川霧の立ち込める三途の川を背にして、あたいは砂利だらけの賽の河原に視線を向ける。
目を凝らして、念のために三回ほどその場で回って視線を充分に巡らせる。
それを終えてから一言――
「きゃん!」
犬の悲鳴のような声を鳴り響かせた後、口を閉じて耳を澄ませる。
しばらく待っても、返ってくる音は何もない。この三途の川はいつも通りの静寂を保ったままである。
そこであたいは軽く溜息を吐き、河原の砂利の上にゆっくりと腰を下ろした。
座った場所の砂利は粒が細かいものばかりであったため、衣服越しに伝わってくる感触はまろやかで柔らかい。
一つ不満な点を上げるとしたらその冷たさだろうが、この死に満ちた場所では仕方のないことかと諦め、全身から力を抜いた。
石の上にも三年、しばらくすれば温まってくるだろう。
あたいは気を取り直して、懐からキセルを取り出し、口に咥えてから先端に火を灯した。
「三遍回ってタバコにしよ、改め……三遍回って『きゃん』と鳴くと、閻魔の顔も思わずほころぶ……
どうにも、長すぎるね。没」
先程の行動を思い返しながら、あたいはそんなとりとめのない呟きを漏らす。
あれは別に気が触れた故の行動ではない。経験と実績に基づく、休憩前の儀式のようなものである。
最初にこれを偶発的にやったおかげで、自主的に休憩を取ろうとしていたところをボスに見咎められる、そんな事態を回避できたのだ。
偶発的というのは、当初はあの犬の悲鳴のような声を上げるつもりはなく、周囲を三遍念入りに見回すだけの予定だった。
ところが最後に歪な砂利でも踏んづけたのか、足をひねりかけたときに思わずあんな声が出てしまった。
直後、力の抜けた笑い声があたいの背後から上がってきた。それがボスのものだったのである。
ボス・四季さまはあたいの不審な行動について問い詰めようとしたが、何を言おうとしても途中で吹き出してしまい詰問にならなかったことを覚えている。
ようは気を削いでしまえば勝ちなのだろうと、あたいはそのとき学んだ。
以来、休憩前には辺りを三遍見回して「きゃん!」と鳴くようにしている。
流石に二度は通じないような気もするし、それに少々恥ずかしい行為のような気もするが、それでもやめることなく続けている。
というのも、どうせこの三途の川に来るのは幽霊がほとんどで、そいつら相手に体裁を気にしても仕方がないと考えているからだ。
もう一つ、こちらはいつまでたっても恥ずかしさの拭えない理由もある――
四季さまの、あの柔らかい笑みをもう一度拝むことが出来たらいいなぁ、という。
キセルを二、三度ふかしていると、聞き覚えのある幽かな音を耳が捉えた。仕事上、常に耳に入れている特有の音。
口ずさんでみるならば、「ヒュ~」とか「ドロドロ」とかいった具合だろうか。
こんな音を立てるものが他にあるとすれば、騒霊姉妹のキーボードくらいか……いや、あれの奏でる音も本質的には同じものか。
ともかく、休憩への未練を残しつつも腰を上げて音のした方を向くと、思った通りそこには自分の客がいた。
三途の川を渡りに来た幽霊である。
「おお、お客さんかい? 丁度良いところに来たねぇ。今なら一級水先案内人のあたいがお前さんに素敵な舟旅をプレゼントするよ。
さざ波に遊ばれるような乗り心地と軽妙なトークをお供に、大船に乗った気分で過ごすといいさ」
愛想よく幽霊に声をかけ、あたいはお客を舟のある方まで導いていく。
幽霊の足取りというかなんというかは、特にためらう様子もなく、あたいの先導に大人しく従ってくる。
どうやらきっちりと自分の死を自覚し、此岸に対する未練も薄いようだ。こういうお客はこちらとしても手が掛からなくて楽なもんである。
死んだことを自覚していない奴や、現世に大きな未練を残している奴は、舟に乗せるのに大層難儀するタイプの客になる。
まぁそういう輩は生前の話を訊いていないところまで事細かに喋ってくれるので、あたいにとっては歓迎すべき客でもあるのだけれど。
などとお客が大人しいのをいいことに、あれこれと思いを巡らせているうちに、あたいは自分の舟があるところまでたどり着いた。
河原にその身を乗り出しているそれの船尾を片手で持ち上げ、軽く前へ押して河中へ進ませる。
そこまでやってからあたいはお客の方にくるりと振り向き、少々意地の悪い笑みを浮かべて片手を突き出した。
「ただしまぁ優雅で快適な舟旅を過ごすにゃ、当然それ相応の対価が必要だ。というわけで出してもらおうかい。
来世への船出を錦で飾るために、お前さんの縁者が持たせてくれた死出の六文銭をね」
あたいの要求を聞くや否や、幽霊はその身を軽く震わせて、小さな光の玉を産み出した。
それはゆっくりと宙を舞い、突き出したあたいの手のひらの上を目指す。
そして手のひらに落着するとすぐ、六方に分裂して貨幣へとその姿を変じた。
これぞ『故人の縁』――弾幕遊びにおいてはこれに因んで、あたいは銭束を放射状に展開している。ただし色をつけて、八方に、ではあるが。
閑話休題、思った以上にずっしりとした六文銭の重さにあたいは目を丸くした。
「へぇ……金3銀2銅1、か。お前さん、なかなかに人との繋がりが多かったみたいだねぇ。これだけの縁が築けた奴はそうそうはいないよ」
故人の価値を測る物差しは、その故人を慕っていた人達が持っている財産の総和であり、それが六文銭の形で表現される。
六文銭の数はきっちり定まっているため、価値の軽重は貨幣の比重によって決定されている。
慕う人間の数が多ければ重い金貨が多く含まれ、少ないと軽い銅銭ばかりになるのだ。
あたいは受け取った六文銭を懐にしまうと、舟に飛び移って櫂を手に取った。
「これなら三途の舟旅もいい塩梅に楽しめるはずさ。さ、そうと決まれば善は急げだ。ほら、乗った乗った」
せかすような言葉にも特に動じる様子もなく、お客の幽霊はゆっくりと舟の上まで浮遊してきた。
うむ、実に肝の据わった幽霊だ。こういうお客との舟旅は愉快なものになるということを経験上よく知っている。
あたいはうきうきした気分で、最初の一漕ぎを振るった。
「ははぁ、生前のお前さんは蕎麦打ちだったんだねぇ……ほうほう、せがれに継がせた店は今じゃ紅魔館御用達にまで登りつめたって?」
三途の川は、櫂で水をかき分けても、舟が澪を築こうとも、全く音がしない。そして周囲には生きている者の気配がない。お客の幽霊は口を利けない。
よって、あたいの声だけがこの静かな空間の中でよく響くこととなる。
傍から見ればあたいだけが一方的に喋っていて、お客とのコミュニケーションは成り立っていないように映るだろう。
しかしあたいら是非曲直庁に属する者は、幽霊の発する幽かな音の意味するところをきちんと理解することが出来るのだ。
