"لیلی و مجنون"
僕の目の前にはそう題された本が有る。先日霊夢からツケの一部として取り立てた外の世界の物の一つだ。蛇が這いずり回った絵のようにに見えるが、どうも文字らしい。あいにく読む事こそ出来ないものの、僕の能力が有れば名前はわかる。表紙には「ライラとマジュヌーン」という意味のことが書かれているらしい。
あいにくこの言葉を解さない僕には内容まではわからないが、おいおい把握すればいいだけの話だ、半妖の一生は幾つもの言語を学んでも十二分に足りるほどあるのだから。
僕は本を自室に運び、非売品の棚に置くと、霊夢から取り立てたもう一つの物に目を移した。黒い箱だ。本も興味深いが、このいかにも道具といった外観をした箱は、それ以上に僕の興味を引きつけて止まない。
僕の能力がその名を教えてくれる。この箱の名は「ネオジオ」というらしい。そして、僕の能力はそれに留まらず、その用途も教えてくれる。この道具は「ありとあらゆる物を操作できる」とのことだ。そう、かつて見た、そしてあの妖怪少女、八雲紫に奪われた灰色の小箱――ゲームボーイと言う名の道具と同じだ。ただ、ゲームボーイと比べると随分と大きい。
あの娘はゲームボーイの事を”携帯用”ゲーム機と言っていた。となれば、携帯しないゲーム機もあると考えることはおかしくもない。そして、僕の部屋でずしりと重い、黒い体を横たえるネオジオこそ携帯しないゲーム機であると考えることも。
ゲームボーイを始めて見たときはその用途に戦慄したものだ。ありとあらゆる物を操作できると言うことは、使い方次第では世界を滅ぼすことすら自由自在だということでもある。
ただ、紫の言によれば、ゲーム機というものは、あくまで仮想の物を操るすることに留まるらしい。具体的なことまでは、あいにく僕にはわからない。ゲームボーイと同様、静かに佇んでいるだけの箱は何も操れる様子を見せてはくれないからだ。
だが、予想は出来なくはない。最近迷いの竹林に現れた医者が不思議な薬を売っているそうだ。胡蝶夢丸と言う名のその薬は、思うままに夢を見せてくれるという。それは夢を自由自在に操ることであり、別の言い方をすれば、仮想の世界を操るとも言える。
ゲーム機も恐らくは夢を操る道具なのではないだろうか? 長年外の世界の道具を見てきた中で僕にはわかってきたことがある。その手法は違えども、目指す所は外の世界の道具も、幻想郷の物も変わらないと言うことだ。
コンピュータと式神がいい例だろう。コンピュータは命じるだけで思うがままに命令を実行してくれるらしい。それは式神と同じだ。コンピュータについてはまだまだ僕もわからないところが多いが、両者の手法は違うということは理解できる。そして、両者が目指すところが同じだと言うことも。
そうなれば善は急げと言う。早速試してみよう。僕は早々に店を閉めることにすると、寝室へと向かい昼寝の準備を整える。勿論ネオジオを持ちながら。
だが、どう使えば思い通りの夢が見られるのだろう? 流石にこのように巨大な道具を薬のように飲むと言うことは無いはずだ。僕はしばしの間ネオジオを眺める。そしてふと思いついた。
睡眠とはそもそも、魂が体から離れ、遊弋する幻象であると言う。そして遊弋する魂が見るもの、それが夢であると。だが、勿論好き勝手に離れてしまっては、魂がどこかに消えてしまいかねない。そのために人々は魂を修める箱を作った。それが枕だ。
枕とは今でこそ「枕」と書き「まくら」と読むが、古来は「魂倉」と書き、「たまくら」と読んだという。そしてゲーム機を枕として、魂の倉とし、倉の中に思い通りの世界を作ることにより仮想の世界を操る。この発想はあながち間違ってもいないだろう。いや、他の可能性を検討してみてもこれが一番正しいように思える。
さて、使い方がわかったとなれば後はどんな夢を見るかだが……これと言って見たい夢も無い気もする。とりあえずはツケで来る客のいない香霖堂の夢でも見てみるか。なるほど、これは現実ではありえなそうな夢だな。
僕はネオジオにカバーを敷き枕とする。背は低く、些か堅いことも否めない。体にも負担がかかりそうだ。おそらくは、あえて寝にくくすることで、夢の世界に長居できなくする、という設計思想があったのではないだろうか? 思い通りの夢が見られるとなれば、中には現実に帰りたがらない人間もあらわれるかもしれない。それを防ぐために。
道具とは便利なものだが、時に人を堕落させ、害となることもある。そう、ストーブのように。あれは便利なものだが、それ故に運動不足を招いたり、季節感を味わえなくなると言う欠点もある。僕が非売品にしている理由もそこにあるのだ。
