霖之助が目を覚ますとそこはよく見なれた、雑多に商品が並べられた香霖堂であった。
いつ寝てしまったのか、また今は何時ごろなのか。小さく伸びをしながら柔らかい日の光が射す店内を見渡そうとして初めて、霖之助は自分が眼鏡をかけていないことに気がついた。
慌てて顔を押さえる手は何かに邪魔されることもなく瞼や目尻、こめかみに触れる。
もちろん寝るときにははずすが、それ以外はかけっぱなしだ。今回のようなついうっかりしてしまった居眠りで眼鏡が消えるわけがない。
慌てて一番ありそうなところ――机の上だ――を見ると、果たしてそこに探し物があった。
「おう、やっと起きたか。まったく店主が居眠りなんかして、もしコソ泥にでも入られたらどうするつもりなんだ?」
彼の背後、つまりお勝手の方からから聞きなれた声がかけられる。
声の主を確認するまでもない、霖之助にとっては非常になじみ深いものだ。
眼鏡をかけ直す時間はたっぷりとある。
「こそ泥なんてかわいいものさ、もっと質の悪いのが来てるらしいからね。勝手に人の家の台所に入るのはやめた方がいい」
「勝手知ったる香霖堂、だ。何もしてないから気にするな」
何もしていないと言いながら彼女が手に持っているものは何なのだろうか。
魔理沙は霖之助が起きたと見るとお勝手から湯呑をひとつ、追加で持ってきた。どうやら茶を淹れていたようだ。
目の前で茶を注ぐ魔理沙を見て、相変わらず勝手だと霖之助は内心溜息をつく。
「ちょっと待った、この茶葉はどこにあったものだい?」
「普通だぜ、普通にそこの戸棚にあったのを拝借した」
ならば良いと霖之助は胸を撫で下ろした。魔理沙の言う通り、それはごくごく普通の茶葉だ。
彼は普通の魔法使いが普通の茶葉で淹れた茶を飲みながら、同じく湯呑をたずさえて読書を始めた魔理沙に尋ねる。
「そうだ、これは魔理沙がやってくれたのかい?」
眼鏡のつるをつまむ。魔理沙は霖之助の顔をちらりとも見ずに首肯した。
はて、あれほど本に目を近付けねばならぬほど魔理沙の目は悪かっただろうか。
それにあれでは霖之助の動作も見えていないだろう、何せ霖之助からは額も顎も見えないほどだ。
よく彼が眼鏡のことを言っているとわかったものである。
ふたりはそれなりに付き合いが長い上に、眼鏡以外に何かを言われるようなことをしていないだけかもしれないが。
「ありがとう。もし歪みでもしたら事だったよ」
「なあ、香霖。香霖には兄弟がいるのか?」
姿勢を変えず、また、霖之助の言葉を遮るように言葉を重ねる。
霖之助は突然どうしたんだと訝ったが、じきにひとつの結論を導き出した。
「ああ、そういうことか。いないよ、いや、いるかもしれないけどわからないと言った方が正しいか。
だから君が今想像しているようなドラマティックな悲劇は起きてない。もちろん心配するようなことも、心配されるようなこともね。
ありがとう、だけど魔理沙、人の寝言を盗み聞くのは感心できないな」
「盗み聞きだなんて人聞きの悪い、私は人様から何かを盗んだことなんかないぜ?
寝言だって眼鏡を外そうとしたときにお前がこぼしたんだ、だから私はその落し物を拾っただけだ」
魔理沙はそこでようやく本から顔を上げた。彼女の顔には安堵に似たものが浮かんでいた。
聞く人が聞けば笑いそうな台詞だが、聞く人以外が聞けば軽く咎められるだけで済むこともある台詞である。
「確かに僕の方が三途の川を渡るのは遅くなるだろうね。しかし魔理沙、君は今まで人間以外から借りたものを覚えているのかい?」
「さあな、そんなことは私が死んでから聞いてくれ」
それきりふたりは各々の読書に集中してしまった。魔理沙はともかく霖之助が読書に集中できてしまうというのは、一般的に考えればあまりよろしくない。
しかし残念ながらというかいつも通りというか、静かな店内は読書にぴったりの環境なのだ。
「ちょっと待て、ここは『お姉ちゃん』について話すべきところじゃないのか」
ついつい、いつものように本を読んでしまっていた魔理沙が売り物の壷の上から不服そうな声をあげる。というより普通ならあの話の振り方と流れでそう行かない方が考えにくい。
「いつもは僕の話をいらないと言うくせにこういうつまらない話は聞きたがるのか」
「なんで話す前からつまらないとわかるんだ? 私は聞いてみたいぜ」
「他人の過去の話など聞いてもつまらないものと相場は決まっている」
「ならはずれだ。他人の、じゃない。香霖の、だからな」
「似たようなものだろう」
「似てるっていうのは違うって意味だって知ってたか?」
霖之助は似てるというのはほとんど同じという意味だよ、と言いつつやれやれとばかりに肩をすくめる。
これ以上は話逸らそうとしても、かえって魔理沙の好奇心を煽るだけだと悟ったようだ。
「しょうがないな。まあ、たまになら昔話をしてみるのも悪くはないか。僕は寝言でなんと言っていたんだい?
