「ねぇ、紫さま~?」
「ん、なあに、橙?」
「NTRってなんですか?」
「ブフっ…!」
むせた。
八雲紫はえほえほと気道の痙攣に腰を曲げ、同時に自らの迂闊さを呪った。
時刻は夕方。外の世界のテレビアニメを、橙と一緒に見ていた時のことだった。眼前で繰り広げられる、男女の想いの食い違い。ずっと尽くし続けてきた病身の幼馴染と、それを知る親友が結ばれてしまうという過酷な展開。少女は少年を助けるために、魂すら差し出したというのに。その生き様が、他人のためにという信念が挫折する物語と交響し、八雲紫はこう口にしたのだ。
「またなんてNTRを……」
そしてこの有様である。八雲紫の橙に対する教育は、毒気に当てず、厳しさに当てずというものだった。そもそも橙は藍の式であるし、こうして日々接するとはいえ、孫に対するようなものでいいかと考えていた。
そこにきてNTRである。こんないたいけな幼子に、言えるはずもない。大きな瞳に光をキラキラと反射させ、耳を好奇心でぴょこぴょことさせている、無垢な女の子に。それが、ずっと好きだったとか、深い縁があるとかのフラグが立っている意中の相手が、性的な手段で奪われることだなんて!
………ん、そういえば、厳密な定義に従えば、このアニメはNTRじゃないわね。まあ、性的というのは狭義であるし、広義には実らない片想いみたいなところもあるから、別に構わないわよね。
「ねぇ、紫さま~?」
しかし参った。紫も妖怪の賢者などと言われる存在なのである。いくら他愛も無い会話の上とはいえ、嘘をつくわけには行かない。ここは適当にごまかして……
「ええっとねぇ、それは、『独りぼっちは、寂しいもんな』ってことよ」
「それ、台詞ですよ?」
「んん~……『あたしって、ほんとバカ』?」
「それもですー」
八雲紫は固まった。得意の超にっこりゆかりんスマイルに加え、なぜなにゆかりん!…とばかりに、ちょこんと示した人差し指もそのままに。その笑顔はいまや、ええっと……とばかりにひくついていた。
「橙」
「はい」
「NTRというのはね」
「はい」
「………サラマンダーよりも、ずっとはやいってことなのよ」
八雲紫はごまかした。
―――――
場所は妖怪の山。橙は紫の言う『サラマンダーよりも、ずっとはやい』を訊ねて歩いていた。
紫は結局、NTRについて教えなかったのだ。肝心なところで「あっら~、ゆかりん用事を思い出しちゃった~☆ じゃあ橙、早めに寝るのよ~♪」と言って、スキマを開いてどこかへ行ってしまったのである。
忙しい紫さまに迷惑をかけてしまったのではないかと、橙の胸は少し痛んだが、ちゃんと答えてほしかったなぁ、という気持ちも強かった。とにかく、いまだNTRが何なのか分からないので、こうして妖怪の山に来ているのだった。
サラマンダーというのは、確か西欧の竜のこと。それよりもずっと早いというのは、もう風のように速いに違いない。風のように速いと来て、思い浮かぶのは鴉天狗の文さんだった。あの人なら、サラマンダーよりもずっとはやいに違いない。だとすれば、きっとNTRについても、何か知っているに違いないのだった。
橙は自らのめいせきな推理に、頬が緩むのを感じた。気になったことを調べるのはいいことだって、慧音先生も言ってた!
しかし文さんはどこにいるのだろう。そもそも妖怪の山は広いし、居場所に当てがあるほど知り合いというわけでもないのだ。とにかく探すしかない。
「あら橙ちゃんじゃないですか?」
「あ、早苗さん……」
と、文を訪ねて妖怪の山を登ってきたわけだが、もう守矢神社に着いてしまったらしい。たくましきは子供の集中力である。
「どうしたんですか? お使いですか?」
早苗は箒を膝の上に抱えると、しゃがみこんで朗らかに笑った。橙は紫からの言付をもって、妖怪の山に出入りすることもある。早苗とはそれなりに顔を合わす間柄だった。ツボに入ると、とてつもなく変な人になるが、だいたいは優しいお姉さんといった雰囲気の早苗に、橙は好意を寄せていた。
ちなみに八雲の式の式ということもあり、橙は天狗の縄張りなども顔パスである。滅多にない侵入者が妖怪の賢者の配下だなんて、まじ哨戒なんて無意味っすよ、とはある白狼天狗の言。
「いえ、違います。今日は知りたいことがあって、妖怪の山に来ました!」
「へ~、分からないことをちゃんと調べようとするなんて、橙ちゃんは偉い子ですね」
そして早苗は右手を伸ばすと、橙の頭をいい子いい子する。子供あつかいに橙は、少しだけ反発するものも感じるのだが、早苗のとろかしたような笑顔と、ひんやりとした手の心地よさに負け、うっとりとした心地になってしまう。
「あ、そうだ、早苗さんにお尋ねしてもいいですか」
「ええ、いいですよ。私の知っていることでしたら、なんでも」
そうだ。早苗さんは外からやって来た人間だ。だったら、きっとNTRについても知っているに違いない。NTRというのはたぶん、あるふぁべっとであるし、あのアニメは外の世界で放送されているものだ。だとしたら、きっと早苗さんはそーいうことに詳しいはず。
ますます冴え渡る名推理に、橙は心中えっへんとした心持であった。けれど、そういう表情を見せるのは、失礼なことかもしれないと考えて、橙はなるべく表情を変えないように、早苗にそのことを訊ねた。つまり真顔で訊ねたのである。
「早苗さん」
「はい」
「NTRってなんですか?」
「んなっ?!」
早苗は驚いた。
「って、わわ! きゃっ―」
そしてそのままバランスを失うと、ペタンと前足を八の字に開き、石畳の上に尻餅をついてしまう。
「大丈夫ですか?!」
「イタタ……。いえ、大丈夫です。ちょっとびっくりしちゃいました」
余談であるが、痛みと羞恥で頬を赤らめる早苗の様子が、実に健康的な魅惑に満ちており、巫女服の裾が長いことが本当に惜しい状況であるのだが、橙にそんなことを思いつく素養はない。
「??」
「あはは、もう、橙ちゃん。どこでそんな言葉を?」
そこで橙は、早苗にことのあらましを説明した。紫とあるアニメを見ていること。そのアニメを見ている際、紫がNTRと口にしたこと。そして紫がNTRの意味を教えてくれなかったことである。
