Prologue
仕立て屋さんのかぞくがいました。
優しい夫婦に、可愛いむすめがひとり。
夫婦はとてもはたらきものでした。
可愛いむすめのために、たくさんのお洋服をつくって、たくさん売りました。
けれどもむすめは怠け者でした。
いつもいつも好きなことばかりをして、ちっともお手伝いをしません。
がまんができなくなったお母さんは、むすめをお外に出してしまいました。
鍵をかけて締め出してしまいました。
お父さんはかわいそうに思って、まどからパンを投げてあげました。
むすめはそれを食べていいました。スープも欲しいといいました。
お父さんはいうとおりに、瓶につめてスープをあげました。
むすめは今度は、あたたかい毛布が欲しいといいました。
お父さんは毛布をなげてあげました。
むすめは今度は、おかねがほしいといいました。
おとうさんは皮の袋にあるだけのお金をつめて、娘になげてあげました。
むすめは今度は、おうちに入れて欲しいといいました。
でも、どうしても入れてもらえませんでした。
むすめは毛布にくるまって、そのまま眠ってしまいました。
むすめが朝おきると、おうちが綺麗さっぱりなくなっていました。
むすめは泣きながらおうちを探しました。
でも、どこにも見つかりません。
Ⅰ
図書館には独特の匂いが充満する。古書に蓄積されたカビに因るものだ。放っておいては本の傷みを促進するばかりだから、換気は定期的に行われている。この図書館の誇る圧倒的な物量の前では、気休めにもならなかったのだが。
本棚は荘厳な塔かなにかを思わせた。ちょっとした脚立程度では役に立ちそうもない高さを誇っている。それだけの規模でもまだ足りないのか、本棚の列のちょっとした隙間、そこにも本の山が出来ている。
紙に紐を通しただけの簡単な造りの冊子から、大袈裟な装丁に頑丈な紙をあしらった逸品まで、なんでもありといった様子だ。一見乱雑に積まれているだけのようだが、それらの山のどれもが、すぐ傍にある安楽椅子から手が届くように置かれていた。
椅子には図書館の主・パチュリー・ノーレッジが掛けている。遠めには微動だにしていないように見えて、その手と、紫の瞳だけが忙しく動いていた。
通読したとすら思えない速さで、パチュリーは分厚い書籍を読み終える。ミミズの生態と天体の運動について事細かに述べられた資料だった。どちらも懇切丁寧な論が展開されている。見事なものだった。しかし、その二つがどう関係あるのかについては、最後まで述べられなかった。それが残念だと端的な感想を抱いてから、パチュリーは本を閉じる。
本が彼女の手を離れた。淡い光りに包まれて浮かんで、そのまま本棚目がけて飛んでいった。
「相変わらず大袈裟ね」
その光景を見届けてから、人形遣い、アリス・マーガトロイドが声をかけた。今しがたパチュリーが本に与えた魔法のことを言っているのだろう。読み終えた本には、必ずこの魔法が施された。施術された本は、あるべき場所から動かされるとパチュリーに警鐘を送る。要するに防犯装置だった。
「必要だからよ」
パチュリーが答える。近頃はなんだか物騒だから、と言い足した。ページを捲る手を止める様子は無い。
アリスは人形に取り巻かれていた。並んで歩く物から、顔の近くで浮かぶ物、肩に座っている物まで、思い思いの場所におさまっている。
その内の一つに、何か指示するような手振りをして見せた。人形はふらりと本棚へ飛んで、黒い背表紙の本を取り出す。アリスはそれを受け取った。
防犯装置がその役目を発揮して、パチュリーの頭へ警鐘を送る。ベルのような透き通った音が響いて、すぐに消えた。その音から、パチュリーはアリスが取り出した本の内容を思い出す。あれは確か、ごまんとある幻想郷の成り立ちについて書かれた本の一つだ。ご多分に漏れず、著者の妄想と言って差し支えない内容が展開されていた、という感想も合わせて思い出した。
「このところよく来るのね」