さっき『お姉ちゃん』と言っていたからそれはわかる、それ以外の部分で僕はなんと?」
「それだけだぜ。赤ん坊がむずかるみたいにボソッとな」
「それならほとんど最初から話すことになるな、後からつまらないと言われても僕は知らないよ」
霖之助は深々と息を吐き、お茶で唇を湿らせる。
「あれは僕が幼かったころの話だから……百年以上前のことだな。あの日の月は満月の翌日、わずかに欠けた月だったということを、今でもよく覚えているよ――」
人間がその人その人によってさまざまであるように、妖怪にも少しずつ違いがある。
そもそも、妖怪という呼び方は人間が作ったもので、妖怪にも様々な種類がある。
動物や物が変化した妖怪や特殊な力を身につけた元人間、それになにもないところから生じた特殊な妖怪とかをひとまとめになんかできない。
妖怪というのはあくまでも人間から見た場合の区別だ、自分たちとそれ以外、単純でわかりやすい。
妖怪は自分たちが人間にどう呼ばれていようがあまり気にしないし、困ったことにはならない。
「なら、僕は人間と妖怪のどちらなんだろう……」
いつものように濡れ縁から星空を眺めつつ、何回繰り返したかわからない質問をする。お月さまは今日も何も答えてくれない、昨日がまん丸だったからほんの少し欠けている。
この家の住人だった人たちを襲った妖怪が綺麗好きだったのか食いしん坊だったのかはわからないけれど、
何日か前に僕がこの家を見つけたときはほとんど乱れがない状態だった。
ドス黒い染みもなければ元住人の欠片が落ちていることもない、この家に残っていたのは妖怪のかすかなにおいと人間の強いにおいだけだった。
これはまず間違いなく食事があったんだろう、それ以外にこういう空き家があるわけがない。
変わった色の障子やふすまが破れてたりしていたのは我慢することにした。
放っておいても隙間風が少し冷たいだけだし、いつ「人間」に追いやられるかわからない。だから雨が降っても寒くない、それだけでいい。
「僕は人間なのかな? それとも妖怪?」
手の甲は何も答えてくれない。
そのとき、草が揺れる音がした。風によるものじゃなく、確かに何かが草に触れた音だ。
この家は長屋ではなかった。なぜか知らないけれど人里から少し離れたところにひっそりと建っていたのだ。
だから妖怪の的にされたのだろうし、空家になったのを最初に見つけたのが僕だった。
そんなところに人が来るとしたら、姿を見せない住人の様子を伺いに来たと考えるのが自然だろう。
その場合はすぐに逃げ出さないといけない。何度も言われたことのある言葉をまた浴びせられる前に。
『住人が消えて混ざりものがいる! こいつが食ったに違いねぇ!』
でも人間とは限らない。今は夜だ、わざわざ妖怪の主な活動時間である夜に人里を離れるとは考えにくい。
妖怪ならテリトリーに入ったり自分からちょっかいを出したりしない限り僕に見向きもしないし、動物ならやり過ごせる。
息を飲んで見ていると、声が聞こえると同時に姿を表した人間と目があった。
「十時三十二分。すいませ――。こんな時間に子供?」
その人は不思議な格好をしていた。絹か何かでできているようなまっ白い衣なのだが、別々なのか下半身の布が黒く、裾がやや短い。
さらに首からやたら太い色布を垂らし、頭に帽子をかぶっている。そして眼鏡が月明かりにきらりと光る。
その女の人がしかめっ面になる。いつものことだ、さっさと逃げてしまった方がいい。
そう思っていた僕にとって次にかけられた言葉は少し、いやかなり意外なものだった。
「こら、子供はもう寝る時間よ? こんなに遅いと怪しい人がうろついているかもしれないわ」
「えーと、確かに怪しい人は目の前にいるけれど……。お姉ちゃんは誰? そこの集落の人?」
あまりにも意外だったから思わず質問をしてしまった。逃げようと思っていたのに。
「えー、あー、いや、ちょおっと遠くからね」
女の人は見るからにうろたえている。すぐに逃げることになるかもしれない土地の小さな集落の住人なんていちいち覚えたりなんかしない。
だから聞いたのにこの反応ということは、やはり人間ではないのだろう。それならこの変わった服装にも僕を見て警戒しないことにも説明がつく。
「この辺りは割と力が強い妖怪もうろついてるから気をつけた方がいいよ。今は僕だからよかったけど、相手によっては今頃どうなってたかわからないよ?」
「……妖怪信仰がまだ残ってるのかしら。
和服だし、空を見る限りじゃJSTと大してずれがあるわけでもなさそうだし、土地名からして漢字圏内みたいだし、そもそも日本語喋ってるし。
どうやらここは日本で間違いなさそうね。しかし現代で研究者以外から妖怪なんて単語が出るとは思えないから……。
もしかして時間をも超えたということかしら、しかも十年やそこらではなさそうね。あの子にここまでの力があるなんて予想以上だわ!」
お姉さんは小声で何か呟きながら考えをまとめている、つもりなんだろうけど興奮しているようで声が大きい。
何のことを言ってるのかまではわからないけど丸聞こえだ。JSTってなんだろう?
「ああもう、年月日まではわからないなんて中途半端な能力なんだから! ねえボク、今日が何年の何日かわかる? あ、ついでにここの時計が今何時を指してるのかも」
ますます意味がわからない。今日の日付も忘れてしまったのだろうか? いや、妖怪なら世間に疎くても不思議はないか。
何十年何百年と眠る妖怪だっている、ただそんな妖怪が日付を聞いてくるというのも変な話だ。
人間の暦でいいのか迷ったけど、他の暦は知らない。
「ふむ、西暦じゃないのね。かといって突拍子もないようなことも言ってない。
統合して考えると時空を超えたか、パラレルワールドのような異世界へ迷いこんだというところかしら?