先に例えとして思い浮かべた騒霊の末っ子の場合は、その音を聞き取り再現することは出来ても、その意味するところまでは分からないらしい。
だが、騒霊にとっては音の持つ意味を理解するよりも、音を上手く扱うことの方が重要だそうだ。
まぁそういうもんかもしれない。音楽から受ける印象なんて聴く者によって千差万別、ってもんだろう。
この音曲の意味するところはこれ以外に認めない、なんて野暮もいいところだ。
ともかく、あたいはこの幽かな音を幽霊の表す意思と解釈して、お客と会話を弾ませる。
「え、それは言いすぎだって? 本当は紅魔館の大晦日御用達? あっはっは、そうだとしても大したもんじゃないか。
年越しの際には悪魔も長寿を願ってすする蕎麦、此岸の人里に遊びに行ったときには是非とも食べてみたいもんだ。
……ああ、安心しなよ。お前さんのことは黙っておくさ。しめっぽい雰囲気の中ですするのは鼻だけでたくさん、ってね」
三途の川渡しをしているときに交わす幽霊との会話は、この仕事をやる上で一番楽しみとしているところである。
そいつが善人であれ悪人であれ、経験豊富な幽霊の話は聞いていて実に面白いからだ。
「うん? 年越し蕎麦に本当に寿命を延ばす効果があるのかって? やれやれ、それを売り文句にして商う側が疑っているとはねぇ。
まぁでも墓の下までその懐疑を表に出してこなかったんだから、立派なもんだけどね」
ほらこの通り、面白そうな逸話が出てきた。
こういうのを医者の不養生とでも言うのだろうか? それとも自分の服装に無頓着な呉服屋? 否、どっちも的外れか。
ともかく、世の中にはそういう矛盾をはらんだ話が少なくなくて、それでもなんとか回っているのだから不思議なもんだ。
なお、生きている者の寿命の管理も庁の業務の一つだ。実は寿命というものは刻一刻と変化していく。
年越し蕎麦を食べれば実際にプラスに動くし、逆に恐ろしい目に遭えばちょっと縮んだりもする。
あまりにも変動が激しいので、計算係の死神は寿命を一日のうちの決まった時間に算出し、それをロウソクの長さで表現することにしている。
したがって生き物の寿命を一日ごとに並べると、それは増減しつつも次第に小さくなりゆくロウソクの一列として表される。
あとはそのロウソクに火を灯し、次の計算の時間までに燃え尽きた場合に、お迎えの死神がその者のところへ向かうことになっているのだ。
「まぁそうやって他人の寿命を永らえさせるのに貢献してきたお前さんのことだ。この後に待っている閻魔様の裁きでも、きっと良い判決が下るだろうさ。
……ああ、残念ながら、そんなお前さんと末永く舟旅にお付き合い、とはいかないようだね。もう彼岸が見えてきたよ」
川霧の向こうにうっすらと見えてきた岸辺を、あたいは指差すことでお客に示す。
彼岸は、砂利だらけの殺風景な賽の河原とは違って、此岸では見かけない花で一面が覆いつくされている。
この場所には時間の概念がなく、ずっと優しい光で照らされている。
無事に川を渡ることが出来た幽霊はここで裁判が始まるまでの時間を過ごすのだ。
川岸に向けて最後の一漕ぎを振るっていると、後ろのお客から疑問を呈する音が響いてきた。
「ん? ああ、確かにあそこに人影が見えるね。あれはお前さんよりも早くここに来た幽霊さ。
ちゃんと人の姿をとっているのは、この花畑のおかげなんだよ。花は幽霊にとっての苟且(かりそめ)の身体だからね。
ほら、試しにお前さんもそこら辺の適当な花に宿ってみるといい」
舟を接岸させ、あたいはお客にそう促す。
お客は舟からゆっくりと浮かび上がると、地面に葉を広げる一輪の花の上に舞い降りた。
するとオタマジャクシを連想させる形だった幽霊の姿が徐々に崩れ、やがてそれは中肉中背の男の姿に変化していく。
驚いた表情を浮かべて自分の手や足元を見回すお客に、あたいは疑問を晴らしてやるように言葉をかける。
「とまぁこんな具合に、彼岸に咲く花に幽霊が宿ると、限りなく実体に近い身体を持てるようになるのさ。亡霊みたいな、ね。
さて、それじゃここいらでお別れだ。お前さんの生き様はなかなか面白かったよ。もっと色々聞きたかったねぇ。
短い舟旅だったのが惜しいことだ、なんて言ったらボスに怒られそうだけど」
溜息交じりのあたいの言葉を受けて、お客は少し申し訳なさそうに苦笑した。
おっといかん、彼岸に至った幽霊に変な未練を残したり残されたりするようでは本当に庁から解雇を言い渡されてしまう。
あたいは後ろ頭を掻きつつ慌てて言葉を取り繕う。
「いや、あ、まぁ……気にしないでくれ。軽いお世辞さ。お前さんはこれからが大変なんだ、些事にかまけている暇はないよ。
じゃ、縁があったらまた来世を終えた時に……あはは、随分と先の話だがね」
そしてあたいは再び櫂を動かし、彼岸から舟を離岸させた。これより一人、手持ち無沙汰な帰航が始まる。
と、そんなあたいの耳に、背後から少し大きな奇妙な音が届けられた。
しかし振り返ることはせず、ただその謝辞と思しき声なき声を受けて、片手のみを頭上に上げて大きく振ってみせた。
それからしばらくは幽霊が間をおかずに現われ続けたため、あたいは休む暇なく舟を漕いでいかなければならなかった。
しかし、あるところで来訪がぷっつりと途絶えた。その時点で数えてみると、今日の幽霊の数はそれ程多くはなかったことに気付く。
やれやれ、仕事が多くないのはありがたいことだが、この傾向が続くようであれば異変を疑う必要がある。
例えば、冥界の半人半霊とか天界の不良天人とかに幽霊が斬られてしまっている、とか。
はたまた、人魂灯で誰かが幽霊を一箇所に集めているとか。今はまだ秋の始めの頃だから、残暑払いにはもってこいの道具だろう――
ともかく、一日だけのことかもしれないのにあれこれと気を揉むのは馬鹿らしいと考え、あたいは仕事を切り上げることにした。
そうと決めるや、あたいは舟を賽の河原の岸辺まで寄せ、船尾を河原の上まで持ち上げた。
三途の川には流れがないため、別に舟を河に放置しても流さてしまうことはないのだが、あたいは習慣として舟を河と岸の境界に置くようにしている。
作業を終え、河原に打ち上げた舟をしばらくの間じっと見つめてからあたいは三途の川を後にした。
三途の川と妖怪の山との間にある道、それがこの中有の道だ。
この道は本来は川へ向かう死者が通過するだけのものだった。しかし是非曲直庁の財源を少しでも潤すために、商店や屋台が軒を連ねるようになった。
結果、この道には死者だけでなくお祭り好きな生者までもが訪れる、にぎやかな形へと変わっていった。
その人ごみ霊ごみ妖怪ごみの中を、弾幕遊びの時よろしくひょいひょいと抜けつつ、あたいは酒屋を目指した。
さほどの苦もなく、馴染みの店とそこの主人を見出す。
初老の男である店主はあたいの顔を見るなり、弾んだ声で接客を始めた。
