃ち込み、見てわかるほどの弾丸が飛び出してゆく。
それらは眼前まで迫った水銀の波とぶつかると、それぞれに爆散した。弾が発射する音と爆散する音で、彼女の周囲はごった返しになる。
もはや弾丸というよりは、ミサイルと言った方が近い彼女の弾幕は、それでも目の前からの弾幕を押しとどめるので精一杯だった。
紅い爆煙が晴れるのを待たず、水銀の海は迫ってくる。
前からも後ろからも迫る弾を前に、両手を銃にして撃ち出しても、ジリ貧であることは明白だった。
「問いかけに対する思考がイマイチ機能してないようね。思いついたことをなんでも言えばいいわけじゃないわ」
そう言いながら、永琳も再びスペルカードを宣誓する。
「重ねて、天丸『壺中の天地』――その質問はパス。他には?」
水銀の海に沈んだ部屋の中に、色の違った弾が飛び出してゆく。
それらは直接鈴仙の方へと飛んでは行かず、彼女をぐるりと取り囲むようにして配置されていた。
すでに海の中で溺れそうになっている兎を囲い込む壺。
標的を囲むように円陣を組んだ弾から、ひとまわり小さな弾が射出される。
「ちょっ!パスとかアリですか!」
「アリよ。別に全部答えるなんて言った覚えないもの。もう少し私の興味を引きそうに広げなさいな」
「そんな無茶振り!」
彼女はほとんど泣き声のように叫びながら、新しく放たれた弾幕を空中で躱してゆく。
ヒラリヒラリと軽やかに身を翻しているように見えたが、彼女にそんな余裕は無い。
そのまま展開され続けている水銀の海も、同時に押し止めなければならないのだ。
壺中の小弾をギリギリまで引きつけて、そして動く……つもりだったが、それにしてもそろそろ限界がきていた。このままではどのみちどちらかのスペルに飲み込まれるのは目に見えている。
思わず脊髄反射的にスペルを宣誓した。
「波符『赤眼催眠(マインドシェイカー)』っ!!」
両の腕を左右に広げ、二方向同時に弾を放つ。
丸く円を描くようにして拡散してゆく弾幕は、弾幕と言える数の弾を撃ち出し、自らを取り囲む弾たちとぶつかり合う。
それもしかし、時間稼ぎ以上の効果を発揮はできそうにない。ここにもう一手加えられたらどうしようもない。
状況はすでに凋落。先が無いのは明らか。
――考えろ。この現状を少しでも改善するには、何が適切か。
――考えろ。私の中で納得のいかないことを。それをどうにか師匠の口から全部引き出す、その手段を。
――この一撃だけで終わらせる……なんてのは、きっと無理だ。そもそも私には一撃で決められるような武器な無い。少しずつ進むんだ……小さな綻びを見つけろ。ここまでの全てを思い出せ。
『諏訪子に、本気で戦ってもらいたいだけよ』
なぜその言葉が浮かんだのか、鈴仙にはわからなかった。
昨日のある場面。ある夜、妖怪の山での話。それ単体ではさほどおかしな話でもない。
だが、なぜかその単語が浮かび、そしてその単語をきっかけに、鈴仙の頭の中に一息に仮定が組まれる。
それはまさに、天啓だった。
「……師匠。あなたは昨日、“諏訪子さんと”戦いたかったんですか?」
弾幕を展開させたままに問いかける。
魔力同士がぶつかり、炸裂する音が響く中に、彼女の声が通る。
「そうよ」
静かに永琳が答える。
それが?と先を促すような視線を感じたのは、気のせいではないと信じ、鈴仙は言葉を続けてゆく。
「師匠。師匠はもしかして……守矢の両柱、どちらを相手にしても良かったんではないですか?本当の目的は、神様と戦うこと、だったんじゃないですか?」
だから山にいた、彼女はそう続ける。
「面白い着地点ね。根拠は?」
「ありません。強いて言えば、勘です」
その言葉に、永琳はくすりとも笑わなかった。
「昨日、師匠の隣を飛んでいて、私なりに感じた勘です。私は……その答えに自信を持ちます!」
その宣言の最中。
不意に、弾幕の切れ間を見つけた気がした。
壺中が破れる。
弾を吐き出していた弾が、周囲の海の中へと拡散していくのがわかった。
鈴仙は何もしていない。おそらく、維持時間の問題だろう。破られたスペルを、すぐに永琳が作り直そうとしていた。
この機を逃しては、同じことが繰り返される――それを咄嗟に鈴仙は感じ取っていた。
「ここ、でっ!!」
瞳が紅く光る。
狂気の瞳に魔力が滾る。
そして、限界まで溜められた力がそのまま一直線に放出される。
狂気の瞳を媒体に放たれるレーザー光。
魔力の塊となったそれは、文字通り目の前の弾幕を全て切り裂いてゆく。
水銀も練丹も関係無く、紅い光が真っ直ぐに全てを飲み込み、視線の先にいる彼女まで届く。
自分の展開していたスペルを割って入ってくる紅光を、永琳は飛び退いて躱した。
先ほどの壺中を再現することも、水銀の海を新しく生み出すことも、そのとっさの回避行動では行えていなかった。
――それだけで十分っ!
「幻波!『赤眼催眠(マインドブローイング)っ!!』」
紅い光を放ちきり、彼女は両の腕に魔力を回す。展開していたスペルが、そのままに強化される。
放たれる弾幕の厚さが、込められた魔力量に比例するように増大した。
ひとまわり、いや、ふたまわり近く密度の上がった弾たちがこれまでに無い勢いで水銀の海へと飛び込み、その青い弾を悉く打ち落とす。
レーザー光に追撃を阻まれた永琳が体勢を整える暇など待たない。
――師匠が次を撃つ前に、状況をフラットに戻す!