「なるほど紫さんも、そう思いましたか。かくいう私も、昨晩そう思っていたのですよ」
「早苗さんの家にも、てれびがあるんですか?」
「ええ、奇跡で電波を受信しまして」
ぬかりはないとも言いたげに、ドヤ顔で笑みを浮かべてみせる早苗。しかしその言葉が、どこか痛々しいものに聞こえることに、純粋な橙は気付かない。
「しかし『ワイバーンよりも、ずっとはやい』ですか。紫さんも分かっていらっしゃいますねぇ」
「??」
「ふふ、『大人になるって悲しいことなの』ですよ、橙ちゃん」
にやりとした表情を変えないまま、通にしか分からないことというように、しみじみと語る早苗。そして早苗は、おもむろに両手を口元に構えると、山側に背を向け―あの世で俺に侘び続けろオルステッドぉぉ~~――と、山彦を響かせるように叫んだ。当然反響はない。
そんな早苗の姿を見て橙は、幼い自分には分からないことだが、確かに大人になることは悲しいことなのかもしれないと、そう思った。
「それでですね」
「え、あ、はい、すいません。ちょっと自分の世界に入ってしまいました」
「いえ、大丈夫です。それでですね、紫様はNTRについて教えてくれなかったんです」
「なるほど」
「だから早苗さん、NTRってなんですか?」
ううむ、と、早苗は胸のうちでうなり声を上げた。紫が橙に対し、NTRの意味を教えることができなかったのと全く同じ感情が、早苗の胸にも去来していたのだ。
目の前の少女は、まだ穢れも知らない少女である。いやむしろ、保護し慈しみ、可能ならば舐め……ではなく撫でまわすべき幼女である。そんなこの世で最も大切にすべき存在に、おいそれとNTRの意味を説明できるほど、早苗は厚顔無恥ではなかった。このようなことを考えられる程度には変態であったが。
「うーん、そうですねぇ…」
「(わくわく)」
「う~ん……」
「(どきどき)」
「え~っと……」
「……中に誰もいませんよ、ってことです」
東風谷早苗はごまかした
―――――
場所は変わって紅魔館。橙は早苗の言う『中に誰もいませんよ』を調べ歩いていた。
早苗は結局、NTRについて詳しくは教えてくれなかったのだ。肝心なところで「あ、用事を思い出してしまいました! 神であると同時に巫女でもあらねばならぬとは、現人神とは忙しいものです」と言って、社務所の方へと戻って行ってしまったのだ。
忙しい早苗さんに時間を取らせてしまったのかと、橙の胸は少し痛んだが、ちゃんと答えてほしかったなぁ、という気持ちも強かった。あとやっぱり変な人だなぁという気持ちも。とにかく、NTRについていまだ分からない以上、調べ続けるしかない。
今度の中に誰もいないというのは、つまり密室のこと。鍵なんてろくにかけない、しかも木造建築の幻想郷にあって、密室と呼べるような場所は少ない。あるとすれば、日光を嫌う西洋妖怪が住む洋館、紅魔館しかないのだった。
加えて紅魔館には、幻想郷一の蔵書を誇る、地下の大図書館もある。その館長であるパチュリーについても、横文字に詳しい知識人に違いない。
橙は自らのぬかりない行き先決定に、ふふんと頬がつり上がるのを感じた。お出かけの計画もきっちり立てた方がゆういぎに過ごせるって、慧音先生も言ってた!
ちなみに八雲のお使い役を務める橙は、やっぱり紅魔館についても顔パスである。滅多に無い侵入者が幻想郷の管理者の配下だなんて、やっぱり門番業務なんて寝ながらでも十分なんですよ、ぐぅ……とはある中華妖怪の言。直後に頭にナイフが突きささったことは言うまでもない。
図書館の扉を抜け、司書机のところへ向かう。そこにいるだろう大図書館の司書、小悪魔を当てにしてのことだ。
図書館のことを聞くなら、誰もが著しくコミュニケーション能力に欠損した紫もやしことパチュリーよりも、親切で悪魔の羽すら愛らしい、司書の小悪魔を頼るだろう。橙もそのことを知っており、最終的にパチュリーに伺うことになったとしても、小悪魔を通しての方が良いと判断したのだ。
橙の期待通り、小悪魔は司書机に向かっており、眼鏡をかけて何か書き作業をしていた。しかし優秀な司書たる彼女である。近づいてくる橙の気配に気付くと、ちらとそちらを見遣り、眼鏡を外してふんわりと微笑んだ。
「……あら、橙ちゃんじゃないですか。こんにちは」
「こんにちは、小悪魔さん!」
はきはきと挨拶する橙に対し、目を細めて少し首を傾ける小悪魔。その所作は、魔の手先のそれと言うよりも、まるで保育園の先生といった雰囲気だった。そして小悪魔は、柔らかい空気をまとったまま、すっと人差し指を口元に当てて言う。
「ふふ、元気があっていいですね。ただし、図書館ではお静かに」
「あ、はい、すいません」
しゅんとうなだれる橙。予想通りの反応なのか、特に表情を改めることもなく、少しだけ苦笑しながら小悪魔は橙をなぐさめる。
「そんなにしゅんとしないでください。これから守ってくれればいいですから」
「はい、わかりました」
「いい返事です。やっぱり橙ちゃんはいい子です」
そして小悪魔は司書机の引き出しを引いて、何かを探すと、はい―と、橙に飴玉を渡した。子ども扱いにちょっとむっとした感情も覚えた橙だったが、包み紙を開いてさっそく口に入れた飴玉は、濃厚なミルクの味がして甘く、橙の思考さえもとろけさせてしまった。
「ふふ、それで、今日はどうしたんですか?」
小悪魔が橙に訊ねる。
そうだったのだ。小悪魔の雰囲気にすっかり載せられていたが、橙には果たすべき使命があったのである。橙はまだ口の中に残る飴玉を、ころんと右頬の方へと転がすと、歯で押さえつけるようにして小悪魔に質問した。
「はい。今日は調べものがあってやってきました」
「それはいいことですね。そういう風にここを利用してもらえると、私もうれしいです」
紅魔館の大図書館は、それなりに開かれていた。わざわざ里人が利用するには遠いが、蔵書数は抜群で、外の世界のものや物語など、娯楽に役立つものも多い。紅魔館の主も、大図書館の利用であればわざわざ謁見する必要もなしと、鷹揚な態度をとっているため、暇にあかせた妖怪や、よほど好奇心の強い人間など、ここに訪れる者は少なくないのだった。
