ぬえは焦っていた。
それというのも、全ては目の前に居る鴉天狗の所為である。
幻想郷のあちこちで展開されている文の突撃取材対象に、とうとうぬえも選ばれたのだ。
当然、最初は返り討ちにしてやると意気込んで、スペルカードによる応戦を試みた。
しかし、いままで誰にも見せたことの無かった『紫鏡』は、あっさりと突破されてしまった。
自らの虚像を作り出して相手を挟み込む、逃げ場の少ない攻撃だったというのに。
この鴉天狗は技を見るなり虚像を見抜き、手にしたカメラでそれを消し去って見せた。
『鴉天狗は弾消しのスペシャリストだ』
あれと交戦の経験がある人間や妖は、口を揃えてそんな事を言う。
まさに言葉通り。あのカメラに収められた弾幕は掻き消え、
術者そのものを撮影すればスペルに設定した耐久力を削ぎ落とす。
その戦い方を以って、本来は禁忌とされる回避不能スペルですら攻略可能とするのだ。
分の悪い戦いは好きではない。
常に正体不明という優位を盾に使うぬえにとって、その思いも人一倍強かった。
やけにあっさりとスペルカードを攻略された事に動転し、思わず逃げ出してしまう。
だが、振り切ってやろうにも、ぬえの足では文の速度になど敵うはずもなかった。
「さぁ、次のスペルをどうぞ! まだまだ隠し球、持っているのでしょう?」
「しつこいなぁ、もぅ……! 分かったわよ、やってやるわよッ!」
逃がしてくれないのならば、どうにかして勝ちに行くしかない。
ぬえは逃げるのを止め、新たなスペルカードを手に取った。
先の『紫鏡』を使った際、文がどう動いていたかを思い出す。
カメラを構えて撮影を狙う姿。一枚写真を撮ってから、カメラを操作する手元。
「連射は出来ないってこと……なら、これでっ!」
ぬえが取り出したのは『赤マント青マント』のスペルカード。
これなら弾速も速いし、撮影の合間の隙を狙い撃てるかもしれない。
幻想郷に出てから使うのは初めてなので、どんな攻撃かも分からない筈だ。
「……いっけぇぇぇッ!」
「おっ? 赤マントって、人間を攫う怪人とかいうアレですか!」
呑気にそんな事を言いながら、迫り来るナイフの群れを見上げる文。
楽しそうにカメラを操作し、じりじりと位置を変え、ナイフの間をすり抜ける。
ぬえは悔しそうに文を睨みつけた。腹立たしい事に、相手の実力は想像以上だ。
今回と同じような突撃取材で、幾つもの難関スペルをカメラに収めてきたのだから、
その弾幕回避技術は相当なものだった。ただ弾速が速いくらいでは全く通用しない。
諦めずにスペルを展開し続けたぬえだったが、程なく最後のシャッターが切られる。
文の手元に怪人赤マントの写真だけを残し、ぬえのスペルはまたも突破されてしまった。
「ああん……また一つ私の正体不明にキズがぁ……」
「何を今更、とうにキズだらけでしょうに。ささ、張り切って次のスペルをどうぞ!」
「くっ、悔しいぃ……!」
ギリギリと、槍を握り締める手に力が篭った。
真正面からの強行突破という、自分とはまるで正反対の戦闘スタイル。
それを可能にするだけの身体能力と判断力、そして度胸。
自分には無い才を持つ文に何ともいえない憎らしさを感じる反面で、
このやり方で取材し続けてきたという事実にある種の尊敬すら覚えるぬえ。
あの実に楽しそうな態度も、みるからに溢れ出ている自信も、決して驕りではない。
積み重ねた経験や知識に裏打ちされた、確かな余裕なのである。
「……少しだけ、あんたが羨ましくなったよ」
「はい? どうしました、唐突に」
「なんでもないわ! こうなったらトコトンやってやる!」
「良く分かりませんが、望むところです! 取材続行ですね!」
文を前に、ぬえは三枚目のスペルカードを発動した。
手元に残っているスペルは、これを含めて二枚。
最後に回したスペルは、耐久力を高めに設定してあるぬえの切り札的存在だ。
それで確実に仕留める為にも、まずは別のスペルカードで疲れさせようと考えたのだ。
「正体不明の闇に、引きずり込まれるがいい!」
「あやや……これは不浄の場所に住み着いてると噂のアレですね!」
