「ねぇ、貴方はどう思っているの?」
何も残ってはいない更地で、一人佇んだ女が問うた。
相手はいない。だから返ってくる答えもない。だが、彼女は満足そうに頷いた。
「それで良かったの?」
まるで女の目には、この世のものではないものが映っているようで、傍から見ればただの気狂いである。その瞳に湛えられた暖かな光を見なければ、みながそう思うだろう。
「自分にも息子がいたら、あんなだったろうって?」
代弁するように、唇が動く。そして笑い声だけが夜空に吸い込まれていった。
「貴方はきっと、幸せだったのよね」
まな板の上を包丁が走る。その手捌きによって大根はあっというまにイチョウに切られ、刃の上に乗って鍋へと運ばれる。続いて彼女の左手が人参を掴む。
居間では、泣き疲れた霊夢が昼寝をしている。そちらの方を、ちらちらと見ながらも、その手はまたもや野菜を細かく切り刻んだ。
「ただいま」
玄関先の方で声がして、重たい足音が近づいてくる。今日は夫が朝から買い物に行ってくれたのだ。思ったよりも早かった帰りに、幽夢は一安心した。何しろ、赤ん坊を見ながらの家事というのは、とにかく忙しいのだ。彼が帰ってきてくれれば、自分は料理に集中できる。
「ただいま。買ってきたもの、ここに置いとくぞ」
「おかえりなさい。少し天気が心配だったけど、雨が降らなくて良かったわ」
幻武は台所にやってくると、買ってきた食べ物を所定の位置に収納する。
視線を向けた幽夢は、彼の左手に瓢箪が握られているのを発見した。酒を買ってくるようには、言っていないはずだ。
「ちょっと、あなた。その瓢箪は何よ」
「え? ああ、これ? そこで深山に会ってさ。神社の結界、お前が解いてくれたんだろ?」
「あっ……。そうよ。そうだったわ。近づいてくる予感がしたから、解除しておいたのよ。まさか夫の友達に火傷を負わす訳にはいかないもの」
「はっはっは。あいつも、半信半疑でビクビクしながら境内に入ってきたって言ってたよ」
幻武は天狗からもらった酒を棚の上に置くと、汲み置きしてあった飲み水をぐいと口にした。
「良く気がきく奥さんだ、って伝えといてくれと言われたよ。あいつも今日は、森の入口のところに瓢箪を置いて帰るだけのつもりだったらしいからな」
「そ、そう。それは……。深山さんも上がって、ゆっくりしていけば良かったのに」
「まぁ、あいつもそこら辺は弁えている奴だから。今回は助かったが、あんまり結界を解くのも良くない。とも言ってたな」
「大丈夫よ……。親しい人や妖怪の気配は、確実に識別出来るから……。今回は、深山さんって分かってたから解いただけよ……。……あっ!」
話しながらも滑らかに動いていた刃が、その指を噛んだ。人差し指の頭に出来た切れ目から、あっという間に真っ赤なものが溢れでてくる。
「だ、大丈夫か!?」
「え、ええ……。ちょっと手元が狂っちゃった」
「あーあー。今、包帯を持ってくる」
居間へと駆けていった夫の背中を見ながら、幽夢は右手で切り傷を握りこんだ。掌の中を熱いものが満たす。
「まったく、珍しいな。お前が怪我をしたところなんて、何年振りに見たことやら」
言いながら幻武は妻の手をとり、その出血箇所を包帯できつく巻いた。
「痛くないか?」
「え、ええ……。あんまり痛く……ないわ」
ぽたり、と包帯の上に水滴が垂れた。幻武がハッとして顔を見上げると、そこには額に脂汗をかいた妻の顔がある。そこで幻武はようやく、そのただならぬ様子に気付いた。もう一つ、汗が自分の指に落ちてきた。
「ゆ、幽夢。お前、どうした?」
「……ごめんなさい。ちょっと熱っぽいの。頭が、痛くて……」
「おいおい! 先に言ってくれよ! ほら、後は俺がやるから、こっちで休んでろって」
霊夢がまだ眠っているのを見てから、幽夢の手を引っ張り、寝室まで連れて行く。そして幻武は押入れに駆け寄ると、テキパキと布団を床へ広げた。
「……風邪かな」
「分からない。多分、そうだと思うけど……」
布団の中に入った妻の額に、掌を当ててみる。じんわりとした熱さが彼の手に伝わった。
「よし。決まりだ。お前は休んでろ」
「あ、でも……」
「いいから。それじゃ、飯は俺が作ってくる」
彼は手ぬぐいで汗を拭いてやると、有無を言わさずに部屋から出て行った。
幽夢はその強引なやり方に微笑むと、己の指を瞳の前にかざしてみる。包帯でぐるぐると巻かれた指先は、痛みも痺れも寒さも何も、何も感覚がなかった。
だが縛り過ぎて鬱血している訳ではない。何故なら、他の9本も同様であることに彼女は気付いたのだ。
◇ ◇ ◇
山の麓では、毎日のように天狗たちが宴会を催している。そして、夜明けと共に妖怪たちは山へと帰り、残るのはゴミだらけの原っぱだ。
そこで幻武は、割れた徳利の欠片だとか誰かの喰いかけたツマミだのを拾い集めていた。その場所は神様の通り道という事もあり、幻武は山菜採りのついでにと掃除を請け負っているのだ。
「全くあいつら、ちょっとは自分たちで片付けろってんだ」
自分が好きでやっているとはいえ、毎度毎度の荒れ様を見ればこのような愚痴の一つも出る。
「あら、神社の幻武じゃない。いつも、ご苦労様ね」
文句を言いつつも掃除を続ける幻武に声を掛けたのは、人間も良くお世話になっている豊穣の神様だった。空から舞い降りてきた質朴で豊かな神は、生焼き芋の香りをその身から振りまきながら幻武に近づく。
「これはこれは、穣子様! いつもお世話になっております」
慌ててゴミ拾いの手を休めると、幻武は神様へ向けて頭を下げる。それに対してあちらも半分はふざけた調子で、えっへん、と胸を張った。
「苦しゅうない。そういえば、貴方の所の子供がこの間お誕生日だったみたいね。お祝い出来なくてごめんね」
「いえいえ、とんでもない。穣子様たちには、この秋にとびっきりの贈り物をして頂けますからね」
「ふふ、そうね。それで勘弁してちょうだい」
八百万の神と云えども、れっきとした一柱である秋穣子。そんな大物とも幻武は顔見知りであった。それはこの妖怪の山に住むものであれば、妖怪だろうと神様だろうと気さくに話しかけてしまう彼の人柄によるものだった。
特に穣子は幻武の事を、良く気に入っていた。近頃の人間は神様に対する信仰がなっていないと、穣子は常々から不満に思っているのだが、その点、彼は自分の事をきちんと神様として敬々しく扱ってくれるからだ。
「あっ、そうだ! 貴方に聞きたかったんだけどさぁ」
穣子は声を潜めると、幻武に近寄って耳打ちをしてきた。幻武の鼻に芋の香りが漂ってきて、思わず腹の虫が鳴きそうになる。
「なんですか突然?」
「ねぇ、最近さぁ。幻想郷を囲ってる結界が弱まってきてない? 貴方の奥さん、ちゃんとやってるのかしら?」
穣子の指摘に、幻武は大きな笑い声と共に「最近、良く言われるんですよ」と説明を始めた。
「なぁに、幽夢の奴が夏風邪を引いちまって寝込んでるんです。それで、今は少し結界が弱まっているだけなんです。でも安心してください。すぐに治って元通りになりますよ」
「あ、あらそうなの? それはお大事にね」
説明に納得はしたようだが、まだ穣子は何やらそわそわと落ち着かない様子であった。それに気付いた幻武は首を傾げる。
「どうしたんですか穣子様? 何か他におっしゃりたい事でも……」
「あ、ああ。ちょっとね、噂に聞いたんだけど……」
穣子は周りに誰もいないか見渡すと、幻武の耳元に更に唇を近づけて、ひそひそと話し始めた。
「どうも結界が薄くなってる事で、変な事を考えてる妖怪がいるみたいなのよ。噂によれば今代の巫女は、娘に博麗大結界を受け継がる気がない、だとか……」
「へぇ、そんな噂が……? 火のないところからも煙は立つもんだ」
そのように軽く返した幻武であったが、その心臓は驚きと不安で高鳴っていた。――結界に関する紫との秘密の取り決めが、何故か妖怪たちの間で噂として広まっている事。そして6年前の出来事を思い出させる、妖怪たちの不穏な動きという情報。
それが、結界やらに関心のなさそうな穣子の耳にまで届いているという事は、幻武としては見過ごせない。
「穣子! 貴方何してるの?」
二人の密談を遮ったのは、穣子の姉である静葉の声であった。八百万もいるものだから、兄弟姉妹は当たり前にいるのが日本の神様である。
静葉は上空から穣子の元へ降り立つと、妹の事を叱咤する。
「どうせまた、ロクでもない噂話を吹聴してたんでしょ? 幻武さん、変な話聞きませんでした? どうせ天狗たちのゴシップですから、お気になさらず……」
「あ、いえいえ。ただの世間話でしたから」
幻武が笑顔で返すと同時に、静葉は妹の腕を掴んで無理やり空に連れて行く。穣子は不満そうに頬をふくらませながら、仕方無しに宙へと昇っていった。
「さっ、今日は落ち葉作りしなきゃならないんだから早く帰るわよ。幻武さん、それでは失礼しますね」
「もう、お姉ちゃん! 私だって天狗の新聞なんかもう読んでないわよ? それじゃあね、幻武」
「ええ、お気をつけて」
神様の姉妹が山の中へと消えていくのを見て、幻武はゴミ拾いを再開しようとし、そしてその手を止めた。
痺れるような痛みが、彼の全身をじくりと刺した。彼の脳裏にはあの夜の死闘が再生され、全身に刻まれた古い傷跡が裂けるように張り始めたのだ。
「思い過ごしであれば、いいんだが」
幻武は6年前の“あの日”を思い出す。幽夢と仲を深めるきっかけにもなった、しかし九死に一生を得た忘れられない日を。
あの戦いの理由。それは、後になって紫に聞いてみれば、妖怪たちが幽夢の不調による結界の緩みに過剰反応した、恐慌のようなものだったという。故に先程の穣子が発した、妖怪たちが結界の緩みに不安を感じているという噂を聞いて、幻武も不安に駆られるのは当然であった。
「今日は、もう切り上げるか」
籠の中に十分な山菜を採れているのを確認すると、幻武は博麗神社へと帰り始めた。なんとなく、あの刀をどこに仕舞っていたものかと、頭の片隅に思いながら。
◇ ◇ ◇
幽夢は社務所の寝室で、額に氷嚢を乗せ布団に包まっていた。部屋に入ってきた幻武に気付いた彼女は、額の上のそれを退けて、静かに目を開く。
「帰ってきたぞ。具合はどうだ?」
その笑顔を目にして、幽夢は弱々しくも明るい声で応える。
「おかえりなさい、あなた。お陰さまで少し良くなったわ。……ふふっ、こんなに体調が悪いのなんて、6年前の“あの日”以来かも知れないわね」
「……! ああ、そうだな。お前、今まで風邪なんて引かなかったのになぁ」
妻の軽い冗談に、幻武は肝を冷やした。山で感じた不安に、妻の「6年前」という言葉がぴったりと重なって。
だが彼は、その冗談が自分を心配させない為の他意なき気遣いだと分かっていた。彼女はそういった気配りを昔から欠かさない人だった。
「あなたも、ね。馬鹿と巫女は風邪引かないって、昔から言うじゃない?」
「ったく。ゆっくり寝てろ」
幽夢の額に手を当てて静かに言った幻武は、数日前に比べれば、その熱が大分引いている事に安心した。
ただの夏風邪とはいっても、生まれてこの方、本当に健康そのものだった自分たち。故に看病自体も不慣れであるし、幻武はただの風邪とは思えずに妻の事を心配していた。
だが幽夢は、あくまでもそれを払拭させるように、明るい調子で話を続ける。
「あ、そうそう。居間に紫がいるから、お礼を言っておいて。今日一日、霊夢の面倒を見てくれたのよ」
「へぇ、紫さんがね。あの人ほど、子守の似合わない人もいないけどな」
幻武は笑いながら静かに戸を閉めると、縁側を歩いて障子戸から光の漏れる居間へと向かった。そこには小さな布団の上で寝息を立てている霊夢と、机の上で何やら薬を煎じている紫の姿がある。
幻武は、その薬の香りが漂う居間に足を踏み入れると、煎薬に夢中となっている様子の紫へと声を掛けた。
「こんばんは、紫さん。今日は霊夢を見てもらったみたいで、ありがとうございます」
「あら、帰ってたのね。……別に、私は何もしてないわよ? 霊夢が外に出て行かないように見てただけ」
そういう割には、霊夢の服は汗を掻いた度に交換されたようで、出かける前に見たものとは違っていた。何だかんだと言いながら、きちんと世話をしてくれたのだろうと、幻武は彼女に感謝する。
「いや本当に助かりました。……ところで、それ何をしているんです?」
「ああ、これ? 風邪に良く効く漢方薬を作ってるのよ。昔からコレにはちょっと煩くてね」
机の上には幾つかの薬の盛られた紙が広げられており、そこから調合されたのであろう薬は、薬膳茶として湯のみに注がれようとしているところだった。見たこともないような珍しい薬たちが擦り合わされたその薬膳茶は、熱せられた影響か部屋に入った時とは全く異なる香りを放っていた。いや、それは香りというよりは、むしろ異臭である。
「よし、出来たわ。ちょっと幽夢に飲ませてくるから、霊夢の事お願いね」
「ええ。……すごい匂い、ですね」
湯のみから漂ってくる、強烈な異臭に鼻を曲げながら、部屋から出て行く紫を見送った。
一方で紫は意気揚々と寝室へ向かい、寝こむ友人へと手ずから煎じた茶を持って行く。
実のところ、今日の紫は暇ではなかった。年に何回かある幻想郷の定期点検に、藍を引き連れて出かける予定だったのだ。だが、それを「次期博麗の巫女の安全を確保する為」というもっともらしい言い訳で全部藍に押し付け、一日中、霊夢の世話をしていた。
従者に対する罪悪感は全くなく、僅かな労いの気持ちだけを持って、紫は寝室の戸を開ける。
「お邪魔するわよ、幽夢。貴方に素敵な贈り物を持ってきたわ」
たちまち寝室を満たした強烈な匂いに、幽夢は布団の中で鼻を曲げた。そして咳き込みながら、彼女に文句を垂れる。
「うげ。何よ、この匂い……。まさか、それが贈り物って言わないわよね?」
「そ・の・まさかよ。さぁ、これを飲めば風邪なんかすっかり治るわよ」
「ちょちょ、これ飲めっていうの?」
布団から身を起こした幽夢は、無理やり手に収められた湯のみを凝視する。紫は満面の笑みで、それを飲むのを待っているようだった。
「も、もう少し大衆向けに出来ないの?」
「良薬口に苦し。って、なんて名言なのかしらね」