以前からの蔵書整理の業務に加え、本格的な司書仕事まで追加されたことで、小悪魔の負担は少なくないはずだが、本人はいたって気にしない様子であった。彼女もまた本を愛しており、また本の最も望ましい愛され方とは、必要のもと読まれることだと、彼女は思っていたのだ。橙のような来客は、小悪魔にとって好ましいことだった。
不機嫌になるのはそれによって大した害も受けない、せいぜい時々静けさが破れる程度のことにぶーたれる、コミュ障魔女ぐらいであった。もっともそのパチュリーも、アリスや慧音といった知識人との語らいに、まんざらでもない様子であったが。
「それで、小悪魔さん」
「はい、なんですか」
「NTRってなんですか?」
ガタンッ――
小悪魔はずっこけた。折しも橙の調べ物を手伝おうと、片腕を机について立ち上がろうとしていた時のことだったのだ。その右手は机の端から滑り落ち、小悪魔はそのままペタンと両足を横に崩す形で座り込んでしまった。
タイトスカートから伸びる、黒のストッキングに包まれたふくらはぎが、彼女の印象と違って大変に艶かしく、やはり彼女の性格を表したものか、長めの丈が実に惜しいところであるのだが、女の子である橙にそんなことは及びも付かない。というより机に隠れて見えない。
「アイタタタ……」
「大丈夫ですか?! 小悪魔さん」
「ええ、大丈夫です」
机に腕をかけて、えいしょっと立ち上がる。小悪魔の鋭敏な聴覚は、すぐ近くの大机に鎮座しましている動かない大図書館が、苛立たしげに机を指で叩いていることを感知していたが、さすがに防ぎようがなかった。ただしこれ以上の被害は防がねばならないと、小悪魔は動揺している橙を鎮めるべく、彼女の目線に合わせてしゃがみこむ。
「ごめんなさい、いきなりのことでびっくりしてしまって。でも大丈夫です」
「本当ですか?」
「ええ、大丈夫です」
そういって小悪魔は、橙の頭をゆっくりと撫でる。今日は撫でられることの多い日だと、橙はふと思ったが、ほっそりとした小悪魔の指先がやはり気持ちいいので、何も言わないことにした。
「それで、NTRですか」
「はい、NTRです」
ことのあらましを説明する橙の声を聞きながら、小悪魔も紫や早苗と同じような思いに捉われていた。このいい子を絵に描いたよう橙に関して、かように破廉恥な言葉の意味を教えてもいいものか。小悪魔には判別つきがたかった。
調べていれば、いつかわかってしまうことだろう。けれど、こういう言葉から遠ざけたいだろう、主の意志も察せられた。重々悩んだ末小悪魔は。
「橙ちゃん」
「はい」
「NTRというのはね」
「はい」
「大切な人を奪われるってことなの」
小悪魔は誤魔化さなかった。
「それも、性的な手段だったり、ドロドロとした対立があったり、悲しい遣り方で」
小悪魔は容赦がなかった。
やはり悪魔である。
――――
八雲紫はマヨヒガで一日の疲れを癒していた。問題となるような人妖の行動はなし。結界の強度は上々。仕事量としては、まあ暇な部類に入る一日だった。総計して半日は遊んでいたと言っていい。
「それでも、疲れは溜まるのよね~」
労働者の宿命である。そして労働者の一番の楽しみとしては、空腹を満たす暖かな食事に、家に帰ってからの家族との団欒。前者に関しては、既に台所から良い匂いが漂っている。今日は藍も家にいるし、十分な夕食が期待できるだろう。
しかし後者に関してはいささか物足りない。喉を撫でてやってもよし。膝に乗せてやってもよし。話を聞いてやってもよしの、可愛い可愛い式の式、橙の姿が見えないのだ。
大方外で遊んでいるか、妖怪になりかけの猫達の面倒でも見ているのだろうが、それにしても遅い。別段門限を定めるようなことはしてはいないが、それでもふと気になってしまうのが、人間臭い生き方を送っている八雲紫の心理である。
…ただいま帰りました――
と、思っていたところ、玄関の方から橙の帰りを告げる声がした。ちょうど心配していた折である。小言の1つでも言おうか。それともさっそく抱き上げて愛玩するべきか、紫としては迷いどころである。そんなことを考えながら、少しそわそわしながら橙が居間にやって来るのを彼女は待っていた。
「失礼します」
「お帰りなさい、遅かったわ……ね?」
さらりと一言だけ述べようと思っていた注意の言葉は、橙の様子がおかしいことによって真に歯切れの悪いものとなった。障子を開け、部屋に入ってきた橙の顔は、どんよりとして暗く、心なしか身体全体も雨にうたれたかのように重みを感じさせた。
「どうしたの、橙? なにかあったの??」
当然紫は心配の声をあげる。繰り返しになるが、橙は紫の式の式。いわば孫のようなものであって、境界の大妖もそれについてばかりは落ち着きが効かないのだ。
「……うっ、ひっく、紫さまぁ…」
「えぇ、橙、泣いてるの?! どどど、どうしたのいったい? 喧嘩? 怪我? 何か酷いことを言われた?」
もはや恐慌状態である。八雲紫は横臥していた身体をすっくと立ち上げると、おろおろと橙の方へと歩み寄り、その顔を覗き込んだ。
「紫さまぁ……」
「うん、どうしたの、橙?」
紫はやや逡巡した後、橙をその豊かな胸元へときゅっと、かき抱いた。主の主ということも今は忘れ、その紫に礼儀も作法もなくしがみつく橙。
「……わたし、NTRがなんなのか聞きました」
「……そう」
「そして思ったんです」
「ええ」
「どうして世の中にはこんなに悲しいことがあるんだろうって。どうして正しいことをし続けたのに、報われないんだろうって。そして……もしかしたら私も、わたしがなにも悪くなくったっても、大切な人がいなくなってしまうんじゃないかって」
そして橙は再び紫の胸元に顔をうずめると、わっとばかりに泣き出した。紫はそんな橙を見下ろしながら思っていた。ああ、そうか、NTRなんて意味はたいしたことではない。けれど、この純真な橙の心で抱えるには、きっと重すぎたのだろうと。
小悪魔はそれこそ、徹底して橙にNTRを教えたのであった。それの意味や用法に留まらず、紫や早苗が口にした言葉の由来。そしてその作品の概要までこと細かく説明し、「中に誰もいませんよ」についてはお昼下がりからのノンストップ6時間観賞を敢行したのである。