「おお、これはこれは小野塚の……いらっしゃい。今日もいつものやつで? それともたまには別のものに鞍替えでも?」
「や、今日もいつものやつでお願いするよ」
「かしこまりました……とと、店頭からは失せちまってますね。ちょいとお待ちを。今、蔵から取って来ますんで」
店主は申し訳なさそうに頭を下げると、すぐさま踵を返して店の奥へ向かっていった。
戻ってくるまで手持ち無沙汰になったあたいは、店の中に飾られている一輪挿しの花瓶を見つめる。
そこには、彼岸の花畑でしか見られないはずの花が活けてあった。
中有の道で商店を営んでいる者達は、皆が皆、地獄に落とされてから罪を償ってきた者達ばかりだ。
ここはそういった者達の最後の試験場のようなものである。
ここでまっとうに商いを成功させ、また多くの者と縁を築けたとき、晴れて地獄から解放されて輪廻転生の道に戻れるのだ。
つまり、先程の店主も死人の身の上である。
そんな者が生者となんら変わりがない生活を営むことが出来ているのは、彼岸に咲く花をこうして花瓶に入れて持っているおかげなのである。
この花は定期的に彼岸から死神によって運ばれてきている。そして花が枯れる前に新しいものと取り替えてやっているのだ。
花を失った者は、生者の姿を保てず再び幽霊の姿になってしまう。このようにして、試験の途中で逃亡されることを防いでいた。
なお、彼岸では食事・睡眠・会話などはする必要性がないので出来ない状態になっている。これが此岸との大きな違いである。
「すいません、お待たせして。こちらでお間違いなく?」
あたいは一輪挿しから目を離し、店主の声がしてきた方を向く。そこには店主が、右手で一合徳利を持ち上げてあたいに示していた。
「ああ、それそれ。あと、ぐい飲みを貸してもらうよ。ほらあの、江戸切子のやつ」
「そう言うと思ってちゃんと用意してきましたよ」
「おお、気が利くねぇ。これもあたいとお前さんの縁の深さのなせる業、ってことかい」
「こっちこそ光栄ってなもんですよ。いつも贔屓にしてもらってて」
店主は愛想よく答えると、左手に持っていた切子ガラスのぐい飲みを、徳利の口を塞ぐように覆い被せ、他の酒が陳列されている棚に入れた。
そんな店主にあたいは酒代を渡す。
「それじゃあ、そうだね……徳利の右に銀貨を五枚、左に銅貨を二枚、それぞれ置いといてもらえるかい?」
「はい、毎度」
店主に渡った貨幣は、あたいの注文したとおりに積み上げられていく。
その様子をあたいはじっと見つめ、それから店主に別れを告げる。
「ありがとさん。今日は月下の彼岸花を肴にやろうと思ってね。また来るよ」
「はは、そりゃ粋なこって。どうぞ季節の風物と合わせて、うちの酒をご堪能あれ」
そしてあたいは手ぶらで酒屋を後にした。
幻想郷はそれほど広くはない。だから山といえば妖怪の山だけしか存在せず、森といえば魔法の森以外にはない。
しかし道といえば中有の道だけ、ということはない。妖怪獣道、再思の道、それから知る者は少ないが、地底には地獄の深道、旧地獄街道などがある。
そんな中の一つ、再思の道を抜けた先に、ここ無縁塚は存在する。
この場所は再思の道から続く彼岸花の群生地となっている。
だから秋の始めのこの時期には、彼岸花の歪な花弁がまるで燃え盛っているかのように、派手に仰々しく開いている様が見られる。
陽がそろそろ落ちかけていることもあいまって、夕陽に照らされる花はいっそう赤々と輝いていた。
そんな様子を眺めつつ、あたいは無縁塚に点々としている岩塊のうち、手ごろな大きさのものを見つけてそこに腰掛けた。
そして懐から金貨を一枚取り出し、親指の爪の上に乗せてから空中に弾き上げる。
回転しながら宙に上がるそれを、あたいは桜色の魔方陣で取り囲む。すると、金貨はその自転と跳躍を止め、宙に静止した。
「『脱魂の儀』」
あたいの「距離を操る程度の能力」を応用した術の名を呟き終える頃には、宙の金貨はぐい飲みで蓋をされた徳利に変化していた。
素早く手を伸ばして捕まえる。無事、手元に収まったそれらを両手で分かち、あたいは徳利を傾けてぐい飲みに酒を注いだ。
あたいの能力は基本的には目に付くものの距離を操ることだが、それ以外に位置を記憶しているものにも適用できる。
酒屋で徳利の両隣に貨幣を置いてもらったのは、その位置を思い出しやすくするための措置である。
その記憶を頼りに、ぐい飲み付きの徳利の位置と金貨一枚の位置とを『脱魂の儀』によって入れ替えたのだ。
今、銀貨と銅貨の間には金貨があるはずだ。その金貨は飲み終わった後で空の徳利と入れ替えるつもりである。
こうすることで、身軽なまま徘徊しつつ、好きな場所で酒を引き寄せることが出来るようにしているのだ。
彼岸花を観賞しながらぐい飲みを傾けつつ、あたいは寿命計算係の同僚が秋の無縁塚を敬遠していたことを思い出す。
もう少し暮れてくれば分かりやすくなるのだが、暗がりの中の彼岸花はロウソクを彷彿とさせるらしい。しかも膨大な数の。
その様が仕事場を嫌でも思い出させるから見たくないそうだ。
難儀な話だと思う、目に映るものを素直に愉しめないというのは。ましてやそれが美しいものであればなおさらのこと。
そのままあたいは月が昇る時間までスローペースで徳利を空けていった。
辺りはすっかり暗闇に包まれ、無縁塚の大地には花の咲いていない桜の樹の影が映るようになってきた。
月の光はそれらの間を埋めるように注がれていて、彼岸花の赤を照らし出している。
「さあここからが本番かな……と?」
そろそろ見ごろを迎えたというときになって、あたいは不審な音を耳に入れた。それは無縁仏がよく転がっている場所から響いてきたように思われる。
徳利とぐい飲みを傍らにおいて立ち上がると、今度は楽しそうな鼻歌が聞こえてきた。
いよいよもって怪しくなってきたと感じたあたいは、鎌を担いで音を立てぬように歩き出した。
桜の樹の密度が濃い場所を慎重に潜り抜けていくと、やがて草木のまばらな岩塊だらけの場所が木陰からはっきりと見えてきた。
今、その場所を見やすいように照らし出しているのは月の光だけではない。
赤や青の鬼火のような炎の塊が音もなく宙を揺らぎ、辺りを不気味に照らしていた。
それらを掲げているのは……なんと、妖精か? いや、ただの妖精ではない。死人のような青白い顔をして、額に細長い短冊を貼り付けている。
しかしそれがまた細いもので、鼻くらいしか隠せていない。よくよく見ると、それは一枚を四等分したスペルカードのようだった。
それが妖精の額に、まるで大陸の妖怪……何と言ったか、そうそう、キョンシーに貼り付けるお札のようにくっついていた。
確か、はるか西方の小島では妖精のことをシーと呼ぶらしいが、そういうセンスなのだろうかこれは?