気迫を込めてありったけの弾を撃ち出す。
魔力同士の炸裂音が一層激しく響き渡り――鈴仙を取り囲む水銀の海は、悉く蒸発した。
「――はっ、はっ、はっ……はっ……」
まさに全力をもって相殺に徹した彼女は、一度に使い放った魔力量に体をふらつかせながらも、視線を下げることなく前を向いていた。
永琳は床に立ち、そのまま、室内に浮かぶ鈴仙を見上げていた。
体を崩され、スペルを相殺されている間も、彼女はスペルを詠唱することもなく、黙って鈴仙を眺めているだけだった。
まるで、その光景に見蕩れるかのように。
「なかなかに考えたみたいじゃない。いいことよ」
肩で息をする鈴仙に、永琳は優しく声をかける。
「はっ、はっ……言った通りです……考えた、ってほどのことは……はっ……できませんでしたよ……結局、ほとんど思いつきみたいなものです」
どうにか息を整えながら、追撃が来ないことを感じたのか、鈴仙はスルスルと高度を下げ、永琳と同じ高さに降り立った。
永琳の言った“考えた”ということが何を指しての言葉なのかは判別がつきかねたが、問いかけにしろ、反撃にしろ、なんらかが彼女を揺らしたのは間違いなさそうだった。
「思いつきは大切にしなさい。閃きは何より尊い場合があるわ」
さっき言ったことと違うじゃないですか、なんて揚げ足取りをしている余裕など、今の鈴仙には無い。
結局永琳は傷ひとつ負ってはいない。
大規模スペルの二重詠唱をしてはいたが、それでも鈴仙のように消耗した訳でもない。
彼女はしっかりとその場に立ち、しっかりと鈴仙に答えを示す。
「まぁ及第点はあげましょうかね。――あなたのその疑問、答えましょう」
そうして永琳は、静かに口を開いた。
【 Q-3 】
月の姫の居城――永遠亭。その一室は、ただひたすらに静かだった。
天井が抜け、壁が壊れ、床はボロボロ。
まるで廃墟のような様相を呈しているこの部屋も、今は静謐な空気に包まれている。
天井の穴から漏れる月の光が、そこに立つ二人を控えめに照らしていた。
「諏訪子とは……いえ、それさえも本来の目的から見れば、ただの偶然ね。あなたの言う通り、私は神と戦えれば、なんでも良かったんだから」
月光に髪を揺らし、八意永琳は静かに語る。
月人の代表と言っても過言ではない彼女は、そのまま、月の持つ静けさを象徴しているかのようだった。
そんな彼女の言葉を聞く鈴仙は、ゆっくりと唾を飲み下した。
「それって……どういう…………」
遠くで地響きにも似た音が鳴っている。
音の無いこの空間の、それだけが唯一のBGMだった。
「……誰だか知らないけど、近所で派手にやってるみたいね……。楽しそうでなにより」
笑いもせずに言う永琳からは、心にも無いことを言っていることがありありと伝わる。
鈴仙はその言葉には言及せず、黙って続きを待つ。
今はそれだけが、ひたすらに気になっていた。
不意に、永琳が切り出した。
「ねぇウドンゲ。あなたは“神罰”って信じる?」
あまりに突然に出てきたその単語に、思わず鈴仙は首を傾げてしまった。
神罰――神が下す罰。
神様がその者の罪を裁き、その罪相応に与えるモノ……という印象が強いが、厳密に言えば“人の身で抗うことのできない不幸”のことを大別してそう言う。
特定の神様に怒られる、というのは、それこそ特定の宗教のみの教義であるのだ。
だがその“特定の宗教”を持たない彼女たちである。おそらくイメージは一般的な前者のものであろう。
目に見えない力による、絶対的な、避けられない、神様からの罰――神罰。
単語を頭に浮かべながらも、話が戻ってきているのか、いないのか、鈴仙には判断がつきかねた。
そうして首を傾げている彼女には取り合わず、永琳は続ける。
「私はね、まったく信じていないのよ。――なんせ私には、神罰が下った例が無いのだもの」
バチが当たっていないことに対して肩透かしであるかのように、彼女は溜め息を吐きながらにそう言った。
鈴仙の知る彼女は、無神論者でさえあったように思っていただけに、“神罰”なんてものを気にしているなんていうことは、もちろん今初めて知った。
「な、なんで師匠に神罰が?師匠は月の誇る天才で、姫の家庭教師で、月から逃げた私を救ってくれた、そんな……そんな師匠じゃないですか!」
危うく停止しそうになる頭を動かしながら、彼女はかろうじて反論する。
特別神様を信仰しているわけではない彼女にとって、神罰なんて“悪いこと”をした人にしか当たらないはずだ、そういう大雑把な印象しかない。
――師匠が神罰を受けるようなことは、していないはず……。
「ほとんどは間違ってないわ。でも……そうね、二つ目」
彼女は小さく「うん」とだけ挟み、そして鈴仙を、見ていた。
「二つ目が半分正解じゃないわね。私は輝夜の家庭教師であり――あの子を輪廻の枠から放り出した元凶、よ」
これが模範解答。そう、淡々と言い放った。
「姫に頼まれた私が蓬莱の薬を作り、それを飲んだ姫が月から流された――今さらだけど、もちろん知ってるわよね?」
「そ、それはもちろん」
聞かれるまでもない。
彼女たちのその事件をリアルタイムで見ていたわけではないが、千年近く前のその出来事は、時が長い月の都でも、もはや御伽噺の域だ。
誰が声を大にして言うでも無かったが、多くの月の兎たちは二人の不死人の話を必ず知っていた。
「誰も作りえなかった不死の霊薬、“蓬莱の薬”……そんなもの作れるのも、師匠しかいませんし……」
おさらいするようにして言ったその言葉に、僅かに永琳の顔が曇ったような気がした。
「……そうね。輝夜の力があればこそ、ではあったけど。それでも精製できたのは私くらいでしょうね。現にここまで存在した記録は無いし、これから生まれることも無いでしょう」
永琳は視線を下に逃がす。
まるで自分が続ける言葉から、目を逸らすように。「だからこそ――」
「だからこそ、私が罰を受けるしか無いのよ。同じ業を背負える者が他にいないのなら、なおのこと私が背負わなければいけないの」
その声音は暗に、“私以外でも作れたら良かったのに”とも取れた。