もしかしたらここがあの子が迷い込んだ夢の中の世界なのかもしれないわね。
どちらにしても私ひとりじゃ元の世界に帰ることもできなそうだし、あっちも探してくれてるでしょう。なんとかして合流しなきゃ」
今まで気付かなかったけれど、いつの間にかお姉さんは僕の腰掛ける濡れ縁のすぐそばにまで来ていた。
お姉さんは屈んで僕に目線を合わせる。
「ねえ、お姉さんはどんな人なの? ……人じゃないだろうけど」
形のいい唇が開くのに待ったを掛ける。たぶん大丈夫とはいえ目の前の人間らしきものが不審であることに変わりはない。
万が一の場合には逃げなければならないのだ。食べられたら食べられたでいろいろ楽になれるかもしれないから、それもいいかもしれないけど。
「そっか。自己紹介がまだだったわね。私の名前は――」
「ああ、名前なんてどうでもいいよ。そんなものはとっくにわかっているから」
お姉さんは目を丸くしている。確かにこの手の能力は割と驚かれる部類に入ると思うけど、そんな普通の人間みたいな反応をしなくてもいいのに。
「僕の目にはね、視えるんだよ」
「ちょっと待った、香霖の話じゃなかったのか。私はすっかりそのつもりで聞いてたんだぜ? それとも何か? 実はもっとすごい能力でした~とかいう馬鹿げた話なのか?」
それまでは比較的大人しく聞いていた魔理沙から待ったが入る。
調子よくしゃべっていたところを邪魔されてやや不機嫌といった顔を見せた霖之助だが、この話をすることになった経緯を思いだしたのかすぐに考えを変えたようだ。
「聞きたいと言い出したのはそちらだろう? 気に食わないことがあるなら僕はやめてもいい」
「ああこら、すねるなすねるな。確認なんだがこれは香霖の昔話なんだよな?
出だしの『昔々あるところにひとりの男の子がいました』。このひとりの男の子が香霖でいいんだよな」
「さあ、それについては自分で考えてもらいたいね」
「ということは合ってるんだな。ったく、そうそう簡単にすごい能力を持たれてたまるか。使えるかどうかはともかくとして」
魔理沙は座りの悪くなった尻の位置をもぞもぞと微調整する。壷に座っておいて座りが悪いも何もないのだが、霖之助はそれについては何も言わなかった。
「魔理沙はがんばってると思うよ。僕なんかはたまたま片親が人間じゃなかったってだけで身につけた力だからね。君とは比べるべくもない」
「……そういうのは知っていても知らないふりをしとくのが大人の対応ってものじゃないのか。それにそれを言うなら私はたまたま両親ともただの人間だっただけだぜ」
「褒め言葉は素直に受け取っておいた方がいい」
「褒めてほしくもないことを褒めるんじゃない。さあまだ日は高いぜ、続きだ続き」
霖之助はやれやれといった様子で、魔理沙は逸る気を落ち着かせるように、それぞれ茶を啜る。
「なるほど、ものを見るだけで対象の名称がわかり、その名を口にすることで用途がわかる能力、けれど使用方法まではわからない、ね。
君は面白い目を持っているのね」
お姉ちゃんは最初少し驚いたようだけど、説明したら納得してくれたようだった。
「うん、生き物だと使い道が多すぎてわからないんだけど。もしこの力が純粋な力だったらもう少し生き物もなんとかなるんだけどね」
普段だったら絶対にこんなことは言わない。ましてや相手は今さっき出会ったばかりの怪しい人だ。それなのに自分の能力について話してしまっている。
普通、妖怪はできる限り自分の限界を隠す。もし自分の限界を知られてしまえば相手になめられるだけでなく、最悪の場合自分の存在が揺らいでしまう……らしい。
なんでも恐怖されなくなった妖怪はただの現象に成り下がり、そこにはすでになんたらかんたらと誰かに言われた覚えがある。
あまり覚えてないけど、たぶんお父さんかお母さんに。僕にやさしくしてくれるとしたらどちらかしかいない、顔もほとんど覚えてないけど。
半妖という中途半端な体を持つ以上、隠した方がいいのは僕も一緒だ。むしろ体が妖怪に劣る分、隠す必要性がもっと高いだろう。
ソコシレヌブキミサヲモッテサエイレバソレガミヲマモルトゲトナロー、なのだ。意味はわからないけど、単純に言えば妖怪みたいにしなさいってことらしい。
そして能力はそのまま自分の限界になることもあるらしい。ここらへんでは見ないけど、能力を隠すために自分の名前まで隠す人間以外もいると聞いたことがあるほどだ。
だから自分に自信がなければ絶対に人に教えてはいけない。
でも教えてしまった、知らない人に。僕が怖くないと知ったらパクリと食べられてしまうかもしれないのに。
「面白い目だけど、そういう目を持ってるのは君だけじゃないわ。私もとっても素敵な目を持ってるのよ」
それは、なぜ教えてしまったのかはわからない、わからないんだけど……。
このお姉ちゃんが僕を食べるなんて絶対にありえないと感じていたからなのかもしれない。
「ボク、今何時かわかる?」
「えーと、十一時くらい?」
「惜しい。十時五十三分二十一秒。二十三、二十四、二十五」
お姉ちゃんはくるりと半回転して僕の隣に腰掛け、空を眺めながら何かを数え始めた。これがお姉ちゃんのとっても素敵な能力ということらしい。
「えと、つまり……。それが?」
「そうよ、星を見れば今の時間がわかるの。素敵でしょ?」
「素敵かどうかはわからないけど……便利そうだね」