あたいは鬼火と不気味な妖精の中に、それ以外の者の姿を見つけ、そちらをじっと観察する。
「夜~は墓場で運送業♪ 楽しいな、楽しいな、死体がいぃっぱい~……」
それは妙な歌を口ずさみつつ、軽やかなステップで無縁仏の傍に近寄る小娘の姿をしていた。
ただし並の小娘には見られないような外見上の特徴もいくつか目に付く。
――燃え盛る炎を思わせる赤髪を、三つ編みにして頭の左右から尻尾のように垂らしつつ、その付け根の上にはぴんと張った黒い耳殻。
――そしてキョンシーつながりなのか大陸風の衣装で身を包み、傍らには猫車を置いている。
なんとも、親切で分かりやすいことだ。こいつは地上ではめったにお目にかかれない妖怪だったが、その特徴のおかげで苦もなく名前を思い出せる。
火車。
悪行を積んだ罪人の亡骸を運ぶ猫の妖怪。元々は是非曲直庁で獄卒を務めていた鬼達のパートナーのようなものだった。
鬼は酒虫などの生き物を養殖したり品種改良したりする技術を持っており、火車も元々は火焔猫という動物を進化させたものだった。
だが庁の財政難のあおりを受けて、鬼や火車の多くは解雇を余儀なくされてしまった。
幸い職を失った鬼達は、地獄から切り離された地底都市を同胞が確保していたため、そこに移り住むことが出来た。
火車や火焔猫も一部は鬼が引き取っていった。あるいは、怨霊を管理する施設である地霊殿に住み着いたりすることで事なきを得た。
以上のように、火車は基本的には地底に住む妖怪のはずである。それがこうして地上の無縁塚で死体をあさっている。
確かにここ無縁塚は火車にとって絶好の狩場だろう。ここには孤立無縁の者、自殺者などの徳の低い者の死体が転がっているのだから。
あたいの見ている前で、火車が無縁仏に何か話しかけ、その亡骸から怨霊を導き出した。
そして猫なで声をかけつつ、怨霊をなだめるかのように頭部をさすっている。それが終わると死体を抱え上げて猫車の傍に運んでいった。
猫車の周囲には、なんと十を超える数の怨霊がふらふらと彷徨っていた。
「……ちょいと手を出しすぎだな」
あたいは聞かれない程度の小声を呟く。このまま放っておくと、今この場にある限りの無縁仏を持ち去られてしまうかもしれない。
徳の低い幽霊は火車に持ち去られるという摂理に対して、あたいは異議を唱えるつもりはない。
渡河の途中で三途に沈むのと、怨霊として灼熱地獄を彷徨うのとではどちらがマシか、判断がつきそうもないし。
しかし、流石にこの火車の貪欲さは目に余ると思う。
それにちょいと詰問しておきたいことも出てきた。今日の仕事量の少なさはこいつのおかげ……もとい、こいつの仕業かもしれない。
もしそうだとすると、軽く躾けておく必要がある。勝手に幽霊を成仏させた半人半霊や、遊び半分で幽霊を気質に変えた不良天人の時と同様に。
あたいは決意すると、懐からスペルカードを一枚取り出して準備を整えた。
「探し物はなんですか? 見つけにくいものですか? 草葉の陰も、桜の下も――」
「そこまでにしておいたらどうだい?」
「――って誰!?」
低く抑えられた声で呼びかけると、火車は暢気な歌を止めて誰何の声を上げる。
向こうの注目を引けたことを確認し、あたいは桜の樹の陰から姿を見せた。
すると火車は驚いたように口元を丸め、手で覆うような仕草をとる。
「あらららら、お姉さんひょっとして死神かい?」
「そうだよ、泣く子も黙る死神さ。お前さんは火車だね? 死体から出てくるはずの幽霊を、怨霊に変えてしまうっていう。
そのお前さんにちょいと訊きたいことがあるんだ」
「訊きたいことだって?」
剣呑なあたいの視線を受けてか、やや居心地悪そうに二、三歩退く火車。
とりあえずあたいは口元だけは緩めてみせる。もっとも、相手を安心させるような態度には程遠いだろうけど。
「なに、別にそう構えることはないよ。お前さんがまっとうに自分の仕事をやっているのならね。でもね、あたいには気になって仕方がないことがあるんだよ。
例えば今、お前さんが引き連れている怨霊の数はどうにも度が過ぎているように思えるんだ。
もしかしてまっとうな人生を送った奴の死体を奪ったんじゃ、とか生者から無理やり怨霊を引きずり出したんじゃ、とか勘繰ってしまうくらいにさ」
「ええっ? ないない、それはないよお姉さん。怨霊の数が多すぎるって言うけど、怨霊憑きのこの子らはあたいが地底から連れてきただけなんだ。
ちゃんと躾けてあるから、そのくらいは勘弁してよ」
火車はそう言って、焼けぼっくいのような黒い棒切れを持った妖精を指差した。その指を続けて、猫車付近を漂っている素の怨霊の方に向ける。
「で、あっちに漂っている怨霊は、一部はまぁ、ここで拾った子らだけど、大体は勝手に地上に出て行ったのを呼び戻してきた奴らばかりなのさ。
その、監督不行き届きに関しちゃ、悪かったとは思うけどね。どうもこの子ら、昔の一件でか、地上に惹かれていく悪い癖がついちゃってねぇ」
昔の一件という言葉を聞いてあたいはふと考え込む。確か……いつかの冬に起きた間欠泉の異変だろうか?