最後にアリスが訪れたのは、十日前、もっと最近だったろうか。忘れた頃にやってくる、といった具合だ。
「そんな速さで中身が理解出来るものかしら」
興味の無い目でページを捲りながら、アリスはパチュリーの指摘に素知らぬ顔をする。幻想郷では別にめずらしくもない返答のやり方だった。
「大体分かるわ」
「せっかく読んでも忘れてしまうでしょう」
「古いものからね」
最近、といっても人間の一生が始まって終わる程はある時間のことだが、パチュリーには自分の頭のそういう仕組みが分かってきた。新しいものを入れると、古いものが追い出されるようにして出ていってしまう。どうやらそういう分かり易い機能があるらしい。そんなことを書いた本を大昔に読んだ気がしていた。はっきりとは思い出せないから、きっと追い出される寸前の記憶なのだろう。
こんな短い会話の間にも、パチュリーは既に一冊読み終えてしまっている。絶対に破れない紙の製法について書かれた指南書だった。この上なく頑丈には出来るが永久に保存することは不可能である、といった事が結論の章に書いてあった。タイトルを書き直すべきだ。そう思った。
「よく来るとは言ってもね」
少々遅れてアリスが答える。
「こんな所に来る顔ぶれなんて、たかが知れてるじゃない」
「ええ」
「魔法使いと」
「泥棒ね」
二人はそこで、顔を合わせて笑った。
Ⅱ
図書館は館の併設物だった。館の名は紅魔館。所有者はレミリア・スカーレット、正真正銘の吸血鬼だ。
誰の趣味なのかは分からないが、紅魔館は幻想郷の建物の中では意匠がかった造りをしている。二階から突き出たテラスなどはその象徴だった。よほど気に入っているのか、レミリアは好ましい客が訪れると、決まってここへ招いた。
時刻は昼過ぎで、白を基調としたテラスに明るい日差しが伸びていた。
「めずらしいな」
テラスに現れた二人組みに、霧雨魔理沙が真っ先に声をかけた。
「めずらしい組み合わせだ」
「めずらしかないわよ」
すぐ傍から声が上がる。
「魔法使い二人じゃない。巫女と魔法使いの組み合わせの方が、よっぽどめずらしいわ」
口を挟んだのは神社の巫女、博麗霊夢だった。
「そういうことを言ったんじゃないんだけどな」
魔法使いのくせに、やけに屈託の無い笑顔を見せるのが特徴的だった。
そんな遣り取りを見てから、パチュリーとアリスがそれぞれの椅子に座った。予約されていたかのように、それで空席は無くなった。
テラスには館の主と客が四人いた。簡単な茶会の用意が既に整えられている。
レミリアが笑って、ようこそ、とだけ言った。どこか含みのある顔だが、彼女達には見慣れたものだった。
それからは暫しの歓談。見た目とは裏腹に少女らしい明るい声は聞こえてこない。今年の蕗は咲くのが遅かった割にさっさと散ってしまっただとか、カエルは圧迫すると内臓を出して威嚇するだとか、辛気臭い話題ばかりだ。
「あの神社のカエルはどうなんだろうな?」
「出来てもおかしくはないわね。可笑しいけど」
どこか調子の外れた会話が続く。パチュリーは手元の本の行を追いながら、片手間にそれを聞いていた。図書館にいる時とは違い、ページを捲る手はずい分と穏やかだった。一冊しか持ってきていなかったから、一文ずつ咀嚼するように読んだ。必要に迫られての速さだったが、それだけの価値はある本を選んで来たつもりだ。
「羨ましいもんだぜ」
「なによ」
「特技だよ。奇跡を起こしたり、信仰を集めたり、内蔵を出したり」
「飛んだり避けたりしてるばっかりじゃなくて、魔法使いらしく館に篭って新技でも編み出せばいいじゃない」
「努力と修行と研鑽と訓練は苦手でな」
だいたい全部同じ事じゃない、とパチュリーは思った。しかし黙っていた。分かって言ってるんだから、おそらく。
二人が黙ると、途端に静寂が訪れた。べつに居心地の悪いものではない。そういう時間を楽しめるだけの余裕が彼女達にはあった。
「さて」
魔理沙が何かを思いついて、カップを置いた。中身はほとんど空で、飲み残しが少し覗いている。
