神妙な顔、というのはこういうのを言うのだろう。
ぺらり、ぺらりと紙を捲るその顔は眉根は寄っているし片目は何にピントを合わせているのかはわからないが細まっている。
「どう?」
「……漫画、ですね。いたって、普通に……ええと宇佐見、さんでしたっけ」
「うん。董子でいいよ。早苗っち……早苗さん? やっぱり早苗っちで」
ふうむと唸りながら、早苗っちは紙の束、私が持ってきた漫画の原稿を読み終えた。私の隣にいる霊夢っちにもここに来る前に呼んでもらったのだが、やはり似たような顔をしていた。それはきっと私が尋ねた内容の所為もあるのだろう。
面白かったか、とは尋ねていない。何故なら私が描いたわけではないし、正直面白いとかそうじゃないとかの範囲で語れるものでもないのだ。
私が尋ねた内容について、最初に見た霊夢っちの回答になんとなくそうだろうとは思ったが、念のためということで今こうして早苗っちにも見せているというわけだ(ちなみに今回が早苗っちとの初対面なのだ)。
原稿を渡して、五分ほど、だと思う。正座している足が痺れ始めるくらいの時間が経った頃に早苗っちは原稿を整え、私の胸元へ差し出した。
「あまり、よくないですね。これ」
「アンタもそう思う?」
『この漫画に、何か霊的なものを感じるか』
私が二人に尋ねた内容だ。確かに私は超能力は使えるが、霊だとか魔だとかそういうのは興味はあれど門外漢だ。そういうわけで二人に見せたのだが、霊夢っちの相槌はつまりそういうことで。まあ、予想は出来ていた。
原稿の最後のページ。そこには読者を、こちらを見つめる少女と、その横にいる何かが大きく一コマとして描かれている。
A子ちゃん。
彼女は一体、何処へ行ってしまったのだろうか。
宇佐見さん、宇佐見さん
彼女のことを思い出すと、必ずこの言葉が再生される。彼女の声は、言葉として表すのならば『丸っこい声』をしていた。正直言って彼女の顔を私ははっきりと思い出せない。別に私が相貌失認を持っているとか、そういう訳じゃない。単に彼女の顔が普通だっただけ。確か苗字は佐藤だった、気がする。そう、佐藤のA子ちゃん。
高校に入ってから隣になった彼女のことを、私は今回の件まで何かあったら起こしてくれる丸っこい声の目覚まし時計くらいにしか認識していなかった。
宇佐見さん、宇佐見さんってば
「んあ、なに。ど」
本当は『どうしたの』まで続けるはずだった言葉は、頭に響いた重い衝撃で口から出ることは無く、かわりに『どんっふ』というおよそ少女が発していはいけないような言葉と空気のハイブリッドカーが唇を通った。何度も味わっている衝撃に頭をさすりながら顔を上げると、まるで熊のような担任が(本当に担任の名前は熊田なのだ。名は体を表すらしい)、綺麗にアルカイックスマイルを浮かべていた。嗚呼、南無、合掌。
『宇佐見ィッ‼』
結局熊さんに怒られて、睡眠をむさぼるという私の有意義な午後の計画は水泡に帰した。ご丁寧に放課後まで呼び出されて注意を受けて、ようやく解放されたころには既に空は薄い茜空になっていた。
熊さんのいた体育指導室もそうだが、クーラーが効いている所とそうではないところで温度差が大きすぎる。指導室を出ると、むわっとした空気が髪を通る。野球部の掛け声に合わせているのだろうか、吹奏楽部の少し気の抜けた金管楽器の音が響いている。
あと少しで梅雨入りかというこの時期、今年はとかく蒸し暑い。この制服が肌に張り付く感覚も嫌だし、少しでも気を抜くと肌が汗で色々とやられてしまう。そう、いろいろとだ。乙女の肌には秘密が沢山なのだ。
「暑っつ……」
ああいうのを青春というのかもしれないが、生憎と私は誰かとチームプレイで何かを成し遂げる感性も持ちあわせていないし、他人よりもパーソナルスペースが広い。一人でいる方が気が楽だしね。決してぼっちというわけではないのだ。きっと、たぶん、めいびー。
気分転換にシューズの底をリノリウムの床で鳴らしながら教室に戻ると、まだA子ちゃんが机に向かっていた。一応二ヶ月程席を隣にしてわかったことがある。真面目そうに見えて意外とこの子は頭がよくないし、見た目ほど真面目でもないということだった。
「まだ描いてるの?」
あ、宇佐見さん。
彼女の机、動きの止まっているA子ちゃんの手元では、そろそろ白い紙が『コマ』で埋まろうとしていた。
彼女もまた私と同じように孤独を愛している人種のようだが(私がそう思っているだけだが、多分間違っていないはず)、私と唯一違う点を挙げるとするならば、私の所属する、もとい私が部長である秘封倶楽部という存在は学校には帰宅部として認知されているが、彼女は漫画研究会という学校が認めた団体に所属しているということだろう。
今日は一体何を描いているのか気になりはしたが、とりあえずそれよりも帰宅欲求の方が私の脳内を占めていた。何か冷たいものでも買って帰ろうかなあ、なんて考えながら支度をしていると、描き終わったのだろう、A子ちゃんのよし、という声が聞こえた。
ねえ、宇佐見さん。
「んん? どったの?」
今日はアイスを買ってみると、いいことあるかも。
そう言って差し出された彼女の原稿に、視線を落とした。毛……手足か? のようなものが生えた眼鏡と帽子を着けたくねくねが、棒人間の店員にお金を渡してアイスを買う。そして食べ終わった後の棒には『あたり』と書かれている。最後のコマでは、くねくねは頬を染めて笑っていた。
「……これって私?」
んー、多分。
彼女には、不思議な力があるらしい。曰く『たまに漫画に描いたことが現実になる』と。本人も狙って描くことは出来ないらしいけど、たまに『降りてくる』らしいのだ。彼女の力が本当かどうかは判断できないが、当たったところを見たこともあるし、まあそういうものなのだろう。こんな考え方になるのは、私も『持っている』からかもしれない。
もしこの漫画の通りの未来が訪れるのなら、私がアイスを買えばきっと当たりになるのだろう。実は私が対象になったのは初めてだったので内心半信半疑だったが、信じてみるのも悪くは無い。だって今日は暑いし。
「なら、試してみますかねっと」
そうしてその日の帰り道。A子ちゃんと別れてから本当に物の試しという気持ちでコンビニでアイスを買ってみた。氷菓の値段が上がっても頑として百円を超えない値段設定で子供たちの味方であり続けるゴリゴリ君アイスの棒には『あたり』と書かれていて。本当に当たった高揚感でにやけながら見上げた空は、普段よりも茜が濃かったんだ。
彼女の持つ力が本物かどうかはさておいて、私はA子ちゃんに親近感のようなものを覚えていた。それは例えば『お友達になれるかも!』みたいな週末にやっている子供向けアニメのような純粋な気持ちではなくて、きっと彼女も世界に憂いているのだろうという、ある意味イタい考えでもあった。
だってそうでしょう。自分が他の人とは明らかに違うものを持っているのに気が付いて、しかもそれが所謂普通ではないのだ。もし隣に座っている席のなんか顔も普通で印象に残らないような奴がいきなり『私の描く漫画、未来のことを当てられるんだ』とか『僕、超能力が使えるんだ!』とかぬかす奴だったとしよう。どう考えたってまともには関わりたくないという人が大半のはずだ。私は違うけど。
きっと彼女も、私と多少の差異はあれど同じような考え方、生き方をしてきたはず。それは予測でしかないけれど、だからこそ私は奇妙な連帯感というか、親近感を持っていたのだ。
「明日報告しなくちゃ」
思えば、この時には既に物語の歯車は止まらないほどに加速していて。だからきっと私がどれだけ頑張っても、結末は変わらなかっただろう。
次の日に私の報告を聞いたA子ちゃんは、よかったあと笑っていた。
幻想郷から戻ってきて得られた結論は、やはりというか何というか、分からないということだった。分からないことが分かったのだから決して無駄ではないと言い聞かせながら、部屋に戻ってさっきまで霊夢っち達に見せていた原稿に、改めて目を通した。A子ちゃんが今までに書いていた漫画の中で、特に最近のものだ。
A子ちゃんが描く漫画には、素人の私が見ても分かりやすい特徴があった。所謂『降りてきている時に描いた漫画』には、吹き出しが全くと言っていいほどに無い。あったとしても、せいぜい一つか二つだ。
それともう一つ、その時に描かれた漫画は、一部の人物を除いてデフォルトされている絵柄で統一されている。普段A子ちゃんが描く作風とは全くと言っていいほどに違うのだ。そのことについて尋ねたことがあったが、彼女は多分笑顔を浮かべながら、どうしてだろうねと言っていた。多分、そう、多分だ。
紙の束の中から何枚かのまとまりを抜き出した。そこに描かれているコマを見ながら、彼女の意識を、思考をトレースする。降りてきている時は何も考えておらずに勝手に手が動くらしい。
視線を落とした原稿には、人は描かれていない。ただただ風景が描かれている。奇妙だ、と思うのが、その風景はきちんとコマ割りされたなかで描かれているのだ。つまり彼女は風景画とかを描いていたわけではなかった。
始まりは、よくある玄関が描かれている。この漫画は、風景(背景といった方が正しいのかもしれない)を誰かの目線を通して見ているものなのだということは分かる。この意見に関しては、早苗っちも同意していた。
漫画は、そのまま様々な景色を紙に映していた。私が最初に見たときに思ったのは『誰かの登校風景』を描いたものなのでは、というものだった。けど違ったんだ。
景色はどんどんと移り変わっていき、そして景色はいきなり椅子を映した。その形状を見て、多分それが新幹線に乗ったのだと気が付いた。その予想は当たっていて、次のコマではもう主人公は駅のホームに降り立っているのだ。
具体的に、漫画の中でどれほどの時間が経っているかは判然としないけれど、夜ではないことは確かだ。そうして主人公は、一つの建物を視界に収めた。集合住宅というよりは団地といった方が正しい気がする。最初に見たときに、私はなんてことのないコマだと思っていたが、それはどうやら違ったらしい。