そう、決して人に渡すのが勿体ないから非売品にしているわけではない。妖怪には怠け者が多い、僕のように日々仕事に精を出す人間の方が珍しいくらいだ。そんな人間にストーブを渡したら言わずもがなの結果が待っていることは間違いないだろう。
このように考えてみると、あえて枕を堅く作ったネオジオの開発者の発想には恐れ入る。わざわざ不便にするという発想はなかなか出てこないものだ。ストーブの反省を活かした結果だろうか。この点においては胡蝶夢丸、そして幻想郷の方が劣っているといっても過言ではない。
僕は眼鏡を外し、寝間着に着替えると堅い枕に頭を載せ、夢の世界に飛び立とうとする。次第に意識が遠のき、魂が僕の体から倉へと移ろうとした時……
僕の顔を冷たい手が撫でていることに気づいた。僕の魂は体に引き戻され、慌てて目を開く。虚空に小さな手が、白い手が、少女の手だけが不気味に浮かんでいる。こんなことが出来るのはただ一人、あの妖怪少女、来る度にろくな目に遭わない少女だけだ。
「あらあら、昼から店を閉めて昼寝なんて楽な商売ですわね」
「いや、道具を試していたものでね」
紫がいつの間にか全身を表していて、僕は眼鏡をかけ直し立ち上がる。服はそのままだが……人に見せて恥ずかしいデザインでもないし、まあいいだろう。
「こんな堅い枕で寝ることが?」
「ああ、またゲーム機らしきものを入手したので試していたんだ、恐らくは好きな夢を見る道具ではないかとあたりを付けてね」
紫は片手で、その細い手で、ネオジオを軽々と持ち上げながらクスリ、と笑っていた。
「夢を見るってのは遠からずかしら? でもこれはこういう使い方をするんじゃないんですけどね」
「そうかい。ならどうやって使うのかな?」
「電源に繋いで……ソフトを挿して……まぁ、幻想郷には無いものがないと無理ですわね」
「となると、僕には使えないと言うことかい?」
ネオジオに限らないが、外の世界の道具はそれだけでは使えない物が多いのが玉に瑕だ。電源……電気を操る道具だったか、見たことは無いが。ソフトも名前だけは外の世界の書物で聞いたことはある気はするが……
「そうね、ソフトが無いことには。でも電源があれば動くは動きますけど」
「電源を入手するのは難しいのかい?」
「いいえ。電源なら譲ってあげてもいいですわよ? 燃料同様に各種取りそろえていますもの、直流でも交流でも周波数も何でも」
僕には意味のわからない単語を並べつつ、紫は不吉に笑う。確かに興味はあるが、この娘と取引をすると面倒なことになると言うことは身を持って体験している。
「遠慮しておくよ、どうせソフトも今はないからね」
故に僕は即座に薦めを断った。下手に取引したが最後、身ぐるみを剥がれてもおかしくはない。
「そう。無理にとは言いませんわ。それはいいとして、今月の支払いをお願いしようと思ってきたの」
ただでさえ頼んでもいないのに、毎月燃料代の取り立てを迫られている身なのだから。ストーブの燃料は確かに必要ではあるが。
「ただ、相変わらず家の家計は火の車だからね。ツケを払わない客のせいで。君からも霊夢にツケの支払いをするように頼んでくれないかい?」
「困ったときはしょうがないですわ。無理矢理お金を作れなんて言うほど鬼じゃないですから。いつもの用に物々交換で構いませんわよ」
そう言いながら、再び不吉な笑みを見せ、
「このゲーム機で手を打ってあげますから」
ネオジオを持ち帰ろうとする。電源を譲る話を断らせて、価値を見失いそうになったところにこれか。中々の交渉術だな。
「それは流石に……色々試してみたいんだ」
「試すのはいいんですけど、電源がないと動かすことも出来ませんわよ?」
紫はあれこれ胡散臭い妖怪ではあるが、こういう嘘を付くことはなかったはずだ。電源とソフト、僕が見たことも無いその二つ。が無ければ動かせないのは事実なのだろう。
「そうかい、ただ、幻想郷にもこれ一台しかない貴重品だからね」
「それはそうでしょうね」
「ああ、だから、売るにしてももう少し色をつけたい所かな」
紫は何やら考え込む様子だった、「メタルスラッグがやりたいし……」「サムライスピリッツも……」等と意味のわからないことを呟いている。
「そうね、貴方は素敵な夢が見たかったのでしょう?」
「まあ、道具を使ってみたいというのが主な目的だったけど、見られるものならそうだね」
紫はまた考え込んでいたが、何故か僕に近づいてくると甘い声を出し、いつもより少し砕けた声色となる。それは何よりも不気味に思えた。