これは橙のいまだ邪気の薄い心にとっては、かなりの負担となることであった。なぜ小悪魔がかようにNTRについて見せ付けたのかは分からない。それは彼女が悪魔であればこそなのか、それともNTRについて何かしら思い入れがあったのか。少なくとも今は明らかとはならない。目下として問題は、橙の苦悩と涙である。
「わたしは、分かんないです。どうしてこんなに悲しいのか。胸が痛くて痛くて、しかたがないんです。ひっく。ねぇ紫様。どうしてこんな結末になってしまうんですか?」
それは架空のお話の中だからよ、と言いかけて、紫は口を閉ざした。確かにそう結論付けることはたやすい。けれどそれでは、橙に対して嘘をつくことになってしまう。
創作が紡ぐ物語は、現実の投影。そんな悲しい結末は、お話にして支持を集めるほどに、ありふれたことなのだ。
「それに、うぅ。もしかしたら、紫様も、藍様も……。もしいつかわたしに素敵な恋人ができても、ひっく。がんばっても悲しい結末になってしまうのかなって。そんなのって、あんまりじゃ、ないですか……」
橙は嗚咽を漏らしながら、その大きな瞳からぽろぽろと雫をこぼしている。あぁ橙。その幼い身体をこのまま抱きしめながら、甘いささやきをそのぴょこんと突き出た耳の内に流し込むのはたやすい。でもそれでは駄目だ。なぜなら紫は賢者であり、またその立場を、いつかは橙に担ってもらいたいと思っていたからだった。
紫はすうっ、と一度息を吸い込むと、もう一度橙のことを抱きしめて、その両目を覗きこみながら言葉を選んでいく。
「えぇ、橙。そんな結末があるかもしれないのは、事実よ」
「!」
驚いた表情を見せる橙。泣きじゃくりながらも、彼女は紫が否定してくれることを期待していたのだろう。なんといっても、幻想郷で最も胡散臭いといわれる紫である。そんな悲しい結論は、鼻で笑い飛ばしてくれそうな趣がある。けれど紫は、今は真剣な表情で橙に対しているのであった。
「報われないことは、あるのよ。どんなに想っても、間違ってなくとも、受け入れがたいことでも……あるの」
「………」
「でもね、橙、聞いて欲しいの」
「……はい」
「悲しい報われない結末があるのと同じように、幸せで報われる結末だってたくさんあるの」
そうなのだ。悲しい結末はどうしても注目を集める。だから不安を感じてしまう。どうしようもない結末のまま、物語全てが終わってしまうことも確かにある。けれど、やはりそれでも、そうじゃない結末だってたくさんある。
「だからね、希望はあるの。絶望があるのとおなじくらい確かに。そして希望も絶望も私達があずかり知らないところで左右されてしまうのなら、少しでも報われますようにって、頑張るしかないの」
「頑張っても、報われないかもしれないのにですか?」
「そう。相手を想って、報われるよう努力して、幸せになれるよう祈って……結局のところ私達は、自らの行き先を願うとき、祈ることしか出来ないのかもしれない。それでも、受け入れるしかないの」
そして紫は、ふっと笑みを綻ばせると、橙のことを一心に想いながら言葉を続けた。そう、胸に湧き上がる感情を、そのまま空気に乗せて伝えるように。
「だけどね、私のことを大切に想ってくれる感情。藍のことを慕う感情。それは決して裏切られることはないわ」
「……NTRでもですか?」
「そんなの目じゃないわ。橙は家族だもの」
「………」
「もちろんどんなことが起こるか分からない。けれど、今ここであなたに誓える程度には、この境界の妖怪:八雲紫の力にかけて言えるのは、どんなことがあっても私は橙を想う、そういうことよ」
何が起こるかわからない。一家離散なんて物語だって存在する。でもそんなことは考えたくもない。変わらない想いだって、あるはずだと信じているからだ。
「そう考えるとね、橙。あなたに本当に大切な人ができて。けれどNTRになっちゃったって、へっちゃらだと思わない?」
「どうしてですか?」
「えぇ、だって私がついているんだもの。藍もいる。配下の猫達はあなたを裏切る? 友達全てがあなたの敵に回る? NTRなんて、されたって奪われるのは1人。奪ったのも1人。残りの大切な人は、大切なまま」
「………」
「だから、大丈夫なの。不安でも、悲しい結末があったとしても、橙はへっちゃらなの。辛いことがあったら助けてあげる。NTRされたって、次の素敵な出会いがあるまで支えてあげる。そして報われない想いばかりじゃない。だから、大丈夫」
いつの間にか、橙は泣き止んでいた。いまだその両眼は少しの不安を湛えている様にも見える。けれど、もう大丈夫だろう。橙は、1人ではないのだから。
「紫様、ありがとうございます……」
「いいえ、どういたしまして」
そして紫は、孫娘のような式の式の愛おしい顔を両手で包みながら、こんなことを呟くのだった。
「大丈夫。こんなに可愛い橙なんだもの。いつか素敵な恋愛をして、きっと報われて、NTRなんてされるわけないわ」
それは孫娘に対する贔屓目か、それとも賢者としての客観か。
こうして橙のNTRを訊ねる1日は、終わったのであった。
★
「ん、なあに、橙?」
「NTRってなんですか?」
「ブフっ…!」
むせた。
八雲紫はえほえほと気道の痙攣に腰を曲げ、同時に自らの迂闊さを呪った。
時刻は夕方。外の世界のテレビアニメを、橙と一緒に見ていた時のことだった。眼前で繰り広げられる、男女の想いの食い違い。ずっと尽くし続けてきた病身の幼馴染と、それを知る親友が結ばれてしまうという過酷な展開。少女は少年を助けるために、魂すら差し出したというのに。その生き様が、他人のためにという信念が挫折する物語と交響し、八雲紫はこう口にしたのだ。
「またなんてNTRを……」
そしてこの有様である。八雲紫の橙に対する教育は、毒気に当てず、厳しさに当てずというものだった。そもそも橙は藍の式であるし、こうして日々接するとはいえ、孫に対するようなものでいいかと考えていた。
そこにきてNTRである。こんないたいけな幼子に、言えるはずもない。大きな瞳に光をキラキラと反射させ、耳を好奇心でぴょこぴょことさせている、無垢な女の子に。それが、ずっと好きだったとか、深い縁があるとかのフラグが立っている意中の相手が、性的な手段で奪われることだなんて!