「う~ん、そこは素直に素敵だと言っておいてほしいかな。それにこれだけじゃないのよ。月を見れば自分が今どこにいるのかもわかるの」
お姉ちゃんはふふんと胸を反らせる。でも悪いけどそれよりも“ネクタイ”がゆらゆらゆれてるのが気になる。
「へぇ、ふたつも見えるなんてすごいんだね」
正直あまり興味はないけど、こういうときは話を合わせた方がいい。
「あら、何を言ってるの? 君も素敵な力をふたつ持ってるのよ。名称がわかる能力と、用途がわかる能力」
「それはお姉ちゃんが無理やり分けて言ってるだけだよ。道具についてわかるだけ」
僕のことなのになぜかお姉ちゃんはうれしそうな顔をする。
もしかして目に能力がある知り合いがいなかったのかもしれない。でもたったそれだけのことで笑わなくてもいいのに。
「あら大違いよ。外見でラベルがわかり、ラベルで中身がわかる、けど外見を見てすぐに中身がわからないのならそれは別々のものなの。
ほら、使い方だけはわからないのがそのいい証拠よ。君がそれらをうまく組み合わせて使っていることに気付いてないだけ」
ラベルが何なのかわからなかったけど、すぐにお姉ちゃんが教えてくれた。
名札のことなら最初から名札と言えばいいと思う。そうすればややこしくなくてわかりやすい。
「そういう観点から捉えれば私と君の能力はとてもよく似たものなのかもしれないわね」
「似てる……かなぁ?」
「そうよ似てるわ。物体を見て概念を知り、概念を用いて己が利とする。でもちょっと不便なところまでそっくりじゃない」
「そうかな?僕には全然似てないような気がするけど」
「うんうん。その意見もわかるわ。話を聞く限りでは君の目は概念からものの本質を見抜くのに主眼をおいているようだしね。
私の目は天体、お空のお星様のことね、を見て時刻や居場所を無意識に演算、推測しているとも考えられるわ。演算っていうのは計算のことよ。
あなたは神秘で私は学問。これらは確かに矛盾しているかもしれない」
のんびりと空を眺めていたお姉ちゃんの目がすっと僕の目を見つめる。お姉ちゃんには何も見えないだろうけど、僕にはお姉ちゃんの名前が見える。
まだ“眼球”ではなく、お姉ちゃんの名前が。
「でもね、それらは同一線上にあるのよ。確かに学問は神秘を食い荒らして大きくなっていったわ。だからこそ私は、このふたつは方向が違うだけの同じものだと確信する。
そして皮肉にも肥大化した学問がたどり着いたのは哲学の世界なの。
観測したデータを元に思考してきた物理学者たちが雁首揃えて観測できない事象を考察するなんて、まるで哲学めいたことをしているのよ。
昔から囁かれていた“今の科学はたまたま再現できたことをまるで真理であるかのように言い張っているだけだ”
なんていう一昔前まで鼻で笑っていたことにも真剣に取り組んでいるし、神や妖怪の類の存在も今までとは違ったアプローチ法で考察されているわ!」
お姉ちゃんは僕の両肩をぎゅっと掴んだり立ち上がって外をうろうろ歩きまわったりしながら、
最後は少し欠けたお月さまに向かって雄たけびを上げるみたいに大きな声を上げた。
その声に呼び出されたかのようにそれまで静かだった原っぱに強い風が吹き始めた。お姉ちゃんは器用に帽子と“スカート”の裾を両手で押さえる。
僕には何を言っていたのかさっぱりわからない。
イマノカガクはたまたまサイゲンできたことをまるでシンリであるかのように言い張っているだけだ、なんて言われても難しくて何がなんだかわからない。
あれは風を呼びだすための呪文だと言ってくれた方が納得できる。というよりもしかして呪文だったのだろうか?
でも、妖怪の存在というところだけははっきりと聞こえた。
「科学?」
「そう、科学だ。外の世界の魔法全般をそう呼称するらしい」
いつの間にやら日が傾き始め、辺りは徐々に妖怪の世界になっていく。とはいえ人間が夜に行動しにくくなるだけで、日中は妖怪がいないというわけでもないのだが。
霖之助はやや早いが灯りを点けた。普段であれば魔理沙を帰してしまうような頃合いなのだが、
彼女がこんなタイミングで帰る気にはならないことくらいは彼もわかっている。
魔理沙は暖かい飲み物を、とお勝手に足を運ぶ。手にした急須はもうとっくに空っぽになっていたがなかなかいいタイミングがなく、
昼以来実にこの茶葉の二番茶である。一般的に味が最もよいとされるのは二番目に淹れられた茶、つまり二番煎じなのだが、時間が経っていてもそうなのだろうか。
「おい香霖。なにか軽くつまめるものはないか?」
「適当に探せば煎餅があるだろう。それで我慢してくれ」
「適当に探してなかったから聞いてるんだぜ」
「戸棚の引き出しの上から四番目だ」
「……一番下って素直に言えよ」
魔理沙は小さな声で苦情を言いながら、恐らくは安物の煎餅を引っ張り出す。
魔理沙は彼女の友人ほどそういう勘が鋭くない。彼女の友人は一番おいしいところを苦もなくさらっていく。いくら友人とはいえ不満がないわけではない。
しかしそれを口にしてしまえば負けを認めたようなものなのだ。友人だからこそ、楽々と張り合っているように見せたい。実に子供らしい矜持である。
「お、わかってるじゃないか」
灯りの点った室内を見て魔理沙は満足気な声を上げる。
「僕が家に帰れと言ってもどうせ帰らないだろう?」
「ああ、話を聞き終わらない内はどの家にも帰らないぜ」
