ほう、とため息をつき、読み終えた本を机の上に置く。いやあ、面白かった。こんなタイプの小説も悪くない。
私、岡崎夢美は多くて一ヶ月に三、四冊くらい本を読む。教授という職業に就いたゆえ専門書ばかり読むはめになってしまい、娯楽として読めるものはどうしてもこのくらいになってしまう。別に本の虫になりたいほど本が好きなわけではないが、たまには一冊の本を読むために一日を潰してみたい、と思ったりする程度に本は好きだ。
ふと、相棒の北白河ちゆりが目にとまった。今ストロベリーティーを飲みながらなにやら機械をいじくり回している。彼女はどうなのだろう。本を開いているところを一度も見たことがない。
「ねえ、ちゆり。貴方はどんな本を読むの?」
「あー? 全然読まないなー」
それはいけない。確かにちゆりには本を読むことより機械をいじっている方が好きそうだ。しかし、本を読む楽しさにはぜひ気づいてもらいたい。本を読んでもらうためには、どうすればいいだろう。
ちゆりに何を読ませるか。しばらく考える。どんな本がいいだろう。色々な本のタイトルが私の頭の中を駆け巡る。三十七秒経過。考えがまとまった。このラインナップならいける。
「ねえ、ちゆり。米澤穂信の古典部シリーズって知ってる? 『やらなくてもいいことなら、やらない。やらなければいけないことは手短に』がモットーの主人公、折木奉太郎が、ヒロインの千反田えるの一言からどうしても謎を解かざるを得なくなる、っていう話なんだけど」
「ふーん、知らないな」
「読んでみる気には?」
「ならないな」
ぬう。私のお気に入りがこうも簡単に玉砕するとは。
しかしまだ諦めるわけにはいかない。私のプライドがそう告げている。それに紹介できる本ならまだある。
「ねえ、ちゆり。加納朋子の入江駒子シリーズはどうかしら? 主人公、入江駒子が『ななつのこ』っていう本を一目で気に入って作者の佐伯綾乃にファンレターを出しすんだけど、そのファンレターにいつも身近で起こった謎を添えるの。すると、ファンレターの返事に謎の解答が」
「ふーん」
待てこら。まだ言い終わってないだろうが。
そう言いたいのを押し殺し、何とか作り笑いを浮かべる。といってもちゆりはテーブルの上にあるランプやら導線やらスイッチやらを見ているだけで私の顔など見ていないのだが。
それにしても、もう少し興味を示してくれてもいいのではなかろうか。
「ねえ、ちゆり。一体何故あなたはそんなに本を読みたがらないの?」
「あー?」
顔を上げるちゆり。目が少し充血している。・・・気がする。瞬きは意識的にやっておいた方がいい。
「なんかなー、あんまり共感できるものがないんだよ」
「共感?」
「そう、共感。飛び級とかしてるとさ、例えば青春を描いた小説とか、あんまり私と共通部分ないじゃないか。だからあんまり読んでても面白くないんだ」
「・・・そう」
どうだろう。なんだか小説の楽しみ方であるような気もするし、そうでない気もする。私は、小説に『自分が持っていない部分』を求めているので割と楽しめているのだが、ちゆりはどうやら私と楽しみ方が違うらしい。
しかし、ちゆりの楽しみ方からすると、かなり楽しめる小説が限定されるのではないか。というか、無いかもしれない。十二歳で大学を卒業し、十五歳で助教授になった天才少女が主人公の小説があるだろうか。
いっそ私が書くか?
・・・やめよう。
どうしよう。どうやら学校を舞台にした小説では駄目らしい。では島田荘司の『異邦の騎士』なんてどうだろう。
いや、駄目か。ちゆりは共感できるものを求めているのだ。『異邦の騎士』では残念ながら共感できる部分はないだろう。
何かないか。ちゆりが共感できる小説。ひとまずちゆりの人生を追ってみるか。
2078年6月22日、神奈川県川崎市にちゆり誕生。
一歳。この時から英才教育が始まる。
二歳。九九を全て覚える。
三歳。小学校に入学。
六歳。小学校を卒業。英検三級、漢検三級を獲得。全寮制の中高一貫校に入学。
七歳。英検一級、漢検二級、数検一級を獲得。
八歳。日本数学オリンピックで銀賞。国際数学オリンピックニューヨーク大会で金メダル。相対性理論を学び始める。
十歳。高校を文部科学栄誉生徒として卒業。大学に入学。
十二歳。総代として大学を卒業。そのまま大学院へ。
十三歳。高出力のレーザー光線の小型化に成功し、日本科学技術者賞を受賞。一躍脚光を浴びる。
十四歳。大学院を卒業。そのまま研究者の道へ。
十五歳。博士号を獲得。同時に助教授になる。私とともに可能性空間移動船で幻想郷へ。しかし、学会を追放される。研究の本拠地を現在の大学に移す。
こんなものか。素敵な人生である。数学オリンピックで優秀な成績を修めているから、『博士の愛した数式』なんていいかもしれない。
まあ、それも無理そうだ。ちゆりがいう共感というのは、ちゆりが経験してきたことと重なることがある、ということだ。そんな本は私の本の知識では無い。
いや待て。もしかしたら、あれならいけるかもしれない。
ちゆりは再び機械に没頭している。半田ごてを私の部屋で使わないで欲しいのだが、今はそんなことはどうでもいい。
私の知りうる最後の本だ。これで駄目なら諦めよう。
「ねえ、ちゆり。恩田陸の『麦の海に沈む果実』って本、知ってる?」
「知らないな」
上の空で答えるちゆり。そんなに半田ごてと顔を近づけないで。危ない。
「主人公の水野理瀬が、全寮制の『三月の国』と呼ばれる学校に転入して、色々な事件が起こる本なんだけど」
「・・・ふーん」
反応が変わった。『全寮制の』を強調した甲斐があった。
「ねえ、ちゆり。読んでみない? 主人公とあなたとは年齢に違いがあるけれど、全寮制の中高一貫校ってところは一緒よ。」
「・・・うーん」
よし、いける。ちゆりがうーんと唸ったらやってみようという意味なのだ。
「図書室にあるから、借りるだけ借りてみたら?」
「そう、するか」
「『麦の海に沈む果実』よ、忘れないでね」
わかったぜ、というと、ちゆりはテーブルの上に散乱している物体たちを片付けると、ゆっくりと部屋を出て行った。
私は立ち上がると、ストロベリーティーのティーバッグをカップに入れ、給湯器から熱湯を注ぐ。あとは蓋をして二分待つだけだ。
「さて、本に興味を持ってくれればいいんだけど」
そうつぶやいて、私は、机の上に置かれている本が図書室から借りてきた『麦の海に沈む果実』とも知らずに、鞄にしまうのだった。
でも、読みやすかったですし、旧作を知らなくても楽しめました。
ただ、話にもう一山くらいあっても良かったかなと思いました。
調べてみましたけど、話に出てきた本は皆、実在するんですね。
urlさんはかなりの本好きと見ました。
教授とちゆりのやりとりも微笑ましかったです。
ジュブナイル小説は現実離れした設定ですが、主人公の年齢が読者層に近いため共感を呼べる、というのをどこかで聞いたのを思い出しました。
ちゆりにも読書の楽しさに気づいてほしいですねっ。
ところで『麦の海に沈む果実』を借りようと思ったら貸出中……。
教授、返却はまだですか!
ちょっと物足りない気もしました。