「余興は無いのか?」
「藪から棒に」とアリスが言った。
「そういうのは言い出しっぺからやるものよ」
それが、霊夢の理屈であるらしい。
「そうだなあ」
魔理沙は少し考える。
「――お前が一杯淹れてもらって、それを飲み干す間に幻想郷を一周してきてやろうか」
「別に面白そうでもないし」と言って霊夢が肩をすくめる。「確認のしようがないわ」
「水平線を超えてしまったら、いくらでも近道が出来るわね」
パチュリーが瞳を動かさずに言った。いい加減に聞きながらも、魔理沙の目論見を看破しきっていた。
「揃いも揃ってノリが悪すぎるな」
魔理沙が呆れたように言った。それから品定めをするように瞳を移していく。やがて一人のところで止まった。
「わたし?」
アリスが視線に気付いた。
「余興向けじゃないか」
魔理沙はそう言って、アリスの足元を指す。人形が一群、行儀よく座っていた。
「その人形は飾りかい?」
魔理沙がいやらしい目つきをした。それから暫く、二人は無言で視線を交錯させる。
「――はぁ」
アリスが諦めと不平の混じった溜息をついた。
「やればいいんでしょう」
余興になるかどうかは保証しないけど、と言い放って立ち上がった。
みんな、と足元に声をかける。パチュリーはそれを分厚い本越しに見た。
アリスが軽く手を叩くと、人形達が動き出した。どれも緩慢な動きで、パチュリーにはそれが不満を表しているように思えた。操り主の心境を反映しているのだろうか。想像力が働いてしまっているだけかもしれなかったが。
「あれを演って」
そんな簡単な命令を受けた途端、人形達の動きが機敏になった。
テラスの少し開けたスペースへ移動して、一列に整列する。そこがステージとなった。まずは全員揃って礼儀正しくお辞儀をする。開演前の挨拶をしているのだろう。並んだ人形は、七体。歓迎の拍手は無い。
それから暫く、いかにも芝居がかった踊りが披露された。人形達の見た目と相まって華美なものだったが、動きにはどこか固さが拭えない。操り主のセンスの顕れなのだろうか。
開演の宴が終わると、人形が一体前に出た。そこへ別の人形が勢いよく飛び出る。二体はせめぎ合うような動きをして、やがて片方が倒れた。そしてそのまま動かなくなった。
大人しく観客となっていた霊夢から「あ、やられた」という声。
倒れた人形のところへ残りの人形が殺到して、手際よく運んでいった。運ばれた先で、動かない人形が囲まれている。人形はどれも同じ平坦な顔だが、心配しているように見えなくもない。
「これが余興?」
レミリアがいかにも不満げに漏らした。彼女は主催者であるが故に、こうしたイベントには高い出席率を誇っていたが、どちらかというと黙って眺めていることが多い。それが威厳の表現だと考えている節があった。
「劇をやってるみたいだけど」霊夢も言う。「語り部がいないんじゃね」
「想像しろってことじゃないか?」と魔理沙が言った。
「それは面白いわ」魔法使いの思いつきに乗じて、レミリアが口火を切った。「あの人形は死んでいるのね」
「殺したのは掴みかかった人形。被害者の姑ね」
「周りのやつは石を投げているんだな」
「そそのかしたのは姑の愛人」
「食べ物の恨みは恐ろしいわ」
「ペットを殺されたからに決まってるじゃない」
「ただの通り魔かもしれないぜ」
三人が好き勝手にストーリーを当てはめていく。当然ながら何の一貫性も無い、支離滅裂なものだった。彼女達の妄想とはおかまいなしに無言の人形劇は続く。
場面が変わったのだろうか、今では人形それぞれに役目があるかのように、ばらばらの動きをしていた。役の内容は想像もつかない。
パチュリーは彼女達の妄想には参加しない。片手間に見聞きしながらも、ペースを落とさず着実に読み進めていく。本の内容は核心へと迫っていた。人形劇よりもはるかに、目前に並ぶ文章に心奪われていた。筆者の息遣いが聞こえてくるようだった。自然とページを捲る手に力が篭る。