たとえ聞き終わったとしても帰らない家もあるが。
魔理沙は湯気の立つ茶を二つの湯呑に注ぎ入れ、売り物に腰掛ける。
冷えるからと熱めに淹れられたお茶は茶葉の香りを殺してしまっていたが、霖之助は気にしないことにした。
この茶葉が適当なものということくらいは彼女もわかっている、彼はそう判断したのだろう。
日は駆け足で暮れ、辺りは闇に包まれてしまった。
そこに建つ建物から漏れ出る灯りが、人妖にそれぞれの境界を示しているようにも見える。
「お姉ちゃんは物知りなんだね」
「ええ、物知りよ」
僕はなんとかお姉ちゃんの言葉を理解しようとしたけどさっぱりわからなかった。
お姉ちゃんはお姉ちゃんでものすごく満足そうにうなずいているので質問するのもどうかと思う。
もしかしたら、お姉ちゃんなら、いくら考えてもわからなかった答えを教えてくれるかもしれない。
「ねえ、もしかしたら気づいてるかもしれないけど。……僕は妖怪と人間の混ざりものなんだ」
風。木々の脇を駆け抜ける音がまるで何かの妖怪の雄たけびのように聞こえる、草をなでる音が山奥を海のそばだと錯覚させる。
「僕は人間と妖怪のどっちなのかな?」
「果たして何かの隠喩なのかそうでないのか。ここに人面鼠はいるのかどうか」
お姉ちゃんはぽつりとそう呟くと黙ってしまった。服を押さえながら佇むお姉ちゃんの姿は、少し欠けた月を背景にした一枚の絵と言われても信じてしまいそうな感じだ。
「もしかして、友達と仲がよくないの? ケンカでもしちゃった?」
面白いことを言う、僕に友達なんてできたことはない。人間にも妖怪にも避けられ続けてきた。そう伝えるとお姉ちゃんはまた隣に腰を掛けて、僕の頭にポンと手を置いた。
「仲良くなりたくないの?」
「なりたくてもまず近寄れないよ。避けられるのはいやだもの」
本当は人間に怖がられるのは妖怪として誇りを持つべきところなんだろう。
でも僕は半分しか妖怪ではない。妖怪だったらむしろ喜ぶようなことが悪いことにしか思えないんだ。
僕が半妖だとわかったときのたじろぎが怖い、引きつる頬が怖い、それまで笑っていた目が警戒や恐怖に染まる瞬間が何よりも怖い。
妖怪に至ってはお話にならない、人間ほど鈍感じゃないからすでに僕のことを見抜いていて、話しかけても無視されることだってある。
鬼のようなとんでもなく力の強い種族ならどうかわからないけど、そんな妖怪が簡単に見つかるわけもない。
「う~ん、そうねえ。もしかしてさっき私に言ったみたいにみんなにも言ってない? ほら、名前」
「目のことは言ってないよ。名前を当てるだけ」
「あちゃ、それはまずいわね……。よし、役に立つかわからないけど」
じんわりと温かかった手がどけられてしまった。お姉ちゃんは両手で自分の眼もとから眼鏡を取り、反転させて今度は僕の眼もとに掛けた。
大丈夫とは思っていてもつるが目に入りそうでまぶたを固く閉じてしまう。
「やっぱり男の子ね、ちょっと大きいけどなんとか掛けられるみたい。さ、目を開けてごらんなさい」
僕の目はとてもいい。だから眼鏡なんか必要ないし、逆に掛けたら見づらくなるだろう。
それでも一応促されるまま目を開くと、そこにはさっきまでと何ひとつ変わらない世界が広がっていた。
「何か変わったことは?」
そんなことを言われても変わりがないものには変わりがない。山の上の木の枝葉の揺れだってはっきり見えるし、お姉ちゃんの顔を見てもぼやけてたりはしない。
……ちょっと待った。それじゃおかしいじゃないか。
「あれ? もしかしてこれ、伊達眼鏡?」
「本当に何も変わらない? 私を見てみなさい。ほら、これとか」
微笑みながらお姉ちゃんは“ネクタイ”をひらひらさせている。僕の見える範囲では変化などない。
「何も変わらないよお姉ちゃ――」
違う。見えない。さっきまで見えていたものがひとつだけない。
「さっきまで視えてたお姉ちゃんの名前が視えない……」
眼鏡を下にずらして直接見ればいつも通り名前が視える。目の前にかざすと視えなくなる。視える、視えなくなる、視える、視えなくなる。
「あはは、そんなに慌てないの。道具の名前は視える? 視えるのね。うん、でも人の名前が視えなくなっただけでも良かったわ。
もうわかってると思うけど、それは変わった目を持ってる人向けのレンズがついてるの。主に視えすぎるのを抑えるためのね。
ここらへんにはあまりいないだろうけど、私が来たところには割とそういう能力を持ってる人がいるのよ、まだまだ珍しいんだけどね。
特に目に能力を持ってるのは少なくとも私の周りには全然いないわ。だからその眼鏡もちょっと特別製。
それでも人によって効果がまちまちらしいんだけど、あなたにはちょうどいいみたいね」
簡単に言えば能力を弱くするマジックアイテムということらしい。世の中には僕の知らない不思議なものがいっぱいある。
確かに名前が視えなくなっても普通に見えるのだから生活に差し支えはないと思うけれど、それまで視えていたものが視えなくなるというのはとても不安になるものだ。
あまり長い間掛けていると気持ち悪くなりそうなので返そうとすると、お姉ちゃんはあっさりとこう言った。
「ああ、いいわよ。君に貸してあげる。うちの古い蔵から掘り出したものなんだけど、もう私が掛けてもほとんど効果がないしね。今効果がある君が掛けるべきよ」