「わかりましたわ。私が添い寝してあげます」
「はあ?」
「私の能力があれば夢なんて思い通りですからね、隣にいればきっといい夢が見られますよ?」
なるほど、添い寝してもらえれば思い通りの夢が見られるのかもしれない……だが眠りに付くまでの不気味さは考えたくもない。何より胡蝶夢丸を買ってくればそれで十分だ。
「遠慮しておくよ」
僕は毅然と断る。
「しょうがないわね、じゃあ膝枕してあげますから」
「お金を貰っても遠慮しておくよ」
「あの堅い枕よりずっと柔らかいんですよ?」
そしてずっと不吉だ、と言おうと思ったが、流石にそれを口に出すのは控えておく。
「柔らかくても遠慮しておくよ」
「じゃあ藍を貸してあげるから尻尾を枕にしてみませんこと? どんな枕よりふかふかですわよ?」
「もう夢と関係ないんじゃないかい?」
藍とは紫の式だったか、対面したことはないが九尾の狐だと聞く。その尻尾となれば確かに柔らかく、この娘ほど不気味でもないだろうが、僕には普通の枕で十分だ。
「全く、この美少女がここまで言っているのに」
ようやく諦めたのか、紫がそう独り言を言っている。一応美少女と言う点までは否定しないが、あの大妖怪らしからぬ少女らしい姿に派手な格好が、そしてどれだけ美しくとも、人間らしからぬ鋭い目につかみ所の無い言動をしている点がより不気味に見せるのではないか? と思わせる。これもまた口には出さないが。
ともあれ、流石にネオジオを諦めたのか、あるいは元より僕をからかっていただけなのか、紫は始めからそのために来たのだ、と言わんばかりの様子で部屋の中を物色し始めた。部屋にしまってある、そして誰にも場所を伝えた記憶の無い非売品の場所に向かう。
「あら? こんな本が好みでしたの?」
そしてその一角で足を止めた。そこは僕には読めない言語で書かれた本の仕舞われた棚だ。勿論"لیلی و مجنون"も。紫は"لیلی و مجنون"を手に取りながら僕にそう話しかけた。
「いや、あいにくその言葉は読めなくてね、まだ内容は把握してないんだ」
「そう、残念ね。中々面白い小説ですわよ?」
紫は簡単にあらすじを説明してくれた。とある美女に恋い焦がれるあまり狂人となった青年を主人公にした悲恋の物語だそうだ。外の世界では中々有名な小説のようで、"Layra"という、これをモチーフとした曲が長年親しまれているとも言う。
「なるほど、面白そうだね」
見事な話術だろう、確かに僕に興味を持たせるには十分だった。
「そうね、読みたいなら翻訳してあげるますよ」
いや、確かに見事な話術だ。思わず翻訳して貰いたくなるように誘導されてしまった。
「そのゲーム機で、今月の支払いと翻訳、悪くないと思いませんか?」
「そうだね……」
僕は思わず考え込む。ネオジオに興味はあるが、僕が持っていても宝の持ち腐れになる可能性は高い。だが、翻訳して貰えば同じく宝の持ち腐れとなった本を読むことは出来る。
「どうだろう? 他にも色んな読めない本があるんだ。それも翻訳してくれないかい? それなら譲るよ」
「あら、貴方も随分商売っ気が出てきたのね」
そう言いつつも「たいした手間ではないですから」と了解してくれた。紫は本を持つと何かを行う。「境界を操る程度」と聞くその能力を行使しているのだろう。本が一瞬消え去り、そして再び現れる。その間に言葉の境界を操ったようだ。見慣れぬ言葉で書かれた本が、日本語で書かれた本となって現れる。それを幾度か繰り返し、宝の持ち腐れだった本が宝となって現れた。
「これでいいかしら?」
「ああ、ありがとう」
そして僕はネオジオを手渡す。紫は笑みを見せながら受け取った。よほど欲しかったのだろうか? その時に見せた笑みはいつもの不気味な笑みではなく、とても無垢な、少女らしい純真な笑顔に見えた。
「確かに受け取りましたわ。それではご機嫌よう」
紫はその少女らしい笑顔のまま礼を述べると、あっという間に消え去り、香霖堂には再び静寂が戻ってきた。
僕はその静寂の中、"لیلی و مجنون”では無く、「ライラとマジュヌーン」と題された本に心を走らせる。狂気をはらんだ恋愛を描く悲しい物語ではあったが、確かに僕の心を打つものがあった。少なくとも香霖堂にツケをせずに買い物に来る、と言う夢よりも遙かに素晴らしい世界が本の中には広がっていた。