そこに描かれていた建物は、A子ちゃんが住んでいる建物だったのだと。
この絵を描いたとき、彼女は一体、どんな気持ちだったのだろう。それを知ることは、もう出来ないかもしれない。
私がアイスが当たったという話をしてからも、彼女はよく漫画を描いていた。何でも中学校の頃よりも『降りてくる』回数が増えたのだという。
まだこの頃は、私は彼女の能力に懐疑的だった。アイスでお得な気分になったのは間違いが無いし感謝もしているが、あの時に私は彼女の言葉に従っていた部分があることもまた事実だったからだ。今思い返してみると、ちょっとカッコ悪いけど。
そんな中で、私が彼女の持っている力が本物に限りなく近いのだろうと考えられる出来事があった。
宇佐見さん、宇佐見さんっ。
梅雨入り直後で、蒸し暑い日だった。次の移動教室はどこだっけとぼうっと考えている時に、そうA子ちゃんに声をかけられたのだ。どうしたの、と返すと、A子ちゃんはなんとも悪戯っぽくにやけながら、私に四つ折りにされた紙を渡してきた。
次の美術が終わったら、それ、開いてみて。
そういえば次の授業は美術だったんだっけと急いで支度をしているうちに、私の頭の中からは、彼女の言葉がすぽんと抜け落ちていた。そうして思い出したのが、放課後になってから、さらに言えば帰り道にの途中で思い出したのだ。
近くのコーヒーショップで腰を落ち着けて、貰っていた紙を制服のポケットから取り出した。少しくしゃくしゃになってしまっていたけれど、これは不可抗力という奴だ。最初に感じていたのは罪悪感だったけれど、紙に描かれたものを読んでいるうちに、その気持ちはどこかへ飛んで行ってしまった。
「嘘」
そこに描かれていた漫画には、私なのだろうくねくねしたものが、A子ちゃんから紙を受け取っている。なぜかA子ちゃん自身はデフォルメされている私と違ってものすごく写実的に描かれているのが、なんとも面白いのだけれど。
けれどもくねくねは、紙のことをすっかり忘れてたっぷりと寝てしまう。最後のコマでは、コーヒーショップの椅子に座りながらびっくりしているくねくねが描かれていた。次の日にびっくりしたとA子ちゃんに話すと、彼女は、多分笑っていた。
多分というのには理由があって、私はこうして彼女と話す機会が多かったんだけど、それでもやっぱり彼女の顔が印象に残っていなかったんだ。なんとなくは分かる。彼女がきっと笑っていたというのも多分と言えるくらいには憶えていて。ただそれは話の前後の雰囲気とか彼女の声色とか、そういうのを全部含めてなんだ。
なんかね、子供の頃に神様がくれたんだ……多分。
「多分かい」
そう言ってたんだよ。
いつ頃からこの力を使えるようになったのかという私の問いに彼女が返した言葉だった。子供の頃、砂場で遊んでいると誰かがくれたのだと。子供の頃の思い出でもうその人物が男だったのか女だったのかも思い出せないらしいが、とにかくそうしてA子ちゃんは何とも使いづらい力を授かったというわけだ。
私は、高校に入学してからの数か月に非常に満足していた。自分自身のこともそうだけど、幻想郷には面白い奴らがいっぱいいて、そして隣に座っている普通の見た目をしている子もなんともエキセントリックな物語を持っている。梅雨前線はまだまだ頭上を去る気はなかったけど、今までよりも夏に思いを馳せていたのも事実だったんだ。
そんな、私の歳相応に持っているであろう夏への高揚感は、簡単に崩れることになる。きっかけは、A子ちゃんが描いた一つの原稿だった。
その日のA子ちゃんは、朝から真剣な面持ちで原稿に取り組んでいた(本来ならば真剣な面持ちで勉強に打ち込まなくてはならないのだが、私もしていないので言えなかった)。印象に残っているのは、きっとその顔を私が初めて見たからというのもあるのだろう。
そうして彼女は昼休みも終わろうかというところで早退した。私にしろ彼女にしろ、確かに問題児なのかもしれないが、流石に学校に来たからには机に座るくらいはしている。きっと、たぶん、とらすとみー。特に彼女は早退も遅刻もしたことがなかったため、珍しいこともあるものだと私は感じていたんだ。
次の日、A子ちゃんは学校へ来なかった。来たのは週が明けての月曜日だった。何かあったのかと声をかけようとして、そんなことは当たり前だと脳内で彼女になんて声をかけようかと理論を展開していたが、それは直ぐに無用の長物に変わった。A子ちゃんからこちらに話しかけてきたからだ。
どう思う?
放課後。階段横の自動販売機に背中を預けながら、彼女はそう尋ねてきた。
話を整理してみる。早退をしたあの日、A子ちゃんの手に朝から『降りてきた』らしい。それも今までにないほどの不安感を持って。一コマ一コマと描いていくうちに、その不安感は焦燥に変わっていった。
その時に描いたという漫画を見せてもらった。そこにあったのは、ふらふらと歩く犬のキャラクターが、最後には建築資材の下敷きになってしまう、という話だった。その犬は、彼女がお世話になっている男性らしい。その言葉にドキドキとしてしまったが、先に施設を出た兄貴分とのことだった。私はそこで初めて彼女が児童施設で生活していたことを知ったのだ。ただ、それはそれで今回の問題とは関係は無いだろう。
こういう力は不公平なものだと、幻想郷に行ってから強く思うようになった。目の前の少女が例えば一国のお姫様だろうが深窓の令嬢だろうがそういう力を持つかもしれないし、今すぐに野垂れ死にそうな時にどれだけ願おうとも力を手に入れることは出来ないものだと。天は二物も三物も与えることもあれば、一つもいいものを与えてくれないことだってあるんだ。
そうして危機を知った彼女は、その兄貴分が働いている職場に急行した。その男性(どれくらいの年齢なのかわからないが)は彼女の不思議な力を知っていたらしく、その日は無理を言って現場を抜けたらしい。結果としてやはり建築資材が倒れるアクシデントがあったのだが、怪我人などは出なかったと。
これだけを聞けばいい話、なのだろう。しかし、彼女が私にこう言ってくる理由はわかっている。
「今までに、こういうことってあったの?」
……ううん。
彼女が言っているのは『描かれた結末にならなかった』ということだ。そう、彼女が描いたこの漫画の中には『彼女自身が映っていない』のだ。前に私のことを描いていた漫画では、確かに彼女が出ていた。他のキャラクターと違ってデフォルメされていないことを憶えている。
「私がアイスを買った時の漫画、描いてくれたじゃん」
うん。
「例えばさ、あれは私がA子ちゃんに話しかけられたから買った、とも考えられるんだ。もしかしたら、私が買わなかったっていう結末もあったかもしれないじゃない。それについてはどう思う?」
……わからない。
「まあ、そりゃそうか」
ただ、私が何をしてもしなくても、描いた通りの結末には、なると思う。
感覚、というのは馬鹿には出来ない。彼女の経験は私が思っているよりもずっと蓄積されているのだろう。そう仮定して彼女の言を信じる。嘘をつく理由も無いだろう。結局二人で頭をひねってもいい答えなんて出るはずもない。もやもやとしたものを抱えたまま、私は学校を後にした。A子ちゃんは部活に顔を出していくと言っていた。律儀だなあと思った。
コンビニで買った新発売の缶コーヒーは中々に温く、甘さが凶悪だった。糖分補給という観点から見れば有用、なような気がするけれど。A子ちゃんの言葉を思い出す。今までこんなことは無かったと。そして、描いた通りの結末になるはずだとも言っていた。学校で考えていた時も確かに頭の中に靄がかかっていたのだが、改めて考えてみる。
自分で望んだわけではない力。それを明確にコントロールできていない。例えば、私の超能力が暴走して私の意識下を離れたとしよう。きっと、それと今回のA子ちゃんの話は違う。元が違うからだ。私は『元々使いこなせていた、使いこなせるようになった力が暴走した』のに対して、A子ちゃんの場合は『元々から使いこなせていない力の一部分を享受している』状態だからだ。
乗っていた電車のアナウンスで、家の最寄り駅に着いたことに気が付いた。電車の降り際、朝からのじめっとした天気の所為だろうか乗降口がぬるりとしていて、つい滑りそうになってしまった。視線を下におろしても、床に泥とかは無い。
何か、いやな予感がする。それはもう戻らない状態であることを認識させられたような、重い感覚だった。
次の日には、A子ちゃんは何時ものように笑っていて。深く聞くほど私たちの距離は縮まってはいなかったんだ。いや、違うな。きっと、私が距離を取っていたんだ。
それから一週間ほどして、A子ちゃんが笑わなくなったことに気が付いて、その日の夕方に熊さんが事故に遭った。そうしてA子ちゃんは学校に来なくなったのだ。
「うーん、こいつは、なんとも」
霊夢っちと早苗っちにA子ちゃんの描いたものを見せてから数日後。再び幻想郷にやってきた私は、丁度博麗神社にやってきていた魔理沙っちにも件の原稿を見せていた。見せたときのリアクションは大体同じだというのが、この紙束の奇妙さを物語っているといってもいいのかもしれない。
縁側から見る境内は雨でその景色を曇らせている。時々遭う狛犬とか鬼とか小人は今日はいなかった。この幻想郷という場所で、初めて私はつまらないな、という感情を持っていた。
「しっかし、聞く限りではなんとも使いづらい能力だなあ」
「本人も、痛し痒しだったみたい。いきなり描きたくなるから周りからは変な目で見られて、病院にも連れていかれたりしたって」
「そんなもんかね。だったら私はどうなってしまうのかな」
「多分魔理沙っちは病院飛び越えて警察かな」
「官憲かよ」
魔理沙っちの言葉に、少しだけ胸が痛みを発した。自分自身は枠を破って俯瞰するものだと思いながらも、私は未だにあの世界の枠組みに息苦しさを感じているのかもしれない。