意識か無意識か、そんなことを言葉に匂わせてしまうほど弱気な永琳を、鈴仙は見たことが無かった。
鈴仙の小さな驚きは取り合わず、彼女の独白は、静かに続く。
「私は罪に罪を重ねてきた。禁忌の霊薬の精製……そして月からの逃亡。使者たちを皆殺しにしてね」
不意に月を見上げる。
天井の隙間に浮かぶ、既望の月。
今までに彼女を連れ戻そうとした使者たちの顔を、永琳は全て記憶している。
その一人一人を、頭上から見下ろす衛星に浮かべているように。
「不死と死の、両方の罪……でも私は裁かれることなくここまで来た。そして、永遠に、恒久に……これからも」
見上げていた視線を下ろし、再び鈴仙と向き合う。
その熱を帯びた瞳に、思わず彼女は体を震わせてしまいそうになる。
「でも、私は裁きを望んでいた。焦がれていたと言ってもいいわ。――私の未だに信じていない、神罰までアテにするほどにね」
ふふっ、と自嘲気味に笑う。鈴仙は返事ができない。
「今さら裁きを受けたところで、私の罪が消えるわけではないし、あの子の運命も変わることはない。それはもちろん解っているわ。あの子は永遠に死ねず、私は永遠にあの子の傍にいる――それはもう変わらない。……でもそれじゃ何も許されないわ。仮に星霜が罪を霞れさせたとしても、私が私を許さない」
――そう、永遠にね。
そうして言い切った彼女の顔は、決意を乗せているようだった。
何%かの強い想いと、何%かの不安、後悔、恐怖。それらがあべこべに混ざり、混ざりきることもなく、表情に乗せられている。
それは鈴仙の知らない、永琳の顔。それは当然だ。
長寿な月の民、そしてそこから永遠を生きるようになった彼女のことなど、鈴仙は一握りしか知らないのだから。
「今言った通り、所詮懺悔と裁きなど私にとっては自慰と一緒よ。本質は何も変えられず、生み出すものは何も無いのだから。――でも、それでも。私には愛おしい行為なのだから」
彼女はすでに、どこか恍惚としている風さえあった。
「じゃあ……師匠は……姫にも罰を受けさせるつもりなんですか?」
そこで鈴仙は僅かに唾を飲み、たどたどしくも口を挟むことにやっと成功した。
まさか口には出して言えないが――永琳を罪人としてカテゴライズするのならば、そこには、蓬莱山輝夜も一緒であるのだろう。そう鈴仙は考えていた。
もちろん、どちらも月の都から見れば、確かに罪人である。
鈴仙の中での二人の印象がどれほど違っていようとも、それは覆らない事実である。
彼女が自身を罪人とし、その罪に対する罰を求めるのならば……それはつまり――――
「いいえ?だってあの子はちゃんと裁かれたじゃない」
だが、永琳はケロリとした顔でそう言い放った。
「罪状は“蓬莱の薬の服用”。刑罰は“穢れの地への流刑”。月の民の定めたルールに則ってだけど、彼女はちゃんと裁きを受けたわ」
言いながら、ゆっくりと瞼を閉じる。
月の都にいた、あの頃を思い出すかのように。「でも私は、その時さえも裁かれてはいない」
「誰も彼も、私が作った以外に考えられないはずなのに、私は法廷に呼ばれもしなかったわ。“蓬莱の薬”はその所持自体は罪ではなく、その服用が罪となる……そんな条文など後付よ。立場上、私を裁ける者が誰もいなかっただけの話」
その語調には、僅かに怒りのような色が見え隠れした気がしたが、それが果たして本当に“怒り”なのか、それさえも鈴仙には判りかねた。
「私が欲しかったのは、罰よ。冤罪でも恩赦でも、ましてや超法規的措置や高度な政治的判断でもない。輝夜から死を取り上げた、私に裁きを下して欲しかったの。――だから神に会いに行った。私に罰を下してくれそうな、一縷の望みを託してね」
これが、私が神様を訪ねに行った理由。
そう言葉を締めた。
そうして語り終わった時には、彼女はすでにいつもの彼女だった。
合間合間に零れた激情のような波長もすでに鳴りを潜め、今は波ひとつ無い静かな水面のようだった。
「…………わ」
喉の奥に貯まっていた唾をゴクリと飲み下し、鈴仙はその紅い眼に精一杯の力を込めて、
「私は納得いきません!」
叫ぶようにして言った。
「どうして……どうして師匠がそんな……どうしてそんなに一人で背負い込まなきゃいけないんですか!?」
「言ったでしょう?私の罪だから、よ。蓬莱の薬を作り、それを飲む輝夜を止められなかった罪。そんな彼女を追い、月の民たちを地上で皆殺しにした罪。他の誰も、それを肩代わりなんてできないの」
鈴仙からの追求も、永琳がピシャリと言い返す。
反論の余地を許さない、はっきりとした意思が込められている。
「でも……そんなのって…………」
鈴仙にも、言いたいことは山ほどあった。だがそれらは頭の中で入り乱れているばかりだ。
心で浮かび、頭で考え、それが一斉に口から出ようとして詰まっている。
どうやっても一つしかない彼女の口からでは、心で感じた全てを放てない。
出口を求めた様々な感情が、行き場を無くしてしまう。
自然と、彼女の瞳から涙が流れていた。
水滴は静かに頬を伝う。
今自分が悲しくて泣いているのか、鈴仙にはそれさえも判らないでいる。
「……わかり……ました……」
ゆっくりと口を開く。
自分の中の何かに押し出されるようにして出たその言葉は、ほとんど無意識だった。
だが、そこから出る言葉こそ、自分が一番強く想っていることだ。
彼女は、そう強く確信していた。
溢れる涙を止めることもせず、鈴仙は紅い瞳で永琳を強く見つめた。
頬を濡らしたそのままに、彼女は永琳へと強く言い放つ。
「わかりました、師匠!そこまで言うなら……私は……あなたを裁かせません!裁きなんて、させたくありません!」
――そう、これがきっと、私の答え。
「あら、言うわね。まぁ、気持ちだけ受け取っておくわ。あなたじゃ、残念だけど力不足なのよ」
「そんなことは関係無いです!仮にあなたが裁きを受けて、自分を許せたとしても……私があなたを許しませんから!」
考えろ、思考しろ、と言われ続けてきたが、直感的に、感情に任せたままに出た自分の言葉に、鈴仙は一人納得していた。