余裕をたたえたままで、文はすっとカメラに手を添えた。
ぬえの合図によって解き放たれたのは、闇から這い出た無数の手。
弾幕と化したそれらが次々と伸びてきては文を捕らえようとするが、
やはりスルスルと的確に潜り抜け、ただ冷静にフィルムの装填を続けている。
「だめ、速いッ……!」
「うーん。記事にするには、厠ってのはちょっとなぁ」
自らのスペルが全く通用しないことに戸惑うぬえの気など知らず、
文はパシャパシャと写真を撮っては次々と手帳に挟み込んでいく。
それどころか、もう帰ってから書く記事の内容にまで考えを巡らせている様子だった。
ぬえの心の奥底に、言い知れぬ感情が走る。
太刀打ち出来ていない現状が、悔しい。
常に余裕綽々なあの態度が、腹立たしい。
正面をきって相手を圧倒できる実力が、羨ましい。
「あぁぁッ……もぉ!」
残された耐久力は僅か。あと写真一枚で限界を越えてしまう。
このスペルでは文を疲れさせることすらも出来ないというのか。
じわりと、ぬえの目の端に涙が浮かぶ。色んな感情が入り混じって、もう訳が分からない。
「負けっぱなしでなんて、いられるもんですかぁぁッ!」
もうこのスペル突破は免れない。残った手札はただ一つ。
最後のスペルに全身全霊を賭け、あの鴉天狗に一矢報いてやる!
「ひぎぁッ?」
変な悲鳴が聞こえた。
ぬえの目の前で突然、文が盛大に吹っ飛んでいってしまう。
何とか体勢を立て直して墜落だけは免れたが、文は顔を押さえて動かなくなってしまった。
「……ど、どしたの?」
先ほどまでとは別の意味で訳が分からず、ぬえは自らスペルを解除する。
ワラワラとわいていた手は役目を終え、全て闇の中へと還っていった。
ぬえが戦闘体勢を解除しても文は動かない。
ただ、攻撃が止んで静かになった夜空に、微かな嗚咽が響いていた。
「な、泣いてるの、ねぇ?」
動揺して文に近寄ったぬえは、言葉を失った。
文が顔に大きな傷を負っていたからだ。
両手で隠してはいるが、かなりの血が流れているのが見える。
「ちょっ、うわっ。手どけて! あー……」
手を引き剥がすと、痛々しい傷口が額に開いているのが分かった。
顔全体を強打したらしく、他にもあちこちが切れてしまっている。
文は先ほどまでの余裕をすっかり無くして、半泣き状態だった。
理解不能な被弾と不意な痛みに、理性と感情が追いついていないのだろう。
「ひぐっ。酷……ですよぅ……あんなの、避けれるわけ、無……ぐすっ」
「や、あの、えっと……とにかく聖んとこ行こう!」
一矢報いてやった、と手放しで喜んでもいられず。
ぬえは文を連れて、応急手当の為に命蓮寺へと戻ることにした。
§
弾幕戦による負傷というものは、基本的には事故という扱いとなる。
あくまでルールに則った決闘であり、そこに悪意は存在しないからだ。
だが、今回の場合は少しだけ事情が違った。
定められたルールに双方が同意し遵守することによって、悪意は除かれる。
逆に言えば、ルールを無視した行為を行った時点で、悪意があるとみなされてしまう。
命蓮寺の一室。
文は白蓮の前に座って、頭に包帯を巻いてもらっていた。
被弾から時間が経ち、更に応急手当てを受けた事で、すっかり落ち着いたようだ。
痛みがあるのだろう、時折顔をしかめながら静かに手当てを受けている。
「……ぬえさん。どうしてルールを破ったのです?」
やがて、静寂を破るように文が尋ねた。その声は、至極残念そうだった。
その問い掛けに、白蓮は一瞬だけ手を止めた。
が、一瞬だけぬえの方を見てから、すぐに文の手当てを再開する。
ぬえはそんな二人の前で、ただ申し訳なさそうに座っていた。
しかしその申し訳なさは、ルールを破ったことに対してではなく、
こうなった原因が分からないことに対する気持ちであった。
ぬえ自身は、スペルカードルールに違反した事など何一つしていないのだ。
しかし、それを証明することは出来ない。
現に文は負傷し、ルールに沿わない形での決着を迎えてしまった。
「私は確かに、ふだん禁じ手となるスペルの使用も厭わないと、そう提示しました」