自分がその湯を飲むまで、ずっとそこにいるであろう紫の顔を、深いため息混じりに一瞥すると、幽夢は覚悟をして湯のみの縁に口を付けた。
彼女もこれ以上、友人や夫に迷惑を掛けたくなかった。だからこの風邪が治るのならば、多少の不味さなど苦にはしない。幽夢は鼻をつまみながら、湯のみの中にある前代未聞の液体を舌の上で転がし、喉の奥へと通す。
ただし、そのまずさが“多少”では無かった為に、幽夢は茶を飲みながら苦痛に身悶えるハメになった。
「んぐ~!? ぐ、ぐぅ……!!」
幽夢は拒絶反応を起こすように背筋を伸ばし、身体を痙攣させるように震わせた。
喉元を過ぎても、まだ強烈な味が胃の中で暴れる。途端に顔は上気して、鼻水が流れ出てきた。
「あらあら、私の心遣いが嬉しくて踊ってるのかしら?」
「ぷっはぁ! 見りゃ分かるでしょ、あまりに不味くて死にそうだったのよ!」
湯のみを紫に押し返すと、幽夢は舌を突き出しながら味付けに文句を言う。紫は空になった湯のみに目を落として、一つ溜息をついた。
幽夢は鼻水を啜りながら、紫を睨めつけ問いただす。
「これで、元気になるんでしょうね? こんな酷い思いして効果無かったら、殴るわよ」
「ええ、元気になるわ。私が丹精込めて作った薬だもの」
「……え?」
自分の顔を見る紫の目は、心なしか悲哀に満ちている。――幽夢は“見逃さなかった”。
彼女の双眸が暗く鈍い光を宿す。はだけていた胸元をそっと直して、背筋を伸ばして座り直した。――身体が発熱してきたのを、しかと感じる。それが漢方の効能なのか、それとも身体の感情表現なのかは判断がつかない。
「紫、結界を張って」
「分かったわ」
紫がぱちり、と軽く指を鳴らした。
それは二人の間では、昔からよく使われていた合図。――指を鳴らした方が、その場に結界を張る――その結界は物理的な干渉の一切を排除するものである。障子に映る影も、話す声さえも通さない。それで寝室は、一個の独立した空間となるのだ。
幻武と付き合いたての頃に幽夢はよく、紫にこの空間を作ってもらい、散々に愚痴を吐き捨てたものだった。だが、今の彼女の口からは出てくるのは、そのような痴話喧嘩の類ではないだろう。それは、その真剣な眼差しを見れば誰でも分かることだ。
数秒間、二人は遮断された静かな空間で黙りこくった。二人の間のルールでは、結界を張るように言った方が話を切り出すという決まりがあった。だから、紫は幽夢が口を開くまで、空の湯のみを両手で握ってじっと待っていた。
「ねぇ……」
やがて、幽夢は口を開いた。――それは、彼女が霊夢を産んでからの数カ月間、ずっと悩み続けていた事。
「ねぇ、紫。……確か、私の先々代。つまり、母の前に博麗の巫女をしていたのは、私と血の繋がった祖母、という訳ではないのよね?」
「……はぁ?」
紫は拍子抜けした。
あんまり深刻な顔をしているものだから、もしや「実は霊夢は幻武の子じゃないの」くらいの衝撃的な暴露をするのかと思っていた。それが自分の母親や、巫女に関するただの質問だったので、身構えていた自分が馬鹿らしくなる。とりあえず紫は、その素朴な疑問に答えてやる事にした。
「ええ、そうよ。貴方の母親はね、捨て子だった所を先々代が養子として迎え入れたの。博麗の巫女に血縁は関係ないからね」
そう語るうちに紫の頭の中で、当時の記憶が蘇ってきた。
先々代の巫女がある日、紫のもとを訪れた時のこと。その手には幼い子供、聞けば妖怪に両親を殺され、更に自らも喰われかけていた所を救ったという。そして「この子を博麗の巫女にしたい」と相談してきたのだ。
当時、紫は特に驚きもしなかった。むしろ博麗の巫女は、通常であれば実の親子で継ぐ方が稀なことなのだ。捨て子を拾ってきて、それを巫女にする例は今までも何度かあったし、両親の別にいる里の子供が、修行の末に巫女を継いだ事も多くある。だから、捨て子である楼夢を巫女にする事には、特に紫も反対しなかった。
「あー、ごほんっ」
物思いにふける紫に向けて、幽夢は咳払いを挟んで話を再開した。
「物心がついた頃だったかしら、母から聞いた事があるわ。先々代は高齢で子供が産めなかったから、母を養子にして博麗の巫女にしたと。そして母が私を産む前に、その天寿を全うしたって」
「そうよ。先々代の名は博麗想夢。厳格で妖怪に容赦のない子だったわ。私でさえ手に余るきかん坊でもあった。……知ってた? 貴方たちの名前に受け継がれている“夢”という文字は、もともとは想夢からもらったものなのよ」
紫はそんな昔の事を思い出して、懐かしそうに天井を見上げる。しかし幽夢は、そのような呑気な話をするつもりはなかった。
「つまり実子を博麗の巫女にしたのは、お母さんと……私だけって事で良いのよね?」
「うーん、かなり昔には、他にもいたと思うけど……」
「あ、じゃあ……その昔の巫女の方は、えっと……。どうやって、亡くなったのかしら」
「……そんな昔の事、憶えているわけないじゃない」
「こんな詰まらない話は辞めよう」とでも言いたげに、紫は結界を解こうとした。しかし、それを遮って幽夢が声を裏返す。
「待って! 私、最近、ずっと考えていたのよ……。何故、お母さんが“あんな風”になって死んでしまったのかを……。それって、私が霊夢を産んでから霊力が弱くなったのと、関係が、あ……あるんじゃないの?」
生白い手を顔の前にかざし、震える声を絞り出し、幽夢は紫へと問いかける。布団を握りしめた彼女の左手は、己の肌に痛々しいほどその爪を喰い込ませていた。
「何が言いたいのよ? あんまり騒ぐと風邪、治らないわよ」
紫の言葉に、堪忍袋の緒が切れたかのように、幽夢は身体を戦慄かせて吐き捨てた。
「はっきり言わせようっていうの? ……つまり博麗の巫女は、自分の子に結界を受け継がせる時に、その霊力の源泉を、生命力の根源を、丸ごと引き継がせてしまうのではないかって事よ」
「……馬鹿ねぇ。貴方はまだ、霊夢に何も受け継がせてはいないじゃない。泣いて頼んでまで、結界の受け継ぎを十二歳まで延長させたんだから」
「じゃあ、お母さんはどうなの? ちょうどあれは、私が十二歳くらいの時だったわ……。そうよ、きっと、私と別れた後に少しずつ、ああなって、だから、もしかしたら、私も……!」
「幽夢、大丈夫よ。安心なさい」
紫は幽夢の両手を取って、焦点の定まらぬ巫女の瞳を己の胸へと収めた。そして、まるで母親のように優しく諭す。
「子供を産んだ後ってね、すごく気分が落ち込んでしまう事があるそうよ。だから、今の貴方も漠然とした不安に襲われて、悪い方へと考えがふらついているだけ」
「でも紫、私の身体は……」
「ただの夏風邪じゃないの。貴方は何も心配する必要はないわ。でも、前にも言った通り。――辛い時には、霊夢が十二歳になるのを待たずして、あの子に全てを委ねなさい。貴方だって六歳の時から、そうやって過ごしたのだから。きっと霊夢だって大丈夫よ」
それを聞いて幽夢はかぶりを振った。駄々をこねる子供のように、何度も首を横に振る。
「でも、でも! 私はそれが嫌だから……!」
「確かに辛かったでしょう、あの幼い日々は。それを、娘の霊夢にまで味わわせたくないという気持ちは分かるわ。――でも今はどう? 幻武と過ごし、霊夢を育てる、そんな今が貴方にとっては幸せじゃないのかしら? 貴方の、博麗の巫女の人生って、そんなに酷いものじゃないわよ」
「…………」
無言で胸元に埋もれる幽夢の髪を撫でてやると、紫はしばらくそのままで時を過ごした。やがて幽夢の胸元から寝息が漏れ始めるのを聞くと、その頭をゆっくりと枕の上へ戻してやる。
そして心が緩んだように微笑んで、寂しそうにぽつりと呟いた。
「人の親になったっていうのに、まだまだ子供なのねぇ」
その安らかな寝顔を一頻り眺めると、紫はそっと部屋を出た。そして、我が家に帰る前に霊夢の顔を一目見ようかしらと、居間へ向かう。
部屋を覗くと、幻武がなにやら悪戦苦闘している最中であった。彼は霊夢の前に屈み込み、ひときれの布を片手に試行錯誤している様子だ。
「幻武、何してるのよ」
声を掛けると、幻武が振り返った。その額からは汗が垂れ落ちて、「必死」という言葉がよく似合う形相になっている。
「ああっ、いやぁ、紫さん。おしめ換えようと思ったんですが、なかなか難しくって……」
霊夢が汚したおしめを取り替えようと奮起する幻武。だが、その作業はどうみても全く進んでおらず、部屋の中は薬膳茶とはまた別の異臭に包まれ始めていた。
当の霊夢は汚れたお尻を拭いている父親の事など知らんぷりで、頭のリボンを引っ張ったり手足をばたつかせたりと好き放題している。それがまた、幻武の仕事を妨げているのである。
「もうちょっと、霊夢も大人しくしてくれれば良いんですけどねぇ。うわっ、手にうんちがぁ……」
「そうね、霊夢ったらまるで、自分ひとりでこの世に浮いているみたい。ただ風に揺られるように……」
「……? あ、ちょっと……紫さんも手伝ってくれませんかぁ?」
紫は「どうせ暇だし」と思って歩み寄ろうとするが、霊夢の股のあたりに目をやると顔をしかめて、やはりその足を止めた。そして踵を返すと冷たく言い放つ。
「そのくらい自分でしなさいよ、貴方の子供でしょ。私はもう帰るから」
「それもそうですね……。今日はありがとうございました。あー、でもこれ難しい……」
「ふふ、霊夢も元気でね」
手を振った紫には目もくれずに、おしめの交換に手間取っている父の腕を蹴りつける霊夢。それを見た紫は一言、小さく呟いてすきまへと消えた。
「まるで……蠱毒ね」
◇ ◇ ◇
八雲紫は、ある妖怪からの久々となる呼び出しを受けて、式神の藍と共に妖怪の山を訪れていた。
幽夢が体調を崩したのも六年振りだとすれば、彼らに連絡を寄越されるのも実に六年振りの事であった。
滝の頂点に差し掛かった所で脇道に逸れると、紫は大きな岩戸の前に降り立つ。そこに一つ声を掛けると、静かにその扉は開かれた。
藍も既に自分の役割を理解しており、外で待機する為に洞穴へと背を向ける。それを満足気に確認すると、紫は目の前に広がる暗闇の中へと、臆することなく足を踏み入れていった。
「お久しぶりね、元気にしていたかしら?」
「ええ、お陰さまで」
「それは、良かったわ」
銀縁眼鏡の位置を頻りに直しながら、湿気の篭った洞穴内で紫を待っていたのは、かつては一大勢力として山でも相当な地位を築いていた三匹の大天狗だった。
だが六年前のあの日。一部妖怪による博麗神社襲撃の責を問う紫の影響によって、彼らの立場は山の中でも相当に凋落していた。
山での影響力を失った彼らにとっては、その原因となった紫は仇なすべき敵である。だが、彼ら三匹は友好的な雰囲気を作りつつ彼女に着席を求めた。
紫は言われるまでもなく椅子に腰掛けると同時に、この洞穴内には大天狗の他に、まだ数匹の妖怪が潜んでいると看破した。それを「敵意もない、木っ端ね」と分析すると、とりあえずは無視する事にして相手の話を待った。
「今回お呼出ししたのは、他でもない。六年前と同じような用件です」
切り出した銀縁眼鏡の言葉が終わるか否かという所、紫は流れるような口調で返答する。
「つまり、結界の弱体化についてかしら? お答えはあの時と同じよ。幽夢が夏風邪引いて寝込んでるから。そろそろ治るわ」
「ふふ、そうやって楽観視しておいて、結局は巫女が殺されかけたのをお忘れですか?」
「それは貴方たちが下っ端どもを止められなかったからでしょ? いえ、止めなかった、かしら」
小間使いであろう烏天狗が岩陰からふらりと現れ、紫へと茶を差し出す。だが、その手は痙攣でも起こしたかという程に震えていた。その震えの程は、湯のみから茶が溢れなかったのが不思議なくらいである。
しかし無理もない。この天上級の妖怪同士が殺気を振り撒き合う空間で、身を震わせない様な胆力を持っているのは、当の大天狗と紫くらいのものだった。
「はっはっは、そうツンケンと尖りなさるな。私たちは紫殿に、有益な情報をお伝えようとしているだけですよ。今も、昔もね」
大天狗は不自然に陽気な調子で言うと、耳元まで口が裂けるのではないかというような、大きく不気味な満面の笑みを浮かべる。
両脇の大天狗から銀縁眼鏡に目線が送られると、彼が代表するように本題を続けた。
「六年前のあの時には、巫女の体調不良が原因で結界が緩んでいた。そして、それは紫殿の申された通りに、巫女の快復によって解決した」
「だから、私の言うとおりに放っておけば良かったのに……。貴方たちも、こんな事にはならなかったのよ」
紫は「心底、お悔やみ申し上げますわ」というような、慇懃無礼に極まる視線を送る。それを受け流して、天狗は会話を途切れさせない。
「ところが今回は、あの時とは違いますな? 私どもの調査では、“博麗の巫女は実子が産まれたというのに、それに結界の管理を受け継がせる気がない”。それが結界にどのような影響を引き起こすのかは、我々も知っています」
途端、紫の握った湯のみに鋭くヒビが入った。壁際に控えていた烏天狗は、その迫力に膝を震わせ、遂には失禁してしまった。
円卓を囲んだ四人の会話が、まるで氷が張ったように止まり、空気すらも冷たくなったように感じられる。
紫はその形の良い唇を、まるで機械のように動かすと、そこから無機質な言葉を放つ。
「どうやって、その事を知った?」
「これは山で噂になっている程の有名な話ですよ。あくまで今は、噂としか認識されていませんが」
「それ、貴方たちが触れ回った、なんて冗談は言わないでしょうね?」
「まさか! これが“特A級”の秘密事項だという事は、我々も重々承知ですよ。なんたって、幻想郷が崩壊するかもしれない爆薬ですからねぇ、この情報は」
湯のみの腹から垂れた茶を、唇で吸い上げる紫。そして、まるで射殺すかのような瞳で大天狗たちを一瞥する。
「“それがどんな影響を及ぼすか”……貴方たちは、どのように把握しているのかしら? 見解を聞きたいわね」
そこで天狗たちは「待ってました」と言わんばかりに、懐から分厚い紙の束を取り出す。そして、それを読み上げるようにした。
資料はなくとも大天狗たちは、その内容を脳内で把握している。ただこれは、紫に対して自分たちの調査力を見せつける為のパフォーマンスなのである。