不意に、鈴仙の頭に、ある夜の情景が思い浮かぶ。
『さぁ?“サボってお茶飲む所が無くなっちゃ困る”くらいの理由じゃない?』
吸血鬼の声。
『それは確かに、命を懸けるのに値するわ』
自分の声。
“月の兎”の自分だったら出せない答え。
“幻想郷の妖怪兎”の自分なら、出せる答え。
『私は、私の大好きな人たちのためにだけ、この命を懸けたいんだ。彼女たちが悲しむようなことは、絶対にさせない』
一昨日も確かに、少し欠けたこんな月の夜だった。
頭に浮かぶ、妖怪の山での光景。
それは脳裏に蘇り、彼女の決意の背中を押す。
狂気の瞳は涙を流しながら、紅く紅く、輝いていた。
「そう!あなたは少し、自分を大事にしなさすぎる!――少し頭を冷やしてください……八意永琳!」
ほとんど叫ぶようにして、彼女の名前を呼ぶ。
自分のこの行動が、正気の沙汰なのか、狂気の果てなのかはわからない。
どれだけ無茶苦茶を言っていても構わない。理路整然としている必要は無い。ちゃんと伝わっているかどうかすら、今はどうでもいい。
――どちらだとしても、構わない!私は、私の…………
彼女はおもむろに、ブレザーの内ポケットから試験管を取り出す。中に光る緑の怪しい液体を貯えた、一本のガラスの容器。
蓋していたコルクを親指で乱暴に外すと――中の液体を口へと運んだ。
喉を鳴らし、一息に飲み干す。
最後の一滴まで全て体内へと流し込むと、空の試験管を乱雑に投げ捨てた。パリンと小さく割れる音がしていた。
濡れる口元を袖で拭い――彼女は、目の前の永遠を鋭く睨みつける。
「自分を大事にしないあなたを、私は絶対許しませんから!」
溢れるようにして流れていた涙は、すでに止まっていた。
【 Q-4 】
永遠亭が揺れる。
近場で騒ぐ鬼と吸血鬼が大地を揺らしていることすら、今は比ではない。永遠亭の内部で交わされる戦火がダイレクトに屋敷を揺るがしている。
月から最も遠いこの屋敷は今、有史以来の衝撃に必死に耐えていた。
大広間で行われている、この屋敷の住民同士の戦いを収めながら、その全てを見守っている。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」
雄叫びを上げて鈴仙が宙を疾る。
叫んで動き回るなどいつもの彼女ではない。
だが確かに今の彼女のモチベーションは、いつもの彼女では、ない。
永琳の放つ弾幕を掻い潜りながら駆け抜け、距離を詰める。
その回避しながらの前進は、完璧なものではない。
致命傷となる弾をのみ躱し、瑣末と判断した弾は避けることも守ることもしていない。
体はすでに傷だらけで、目の前で立ちふさがる永琳よりも遥かにダメージを蓄積していた。
だが、彼女は止まらない。
狂気の瞳が輝く。
腕を弾幕のひとつが大きく掠め、新しい傷が刻まれる。
だが、彼女は止まらない。
腕の傷から血が噴く。その赤は、彼女の瞳の紅には敵わない。
「散符っ!」
右手で銃を象る。
左手は銃を支え、そのまま魔力を注ぎ込む。
「朧月花栞(ロケット・イン・ミスト)!!」
一息に三発。
放たれた弾丸が筋を残し、永琳へと真っ直ぐ伸びてゆく。
まさに弾丸と呼ぶにふさわしい、瞬く速度。
だがそれらは、あくまで直線の動きしかしない。いくら速さがあろうとも、その軌道を読むことは容易い。
永琳ほどの実力者にとっては、その程度は息をするのと同じくらいの手間である。
放たれた弾に照準を合わせ、弓を三度射る。
弾丸の速度に間に合うほどの速さで弓を番えること自体が常識離れしているのだが、彼女は顔色ひとつ変えず、それをあっけなくやってのけていた。
迎え撃つ矢も同じく直線軌道を描き、真っ直ぐにぶつかってくる弾丸と交差する。
弾頭と鏃が触れ――ずに、矢は弾丸を貫通して進む。
そういう風に、永琳には見えて――見せられていた。
仄暗い部屋に、紅い光が煌いている。
宙に浮かぶ兎の、狂気の瞳。全ての波長を狂わせる、唯一無二、彼女だけの力。
いかに毒の効かない蓬莱人だろうと、体の作りは地上にいる多くの人間・妖怪たちと一緒である。
彼女の瞳からは、逃れられない。
永琳の目の前に、弾が再び実像を結びだす。
今まで見ていた方向から、やや左にズレていた。
そして放たれていた弾も――実は九発。
すでに弾丸の形が目視できるほどに迫られている。
紅い弾。
実在の兵器に装填する弾より、あきらかに口径が大きい。
「秘薬……『仙香月兎』」
予期はしていなかった。対策があったわけでもない。
だが彼女は、急転直下の自分の状況にも、あっさりと対応してみせる。
焦りを感じさせない声音で、彼女はスペルを宣誓する。
ゆっくりとした彼女の声が響き終わるころには、永琳の後ろからは短いレーザー光が射出されていた。
太く、短い魔力の塊。
複数本生み出されたその光は、目の前まで迫っていた弾を焼き払い、勢いを殺されることなく突き抜けてゆく。
あるモノは壁まで飛び、ベキベキという音を立て、あるモノは空いた天井の穴から外へと飛び去っていった。
そして、あるモノは紅い弾丸を掻き消し、トリガーをひいた鈴仙までもを狙って飛んでゆく。
返す刀で飛んでくる短レーザー。鈴仙へと直撃コースで飛ぶ魔力塊。
彼女は、これを予期していた。対策も考えている。
支えとしていた左手も拳銃の形に握り、襲い来る弾幕に狙いを定める。
彼女が頭の奥でトリガーを引き、両の人差し指から弾丸が放たれる。
一発では済まない。連射。
どちらの指からも、マシンガンのように弾を吐き出させる。
前に突き出すようにして構えていた腕をそのまま横へと払う。指先からは弾が絶え間なく連射される。
薙ぎ払い、前方へと弧を描くように飛び出した弾たちは、レーザーに当たるとそれぞれに炸裂していた。
一息に放った、爆裂型弾頭の速射。紅い弾丸が紅い爆裂光を上げ、永琳のスペルたち全てを宙で霧散させてみせた。
そのまま両腕を横に広げ、両手に銃を構え、鈴仙は空中に佇む。
鈴仙の放った魔力煙が宙に漂い、月の光を紅く染める。
紅い月光――それを背に浮かぶ彼女の瞳も、真っ紅だった。