ぬえは、取材前に文が言っていたことを思い出す。
この取材の間において発生した事故は全て自分が責任を持つ、と。
その上で彼女は回避不能スペルを含めた、技の披露を求めていた。
「ですが……いくら貴女が正体不明を十八番としているにしても、あれはあんまりです」
文が被弾したのは、兆候すらない目視不能の攻撃だった。
「でも、わたしは……」
そこまで言って、ぬえは口を噤む。
あの場所には二人以外、誰もいなかった。
それに、感情が昂ぶっていたという事実もある。
もしかすると、無意識のうちに追加攻撃を仕掛けてしまっていたのかもしれない。
なまじ正体不明を操れるものだから、証拠がないと不安になる。
「ぬえ……黙っていては何も分からないのよ?」
耐えかねたのか、白蓮が声をかけた。
ぬえは縋るような視線を返したのみで、また黙り込んでしまう。
「黙らないで下さい」
文がぬえの傍らにそっと移動する。
そして、ぐっとぬえの顔を両手で包み込んで、お互い真っ直ぐに向かい合う。
戸惑いでいっぱいのぬえの表情。それを見据える傷だらけの文の顔。
「破ったというなら誠意ある謝罪を要求します。でも違うなら違うと、そう言ってくれないと」
手を離さないまま、真剣な眼差しを送り続けて、文は回答を待つ。
ぬえは包帯を巻いた文を前にして、やっと頷いて答えた。
「破って……ない! 私は、ちゃんとスペルカードで戦ってたっ!」
「よろしい。じゃあ貴女のいう事を信じましょう」
答えを聞くと、文は実にあっさりと引き下がった。
そしてそのままぬえから手を離すと、いそいそと帰り支度を始める。
「……よろしいのですか?」
ぬえの代わりに、白蓮が当然の疑問を口にした。
「やっていないと言っているのに、問い詰めても仕方がないでしょう?」
文は淡々と返事をしながらも、探るように白蓮へ視線を投げかけた。
少しだけ重々しい表情を浮かべてから、白蓮は静かに一つ頷いて見せる。
「それでは今日の取材はここまでということで。またお邪魔したときは、よろしくです」
白蓮の反応に満足したのか、いつも通りの口調に戻って部屋を出て行く文。
ばさりと羽ばたく音が遠く聞こえ、部屋の中に再び静寂が戻ってきた。
「ごめんね、聖。きっとわたし、まだ信じられてないよね」
「私は貴女を信じますよ。それに彼女も信じると言ってくれたわ」
「けど、わたしはそれに応えられないよ……」
「ぬえ……そうですね、それは事実。だから、一休みしたら一緒に探しましょう」
あの鴉天狗が怪我を負った、その原因を。
§
「あら。こんな時間にどうしたのです?」
ぬえを宥めて寝かし付けた白蓮は、命蓮寺の中に見慣れぬ少女を見つけた。
声を掛けると、少女はくるりと振り返って軽く会釈を返した。
「あぁ、用事は済んだわ。もう帰るからお構いなく」
それだけ言って、さっさと帰ろうとする少女。
しかし、いくら何でもこんな夜更けに、寺へ踏み込む用とは何だろうか。
見たところ、少女はしっかりとした力を纏っており、妖怪の類である事は間違いなかった。
「お待ちなさい。差し支えなければ、何の用があったのか教えていただけます?」
白蓮が呼び止めると、少女は素直に立ち止まって再び振り返った。
そして少しだけ白蓮を見つめ、やがて口を開く。
「ちょっと、家出した奴を連れ戻しにね……」
妖怪の家出。白蓮にとってそれは聞き捨てならないことだ。
少女は一人きり。つまり、まだその家出した妖怪は見つかっていないということで。
「ここには居なかったのですね。よろしければ我々、寺の者も手伝いますよ」
「あぁ……いいえ、もう見つかったから」
そう言って片手を差し出す少女。もちろん、そこには誰も居ない。
「強い想いに引かれて、たまにこうして出て行っちゃうのよ……」
首を傾げた白蓮に対する説明か、それともついつい口を突いたぼやきか。
少女は白蓮に背を向けて歩き出しながら、困ったように溜め息をついた。
「私の、グリーンアイドモンスター」
オレはこいしちゃんの仕業と思うことにした
あの恐怖……ああ
バグと言う名の緑色の目をした見えない怪物をね……
泣いてる文ってレアすぎて萌え