「これは、先代の巫女にも前例があります。先代は、実子が生まれた後には、霊力も著しく衰えて結界の維持は出来なかったと記録に残されています。つまり、巫女というのは、子をもうけた後には結界を張る力が無くなるのです。よって子を産んだ博麗幽夢は、速やかに娘である博麗霊夢に結界を受け継がせなければならない」
「天狗風情が、随分と知った風な口を聞くようになったわねぇ」
紫は下らないと言わんばかりに彼らの話を一蹴した。
だが負けじと大天狗たちも持論を展開する。
その両者の声色はいつの間にか、当初の友好的な雰囲気とはかけ離れていた。
「紫殿にとっては下らない話かも知れませんが、妖怪たちにとっては極めて重大な問題なのですよ。無学な妖怪の中には、結界を強制的に娘へ受け継がせるにはどうすれば良いか、などと物騒な話をするものも居ると聞きます」
「要するに、幽夢を殺そうって事?」
「単刀直入に言えば、そういう事態もあり得るかと」
紫の顔に、満面の笑みが張り付いた。
「その考えってさ、貴方たちが広めてるわけじゃないわよねぇ」
「紫殿、我々もあまり馬鹿げた事を言われれば怒りますよ。幻想郷の安寧を追い求める我々が、どうしてそれを守ってくれている素晴らしい巫女を殺そうとしますか」
「ええ、そうね。きっとそうだわ。ごめんなさいね」
紫は湯のみの底を手持ちのハンケチで丁寧に拭くと、それを机の上に置いて一つ頷いた。
既に紫からは、彼らの話を真面目に聞くという意思は削がれていた。後は表面上だけの言葉を、ただ会話として組み合わせるのみである。
「分かって頂けましたかな? 我々としては紫殿からも巫女に対して、娘……霊夢への結界の受け継ぎを促して頂きたいのですが……」
「次の巫女への結界の受け継ぎは、六歳からって決まってるでしょ? それに、ああ……貴方たちには連絡が入ってないかも知れないけど、今回は十二歳まで延長期限が設けられているのよ。だから、それより早める事は出来ないわよ」
「な、十二歳まで……!? しかし、現に結界は不安定になっており……」
「分からない子たちねぇ。ちょうど夏風邪でダウンしてるだけだって、言ったじゃない」
大天狗たちは、一斉に大きなため息をつくと、資料の束をテーブルの上で揃えた。それが彼らにとっての落しどころの合図となる。
「では、その夏風邪とやらが治っても結界に改善が見られない場合。その時には、然るべき対処をお願いしますよ」
「こちらこそ、その騒いでる下っ端どもの統率をお願いするわ、今度こそ。――六年前は幽夢が生きていたから良かったけど……」
紫は椅子から立ち上がると、出口へと踵を返してぼそりと零した。
「二度目は成否に関わらず。潰すわよ」
壁際で完全に腰を抜かしている烏天狗に「お茶、美味しかったわ」と笑顔で告げると、紫は早足に出口へ歩いた。
大天狗たちは無言のままでその背中を見送る。その双眸は隠し切れない殺気で淀んでいた。つまり結局のところ、大天狗たちは感じ取る事が出来なかったのだ。――紫の胸中を。その行動原理を――
紫は、その大妖は、幻想郷の管理者として結界を守る自分と、友人の母親としての願いを聞き入れたい自分。それらが相克しあって、自身でも答えを出すことが出来ないでいた。
無論、そんな複雑な胸の内を、紫は誰にも見せる気はなかったし、誰も気付いてはくれなかった。
それは外で主の帰還を待っている、式神の藍についても同じである。彼女の忠誠心は本物であると紫も認めていたが、彼女は従者であって、友人ではないのだ。
「藍、帰るわよ」
袖に両腕を突っ込むいつもの格好で、崖から広がる幻想郷の風景を眺めていた従者は、静かに頷いた。
「どうでしたか、紫様。……あいつらが紫様に用立てする事なんて、今更ないと思っていたのですが」
「いつもの通りの杞憂よ。あいつらは頭の中で考えるだけ考えて、結局、自我の外には絶望しかないって決め付けているだけなのよ」
「そして、ついには一歩も外へ出ないという訳ですか」
「一時期は本当に期待していたんだけどねぇ。こういう事って外の世界でも往々にしてある事なのよ」
紫は心底から嘆きつつ、山を出ようと身体を浮かせた。こんな事ならば、霊夢とでも戯れていた方がよっぽど有意義な時間であったと、溜息ばかり出る。
「ところで、今日も何か面白いものでも見えたの?」
そういえば、さっきまで風景を眺めていたな、と藍へ尋ねてみる。すると彼女は首を横に振り、軽く地を蹴って浮かび上がると、こう答えた。
「いいえ、ただ珍しく。人間が道を歩いているのが見えたもので」
◇ ◇ ◇
人間の里を一組の夫婦が歩く。
父の背には、まだ歩くことを覚えていない赤子が、兵児帯で包まれていた。
「ようやく里まで着いたか~」
「久しぶりに歩くと、ちょっと疲れるわね」
「あーぅ……」
「おぉ、霊夢も疲れたか?」
「もう少しで休めるから、我慢しなさいね」
薬を飲んだ翌日、幽夢はすっかりと体調を良くした。そこで幻武に向かって「人間の里に行きましょう」と誘い出した。そして数日後、三人はこうして里を訪れるに至ったのだ。
幻武が幽夢と里を訪れるのは、幻武の父親の葬儀以来の事で、それはもう2年も前の事になる。とりあえず二人は、孫の顔を見せに幻武の実家を訪れた。
「おぉーい。ただいまぁ。幻武が帰りましたよーっと」
「お邪魔いたします」
「あぅあ」
実家の玄関を通ると、そこにはちょうど母親の姿があった。突然の息子夫婦の来訪に母親は驚き、また孫の顔を見て歓喜に沸いた。
「お久しぶりです、お義母様。中々ご挨拶に来られなくて、すみません」
頭を下げる幽夢に、幻武の母は気さくに笑って彼女の肩を叩いた。
「何いってんだい、あんな遠くからわざわざ来てくれるだけでも、十分ありがたいよ。それが、霊夢かい? まぁ~、幽夢ちゃんに似て可愛らしいわねぇ」
母は息子の背中から孫をひったくると、それに顔を近づけて満足気に頷いた。
「見た目は私に似ていますけど、性格は幻武さんに似ているかもしれません。とんでもなく自由な子なんです」
「いやいや、性格も幽夢ちゃんに似て欲しいけどねぇ。こんなドラ息子に似るなんて、そんな悲しい事はないよ」
「うるせぇな、お袋! まぁ、俺だって……俺に似て欲しくはないけど……」
幽夢は二人のやり取りに小さく笑いながら、首を横に振りそれを否定した。
「いえいえ、私は性格も幻武さんに似て欲しいと思っていますよ。霊夢には、私みたいなのじゃなくて、妖怪とだって仲良くなれるような……そんな子になって欲しいんです」
「幽夢……」
その言葉を聞いた幻武と母は、思わず口を噤んだ。そして母から、幽夢に対して同情と憐憫の入り交じった視線が向けられる。
それを見た幽夢は、自分がつい陰の入った言い方をしてしまったと気付いて、慌てて訂正した。
「あっ、別にそんな深刻な話じゃないですよ! 霊夢には、たくさん友達が出来て欲しいなってだけで……」
「いやぁ……。男ならともかく、霊夢は女の子だしな~。やっぱり幽夢みたいに、真面目な巫女になって欲しいと俺は思うぜ」
「母親としてはそうかもしれないけどねぇ。でも、幻武の遊び友達みたいな不良妖怪とは、仲良くなられちゃ困ると思うわよ」
「おい、人の友達の悪口を言うんじゃねえよ!」
「何いってんだい! あの糞天狗たちをあんたが連れてきて、奴らが大暴れしたせいで、前に住んでた借家を追い出されたのを忘れたのかい! 馬鹿息子!」
久しぶりに会ったというのに、さっそく口喧嘩を始めた幻武と母を見て、幽夢はおかしくて自然と笑みが零れた。一方で霊夢は、何やら周りが騒々しいとしか思っていないのか、眉を顰めて手足をばたつかせる。
腕の中で暴れる霊夢に気が付くと、幻武の母は息子との言い合いを一時中断した。
「あらあら、ごめんね霊夢ちゃん。ほら、お母さんの所にお戻り」
「あっ、俺がおぶっておくよ」
「ゴツゴツしたあんたの背中より、母親におんぶしてもらった方が、霊夢も良いに決まってるだろ!」
「違うんだよ、お袋。幽夢は病み上がりだから、念のために俺がおぶってたんだ」
「あ、あらそうなのかい……? ごめんね、幽夢ちゃん」
恥じ入った様子の義母の姿を見て、幽夢もまた、口に手を当てて申し訳なさそうに頭を下げる。
「こちらこそ、すみません。幻武さんに全部をお任せしていて……」
「いいんだよ、こいつは体力だけが取り柄なんだから。それよりも立ち話させてすまないね、相変わらず小さい家だけど、ゆっくりとしておいき」
「ではお言葉に甘えて、お邪魔します」
手招きされた二人は、霊夢を連れて居間へと上がった。
そこは確かに相変わらず狭い家であったが、一人っきりで過ごす幻武の母にとっては、少し広く感じる部屋であろうと幽夢は思った。
小さなちゃぶ台を囲んだ三人は、粗茶を飲みつつ話を続ける。
「それよりも幽夢ちゃん、幻武に“さん”付けなんてしなくて良いよ。息子の名前にそんな丁寧なもん付けられちゃ、なんかむず痒いわ」
「あら、そうですか? それじゃあ呼び捨てにします。私もなんだか違和感があって……」
「……おめぇら、俺に対する風当たりの強さが酷くないか? なぁ、霊夢~?」
女性陣の口撃に遭って劣勢になった幻武は、娘へと助け舟を求めて話しかけた。だが、霊夢は知らんぷりを決め込むようにそっぽを向いてしまう。
「あっはっは、娘にまでそんな扱い受けてんのかい。相変わらずだねぇ、幻武」
「ちぇ、たまたまだよ。霊夢はいつ誰が話しかけても、ロクに反応を返さないんだから」
幻武は唇を尖らせて霊夢の髪をぐしゃぐしゃに掻き乱した。それには怒ったのか、霊夢は幻武の腕に拳を見舞った。赤ん坊のものとはいえ中々筋がよろしいようで、思ったより威力のあるパンチに幻武は悲鳴を上げた。
「あだだ、やめろ霊夢!」
「もう、大人気ないんだから。あなた、霊夢が大きくなったら、毎日のように親子喧嘩するんじゃないかしら?」
「それで、あっさりと負けたりしてねぇ。巫女は強いもの」
「うぐっ、数年前の心の傷を抉るようなマネはよしてくれ……」
貧乏長屋へ、久しぶりに人々の笑い声が戻った。彼らは世間話に夢中になり、延々と話を続ける。
幽夢が初めて家にやってきた日の事や、二人で妖怪退治をして皆から褒められた事。はたまた酒を飲んで大喧嘩になった幻武と父を、幽夢と母がしばき倒した事。幻武が神社に住むことになり、母を一人、家に残していった日。この6年間の出来事は、話せば話すほど湧いてくるように尽きる事はない。そのどれもが彼らにとって宝物のようで鮮明な日々であったからだ。
「へぇ、そんな事もあったのかい」
「いやー、あの時は弥八の奴がさぁ」
「もう、どう考えても、あれはあなたのせいでしょ!」
「ははは、その通りだ……っと。そういえば、今何時になる?」
話に夢中になっていた幻武は、いつの間にか日が傾いてきた事に気付く。そして顔をしかめつつ、幽夢の袖を引っ張った。
怪訝そうな顔で話を止めた幽夢の横で、幻武はちゃぶ台の向こう側へと口を開いた。
「お袋。ちょっと里に用事があるから、幽夢と一緒に出掛けてくるわ。霊夢の事を見てもらっても良いか?」
「そうかい、夕飯前には戻ってくるんだろう?」
「ああ、ちょっとした用事だから、直ぐ戻ってくる」
「いちいち宿を取るのも勿体無いから、良かったら家に泊まっておいきよ」
「そうだな、霊夢を連れて夜道を歩くのも危ないし、今日は泊まらせてもらおうかな」
突然の話に置いてけぼりになりつつも、幽夢は義母へと頭を下げる。
「すみません、お義母様」
「いいんだよ、遠慮するこたない。私もたまには、皆で川の字になって眠りたくなってねぇ」
夕飯の用意は任せておけ、という母の言葉に親指を立てながら、幻武は幽夢を連れて玄関から外へと出た。
里は夕刻。赤らみ始めた空を、何匹かの烏が鳴き声を響かせながら山へと帰っていく。人々も仕事を終えて、我が家へと帰っていく時間帯だ。
「ところで、用事って何なのよ? 私、聞いてないわよ」
外へ出るなり、幽夢は不満げな顔で幻武に尋ねた。
「ああ、俺たちの新居を見に行くんだ」
幻武の答えに、幽夢は「へっ?」と声を裏返して足を止める。それに構わず、幻武はどんどんと道を往ってしまう。慌てて追いかけると、彼女は再び聞き返した。
「新居って……? いつの間にそんなものを……っていうか、私たちの家は博麗神社じゃない」
「霊夢が巫女になったら、俺たちは隠居しなきゃいけないだろ。だから、その家を下見しに行くんだ」
「それはまた随分と気の早い話ねぇ。あと11年くらいあるのよ?」
その言葉には返事をせず、幻武は黙々と道を往く。里はこの時間には人通りも少なくなり、どこも閑散としていた。
寺子屋の帰りだろうか、子供の集団が騒ぎながら駆けていくのとすれ違う。
「元気な子供たちねぇ」
「うん。ああいうのを見ると、俺も寺子屋に行っておけば良かったと思うぜ」
「? ……昔っからあるんでしょ、あれ。行ってなかったの?」
「俺が真面目に寺子屋に行くような奴に見えるかぁ? そんなもん、サボってたに決まってるだろ」
「あ~……。それで先生に怒られて頭突きを喰らわされたなんて、前に言ってたわねぇ」
そこから昔話をいくつかしながら、しばらく歩みを進める途中。幽夢がピクリと身体を震わせた。
幽夢の母、楼夢が過ごし逝った場所が目の前にあった。今は取り壊されて更地になった屋敷も、その外壁と詰所だけは亡霊のように残されている。
幽夢は心の中で黙祷を捧げる。――「お母さんにも、霊夢の顔を見せてあげたかった」と。母の墓は里の墓地に建てられたらしいのだが、幽夢はそこへ顔を出す気が起きないでいた。
傍らにいる幻武は、その足取りが僅かに乱れたのに気付き、そっと声を掛ける。
「……大丈夫か?」
「ありがとう。――大丈夫よ」
その声を聞いて安心した幻武は、空を見上げながら思い出す。
「そういやぁ、紫さんと初めて会ったのも、ここだったよなぁ。あれから、もう6年か……。早いもんだ」
「ええ、早いものね。あの日のことなんて、まるで昨日の事のよう」
「あの時は、お前と結婚するなんて想像もしていなかったよ」
「あら、そう? 私は何となく分かってた気がするわ」