霊夢っちが淹れてくれたお茶を一口含みながら、正座していた足を崩す。やってきた痺れと格闘していると、霊夢っちは以前にも見たはずの漫画たちを据わった目で見返している。
「……まるで呪いね」
「ああ、そんな感じだよな」
「呪い?」
二人の言葉に、痺れを無理やり抑えながら卓袱台に身を乗り出した。あの時感じた頭の靄に、引っ掛かりが生まれた。
「しっくりこないのよね。なんというか、力が使えるようになった、と言うよりはこういう力が自分でも制御できない時に現れる呪いとか、そういう風に感じるのよ」
「能力自体は役に立つものだっていうところが、まるで悪魔が使う契約に似ているって思えるんだよな。ただし絶妙に不便で、破りたくなる。その後どうなるのかは知らないが、な」
私の中にあった靄があっと言う間に晴れていった。そうか、私は気づけなかったんだ。私は彼女を無意識に『同類』として見ていたから。ふむん、と霊夢っちは原稿を卓袱台に置きながら視線をこちらに向けた。A子ちゃんの居場所は、今も分かっていない。
「いやな感じね」
そう言った霊夢っちの横顔は、同性の私が見ても驚くほどに綺麗だった。
「しっかし、先生もツイてないよね。事故に遭うだなんてさ」
『見舞いに来てくれるのは嬉しいがな、言葉遣いを……まあ、いいか』
熊さんが事故に遭ってから数日して、私はお見舞いにやってきていた。影の薄い副担任が言うには命に別状はないとのことだったが、ワゴン車とぶつかって右足をぽっきりとやったしまったそうだ。逆にそれ以外に目立った外傷も後遺症も無いというあたり、熊さんという異名は伊達ではない。
学級委員や他の教職員も見舞いに来てくれた中で、入学してから数か月で問題児扱いされている私が来たのは意外だったらしい。
『なあ、宇佐見』
別に理由はなかったので顔だけ見て帰ろうと思っていたのだが、熊さんの顔が少なくとも学校で見たことがないような、最近の天気のように曇っている。どうしたんですかと、言葉遣いを少し正してからかった私の声色に気づかないほどだ。どうやら本当に何かを考えているみたいだ。
どうしたのともう一度尋ねてみる。熊さんはしばらく口ごもっていたが、ぼそりと、本当にぼそりと唇を動かした。外で降っていた雨の音で言葉を聞き取れなかった私に気が付いたのだろう。いつもと同じような声量に戻して、もう一度口を動かしてくれた。
『佐藤は、学校に来ているか?』
「サトウ? サトウ……佐藤、A子ちゃんのこと?」
『ああ』
「ああ、いや……最近はあんまり、かな」
『ずっと休んでるのか?』
別に私自身が後ろめたいことをしているわけではない。ただ本人がいないからだろうか、A子ちゃんのことを話すことに、少しのためらいがあった。
熊さんがしゃくった顎の先。そこにあった鞄を渡すと、熊さんは取り出したものをこちらへと渡してきた。我が高校の校章と名前が記されている封筒。
『事故に遭った日にな、それを佐藤からもらったんだ。最初は何だと思ったんだがなあ。宇佐見は佐藤がこういう……』
熊さんの言葉は段々と耳に入らなくなっていく。入っていたのはきっと最近描いていたであろうA子ちゃんの漫画だった。熊さんなのだろう、そのまんまにデフォルメされた熊のキャラクターが走るところから漫画はスタートしている。
たった二ページの漫画。それだけなのに、私は何故か次のページを見ることに抵抗を抱いていた。といってもこの漫画は既に『過ぎている』ものなのだと言い聞かせ、少しお腹に力を込めて次のページを開いた。
「……あれ?」
そこにあったのはやっぱり、車に撥ねられている熊さんで。けど、私が考えていた展開とは明らかに異なっていた。最後のコマの熊さんであろうキャラクターは、首が曲がり、血だらけで。手足も関節が増えているほどにひどい状態だった。どう見ても致命傷か、絶命している。
まるで呪いね
結末が違う。能力が無くなっているのか、それともコントロールできてきているのか。はたまた彼女が意識して描いたものなのか。一瞬で回った頭の中に、霊夢っちが言っていた言葉がまるで栞のように挟まった。
『なあ、宇佐見』
「はい?」
『ちょっと、佐藤を見てきてくれないか』
柵だとかルールだとかなんだとか、そういうもので大人たちは雁字搦めで。そして熊さんは困っていて、私はA子ちゃんと話がしたいと思っていた。
二昔前の感情豊かなキャラクターのように誰かのため、というわけでもない。一昔前に流行った少し捻くれたり、斜に構えたりしているキャラクターのように回りくどい理由でもない。
私は、私がこの話の先を知りたいがために、熊さんの頼みを引き受けたんだ。
A子ちゃんの住んでいる団地は、私が帰る道の途中にあった。雨は随分と強さを増していて。薄ッ暗い廊下の湿り気を不快に思いながら、熊さんから聞いた部屋に向かう。確かに表札には『佐藤』と記されている。とりあえずインターフォンを鳴らしてみたが、返事はない。
心配だ、というのももちろんあるけれど、ここまで来て無駄足で終わる気など初めから無い。最初の三回までは間を置いたが、それ以降は時折リズムをつけながら断続的にならす。三々七拍子で鳴らそうとしたところで、チェーンロック越しに扉が開いた。
宇佐見さん……?
「いよっ。元気してる?」
数日ぶりに見たA子ちゃんの様子は、明らかにおかしかった。学校に来ていた時もマイペースな子だなあとは思っていたが(私ほどではないけれどね)、それでも彼女の空気は随分と丸っこいものだった。
ぼさぼさの髪の毛はぎょろぎょろと動く目につられるように微かに揺れ動いている。隈の浮かび上がったその目は、今目の前にいる彼女の姿や空気が、学校で見たときの彼女の姿と随分と乖離しているように見える。
僅かに開いた隙間から、熊さんに頼まれた書類を渡す。言うまいと思っていたが、私がお邪魔をしてもよいかと尋ね、ようやく彼女はチェーンを外してくれて。その、たった一つのやり取りだけでも、随分と彼女は疲れていることがわかって、少しだけ悲しくなる。
入って
ワンルームの彼女の部屋は、考えて悲しくなるがあまり他人の部屋を訪れたことが無い私でも、よろしくない光景だということは理解が出来た。部屋自体はきちんと整っているんだ。ただ、玄関から見える洋間は、何か、異様に白くて。それが彼女の描いたのだろう漫画の原稿だと、理解をするのに数秒かかってしまった。
所狭しと漫画の原稿が張られているその光景を見て、いつか見たホラー漫画に、こうやって大量の札が張ってあるワンシーンがあったなあなんて、並行して考える。音量が小さいのだろうか、部屋の角に設置されたテレビはついている筈なのに、いやに雨の音だけが耳に入ってくる。
「これ、全部A子ちゃんが描いたの?」
うん。なんか、最近ね、止まらないの……。
ソファにうずくまるように座るA子ちゃんが言うには、兄貴分を助けた翌日から『降りてくる』回数が明らかに増えた。最初の数日こそは一過性の何かだろうと気にしないように過ごしていたが、日常生活に支障が出るほどに、彼女の身体は無意識に何かを描くようになった。
回数もそうだったが、更に、描きあがったものの内容がA子ちゃん自身も理解が出来ないものになっていることが多くなった。そんな中で、彼女は一つの原稿を描き上げた。私も見た、熊さんが事故に遭うあの話だ。
怖くなってね。言わなくちゃって思ったんだけど、なんて言っていいかわからないし、それにね、なんか、これ以上、悪くなるような気がして……。
「だからせめて、と思って原稿だけ渡した、と」
小さく頷くA子ちゃんの頭を撫でながら、知らず、私は笑みを浮かべていた。きっと、不安だっただろう。一人になりたがりな私でも流石にこれくらいの機微は分かる。泣き始めた彼女をなだめ終えた頃には、空の色は随分と灰色を増していた。
「熊さん、言ってたよ。あの漫画が無かったら、もしかしたら死んでたかもしれないって。佐藤は命の恩人だーってさ」
小学生くらいの頃に、再放送で流れていた学園ドラマで、よくこんなシーンがあったんだ。いじめられっ子とか、問題のある子がクラスメイトとか担任とかに慰められて、話し合って、お互いに信頼していく。そんな一場面。クソガキだった私は、こんなのはフィクションに決まっているとか、私だったらこんな面倒なことはしないとか、そんなことを思っていたんだけど、意外と人生というのはわからない。
A子ちゃんの子供の頃の話だったり、逆に私の話だったり。少しでも話をしようと思ったんだ。きっとそうしないと、彼女はまた不安に飲み込まれてしまうだろうから。
「今日は、その兄貴分の人が来てくれるの?」
うん。もうそろそろだと思うんだけど……。
そう言った直後に聞こえたインターフォンで、A子ちゃんと私の奇妙で不思議な時間は終わりを告げた。初めて見た兄貴分の人は随分と優しい顔をしていて、きっと血のつながりだけではないものがあるのだと信じたくなった。
「じゃあ、また明日。学校で」
そう言った時の彼女の顔を、私は忘れたくはない。ただ、思い出せないんだ。あれは、あの顔は、許された顔だったのかもしれない。
とにかく、そう言ってA子ちゃんの部屋を後にして見上げた空は、もう雨は降ってはいなくて。どうにかなるってさ、思ってたんだ。
ただ、次の日の朝になっても、やっぱり隣の席は空いたままだった。朝のホームルームが終わって、一限は教室移動だったことに、手洗いから戻ってきてから気が付いた。鞄の中から教科書を取り出していると、何か、くぐもった音が聞こえて。それが私の携帯端末から聞こえているのだと理解するのに、しばらくの時間がかかった。滅多にならないから、なんてことはない。
周りを見ると、教室には誰もいない。どうやら私が最後のようだ。これ幸いと取り出した端末の液晶画面には、昨日番号を交換したばかりのA子ちゃんの文字が浮かんでいた。
いやな、予感がした。
「はい、もしもし」
宇佐見さん、宇佐見さん?