その頃のあたいは天候異変の不始末が祟って三途の川にカンヅメにされていたため、此岸の様子を知ることが出来なかった。
あとで聞いた話じゃ間欠泉と一緒に地底から怨霊が湧き出てきたということらしい。
怨霊の管理は地霊殿が請け負っている。となると、こいつは地霊殿に住む火車なのだろう。
地霊殿の者が地上に抜け出た怨霊を回収するというのは筋の通る話ではあるが……
「……嘘じゃあないだろうね? ふむ、ちょいと荒っぽくて悪いが、ボスと違ってあたいは嘘を見抜くにゃどうしても不器用にならざるを得ない。
なんとも、締まらない話さぁ!」
「わわ、なに!?」
「舟符『河の流れのように』」
あたいは火車の反応には気を留めず、スペルカードを前にかざして見せた。それから足元に落とし、下駄で踏みつけた。
すぐにあたいは『脱魂の儀』を鎌と下駄に対して作用させる。そして頭に浮かべるものは、賽の河原に打ち上げられている年代物の舟と櫂。
鎌と入れ替わった櫂を手に、下駄の代わりに舟を足元に敷く頃には、地面のスペルカードから水が勢いよく溢れ出していた。
その湧き上がった水を櫂で捉え、あたいは大きく後ろに振るった。
「ふっ!」
湧き出す水の勢いを借りて、あたいを乗せた舟は一気に火車の元まで突進する。
突然の攻撃に泡を食っていた火車だったが、立ち直るや素早く舟の舳先の向く方から退いた。そして猫車の方へ飛び跳ねていく。
今度は回避されたあたいの方が慌てる番だ。素早く舟と櫂に『脱魂の儀』を作用させ、遠く賽の河原にあるだろう鎌と下駄とに交換する。
その隙を火車は攻めなかった。どうやら向こうは不用意に事を荒立てるつもりはないらしい。ふむ。
「ちょ、ちょっと、いきなり何をするのさ! 危ないなぁ」
「すまないねぇ。あたいには過去の行いを映す鏡も、誰からも好かれない第三の目もないからね。
だからこうして事を荒立ててボロが出るかどうかを試してみなきゃあならない。ガサツなもんさ、笑っておくれよ」
後はもう問答無用とばかりに、あたいは鎌を大上段に構える。
それを見て火車の方も諦めたのか、溜息を一つ吐き、片腕を頭上に掲げて戦闘の構えを取った。
「ああもう、分からず屋だねぇお姉さんも。あたいの言いたいことはさっきので全部さ。付け加えることなんて何もない。
それでも信じないって言うんなら……どうなっても知らないよ!」
火車の言葉の切れと同時に、周囲の桜の木陰から何かが一斉に飛び出してきた。
それは杭状の黒い棒を振るって鬼火を撒き散らしてくる、怨霊憑きの妖精達。その数は……元々見えていた奴も合わせてなんと十六。
あたいは密かに目を見張った。確かにカード一枚につき四体の妖精を操れるとしたら、カードを増やせばそれ以上の操作が可能だろう。
それにしてもこの数は……などと暢気に考えている間に、予想以上のスピードで妖精達が迫ってくる。
あたいは頭上から急降下してきた妖精の攻撃を、後ろに飛び退くことで回避した。そのまま地面に刺さった黒い棒は、そこに赤い鬼火を灯す。
「オ燐ヲ虐メルナー」
退きつつ、あたいは妖精のそんな片言を耳に入れる。同様の主張は周りからも聞こえてきた。
「オ燐ハ悪クナイッ!」
「オ燐ハ嘘吐キジャナイゾ」
妖精達は口々に叫びつつ、あたいに向けた手のひらから巨大な球体を射出してきた。
一瞬あたいは焦るが、よく見ると軌道はこちらを真っ直ぐに狙ったものだと気付き、軽く身体を反らしていくことで対処する。
弾幕を無事くぐりぬけたあとで、あたいは周囲に素早く視線を巡らせて妖精達の包囲網を確認する。
見ると、妖精達は火車の前に、まるで擁護するかのように立ちはだかっていた。
――ほうほう、怨霊憑き妖精からは充分に慕われている、か。恨み言を吐くのみの存在とここまで深い縁を築くとは、普通では考えられない芸当だ。
だがこれもまだ身内の意見。もう一歩、足りない。
動きを止めたあたいに向けて、妖精達は黒い杭の先端を揃えて再びの一斉突撃を繰り出してきた。
一枚の壁のように隙間のない攻撃が凄まじいスピードであたいに迫ってくる。
猶予のない状況を前にして、あたいは急いで『脱魂の儀』を発動させた。今回の位置入れ替えの対象はそれぞれ――
「な、なんだいこのヘンな魔方陣は!? ぁ、さっきお姉さんの……」
お燐という名前らしい、火車と――あたい自身。
「『脱魂の儀』」
「あらら? え、うわ危なっ!」
「アレ?」「ワワッ」「ト、止マレー!」「撃チ方ヤメ! 撃チ方ヤメ!」「オ燐!?」
その結果、あたいに迫っていた妖精達の攻撃があわや火車に襲い掛かりそうになり、その一方であたいは全くの安全圏に避難していた。
そしてもう一つ、猫車付近の怨霊達に近付くという目的も果たせた。火車と妖精達が混乱している間に、あたいはこいつらの事情を尋ねる。
「さて、鬼の居ぬ間に証言の洗濯だ。お前さん達の多くは地底から抜け出してきた、ってのは本当かい?」
「ソウヨー本当ヨー」
「地上、風ガチョー気持チイー。温泉モアルシナ」
「ダカラオ外ガ恋シクナッタノ。デモオ燐ニ迷惑ダッタノ」
「スマネーゴメンネ面目ネー」
猫車の周りに漂っていた、素の怨霊の多くは口々にそんなことを伝えてくる。ここでもやはり、火車の言葉と食い違う意見は出てこない。
あたいは次に、猫車の傍に並べられている死体に目を向ける。その数は漂っている怨霊よりもはるかに少ないものだった。
先程は猫車の上空に漂う数多くの怨霊達にしか目が行っていなかったが、猫車の下にあった亡骸の数はそれとは一致していなかったらしい。
念のため怨霊達に確認を取ってみる。
「じゃあ、無縁仏だったってのは誰?」
「ワタシ」「ウチ!」「オレハ身体ハナイガ、ココデ拾ワレタナ」
こいつらの申告によると、ここにいる十体以上の怨霊のうち無縁仏だったのはほんの一握りということになる。それ以外は地底の出らしい。
これならば問題ないだろう。正常な輪廻転生は変わらぬ幽霊の量で安定する。多すぎても少なすぎてもいけない。
幽霊は、彼岸に送られる者、此岸に留まる者、消滅する者、そして地底にさらわれる者などがいるが、それらの数のバランスが取れていることが重要なのだ。
お燐とやらはそのバランスを乱さない火車であるとあたいは判断することにした。
「隙アリッ!」「モラッタ!」
「ちょ、ちょい待ちなよお前達!?」
背後から、怨霊憑きの妖精達と火車の叫びが上がった。あたいは首だけを振り向かせる。
そこには、あたいに向けて三度の突撃を行う妖精と、上空に上がって弾幕を撃ち下ろしてくる妖精の姿が見えた。それと火車の慌てたような表情も。
火車が妖精の行動を止めようとしたのは、自分の言葉を信じてもらえたと感じたからだろう。
理解が速くて助かると思うと同時に、こいつの観察眼をあたいも見習わなければならないな、とも思った。
「お姉さん、早くよけて!」