そして、本棚を見れば今までは行くことの出来なかった本の世界が、紫が翻訳した本の広がっている。それを見て、僕はいつになく気持ちのいい取引が出来たな、と思った。初対面の印象が些か良くなかったせいか、どうもあの娘には苦手な印象を持っていたが、考えてみれば燃料のおかげで僕は快適な生活が出来ているわけだし、紫への評価は改めた方がいいのかもしれない。
紫がネオジオを受け取ったときの笑みは心地の良い笑みだった。あれは趣味人の笑みではないだろうか? 趣味の品を多く扱う僕の経験からしても、趣味の品を手にした客は皆あんな笑みをしていたような気がする。そして、趣味人に悪い人間はいない。
そう、それは当然趣味人である読書をする人間も、作家も同じだ。僕はもう一度「ライラとマジュヌーン」を読み返した。"ニザーミー・ギャンジェヴィー"という作家が書いた小説らしい。僕にはこの作家がどんな人間で、どんな時代を生きた人間かもわからない。だが、幻想に思いを馳せることは出来る。
もう一度読み終え、僕は奥付を見る。イランと言う名の外の世界の国で作られた本らしい。名前だけは外の世界から流れてきた地図で見たことがある。あの辺りは熱く――砂漠の広がる世界と聞く。そして発行されたのはヒジュラ暦1429年とのことだ。ヒジュラ暦。外の世界の本でよく見るのは元号――幻想郷でも外の世界と完全に隔てられる前には使われていた暦と、キリストとかいう神の生誕年を基準にしたはずの西暦という暦だが、ヒジュラ歴とは聞いたことの無い暦だ。果たして何時なのだろう?
西暦は少なくとも2000年は超えているはずだ。2008年に発行された本を見たことがある。一方これは1429年。ただ、この本は機械を用いて擦られた事を伺わせる、しっかりした印刷が成されており、それほど古いものとも思えない。両者の数字には600年ほどの時間が有るが、案外それらは近い年代なのかもしれない。
だが、幻想郷に住む僕にはそれを知る術は無い。そもそも物語が作られた時代と本が発行された年代が一致している保証も無い。「ライラとマジュヌーン」の言葉は古めかしい点もあり、文章は韻文的な色彩を帯びており、古典文学に多い調子であった。むしろ印刷される前より遙か前に書かれたと考えた方が自然かもしれない。いずれにしても僕にはわからない。そしてそれがより一層僕の幻想をかき立てる。名前しか知らない国で、何時かもわからない時代に書かれた本。僕は本を頼りにその幻想を思い浮かべる。世界を、作者を、そして言葉も通じないはずの前の持ち主を。
――いつしか僕の心はヒジュラ暦1429年のイランに飛んでいた。それは幻想でしかない。夢と同じように。そして、その世界を僕の心は思いのままに形作る。それは胡蝶夢丸のように、ネオジオのように。そう、思い通りの世界を作るのに不思議な道具などいらない。本の一冊があれば僕には十分だ。一冊の本は無限の夢を僕に見させてくれる。そして、僕の手元には山のように本が有る。紫のおかげで随分と増えた本達が。
そのまま僕は本を読み続けていた。今度の本は西暦2008年の春に発行された本だ。百二十三季の冬の幻想郷に生きる僕は、2008年の春の外の世界に思いを馳せながら本を読み続ける。いつの間にか日は暮れ、夜の帳は落ちきっていた。そして、僕はその中でいつしか本当の夢に落ちる――2008年の春の外の世界の夢に――
僕の目の前にはそう題された本が有る。先日霊夢からツケの一部として取り立てた外の世界の物の一つだ。蛇が這いずり回った絵のようにに見えるが、どうも文字らしい。あいにく読む事こそ出来ないものの、僕の能力が有れば名前はわかる。表紙には「ライラとマジュヌーン」という意味のことが書かれているらしい。
あいにくこの言葉を解さない僕には内容まではわからないが、おいおい把握すればいいだけの話だ、半妖の一生は幾つもの言語を学んでも十二分に足りるほどあるのだから。
僕は本を自室に運び、非売品の棚に置くと、霊夢から取り立てたもう一つの物に目を移した。黒い箱だ。本も興味深いが、このいかにも道具といった外観をした箱は、それ以上に僕の興味を引きつけて止まない。
僕の能力がその名を教えてくれる。この箱の名は「ネオジオ」というらしい。そして、僕の能力はそれに留まらず、その用途も教えてくれる。この道具は「ありとあらゆる物を操作できる」とのことだ。そう、かつて見た、そしてあの妖怪少女、八雲紫に奪われた灰色の小箱――ゲームボーイと言う名の道具と同じだ。ただ、ゲームボーイと比べると随分と大きい。
あの娘はゲームボーイの事を”携帯用”ゲーム機と言っていた。となれば、携帯しないゲーム機もあると考えることはおかしくもない。そして、僕の部屋でずしりと重い、黒い体を横たえるネオジオこそ携帯しないゲーム機であると考えることも。