「……本当かよ?」
「嘘よ。馬鹿ねぇ」
更に進み行くと、二人は里の中でも賑やかな通りまでたどり着いた。
そのうちの一角にある、こぢんまりとした屋敷の前で幻武は立ち止まる。幽夢も足を止めると、屋敷の屋根を見上げた。
「あら、ここなの? 思っていたより都会な所にあるのねぇ」
幽夢は笑いながら、門柱に掲げられた名前の入っていない表札を手でなぞった。
対して幻武は表情を変えずに、口を真一文字に結んだままで門をくぐり、そのまま敷地に入っていく。
「あっ、ちょっと! 勝手に入っていいのかしら?」
「入居予定者なんだから良いだろ。それに早くしないと暗くなって、見学する意味がなくなるぞ」
それでは仕方ないと、幽夢も恐るおそる中へ入る事にした。
門から屋敷の玄関までは中庭が広がっており、やや距離がある。その中を進む幽夢は玉砂利を踏みしめながら、社務所よりも大きな屋敷を見上げて感心した。
「すごいじゃない、まるで新築ね。それに……」
幽夢は自分の周りを見渡しながら、その光景に目を見張った。
足元を覆う玉砂利、そして辺りを緑に彩る木々、そして目の前に立つ屋敷の造り。それらが全て、まるで博麗神社を模したかの様な場所であったからだ。
「まるで、私たちの為に作られたような場所じゃない」
「ああ、ここならば……。お前も落ち着いて過ごす事が出来るだろうと思ってな」
幻武は玄関から少し右につま先を向けると、そこで雨戸の開けっ放しになっている縁側に腰掛けた。
そして自分の隣に座るように床を二回ほど掌で叩く。歩き疲れた幽夢は、それに従って縁側へ近づいた。
「それにしても無用心ねぇ。縁側の雨戸が開けっ放しになっているなんて」
「お前だって今日、戸締りなんかしてこなかったろ?」
「だって私たちの家に泥棒なんてくるわけないじゃない。今日は雨も降りそうにないし」
言いながら腰掛けた幽夢は、少し間を置いてから、その頭を夫の肩へと預ける。
赤焼けた空は、やがて夜陰へと向かおうとしている。二人はそんな曖昧な境界にある空を見上げながら、しばしそのままで時を過ごした。
「こんな風にあなたと過ごせるなら、霊夢と離ればなれになる悲しさも、少しは薄れるのかしらね」
「幽夢……」
幻武はこの場でも、まだ悩んでいた。
自らの想いを妻に告げる事が、果たしてどういう結果を産むのだろうかと考えて。もしかしたら、このまま彼女の好きにさせるのが、誰にとっても一番良いのかもしれない。自分の心に蓋をして、それをただ眺めるのも良いのかも知れない。
だが、先ほど零した彼女の言葉を聞いて、幻武は決意する。なにせ彼は、昔から決断の早い男だった。
「幽夢」
自分の膝の上に置かれていた妻の右手をとる。彼女は驚いて「なっ、何よ」と表情を固くした。
彼は既に決意している。だから淀みなく、次の台詞は紡がれた。
「幽夢、この家で俺と暮らさないか。明日からにでも、今すぐに」
その言葉を聞いた彼女は、まるで寝起きに叩き起されたかのように目を見開いた。そして幻武の肩から頭をのけると、何を言われたのか理解するまで、呆然と夫の顔を見つめる。
そして、それを理解した彼女は唇を噛んで、彼の真意を知ろうと強い口調で問うた。
「それは……霊夢を神社に置いて、って事よね。一体、どういう事なの?」
「そのままの意味だ。霊夢に結界を譲れ。そして、もう、お前は休め」
幽夢は勢い良く縁側に立ち上がると、拳を強く握りしめる。そして座ったままの幻武を見下ろした。食いしばった歯はその圧に軋み、彼女に鈍い痛みを味わわせる。
彼女は胸中で「何故だ」と叫んだ。数ヶ月前に紫との密約を交わした時、彼女は夫にも『十二歳までの猶予』と、自分の想いについて打ち明けていた。霊夢を普通の女の子として育てたいという事。その為に自分が結界を張り続けるという事。
その時の彼は、幽夢の話を聞き終えると、一つ頷いて理解してくれたはずだった。そして自分も霊夢の為に、娘が普通の少女でいられる為に、いかなる協力も惜しまないと言ってくれたはずだった。
しかし夫は今、霊夢を博麗の巫女にして、一緒に里へと隠居しようと持ちかけている。それは例え冗談であろうとも、とても看過出来る発言ではなかった。
「幻武、あなた……。それがどういう意味か、分かって言ってるの? 霊夢を神社に置いて出ていけば、あの子とは、もう会えなくなるのよ。そして、霊夢は私と同じく孤独のままで生きていく事になる」
「ああ、分かってるよ。俺だって出来る限り霊夢と一緒にいたいし、あいつに悲しい思いをして欲しくもない」
「だったら……!」
「でも!!」
幻武は立ち上がり、勢い良く幽夢の両肩を握りしめた。その突然の行動と迫力に驚き、幽夢は思わずよろけた。
夫は妻の肩を握りしめて「やはり」と呟く。その身体は以前よりも遥かにやせ細り、力がなかった。それを確認すると、振り絞るようにして、目を固く瞑りながら言った。
「でも、お前が……。お前が、死んでしまうよりは……」
「えっ、ちょ……あなた、何を言ってるのよ?」
幽夢は落ち着かせるように、そっと幻武の腕に手をやった。しかし、それを男は拒んで歯を食いしばり、自らの想いを言葉にする。
「俺が、何も知らないと思ってるだろ? 知ってるよ。霊夢を産んでから、お前が霊力を失った事も、そしてお前が抱えている不安も」
「それ、それは……。でも待って、それとこれとは関係がないわ。夏風邪だって治って、この通り元気になったし……」
「それは、紫さんの薬による一時的な回復だろう。気休めにしかならない。……紫さんだって言っていただろう。辛い時は霊夢に全てを委ねて休めって」
「え、あな……。……!!」
そこまで聞いて幽夢は、ようやく気付いた。『あの日の会話』を幻武が全て聞いていたのだという事。
幽夢は頭を抱えつつ「紫め」と口中で恨み節を放つ。恐らくは幻武にも現状を知らせるために、紫が音を遮断する結界を張るように、ポーズだけ見せかけていたのだろうと推測がついた。
きっと夫は隣の部屋で、霊夢のおしめを替えながら、あの時の自分の独白を聞いてしまったのだ。それは幽夢にとって予想外の出来事。
自分の命を救ってくれた彼にだけは、知られたくなかったのだ。自分が命を削る覚悟でいるということを。それを知ってしまった彼は、声を搾り出すように続けた。
「俺も辛いよ。だってお前か霊夢か、どっちかを選ばないといけないんだから。でも、霊夢とは……会えなくなっても、元気に生きている事が分かるから。……だから、死んでしまうかも知れないお前よりは……霊夢との別れを選ぶしかないじゃないか……!」
「お、落ち着いてよ、幻武。私は別に不治の病に掛かっているわけじゃないわ。それに、私が頑張るだけで結界は維持出来るのよ。別に命を削られるような事になるとは、紫も私には言ってないわ」
「……それはきっと、お前の意思を尊重する為、紫さんが敢えて伏せているんだろう。だって、霊夢を産んだ時からお前の霊力は失われていったんだろう? だからきっと結界の受け継ぎに関係なく、お前にはもう結界を張るような力は残っていないんだ」
そこで幽夢は、幻武を諭そうという態度から、まるで相手を挑発するような不遜な態度になった。それは傍から見れば、自分が結界を維持する事に固執し、プライドに凝り固まった巫女の様にも感じられる。
「ふっ、見くびらないでもらいたいわね。私がどれほどの長い間、一人で結界を守り続けてきたと思っているの? それに紫は、そんな薄っぺらな“情”で幻想郷の安定を脅かすような、無意味な嘘をつく妖怪じゃないわ。本当に結界が危ないのなら、あいつは私を殺してでも無理矢理、霊夢へと結界を受け継がせるでしょう」
だが、幻武は分かっていた。
幽夢がわざとそのような態度を取ることにより、自らの意思で結界を維持する事を選んだ、そのように思わせたいのだと。そうやって周りを気遣う幽夢の性格が、幻武はとても好きだったから、分かってしまったのだ。
「紫さんが、そんな人じゃないって事は、お前も分かってるだろう? 認めてくれ。もう、お前は結界を守らなくても良いんだ」
「……もう、いいわ」
幽夢は幻武の手を振り払うと、ひらりと縁側から降り立った。そして、くるりと身体を回して幻武へと向き直る。腰まで伸びた髪が綺麗に波打った。
怒りのあまり立ち去ろうというのかと思わせる態度も、しかし振り返った彼女が軽やかに笑っていた事で、違うのだと否定される。彼女はしんとなった庭先で、夫を真っ直ぐに見つめて“宣言”しようとしていた。
「そうだとしても。――例え結界を張り続ける事で、私の命が削られていくとしても。私は結界を張り続ける。そして、霊夢に私の夢を託すのよ」
「お前の、夢?」
縁側から降り、彼女に近づきながら幻武が聞き返した。
「そう、私の夢。友達と無邪気に笑い合って遊ぶ、そんな当たり前の事が出来る少女の時間。それが私の夢。だから、これは誰の為でもないの。私自身の為に、私は結界を張り続けるわ」
「俺の、俺の気持ちは考えてくれないのか。お前を失ったら、俺はどうすれば良いんだ」
「霊夢をお願いするわ。私が死んでも、貴方が生きていたら、紫は霊夢をどうする事も出来ないもの。確かに、そういう契約だったから」
曲解であった。
確かに紫は「仮に貴方や幻武に万が一の事があった場合……」と契約の際に説明したが、それを「幽夢と幻武」の両方に不測の事態があった場合と捉えるのは、誰が聞いてもこじつけでしかない。
だが、幽夢は確信していた。紫ならそんな自分の屁理屈でも、それに縛られて動いてくれるに違いないと。幻武も、そんな妻の目論見がなんとなく見え透いていた。だから思わず、愉快だと吹き出した。
「くっく……意外と、お前って利己的だよな」
「それはどうも」
幻武は無言のまま幽夢の手を握り、屋敷の門へと向かった。結局のところ、この家を下見に来たのは、しばらく無駄になりそうであった。
辺りはすっかりと暗くなり、人通りは更に少なくなる。各家々から、美味しそうな夕餉の匂いが漂ってきて、二人の腹をより空かせる。
そんな家への帰り道で、幻武は横を歩く妻の横顔を眺めながら、ふっと息を漏らした。
「何よ?」
「何でもないさ」
幻武は分かっていた。
幽夢が言った、自分の為に結界を張り続けているという言葉が、嘘である事を。何故なら、あの日の夜。幽夢は己の身体が蝕まれていく事に恐怖を覚え、紫の前で堪えきれず涙していた。それを自分は、おしめの付け替え方を尋ねようと訪れた障子戸の向こうから、全て聞いていたのだから。
彼女は自分の夢の為だけに、命を賭して結界を張り続ける訳はないのである。彼女もまた葛藤の中で、娘の為に結界を張り続けているのだろうと、幻武は慮った。
◇ ◇ ◇
「だからさぁ。なんで巫女の親は、離れて暮らさないといけないのかねぇ」
幻武たちは、ちゃぶ台を囲みながら夕飯を食べていた。最初は和やかな食事風景だったのだが、やがて酒も入って饒舌になると、皆は博麗の巫女の問題について語り始めるに至ったのである。
「霊夢が結界を張って、あんたと幽夢ちゃんが一緒に神社で住めれば、それで万事解決じゃないか」
吐き捨てるような義母の言葉に、口の中のおひたしを飲み込んでから幽夢が答える。
「博麗の巫女が結界を維持するには、かなり高位な修行が恒常的に必要なんです。幼少期に一人で過ごす事も、それ全てが修行の一貫になるとかで。妖怪の賢者が昔に決めた掟らしいんですよ」
「はぁ、あの迷妄婆がねぇ。なんだ結局、全部あいつのせいなんじゃないか」
「うわっ、お袋! そんな事言って大丈夫かよ。あの人、どこで話聞いてるか分かったもんじゃないぜ?」
幻武の母は猪口に入った酒をぐいと呑み干す。母の食事は確かに美味しかったが、作った本人はそれをツマミ程度にしか食べずに、ずっと酒を呷っていた。そして酒臭い息を息子へ吐き散らしてこう続ける。
「いいんだよ、あの妖怪とは知らない仲じゃないし。昔からこんなもんさ」
「えっ、お義母様ったら……紫と知り合いなんですか?」
「あら、幽夢ちゃんは知らなかったのかい? 私も若い頃は、楼夢と一緒に妖怪退治に勤しんでたんだ。だから自然と、あの婆さんとも知り合いになったわけよ。……もう、あっちは覚えていないと思うけどねぇ」
幽夢は一瞬、義母の口から自分の母の名が聞こえたような気がして首を傾げる。だが酔いのせいで頭が働かないので、一旦置いておく事にした。
そうとも知らずに、幻武と母は会話を続ける。
「婆さん呼ばわりって……。流石に紫さんも、それ聞いたら怒るんじゃねぇか?」
「婆さんに婆さんって言って何が悪いんだい。あいつが何年生きてると思ってる? 私なんかよりも何十倍も年上なんだから、至って普通の呼び方さ」
二本目の一升瓶を空けた一同は、ひどく酒に酔って眠気に襲われ始めていた。しかし、一人まだまだ元気な母の言葉だけが続く。
「それにしても、幽夢ちゃんは本当に楼夢に似ているねぇ。実にそっくりだよ」
二回目は流石に看過出来ずに、幽夢は狼狽の声を上げた。
「は、母と、知り合いだったんですか……?」
「なんだい幻武、あんた奥さんに教えてなかったのかい? そうだよ、私も若い頃は幽夢ちゃんに負けないくらいの美人でねぇ。楼夢とは妖怪退治と美貌でよく競い合ったものだった……」
「嘘つけよ」
「あんたは黙って霊夢を寝かしつけてな! ……私も驚いたさ。息子が友人の娘と結婚する事になるとはね……。あいつも孫の顔が見たかった事だろう」
「そうだったんですか。お母さんの……、あの……母は、私の事を何か言っていましたか?」
幽夢にとっては偶然、生前の母を知る数少ない人物に巡り合えたのである。この機会に是非とも母に関する昔の話を聞いておきたかった。――特に、自分や博麗の巫女に関する話を。
「うーん……。あいつは子供を産んだっきり、さっぱり姿を消していたからねぇ。私もあいつが死んだ後に、実は近所に越して来てたって知ったくらいさ。だから幽夢ちゃんについて、あいつの口から聞いた事はないけど……」
「そうですか……」
「でも、身ごもっている時のあいつは幸せそうだったねぇ。夫がぽっくり逝っちまったていうのに、あんたが産まれてくるまでの間は、本当に幸せそうだった」
「そう、ですか……。でも……」