電話口でもわかるほどに、彼女の声は震えていた。 どうしたの、そう脳内で形にした言葉を切り出そうとしたところで、何かが彼女の声と吐息に交じって聞こえてくるのだ。
がん、がん、どんどん。そう、何かを叩くような。
「何の音?」
あのね、あのね、今日、学校行こうと思ってたの。そしたらね、なんか、寝ている間に描いてたの。今、扉にね、いるの。
「誰かが叩いてるの?」
うん。
「誰だかわかる?」
自分でもわかるくらい、心臓が早鐘を打っている。知らず私は鞄を持って駆け出していて、階段を駆け上って、入学初日に発見した鍵の壊れた窓から屋上へと躍り出た。警報装置が鳴らないことも確認済み。雨こそ降っていなかったけど、今にも空模様は崩れそうなほどに埃色をしている。
「誰が、叩いているの? 警察には?」
ううん、まだ……。
「なら先に警察に連絡しよう? 私の方にも聞こえてくる。結構な力で叩かれてるの、わかるよ」
嫌だよ、怖いよ……やめてよ! 宇佐見さん、あれね、叩いているの。あれっ……見たんだよ。
いよいよ音が大きくなってきている。A子ちゃんの声を聞き取れないほどに、ドアを叩いているのだろう音が私の耳にも入ってくる。同じ階の住人は何をしているんだとか、周りは誰も気が付いていないのかとか、色々考えるけど、それよりもA子ちゃんの声が聞こえなくなることの方が、不安になる。
最初ね、誰かと思って。
「うん」
……してたの。
「え、なに? ドアの音が五月蠅くて!」
私の顔、してたのっ!
一刻の猶予もないと思ったんだ。ちょっと待っててと叫びながら、鞄の中から取り出したのはマントと帽子。視界の端が滲んでいることに気が付いた。雨が、制服を濡らしていく。
「A子ちゃん! A子ちゃん!」
ひいぃ、ひい、やめてよう、かえってよう!
「待ってて! 今行くから!」
……止まった? どっかいった?
え? うそ、なんで、鍵が開くの? いやだよ、かえってよ! 怖い、怖い、怖い。
いいいいぃぃぃっ!
雨足はどんどんと強くなって、雨粒が私の視界を滲ませる。頭の奥、両目の中心のその奥に力を込めて、私は宙を舞った。
幻想郷に行ったことで、知ったことがある。この世界の薄い皮を捲った先にはたくさんの不思議が待ち構えているということ。そしてもう一つが、それが必ずしもよいものばかりではないということだ。
「A子ちゃん!」
廊下の突き当りから見えるリビングの窓は全開になっていて、カーテンはこんなにもはためいているのに、揺らしている風の感覚を感じることは出来ない。玄関にいる私の身体もまた、時が止まったように固まっている。
揺れるカーテンに守られるようにしながら、人影と、人影のようなものがあった。A子ちゃんの声はもう喘鳴のようになっていて。滲むメガネのレンズの向こう。結構な距離があるはずのその顔を、私の決して良いとは言えない目は捉えたのだ。
「アンタ……誰?」
人影のようなもの、と形容した。あの子と髪型も制服も一緒のはずなのに、その顔は私が見たことのないもので。そしてその頭が、異様に大きいのだ。A子ちゃんの肩を掴むその顔は、目元までは明らかに人間なのに、その大きな頭と、そして大きな口が、沢山の牙を並べている。見えるんだ。私の視力は良くないのに、それでもわかるほどに。
「A子ちゃんを、離しなよ」
このことは墓まで持っていくつもりだが、この時、私は完全に気圧されていた。いうならビビっていたんだ。ここには、霊夢っちも、魔理沙っちも、もこたんも早苗っちもいない。私しかいないんだという事実が、心臓をフル回転させる。
一瞬だった。そのA子ちゃんっぽい何かは一言呟いて、A子ちゃんのことを解放すると、ベランダへと駆けだして次の瞬間には飛び降りたのだ。
「……おい!」
この瞬間に、ようやく自分にかかっていた金縛りのような感覚が解けたことに気が付いて、ベランダから外を見下ろした。
そいつは、こっちを見上げて、睨んでいた。その顔はたしかにA子ちゃんだった。ただ、その頭はアンバランスなほど大きいし、その眼はやたらと瞳がでかかったんだ。
そいつは笑いながら、大雨の路地の中へ消えていった。追いかけようという気にはなれなかった。
「A子ちゃん! A子ちゃん!」
A子ちゃんはただただ両手で顔を覆って、ずっと引き攣った泣き声をあげていた。
こうして、私が高校に入ってから初めて体験した不思議な話は終わりを告げたのだ。
「はぁー……暑っつ」
あの不思議な体験からしばらくが経って、私たちの学校も夏休みに入った。けど、今私が着ている服は学校指定の制服なのだ。勿論、着るものがないとか、そんなことは殆どない。そう、ほとんどだ。
きっかけは、熊さんからの電話だった。最初に電話をとった母親はすわ何事かと大層慌てていた。幸いにして心当たりがありすぎた(A子ちゃんの件も警察から学校へ、そして家族へと知れ渡ることになった)私は、さしたる動揺もせずに受話器を取ることが出来た。少し年季の入った電話からは、これまた少し粗が入った熊さんの声が聞こえた。
『少し用があるから暇なら学校に来い』
職権の乱用ではないかとか、いたいけな生徒に何をする気だ、なんていう無駄の集合体で出来た無駄な掛け合いをして、昼前には学校に着いていた。
数日前にあまり見ないテレビの天気予報は梅雨明けを告げていて、みいん、みいんと蝉が鳴き始めている。体育教員の指導室で見た熊さんの足には、まだ大きなギプスが巻かれていた。
『おお、宇佐見』
「どうしたのさ、センセイ」
『だからお前は言葉遣いをだな……まあいい。ほれ』
そうして熊さんから渡されたのは、一冊のパンフレット。そこには子供の頃におばあちゃんの見舞いに一度だけ行ったことのある病院の写真が載っていて。熊さんは詳しく話しこそしなかったものの、そこに彼女がいるということはわかった。
『なあ宇佐見』
「はい?」
『佐藤は……あいつはなんか不思議なものを持っていたのかも、と思うんだなあ。俺は』
「持ってたよ」
安っぽいアルミ素材のドアノブに手をかけていた私が振り返って、熊さんは驚いたように私を見ていた。
「センセイ。A子ちゃんの所、行ってくるよ」
『おう』
指導室を出て、さっきまで消えていた蝉の喧騒が、また私の鼓膜を揺らし始める。みいん、みいん。ああ、そうだ。長かった梅雨の音は、もう耳には残っていない。
霊夢っちも魔理沙っちも、早苗っちも私の行動を褒めてくれた。私にはそれが意外だったんだ。物語の主人公みたいに、みんなを救ってハッピーエンド、とはいかなかったのに。それでも彼女たちは褒めてくれたんだ。
病院までは、学校の最寄り駅から電車で数駅。ナースセンターに事情を説明して通された、いくつかの扉を通った先の病室で、A子ちゃんは、あの怖い体験など夢だったかのように穏やかな顔で眠っていた。隣にいた兄貴分の男性が言うには、一日の大半は寝て過ごしているらしい。
あの丸っこい声を、随分聴いていないと思った。私の中でA子ちゃんは、灰色の空で結ばれていて、だから窓から見える梅雨明けの真っ青な空が、まあ、色々と変わっていくものだと私に語りかけている気がした。
病院を出て、駅までのバスを待とうとした。そのベンチに、奴はいた。
頭の大きさこそあの時のように巨大ではなかったが、改めて顔を見てみると、A子ちゃんとうり二つなその眼は眼球がないかのように真っ黒なのだ。その顔を見て、確かに怖いのだけれど、もう、私の膝は震えなかった。
今度は、違う奴を食べに行くよ。
「そ。好きにしなよ」
お前のせいで、誰かが死ぬよ。
「私は、私の知っている範囲の人だけ、守れればいい……いいか。お前が一体何なのか詮索する気は無いし、私は会いたくない。ただし、この先私の家族や仲間や友達に危害を加えるなら、お前を殺す。必ず殺す。どこに逃げようとも探し出して殺してやる。私の名前は宇佐見菫子。二度と会わないように、この名前を憶えておきなよ」
そいつはなんとも慣れていないように、くぐもった笑いを上げて、その場を去っていった。我ながら寛大な措置だとは思った。
夏休みはあっという間に過ぎて行って、また学校に通う日常が始まった。変わったことと言えば、隣の席には誰も座っていなかったことだ。それから、A子ちゃんに会うことは二度と無かった。
A子ちゃんは、何者だったのだろうか。もう顔も思い出せない。そしてA子ちゃんを狙ったあいつは、いったい何だったのだろうか。それもまた、謎のままだ。まるで幽霊のように、彼女の痕跡は消えつつある。
今でも机の中には、彼女の描いた漫画が少しだけ残っている。大半は霊夢っちが祓ってくれて処分されたのだが、特に害のないものは、私が受け取った。私のことを描いてくれた、ゴリゴリ君のあたり棒が出る漫画を見るたびに、自分でも少しだけ頬が緩むんだ。
A子ちゃんのいなくなった窓から見える景色は、まだまだ夏の香りを残していた。
ぺらり、ぺらりと紙を捲るその顔は眉根は寄っているし片目は何にピントを合わせているのかはわからないが細まっている。
「どう?」
「……漫画、ですね。いたって、普通に……ええと宇佐見、さんでしたっけ」
「うん。董子でいいよ。早苗っち……早苗さん? やっぱり早苗っちで」
ふうむと唸りながら、早苗っちは紙の束、私が持ってきた漫画の原稿を読み終えた。私の隣にいる霊夢っちにもここに来る前に呼んでもらったのだが、やはり似たような顔をしていた。それはきっと私が尋ねた内容の所為もあるのだろう。
面白かったか、とは尋ねていない。何故なら私が描いたわけではないし、正直面白いとかそうじゃないとかの範囲で語れるものでもないのだ。