ゲームボーイを始めて見たときはその用途に戦慄したものだ。ありとあらゆる物を操作できると言うことは、使い方次第では世界を滅ぼすことすら自由自在だということでもある。
ただ、紫の言によれば、ゲーム機というものは、あくまで仮想の物を操るすることに留まるらしい。具体的なことまでは、あいにく僕にはわからない。ゲームボーイと同様、静かに佇んでいるだけの箱は何も操れる様子を見せてはくれないからだ。
だが、予想は出来なくはない。最近迷いの竹林に現れた医者が不思議な薬を売っているそうだ。胡蝶夢丸と言う名のその薬は、思うままに夢を見せてくれるという。それは夢を自由自在に操ることであり、別の言い方をすれば、仮想の世界を操るとも言える。
ゲーム機も恐らくは夢を操る道具なのではないだろうか? 長年外の世界の道具を見てきた中で僕にはわかってきたことがある。その手法は違えども、目指す所は外の世界の道具も、幻想郷の物も変わらないと言うことだ。
コンピュータと式神がいい例だろう。コンピュータは命じるだけで思うがままに命令を実行してくれるらしい。それは式神と同じだ。コンピュータについてはまだまだ僕もわからないところが多いが、両者の手法は違うということは理解できる。そして、両者が目指すところが同じだと言うことも。
そうなれば善は急げと言う。早速試してみよう。僕は早々に店を閉めることにすると、寝室へと向かい昼寝の準備を整える。勿論ネオジオを持ちながら。
だが、どう使えば思い通りの夢が見られるのだろう? 流石にこのように巨大な道具を薬のように飲むと言うことは無いはずだ。僕はしばしの間ネオジオを眺める。そしてふと思いついた。
睡眠とはそもそも、魂が体から離れ、遊弋する幻象であると言う。そして遊弋する魂が見るもの、それが夢であると。だが、勿論好き勝手に離れてしまっては、魂がどこかに消えてしまいかねない。そのために人々は魂を修める箱を作った。それが枕だ。
枕とは今でこそ「枕」と書き「まくら」と読むが、古来は「魂倉」と書き、「たまくら」と読んだという。そしてゲーム機を枕として、魂の倉とし、倉の中に思い通りの世界を作ることにより仮想の世界を操る。この発想はあながち間違ってもいないだろう。いや、他の可能性を検討してみてもこれが一番正しいように思える。
さて、使い方がわかったとなれば後はどんな夢を見るかだが……これと言って見たい夢も無い気もする。とりあえずはツケで来る客のいない香霖堂の夢でも見てみるか。なるほど、これは現実ではありえなそうな夢だな。
僕はネオジオにカバーを敷き枕とする。背は低く、些か堅いことも否めない。体にも負担がかかりそうだ。おそらくは、あえて寝にくくすることで、夢の世界に長居できなくする、という設計思想があったのではないだろうか? 思い通りの夢が見られるとなれば、中には現実に帰りたがらない人間もあらわれるかもしれない。それを防ぐために。
道具とは便利なものだが、時に人を堕落させ、害となることもある。そう、ストーブのように。あれは便利なものだが、それ故に運動不足を招いたり、季節感を味わえなくなると言う欠点もある。僕が非売品にしている理由もそこにあるのだ。
そう、決して人に渡すのが勿体ないから非売品にしているわけではない。妖怪には怠け者が多い、僕のように日々仕事に精を出す人間の方が珍しいくらいだ。そんな人間にストーブを渡したら言わずもがなの結果が待っていることは間違いないだろう。
このように考えてみると、あえて枕を堅く作ったネオジオの開発者の発想には恐れ入る。わざわざ不便にするという発想はなかなか出てこないものだ。ストーブの反省を活かした結果だろうか。この点においては胡蝶夢丸、そして幻想郷の方が劣っているといっても過言ではない。
僕は眼鏡を外し、寝間着に着替えると堅い枕に頭を載せ、夢の世界に飛び立とうとする。次第に意識が遠のき、魂が僕の体から倉へと移ろうとした時……
僕の顔を冷たい手が撫でていることに気づいた。僕の魂は体に引き戻され、慌てて目を開く。虚空に小さな手が、白い手が、少女の手だけが不気味に浮かんでいる。こんなことが出来るのはただ一人、あの妖怪少女、来る度にろくな目に遭わない少女だけだ。
「あらあら、昼から店を閉めて昼寝なんて楽な商売ですわね」
「いや、道具を試していたものでね」
紫がいつの間にか全身を表していて、僕は眼鏡をかけ直し立ち上がる。服はそのままだが……人に見せて恥ずかしいデザインでもないし、まあいいだろう。