幻想郷の住人は総じて飽きっぽく、気まぐれだ。ゆえに、無言の人形劇に彼女達を引き寄せるだけの力は無いようだった。
いつの間にか妄想の応酬は止んで、観客のいない無言の人形劇がひっそり続くだけになっていた。一時の喧騒と一時の静寂を繰り返す内に、テーブルに置かれた紅茶も甘味も気付いたら姿を消している。彼女達の普段の茶会とは、そういうものだった。
「それにしても器用なもんだな」魔理沙が言う。取ってつけたような感心の響きが見え隠れしていた。
「私じゃこうはいかないぜ」といって寝ている人形をひとつ、摘み上げた。
「ちょっと」
よほど集中が必要なのか、余興を始めてからずっと無言だったアリスが口を開いた。
「まだ途中よ」
「やらせといて、なんだけどな」魔理沙がテラスを見渡す。「潮時じゃないか?」
実際その場の誰もが既に興味を失っていて、思い思いの行動に耽っていた。レミリアは熱心に霊夢に話しかけている。霊夢はそれを適当に受け流す。人一倍不真面目に人の話を聞くというのに、話し相手として霊夢はレミリアのお気に入りだった。
「返してよ」
「どうなってるのか興味が出てきたぜ」摘み上げた人形をジロジロ眺めている。
「バラしていいかな?」
「お断りするわ」
「関節を外すだけだって、何も粉々にするとは言ってない。ちゃんと元通りにするから」
アリスは無視して人形を取り戻そうとする。
そこへ、新たな人影がテラスに現れた。
影はレミリアの使い魔だった。見覚えはあるが、パチュリーはその名前を知らない。入ってくるなり真っ直ぐレミリアへ近づいて何か小声で話している。姿勢を変えぬまま、レミリアは黙ってそれを聞いた。
「面白いことが起きたみたい」
テラス全体に告知するようにレミリアが言った。
「なによ」霊夢が訝しむ。幻想郷でいう面白いこと、とは大抵面倒なものだ。
「咲夜が失踪したわ」
見つからないだけです、と使い魔が抗議するように言うのが聞こえた。同じ事じゃないか、とパチュリーはまた思った。まぁ、上司に使われる言葉としては不適当だったのかもしれない。
「そいつは面白いな」魔理沙が箒を手に取る。
「どこいくのよ」アリスが咎めた。
「探しものには自信がある」
どこまで探しに行くつもりだろう、とパチュリーは考える。まさか屋敷中をあの箒で飛び回るつもりだろうか。はた迷惑な光景だった。
そんなことを考えている内に、魔理沙は飛び立ってしまっていた。大空へ向かって、箒に乗って。魔理沙にとって咲夜とは、めずらしい鳥か何かなのだろうか。少なくともその方角には居ないだろう。いつものことか。パチュリーはそう納得することにした。
あらかた調べたが、地下の倉庫だけが開かない。鍵は咲夜だけが持っていて調べようがない、というのが使い魔の言うところだった。
「地下に倉庫なんてあったのね」短くない時間をここで過ごしているだろうに、レミリアは自分の館の事を把握しきっていないようだった。
地下か、とパチュリーはその場所を思う。紅魔館の地下は魔法使いにとって余り居心地の良い場所ではない。魔力を構成する源というのか、魔法使いにとっての根幹が希薄になるのだ。
半世紀ほど前に読んだ本には、湖を中心にして、そういう性質を持つ土壌が広がっているといった事が書かれていた。つい最近必要に迫られて入ったことがあったが、あの全身を真綿で締め付けられているような感覚は、出来れば二度と味わいたくなかった。
「行ってみましょう」レミリアが立ち上がる。
「行ってらっしゃい」
霊夢はひらひらと手を振っている。やっかい事の気配に対して、この巫女の嗅覚は鋭い。ここ最近の経験によって培われたものだった。
「面倒が嫌なら、ついてくることね」
レミリアが言った。心なしか、口元が普段より歪んでいる。こういう時の彼女は決まって思わせぶりな事を言う。パチュリーの予感は当たった。
「そういうことに、なっているのだから」
「どういうことよ」
「言葉通りよ」