私が尋ねた内容について、最初に見た霊夢っちの回答になんとなくそうだろうとは思ったが、念のためということで今こうして早苗っちにも見せているというわけだ(ちなみに今回が早苗っちとの初対面なのだ)。
原稿を渡して、五分ほど、だと思う。正座している足が痺れ始めるくらいの時間が経った頃に早苗っちは原稿を整え、私の胸元へ差し出した。
「あまり、よくないですね。これ」
「アンタもそう思う?」
『この漫画に、何か霊的なものを感じるか』
私が二人に尋ねた内容だ。確かに私は超能力は使えるが、霊だとか魔だとかそういうのは興味はあれど門外漢だ。そういうわけで二人に見せたのだが、霊夢っちの相槌はつまりそういうことで。まあ、予想は出来ていた。
原稿の最後のページ。そこには読者を、こちらを見つめる少女と、その横にいる何かが大きく一コマとして描かれている。
A子ちゃん。
彼女は一体、何処へ行ってしまったのだろうか。
宇佐見さん、宇佐見さん
彼女のことを思い出すと、必ずこの言葉が再生される。彼女の声は、言葉として表すのならば『丸っこい声』をしていた。正直言って彼女の顔を私ははっきりと思い出せない。別に私が相貌失認を持っているとか、そういう訳じゃない。単に彼女の顔が普通だっただけ。確か苗字は佐藤だった、気がする。そう、佐藤のA子ちゃん。
高校に入ってから隣になった彼女のことを、私は今回の件まで何かあったら起こしてくれる丸っこい声の目覚まし時計くらいにしか認識していなかった。
宇佐見さん、宇佐見さんってば
「んあ、なに。ど」
本当は『どうしたの』まで続けるはずだった言葉は、頭に響いた重い衝撃で口から出ることは無く、かわりに『どんっふ』というおよそ少女が発していはいけないような言葉と空気のハイブリッドカーが唇を通った。何度も味わっている衝撃に頭をさすりながら顔を上げると、まるで熊のような担任が(本当に担任の名前は熊田なのだ。名は体を表すらしい)、綺麗にアルカイックスマイルを浮かべていた。嗚呼、南無、合掌。
『宇佐見ィッ‼』
結局熊さんに怒られて、睡眠をむさぼるという私の有意義な午後の計画は水泡に帰した。ご丁寧に放課後まで呼び出されて注意を受けて、ようやく解放されたころには既に空は薄い茜空になっていた。
熊さんのいた体育指導室もそうだが、クーラーが効いている所とそうではないところで温度差が大きすぎる。指導室を出ると、むわっとした空気が髪を通る。野球部の掛け声に合わせているのだろうか、吹奏楽部の少し気の抜けた金管楽器の音が響いている。
あと少しで梅雨入りかというこの時期、今年はとかく蒸し暑い。この制服が肌に張り付く感覚も嫌だし、少しでも気を抜くと肌が汗で色々とやられてしまう。そう、いろいろとだ。乙女の肌には秘密が沢山なのだ。
「暑っつ……」
ああいうのを青春というのかもしれないが、生憎と私は誰かとチームプレイで何かを成し遂げる感性も持ちあわせていないし、他人よりもパーソナルスペースが広い。一人でいる方が気が楽だしね。決してぼっちというわけではないのだ。きっと、たぶん、めいびー。
気分転換にシューズの底をリノリウムの床で鳴らしながら教室に戻ると、まだA子ちゃんが机に向かっていた。一応二ヶ月程席を隣にしてわかったことがある。真面目そうに見えて意外とこの子は頭がよくないし、見た目ほど真面目でもないということだった。
「まだ描いてるの?」
あ、宇佐見さん。
彼女の机、動きの止まっているA子ちゃんの手元では、そろそろ白い紙が『コマ』で埋まろうとしていた。
彼女もまた私と同じように孤独を愛している人種のようだが(私がそう思っているだけだが、多分間違っていないはず)、私と唯一違う点を挙げるとするならば、私の所属する、もとい私が部長である秘封倶楽部という存在は学校には帰宅部として認知されているが、彼女は漫画研究会という学校が認めた団体に所属しているということだろう。
今日は一体何を描いているのか気になりはしたが、とりあえずそれよりも帰宅欲求の方が私の脳内を占めていた。何か冷たいものでも買って帰ろうかなあ、なんて考えながら支度をしていると、描き終わったのだろう、A子ちゃんのよし、という声が聞こえた。
ねえ、宇佐見さん。
「んん? どったの?」
今日はアイスを買ってみると、いいことあるかも。
そう言って差し出された彼女の原稿に、視線を落とした。毛……手足か? のようなものが生えた眼鏡と帽子を着けたくねくねが、棒人間の店員にお金を渡してアイスを買う。そして食べ終わった後の棒には『あたり』と書かれている。最後のコマでは、くねくねは頬を染めて笑っていた。
「……これって私?」
んー、多分。
彼女には、不思議な力があるらしい。曰く『たまに漫画に描いたことが現実になる』と。本人も狙って描くことは出来ないらしいけど、たまに『降りてくる』らしいのだ。彼女の力が本当かどうかは判断できないが、当たったところを見たこともあるし、まあそういうものなのだろう。こんな考え方になるのは、私も『持っている』からかもしれない。
もしこの漫画の通りの未来が訪れるのなら、私がアイスを買えばきっと当たりになるのだろう。実は私が対象になったのは初めてだったので内心半信半疑だったが、信じてみるのも悪くは無い。だって今日は暑いし。
「なら、試してみますかねっと」
そうしてその日の帰り道。A子ちゃんと別れてから本当に物の試しという気持ちでコンビニでアイスを買ってみた。氷菓の値段が上がっても頑として百円を超えない値段設定で子供たちの味方であり続けるゴリゴリ君アイスの棒には『あたり』と書かれていて。本当に当たった高揚感でにやけながら見上げた空は、普段よりも茜が濃かったんだ。
彼女の持つ力が本物かどうかはさておいて、私はA子ちゃんに親近感のようなものを覚えていた。それは例えば『お友達になれるかも!』みたいな週末にやっている子供向けアニメのような純粋な気持ちではなくて、きっと彼女も世界に憂いているのだろうという、ある意味イタい考えでもあった。
だってそうでしょう。自分が他の人とは明らかに違うものを持っているのに気が付いて、しかもそれが所謂普通ではないのだ。もし隣に座っている席のなんか顔も普通で印象に残らないような奴がいきなり『私の描く漫画、未来のことを当てられるんだ』とか『僕、超能力が使えるんだ!』とかぬかす奴だったとしよう。どう考えたってまともには関わりたくないという人が大半のはずだ。私は違うけど。
きっと彼女も、私と多少の差異はあれど同じような考え方、生き方をしてきたはず。それは予測でしかないけれど、だからこそ私は奇妙な連帯感というか、親近感を持っていたのだ。
「明日報告しなくちゃ」
思えば、この時には既に物語の歯車は止まらないほどに加速していて。だからきっと私がどれだけ頑張っても、結末は変わらなかっただろう。
次の日に私の報告を聞いたA子ちゃんは、よかったあと笑っていた。
幻想郷から戻ってきて得られた結論は、やはりというか何というか、分からないということだった。分からないことが分かったのだから決して無駄ではないと言い聞かせながら、部屋に戻ってさっきまで霊夢っち達に見せていた原稿に、改めて目を通した。A子ちゃんが今までに書いていた漫画の中で、特に最近のものだ。
A子ちゃんが描く漫画には、素人の私が見ても分かりやすい特徴があった。所謂『降りてきている時に描いた漫画』には、吹き出しが全くと言っていいほどに無い。あったとしても、せいぜい一つか二つだ。
それともう一つ、その時に描かれた漫画は、一部の人物を除いてデフォルトされている絵柄で統一されている。普段A子ちゃんが描く作風とは全くと言っていいほどに違うのだ。そのことについて尋ねたことがあったが、彼女は多分笑顔を浮かべながら、どうしてだろうねと言っていた。多分、そう、多分だ。
紙の束の中から何枚かのまとまりを抜き出した。そこに描かれているコマを見ながら、彼女の意識を、思考をトレースする。降りてきている時は何も考えておらずに勝手に手が動くらしい。
視線を落とした原稿には、人は描かれていない。ただただ風景が描かれている。奇妙だ、と思うのが、その風景はきちんとコマ割りされたなかで描かれているのだ。つまり彼女は風景画とかを描いていたわけではなかった。
始まりは、よくある玄関が描かれている。この漫画は、風景(背景といった方が正しいのかもしれない)を誰かの目線を通して見ているものなのだということは分かる。この意見に関しては、早苗っちも同意していた。
漫画は、そのまま様々な景色を紙に映していた。私が最初に見たときに思ったのは『誰かの登校風景』を描いたものなのでは、というものだった。けど違ったんだ。
景色はどんどんと移り変わっていき、そして景色はいきなり椅子を映した。その形状を見て、多分それが新幹線に乗ったのだと気が付いた。その予想は当たっていて、次のコマではもう主人公は駅のホームに降り立っているのだ。
具体的に、漫画の中でどれほどの時間が経っているかは判然としないけれど、夜ではないことは確かだ。そうして主人公は、一つの建物を視界に収めた。集合住宅というよりは団地といった方が正しい気がする。最初に見たときに、私はなんてことのないコマだと思っていたが、それはどうやら違ったらしい。
そこに描かれていた建物は、A子ちゃんが住んでいる建物だったのだと。
この絵を描いたとき、彼女は一体、どんな気持ちだったのだろう。それを知ることは、もう出来ないかもしれない。
私がアイスが当たったという話をしてからも、彼女はよく漫画を描いていた。何でも中学校の頃よりも『降りてくる』回数が増えたのだという。