「こんな堅い枕で寝ることが?」
「ああ、またゲーム機らしきものを入手したので試していたんだ、恐らくは好きな夢を見る道具ではないかとあたりを付けてね」
紫は片手で、その細い手で、ネオジオを軽々と持ち上げながらクスリ、と笑っていた。
「夢を見るってのは遠からずかしら? でもこれはこういう使い方をするんじゃないんですけどね」
「そうかい。ならどうやって使うのかな?」
「電源に繋いで……ソフトを挿して……まぁ、幻想郷には無いものがないと無理ですわね」
「となると、僕には使えないと言うことかい?」
ネオジオに限らないが、外の世界の道具はそれだけでは使えない物が多いのが玉に瑕だ。電源……電気を操る道具だったか、見たことは無いが。ソフトも名前だけは外の世界の書物で聞いたことはある気はするが……
「そうね、ソフトが無いことには。でも電源があれば動くは動きますけど」
「電源を入手するのは難しいのかい?」
「いいえ。電源なら譲ってあげてもいいですわよ? 燃料同様に各種取りそろえていますもの、直流でも交流でも周波数も何でも」
僕には意味のわからない単語を並べつつ、紫は不吉に笑う。確かに興味はあるが、この娘と取引をすると面倒なことになると言うことは身を持って体験している。
「遠慮しておくよ、どうせソフトも今はないからね」
故に僕は即座に薦めを断った。下手に取引したが最後、身ぐるみを剥がれてもおかしくはない。
「そう。無理にとは言いませんわ。それはいいとして、今月の支払いをお願いしようと思ってきたの」
ただでさえ頼んでもいないのに、毎月燃料代の取り立てを迫られている身なのだから。ストーブの燃料は確かに必要ではあるが。
「ただ、相変わらず家の家計は火の車だからね。ツケを払わない客のせいで。君からも霊夢にツケの支払いをするように頼んでくれないかい?」
「困ったときはしょうがないですわ。無理矢理お金を作れなんて言うほど鬼じゃないですから。いつもの用に物々交換で構いませんわよ」
そう言いながら、再び不吉な笑みを見せ、
「このゲーム機で手を打ってあげますから」
ネオジオを持ち帰ろうとする。電源を譲る話を断らせて、価値を見失いそうになったところにこれか。中々の交渉術だな。
「それは流石に……色々試してみたいんだ」
「試すのはいいんですけど、電源がないと動かすことも出来ませんわよ?」
紫はあれこれ胡散臭い妖怪ではあるが、こういう嘘を付くことはなかったはずだ。電源とソフト、僕が見たことも無いその二つ。が無ければ動かせないのは事実なのだろう。
「そうかい、ただ、幻想郷にもこれ一台しかない貴重品だからね」
「それはそうでしょうね」
「ああ、だから、売るにしてももう少し色をつけたい所かな」
紫は何やら考え込む様子だった、「メタルスラッグがやりたいし……」「サムライスピリッツも……」等と意味のわからないことを呟いている。
「そうね、貴方は素敵な夢が見たかったのでしょう?」
「まあ、道具を使ってみたいというのが主な目的だったけど、見られるものならそうだね」
紫はまた考え込んでいたが、何故か僕に近づいてくると甘い声を出し、いつもより少し砕けた声色となる。それは何よりも不気味に思えた。
「わかりましたわ。私が添い寝してあげます」
「はあ?」
「私の能力があれば夢なんて思い通りですからね、隣にいればきっといい夢が見られますよ?」
なるほど、添い寝してもらえれば思い通りの夢が見られるのかもしれない……だが眠りに付くまでの不気味さは考えたくもない。何より胡蝶夢丸を買ってくればそれで十分だ。
「遠慮しておくよ」
僕は毅然と断る。
「しょうがないわね、じゃあ膝枕してあげますから」
「お金を貰っても遠慮しておくよ」
「あの堅い枕よりずっと柔らかいんですよ?」
そしてずっと不吉だ、と言おうと思ったが、流石にそれを口に出すのは控えておく。
「柔らかくても遠慮しておくよ」
「じゃあ藍を貸してあげるから尻尾を枕にしてみませんこと? どんな枕よりふかふかですわよ?」
「もう夢と関係ないんじゃないかい?」
藍とは紫の式だったか、対面したことはないが九尾の狐だと聞く。その尻尾となれば確かに柔らかく、この娘ほど不気味でもないだろうが、僕には普通の枕で十分だ。
「全く、この美少女がここまで言っているのに」
ようやく諦めたのか、紫がそう独り言を言っている。一応美少女と言う点までは否定しないが、あの大妖怪らしからぬ少女らしい姿に派手な格好が、そしてどれだけ美しくとも、人間らしからぬ鋭い目につかみ所の無い言動をしている点がより不気味に見せるのではないか? と思わせる。これもまた口には出さないが。