ぜんぜんわかんないわ、と言って霊夢がカップを置いた。渋々といった様子で席を立つ。ふと、パチュリーはごく近いところから視線を感じた。アリスからのものだった。
「――行かないの?」
「気が乗らないけど」
レミィがそう言うのだからきっとそういうことなのだろう、とパチュリーは納得することにした。あと数ページを残すのみだったが、この場で読破することは諦めて本を閉じる。
結局ぞろぞろと地下へ赴くことになった。誰も彼も緩慢な動きだった。
一人のメイドの身に、何か重大なことが起こっているかもしれないというのに。
Ⅲ
「本当、いやな感じね」
アリスが言った。パチュリーも同じ感想だった。階段を一歩下りる度に、その感覚は水位を増して迫ってきた。今では肩まで浸かってしまって水没寸前だ。出来うることなら早いところ引き返して地上に戻りたかった。
「ここね」
初めて来たわ、とレミリアは言う。パチュリーにも見覚えのない場所だった。倉庫というわりには、ごく当たり障りの無い形のドアをしている。その他大勢の部屋のドアと何ら違いは見当たらない。もっと厳めしい重厚なドアを想像していた。館に住む、もう一人の吸血鬼の部屋に備わっているような。
「確かに開かないわ」
気ぜわしく霊夢がノブを回している。放っておいたら力任せに開けてしまいそうな勢いだった。
「他はもう全部調べたの?」
パチュリーはそう尋ねた。見落としがあって、どこかその辺りからふらりと出てこられでもしたら、全員まとめてとんだ骨折り損だ。
はい、と使い魔が答えた。調べられる場所はおおよそ調べたらしい。
「ここに居ないなら、外に出てるんじゃないの」と霊夢が言った。
「何も聞いてないわ」レミリアがその可能性を否定する。「何も言いつけてないし、ありえないわね」
「なら、家出したんじゃないの」
霊夢は結論を急いでいるように見えた。
「こき使ってるようだし」
「それを否定はしないけど、強制はしていないつもりよ」
レミリアがドアの向こうに声をかける。
「咲夜? いるの?」
返事は無い。
「ドア、壊したちゃったら」
アリスが手っ取り早い方法を提案した。この魔法使いも、たまに物騒な事を言う。それとも魔法使いという種族自体がそういうものなのだろうか。自分は、多分違う。パチュリーはそう信じたかった。
「咲夜に戻させれば済む話だしね」
便利で羨ましいわ、と霊夢が軽い口調で言って、ドアに近づく。まじまじとドアを眺めてから、ただならぬ構えを見せた。
「人の家を壊すってのも、なんだかオツね」
霊夢の手が光りを纏う。魔法使いの持つそれとは若干異なる仕組みで、巫力といっただろうか。この巫女は奇妙なやる気に満ち溢れていた。地下の空気は巫女に影響しないらしい。パチュリーは少し羨ましかった。
(…………?)
パチュリーは違和感を感じていた。館の地下そのものが持つ嫌な感じとは、また違う。なにかおかしい。いや、おかしかった。
「――今なにか」気付いたら口に出していた。
「どうしたの?」アリスが怪訝な顔をする。
「なにか、不自然じゃなかった?」
「私は何も感じなかったけど」
「今の状況自体が十分過ぎるほど不自然よ」
霊夢はよほど集中しているのか、やけに早口だった。
「レミィは?」
「さあ……、どうかしら」と笑っていた。
何かが違っている。いや違っていた? 、と自問を繰り返す。微かなものだが、違和感は確かにあった。この地下の空気のせいだろうか。なんだか朧ろげで把握しきれなかった。
レミリアは自分の家が破壊されかけているのを、咎めもせずに見ている。霊夢の乱暴な理屈に納得してしまっているようだった。少々億劫だけど私に頼めば開けてあげるのに、とパチュリーは少し不満だった。もっとも、霊夢は既に取り返しがつかない段階まで体勢を整えていて、それを伝える暇は無かった。
充分過ぎる貯め時間を経て、轟音が響いた。一瞬、館全体が振動する。木材や金具が飛び交う派手な光景が、それに続いた。あまりの派手さに崩落する地下の光景を想像したが、なんとか杞憂で済んだ。