急に、ズキン、という痛みが奔る。
それに怯む顔はせず、鈴仙は努めて冷静に患部を探した。傷だらけの体はそれ自体が痛みの塊のようになっている。
――けど、おそらくもっと内部的な痛みね、コレ。
頭から響いているようでもあるし、内蔵器官が悲鳴を上げているようにも思う。
もしかしてどっちもあるのかも、とも思うが、今はそれは頭の隅に寄せておいた。
だがやはり、天才薬師の目までは誤魔化せなかったようだ。
「あなたそれ、」
半ば呆れたといったように、永琳は呟いた。
「私の薬じゃないわね」
「……やっぱり解りますか?」
精一杯におどけて言ってみせた。笑ってくれる、とは思っていなかったが、あまりに永琳の表情が真面目なままだったので、軽口を閉ざす。
呆れた、というよりはもっと、沈痛な面持ちに近いようにも見えた。
「お察しの通り。私が飲んだのは八意永琳謹製の『国士無双の薬』じゃありません。師匠から貰ったオリジナルを基に、私ができる範囲でイジって作った粗悪なコピー品ですよ」
鈴仙は腕を静かに下ろしながら答える。
今の彼女の言葉で、永琳には全ての合点がいったようだった。
「――そう、ね。あなたに渡した薬は、所詮“ごっこ遊び”用に調整されたものだものね」
「その通りです。近接戦闘までを含めた、“弾幕ごっこ”で使う強壮剤に過ぎません」
答えながら、静かに着地する。
生薬――『国士無双の薬』
鈴仙のスペルのひとつとして分類してあるが、スペルでもなんでもなく、言ってしまえばただの薬である。
先の天候異変の際に、調査に出る鈴仙へと永琳が持たせてくれた、単純能力上昇を補助してくれる強壮剤。
「師匠は、非力な私に、とコレを作ってくれました。――その効能は私が一番良く知ってます」
その能力故、トリッキーに戦うタイプである彼女は、単純能力では他に劣る場合が多い。
力自慢の鬼。疾さ自慢の天狗。
彼女たちのような長所は、鈴仙には無い。
それを補って余りある能力はある、と自負もしていたが、それでも能力の底上げをしてくれる永琳の薬には助けられていた。
――でも…………
「今回のこの騒ぎで使うには、効果が足りないと感じました。だから私は、私が出来うる限りの知識でこの薬を組みなおして作ってみたんです――今みたいな、こんな状況のために」
彼女は昼間に、こっそりと永遠亭に必要なものを取りに行き、それを山の神社に持ち込んで、あとは夜までただひたすらこれを作っていた。
一夜漬けならぬ、一昼漬けで作った薬ではあるが、鈴仙はその出来に満足していた。
――改良の余地はあるけど、今日使うためだけなら、これで十分。
「師匠のオリジナルと一緒で、限度は三本。それ以上は試していません」
語調を強く、そのまま永琳を強く見据える。
永琳は何も言わず、鈴仙を見つめた。
――嘘、ね。
呼吸が浅い。
不自然な発汗が見られる。
感情が高ぶっている様子も窺える。
明らかに増強剤が効きすぎている。一見しただけで判断ができた。
――あの薬じゃ、体への負荷が大きすぎる。……どうあっても、三本はまず保たないわね。あれは嘘か虚勢か、どちらかか、どちらもか。
それは鈴仙も自分でわかっていた。
自分の身体についても。薬のリミットについても。
それらに、永琳が気づいていることも。
「……行きます」
決意を固めるように――永琳からの言及を拒否するように――言葉を発し、彼女は先に動き出す。
すぅ、っと息を吸い、右手の拳銃を永琳に向かって突きつける。
狂気の瞳が紅く輝く。
「波符――『幻の月(インビジフルハーフムーン)』」
スペルを宣誓する声とともに、弾丸が現れる。
彼女の前方百八十度を、綺麗に整列して弾丸が浮かび上がっていた。
鈴仙は、不意に右手に力を込める。
頭の中でだけ、引鉄を引く。
それを合図にして、扇状に広がる弾丸たちは一斉に放たれた。
彼女の視界に入る全域に向かい、弾丸が一直線に駆けてゆく。
まるで機関銃を横薙ぎに打ち続けるようでもあったが、全ての弾は一斉に放たれているのだ。機関銃というよりは散弾銃に近い。
一度の発射で前方の全てを吹き飛ばす、強力なショットガン。
それに狙われた者の回避行動としては、選択肢は三つ。
瞬くほどの速さ、それこそ弾丸よりも疾く、彼女の後ろまで回る。
鈴仙との距離を大きく開け、弾丸同士の間隔が広くなったところを狙い、弾を躱す。
そして、もっとも手っ取り早く確実なものは――――
永琳は一瞬で判断を下し、床を蹴る。
弾丸の高さを、大きくジャンプして飛び越えた。
弾の軌道が一直線な以上、伏せるなり跳ぶなりで、その軌道から身を躱すのが一番速い。誰もが思いつく方法である。
今回は横一直線に弾が並んだ弾幕だ。横に避けるという選択肢は存在しない。上か、下か、である。
鈴仙の瞳がまた輝く。
狂気の瞳の力で、永琳の視界の弾たちが揺蕩う。
幻覚の半月が再び実像を結んだとき――弾丸たちの角度は、ジャンプした永琳の胸の高さピッタリだった。
永琳はそれを受け、空を蹴り、再び跳ぶ。
鈴仙へと身体を向けたままのジャンプで、彼女は弧を描くようにして鈴仙の頭上まで到達していた。
放たれたスペルを足元に、彼女は鈴仙を見下ろす。
その永琳の行動を読んでいたかのように、鈴仙は銃口を上に向ける。再び半月状に、自らの周囲に弾を呼ぶ。
その鈴仙の行動を読んでいたかのように、永琳は回避して溜めた魔力を、スペルとして宣誓する。
「薬符『胡蝶夢丸ナイトメア』」
宙に浮く永琳から、光の粒のように弾がばら撒かれる。
月の光を受け、キラキラ煌く。夜空に胡蝶が羽ばたき、輝くその燐粉を降らしているかのようだ。
鈴仙のスペルが発射される。弾丸が飛び、再び永琳を一直線に狙う。
永琳のスペルは宙を漂っている。降るように、浮くように、無軌道に、上空の空間を埋めてゆく。
鈴仙の放った弾丸が、弾幕の中へと飛び込んでいった。
弾を貫き、破り、磨耗し――それぞれに、永琳の弾幕を途中まで食い破ると、霧散していく。
永琳の弾幕はすでに層が厚い。一息では突破できない。
――なら……数があれば!