ともあれ、流石にネオジオを諦めたのか、あるいは元より僕をからかっていただけなのか、紫は始めからそのために来たのだ、と言わんばかりの様子で部屋の中を物色し始めた。部屋にしまってある、そして誰にも場所を伝えた記憶の無い非売品の場所に向かう。
「あら? こんな本が好みでしたの?」
そしてその一角で足を止めた。そこは僕には読めない言語で書かれた本の仕舞われた棚だ。勿論"لیلی و مجنون"も。紫は"لیلی و مجنون"を手に取りながら僕にそう話しかけた。
「いや、あいにくその言葉は読めなくてね、まだ内容は把握してないんだ」
「そう、残念ね。中々面白い小説ですわよ?」
紫は簡単にあらすじを説明してくれた。とある美女に恋い焦がれるあまり狂人となった青年を主人公にした悲恋の物語だそうだ。外の世界では中々有名な小説のようで、"Layra"という、これをモチーフとした曲が長年親しまれているとも言う。
「なるほど、面白そうだね」
見事な話術だろう、確かに僕に興味を持たせるには十分だった。
「そうね、読みたいなら翻訳してあげるますよ」
いや、確かに見事な話術だ。思わず翻訳して貰いたくなるように誘導されてしまった。
「そのゲーム機で、今月の支払いと翻訳、悪くないと思いませんか?」
「そうだね……」
僕は思わず考え込む。ネオジオに興味はあるが、僕が持っていても宝の持ち腐れになる可能性は高い。だが、翻訳して貰えば同じく宝の持ち腐れとなった本を読むことは出来る。
「どうだろう? 他にも色んな読めない本があるんだ。それも翻訳してくれないかい? それなら譲るよ」
「あら、貴方も随分商売っ気が出てきたのね」
そう言いつつも「たいした手間ではないですから」と了解してくれた。紫は本を持つと何かを行う。「境界を操る程度」と聞くその能力を行使しているのだろう。本が一瞬消え去り、そして再び現れる。その間に言葉の境界を操ったようだ。見慣れぬ言葉で書かれた本が、日本語で書かれた本となって現れる。それを幾度か繰り返し、宝の持ち腐れだった本が宝となって現れた。
「これでいいかしら?」
「ああ、ありがとう」
そして僕はネオジオを手渡す。紫は笑みを見せながら受け取った。よほど欲しかったのだろうか? その時に見せた笑みはいつもの不気味な笑みではなく、とても無垢な、少女らしい純真な笑顔に見えた。
「確かに受け取りましたわ。それではご機嫌よう」
紫はその少女らしい笑顔のまま礼を述べると、あっという間に消え去り、香霖堂には再び静寂が戻ってきた。
僕はその静寂の中、"لیلی و مجنون”では無く、「ライラとマジュヌーン」と題された本に心を走らせる。狂気をはらんだ恋愛を描く悲しい物語ではあったが、確かに僕の心を打つものがあった。少なくとも香霖堂にツケをせずに買い物に来る、と言う夢よりも遙かに素晴らしい世界が本の中には広がっていた。
そして、本棚を見れば今までは行くことの出来なかった本の世界が、紫が翻訳した本の広がっている。それを見て、僕はいつになく気持ちのいい取引が出来たな、と思った。初対面の印象が些か良くなかったせいか、どうもあの娘には苦手な印象を持っていたが、考えてみれば燃料のおかげで僕は快適な生活が出来ているわけだし、紫への評価は改めた方がいいのかもしれない。
紫がネオジオを受け取ったときの笑みは心地の良い笑みだった。あれは趣味人の笑みではないだろうか? 趣味の品を多く扱う僕の経験からしても、趣味の品を手にした客は皆あんな笑みをしていたような気がする。そして、趣味人に悪い人間はいない。
そう、それは当然趣味人である読書をする人間も、作家も同じだ。僕はもう一度「ライラとマジュヌーン」を読み返した。"ニザーミー・ギャンジェヴィー"という作家が書いた小説らしい。僕にはこの作家がどんな人間で、どんな時代を生きた人間かもわからない。だが、幻想に思いを馳せることは出来る。
もう一度読み終え、僕は奥付を見る。イランと言う名の外の世界の国で作られた本らしい。名前だけは外の世界から流れてきた地図で見たことがある。あの辺りは熱く――砂漠の広がる世界と聞く。そして発行されたのはヒジュラ暦1429年とのことだ。ヒジュラ暦。外の世界の本でよく見るのは元号――幻想郷でも外の世界と完全に隔てられる前には使われていた暦と、キリストとかいう神の生誕年を基準にしたはずの西暦という暦だが、ヒジュラ歴とは聞いたことの無い暦だ。果たして何時なのだろう?