ドアは文字通り消し飛んでいた。万が一にでも、そのドアの下で咲夜が寝ていたらどうするつもりだったのだろう。一機落ちで済めば良い方だ。
「派手にやってくれたわね」
レミリアは爽快な顔をしている。狼藉者が目の前にいるというのに。
埃がおさまってから、レミリアが中に入った。一歩遅れて、全員がそれに続く。
大小さまざまなアイテムでごった返した倉庫の片隅に、見覚えがある衣装のメイドが倒れていた。
部屋もメイドも木屑まみれだった。
Ⅳ
「死んでるわね」
霊夢が言った。例えそうだったとしても、自分の弾幕に因るものだとは考えないのだろうか。
「人の下僕を勝手に殺さないで」
霊夢はレミリアを無視して咲夜に近づく
「おーい」
何度か呼びかけていたが、反応は無い。やがて痺れを切らしたのか、咲夜の青白い頬を叩いた。手加減はしているのだろうが、遠目に見ても少し勢いが良すぎるようだった。
「…………」
咲夜は動かない。少し眉を顰めたように見えた。霊夢がさらに力を込める。
「おーい」
ぱんぱん、と小気味の良い音が鳴った。今ではパチュリーにもはっきりと分かる。あれは痛い。
「――痛いわ」
その場の誰にも、聞き覚えのある声がした。
「咲夜?」レミリアが呼んだ。
「はい」
主の呼びかけに、倒れたままのメイドが答える。
「お呼びですか?」
いつものメイド・十六夜咲夜があっけなく目を覚まして、立ち上がった。乱暴な救助で埃まみれになった衣装を払っている。心なしか、頬が赤らんでいた。気の毒だ。パチュリーはそう思った。
「咲夜あなた」レミリアがすこし怪訝な顔で見上げた。「ここで何をしてたの」
「気を失っていました」
「寝てたの?」と霊夢が尋ねる。
「気絶よ、気絶。前後不覚、意識不明、安居楽行」
おかげで酷い目にあったわ、と漏らした。霊夢の救助活動の事を言っているのだろう。
「どういうこと?」
パチュリーは思わず尋ねた。気絶とは穏やかでない。五十年に一回、あるかないかだろう。
「殴られたのだと思います」
他人事のように咲夜が言った。
「不意打ちというやつですね。姿は見えなかったので、多分後ろからやられたんじゃないでしょうか」
「誰によ」と霊夢が言った。
「分からないわ」咲夜は即答する。
「言ったでしょう。後ろからって。ひどく目が回って、それから先は覚えてないわ」
「怪我はしてないの?」レミリアが尋ねた。めずらしく、気遣うような色が混じった。
「はい」打って変って、咲夜は機嫌よく答えた。
「気を失ってただけみたいです」と言って、確認するように後頭部に手を回す。「特に腫れてもいないようですし」
「いつやられたの?」まずは、その確認からだ。パチュリーは自然とそう思っていた。
「はて……?」と咲夜は考える。
「よく分かりません。いきなりだったもので」
「じゃあ最後に会ったのは誰?」
「はて……? 誰だったかしら」
「貧血で倒れただけなんじゃないの」霊夢はどうしても、何も無かったことにしたいようだった。
「日々の激務による過労からくるものね」と医者の診断めいた事も言った。
「確かに殴られたわ」咲夜が確かめるように言う。「後ろから、がつんと」
「気絶するまでのことを、出来るだけ思い出して」
「見つかったんだから、もういいじゃない」と霊夢が言う。
明らかに面倒を回避しようとする意思が見え隠れするにしろ、霊夢の言うことは最もだった。パチュリーは自分でも何故ここまで食い下がるのか分からなかった。普段なら無事で良かったわ、と流してしまっているところだろう。良いところで読みかけてしまった本もあることだし。
きっとあの違和感のせいだ、とパチュリーは思い至る。取り立てて不快なものでは無かったけれど、ネジが一つ外れてしまった古い絡繰りのような、そんな物を想像した。
「出来るだけ、ですか?」
「えぇ、出来るだけ。詳細に」
咲夜がふむ……と考える仕草をする。