幽夢は、急に感情が溢れ出したのか、目を据わらせると瞳を潤ませ始めた。
心の奥底に貯めこんで、淀んでいた感情が一気に噴出する。――それが酒の功罪であるのだ。
「私は母が許せません」
幽夢は、ぽつりと言った。
酒で上気した頬に一筋の涙を流して、長い髪を微かに震わせて言った。
酔いつぶれた息子を傍目で見つつ「やれやれ、泣き上戸だったかい」と義母は、楽しそうに笑う。
更にぽろぽろと涙を流す嫁に向かって、母は猪口をその口に運びつつ繋げる。
「何が許せないんだい?」
幽夢の猪口に一杯注いでやりながら訊く。
彼女は注がれたそれを、一気に飲み干して答える。
「母が私を神社に置いていった事です。なんで私に博麗の巫女を受け継がせて、それで里へと身を隠す事が出来たのか……。自分の子供が産まれた今だからこそ、私は母のとった行動が許せないんです」
「……そうか。でも、今のお前さんだって悩んでいるんだろう? この先、霊夢をどうするのかってさ」
もう一杯を注いでやると、彼女は猪口の中に涙を落としながら呷る。
「それは……でも! 私は頑張って、このまま霊夢を巫女にさせないように、結界を張り続ける覚悟です。母とはっ、違います……」
瓶の底に残った一滴を、舌で舐めとった。
「私も、楼夢が何を考えて幽夢ちゃんを置いていったかは分からないよ。でもね、貴方を産む前のあいつを知ってるから……あいつが何も悩まずに幽夢ちゃんを神社に置いていったとは思えないよ。きっとあいつも、悩み苦しんだんだと思う」
「そ、そんなの……っ! 残された子供には、そんな悩みなんて分からないわっ」
やれやれ、と目の前の泣きっ面を眺めて彼女は笑った。
自分にも娘がいれば、こんな風にぶつかりあう事もあったのだろうかと思いを馳せる。
だが直ぐに「いや、馬鹿息子一人でも大変なのに、もう勘弁さね」と首を横に振り、母は幽夢のおでこを指で弾いた。
「いたっ!」
予想外の痛みに幽夢はおでこを押さえて、目を丸くする。
それに対して義母は、芯の通った声で彼女を叱咤する。
「母親が子供の前で泣くんじゃないよっ、たく。今日は疲れたろ? 後片付けはいいから、そこら辺に寝てな」
「えっ、でも……」
「いいから。……全く、揃いも揃って酒が呑めないとは思わなかったよ。やっぱりあんたがいないと駄目だねぇ」
部屋の隅にある夫の遺影に向かって呟く姑の姿を見ながら、幽夢は全身を酔いに囚われて意識が遠のくのを感じた。
脳味噌だけが海の底に沈んだように、意識は穏やかで静かで、次第に何も考えられなくなる。
「あぅ……」
最後に、霊夢がきちんと寝付いているのだけを確認すると、幽夢は深い眠りの中に落ちていった。
◇ ◇ ◇
人間の里の外れに、たくさんの墓がまとめて建てられている。いわゆる集合墓地である。
月明かりしか頼りのない真夜中には、それこそ妖怪くらいしか訪れない場所であるが、今はそこを一人の人間が歩いていた。
提灯を片手に墓の合間を歩くその女性は、やがて周りのものと比べて真新しい墓石の前に立つ。
「久しぶりだねぇ、楼夢。今日はあんたの娘と私の息子、夫婦と揃って呑んだよ。あんたも仲間にお入りよ」
手に携えた一升瓶の栓を開けると右手で瓶を逆さに持ち、それを墓へと盛大に掛け始めた。
墓を濡らした液体はそこら中に飛沫を弾けさせ、辺りは途端に酒気に包まれる。
「あらあら、墓に悪戯なんて……どこの子供かしら?」
後ろから声を掛けられて、女は振り向きざまに空となった一升瓶を投げつける。
八雲紫はそれを右手で軽々と受け止めると、瓶の縁を流れる一滴を舐めとった。
そして、その痺れるような味に眉を顰める。
「相変わらず下品な酒を呑んでるのねぇ、吉備」
「弱っちいのは嫌いでねぇ、酒も男も。それに、その名前はもうとっくに捨てたよ。耄碌したのかい、紫」
「なら、なんて呼べば良いのよ? 金魚のフン?」
「その呼び方は私が一番嫌いだって言っただろ婆さん。今の私はヨネってんだ」
すきまに腰掛けて不敵な笑いを浮かべる妖怪。その脇を通り過ぎ、ヨネはそのまま紫を無視して墓場を出ていこうとする。
紫は苦笑いしながら地に足をつけると、小走りにヨネを追いかけた。
「ねぇ、何をしていたのよ?」
「知らなかったかい、私の趣味は墓参りなんだよ」
「そう、邪魔して悪かったわね」
「ああ、全くだよ。ところで、お前こそ何をしにきたんだい」
ヨネは立ち止まると振り返って、旧知の妖怪を睨めつけた。
何を仕掛けられようと対応出来るように、その人間の身には緊張という名の鎧が纏われている。
だが対する紫にはそのような気配は全く感じられなかった。ただニヤニヤと薄い笑みを浮かべるだけだ。
「いえね、楼夢の墓に結界を張っていたのよ。それが破られたから、どっかの妖怪が悪戯しにきたんじゃないかと思って」
「ああ、あれ結界だったのかい。蜘蛛の巣にでも引っかかったのかと思った。……ところで、お前。霊夢の事をどうするつもりなんだい」
ヨネの身構えは、対応から攻撃へとその性質を変えた。
年老いているとはいえ、彼女もまた幻想郷に住む人間である。その系譜は過去の“人間の英雄”に繋がっている。――紫に対してこうまでも対等に接することが出来るのは、彼女が英雄の血を色濃く受け継いでいるからであった。
「貴方には関係の無い話よ」
「関係あるよッ!」
とても高齢の女性が発したとは思えない声量が紫の耳を叩く。
墓石さえも震え上がらせるような空気の振動が、墓場を飛び出して里までも届きそうであった。
「……霊夢は私の孫だからねぇ」
「うるっさいわねぇ。里の人達まで起きちゃうわよ」
「……婆さん、あんたともあろう大妖がどうした? あんたはいつも幻想郷を第一に考えてきたじゃないか……? 幽夢が霊夢に結界を譲ってやりゃあ、博麗の大結界も幽夢の身体も全て安泰なんだろう? 何故、迷っている」
その言葉に紫は笑みをかき消すと、静かな瞳でヨネを見返した。
先代博麗の巫女、楼夢の後ろにいつも付いて来ていた少女。あの見習い陰陽師だった子供が、こうも成長したのかと、紫は感心する。
惜しむらくは、人間はここから衰えていく。――妖怪ならば更に能力が飛躍していくというのに、人間は磨き上げた能力に肉体がついていけないのだ。
そして紫が悩む理由は、そこにあったのかも知れなかった。その事を彼女は、この会話の中でふと自覚する。それを教えてくれたヨネに、僅かばかり感謝の念すら湧いたりもした。
「あの子ね、泣いてたのよ」
おくびにも出さずに、紫はさらりと答えた。
「……はぁ?」
突然、話が飛んだ事で、ヨネは苛立ちに満ちた反問の声を上げる。
それを気にもせず、紫は独白のように言葉を続けていった。
「幽夢は泣いて私に乞うたわ。霊夢に普通の少女として生きる時間を与える事を……。それが自分の命を削っていく事になると知ってからも、彼女はそれを続ける覚悟を私に見せた」
「……あんた、ちゃんと幽夢に全てを正しく伝えてはいないんだろう? 結界を維持する事で、命が危うくなる事を、幽夢が知らないんじゃ……」
策謀を疑うヨネの問いかけには、紫は静かに否定で返した。
「私も生物ですもの、友人に気を使ったり、時には嘘もついたりするわ。でも彼女は分かっている。分かっていてなお、子供を守ろうとしている」
「幻想郷と友人の命の2つ、それと友人の願い1つを天秤に掛けるっていうのかい? どっちが地に皿を着けるかは、賭けにもなりゃしないねぇ。あんたは幻想郷と友人の命を取るに決まっている」
ヨネは確信を持って断言出来た。
彼女もそれほど親しくはなかったとはいえ、紫が幻想郷の事をどれほど愛していたかを知っているし、幽夢を珍しく対等な友人として見ている事も知っていた。
それに霊夢が巫女になったところで、誰の命が奪われるわけでもない。それは所詮、幽夢の自己満足に過ぎないのだから。
だが紫は、そんなヨネの推測を否定しようとする。ただし自分にも答えが分からない故に、それは紛らわしさで粉飾した否定だった。
「私ね、人間って脆いと思うわ」
「当たり前だろう。妖怪と比べちゃ、私ら人間なんて飴細工みたいに脆いよ」
「でもね、だからこそ。その人間が命を捨ててまで行う事って、妖怪にはとっても眩しく見えるのよ。何の担保もないところに、己の命を差し出して賭ける強さ……“それ”は私たち妖怪には持てないし、出来ないわ」
「……何かね、紫。それじゃあ、あんたは自分の嗜好の為に幽夢を見殺しにしようっていうのかい。眩しさを追い求めて、それが友人の命が燃え盛る光だとしても、それを止めないのかい」
「見殺しなんて極端ね。別に私が強制しているわけじゃない、幽夢が自主的にしている事ですもの。それじゃなければ、眩しくともなんともないわ」
どちらともなく、互いに背を向けた。
二人は今まで決して意見を同じにした事がなかった。それは今回も同様であったようだ。
「最後に、一つだけ言っておこうかね」
ヨネは歩みを進めながら、そこにまだ居るのかすら分からない相手に向けて言った。
「幽夢が死んだら、私はあんたを許さないよ」
相手はまだ居た。
「貴方には関係ないじゃない」
だから言ってやる。
「関係あるよ。幽夢は息子の妻で、あいつの娘で、孫の母で、それで……私の娘なんだからね」
酒気が漂う墓場で行われた対話は、他の誰にも行われた事すら知られない。
幻想郷の歴史の中にも、微塵たりと残らない話であった。
◇ ◇ ◇
「本当に昨晩は、すみませんでした……」
「はっはっは、気にしないでおくれよ。たまには霊夢を私に預けて、幻武とデートにでも行きな。あんまり根を詰めると身体に毒だよ!」
「ええ、ありがとうございます。それではお元気で」
数時間前に幽夢が目を覚ました時、既に義母は朝御飯の支度を始めていた。
ふらつく頭をなんとか押さえながら、その手伝いをした幽夢は、昨晩に義母がこっそりと家を抜けだした事を知る由もない。
そうして朝御飯を食べた後、日があまり高くならない内に二日酔いでふらつく頭に鞭を打って帰路についたのであった。
「お義母さま、すごい……お酒強いのね……」
「ああ、俺も知らなかったよ。親父が強いのは知ってたけど……ぐぇっ」
両親が酔いに参っている間、霊夢は幻武の背中におぶさりながら、道行く犬を目で追ったり、空中を舞う蝶々に手を伸ばしたりするのに忙しかった。
それを見て、幽夢は微笑みながら彼女の頭のリボンを撫でた。
「霊夢は本当に動物が好きねぇ。この前も、縁側の下を歩いてた蟻の行列をじっと見てたのよ」
「うーむ、その割には人間に対してはあまり興味を示さないよなぁ」
「きっと自然が好きなのよ。将来、学者になるかも知れないわ」
幽夢の頭の中には『色んな事に興味津々な子供は研究者に向いている』という謎の方程式があった。
しかし幻武はそれを一笑に付して否定する。
「俺とお前の子供がかぁ? そんなに頭良さそうには見えないよ、霊夢っていつもぽかーんとしてるし」
「ちょっと、貴方と一緒にしないでよ! 私だって寺子屋に通ってたら、きっと成績上位だったに違いないわ!」
「自分より先に霊夢の方を否定しろよっ! それに、研究者は実際に山に入ったりしなきゃいけないんだ。お前、山登りした事あんのかよ?」
幻武らしく、ものの数秒で話は脱線してしまった。
「え、あるじゃない。ほら最初の……」
「あっ、あー! ……っと、危うく八百屋を通りすぎるところだった!」
幻武は慌てて足を止めると、旬の野菜が並ぶ店先へと歩み寄った。二人は里に来たついでに、食料品も買い込む予定だったのだ。更に道中での昼食として、弁当でも買っていこうかと話していた。
「天狗に聞いた話によると、最近出来た弁当屋のランチセットっていうのが美味くて評判なんだと。それを買っていこうぜ!」
「何よ“ランチセット”って?」
「……さぁ? 昼に出る弁当の事をそういうらしい」
「ふーん。……じゃあ私がお弁当を買ってくるから、あなたはこの紙に書いてある野菜を買ってちょうだい」
幽夢は昨日のうちにメモしておいた紙片を渡すと、財布からお金を取り出して幻武に渡した。博麗神社の家計簿は幽夢が完全に掌握しているのである。
「分かった。って、随分と買うんだな、野菜」
「せっかく里に来たんだもの。日持ちするのは買い溜めしておかないと」
そういうと幽夢は踵を返して、別の通りの方へと消えていった。
それを見送ると、幻武は慣れない様子で八百屋に並ぶ野菜たちを物色し始めた。背中の霊夢はというと、何が楽しいのか野菜を見て上機嫌に「あう、あぅ!」と騒いでいた。
最初のうちは自分で買い物をしようと意気込んでいた幻武であったが、いつまで経っても買い物が終わらないので、結局は店員にメモを見せて野菜を選んでもらう事になる。
「たまには俺も買い物しなきゃなぁ」とボヤきつつ、それで、ようやく彼の仕事は終わりだ。あんまり時間が掛かったからか、背中の霊夢も暇そうに、欠伸を彼の耳元に吐きかけたりしていた。
「……思ったより時間が掛かってしまったな」
ため息交じりに八百屋を出ると、そこへ不思議そうな表情の幽夢がやってきた。
「あ、幻武。ちょうど買い物が終わったところ?」
「ん、良いタイミングで戻ってきたな。随分と時間が掛かっていたが、混んでたのか?」
「ええ、ランチセット、やっぱり人気みたいだったわ。でも、ちゃんと買えたから安心して」
弁当箱の入った籠を掲げて幽夢がニッコリと笑った。
たんまりと買い物を済ませた一行は、それらを全て幻武に持たせて里を出る。流石に荷物持ちも辛いだろうという事で、そこからは幽夢が霊夢を背負っていった。
「霊夢も早く歩けるようになればなぁ。3人で一緒に散歩にいけるのに」
「歩けるようになったって、相当な歳にならなきゃ里までは歩き通せないわよ。私たちが、ちょっと異常だったの」
二人がこの道を歩くのは久々の事であった。
結婚する前、幻武が里から神社へ遊びに行くときには常に一人であったし、二人して神社から里へ行くことはあっても、帰りは幽夢一人で飛んで帰っていた。
故に結婚するまでは、この帰り道を二人で歩くことはなかった。
前回、この道を二人で歩いたのは、幻武の父が亡くなった直後。二人で結婚の報告に里を訪れた帰りであった。彼の父は不慮の事故で急逝し、孫の顔を見ることはなかった。