………ん、そういえば、厳密な定義に従えば、このアニメはNTRじゃないわね。まあ、性的というのは狭義であるし、広義には実らない片想いみたいなところもあるから、別に構わないわよね。
「ねぇ、紫さま~?」
しかし参った。紫も妖怪の賢者などと言われる存在なのである。いくら他愛も無い会話の上とはいえ、嘘をつくわけには行かない。ここは適当にごまかして……
「ええっとねぇ、それは、『独りぼっちは、寂しいもんな』ってことよ」
「それ、台詞ですよ?」
「んん~……『あたしって、ほんとバカ』?」
「それもですー」
八雲紫は固まった。得意の超にっこりゆかりんスマイルに加え、なぜなにゆかりん!…とばかりに、ちょこんと示した人差し指もそのままに。その笑顔はいまや、ええっと……とばかりにひくついていた。
「橙」
「はい」
「NTRというのはね」
「はい」
「………サラマンダーよりも、ずっとはやいってことなのよ」
八雲紫はごまかした。
―――――
場所は妖怪の山。橙は紫の言う『サラマンダーよりも、ずっとはやい』を訊ねて歩いていた。
紫は結局、NTRについて教えなかったのだ。肝心なところで「あっら~、ゆかりん用事を思い出しちゃった~☆ じゃあ橙、早めに寝るのよ~♪」と言って、スキマを開いてどこかへ行ってしまったのである。
忙しい紫さまに迷惑をかけてしまったのではないかと、橙の胸は少し痛んだが、ちゃんと答えてほしかったなぁ、という気持ちも強かった。とにかく、いまだNTRが何なのか分からないので、こうして妖怪の山に来ているのだった。
サラマンダーというのは、確か西欧の竜のこと。それよりもずっと早いというのは、もう風のように速いに違いない。風のように速いと来て、思い浮かぶのは鴉天狗の文さんだった。あの人なら、サラマンダーよりもずっとはやいに違いない。だとすれば、きっとNTRについても、何か知っているに違いないのだった。
橙は自らのめいせきな推理に、頬が緩むのを感じた。気になったことを調べるのはいいことだって、慧音先生も言ってた!
しかし文さんはどこにいるのだろう。そもそも妖怪の山は広いし、居場所に当てがあるほど知り合いというわけでもないのだ。とにかく探すしかない。
「あら橙ちゃんじゃないですか?」
「あ、早苗さん……」
と、文を訪ねて妖怪の山を登ってきたわけだが、もう守矢神社に着いてしまったらしい。たくましきは子供の集中力である。
「どうしたんですか? お使いですか?」
早苗は箒を膝の上に抱えると、しゃがみこんで朗らかに笑った。橙は紫からの言付をもって、妖怪の山に出入りすることもある。早苗とはそれなりに顔を合わす間柄だった。ツボに入ると、とてつもなく変な人になるが、だいたいは優しいお姉さんといった雰囲気の早苗に、橙は好意を寄せていた。
ちなみに八雲の式の式ということもあり、橙は天狗の縄張りなども顔パスである。滅多にない侵入者が妖怪の賢者の配下だなんて、まじ哨戒なんて無意味っすよ、とはある白狼天狗の言。
「いえ、違います。今日は知りたいことがあって、妖怪の山に来ました!」
「へ~、分からないことをちゃんと調べようとするなんて、橙ちゃんは偉い子ですね」
そして早苗は右手を伸ばすと、橙の頭をいい子いい子する。子供あつかいに橙は、少しだけ反発するものも感じるのだが、早苗のとろかしたような笑顔と、ひんやりとした手の心地よさに負け、うっとりとした心地になってしまう。
「あ、そうだ、早苗さんにお尋ねしてもいいですか」
「ええ、いいですよ。私の知っていることでしたら、なんでも」
そうだ。早苗さんは外からやって来た人間だ。だったら、きっとNTRについても知っているに違いない。NTRというのはたぶん、あるふぁべっとであるし、あのアニメは外の世界で放送されているものだ。だとしたら、きっと早苗さんはそーいうことに詳しいはず。
ますます冴え渡る名推理に、橙は心中えっへんとした心持であった。けれど、そういう表情を見せるのは、失礼なことかもしれないと考えて、橙はなるべく表情を変えないように、早苗にそのことを訊ねた。つまり真顔で訊ねたのである。
「早苗さん」
「はい」
「NTRってなんですか?」
「んなっ?!」
早苗は驚いた。
「って、わわ! きゃっ―」
そしてそのままバランスを失うと、ペタンと前足を八の字に開き、石畳の上に尻餅をついてしまう。
「大丈夫ですか?!」
「イタタ……。いえ、大丈夫です。ちょっとびっくりしちゃいました」
余談であるが、痛みと羞恥で頬を赤らめる早苗の様子が、実に健康的な魅惑に満ちており、巫女服の裾が長いことが本当に惜しい状況であるのだが、橙にそんなことを思いつく素養はない。
「??」
「あはは、もう、橙ちゃん。どこでそんな言葉を?」
そこで橙は、早苗にことのあらましを説明した。紫とあるアニメを見ていること。そのアニメを見ている際、紫がNTRと口にしたこと。そして紫がNTRの意味を教えてくれなかったことである。
「なるほど紫さんも、そう思いましたか。かくいう私も、昨晩そう思っていたのですよ」
「早苗さんの家にも、てれびがあるんですか?」
「ええ、奇跡で電波を受信しまして」
ぬかりはないとも言いたげに、ドヤ顔で笑みを浮かべてみせる早苗。しかしその言葉が、どこか痛々しいものに聞こえることに、純粋な橙は気付かない。
「しかし『ワイバーンよりも、ずっとはやい』ですか。紫さんも分かっていらっしゃいますねぇ」
「??」
「ふふ、『大人になるって悲しいことなの』ですよ、橙ちゃん」
にやりとした表情を変えないまま、通にしか分からないことというように、しみじみと語る早苗。そして早苗は、おもむろに両手を口元に構えると、山側に背を向け―あの世で俺に侘び続けろオルステッドぉぉ~~――と、山彦を響かせるように叫んだ。当然反響はない。
そんな早苗の姿を見て橙は、幼い自分には分からないことだが、確かに大人になることは悲しいことなのかもしれないと、そう思った。
「それでですね」
「え、あ、はい、すいません。ちょっと自分の世界に入ってしまいました」
「いえ、大丈夫です。それでですね、紫様はNTRについて教えてくれなかったんです」