「心配は無用さ」
火車の警告を流しつつ、あたいは鎌を大上段に構え、少し霊力を込めながら袈裟斬りを行った。
振るった鎌は水面を一漕ぎしたときのように大地を切り裂く。
一瞬置いて、その切り口から間欠泉のような桜色の奔流が噴き上がった。それは一枚の分厚い壁となり、あたいの前に屹立した。
これぞ『無間の道』、その効果はというと――
「アッ、弾幕ガ……」
奔流の噴き上がりの勢いで妖精の弾幕をかき消すこと。そして――
「ウブ!」「ナニコレ、進メナイ」
突撃してきた妖精の進行を妨げること。『無間の道』を通り抜けようとした妖精達は、その動きを大いに鈍らされてしまう。
「復た燃ゆ死灰どもよ、鎮火せよ!」
直後、火車の叫び声が轟いた。それを受けて妖精達に変化が訪れる。
まず額に貼り付けられていたスペルカードの切れ端が一瞬で灰になった。そのせいか、妖精達の上半身がまるで糸の切れた人形のように前に傾く。
その身体から怨霊が飛び出していき、火車の掲げた片腕に吸い寄せられていく。
後に残された妖精の肉体は、死人のような青白いものから、普段見かけるような血の気のあるものに変化した。
危険が過ぎ去ったと感じたあたいは、鎌を肩に担いで火車を賞賛する。
「お見事。大した手際だねぇ。怨霊を自在に操れる火車なんて、昔はいなかった気がするけどなぁ」
「これも日々この子らとコミュニケーションを円滑にしてた賜物、ってね。それにしても……お姉さんも人が悪いなぁ。
怨霊達から話を聞きたかったんなら、そう言ってくれればよかったのに」
「ま、そこはそれ、色々と可能性は考えられるからね。怨霊を脅しつけて、都合の良い証言を得られるように根回ししていたとかさ。
ともあれ、完全にあたいの誤解だった。すまないね」
鎌を肩から下ろして刃を後ろに向け、あたいは深々と頭を下げた。
「……なんとも、疑り深いねぇ。いいよもう、頭を上げてよ、お姉さん。なんだかんだで、被害はなかったし。
お姉さんも最初のカード以降、攻撃はしてこなかったわけだしね」
「……まったく、よくもまぁ冷静に見ているもんだ。感心するよ」
「あはは、『見てた見てた聞いてたよ』ってね」
頭を上げたあたいに向けて、火車は快活に笑ってみせた。
あまり根に持たない、さっぱりした性格のようだ。好感が持てる……なんて、あたいはちょいと調子が良すぎるだろうか。
思わず後ろ頭を掻いた。
一悶着も過ぎ去り、改めてあたいは火車と向き合う。
「さて、まずはこちらから名乗ろうか。あたいは是非曲直庁の船頭、人呼んで三途の一級水先案内人、小野塚小町。
お前さんは……お燐、でいいのかな?」
「ああそうさ。本当は火焔猫なんて長ったらしい苗字がつくんだけどね。面倒だからお燐で通しているんだよ。
でもお姉さん、お姉さんにはもっと別の二つ名があるって聞いているけど? なんか、サボマイスタとかサボタージュの泰斗だとか」
「なっ! だ、誰がそんなことを言ってたんだい?」
「えっとね、紅白のお姉さんとか白黒のお姉さんとか。三途の船頭は仕事をしないことで有名だ、ってさ」
紅白に白黒……十中八九、博麗神社の巫女と霧雨の魔法使いのことだろう。
間欠泉の異変を解決しにいったときに、おそらく地霊殿の連中とも知り合ったと考えられる。
「……まぁいい。ところで一応訊いておきたいんだけど、お前さんは地上の幽霊の動向には興味はないよね?」
「そりゃ、あたいの獲物は死体だからねぇ。それも徳の低そうな奴から怨霊を引きずり出すことだし。
誰かに看取られながら抜け出た幽霊にゃ、食指が動かないのさ。だからお姉さん、心配しなくとも幽霊には手を出さないよ」
「いや、その……安心はしたけどね」
やはり知らないだろうな、此岸の幽霊の量なんて。ま、この問題に関しては気長に様子を見るとするか。
さてと、そういえばあたいは月見酒の途中だったっけ。ふむ、せっかくだし……
「ええと、お燐。さっきまであたいはここで彼岸花を肴に飲んでたんだけど、良かったら一緒にどうだい?
お詫びとお近づきのしるしだ。それに今の旧都や地霊殿がどうなっているか、話してくれるとありがたいねぇ」
「くー、良いねぇ! ……と言いたいところだけど、あたいは急ぎの仕事を抱えててね。これから死体を綺麗にしてやらないといけないんだぁ。
だから、ごめんねお姉さん。また今度誘ってよ」
「死体を綺麗に? ほう、最近の火車は随分とサービス精神旺盛じゃないか。いったい何をしてやるんだい?」
「んー、まぁ見ててよ。説明する時間ももったいなくてさぁ」
お燐は猫車の方に近寄り、やけに明るい声とともに布の覆いを取り払った。
「じゃじゃーん!」
そこに乗っていたのは亡骸ではなく、木箱や金属製の手桶、種々のガラス瓶。これを見ただけではあたいにはさっぱり分からない。
お燐はそれらの道具を猫車から下ろすと、その代わりに女の死体をそこに横たえた。
それから金物の手桶の中に、二つのガラス瓶の中身を注ぐ。片方は全部、もう片方は程々の量。
二種類の液体を良く混ぜてから、お燐は手桶の周りに鬼火をいくつか発生させた。そして手桶を温め、中身をぬるま湯に変える。
今度は清潔そうな白い布を木箱から出して、その温めた液体に浸し、それをきつく絞った。
そして死体を丁寧に拭いていく。顔、腕、胴、腰、脚……ついでに髪も。
「清拭……かい? その桶の中身は?」
「これ? お酒を蒸留させてきつくしたものに、水をちょいと混ぜたのさ。なんでもばい菌退治に丁度いいみたい。
死体ってのは簡単に腐っちゃうからね。せっかく綺麗なのが手に入ったとしても、そうなっちゃ台無しだ」
説明を交えつつ、お燐は淀みのない手つきで清拭を進めていく。
あらかた拭き終えると、今度は木箱から様々な化粧道具を取り出していった。
櫛で髪を整え、爪を切り、白粉を顔にまぶし、紅を唇に差す。
「髪はこんなもんでいいかい?」
「ウン、アトりぼんデ結ンデクレルト嬉シイ」
「はいよ」
そうやって作業を進めている間に、この身体の持ち主であった怨霊の要望を伺いつつ、修正していく。
死化粧、か。獄吏としての役割に就いていない火車は随分と親切な存在だったようだ。もっとも、状態の良い死体が欲しいということなのだろうが。
あたいはお燐の丁寧な仕事振りを眺めつつ、ふと稗田んとこの家の様子を思い出す。
あそこはたくさんの猫を飼っていた。そしてその猫達は、暇があったら自分あるいは仲間に対して毛づくろいをしていたように記憶している。
火車も妖怪とはいえ猫であることを考えると、猫というものの綺麗好きな一面を改めて垣間見た気がする。
「んー、化粧のノリが悪いねぇ。顔に脂が少ないからかな……ちょっと化粧に何か足してみよっか」
「オ願イー」
お燐は既に二体目に取り掛かっている。この手際ならすぐに終わるのではないだろうか?