何年ものあいだ恋仲同士だったのにも関わらず、なかなか結婚しなかった二人のきっかけとなったのは、幻武からの求婚であった。今にして思えば、それは父の死と直接的に関係していたのだろう。
「お義父様にも、霊夢の顔を見せにいってあげれば良かったのに」
「墓は好かん。あそこに親父はいねぇ。あれは、俺たちの為の標でしかねぇからな」
珍しく考えた言い回しで拒否する幻武。彼は折角里を訪れたというのに、父の墓前へ霊夢を連れて行く事を拒んでいた。
そこは幽夢も母の墓参りを避けた身であるので、それ以上は口を挟まなかった。
あれほど愛した幽夢の母と、衝突ばかりだった幻武の父。相反する関係だった両者の亡き者たちは、しかし遺された者を墓前へと立ち寄らせない理由は似通っていた。
「あっ、ねぇ! 見て見て、あれってもしかして……」
突然、幽夢が何かを指差してはしゃぎ始めた。
幻武が何事かと目を向けると、道の脇には大きな物体が見え、妻はそれを指さしているようだった。
「あー? ……ただの大っきな岩じゃないか。なんでそんなに興奮してんだ?」
「えっ、もしかして忘れちゃったの?」
「うん? 何かあったか、あそこ……?」
「もうっ、いいわよ。とにかく、あそこでお昼にしましょう? お腹空いちゃったわ」
頬を膨らませながら岩へと突き進んでいく妻の様子に、脳内で疑問符を乱発させながら幻武は続いた。
その草原の真ん中に鎮座した岩は、ちょうど人間が腰掛けるのにぴったりのものだった。
「あー、でも座るには敷物があった方が良いなぁ。ちょっと汚いし」
「そうねぇ……。でも持ち合わせがないわ」
「待てよ、確かさっき、里で俺の甚兵衛を買ったじゃないか」
「まさか、それをお尻に敷くわけじゃないでしょうね?」
「いやいや、あれを買ったときに、何かと入り用だろうって余った布地をもらったんだよ。あの店主、気がきくなあ」
幻武は買い物籠を漁ると、中から安物の生地を取り出して岩に敷く。それは敷物として、申し合わせたようにピッタリの大きさであった。
「あら、でも勿体無いじゃない。ちゃんとした生地なのに」
「洗濯した後にあて布にでも使えば良いさ。さぁ座った座った」
腰掛けた幽夢は背中から霊夢を降ろすと、その小さな身体を膝の上に置いて抱っこした。
「あうー」
霊夢はそこから脱出したがるように手足をばたつかせたが、やがて母親の膝の上が最も居心地が良い事に気付いたのか、おとなしくなった。
「さぁ、お待ちかねの弁当だ。……ほぉ、いろんなおかずが盛りあわせられているな」
蓋を開けるとそこには、栄養バランスが良さそうで色鮮やかな弁当が現れた。
二人は舌なめずりするように、付属の竹箸を構えた。
「すごいわねぇ、全部手作りなのかしら」
「手作りじゃない弁当なんてあるのか?」
「紫から聞いたんだけど、山に住んでる河童は御飯を作る機械仕掛けを持っているらしいわよ。知らないの、あなた?」
「聞いた事ないなぁ。それに機械で作る御飯なんて食べる気が起きねえよ。油まみれになるじゃん」
最近ようやく乳離れを始めた霊夢は、両親の食べるお弁当から少しずつ御飯を拝借する。
箸でおかずを口まで運んで行くと、霊夢はそれを手づかみで食べようと手を伸ばした。
「ははは、霊夢は食べ物にも興味津々らしいな。よく食べる子は良く育つ!」
「お乳吸わなくなったら、途端に何でも食べるようになったのよ。霊夢って色々と極端なのよねぇ」
「あぶぅ……ぐぇっぷ」
霊夢はお腹が一杯になって満足したのか、小さなげっぷをすると幽夢に抱きついてすやすやと眠り始めた。
「あらあら、眠くなっちゃったのね。……それじゃあ行きましょうか」
「赤ん坊は自分の欲望に忠実なのが良いな。そこが素晴らしい」
「無垢とか純粋と言いなさいよ」
二人は娘の安らかな寝顔を眺めながら、やがて再び神社への道を進み始めた。
途中で休憩を挟みながら、ゆっくりゆっくりと進む。その内に日は傾き、空は茜色に染まった。
そうして3人はようやく、神社を囲む鎮守の森の前へと辿り着いた。
「ふぅー。ようやく我が家か、久々に里まで行くと流石に疲れるな」
「ごめんなさい、私が歩くの遅いから……」
「馬鹿言え。謝るのは空を飛べない俺の方だ。いや、空を飛べない事が罪なのか?」
「……自問自答しないでよ」
笑いながら幽夢はゆっくりと後ろを振り返る。
小高い丘になっている森からは、遠くに見える里までの道のりが一望出来た。
そして天を衝くような巨峰・妖怪の山がその景色の中心に置かれている。幻武と幽夢はしばらくその見事な風景を眺めていた。
「妖怪の山を見ると思い出すわね。あなたといった初めてのデートの話」
「あっ、あの話は出来るだけ、蒸し返さないで欲しいんだが」
「良く憶えているわよぉ。私を案内していた貴方が、途中から河童との相撲や天狗との世間話に夢中になって、私を放っぽり始めた事を……」
「いやぁ、ははは……。あれは本当に悪かったって」
「ふふ……また、山へデートにでも行きたいわね」
「そ、そうだな。霊夢と一緒に3人で行くのもいいかも知れないな」
「馬鹿ね、それじゃデートにならないでしょ?」
幽夢は山に差し掛かった太陽から目を背けると、振り返って森へと一歩踏み出した。幻武は「それもそうか」と呟きながら、幽夢に続いて振り返る。そして、幻武の目がある一点に吸い寄せられた。
妻の背中に、霊夢がいなかった。
「霊夢はッ!?」
悲鳴を上げて駆け寄った。妻の背中の兵児帯が、空になっている。
「嘘っ」
夫の叫び声で幽夢はようやく、己の背中が軽すぎる事に気付いた。
それはいつからだったのか、という事で彼女の頭は一杯になって、その顔から血の気が一気に引いた。
「霊夢! どこに……」
振り返って崖の上から今来た道を見おろそうとした時、夫婦は揃って口を閉じた。それは、自分たちの足元、その地面に不思議な黒い影があるのを視認したからだ。
恐るおそる、静かに、揃えたように、上空を見上げた両親は揃って胸を撫で下ろす。霊夢はただ、空を飛んでいるだけだった。それも、自分たちの手が届くような低い位置で、ふわふわと。
「って、なんで霊夢が空飛んでるのよぉぉお!?」
幽夢は飛び上がって霊夢を抱きかかえると、その身を地上へと引きずり降ろした。
一方の霊夢は、己の浮力が膂力によって打ち負かされた事に不快感を覚えたのか「あうー」と怒りの声を上げて両手を振り回す。
娘の身の安全を確保して一息ついた幽夢は、次に勢い良く顔をあげると、夫へと冷や汗で濡れた顔を向けた。
「あなた……見た!?」
「え、いや、見たよ。でも驚いたなぁ、こんな小さいのに空を飛べるなんて。確か幽夢は六歳くらいになって、ようやく空を飛べるようになったって言ってたろ?」
幻武は感心するように唸る。
霊夢は自分が誉められたと思ったのか、機嫌が良さそうに笑った。
「……あっ? え、ええ。そうよ。まさか霊夢が空を飛ぶなんて思ってないから、驚いちゃったわ」
「すごいなぁ、天才じゃないか! でも好き勝手飛んでいかないように、ますます目を離せなくなったな」
「そ、そうね。歩くのより先に空を飛ぶなんて、本当に色々と規格外過ぎるわ。……そうそう、紫には霊夢が空を飛べる事を秘密にしておきましょう? あいつに知られたら、無駄に心配して霊夢を犬みたいに紐で括りつけかねないわ」
「はっはっは、まさか! ……いや、本当にやりかねんな。紫さんには秘密にしておこう」
幽夢は兵児帯を厳しく縛って、霊夢が浮いていかないようにしておぶった。幻武も霊夢がどこかへ飛んでいかないように、妻の背中を注視しながら鎮守の森を進む。
空を飛ぶのにも体力を使うのかは、幻武には知り得ぬところであったが、霊夢は疲れたように大人しくしていた。妻に何度聞いても“空を飛ぶ原理”が理解は出来なかったので、幻武は霊夢の浮遊に関しても自分は理解出来ないんだろうなと諦めていた。
「はぁ、また蚊帳の外だよ」
「ん? 何か言った?」
「いーや……」
やがて森を抜ければ、数日ぶりの博麗神社へと到着である。
見慣れたはずの社殿と、その向こうに見える社務所が、二人にはもう何年も見ていなかったもののように感じられた。
「ただいまぁー。っと」
「数日だけなのに、すごく懐かしい気がしちゃうわねぇ~」
我が家は何一つ変わる事なく、そこにただ存在していた。それが不思議と今の夫婦にとっては、頼もしく感じられるのだった。
「ふぅ、やっと愛しの我が家に帰ってきた。早速、風呂でも炊くか?」
「ええ、お願いするわ。私は夕飯の支度でもしてようかしら」
薪を片手に風呂場へと向かう幻武を見送ると、幽夢は玄関から居間へと向かい、畳の上に霊夢を降ろす。
料理をしながらでも様子が見られる居間と台所の位置関係は、二人っきりの夫婦にはぴったりであった。
霊夢が積み木で遊んでいるのを横目で見ながら、幽夢は包丁を手にしてまな板の上に菜っ葉を置く。
――楽しかった。
ふと、そんな言葉が頭の中に浮かんできた。
それが自分の本音であるという事は、彼女自身が良く分かっていた。
――これこそが、私の得たかったものなんだ。
夫と娘、3人でやったのは大した事ではない。
ただ里に遊びに行って、そして神社へと戻ってきただけ。ただ当たり前に、普通に過ごしただけ。それでも幽夢にとっては、それこそがかけがえのない、望んでやまない理想の日々だった。
「霊夢……」
呟いた彼女の手から、包丁が滑り落ちる。金属が土に落ちて、思いのほか大きな音が響いた。いつの間にか額を覆っていた脂汗は、地面に叩きつけられた衝撃で台所に飛び散る。
「あう?」
霊夢が小首を傾げながら、地に臥せる母を見やった。それと同時に、廊下を歩いてくる重い足音が聞こえる。
「おーい、幽夢~。風呂炊いといたぞぉ……」
障子戸を開けて居間に入った幻武は、一瞬だけ無言で立ち尽くす。
そして次の瞬間には、霊夢の脇を凄まじい速さで駆け抜けて、幽夢の身体を抱き起こしていた。
「幽夢っ! 大丈夫か!?」
「あっ……」
彼女の薄い反応を見た幻武は顔を蒼くして、そのまま妻の身体を抱え上げる。そして慌てて居間から飛び出した。この時ばかりは、彼の目にも娘の姿が映ってはいなかった。
居間に一人残された霊夢の泣き声が、神社の中にしばらく寂しく響いていた。
◇ ◇ ◇
「おーい、にとりー」
河童仲間に呼ばれて、キュウリを齧る手を止めた。河城にとりは、川の中から顔を出した相手に向かって「なんだい」と聞き返す。
「なんだい、じゃないよ! にとり、この前の署名にサインしてないでしょ!」
「署名ってなんだよ? 私は、なーんも聞いてないよ?」
二本目のキュウリへと伸びた手をひっ掴むと、友人は代わりに一枚の紙をにとりへと叩きつけた。
そこには『嘆願書』と大きく書かれている
「もう、また忘れたの!? 博麗の巫女への襲撃を企ててる連中がいるから、それを取り締まるように天魔様に嘆願する為の署名よ!」
「えぇ、なんで巫女の為にそんな事しなくちゃいけないのぉ? バリボリ……」
「キュウリ食べるの止めてよ! 本当は巫女なんかどうでも良いんだけど……盟友の奥さんだから、私たち河童の力で守ってやろうって話になったんじゃないか」
「盟友? そりゃ人間は、みんな盟友さ。でも、そんなに特別な人間なんていたっけ?」
「ああ、にとりは、あの頃も何だかんだで人間から逃げ隠れてたから知らないんだ。何年か前にさ、私たちの相撲大会に人間の子供が参加した事があったのよ。覚えてる?」
「んー、確かにそんな事があったような。ないような」
にとりは全く思い出す事が出来ないでいたが、とりあえず話を合わせるように相槌を打っておいた。
「それが幻武っていう子供なんだけど。そいつ、河童相撲で横綱になるくらい強かったのよ」
「えぇ!? 嘘だぁ。河童が人間の、しかも子供に相撲で負けるはずがないよ」
「それが馬鹿みたいに強かったんだから。それで皆が一目を置く存在になって、結構仲良くなったんだ。巫女と結婚しちゃってからは、あまり見なくなったけど……」
にとりもそこまで聞いて、漸く事態が掴め始めた。河童仲間たちは、昔の友達を助けようというのだ。自分たちで直接動かないのは如何にも河童らしい。にとりは「なるほど」と頷いた。
ただ相変わらず、興味は全く沸いてこないのであるが。
「それで力を貸してやろうって事か。っていうかそもそも、なんで巫女の事を襲おうとしてる連中がいるの?」
「それも知らないの!? ちょっとは世間を知ろうよ! キュウリ食べて機械いじってばっかりだもんね、にとりは」
呆れきった様子で、しかし律儀に説明をしてやるこの河童は、仲間内でもお節介焼きとして知られていた。そんなお節介焼きな性格が向いているのか、機械仕掛けの修理やメンテナンスを担っている河童であり、技術屋であるにとりとは自然と仲が良くなるのだ。
「巫女が結界を張れなくなってるのに引退しないから、無理やり巫女を殺して、その娘に結界を受け継がせようって考えてる奴らがいるの。ね、とんでもないでしょ!?」
「うーん、確かにそれは乱暴過ぎるなぁ。でもさぁ、天魔様に嘆願したって意味あるのかな? あの天狗たちなら、巫女が死んだらラッキーくらいに思うんじゃない?」
「馬鹿言わないでよ! 山の妖怪が巫女に手を出したりなんかしたら、あのすきま妖怪と山で戦争にさえなりかねないのよ? そんなのは天狗だけでやって欲しいわ。私たちまで巻き込まれたら大変じゃない」
「なーんだ、結局自分たちの為じゃん?」
「あ、いやいや! 違うよー! 盟友の為だってーっ! サインしてよぉ~」
とにかくサインサインと煩くてはキュウリも満足に味わえないので、にとりはその署名にサインをしてやった。
河童は喜んでその防水性署名を持って川の中へと戻っていく。にとりにとってそれは、寝て起きたら忘れる程のとても瑣末な出来事であった。
ただ彼女の一枚の署名が、署名の束の厚さを、天魔の目に留まる目安へ届かせたのは事実であった。
◇ ◇ ◇
「やっぱり無理し過ぎだったな。ゆっくり休んどくべきだった」
妻の額に新しい手ぬぐいを乗せる。
彼女は息苦しそうに薄く目を開けて、しかし夫へと感謝の言葉を漏らす。
「ありがとう……」
「喋るのも辛いだろ? 今、粥でも作るから待ってろ」