「今朝は普段より早く目が覚めました。寒かったです。私は寒いのが嫌いではないので、冬の朝でも毎日窓を開けて換気します。気持ち良いですよ、朝の空気が――」
「待って」さすがに、そこまでは要求していない。このまま咲夜の日記のようなことを延々と延べられても埒が明かないだろう。
「ここにいる顔ぶれと関わりのあることだけお願い」
「それでしたら、まずはお嬢様を起こしに行きました」
「とっくに起きていたけれど」レミリアが言った。
少し残念でした、と咲夜が笑う。
「それで朝のうちに、そこの人形遣いが来ました」
その後、図書館に訪れたのだろう。それからは私とずっと一緒だったはずだ。
「それから?」
「それから、お昼頃にそこの紅白と、いつもの白黒が来ました。終わらせておきたい仕事が残っていたので、勝手にテラスに行かせました」
「お客の扱いがなってなかったわ」
霊夢が不平を言う。いつものように全くの気まぐれで尋ねてきたのだろうに、横柄な巫女だと思った。
「それから?」
「お嬢様にいつもの二人が来ましたよとお知らせして、お茶会の用意を簡単に済ませました」
咲夜は、はっきりしているのはそこまでです、と言って打ち切った。それほど長い間この倉庫にいたわけではないらしい。考えられるのは、私達がテラスにいた間か、とパチュリーは見当をつける。
「どこでやられたの」アリスが言った。確かに、そこも抑えておかなければならない。
「さあ……? どこかその辺じゃないかしら」咲夜が辺りを見渡す。「この部屋に入った覚えはないわ」
となると倉庫以外の場所で襲撃を受けたことになる。どこか適当な場所でひっぱたいて、この倉庫に放り込んだのだろう。いったい全体どこの誰がと考え始めたところで、気が付いた。気が付いてしまった、というべきだろうか。
「待って」と言ってパチュリーは倉庫を見渡す。「この部屋の窓は?」
「ありませんね。地下ですし、換気口だけです」昨夜が指差した。
天井が低くて余計に狭く感じる倉庫の隅に、小さな穴が開いている。自分の片手がようやく納まるぐらいだろうか、と目算した。
「主に光に弱いものが置いてありますので」
「それがどうかしたの?」霊夢が言った。何一つ考えるつもりは無いようだった。
「咲夜は鍵のかかったこの倉庫に一人で気絶していたのよ」
「そうなりますね」
「咲夜、倉庫の鍵は?」
「持っていますよ、ほら」
咲夜が鍵を取り出して見せた。大小様々取り揃えた鍵の束が出てきた。これです、といってその中の一つを取ってみせる。くすんだ銀色で、倉庫のものにしては簡単な作りだった。
「仕事中は大体身に付けています」
「おかしいと思わない?」
「なにがよ」と霊夢が言う。少しは自分の頭で考えるということを、やってもらえないだろうか。
「咲夜はどこか別の場所で気絶させられた後、この倉庫に閉じ込められた」
「目的はしらないけどね」
「鍵は咲夜が持っていたのよ」
パチュリーは核心を言った。
「どうやって鍵をかけるのよ」
「あぁ」
「はぁ」
「へぇ」
「ふぅん」
四者四様の声が上がった。どの声からも驚きの響きは伝わってこない。少しだけ頭にきた。
「さっきまで密室だったわけじゃない、この倉庫」
「今日はやけに頑張るのね、パチェ」
「茶化さないでよ、レミィ」
でも確かに頑張りすぎかもしれない。きっとあの違和感のせいだろう。パチュリーは忌々しく思った。
「一体だれが? 何のために?」
「確かにいろいろとおかしいけどね」と霊夢が言う。「別に不思議ではないわ」
「――どういうこと?」
「魔法使いが三人もいるのよ」そのジョブの重複ぶりに、今更ながら呆れているようだった。
「どんな不思議も、不思議じゃないわ」
もっともだ、とパチュリーは少し霊夢を見直した。
ついでに自分がその中に含まれていることを思い出していた。
パチュリーがパチュリーらしくてイイ!
>アリスはパチュリーの指摘に素知らぬ顔をする。
ここっては「パチュリーはアリスの指摘に」ではないでしょうか?
後半が楽しみです。