まだこの頃は、私は彼女の能力に懐疑的だった。アイスでお得な気分になったのは間違いが無いし感謝もしているが、あの時に私は彼女の言葉に従っていた部分があることもまた事実だったからだ。今思い返してみると、ちょっとカッコ悪いけど。
そんな中で、私が彼女の持っている力が本物に限りなく近いのだろうと考えられる出来事があった。
宇佐見さん、宇佐見さんっ。
梅雨入り直後で、蒸し暑い日だった。次の移動教室はどこだっけとぼうっと考えている時に、そうA子ちゃんに声をかけられたのだ。どうしたの、と返すと、A子ちゃんはなんとも悪戯っぽくにやけながら、私に四つ折りにされた紙を渡してきた。
次の美術が終わったら、それ、開いてみて。
そういえば次の授業は美術だったんだっけと急いで支度をしているうちに、私の頭の中からは、彼女の言葉がすぽんと抜け落ちていた。そうして思い出したのが、放課後になってから、さらに言えば帰り道にの途中で思い出したのだ。
近くのコーヒーショップで腰を落ち着けて、貰っていた紙を制服のポケットから取り出した。少しくしゃくしゃになってしまっていたけれど、これは不可抗力という奴だ。最初に感じていたのは罪悪感だったけれど、紙に描かれたものを読んでいるうちに、その気持ちはどこかへ飛んで行ってしまった。
「嘘」
そこに描かれていた漫画には、私なのだろうくねくねしたものが、A子ちゃんから紙を受け取っている。なぜかA子ちゃん自身はデフォルメされている私と違ってものすごく写実的に描かれているのが、なんとも面白いのだけれど。
けれどもくねくねは、紙のことをすっかり忘れてたっぷりと寝てしまう。最後のコマでは、コーヒーショップの椅子に座りながらびっくりしているくねくねが描かれていた。次の日にびっくりしたとA子ちゃんに話すと、彼女は、多分笑っていた。
多分というのには理由があって、私はこうして彼女と話す機会が多かったんだけど、それでもやっぱり彼女の顔が印象に残っていなかったんだ。なんとなくは分かる。彼女がきっと笑っていたというのも多分と言えるくらいには憶えていて。ただそれは話の前後の雰囲気とか彼女の声色とか、そういうのを全部含めてなんだ。
なんかね、子供の頃に神様がくれたんだ……多分。
「多分かい」
そう言ってたんだよ。
いつ頃からこの力を使えるようになったのかという私の問いに彼女が返した言葉だった。子供の頃、砂場で遊んでいると誰かがくれたのだと。子供の頃の思い出でもうその人物が男だったのか女だったのかも思い出せないらしいが、とにかくそうしてA子ちゃんは何とも使いづらい力を授かったというわけだ。
私は、高校に入学してからの数か月に非常に満足していた。自分自身のこともそうだけど、幻想郷には面白い奴らがいっぱいいて、そして隣に座っている普通の見た目をしている子もなんともエキセントリックな物語を持っている。梅雨前線はまだまだ頭上を去る気はなかったけど、今までよりも夏に思いを馳せていたのも事実だったんだ。
そんな、私の歳相応に持っているであろう夏への高揚感は、簡単に崩れることになる。きっかけは、A子ちゃんが描いた一つの原稿だった。
その日のA子ちゃんは、朝から真剣な面持ちで原稿に取り組んでいた(本来ならば真剣な面持ちで勉強に打ち込まなくてはならないのだが、私もしていないので言えなかった)。印象に残っているのは、きっとその顔を私が初めて見たからというのもあるのだろう。
そうして彼女は昼休みも終わろうかというところで早退した。私にしろ彼女にしろ、確かに問題児なのかもしれないが、流石に学校に来たからには机に座るくらいはしている。きっと、たぶん、とらすとみー。特に彼女は早退も遅刻もしたことがなかったため、珍しいこともあるものだと私は感じていたんだ。
次の日、A子ちゃんは学校へ来なかった。来たのは週が明けての月曜日だった。何かあったのかと声をかけようとして、そんなことは当たり前だと脳内で彼女になんて声をかけようかと理論を展開していたが、それは直ぐに無用の長物に変わった。A子ちゃんからこちらに話しかけてきたからだ。
どう思う?
放課後。階段横の自動販売機に背中を預けながら、彼女はそう尋ねてきた。
話を整理してみる。早退をしたあの日、A子ちゃんの手に朝から『降りてきた』らしい。それも今までにないほどの不安感を持って。一コマ一コマと描いていくうちに、その不安感は焦燥に変わっていった。
その時に描いたという漫画を見せてもらった。そこにあったのは、ふらふらと歩く犬のキャラクターが、最後には建築資材の下敷きになってしまう、という話だった。その犬は、彼女がお世話になっている男性らしい。その言葉にドキドキとしてしまったが、先に施設を出た兄貴分とのことだった。私はそこで初めて彼女が児童施設で生活していたことを知ったのだ。ただ、それはそれで今回の問題とは関係は無いだろう。
こういう力は不公平なものだと、幻想郷に行ってから強く思うようになった。目の前の少女が例えば一国のお姫様だろうが深窓の令嬢だろうがそういう力を持つかもしれないし、今すぐに野垂れ死にそうな時にどれだけ願おうとも力を手に入れることは出来ないものだと。天は二物も三物も与えることもあれば、一つもいいものを与えてくれないことだってあるんだ。
そうして危機を知った彼女は、その兄貴分が働いている職場に急行した。その男性(どれくらいの年齢なのかわからないが)は彼女の不思議な力を知っていたらしく、その日は無理を言って現場を抜けたらしい。結果としてやはり建築資材が倒れるアクシデントがあったのだが、怪我人などは出なかったと。
これだけを聞けばいい話、なのだろう。しかし、彼女が私にこう言ってくる理由はわかっている。
「今までに、こういうことってあったの?」
……ううん。
彼女が言っているのは『描かれた結末にならなかった』ということだ。そう、彼女が描いたこの漫画の中には『彼女自身が映っていない』のだ。前に私のことを描いていた漫画では、確かに彼女が出ていた。他のキャラクターと違ってデフォルメされていないことを憶えている。
「私がアイスを買った時の漫画、描いてくれたじゃん」
うん。
「例えばさ、あれは私がA子ちゃんに話しかけられたから買った、とも考えられるんだ。もしかしたら、私が買わなかったっていう結末もあったかもしれないじゃない。それについてはどう思う?」
……わからない。
「まあ、そりゃそうか」
ただ、私が何をしてもしなくても、描いた通りの結末には、なると思う。
感覚、というのは馬鹿には出来ない。彼女の経験は私が思っているよりもずっと蓄積されているのだろう。そう仮定して彼女の言を信じる。嘘をつく理由も無いだろう。結局二人で頭をひねってもいい答えなんて出るはずもない。もやもやとしたものを抱えたまま、私は学校を後にした。A子ちゃんは部活に顔を出していくと言っていた。律儀だなあと思った。
コンビニで買った新発売の缶コーヒーは中々に温く、甘さが凶悪だった。糖分補給という観点から見れば有用、なような気がするけれど。A子ちゃんの言葉を思い出す。今までこんなことは無かったと。そして、描いた通りの結末になるはずだとも言っていた。学校で考えていた時も確かに頭の中に靄がかかっていたのだが、改めて考えてみる。
自分で望んだわけではない力。それを明確にコントロールできていない。例えば、私の超能力が暴走して私の意識下を離れたとしよう。きっと、それと今回のA子ちゃんの話は違う。元が違うからだ。私は『元々使いこなせていた、使いこなせるようになった力が暴走した』のに対して、A子ちゃんの場合は『元々から使いこなせていない力の一部分を享受している』状態だからだ。
乗っていた電車のアナウンスで、家の最寄り駅に着いたことに気が付いた。電車の降り際、朝からのじめっとした天気の所為だろうか乗降口がぬるりとしていて、つい滑りそうになってしまった。視線を下におろしても、床に泥とかは無い。
何か、いやな予感がする。それはもう戻らない状態であることを認識させられたような、重い感覚だった。
次の日には、A子ちゃんは何時ものように笑っていて。深く聞くほど私たちの距離は縮まってはいなかったんだ。いや、違うな。きっと、私が距離を取っていたんだ。
それから一週間ほどして、A子ちゃんが笑わなくなったことに気が付いて、その日の夕方に熊さんが事故に遭った。そうしてA子ちゃんは学校に来なくなったのだ。
「うーん、こいつは、なんとも」
霊夢っちと早苗っちにA子ちゃんの描いたものを見せてから数日後。再び幻想郷にやってきた私は、丁度博麗神社にやってきていた魔理沙っちにも件の原稿を見せていた。見せたときのリアクションは大体同じだというのが、この紙束の奇妙さを物語っているといってもいいのかもしれない。
縁側から見る境内は雨でその景色を曇らせている。時々遭う狛犬とか鬼とか小人は今日はいなかった。この幻想郷という場所で、初めて私はつまらないな、という感情を持っていた。
「しっかし、聞く限りではなんとも使いづらい能力だなあ」
「本人も、痛し痒しだったみたい。いきなり描きたくなるから周りからは変な目で見られて、病院にも連れていかれたりしたって」
「そんなもんかね。だったら私はどうなってしまうのかな」
「多分魔理沙っちは病院飛び越えて警察かな」
「官憲かよ」
魔理沙っちの言葉に、少しだけ胸が痛みを発した。自分自身は枠を破って俯瞰するものだと思いながらも、私は未だにあの世界の枠組みに息苦しさを感じているのかもしれない。
霊夢っちが淹れてくれたお茶を一口含みながら、正座していた足を崩す。やってきた痺れと格闘していると、霊夢っちは以前にも見たはずの漫画たちを据わった目で見返している。
「……まるで呪いね」
「ああ、そんな感じだよな」