手ぬぐいの上にポンと手を乗せて、夫は部屋から出て行った。
「……ありがとう」
里から帰ってくると同時に、幽夢は限界を迎えたように体調を崩した。それは、ただ単に夏風邪が治りきっていないのに無理をしたせいだと、幽夢も幻武も口を揃える。
だがその症状は、そんな生やさしいものではない。全身を寒気が襲い、気だるさで身体は動けない。ありとあらゆる関節が燃えるように熱い。頭の芯に針が差し込まれたような頭痛。絶え間ない嘔吐と下痢による脱水症状も深刻。――その気息奄々ぶりは、以前よりも悪化しているとしか言えなかった。
ただそんな中で、霊夢の世話をしながら自分の看病をし、慣れない家事に奔走する夫を見て、彼女はこの男と結ばれて本当に良かったと思えていた。
「よし、粥が出来たぞ。味は保証出来ないが、毒見はしたから大丈夫だ」
湯気の立った器を盆に載せ、幻武が戻ってきた。
ただ、枕元に置かれた粥から漂う食べ物の匂いは、今の幽夢には毒でしかない。彼女はそれから目を背けると、申し訳なさそうに目を瞑った。
「食欲無いのは分かるけど、食べないと治るもんも治らないからな」
梅干を細かく刻んで粥に混ぜると、幻武はスプーンに一口ほどの量を掬って幽夢に差し出す。
「身体、起こせるか?」
「えぇ……」
幻武に背中を支えられながら、幽夢はやっとの思いで上半身を起こす。
その手に抱いたあまりにも痩せ細った体躯に、幻武は思わず息を飲んだ。家事に奔走するしかできない自分が、苦しいほどにもどかしかった。
「ねぇ、熱くて食べられないわ。ふーふーしてよ」
「あ、ああ。そうだな」
幻武は言われるままにスプーンに盛られた粥に息吹を掛けて、なんとか食べやすい温度に冷ました。
「ねぇ、手が動かなくて食べられないわ。口移しで食べさせてよ」
「ばっ、馬鹿! 動かせるだろっ、ほら、ちゃんと握りなさい」
スプーンの柄を、やせ細った幽夢の右手の中へと押し付ける。
しかし幻武が手を離すと、スプーンは頭を畳へと打ちつけて微動だにしなくなる。
「ねぇ、本当に動かないわ。あーん、ってしてよ」
「分かった……」
幻武は左手で幽夢の身体を支え、右手でスプーンを持ち、それを彼女の口へと運んでいった。
白い唇が弱々しく上下して、粥を口中へと飲み込んでいく。
「このスプーンっていうの、買ってきて良かったな。すごい便利だ」
「ええ、そうね。とても便利ね」
幽夢は二口ほど粥を飲み込むと、やがて激しく咳き込み始めて食事を拒否した。
幻武は明日の朝にでも、里の薬師の所へ向かおうと思い、今日のところはゆっくり寝てもらう事にした。
◇ ◇ ◇
妖怪の山はちょっとした騒ぎになっていた。
大天狗の更に上、妖怪の山の頂点に立つ天魔様。――その天魔様が命令を下される事は滅多にない。
天魔の『勅命』とは山の戒律が変わる時や、戦争などの大事が起きた時にしか下されないものなのだ。
だが今、その天魔の命令が山全体へと下されていた。いわゆる戒厳令、緊急事態といっても良いのが、今の山を取り巻く状況である。
「過激派の取り締まりねぇ。まるで外の世界みたいな事を言っちゃって……」
「射命丸さん、外の世界の事を知ってるんですか?」
「知らないわよ。ただ言ってみただけ」
烏天狗は天狗社会の中でも大多数を占める種族であり、また実働部隊として特別な任務に駆り出される事がもっとも多い。
普段は新聞記者として活動している射命丸も、今は諜報部員としての仕事を命じられて、部下と共に山を彷徨いていた。
「しかし、すっごいドキドキしますねぇ! 天魔様の命令なんて私、初めてですっ」
「あんたは餓鬼だから知らないでしょうけど、大体ロクな目に合わないのよ? 天魔サマの任務に従事すると」
まだ幼くひよっこの部下を持つハメになった射命丸は、さっさと過激派とやらを割り出して仕事を終わらせたいと考えていた。
何故なら、あと一ヶ月ほどで、天狗の新聞コンテスト上半期最優秀賞が発表されるからだ。一つでも良い記事を書かなくてはならないこの時期に仕事が入った事で、射命丸はとても憂鬱だった。
「あの、すみません! 射命丸さんの事、先輩って呼んでもいいですか?」
「……は? いや、別にいいんだけどさ」
「わーい! ありがとうございます、先輩!」
そして、もう一つ憂鬱の原因となっているのは、部下が無駄に元気で、しかも何故か射命丸のファンだったという事だ。
新聞の購読者という意味でのファンなら彼女も大歓迎だが、どうもこの部下は諜報部員として「吸血鬼異変」の際に活躍した自分に憧れているらしいのだ。射命丸とすれば、嫌々やった仕事に憧憬の眼差しを向けられても煩わしいだけであった。
射命丸のそんな心の中を知りもせず、部下はひっきりなしに話しかけてくる。こうなったらキリがないと、射命丸は相手が飽きるまで、そのお喋りに付き合ってやる事にした。
「先輩は今回の過激派について、どうお考えですか!? 天魔様が直々に取り締まりを命じるなんて、彼らはそんなに凄い組織なんでしょうか?」
「そんなわけないでしょ。大方そんなのは“私の理想の幻想郷”を目指そうとかいう頭がパーの連中なだけ。ただ天魔様は、最近になって妖怪たちからの嘆願書が多すぎてウザったいから、仕方無しに命令しただけでしょ」
「じゃあ、その嘆願書を集めるだけの力が、過激派にはあるって事では……?」
「違うわよ。ただ過激派の標的が“博麗の巫女”だから嘆願書が集まってるだけ。同情票みたいなもんよ」
「巫女さんって人望があるって事ですか? 妖怪に??」
「いや、妖怪に人気があるのは、その夫だけよ。巫女は嫌われてるっていうか避けられてるし。それに問題は人望とかじゃないわ。大体、結界を守っている博麗の巫女を殺すなんて事は、幻想郷に住んでいる妖怪で頭がまともな奴ならば考えつく事じゃない。そいつらは結界が娘に受け継がれるから、幻想郷自体は安全だとか宣ってるらしいけど、そんな保証はどこにもないし。それに……」
「それに……?」
そこで射命丸は、少し表情を歪ませた。
「巫女に手を出したら、大家さんに追い出されちゃうわよ。この世から」
「大家さん、ですか?」
「幻想郷の管理者、八雲紫。あれは、個人でも妖怪の山と戦争を出来る程の勢力を持っている。それも勝ち戦に近い形でね」
新人は驚きのあまり、枝に引っかかった。
空中を錐揉みしながら悶える部下に目もくれずに、射命丸はそのまま森の中を飛んでいく。そしてひっかき傷のついた泣きっ面が追いついてから、淡々と説明を再開してやった。
「そんな訳ない、って驚いた? 誇張でもなんでもないわよ。あの妖怪を敵に回す事には、なんのメリットもないわ」
「はぁ。私たちが負けるなんて信じられませんが……。でも先輩が言うなら、そうなんでしょうねぇ」
山をただ飛び回っていた様に見えた射命丸は、やがて滝の近くに降り立つ。
そして崖から麓を見下ろしながら、一本足で立ったまま顎に手を当て何やら考え始めた。
「どうしたんですか、先輩?」
「巫女殺しなんてキ印なマネを画策する連中は、頭もカッチカチなのよ。きっと自分たちを取り締まる署名には、馬鹿正直にサインをしないはず。『自分たちを取り締まる署名に名前を書く愚か者がいるか!』――ってね。で、その前提から調査を始めた私は、天魔様から署名リストを拝借して、そこから過激派と思わしき連中の割り出しに成功したのでした~」
「す、凄い! 流石は射命丸さんです」
「まぁこれで全員が捕捉出来れば、そんなに楽な事はないんだけど……。相手も全員がそこまで馬鹿じゃないから、そうはいかないわ。でも、目安をつけた連中の行動を監視する事で、連中がどこで会合や連絡を行っているかが判明した」
「おお! それじゃあ、後はそいつらを私と先輩でボコボコにしてやればいいんですね!」
「馬鹿。私たちは天魔様に報告するだけで良いのよ。でも下っ端だけじゃ駄目ね、そのバックについてる大物まで引き出してから報告しないと……。恐らくこいつらには大天狗クラスの指導者がついているはず……。それと諜報部員にも背信者がいるでしょうし、まだまだ詰めていかないと」
射命丸を始めとした諜報部員の活躍によって、妖怪の山における過激派の取り締まりは着々と進んでいた。
黒幕たちは中々尻尾を掴ませなかったが、その包囲網は確実に狭まっており、その黒幕たち本人も自分たちが追い詰められている事を感じているに違いなかった。
ちなみに、射命丸はこの件を記事にして新聞コンテストの大賞を狙おうと猛烈に執筆を進めていたが、やがて天魔からこの件に関しての箝口令が敷かれて涙目となった。
彼女のペンの力は権力の前に屈す。
◇ ◇ ◇
夏の暑さも和らぐ頃。珍しく体調の良い幽夢は、縁側に出て霊夢と一緒に遊んでいた。
といっても霊夢は好き勝手に遊んでいるだけ。ただ、それを眺めるのが母親にとっては、なによりも楽しいのである。
「お茶、飲むか?」
盆に載せられて運ばれてきた湯のみを取ると、その指は微かに震えながら口元まで運ばれた。
「ありがとう、美味しいお茶ね」
「幻想郷じゃ、お茶がなによりの愉しみだからな」
湯のみを床に置くと、幽夢は娘へと視線を戻す。
霊夢は覚束ない足取りで、宙に浮くトンボを追いかけていた。そしてトンボが一段高く飛び上がると、彼女もそれに釣られて浮遊しようとする。
ただし、帯から伸びた紐が幻武の腕に括りつけられており、それ以上は高く飛べなくなっていた。「あうぅ」と手足をばたつかせて浮き上がろうとするものの、それ以上は飛べない事を悟ると、霊夢は悲しそうに着地した。
「可哀想じゃない。まるで風船みたいよ」
「しょうがないだろ? 俺は空を飛べないから、一度高く飛ばれちまったら、どうしようもなくなる」
「ああ。空で迷子になられたら、どうしようもないものね」
「そういうこと」
顔を見合わせると、二人はクスクスと笑いあった。
今の二人には、どんな些細な事でも楽しめるという自信があった。むしろ、楽しまなければいけないという強迫観念に近いかもしれない。
「あんまり外に出てると、体に障るぞ」
「え、ええ。でも、もう少しだけ、霊夢を見させて」
幽夢が倒れたあの日から、早くも一月が経とうとしていた。
結局、里の薬師では体調不良の原因は分からずに、自宅での療養しか打つ手はなかった。そして、その効果は未だ見えていない。
「そうだ。あなた、いい事を思いついたわ」
「ん? なんだい」
幽夢はゆっくりと立ち上がると、柱に片手をつきながら微かな声で言った。
「今度の晴れた日に、霊夢と3人で妖怪の山にピクニックに行きましょうよ」
「なんだい、前は俺と二人が良いって言ってたのに」
「気分よ、気分。あの時とは気分が違うのよ。紫にでも頼んで、すきまを使って山まで送ってもらってさ」
「あぁ、その手があったか。……そういえば、紫さんって最近見ないよな」
八雲紫は暫くの間、夫婦の前に姿を現していなかった。
妻の看病で必死だった幻武はともかく、幽夢は病床で紫が来ることを心待ちにしていた。だが彼女は何時まで経っても幽夢の元を訪れなかった。
「大丈夫、結界をちょっと緩めると、紫の奴は飛んでくるから。大方、今はあいつも忙しいんでしょう。その時になったら呼ぶわ」
「やれやれ。そんな事で結界を緩めてるから、あの時みたいに妖怪の恨みを買うんじゃないのか?」
「巫女が妖怪に恨まれて、問題なんかある?」
「ふっ、確かにそうかもな」
笑いながら幻武は肩を貸した。それと同時に、霊夢がトンボを追いかけるのを諦めて、縁側に戻ってきた。幻武はそれを見て、その腕に括りつけられた紐を外してやる。霊夢はまだ垂直にしか浮遊出来ないので、屋根のあるところであれば何処かへ飛んでいってしまう心配もないのだ。
「霊夢、ちょっとだけ待ってろよ。今、お母さんを寝かせてくるからな」
「……ちゃんと、お父さんの言う事を聞きなさいよ?」
「あー、ぅうー?」
霊夢の気のない返事のような声を聞いて、幻武と幽夢は顔を見合わせて笑う。そして幻武は彼女の負担にならないように、一歩ずつしっかりとした足取りで幽夢を寝室まで送った。
新しく敷いた布団へと近づいて、その痩せ細った体躯を横にさせる。身を屈めた幻武の耳元で、幽夢の弱々しい呟きが聞こえた。
「ねぇ、約束よ。3人で行きましょうね」
枕の位置を直してやりながら、幻武は彼女の髪を撫でて返事をした。
「約束だ。次の晴れの日には行こう」
それを聞くと幽夢は満足したように唇で笑いを作って、静かに目を閉じた。
◇ ◇ ◇
親父が死んだのは、不幸な事故だった。
里を嵐が襲った日、近所のボロ屋の一つで屋根が飛びそうになっていた。それで、あの阿呆は「人間、助け合いだ」などとほざいて、屋根の修理を請け負った。俺とお袋は「よせよ、こんな風の強いなか」って止めたんだけど、結局あいつは聞く耳も持たずに大工道具を片手に走っていっちまった。
俺もお袋も、頭のどこかでは親父の強さに幻想を抱いていたのかもしれない。昔の親父だったら、例え天狗の起こす突風にだって負けないような、そんな男だったから。だから、数時間後に屋根から落ちて、頭打って死んだなんて聞いても、冗談だとしか思えなかった。
さっきは不幸な事故だなんて言ったけど、そりゃ嘘だ。必然、当然だった、親父の死は。当たり前だ。あんな嵐の中で屋根に昇るような馬鹿は、死んでしかるべきだ。
親父の死体を目にした俺は、ただ立ち尽くしていた。地面には血の一滴も垂れてやしないのに、親父はぼけーっと空を見上げたまんまで、舌をべろっと出してふざけていやがる。修理していた家の奴らが泣き叫んで頭を下げる中、俺はじっと親父とお袋の姿を眺めていた。まるで、こことは、こいつらとは無関係であるかのように。
お袋は涙していた。そりゃ、サバサバした性格だし、親父とはよく喧嘩もしていたけど、泣くよ。夫婦だったんだもの。
でも、泣き叫んでいた訳じゃなかった。ただ、涙をぼろぼろと流しながら、悔しそうに歯を食いしばって、じっと地面を睨みつけていた。それが俺には不思議で、嵐の去った後の真っ青な空が、なんだか無性にムカついたのを覚えている。
俺は走った。涙を見られたかったからじゃねぇ。だって、その時、俺は涙の一滴だって出る気配もなかったんだ。じゃあ、なぜかって?