「でもこれを貸してもらっても何か変わるとは思えないんだけど……」
眼鏡のことを言い出したときから思っていたことを恐る恐る言ってみる。
たとえ名前が視えなくなっても普段の生活に困ることはそれほどないと思う。ないと思うけど質問との関係も全くない。
「初対面の人の名前を言い当てといてその理由も明かさなかったら不気味がられて当然よ。まあ目が特殊だって言っても嫌がる人は多いでしょうけどね。
自己紹介すらできないんじゃつまらないじゃない、わからないことをわからないままにしておくのも結構大事なことなの」
お姉ちゃんはピシリと人差し指を立てて言いきる。
わからないことをわかるようにがんばるのはいいことだと思うけど、お姉ちゃんが言うにはだめらしい。
「考えてわかることならそれもいいわ。でもね、人の心なんてさっぱりわかってない分野よ。まあ完全にわかったらわかったでつまらない世界になりそうだけど」
それでもわからないことを嫌がるのは今も昔も変わらないわ。なぜかわからないけど名前がわかる、なんて言ったら不気味に思われて当然ね、とお姉ちゃんは続けた。
こんな眼鏡を持っていることといい、もしかしてお姉ちゃんにも昔何かあったのかもしれない。
少し聞きたいけれど、これがわからないままにしておいた方がいいことなのかもしれない。
「それがあるからってすぐ仲良くなれるかはわからないわ、あなたの努力が必要なの。でも自分から避けていたら仲良くなれるかどうか以前の問題よね。
最初はちょびっとだけ怖いかもしれないけど、その眼鏡を掛けて勇気を出してみなさいよ。どういう風に付き合っていくかはそれから決めていけばいいわ。」
お姉ちゃんは星空を眺めていた。僕も、少し欠けたお月さまを見た。
「その後少し他愛のないことを話して少年とお姉さんは別れましたとさ、おしまい」
「なんだよ、その少しが気になるぜ」
「少しは少し、お話に出てきたお姉さんにも眼鏡にも関係のない話だよ」
「おおそうだ、今掛けてる眼鏡が話に出てきた眼鏡なんだろ? 今もそれ取ったら名前が視えるのか?」
すでに日は沈んでおり、辺りはわずかな灯りと月光のみで照らされている。それでも満月に近いので、苔むした石を踏んで転ぶ心配はあまりなさそうだが。
そして灯りがわずかにこぼれる建物の中には人影ふたつ。揺らめく炎を浴びて、動かずとも影を動かすものがふたつあった。
ひとつはここ、香霖堂の家主でもある半妖、森近霖之助。長話を終えすっかり冷めた湯のみをぐいっとあおる。
二番茶といえども普通の茶葉にぐつぐつ煮立った湯を注ぎ、人肌並まで冷まされた場合はやはり、
非常に褒め言葉を見つけにくい味わいをしているらしいことが表情から伺える。
その渋い顔が純粋に茶の味わいのみによって形成されたものかどうかはあえて考えない。
もうひとつは極普通の純人間魔法使い、霧雨魔理沙。長話を聞き終えすっかり冷めた湯のみをぐいっとあおる。
しかしその後も本当に眼前の青年と同じ物を飲んだのか疑わしくなるほど輝いた目を保っていた。
比喩的に言えば瞳の中に星がある、といった具合になると思われる輝きである。
その輝く目が何に起因しているかなどということは、今さら考えるようなことではない。
「ああ、こんなもの、今はあってもなくても変わらないよ」
魔理沙の残念がる様はどこか、おもちゃをもらい損ねた子供を彷彿とさせた。つい先程見せた反応とは大違いである。
彼女の環境を考えれば、この歳にしてある種の諦めのようなものが芽生え始めていてもおかしくない。それはおそらく霖之助も承知しているだろう。
そして諦観の境地から一歩踏み出す勇気と力を持っていることも。
足りないのはその力を表現する手段だけだと、完全に諦めてしまわせてはいけないと、彼は考えていた。
「どうやらこれはただ単に能力を抑えるといった代物ではないらしいんだ。効力があったのは子供の間だけだった。
そして掛けている間は今と同じ視界だったということを鑑みればおそらくは、擬似的に大人の視界を再現していたと考えるのが妥当だろう。
ほら、小さいころはできたはずのことでも、大きくなってからやろうとしたらできなくなっていた、という経験があるだろう?」
「ん? 私はそんなことないぜ」
「ならまだまだ子供ということだね」
「なるほどな、小さい内から大人の物の見方なんてしてるとこんなにひねくれるのか。なら私はまだまだ子供でいいぜ。
それにしても効き目がないのに未だに掛けてるなんて、乳離れできない子供が指しゃぶってるみたいなもんだ」
などと軽口を叩いていた魔理沙だが、何かに気づいたようで一瞬黙り込むと疑問を口にした。
「ちょっと待てよ。その眼鏡自体を見れば用途がわかるはずだろう? 何を考える必要があるんだ」
それもそうだ。霖之助の目を持ってすればどのような道具であれ、たちまちの内に名前がわかり、そして用途もわかる。
少なくともその能力は健在のはずである。
だからこそこんな胡散臭い商品を販売する胡散臭い店を開いたのであり、もはや皆無と言っていいほど極端に客足が遠い以外は極々平凡な営業を続けることができているのだ。
どこが平凡なのかさっぱりわからないが。
「眼鏡は眼鏡らしくてね。普通の眼鏡と似たようなことしかわからないんだ」
「おいおい、唯一の活躍できる場面で役に立たない能力ってどうなんだ」