「呪い?」
二人の言葉に、痺れを無理やり抑えながら卓袱台に身を乗り出した。あの時感じた頭の靄に、引っ掛かりが生まれた。
「しっくりこないのよね。なんというか、力が使えるようになった、と言うよりはこういう力が自分でも制御できない時に現れる呪いとか、そういう風に感じるのよ」
「能力自体は役に立つものだっていうところが、まるで悪魔が使う契約に似ているって思えるんだよな。ただし絶妙に不便で、破りたくなる。その後どうなるのかは知らないが、な」
私の中にあった靄があっと言う間に晴れていった。そうか、私は気づけなかったんだ。私は彼女を無意識に『同類』として見ていたから。ふむん、と霊夢っちは原稿を卓袱台に置きながら視線をこちらに向けた。A子ちゃんの居場所は、今も分かっていない。
「いやな感じね」
そう言った霊夢っちの横顔は、同性の私が見ても驚くほどに綺麗だった。
「しっかし、先生もツイてないよね。事故に遭うだなんてさ」
『見舞いに来てくれるのは嬉しいがな、言葉遣いを……まあ、いいか』
熊さんが事故に遭ってから数日して、私はお見舞いにやってきていた。影の薄い副担任が言うには命に別状はないとのことだったが、ワゴン車とぶつかって右足をぽっきりとやったしまったそうだ。逆にそれ以外に目立った外傷も後遺症も無いというあたり、熊さんという異名は伊達ではない。
学級委員や他の教職員も見舞いに来てくれた中で、入学してから数か月で問題児扱いされている私が来たのは意外だったらしい。
『なあ、宇佐見』
別に理由はなかったので顔だけ見て帰ろうと思っていたのだが、熊さんの顔が少なくとも学校で見たことがないような、最近の天気のように曇っている。どうしたんですかと、言葉遣いを少し正してからかった私の声色に気づかないほどだ。どうやら本当に何かを考えているみたいだ。
どうしたのともう一度尋ねてみる。熊さんはしばらく口ごもっていたが、ぼそりと、本当にぼそりと唇を動かした。外で降っていた雨の音で言葉を聞き取れなかった私に気が付いたのだろう。いつもと同じような声量に戻して、もう一度口を動かしてくれた。
『佐藤は、学校に来ているか?』
「サトウ? サトウ……佐藤、A子ちゃんのこと?」
『ああ』
「ああ、いや……最近はあんまり、かな」
『ずっと休んでるのか?』
別に私自身が後ろめたいことをしているわけではない。ただ本人がいないからだろうか、A子ちゃんのことを話すことに、少しのためらいがあった。
熊さんがしゃくった顎の先。そこにあった鞄を渡すと、熊さんは取り出したものをこちらへと渡してきた。我が高校の校章と名前が記されている封筒。
『事故に遭った日にな、それを佐藤からもらったんだ。最初は何だと思ったんだがなあ。宇佐見は佐藤がこういう……』
熊さんの言葉は段々と耳に入らなくなっていく。入っていたのはきっと最近描いていたであろうA子ちゃんの漫画だった。熊さんなのだろう、そのまんまにデフォルメされた熊のキャラクターが走るところから漫画はスタートしている。
たった二ページの漫画。それだけなのに、私は何故か次のページを見ることに抵抗を抱いていた。といってもこの漫画は既に『過ぎている』ものなのだと言い聞かせ、少しお腹に力を込めて次のページを開いた。
「……あれ?」
そこにあったのはやっぱり、車に撥ねられている熊さんで。けど、私が考えていた展開とは明らかに異なっていた。最後のコマの熊さんであろうキャラクターは、首が曲がり、血だらけで。手足も関節が増えているほどにひどい状態だった。どう見ても致命傷か、絶命している。
まるで呪いね
結末が違う。能力が無くなっているのか、それともコントロールできてきているのか。はたまた彼女が意識して描いたものなのか。一瞬で回った頭の中に、霊夢っちが言っていた言葉がまるで栞のように挟まった。
『なあ、宇佐見』
「はい?」
『ちょっと、佐藤を見てきてくれないか』
柵だとかルールだとかなんだとか、そういうもので大人たちは雁字搦めで。そして熊さんは困っていて、私はA子ちゃんと話がしたいと思っていた。
二昔前の感情豊かなキャラクターのように誰かのため、というわけでもない。一昔前に流行った少し捻くれたり、斜に構えたりしているキャラクターのように回りくどい理由でもない。
私は、私がこの話の先を知りたいがために、熊さんの頼みを引き受けたんだ。
A子ちゃんの住んでいる団地は、私が帰る道の途中にあった。雨は随分と強さを増していて。薄ッ暗い廊下の湿り気を不快に思いながら、熊さんから聞いた部屋に向かう。確かに表札には『佐藤』と記されている。とりあえずインターフォンを鳴らしてみたが、返事はない。
心配だ、というのももちろんあるけれど、ここまで来て無駄足で終わる気など初めから無い。最初の三回までは間を置いたが、それ以降は時折リズムをつけながら断続的にならす。三々七拍子で鳴らそうとしたところで、チェーンロック越しに扉が開いた。
宇佐見さん……?
「いよっ。元気してる?」
数日ぶりに見たA子ちゃんの様子は、明らかにおかしかった。学校に来ていた時もマイペースな子だなあとは思っていたが(私ほどではないけれどね)、それでも彼女の空気は随分と丸っこいものだった。
ぼさぼさの髪の毛はぎょろぎょろと動く目につられるように微かに揺れ動いている。隈の浮かび上がったその目は、今目の前にいる彼女の姿や空気が、学校で見たときの彼女の姿と随分と乖離しているように見える。
僅かに開いた隙間から、熊さんに頼まれた書類を渡す。言うまいと思っていたが、私がお邪魔をしてもよいかと尋ね、ようやく彼女はチェーンを外してくれて。その、たった一つのやり取りだけでも、随分と彼女は疲れていることがわかって、少しだけ悲しくなる。
入って
ワンルームの彼女の部屋は、考えて悲しくなるがあまり他人の部屋を訪れたことが無い私でも、よろしくない光景だということは理解が出来た。部屋自体はきちんと整っているんだ。ただ、玄関から見える洋間は、何か、異様に白くて。それが彼女の描いたのだろう漫画の原稿だと、理解をするのに数秒かかってしまった。
所狭しと漫画の原稿が張られているその光景を見て、いつか見たホラー漫画に、こうやって大量の札が張ってあるワンシーンがあったなあなんて、並行して考える。音量が小さいのだろうか、部屋の角に設置されたテレビはついている筈なのに、いやに雨の音だけが耳に入ってくる。
「これ、全部A子ちゃんが描いたの?」
うん。なんか、最近ね、止まらないの……。
ソファにうずくまるように座るA子ちゃんが言うには、兄貴分を助けた翌日から『降りてくる』回数が明らかに増えた。最初の数日こそは一過性の何かだろうと気にしないように過ごしていたが、日常生活に支障が出るほどに、彼女の身体は無意識に何かを描くようになった。
回数もそうだったが、更に、描きあがったものの内容がA子ちゃん自身も理解が出来ないものになっていることが多くなった。そんな中で、彼女は一つの原稿を描き上げた。私も見た、熊さんが事故に遭うあの話だ。
怖くなってね。言わなくちゃって思ったんだけど、なんて言っていいかわからないし、それにね、なんか、これ以上、悪くなるような気がして……。
「だからせめて、と思って原稿だけ渡した、と」
小さく頷くA子ちゃんの頭を撫でながら、知らず、私は笑みを浮かべていた。きっと、不安だっただろう。一人になりたがりな私でも流石にこれくらいの機微は分かる。泣き始めた彼女をなだめ終えた頃には、空の色は随分と灰色を増していた。
「熊さん、言ってたよ。あの漫画が無かったら、もしかしたら死んでたかもしれないって。佐藤は命の恩人だーってさ」
小学生くらいの頃に、再放送で流れていた学園ドラマで、よくこんなシーンがあったんだ。いじめられっ子とか、問題のある子がクラスメイトとか担任とかに慰められて、話し合って、お互いに信頼していく。そんな一場面。クソガキだった私は、こんなのはフィクションに決まっているとか、私だったらこんな面倒なことはしないとか、そんなことを思っていたんだけど、意外と人生というのはわからない。
A子ちゃんの子供の頃の話だったり、逆に私の話だったり。少しでも話をしようと思ったんだ。きっとそうしないと、彼女はまた不安に飲み込まれてしまうだろうから。
「今日は、その兄貴分の人が来てくれるの?」
うん。もうそろそろだと思うんだけど……。
そう言った直後に聞こえたインターフォンで、A子ちゃんと私の奇妙で不思議な時間は終わりを告げた。初めて見た兄貴分の人は随分と優しい顔をしていて、きっと血のつながりだけではないものがあるのだと信じたくなった。
「じゃあ、また明日。学校で」
そう言った時の彼女の顔を、私は忘れたくはない。ただ、思い出せないんだ。あれは、あの顔は、許された顔だったのかもしれない。
とにかく、そう言ってA子ちゃんの部屋を後にして見上げた空は、もう雨は降ってはいなくて。どうにかなるってさ、思ってたんだ。
ただ、次の日の朝になっても、やっぱり隣の席は空いたままだった。朝のホームルームが終わって、一限は教室移動だったことに、手洗いから戻ってきてから気が付いた。鞄の中から教科書を取り出していると、何か、くぐもった音が聞こえて。それが私の携帯端末から聞こえているのだと理解するのに、しばらくの時間がかかった。滅多にならないから、なんてことはない。
周りを見ると、教室には誰もいない。どうやら私が最後のようだ。これ幸いと取り出した端末の液晶画面には、昨日番号を交換したばかりのA子ちゃんの文字が浮かんでいた。
いやな、予感がした。
「はい、もしもし」
宇佐見さん、宇佐見さん?