「思ったよりも早く終わりそうじゃないか」
「いやいやお姉さん。さっさと地霊殿に持ち帰って本格的な処置を施さないと、死体の状態は保てないんだよ。
ここで出来るのはせいぜい運んでる間の見栄えを良くする程度でさ。余所行きの化粧ってやつかな」
「なんと、これで終わりじゃないのか。ふーむ、そうかい。仕方がないな、邪魔をしちゃ悪いし、あたいはそろそろ行くとするよ。
酒の席はまた改めて設けさせてもらおうか」
「ああ、うん。またね、死神のお姉さん。あたいは地上に来るときは大体博麗神社に寄ってるからさ。声かけるならそこに来てね」
化粧の最中、首だけをこちらに向けてお燐は別れを告げてくる。
それを背に受けて、あたいは無縁仏の眠る荒野から立ち去った。
あたいは再び、再思の道に繋がる彼岸花の群生地に戻ってきた。そこにはきちんと徳利とぐい飲みが残されていた。
岩塊に腰を下ろし、一人酒盛りを再開する。
ただ、さっきまでとは違って、徳利を空けるペースが落ちてしまっている。
というのも、お燐と出会ってその仕事振りを目にしてからというもの、あたいの頭は一つのことで占められてしまったのだ。
「肉体、か……確かに、庁の管轄ではないことだなぁ。あたいらにとって重要なのは、徳の高い魂なんだよねぇ。
ま、亡骸は基本的に縁者に遺すもんだからねぇ。でも、無縁仏にゃ何も残らない。遺す物も、遺される者もない。
なんとも、無残な話、と」
酒で口の滑りは良くなったためか、あたいは独り言を呟く。
何に酔ってしまったのか知らないが、死神らしからぬ事を考えているとは思う。
自分達の仕事は死後の魂の選定であって、死後の肉体を気にかける必要はないというのに。
死後、その肉体を気にかけてくれる者をどれだけ作れるか、それはその者の生き様に委ねられているのだ。
「でも、まぁ、見てしまったからねぇ」
しかし、それが上手くいかなかった無縁仏の亡骸にも、ある意味真摯に向き合っている者がいたのだ。
そういう者を目の当たりにして、あたいは少し心を揺らがせる。
ただただ庁の走狗として仕事を淡々とこなしていく。そんな自分で果たしてよいものかどうか、疑問を抱いてしまった。
自分にも何かしてやれることはないだろうかと、あたいは焦点の合っていない視線を前に向ける。
しばらくそうした後、あたいはぐい飲みを一気に傾け、大きく溜息を吐いた。
ここで答えの出ないことに囚われすぎてもよくない。考えすぎた結果、自らの首を絞めてしまう愚者にはなりたくないものだ。
あたいは視線を月下の彼岸花に転じる。丁度それと同時に、一陣の風が無縁塚を吹き抜けていった。
闇夜に灯された仄かな赤が一斉にその身を揺らす。そんな中、花の赤や緑とは異なる色を見つけたため、あたいはそこに注目した。
「なんだ、いたのか……花の中に埋もれていたんじゃ、気付けなくても仕方がないけどねぇ」
風に遊ばれる花の中に隠れていたのは、青白い光を放つ幽霊だった。
彼岸花と幽霊の組み合わせはあたいにいつかの異変を思い起こさせた。
あの時は外の世界から幽霊が大量に流れ着き、行き場のない幽霊達は花を咲かせてそこに宿ることで、その身を落ち着かせていた。
「……ん? 待てよ、ということは……」
何か頭に引っかかる感覚を覚え、あたいは立ち上がって周りを見回した。あるものは変わらず、群生する彼岸花。
しかし、これらの彼岸花はいつからこれだけ繁茂していたのだろう? そもそも、誰がこの再思の道に彼岸花を植えていったのか?
「はは、そういうことか……『彼岸花には友人のいない寂しい霊が宿る』でしたっけ、四季さま?
ちゃんと形に残るものはあったってわけか」
ここに群生している彼岸花は、おそらくは無縁仏の霊が咲かせていったものなのだろう。
何者にも顧みられることのない幽霊達のために、彼岸花はそれらのいた証として、ここに咲き誇っているのだ。
彼岸花は地下の球根が分裂することで数を増やしていくものだと聞いたことがある。
だとすると無縁仏の幽霊が増えるたびに、ここの花は少しずつ株分けされていったに違いない。
「なんだ、あたいが気を揉まずとも、それなりに至れり尽くせりだったわけなんだなぁ。
……まぁでもそういうことなら、ちょっとしたお節介を焼くこともできるね」
あたいは懐の中を探し、四枚の『気質発現』のカードを取り出した。
それを重ねてから頭上に思いっきり投げ上げる。そこに拍車をかけるように、あたいは鎌を頭上に掲げ、両手で回転させて旋風を巻き起こした。
この『死出の風』を受けて、カードははるか上空に巻き上げられていく。
雲と同じ高さまで上がったところで、カードはその秘められた気質を解放する。
あたいの気質、すなわち『川霧』は瞬く間に上空を埋め尽くし、そこに雨雲を発生させた。
「黄泉中有は旅の雨。再思に降るは清めの雨、といきたいところだな。さてと、降ってくる前に……」
何も自分が濡れる必要はないので、あたいは『脱魂の儀』で鎌を番傘と交換した。これは自宅に置いていたものである。
折良く、雨が降る前に傘を開くことが出来た。そして雨はあたいの周りを除く無縁塚の地を潤していく。無論、そこを覆っている彼岸花も。
無縁仏の墓標に等しいこの花に水を注ぐこと、それが今のあたいに出来るささやかな手向けだ。
細やかな配慮の行き届いているお燐とは違い、随分と大雑把なもんだという自嘲は覚えなくもないが。
「月の頃に闇と雨、というのは夏の風物詩だったか。ま、勘弁してもらおうか」
花弁に雫を飾る彼岸花を見つめながら、あたいはカードの生み出す気質が枯れるまでの間、そこに立ち尽くし続けた。
願わくは、灼熱地獄を彷徨い続けねばならない難儀な怨霊達に、せめてもの潤いが届かんことを――
――後日。
あたいはお燐との約束を果たすために、人里を訪れていた。
酒を酌み交わすのに選んだ場所は、最近彼岸に送った幽霊が営んでいた蕎麦屋。
ここは居酒屋としての役割も兼ねており、夜になれば人間だけでなく妖怪も普通に訪れてくる。
ちなみに、店の裏にはごく普通の飯屋が立っていた。
「や、お姉さんお久しぶり~。……あらら、なんだか疲れた顔をしているねぇ」