魔理沙の言うことはもっともで、霖之助はそれなりに問題視すべき事柄である。
しかし、彼は苦笑いを見せるばかりで深く考えているような素振りは全く見せない。
「主な目的は普通の眼鏡と同じく視力異常の矯正なのだからそれほど問題があるわけじゃないよ。
さあ、もう日が暮れてから随分経つ。そろそろ家に帰った方がいい」
「それもそうだな、しかしもうこんな時間だ。夕飯ぐらい食べてからでもいいだろう?」
「別にいいけどそれなら自分で作るように。僕はなんだか食事を摂る気分じゃない」
「……。誰かに見られながらひとりで食べるなんてごめんだぜ。しょうがない、今日のところは退散するか」
そう言い残すと魔理沙は素直に玄関に向かった。やはり彼女は歳の割に聡明で、そして心優しい。
時代が時代なら送り届けるべきだ。しかし霖之助が玄関まで来ても履物を履く様子がないのは、自分たちの住む場所をしっかりと把握できているからだろう。
一般人ならいざ知らず、幼くとも魔法の心得がある者なら夜間の一人歩きもさして危険を伴わない。
「強い魔法が使いたいならより強いイメージを持つんだ。強い何かをイメージしてもいいし、何かを強くイメージするのもいいだろう。
形なり名前などの概念なり、大きな袋を用意してその中に魔力を詰め込むようにね。単純なようかもしれないが魔法にはそういった側面もある」
魔理沙の顔を照らす光の割合が火の灯りより月明かりの方が大きくなり、戸を閉めようとしたところに霖之助が声をかけた。それを聞くと魔理沙はたちまち顔をしかめる。
「助言なんかいらないぜ。それにそれくらいわかってる」
「善意の助言は素直に受け取っておいた方がいい。霊夢のことを考えていそうな気がしてね」
「欲しくもないときに助言するんじゃない。もう日も暮れたから帰るけどな」
せっかくいい気分で帰ろうとしてたのが台無しだ、などとぶつくさ言いながら魔理沙は香霖堂を後にした。霖之助にとって人の、特に乙女心は少し難しすぎるようだ。
魔理沙を見送り、冷たい外気から店内に逃げ込むとどっと疲れが押し寄せてきた。お姉ちゃんのことを思い出した後はいつもこうなる。
こういうときはさっさと寝てしまうのが一番だ。本当は寝てしまうのが一番なのだが、今は布団を敷くことさえも躊躇われるほどの疲労感だ。
椅子の背もたれに身を委ねて胡乱な頭で窓の外を見る。綺麗な星の群れが少し欠けた月を取り巻いている。
あの星を見ても、月を見てもこの目には何も視えない。それはたとえこの眼鏡を外そうとも変わらない。
ふと外した眼鏡を注視する。僕は魔理沙に何ひとつ嘘はついていない、過去の話も眼鏡についても。
ただ本当のことをほんの少しだけ言わなかっただけだ。なにせ彼女自身が言ったことなのだ。
似てるというのは違うものという意味だということ。
「“霖之助の眼鏡”」
一言呟けば他のものが視える。これの用途は『目の屈折異常の補正、我が子の保護、または着飾るための道具』だと。
瞳を意味する「まなこ」ではなく「我が子」になっているとは下手な駄洒落だ。
古い蔵から見つかったということだからこれまでも代々受け継がれ、時にはお姉ちゃんの家系の悩める子供たちを助けてきたのだろう。
しかしひとつ解せない点がある。なぜこの眼鏡に僕の名が冠されているのだろうか?
確かに今現在の所有者は僕だ。そしてお姉ちゃんが完全な妖怪であるなら普通に考えれば先に死ぬのは僕の方であり、
そうならば名称不明の道具に便宜的に名前をつけるときのやり方としては間違いではない。
それでもやはり僕の手にあるのは本来の流れから外れた事なのだ。いくら考えても正しい答えなど導き出せないことは知っているが、少し想像力を働かせてみよう。
仮説を立ててそれを否定することは、目には見えない進歩だとなにかの本に書いてあった。
この眼鏡が持つ運命の輪に最初から僕が組み込まれていたとしたら、という説に考えが至ったところで体が大分楽になっていることに気がついた。
僕は星を見ても時間はわからないので時計を見ると、気づかない内にかなりの時間こうしていたようだ。
また今日も返すことができなかった眼鏡を掛け、床の支度をする。
泥棒が入ってくることはまずないだろうが泥棒の類が勝手に入ってくると困るので戸締りもしなくてはいけない。
窓の確認をしたときに大きな月が目についた。あの晩とは逆の方向に、あの晩よりも少し大きめに月が欠けている。
満月のことを「望月」と書いて「もちづき」と読むのは常識だ。
ではその一日後の月は? これも問題はない、「十六夜」だ。しかしこれ以外にも呼び方があるのだ。「既望」である。
既に望、読んで字のごとく、既に望月が終わっているのだ。
では満月の一日前は? これも大して難しくはない、「小望月」である。そしてこちらにも別称がある。「幾望」だ。
ほとんど望、ほとんどを「幾ど」と表記することを知らなければ少々わかりづらいかもしれないが、それさえわかれば後は大した問題ではないだろう。
どちらも満月を基準としている。やはり月は、殊更に満月は極めて重要なものであったことが容易に窺える。
そしてこの既望と幾望、共通した読みを持っている。
『きぼう』である。
視え過ぎたがために盲になっていた幼き日の僕は、遥か昔の既望の日に希望の火を得た。
ならば僕もいつの日にか、この希望の火を誰かに渡すことができる日が来るのだろうか?