「なるほど」
「だから早苗さん、NTRってなんですか?」
ううむ、と、早苗は胸のうちでうなり声を上げた。紫が橙に対し、NTRの意味を教えることができなかったのと全く同じ感情が、早苗の胸にも去来していたのだ。
目の前の少女は、まだ穢れも知らない少女である。いやむしろ、保護し慈しみ、可能ならば舐め……ではなく撫でまわすべき幼女である。そんなこの世で最も大切にすべき存在に、おいそれとNTRの意味を説明できるほど、早苗は厚顔無恥ではなかった。このようなことを考えられる程度には変態であったが。
「うーん、そうですねぇ…」
「(わくわく)」
「う~ん……」
「(どきどき)」
「え~っと……」
「……中に誰もいませんよ、ってことです」
東風谷早苗はごまかした
―――――
場所は変わって紅魔館。橙は早苗の言う『中に誰もいませんよ』を調べ歩いていた。
早苗は結局、NTRについて詳しくは教えてくれなかったのだ。肝心なところで「あ、用事を思い出してしまいました! 神であると同時に巫女でもあらねばならぬとは、現人神とは忙しいものです」と言って、社務所の方へと戻って行ってしまったのだ。
忙しい早苗さんに時間を取らせてしまったのかと、橙の胸は少し痛んだが、ちゃんと答えてほしかったなぁ、という気持ちも強かった。あとやっぱり変な人だなぁという気持ちも。とにかく、NTRについていまだ分からない以上、調べ続けるしかない。
今度の中に誰もいないというのは、つまり密室のこと。鍵なんてろくにかけない、しかも木造建築の幻想郷にあって、密室と呼べるような場所は少ない。あるとすれば、日光を嫌う西洋妖怪が住む洋館、紅魔館しかないのだった。
加えて紅魔館には、幻想郷一の蔵書を誇る、地下の大図書館もある。その館長であるパチュリーについても、横文字に詳しい知識人に違いない。
橙は自らのぬかりない行き先決定に、ふふんと頬がつり上がるのを感じた。お出かけの計画もきっちり立てた方がゆういぎに過ごせるって、慧音先生も言ってた!
ちなみに八雲のお使い役を務める橙は、やっぱり紅魔館についても顔パスである。滅多に無い侵入者が幻想郷の管理者の配下だなんて、やっぱり門番業務なんて寝ながらでも十分なんですよ、ぐぅ……とはある中華妖怪の言。直後に頭にナイフが突きささったことは言うまでもない。
図書館の扉を抜け、司書机のところへ向かう。そこにいるだろう大図書館の司書、小悪魔を当てにしてのことだ。
図書館のことを聞くなら、誰もが著しくコミュニケーション能力に欠損した紫もやしことパチュリーよりも、親切で悪魔の羽すら愛らしい、司書の小悪魔を頼るだろう。橙もそのことを知っており、最終的にパチュリーに伺うことになったとしても、小悪魔を通しての方が良いと判断したのだ。
橙の期待通り、小悪魔は司書机に向かっており、眼鏡をかけて何か書き作業をしていた。しかし優秀な司書たる彼女である。近づいてくる橙の気配に気付くと、ちらとそちらを見遣り、眼鏡を外してふんわりと微笑んだ。
「……あら、橙ちゃんじゃないですか。こんにちは」
「こんにちは、小悪魔さん!」
はきはきと挨拶する橙に対し、目を細めて少し首を傾ける小悪魔。その所作は、魔の手先のそれと言うよりも、まるで保育園の先生といった雰囲気だった。そして小悪魔は、柔らかい空気をまとったまま、すっと人差し指を口元に当てて言う。
「ふふ、元気があっていいですね。ただし、図書館ではお静かに」
「あ、はい、すいません」
しゅんとうなだれる橙。予想通りの反応なのか、特に表情を改めることもなく、少しだけ苦笑しながら小悪魔は橙をなぐさめる。
「そんなにしゅんとしないでください。これから守ってくれればいいですから」
「はい、わかりました」
「いい返事です。やっぱり橙ちゃんはいい子です」
そして小悪魔は司書机の引き出しを引いて、何かを探すと、はい―と、橙に飴玉を渡した。子ども扱いにちょっとむっとした感情も覚えた橙だったが、包み紙を開いてさっそく口に入れた飴玉は、濃厚なミルクの味がして甘く、橙の思考さえもとろけさせてしまった。
「ふふ、それで、今日はどうしたんですか?」
小悪魔が橙に訊ねる。
そうだったのだ。小悪魔の雰囲気にすっかり載せられていたが、橙には果たすべき使命があったのである。橙はまだ口の中に残る飴玉を、ころんと右頬の方へと転がすと、歯で押さえつけるようにして小悪魔に質問した。
「はい。今日は調べものがあってやってきました」
「それはいいことですね。そういう風にここを利用してもらえると、私もうれしいです」
紅魔館の大図書館は、それなりに開かれていた。わざわざ里人が利用するには遠いが、蔵書数は抜群で、外の世界のものや物語など、娯楽に役立つものも多い。紅魔館の主も、大図書館の利用であればわざわざ謁見する必要もなしと、鷹揚な態度をとっているため、暇にあかせた妖怪や、よほど好奇心の強い人間など、ここに訪れる者は少なくないのだった。
以前からの蔵書整理の業務に加え、本格的な司書仕事まで追加されたことで、小悪魔の負担は少なくないはずだが、本人はいたって気にしない様子であった。彼女もまた本を愛しており、また本の最も望ましい愛され方とは、必要のもと読まれることだと、彼女は思っていたのだ。橙のような来客は、小悪魔にとって好ましいことだった。
不機嫌になるのはそれによって大した害も受けない、せいぜい時々静けさが破れる程度のことにぶーたれる、コミュ障魔女ぐらいであった。もっともそのパチュリーも、アリスや慧音といった知識人との語らいに、まんざらでもない様子であったが。
「それで、小悪魔さん」
「はい、なんですか」
「NTRってなんですか?」
ガタンッ――
小悪魔はずっこけた。折しも橙の調べ物を手伝おうと、片腕を机について立ち上がろうとしていた時のことだったのだ。その右手は机の端から滑り落ち、小悪魔はそのままペタンと両足を横に崩す形で座り込んでしまった。