鈴仙は第三波を作り出す。ギリッ、と奥歯が鳴る。
浮かぶ弾の列が――五列。
真上に向け、展開される弾。ここまで撃った弾の五倍を一度に作り出し、放つ。
右腕がガクガクと震えた。
一息に行使する魔力の大きさに、膝まで笑う。
拳銃を象る右手を強く握り、彼女は頭の中で引鉄を引く。
「おおおおおおおおっ!!」
叫び、放つ。五倍の弾が直に飛び、胡蝶の夢へと真っ直ぐ牙を剥く。
咆哮し、放たれた弾たちは弾幕へと殺到し、貫き、破り、磨耗し――食い破る。
直線状にある弾をほとんど掻き消し、永琳までの視界をクリアにする。まだ彼女には届かない。
――まだっ!ここしかない!
彼女は空いた左手をブレザーの胸元へと突っ込み、切り札を取り出す。
二本目――『国士無双の薬』
乱暴に片手で栓を弾いて、試験管の先を口に突っ込む。
緑の液体を一気に飲み干し、荒々しく試験管を投げ捨てる。
強制的に湧く力に、身体が悲鳴を上げる。
加速する心臓が熱い。
血液の流れが速い。
眼の奥が異様に冷たい。
全身の筋繊維が躍動しているのがわかる。
魔力の篭もる右手だけが、不思議と温かかった。
「し……しょおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
弾幕を新しく展開させる。
弾が、弾が、弾が作り出される。
力を扱いかねているように、乱雑に生み出されてゆく弾たちが、全方位を埋めてゆく。
それを見て、永琳も次のスペルを唱える体勢に入る。
『胡蝶夢丸ナイトメア』への魔力供給を停止させる。月の光の中を漂う弾たちが、粒子となり、消えてゆく。
月光色の魔力の粒が星のように降る中――二人のスペルが展開される。
「さ、散符!い……『真実の月(インビジフルフルムーン)』!!」
「『天網蜘綱捕蝶の法』!」
力任せに、鈴仙の弾丸が飛び出す。
美しく整列した弾幕ではない。湧き上がる魔力を込め、荒々しく展開された弾幕たち。
弾丸の軌道を取り、乱射される紅い弾。
その弾を受け止めるように、永琳のスペルが美しく広がる。
宙に張る蜘蛛の糸のように、魔力の筋が張り巡らされる。
本来相手の移動を拘束するために展開されるこの弾幕を、永琳は自らの前に壁のようにして張り、鈴仙の弾を留めてみせた。
蜘蛛の糸に絡められた弾が、それを破れずに爆散する。
辺り構わず撃ち出された弾たちが、永琳の目の前のそこかしこで炸裂した。
だが、弾雨は止まない。
無尽に撃たれる弾丸たちが、天網へと突撃してゆく。
自分の前に掻き消された弾など見えていないかのように、正面からぶつかっては消え、ぶつかっては消えていった。
一発あたりの威力が下がることは無い。
――むしろ増している。
自分の魔力を伝う、蜘蛛の糸にかかる衝撃で、それに気づいた。
ドドドドドドドドッ!という音と、魔力が炸裂した光が視界一面に広がっている。
――いくらなんでも、これ以上は…………
それは目の前の自分の弾幕に対する心配ではない。
医師としての率直な感想が永琳の頭をよぎる。
そんな一瞬の隙が、鈴仙の暁光だった。
不意に、キラリと光る何かが永琳の目に入った。
紅い弾が放つ、紅い煙の中、それにも増して紅く煌くその光がなんなのか、気づくのはすぐだった。
いつのまにか、鈴仙は永琳のスペルのすぐ目の前まで来ていた。
まだ叫び声を上げながらスペルを展開し、全方位への爆撃を継続したままに突撃する。
糸に当たる衝撃が大きくなっているのも当然。弾を撃っている彼女との距離が近づいていたのだ。
弾が散り、次が当たるまでの間隔が短くなっている。
懐まで飛び込むことで、単純連射速度が上がっている。もはや、スペル一つでは抑えきれない。
捨て身の突進――そして零距離での速射。
鈴仙は、永琳のスペルを体で突き破った。
穴の開いた蜘蛛の糸が、その全身を揺らし、たわむ。
自らの弾が破裂してできた煙を抜け、鈴仙は永琳の前に踊り出した。
雲を抜け、月を目指すように、彼女は月光の前まで辿り着く。
その口には、三本目の薬が咥えられ――――
「これっ……でぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」
すでに蓋の開けられた試験管を咥え、首を上げて流し込む。
心臓が燃えるように鼓動する。
血液が鉄砲水のように駆け巡る。
頭が重い。
全身の筋肉が自我を失ったかのように痙攣している。
なぜか眼の奥は相変わらずに冷たくて、自然に零れる涙だけが温かかった。
「ア゛ァァァァア゛ァァァァアァァア゛ァァァァァァァッ!!」
言葉にならない声を、体に任せるがままに叫ぶ。
狂気の瞳が紅く輝く。
燃えるように。燃え尽きるように。
口から零れ落ちた空の試験管が、床まで落下し――音を立てて割れた。
彼女はスペルの名を叫ぶ――――
「幻朧月睨(ルナティックレッドアイズ)!!」
すでに目の前まで迫られ、永琳も咄嗟にスペルを宣誓する――――
「天呪、『アポロ13』!!」
紅い光が、その部屋に広がった。
天井の穴を抜け、夜の空へと届く。
月が、紅く染まる。
激しい閃光と、やや遅れての轟音。
永遠亭が揺れる。
互いの全力に近い魔力が、塊のままぶつかる衝撃。