それはわからないままの方がいいことなのかもしれない。もしつなぐことがあるとしたら、この眼鏡を渡すことになるかもしれない。
例えそうなったとしても、勝手に眼鏡をあげたとしてもお姉ちゃんは怒らないと確信できる。
そして何か道具を介してでも誰か迷っている子供に道を示せたとしたら、それがあの星空を見上げる少女に対しての最大の恩返しになる、と思う。
もしもこの眼鏡をお姉ちゃんに返すことができず、また誰にも託すことがなければ、そのときは倉庫の中にでもしまっておけばいい。
僕がいなくなった後でも必要な人がいれば掘り出すだろう。
そうだ、星と言えばこの前拾ったものの中に渾天儀があったはずだ。明日にでもあれを引っ張り出してみよう、
だいぶ錆びついていたから手を加えてやる必要があるだろうけど。
やがて森のほとりの建物から漏れる灯りが消えた。
辺りを照らすのは等しく月明かりのみ。そこには人妖を分ける境界など、ない。
「いっけない、十一時二十八分。あの子を探さなきゃ」
お姉ちゃんは星空を眺めていたかと思うと、突然用事を思い出したように声をあげた。
こんな時間に出歩くつもりなんだろうか? だとしたらとんでもない。
「まさか出かけるの? 危ないからやめた方がいいよ」
「危ないならなおさら早く合流しなきゃいけないわね。君はもう寝なさい。子供が起きてていい時間じゃないわ」
お姉ちゃんは僕が止めるのも聞かないで出て行ってしまうつもりらしい。誰かを探しているようだけど誰だろうか?
お姉ちゃんの大切な人なのかお姉ちゃんが強い妖怪なのか、もしかしたらその両方かもしれない。
すっと立ち上がり、見慣れない服をひらひらさせながらお姉ちゃんは歩いて行く。その足取りは僕には絶対に止めることができないと思ってしまうほど力強い。
そうして姿が見えなくなった辺りで、どうしたのかお姉ちゃんが引き返してきた。
「肝心なことを言い忘れていたわ。私の名前は蓮子、宇佐見蓮子よ。素敵な名前でしょ?」
「蓮……」
「あと、君が人間か妖怪かって話だけど……君は君じゃない。周りがどうとか関係ないわよ」
ざあ、と冷たい風が吹く。
「なんてのは退屈な一般解。間違いじゃないかもしれないけど、私の回答じゃないわ。
AかBかの二択で答える問題に、さも当然のようにCと答えるなんて反則よね、しかもこれってよく考えると答えになってないし。
だから悪いけど、私の解はこうだわ。『判断できません』。テストだったら一点ももらえない回答だけど、そんなの知ったことじゃない。
なぜなら前提条件が不明すぎるから。問題に不備があるから答えられない、これなら誰も文句は言えないでしょう?
つまり私が言いたいのは――」
そこでお姉ちゃんは一度深呼吸をして、もったいぶるようにゆっくり口を開く。
「君以上にその問題の回答を出すのに適した存在なんて、一体どこにいるって言うのよ?」
おでこを人差し指で突っついてきた、目の前にいる人に向けて顔の筋肉が動く。
動きの硬い筋肉たちが今どんな形を作っているのか、自分ではよくわからない。
「あ、初めて笑ってくれた。うん、やっぱり子供は笑ってなきゃだめよ。希望を胸に抱いて瞳をキラキラ輝かせて。
夢を叶えようとするのが、何物にも勝る最大のエネルギーなんだから」
そろそろ本当に行かなきゃ、じゃあね、と言い残してお姉ちゃんはまた歩き始めた。
僕は絶対に言い忘れちゃいけないことをその背中に投げかける。
「この眼鏡は借りたものだから、絶対に返すよ。取りに来るのを待ってるから」
振り返りはしなかったけど、軽く手を挙げて、気にしないでいいわよ、と答えてくれた。
そのまま僕は濡れ縁で寝てしまい、朝靄の中で目覚めたときには昨晩のことは全て夢か幻だったのだはないかと疑ってしまっていた。
お姉ちゃんの呟いた時間があっていれば、たったの一時間にも満たないわずかな時間だったのだ。
夢ではないと確信できたのはたったひとつ。
どうやら装着したまま寝てしまっていたらしい、耳と鼻に硬い感触の違和感の元が残っていたからだ。
この時代では想像もできないが、およそ百年後には人間と妖怪が肩を組んで酒盛りをする土地で、さらにずっと未来を生きる少女たちが肩を並べて歩いていた。
片方はやや興奮気味にしゃべりながら、もう片方はうんざり聞きながら。
「で、その子に眼鏡あげちゃったのね。久し振りに掛けてきたと思ったら」
「ええ! ここしばらく掛けてなかったのに、今日たまたま掛けてきてたのはもしかしたら運命かもしれないわね」
「あら、蓮子ったらそういう趣味だったの?」
「変なこと言うんじゃないの。ああでも、あんなに素直な子なら私、弟が欲しかったわ」
「ご両親に頼んでみればいいじゃない」
「つまらない冗談ね。さすがにこの年になって実の兄弟ができるなんて遠慮したいわ」
「ならあなたの子供がそうなるように祈るのね」
「……メリー? 私の恋人は専門書だって知ってるわよね?」
「知ってるからこそ言ってるんじゃないの。それにしても道具の名前がわかる子ね、医療の道具に成り下がったクローン臓器を見せたらどうなるのかしら……」
「うん? なんか言った?」
「いいえ、何も。もう、蓮子ったらさっきから興奮しすぎよ。その男の子にもそんな調子で話し続けてたんじゃないでしょうね」
「だってこんな経験これまでしたことないし、これからもできるとは限らないわ!
再現なんてしようとしたら一体どれだけ膨大な研究とエネルギーを費やすか想像もできないわよ! これで興奮しなかったらそれはもう人間じゃないわ!」
「あら? それじゃ私は人間じゃないのかしら?」
了
まさか眼鏡にそういう設定を持ってくるとは……。
霖之助が魔理沙に語る雰囲気も良かった。
面白い作品でした。
道具の気持ちになって云々言ってた気がするけど、どっちとも取れる気がするな。
魔理沙との会話は非常にらしい感じで良かったと思います。
きれいにまとまっていていいと思います。