タイトスカートから伸びる、黒のストッキングに包まれたふくらはぎが、彼女の印象と違って大変に艶かしく、やはり彼女の性格を表したものか、長めの丈が実に惜しいところであるのだが、女の子である橙にそんなことは及びも付かない。というより机に隠れて見えない。
「アイタタタ……」
「大丈夫ですか?! 小悪魔さん」
「ええ、大丈夫です」
机に腕をかけて、えいしょっと立ち上がる。小悪魔の鋭敏な聴覚は、すぐ近くの大机に鎮座しましている動かない大図書館が、苛立たしげに机を指で叩いていることを感知していたが、さすがに防ぎようがなかった。ただしこれ以上の被害は防がねばならないと、小悪魔は動揺している橙を鎮めるべく、彼女の目線に合わせてしゃがみこむ。
「ごめんなさい、いきなりのことでびっくりしてしまって。でも大丈夫です」
「本当ですか?」
「ええ、大丈夫です」
そういって小悪魔は、橙の頭をゆっくりと撫でる。今日は撫でられることの多い日だと、橙はふと思ったが、ほっそりとした小悪魔の指先がやはり気持ちいいので、何も言わないことにした。
「それで、NTRですか」
「はい、NTRです」
ことのあらましを説明する橙の声を聞きながら、小悪魔も紫や早苗と同じような思いに捉われていた。このいい子を絵に描いたよう橙に関して、かように破廉恥な言葉の意味を教えてもいいものか。小悪魔には判別つきがたかった。
調べていれば、いつかわかってしまうことだろう。けれど、こういう言葉から遠ざけたいだろう、主の意志も察せられた。重々悩んだ末小悪魔は。
「橙ちゃん」
「はい」
「NTRというのはね」
「はい」
「大切な人を奪われるってことなの」
小悪魔は誤魔化さなかった。
「それも、性的な手段だったり、ドロドロとした対立があったり、悲しい遣り方で」
小悪魔は容赦がなかった。
やはり悪魔である。
――――
八雲紫はマヨヒガで一日の疲れを癒していた。問題となるような人妖の行動はなし。結界の強度は上々。仕事量としては、まあ暇な部類に入る一日だった。総計して半日は遊んでいたと言っていい。
「それでも、疲れは溜まるのよね~」
労働者の宿命である。そして労働者の一番の楽しみとしては、空腹を満たす暖かな食事に、家に帰ってからの家族との団欒。前者に関しては、既に台所から良い匂いが漂っている。今日は藍も家にいるし、十分な夕食が期待できるだろう。
しかし後者に関してはいささか物足りない。喉を撫でてやってもよし。膝に乗せてやってもよし。話を聞いてやってもよしの、可愛い可愛い式の式、橙の姿が見えないのだ。
大方外で遊んでいるか、妖怪になりかけの猫達の面倒でも見ているのだろうが、それにしても遅い。別段門限を定めるようなことはしてはいないが、それでもふと気になってしまうのが、人間臭い生き方を送っている八雲紫の心理である。
…ただいま帰りました――
と、思っていたところ、玄関の方から橙の帰りを告げる声がした。ちょうど心配していた折である。小言の1つでも言おうか。それともさっそく抱き上げて愛玩するべきか、紫としては迷いどころである。そんなことを考えながら、少しそわそわしながら橙が居間にやって来るのを彼女は待っていた。
「失礼します」
「お帰りなさい、遅かったわ……ね?」
さらりと一言だけ述べようと思っていた注意の言葉は、橙の様子がおかしいことによって真に歯切れの悪いものとなった。障子を開け、部屋に入ってきた橙の顔は、どんよりとして暗く、心なしか身体全体も雨にうたれたかのように重みを感じさせた。
「どうしたの、橙? なにかあったの??」
当然紫は心配の声をあげる。繰り返しになるが、橙は紫の式の式。いわば孫のようなものであって、境界の大妖もそれについてばかりは落ち着きが効かないのだ。
「……うっ、ひっく、紫さまぁ…」
「えぇ、橙、泣いてるの?! どどど、どうしたのいったい? 喧嘩? 怪我? 何か酷いことを言われた?」
もはや恐慌状態である。八雲紫は横臥していた身体をすっくと立ち上げると、おろおろと橙の方へと歩み寄り、その顔を覗き込んだ。
「紫さまぁ……」
「うん、どうしたの、橙?」
紫はやや逡巡した後、橙をその豊かな胸元へときゅっと、かき抱いた。主の主ということも今は忘れ、その紫に礼儀も作法もなくしがみつく橙。
「……わたし、NTRがなんなのか聞きました」
「……そう」
「そして思ったんです」
「ええ」
「どうして世の中にはこんなに悲しいことがあるんだろうって。どうして正しいことをし続けたのに、報われないんだろうって。そして……もしかしたら私も、わたしがなにも悪くなくったっても、大切な人がいなくなってしまうんじゃないかって」
そして橙は再び紫の胸元に顔をうずめると、わっとばかりに泣き出した。紫はそんな橙を見下ろしながら思っていた。ああ、そうか、NTRなんて意味はたいしたことではない。けれど、この純真な橙の心で抱えるには、きっと重すぎたのだろうと。
小悪魔はそれこそ、徹底して橙にNTRを教えたのであった。それの意味や用法に留まらず、紫や早苗が口にした言葉の由来。そしてその作品の概要までこと細かく説明し、「中に誰もいませんよ」についてはお昼下がりからのノンストップ6時間観賞を敢行したのである。
これは橙のいまだ邪気の薄い心にとっては、かなりの負担となることであった。なぜ小悪魔がかようにNTRについて見せ付けたのかは分からない。それは彼女が悪魔であればこそなのか、それともNTRについて何かしら思い入れがあったのか。少なくとも今は明らかとはならない。目下として問題は、橙の苦悩と涙である。
「わたしは、分かんないです。どうしてこんなに悲しいのか。胸が痛くて痛くて、しかたがないんです。ひっく。ねぇ紫様。どうしてこんな結末になってしまうんですか?」
それは架空のお話の中だからよ、と言いかけて、紫は口を閉ざした。確かにそう結論付けることはたやすい。けれどそれでは、橙に対して嘘をつくことになってしまう。
創作が紡ぐ物語は、現実の投影。そんな悲しい結末は、お話にして支持を集めるほどに、ありふれたことなのだ。
「それに、うぅ。もしかしたら、紫様も、藍様も……。もしいつかわたしに素敵な恋人ができても、ひっく。がんばっても悲しい結末になってしまうのかなって。そんなのって、あんまりじゃ、ないですか……」