大気がそのまま振動する。
――自分を大事にしないあなたを……私は………………
炸裂した魔力の残滓が、煙となって煌いていた。
激しい光は一瞬だけで収まっていた。轟音も、もう鳴ってはいない。
ドズンッ、という重い音だけが響いた。
煙る紅を、月光の白が淡く色づけている。
穴の開いた天井から、煙が晴れてゆく。
宙に、すでに二人は浮かんでいない。
床までの視界かクリアになってゆく。二人の姿がある。
床に倒れる鈴仙と、両の足で立つ永琳が――そこにいた。
「…………はっ……はぁっはぁっはっ……」
忘れていた呼吸を思い出すように、永琳は短く息を吐いた。
肩を揺らしながら、浅い呼吸を整えてゆく。彼女には、すでに傷ひとつ無かった。
「……無茶して…………」
体力的・魔力的に磨耗した身体を僅かに揺らしながら、目の前に突っ伏している鈴仙を見た。
月の光に映された彼女は、ピクリとも動かない。
永琳は不意に、上を見上げた。
星屑のように魔力のかけらたちが降り注ぎ、それを十六夜の月が照らしている。
真実の月。彼女たちの、遠い故郷。
それが自分たちを見ているような気がした。何か言いたげなような顔で、ほとんど丸い姿で浮かんでいる。
不意に、視界の端に影が映る。
見上げていた視線の、下の方――ゆらりと動いたそれを確かに見た彼女は、慌てて視線を下ろした。
彼女の正面。いつの間にかそこには、鈴仙が立ち上がっていた。
少し押せば倒れてしまうくらい、力無く立っている。
顔は伏せられていて、サラサラと流れる前髪がその顔色を隠す。スカートから伸びる足に無数の傷が刻まれ、擦りむいたように膝から紅い血が流れていた。
ふらつく足でなんとか立つ彼女は、ゆっくりと右腕を動かす。
震える腕の向かう先は、上着の内ポケット。
「しょう…………や……く……」
掻き消えるような声で呟き、右腕がブレザーから引き抜かれる。
その手には、緑色の薬。
限界を超えた、四本目の――――
「『国士…………無双の…………』」
試験管の中で液体が揺れる。
オリジナルの薬でさえ、禁断の四本目。
それが――鈴仙の手の中で割れた。
高速で飛ぶ弾に試験管の下半分を吹き飛ばされ、中の液体は全て床へと染み込んでゆく。
鈴仙の手には、すでに試験管だったモノしか無い。
永琳の右手が下がる。
彼女から放たれた一つの弾も、役目を終えて静かに消えた。
「し……しょう…………」
ぐらり、と体を揺らし、鈴仙は再びその場に倒れこんだ。
永琳が駆け寄り、手を伸ばしたが、すんでのところで彼女の体は床に倒れてしまう。
「無茶をしてっ!」
駆け寄り、仰向けにして抱き起こす。
体は熱を持っているが、意識はある。
鈴仙はぼんやりとした視線で永琳を見上げながら、彼女の腕の中で呟いていた。
「ほら…………あなたは……また私を助けてくれたじゃないですか……」
見上げている紅い瞳が、どこか満足そうに細められている。
虚ろだが、確かに強く輝いている。
「自分を許せない気持ちは……わかりますけど……それでも……」
口を開くのも億劫そうに、だが、それでも言いたいことがあるかのように、彼女は懸命に喋る。
重い口をどうにか動かし、紅い瞳をひたすらに永琳へと向けている。
「私は……私たちはあなたのことが大好きです……姫も、てゐも……私も……だから……あんまり自分を責めないであげてください……」
「ウドンゲ……」
「罪を……罪悪感を消してあげることは……できないかもしれませんが……もしも師匠が何かしたら……これからは私たちが怒ってあげますから……姫も、てゐも……私も……」
なぜか、鈴仙は微笑んでいた。
ふふふ、と零しながら、優しく笑顔を作る。
「それで……いいじゃないですか……いいんですよ、きっと…………」
そこまでを言葉にし、彼女は瞼を下ろした。
すぅ、っとひとつ息を吐き出し、全身の力を抜いた。
口許だけは、最後まで微笑んだままに。
永琳は静かに鈴仙を抱きしめる。
力強く、頭を埋め、祈るように、慈しむように。
両腕に感じる彼女の体温が、ただ温かい。
廃墟のような、永遠亭の一室。おぼろげな月の光が、彼女たちを優しく照らしている。
月の雫のような暖かい涙が、鈴仙の頬に落ちていた。
※
――今夜の月って、こんなに綺麗だったっけ……?
目を開けて、まず最初にそう思った。
改めて見上げると永遠亭の天井は、穴が空いているどころではなく、ほとんど天井が無いに近かった。
やや傾いた月が相変わらずに空に輝き、幾多の星も一緒になって夜空を彩っている。
――いや、これはヒドいわ。直すのも、きっと私なんだろうなぁ……。
屋内にいながら空を眺める今の状況は、どうにも違和感があった。やはり夜空を見るなら、外に出て思いっきり星々を展望したかった。
――どうせてゐは手伝わないだろうし、姫にやってもらうわけにもいかないし……師匠だけでも手伝ってくれれば……
焼き切れたように断線していた、頭の回路が繋がってゆく。
永遠亭、荒れ果てた部屋、月、師匠……単語が頭の中を駆け抜け、一緒に映像をフラッシュバックしてゆく。
――そうだ!師匠!
勢いよく上体を起こし、
「い…………っ!」
「こら」
パチンッ!