西暦は少なくとも2000年は超えているはずだ。2008年に発行された本を見たことがある。一方これは1429年。ただ、この本は機械を用いて擦られた事を伺わせる、しっかりした印刷が成されており、それほど古いものとも思えない。両者の数字には600年ほどの時間が有るが、案外それらは近い年代なのかもしれない。
だが、幻想郷に住む僕にはそれを知る術は無い。そもそも物語が作られた時代と本が発行された年代が一致している保証も無い。「ライラとマジュヌーン」の言葉は古めかしい点もあり、文章は韻文的な色彩を帯びており、古典文学に多い調子であった。むしろ印刷される前より遙か前に書かれたと考えた方が自然かもしれない。いずれにしても僕にはわからない。そしてそれがより一層僕の幻想をかき立てる。名前しか知らない国で、何時かもわからない時代に書かれた本。僕は本を頼りにその幻想を思い浮かべる。世界を、作者を、そして言葉も通じないはずの前の持ち主を。
――いつしか僕の心はヒジュラ暦1429年のイランに飛んでいた。それは幻想でしかない。夢と同じように。そして、その世界を僕の心は思いのままに形作る。それは胡蝶夢丸のように、ネオジオのように。そう、思い通りの世界を作るのに不思議な道具などいらない。本の一冊があれば僕には十分だ。一冊の本は無限の夢を僕に見させてくれる。そして、僕の手元には山のように本が有る。紫のおかげで随分と増えた本達が。
そのまま僕は本を読み続けていた。今度の本は西暦2008年の春に発行された本だ。百二十三季の冬の幻想郷に生きる僕は、2008年の春の外の世界に思いを馳せながら本を読み続ける。いつの間にか日は暮れ、夜の帳は落ちきっていた。そして、僕はその中でいつしか本当の夢に落ちる――2008年の春の外の世界の夢に――
な! なんだってー!
原作のネタも入りつつで自然に香霖堂って感じでよかったです。でも2008年春が来ないと今や原作読むのも難しいんですよね・・・
もしくは竹林いって蓬莱の薬を……
冷凍睡眠装置にでも入ってくるか…
という真剣な話は置いておいて、原作のような雰囲気が出ていて楽しかったです。
初期無修正のサムスピやりたいです
霖之助がかっこよくて恋愛物みたいのは苦手だけどこういうのは好きだな。
原作に近いと地味になりがちだけどよかったです。
安心して読み進められるクオリティ。いい。
程よい掛け合いと自然な蘊蓄で、原作を読む気分で楽しめました
軽快な地の文、原作のような雰囲気で実に面白かったです。
ちょっと是非曲直庁に申請してくる。
こういうのがもっとあってもいいよね
生きてるかな…俺
2008年春とはこんなにも優しい。
Xはガチで名作だと思う
俺達の願いは潰えないぞw
…今年こそ発売してくれないかなぁ
紫の行動、本編の挿絵に出てきたあの本、そしてライラとマジュヌーン。
噛めば噛むほど味が出てくるというか、はじめに読んだときは想像もしていなかった深みがそこここに散りばめられていて、
皆さんが仰るようにそれこそ香霖堂本編を読んだような気分になりました。
正月早々素晴らしい作品をありがとう御座います。
任天堂は大変なものを開発していきました。