橙は嗚咽を漏らしながら、その大きな瞳からぽろぽろと雫をこぼしている。あぁ橙。その幼い身体をこのまま抱きしめながら、甘いささやきをそのぴょこんと突き出た耳の内に流し込むのはたやすい。でもそれでは駄目だ。なぜなら紫は賢者であり、またその立場を、いつかは橙に担ってもらいたいと思っていたからだった。
紫はすうっ、と一度息を吸い込むと、もう一度橙のことを抱きしめて、その両目を覗きこみながら言葉を選んでいく。
「えぇ、橙。そんな結末があるかもしれないのは、事実よ」
「!」
驚いた表情を見せる橙。泣きじゃくりながらも、彼女は紫が否定してくれることを期待していたのだろう。なんといっても、幻想郷で最も胡散臭いといわれる紫である。そんな悲しい結論は、鼻で笑い飛ばしてくれそうな趣がある。けれど紫は、今は真剣な表情で橙に対しているのであった。
「報われないことは、あるのよ。どんなに想っても、間違ってなくとも、受け入れがたいことでも……あるの」
「………」
「でもね、橙、聞いて欲しいの」
「……はい」
「悲しい報われない結末があるのと同じように、幸せで報われる結末だってたくさんあるの」
そうなのだ。悲しい結末はどうしても注目を集める。だから不安を感じてしまう。どうしようもない結末のまま、物語全てが終わってしまうことも確かにある。けれど、やはりそれでも、そうじゃない結末だってたくさんある。
「だからね、希望はあるの。絶望があるのとおなじくらい確かに。そして希望も絶望も私達があずかり知らないところで左右されてしまうのなら、少しでも報われますようにって、頑張るしかないの」
「頑張っても、報われないかもしれないのにですか?」
「そう。相手を想って、報われるよう努力して、幸せになれるよう祈って……結局のところ私達は、自らの行き先を願うとき、祈ることしか出来ないのかもしれない。それでも、受け入れるしかないの」
そして紫は、ふっと笑みを綻ばせると、橙のことを一心に想いながら言葉を続けた。そう、胸に湧き上がる感情を、そのまま空気に乗せて伝えるように。
「だけどね、私のことを大切に想ってくれる感情。藍のことを慕う感情。それは決して裏切られることはないわ」
「……NTRでもですか?」
「そんなの目じゃないわ。橙は家族だもの」
「………」
「もちろんどんなことが起こるか分からない。けれど、今ここであなたに誓える程度には、この境界の妖怪:八雲紫の力にかけて言えるのは、どんなことがあっても私は橙を想う、そういうことよ」
何が起こるかわからない。一家離散なんて物語だって存在する。でもそんなことは考えたくもない。変わらない想いだって、あるはずだと信じているからだ。
「そう考えるとね、橙。あなたに本当に大切な人ができて。けれどNTRになっちゃったって、へっちゃらだと思わない?」
「どうしてですか?」
「えぇ、だって私がついているんだもの。藍もいる。配下の猫達はあなたを裏切る? 友達全てがあなたの敵に回る? NTRなんて、されたって奪われるのは1人。奪ったのも1人。残りの大切な人は、大切なまま」
「………」
「だから、大丈夫なの。不安でも、悲しい結末があったとしても、橙はへっちゃらなの。辛いことがあったら助けてあげる。NTRされたって、次の素敵な出会いがあるまで支えてあげる。そして報われない想いばかりじゃない。だから、大丈夫」
いつの間にか、橙は泣き止んでいた。いまだその両眼は少しの不安を湛えている様にも見える。けれど、もう大丈夫だろう。橙は、1人ではないのだから。
「紫様、ありがとうございます……」
「いいえ、どういたしまして」
そして紫は、孫娘のような式の式の愛おしい顔を両手で包みながら、こんなことを呟くのだった。
「大丈夫。こんなに可愛い橙なんだもの。いつか素敵な恋愛をして、きっと報われて、NTRなんてされるわけないわ」
それは孫娘に対する贔屓目か、それとも賢者としての客観か。
こうして橙のNTRを訊ねる1日は、終わったのであった。
★
狐?知らんな
NTR展開のなにがウケているのか今まで理解できなかったのですが、ストンと腑に落ちた感じです。
つまりシェイクスピアやらアイスキュロスやらはNTR作家であったのだと(ry
とりあえず誠氏ね
申し訳ないです誠氏ね
橙かわいいよ橙
小悪魔さんの教え方が適切すぎる
多分この小悪魔さんは他所よりちょっと背が高そう
多分めーりんの次くらいの身長だ
>「はい、NTRです」
シュールw
読み返してきますw
そして我々NTRスキーというのは、それに群がる蟻のようなものでございます(キリッ
橙かわいいよ。
小悪魔さんマジ小悪魔やでぇ
何だかんだでいい話に収まってて面白かったです、ただし藍、テメーはダメだ
うまくまとまっていて、面白かったです。
この小悪魔とNTRについて語り明かしたい。
あと傾国の御狐さまはお帰りください
あとヨヨ、お前はだめだ、トラウマすぎる
まあこの橙と紫様の関係はなんか好きかもw
いつかは祖母(?)を超えて欲しいものです
NiceBoat6時間とか・・・w
取りあえず小悪魔マジ悪魔。
橙も橙で聞いてはいけなそうな相手にピンポイントで当たってますねw
一番聞いちゃ駄目な相手(藍)に聞かなかっただけマシなんでしょうが…
ニトリにしか見えなくなった(笑)
いいもの読ませてもらいました。
中に誰も(ryはマジワロタww
外界と接点のある早苗さんがスクイズ見てるのはまだよしとして、こあちゃん何見てんのよ……。
橙の無垢さがヤヴァいぃぃっ!!
ごめんなさい、私の心は汚れています。
そうか、その道のスペシャリストだったな・・・
『山文京伝・山姫の実』を思い出してしまった変態の俺は頭を冷やしてきます。
しかし「中に誰もいませんよ」の6時間連続視聴はトラウマになりそうだww
素晴らしい、良いセリフですね
ところでNTRってどう発音すればいいんでしょうね?
確かに貴女なら詳しいでしょうともwww
まあ、NTRではないなw
ヨヨは氏ね
面白かった。
後藍さま自重しろwwwそれでも主かww