電話口でもわかるほどに、彼女の声は震えていた。 どうしたの、そう脳内で形にした言葉を切り出そうとしたところで、何かが彼女の声と吐息に交じって聞こえてくるのだ。
がん、がん、どんどん。そう、何かを叩くような。
「何の音?」
あのね、あのね、今日、学校行こうと思ってたの。そしたらね、なんか、寝ている間に描いてたの。今、扉にね、いるの。
「誰かが叩いてるの?」
うん。
「誰だかわかる?」
自分でもわかるくらい、心臓が早鐘を打っている。知らず私は鞄を持って駆け出していて、階段を駆け上って、入学初日に発見した鍵の壊れた窓から屋上へと躍り出た。警報装置が鳴らないことも確認済み。雨こそ降っていなかったけど、今にも空模様は崩れそうなほどに埃色をしている。
「誰が、叩いているの? 警察には?」
ううん、まだ……。
「なら先に警察に連絡しよう? 私の方にも聞こえてくる。結構な力で叩かれてるの、わかるよ」
嫌だよ、怖いよ……やめてよ! 宇佐見さん、あれね、叩いているの。あれっ……見たんだよ。
いよいよ音が大きくなってきている。A子ちゃんの声を聞き取れないほどに、ドアを叩いているのだろう音が私の耳にも入ってくる。同じ階の住人は何をしているんだとか、周りは誰も気が付いていないのかとか、色々考えるけど、それよりもA子ちゃんの声が聞こえなくなることの方が、不安になる。
最初ね、誰かと思って。
「うん」
……してたの。
「え、なに? ドアの音が五月蠅くて!」
私の顔、してたのっ!
一刻の猶予もないと思ったんだ。ちょっと待っててと叫びながら、鞄の中から取り出したのはマントと帽子。視界の端が滲んでいることに気が付いた。雨が、制服を濡らしていく。
「A子ちゃん! A子ちゃん!」
ひいぃ、ひい、やめてよう、かえってよう!
「待ってて! 今行くから!」
……止まった? どっかいった?
え? うそ、なんで、鍵が開くの? いやだよ、かえってよ! 怖い、怖い、怖い。
いいいいぃぃぃっ!
雨足はどんどんと強くなって、雨粒が私の視界を滲ませる。頭の奥、両目の中心のその奥に力を込めて、私は宙を舞った。
幻想郷に行ったことで、知ったことがある。この世界の薄い皮を捲った先にはたくさんの不思議が待ち構えているということ。そしてもう一つが、それが必ずしもよいものばかりではないということだ。
「A子ちゃん!」
廊下の突き当りから見えるリビングの窓は全開になっていて、カーテンはこんなにもはためいているのに、揺らしている風の感覚を感じることは出来ない。玄関にいる私の身体もまた、時が止まったように固まっている。
揺れるカーテンに守られるようにしながら、人影と、人影のようなものがあった。A子ちゃんの声はもう喘鳴のようになっていて。滲むメガネのレンズの向こう。結構な距離があるはずのその顔を、私の決して良いとは言えない目は捉えたのだ。
「アンタ……誰?」
人影のようなもの、と形容した。あの子と髪型も制服も一緒のはずなのに、その顔は私が見たことのないもので。そしてその頭が、異様に大きいのだ。A子ちゃんの肩を掴むその顔は、目元までは明らかに人間なのに、その大きな頭と、そして大きな口が、沢山の牙を並べている。見えるんだ。私の視力は良くないのに、それでもわかるほどに。
「A子ちゃんを、離しなよ」
このことは墓まで持っていくつもりだが、この時、私は完全に気圧されていた。いうならビビっていたんだ。ここには、霊夢っちも、魔理沙っちも、もこたんも早苗っちもいない。私しかいないんだという事実が、心臓をフル回転させる。
一瞬だった。そのA子ちゃんっぽい何かは一言呟いて、A子ちゃんのことを解放すると、ベランダへと駆けだして次の瞬間には飛び降りたのだ。
「……おい!」
この瞬間に、ようやく自分にかかっていた金縛りのような感覚が解けたことに気が付いて、ベランダから外を見下ろした。
そいつは、こっちを見上げて、睨んでいた。その顔はたしかにA子ちゃんだった。ただ、その頭はアンバランスなほど大きいし、その眼はやたらと瞳がでかかったんだ。
そいつは笑いながら、大雨の路地の中へ消えていった。追いかけようという気にはなれなかった。
「A子ちゃん! A子ちゃん!」
A子ちゃんはただただ両手で顔を覆って、ずっと引き攣った泣き声をあげていた。
こうして、私が高校に入ってから初めて体験した不思議な話は終わりを告げたのだ。
「はぁー……暑っつ」
あの不思議な体験からしばらくが経って、私たちの学校も夏休みに入った。けど、今私が着ている服は学校指定の制服なのだ。勿論、着るものがないとか、そんなことは殆どない。そう、ほとんどだ。
きっかけは、熊さんからの電話だった。最初に電話をとった母親はすわ何事かと大層慌てていた。幸いにして心当たりがありすぎた(A子ちゃんの件も警察から学校へ、そして家族へと知れ渡ることになった)私は、さしたる動揺もせずに受話器を取ることが出来た。少し年季の入った電話からは、これまた少し粗が入った熊さんの声が聞こえた。
『少し用があるから暇なら学校に来い』
職権の乱用ではないかとか、いたいけな生徒に何をする気だ、なんていう無駄の集合体で出来た無駄な掛け合いをして、昼前には学校に着いていた。
数日前にあまり見ないテレビの天気予報は梅雨明けを告げていて、みいん、みいんと蝉が鳴き始めている。体育教員の指導室で見た熊さんの足には、まだ大きなギプスが巻かれていた。
『おお、宇佐見』
「どうしたのさ、センセイ」
『だからお前は言葉遣いをだな……まあいい。ほれ』
そうして熊さんから渡されたのは、一冊のパンフレット。そこには子供の頃におばあちゃんの見舞いに一度だけ行ったことのある病院の写真が載っていて。熊さんは詳しく話しこそしなかったものの、そこに彼女がいるということはわかった。
『なあ宇佐見』
「はい?」
『佐藤は……あいつはなんか不思議なものを持っていたのかも、と思うんだなあ。俺は』
「持ってたよ」
安っぽいアルミ素材のドアノブに手をかけていた私が振り返って、熊さんは驚いたように私を見ていた。
「センセイ。A子ちゃんの所、行ってくるよ」
『おう』
指導室を出て、さっきまで消えていた蝉の喧騒が、また私の鼓膜を揺らし始める。みいん、みいん。ああ、そうだ。長かった梅雨の音は、もう耳には残っていない。
霊夢っちも魔理沙っちも、早苗っちも私の行動を褒めてくれた。私にはそれが意外だったんだ。物語の主人公みたいに、みんなを救ってハッピーエンド、とはいかなかったのに。それでも彼女たちは褒めてくれたんだ。
病院までは、学校の最寄り駅から電車で数駅。ナースセンターに事情を説明して通された、いくつかの扉を通った先の病室で、A子ちゃんは、あの怖い体験など夢だったかのように穏やかな顔で眠っていた。隣にいた兄貴分の男性が言うには、一日の大半は寝て過ごしているらしい。
あの丸っこい声を、随分聴いていないと思った。私の中でA子ちゃんは、灰色の空で結ばれていて、だから窓から見える梅雨明けの真っ青な空が、まあ、色々と変わっていくものだと私に語りかけている気がした。
病院を出て、駅までのバスを待とうとした。そのベンチに、奴はいた。
頭の大きさこそあの時のように巨大ではなかったが、改めて顔を見てみると、A子ちゃんとうり二つなその眼は眼球がないかのように真っ黒なのだ。その顔を見て、確かに怖いのだけれど、もう、私の膝は震えなかった。
今度は、違う奴を食べに行くよ。
「そ。好きにしなよ」
お前のせいで、誰かが死ぬよ。
「私は、私の知っている範囲の人だけ、守れればいい……いいか。お前が一体何なのか詮索する気は無いし、私は会いたくない。ただし、この先私の家族や仲間や友達に危害を加えるなら、お前を殺す。必ず殺す。どこに逃げようとも探し出して殺してやる。私の名前は宇佐見菫子。二度と会わないように、この名前を憶えておきなよ」
そいつはなんとも慣れていないように、くぐもった笑いを上げて、その場を去っていった。我ながら寛大な措置だとは思った。
夏休みはあっという間に過ぎて行って、また学校に通う日常が始まった。変わったことと言えば、隣の席には誰も座っていなかったことだ。それから、A子ちゃんに会うことは二度と無かった。
A子ちゃんは、何者だったのだろうか。もう顔も思い出せない。そしてA子ちゃんを狙ったあいつは、いったい何だったのだろうか。それもまた、謎のままだ。まるで幽霊のように、彼女の痕跡は消えつつある。
今でも机の中には、彼女の描いた漫画が少しだけ残っている。大半は霊夢っちが祓ってくれて処分されたのだが、特に害のないものは、私が受け取った。私のことを描いてくれた、ゴリゴリ君のあたり棒が出る漫画を見るたびに、自分でも少しだけ頬が緩むんだ。
A子ちゃんのいなくなった窓から見える景色は、まだまだ夏の香りを残していた。
怪奇的で魅力的な作品でした。良かったです。
じめっとしながらも、読了後は素晴らしい清涼感を得られる素晴らしい短編だったと思います。
ちょっとヒーローっぽい、主人公っぽい菫子が良いですね!
ふしぎな子だったなぁ
少し怖いような面白い話でした