先に店で待っていたあたいを見つけたお燐は、親しみを込めた声で挨拶してきた。
ご指摘にあったとおり、あたいは苦い笑いを浮かべて挨拶を返す。
「いや、あ、まぁ……ここのところお客が大挙して押し寄せてきててね。働きづめだったんだよ。
本当はまだ仕事が残っているんだが、休憩と気分転換のためにお前さんを呼んだのさ。
早いところ約束も果たさなきゃいけないと思っていたしね」
結局、お燐と出会う丁度前に感じた幽霊の少なさは一時的なことで、それ以降の幽霊の来訪数は例年通りだった。
まったく、長いこと三途で船頭をやっているが、お客の数だけはいつだって読めたためしがない。
寿命計算係といい、死神というやつは常に数の変動に振り回されている種族なのだろうかと、ぼやきの一つも出てくるもんだ。
「あはははは、そうかいそうかい。じゃあ今夜は仕事を忘れるくらい飲んだくれるといいさ! せっかくの地上からのお誘いだ、とことん付き合うよ~」
「おお、ありがたいねぇ。では前にも言ったとおり、お詫びも兼ねての酒の席だ。お前さんの好きなものをどんどん頼んでくれ。
お代はあたいが持つからね」
「本当かい? くー、お姉さんは気前が良いねぇ!」
目を輝かせてこちらを囃し立て、お燐はさっそく品書きに目を通し始めた。
その間にあたいは手の空いた店の給仕を探し、声をかける。幸い、すぐに見つけることができた。
「らっしゃい! ご注文はお決まりでしょうか? まずはお酒から伺いますか?」
「そうだねぇ……蕎麦焼酎『入道・雲海』を。後はヤキトリを適当に。それとおでんかな。
で、だ。ざる蕎麦を一枚」
「はいはい。そっちの妖怪さんは?」
「あたい? じゃあ……お酒はもうお姉さんが頼んでくれてるから、あたいにはアジの開き、だし巻き卵、お造りを頂戴よ。
それとお蕎麦は温かいかけ蕎麦ね」
「承りましたァ!」
給仕の若いのは威勢良く応じると、一礼して立ち去っていった。
客の歓声が周囲から響いてくる中、あたいはさっき疑問に思ったことをお燐に尋ねることにした。
「ところで、温かいやつで良かったのかい? お前さん、猫だろうに」
「ちょっとお姉さん、あたいは猫といっても灼熱地獄で暮らしている身の上だよ? そんなあたいが猫舌だなんて格好がつかないじゃない」
「ほほう、そういうもんなのか」
「お待たせしました!」
などと軽い雑談を交わしている間に、頼んでいたものの一部が届けられてきた。
さて、では蕎麦をすする前に軽く一献と行こうか。蕎麦前は日本酒のことなんだけど、と心中で物申しつつ、あたいは焼酎徳利を二度傾ける。
そして片方の杯をお燐に渡した。
「ありがと。じゃあ、乾杯といこうかい、お姉さん?」
「そうだねぇ……昔は古巣を共にした者同士の、久々の再会を祝って、乾杯!」
杯同士が宙で小気味の良い音を立てた。
「……あたいら庁の者はねぇ、徳が低いまま逝っちまった幽霊には手を差し伸べてはやれないんだよ。
だから生きているうち、縁も築けりゃ善行も積めるうちに、あたいは自殺を止めに入るし、四季さまは口うるさく有難い説教を賜るのさぁ。
死んだ後じゃあどうにもならない、『死ねば死に損 生くれば生き得』なのさ、冷徹なまでに」
蕎麦をすする。串を頬張る。そして一献。その後に長々とした愚痴。
「あはは、お姉さんは絡み酒のタイプだったんだね。いいよいいよ、じゃんじゃん愚痴っちゃって。
あたいは恨み言や愚痴を聞くのが大好きなのさ。こう、人の不幸話を聞いていると舌の裏にえも言われぬほど甘い蜜の味がして……堪らなくてねぇ。
だからさ、お姉さん。あたいを不満の元凶だと思ってさ、もうこの際心の中にたまっている事を洗いざらい喋っちゃいなよ」
凄艶な笑みを浮かべて杯を傾け、唇から離す前に端を一舐めするお燐。
妖怪らしい表情もできるもんだと軽く目を見張りつつ、あたいは酔いに任せて思ったことを打ち明ける。
「あ~、お前さんは、なんというか……本当に綺麗好きなんだなぁ。そうやって怨霊達の恨み言を一身に受け続けてきたわけか。
で、腹ん中の穢いもんを思う存分吐き出させて、すっきりした心地を残してやろうということだろう。逆にお前さんの方は甘い汁が吸えて損はない。
いやはや、お前さんの仕事ぶりは大したもんだと思うよ、うん、うん」
大仰すぎるほどに二、三度首肯。それからまた一献。どうも、かなり酒が回っているんじゃないだろうか、あたい。
伏し目がちになった目でお燐を見ると、そこには据わった目をこちらに向けてくる、赤く染まった顔があった。
「……お姉さん、相当酒にやられちゃってるねぇ。判断力がおかしくなってるんじゃない~? これ、何本に見える?」
「どれどれ? 一、にぃ……おお、数え切れんほど……! 四季さま~、針千本は勘弁して下さい~。あたい、もう嘘はつきませんから~」
「駄目だねぇ、こりゃ。あはははは、ま、酔っ払いとはいえそんな風に考える奴がいるとは、世の中面白いもんだねぇ」
お燐が何か呟きつつ、かけ蕎麦をすする様子を見て、あたいは騒ぐのを止めた。本当に平気なんだねぇと思いつつあたいも蕎麦をすする。
うむ、確かに紅魔館の連中が認めた理由もよく分かる。そういえばこの店の話はまだしていなかったな。なら――
そうやってあたい達は種々様々に題目を変えつつ、夜がとっぷりと更け行くまで他愛もない対話に花を咲かせ続けた。
人情味あふれる江戸っ子風な小町とお燐の小粋な会話は、それだけで雰囲気、リズムがつきますね。
二人と酒が飲みたいな…
スッキリとしてて読み安く、とても面白いお話でした。
お燐もそうなのでしょうけど、小町の会話や語り部として作り出す雰囲気や
場が明るくなるような感じは彼女たちが持つ魅力なのでしょうねぇ。
ちょっと前に白氏の書いた、お燐と小町のバトル物を思い出しましたが、
それとはまた違った切り口で、楽しめました、はい。
>ちなみに、店の裏にはごく普通の飯屋が立っていた。
表は蕎麦屋、うらめしや~、ですね、わかりますwww
小町は存外老成しちゃってますよねww
あとはチルノ参戦希望…!
しっかりとした描写が、二人の出会いとその後の展開を素敵なものにしていると思います。