「痛いっ!」
跳ね上がったおでこに、カウンターで平手が入る。
おおおお……と嗚咽を漏らし、鈴仙はそのままの勢いで再び仰向けに寝転がった。
身をよじって額に手を当てようとしたが、それだけで全身に痛覚刺激が奔り、鈴仙はまた一人で勝手に悲鳴を上げた。
「まだ寝てなさい。せっかく手当てしたんだから、怪我増やしたら怒るわよ」
勢いよく起き上がろうとしたツケで、彼女の体はまだミシミシ言っていた。
仕方なしに寝転んだまま、叩いた本人を見る。
すぐ隣には、八意永琳が座っていた。
「っていうか、今叩かれた頭が……」
「ん?頭も痛いなら今のうちに取り替えてあげましょうか?」
「いえ、結構です。もう痛くないです。大丈夫です。本当です」
まったく笑わないままに永琳がそう言うと、本当にやりそうで怖かった。
どうにか動く口だけで全力で断りを入れる。
「……正真正銘、満身創痍なのは確かなんだから、今は大人しく寝ていなさい」
永琳は溜め息混じりに言った。
鈴仙は体の隅々に意識を巡らせてみる。
全体的に気怠るい体は、どうもあちこち擦り剥いているらしくピリッと痛むが、そういうところに限って、キチンと包帯が巻かれているらしく、適度な締め付けが体を支えていた。
――そうか……私は…………
ごろんと寝転んだまま、空を見上げる。いつの間にかずいぶん月が傾いていて、それなりの時間が経っていることが窺えた。
まだ空は黒い。だが、月の光は自分を確かに照らしてくれていた。
自分の故郷ながら、見上げる月というのは本当に綺麗だな、と思った。
「まったく、“自分を大事にしろ”なんて騒いだ本人がこうも向こう見ずとはね……どういうつもりだったのか、是非お聞かせ願いたいものだわ」
傍らで座り込む永琳の声が降ってくる。
口調自体は静かなものだったが、その声音には確かに棘があった。
「あぅ…………」
と口ごもる意外、鈴仙に反論の余地は無さそうだった。
今から思い返せば、テンションに任せて言いたい放題言い過ぎていた。掘り返されるのは気まずい上に、気恥ずかしい。
顔を背けることすらままならない体では、針のムシロ確定である。
何とか口を開いて少しでも話題を変えようと、億劫がる体を叱咤し、彼女は声を絞り出した。
「あの……ですね、師匠」
「なぁに?」
恐る恐るに口を動かし、
「ひとつだけ、お聞きしたいんですが……」
最初から考えていた、ある疑問を尋ねようと思ったのだ。
「もうあらかた語るに落ちた後だと思うけど……何かしら?」
永琳も視線を下げる。
まじまじと自分を見る彼女の視線にわずかに照れながらも、鈴仙は尋ねた。
「今日はどうして、私と戦おうと思ったんですか?なんなら今日、また神奈子さんか諏訪子さんを訪ねる、っていうこともできたじゃないですか」
その言葉に、ふむ、と小さく相槌を打ち、
「そうね。ごもっとも」
永琳は小さく肯定した。
彼女がどうしても神罰をその身に受け、裁かれたいと願うのなら、まだチャンスは残されていたはずなのだ。
むしろ今日をおいて他に機会は無いかもしれない。こんな特殊な“異変”は、そう何度も起こるものでもない。
彼女の内面の話を聞けば聞くほど、なぜ自分なのか?と鈴仙は強く疑問に思っていた。
「でもちなみに、神様二人は今日はダメなのよ。きっと今頃――輝夜が戦っているから」
永琳はなぜか断言する口調で、そう述べた。
「なんでそんなことわかるんですか」
「なんででしょうね」
曖昧な答えを返してはいるが、その声音ははっきりしている。
――姫も、もしかしたら、妹紅も……師匠と同じく、神罰が欲しい、って言うのかな…………
そんなことを、鈴仙はぼんやりと考えた。
だがどんなに考えても、鈴仙には永遠を歩む者たちの考えることはわからない。
「それであなたを選んだ理由だけどね、」
その永琳の声に考えを中断し、再び彼女の方へと視線を向けた。
目が合い、それを合図に聞こえた理由は――――
「まぁぶっちゃけ、暇つぶしよ」
「な、なんかヒドい理由!」
予想以上に薄い動機に、彼女は思わず大声で叫んでしまった。
連動して胸周りの筋肉が一斉に悲鳴を上げている。
だが当の永琳は顔色一つ変えず、
「あら、この騒ぎの主旨は“暇つぶし”じゃない。理に適っているでしょう?」
あっけらかんと言い放った。
「いや、そりゃそうでしょうけど…………」
――暇つぶしで大怪我した私って…………。
そう思い、無性に切なくなった。目の前に永琳さえいなければ、泣きたいくらいである。
「私の神頼みは今回無縁に終わったわ。ならせめて、“暇つぶし”だけでも済ませておこうかと思ってね」
彼女の説明の全てを理解することは、鈴仙にはできなかったが、そこに意識を持って行く前に、
「昨日のあなたを見て、これは少し鍛えないといけないわね、とも思ったし」
満面の笑顔から、追撃の言葉がかかった。
グサリ、とそのまま心に刺さる。
昨日――メイドと神様を相手に、永琳に守ってもらうわ足を引っ張るわの大活躍だった自分の姿が脳裏に浮かぶ。
「うぅ……返す言葉もありません……」
顔を赤くしながら、永琳の視線から逃げた。
結局針のムシロである。
逃げ出したい体は言うことを聞かず、永琳がニヤニヤと笑いながら向ける視線を受け続けるハメは変わらない。永琳を目の前にしながら、鈴仙は泣きたいくらいであった。一瞬で泣きたい度はパワーアップしている。
「でも……」
一通り鈴仙の反応を見てから、永琳は静かに切り出した。
「今日弾を交えてみて、思ったわ。――私の弟子は、私が思っていた以上によくできた子だ、ってね」
その優しい口調に、思わず鈴仙は視線を戻す。
再び向いた先、そこには、声と同じくらい優しい笑顔が――――
「よく頑張ってくれたわね、ウドンゲ。……ありがとう」
「ししょう…………」
目頭が熱くなる。鼻の奥がツンと痛い。
思わず滲む視界を恨んだ。
ずっと――この笑顔を見ていたかった。
月の光のような、優しい笑顔だった。
不意に、永琳が空を見上げる。
それにつられるように、鈴仙も視線を夜空に向けた。
「夜が終わるわ。あの胡散臭い妖怪の、胡散臭い企みも、もうお仕舞いね」
「はい……」
「きっとケガ人ばっかり出てるでしょう。これからしばらく忙しくなるわね」
「はい……」
「私の弟子として、助手として――あなたにも頑張ってもらうわよ」
「――はい!はいっ!はいっ!任せて、ください!」
ほとんど嗚咽混じりになっている鈴仙の声に、思わず永琳は微笑む。
そっと、彼女の頭に手を乗せ、ゆっくりと撫でてやった。
月と、月の光のような彼女に見つめられながら、鈴仙の涙は止まらなかった。
the last day's card is present.
K.S.-M.K. T.-Y. Y.-Y. Y.-A.P. M.-I. S.-M.
next person of leisure... ... K.S.-M.K. 【 O 】
「ギリギリどうにか競る程度に大人しくしてようかとも思ったけど――止めたよ。あんたたちには、ちゃんと火遊びの危なさを伝えてあげなくちゃあいけないからね」
「私たちは、永遠に生きてなどいないのよ。永遠に“死なない”だけ。“死なない”イコール“生きている”ではないわ」
「残念なことに、私たちにとっては笑えるくらい現実的な話でね。永遠を夢見るピュアな人間たちに、教えて回りたいくらいさ」
「――――ね。あのさ」
to be next resource ...
ホントにこのウドンゲは主人公してますね。
下克上とか途中からどうでもよくなっちゃいました。
リミッター解除=自壊はやっぱお決まりですね。
>>インビジフル
インビジブル
>>暁光
僥倖?
勝った負けたは微妙なトコだけど頑張ってもらいました
誤字訂正ありがとうございますー。できるだけサッサと修正いたします!
気長に待ってます。ゆっくりしていってね!