逃げたかったんだ。親父の死体から、お袋の泣きっ面から、そして周りからの哀れみの視線から。里を出て、野を駆けて、山の脇を掠めていって、それで、俺は神社にたどり着いた。その頃の俺は、もうすっかりと、山じゃなくて神社に来る人間になっていた。俺は本能に従うように、求める場所へとやってきていた。
「幻武、どうしたの?」
境内でいつもみたいに箒を持って、それで俺の方を向いて、あいつが言った。
きっと、息を切らして凄まじい形相だったのに違いない。驚いたような顔で、だけど優しく俺に話しかけてきたんだ。
「俺は……俺はっ!」
拳を握りしめて、肩を震わせて、ふらつきながら近づいたのは覚えている。
そこから、あいつの身体を抱きしめたのは、よく覚えていない。とにかく色んな感情がぶっとんじまって、結果としてそういう行為に出た訳だ。今にして思えばとんだ破廉恥野郎だ。ちくしょう。
俺と幽夢はその時、もう4年ほど、恋人同士という事にはなっていた。でも抱擁なんてした事はないし、手を繋いだのだって数えるくらいしかなかった。だからいきなり抱きつかれた幽夢は、さぞや驚いた事だろう。
「……どう、したの?」
身体を固くして、両腕をぴんとまっすぐにした幽夢が、震える声で言った。箒がからんと音を立てて倒れるのを聞いて、俺はやっとこさ声を絞り出す事が出来た。
「親父が、死んだ」
言った瞬間、俺の身体がふわりとした柔らかさに包まれたのを覚えている。なんだか気持ちよくって、とても安心出来る感じ。俺はそこで、ようやっと涙が溢れてきた。今まで出なかった分か、それはもう止まらなくて、声も出せるだけ出して、とにかく泣き喚いた。
その間、あいつはずっと俺の事を守ってくれていた。俺が泣き叫ぶのを、ただじっと、その胸の中で聞いていてくれたんだ。
だから俺は、その時にこいつと結婚すると決めた。
里に戻って親父の葬儀をし、四十九日が過ぎるとお袋に幽夢と結婚することを伝えた。随分と急でばたついてしまったが、きっとその方がお袋も気が紛れるだろうなんて、その時の俺は思っていたんだろう。
それからの日々は、なんというか、あっという間で。特に霊夢が産まれたのなんて、まるで昨日のことのようだ。
……なんで今、親父の夢を見たんだろう?
そう思って目を覚ます。横を見れば、霊夢がすやすやと寝息を立てている。間違いない。ここは俺の家、社務所の居間だ。
「さむっ」
思わず口に出てしまうくらい、今朝は冷えるようだ。幽夢の奴は大丈夫だろうか? 今日は少しくらい粥を食べられればいいんだが……。
霊夢の身体を覆う布団が、ちょっとはだけていたので直してやると、俺は台所へ向かう。今日も一日、俺がしっかりとしなければならないんだ。だって俺が……
なぁ、親父。俺は、まだ餓鬼だ。自分に子供がいるなんてのも、時折、信じられない。
でも、こんな俺でもさ。……父親になれるのかな。
親父みたいに、なれるのかなぁ。
俺はふと、箪笥の引き出しに目をやった。
◇ ◇ ◇
彼女が山へと来るのは久々の事であった。特に藍を連れて、となると一ヶ月ぶりだろうか。
しかし今までとは違い、現在の山は厳戒態勢ともいうべき緊張感に包まれている。
そんな訳で紫も、今回ばかりは哨戒天狗に見つかってはややこしいと思っていた。そこで、すきまを伝って隠れるように移動せざるを得ない。ただし、そう言いつつも普通に藍と会話をしてしまうのが彼女らしかった。
「全く、物々しいわね。なんで私がコソコソしなきゃいけないのかしら」
「いつもコソコソしてるじゃないですか。いえ、モゾモゾですかね。布団の中でイビキをかきつつ」
「失礼ね、最近はちゃんと起きて仕事してるわよ」
確かに紫は珍しく、最近働き詰めだった。
というのも、妖怪の山でうごめいている不審な連中を、自ら監視しなければならなかったからだ。普段は其の様な役割は藍に押し付けているものだったが、今回ばかりは紫が直々にこの問題を担当していた。それほど、今回の“動き”は紫が気を揉む程の、大きなうねりになる恐れがあったのだ。
そんな中で彼女を呼び出してきたのが、例の大天狗三人衆であった。藍は彼らから得られる情報はもうないと判断し、会うことを薦めなかったが、紫は会心の笑みを持ってそれに応じた。
「観念したわね」
「……というと、やはり?」
「ええ。天魔が取り締まった事によって、過激派と呼ばれる妖怪たちは、その勢力を一気に失った。それを操っていた連中にとっては、将棋でいうところの“詰み”の状態に陥ったわけ」
「それが何故、このタイミングで紫様を呼び出したのでしょうか?」
「さぁ? 投了の宣言にきたのか、一発逆転で逆王手を掛けにきたのか……。分からないから、直接聞きにいくのよ」
罠であるのかも知れないのに関わらず、渦中へ飛び込んでいく主を止めないのは、藍も主が他人の手管に嵌るような器量ではないと知っているからだ。
やがて彼女たちは、特に苦も無く彼らの潜むアジトに到着する。そして紫は、眼前にそびえる大きな岩戸に目をやった。
「ようやく着いたわね。もしもーし」
岩戸の前に立つなり、問答無用でノックをした紫に「どうぞ、お入りください」と聞き慣れた声が返す。
藍は「控えろ」と言われるのが分かっていながらも、今回ばかりは紫に問うた。
「紫様、私もついて行きましょうか?」
洞窟の入り口で振り返った紫は、予想通りに綺麗な笑顔で返した。
「外で待ってなさい。なんなら、先に帰ってお風呂の用意をしていても良いわ」
藍は固唾を飲んで、主が死地へと赴くのを見守った。
いや、死地となるのかはまだ分からない。――そして誰の死地となるのかも分からない――そう思うことによって己の荒ぶる忠誠心を抑え、岩戸が固く閉じるまで、従者はそこに立ち尽くしていた。
「うわぁ、相変わらず……じめじめしてるわねぇ。貴方達も羽にカビとか生えないの?」
言いながら紫は円卓へと腰掛ける。
何時ものように、そこには3匹の大天狗が待っていた。暗く淀んだ洞穴の中は、心なしか以前に紫が来た時よりも、更にその色を濃くしていた。
「いいえ生憎、羽の手入れはしていますから。ようこそ、紫殿」
「あ、やっぱり手入れとかするんだ。ところでさ、今日は小間使いの彼、いないのね」
紫の指摘通り、前回の訪問では洞穴内に大天狗以外の気配がいくつもあったが、今日はその気配がない。この空間には、大天狗と紫しか存在しなかった。
「ええ、彼らには暇を出しました。まぁ、それは置いておきましょう、今は、それよりも大事な話があります」
「ふーん、聞かせてもらおうかしら」
銀縁眼鏡を直しながら、正面に座った大天狗が話し始める。
「今日お呼出ししたのは、他でもありません。以前から話題になっていた、急進派の妖怪たちの事です。彼らは、巫女が身勝手な振る舞いをしているせいで結界が弱まっていると思い込み、巫女を襲おうと考えているのです。そうならない為にも、紫殿には協力をお願いしたはずですが……」
「ええ、貴方達と違って、ちゃんと妖怪の見張りをしていたわよ」
「……ええ、それには我々も尽力しました」
そこで大天狗らは一様に目付きを厳しくし、糾弾するように大声になる。
「しかし貴方は、根本的な問題点である巫女には、何も手入れをしていない! 紫殿が原因と主張する体調不良も、依然として回復する見込みがない! これでは急進派が暴挙に出るのも時間の問題ですよ」
それに対し紫は、まるで愉快であるとクスクス笑いを漏らす。
「ふーん、貴方達は『急進派』って呼ぶのね、彼らの事。山じゃ、過激派なんて呼ばれてたけど」
「……まぁ、我々三人の間では、そう呼んでいるだけです」
「そうよね。自分たちのしている事は逸脱した行為ではない。幻想郷の未来の為に、可及的速やかに改革を起こしている。そういう主張だものね、貴方たちは」
歪んだ輪郭からフレームが落とされた。
銀縁眼鏡が机に落ちるのと同時に、大天狗たちを取り巻く空気が怒気を孕んだ。
「先程から、言い方に棘がありませんかな? それでは、まるで我々が……」
「そうね。もう、茶番は辞めにしましょう」
冷たく言った紫が指を鳴らすと、目の前にあった大きな円卓が、足音に現れた巨大なすきまの中に呑み込まれていった。
「ぬぉっ!?」
大天狗たちは咄嗟に後ろに飛び退いて、そのすきまから難を逃れた。そして当然、紫へと顔を向けて一斉に抗議する。
「紫殿ッ!? なにを……」
「烏天狗たちの調査力を、そして私を舐めない方が良いわよ。既に私は確信している。6年前のあの事件も、そして今また起きようとしている造反も……貴方たちが裏で主導していると」
紫の周りに、幾つもの空間の裂け目が現れる。
それはまるで、腹を空かせた野獣の口のように、奪える命を探して魔力の涎を垂らしていた。
そこまでして、ようやく彼らは諦めた。紫に対して“偽る”というのが如何に困難であるかを、彼らも長い付き合いの中で嫌というほど分かっているからだ。
「…………」
無言のままに一斉に飛び立った3匹。それに反応するように裂け目から得体の知れない鉄くずが飛び出し、各々に喰らいつこうとする。天狗たちは散開して、その攻撃を躱した。
紫にしてみれば、ほんの挨拶であった。その鉄くずたちは狙いを失って洞穴の壁を喰らい削り、空間に激震を与える。その威力に、天狗たちは恐怖した。
直撃すれば、まず間違いなく死。四肢が千切れたくらいでは命に別状のない妖怪である彼らが、その紫が放つ攻撃には確実なる死を感じた。
「ほう、避けるか。……貴方たちが山の取り締まりによって、心底追い詰められているのは知っている。そして、自分たちが捕まるのも時間の問題だと覚悟した貴方たちが、最後にとる行動も全て分かっている」
「それは……紫殿、貴方をここに呼び出した事ですかな?」
大天狗たちは言いつつ、遂に紫へと直接攻撃を仕掛けた。
その掌から繰り出されるのは、全ての物質を切り裂く圧縮された暴風。それは幾つもの鎌鼬を洞穴中に生み出した。
狭い洞穴内。決して天狗に有利な場所ではなかったが、それでも大天狗の繰り出す鎌鼬を正面から防御する自信はない。あくまでも余裕の笑みを浮かべたままに、紫は舞踊を演ずるようにすきまを伝って攻撃を躱す。躱しつつ、口は止まらない。
「貴方たちが私に対して取る行動は二つ。観念して首を差し出すか、それとも騙し討ちに持ち込むか……。前者ならば少しは見上げたものだが、結局は捨て鉢の王手とはね」
紫の軽蔑しきった眼差しに、大天狗たちはしばし押し黙る。
そして自分たちの放った鎌鼬が全て躱されると、彼らは身体を震わせ始めた。それは恐怖の為に起こる振戦にも見えたが、どうやら違ったらしい。
「くくく、はっはっは」
「はははは」
「フアハッハハ」
三匹の大天狗は、洞穴の低い天井を沿うように飛び回りながら、壊れたように笑い始めた。死の間際にしての発狂。それは妖怪にしては良く有ることで、紫は無様なものだと鼻で笑う。
しかし、次に彼らの口から放たれたのは狂人の吐く台詞ではなく、まさしく勝者のそれであった。
「王手ではないですよ、紫殿。何故か? 貴方は王将ではないのだから」
「我々は角行と飛車を抑える捨て駒に過ぎない。そして貴方の王将は巫女」
「今頃、敵陣には我が方の歩兵が押し寄せていますよ。いえ、この例えでしたら歩兵は“金”に成っていますかな? ははは」
彼らの台詞が終わる前に、紫は彼らに背を向け出口へと走った。
「まさか」
口中で呟き、強力な結界で閉ざされた出口を見て舌打ちをする。その紫ですら目を見張る尋常ならざる結界は、命を鍵とした捨て身の結界であるに違いはなかった。
そしてすきまによる脱出も結界によって封じられていると分かると、その徹底した“時間稼ぎ”の舞台に己が招き入れられた事を悟り、歯ぎしりをした。
一方で大天狗たちは、紫のその様子を見て恍惚に酔いしれる。まさか自分たちが、あの大妖にこのような狼狽を与える事が出来るとは、と。
「開けろ。ここを今すぐに」
「我々を倒せば、すぐにでも」
紫の目の色が黄金に変わった。この世の物とは思えないその美しい琥珀は、もはや美しすぎて見る者に恐怖を与える。
「ならば、鏖にするしかない」
空間内の空気が、全て瘴気になる。大天狗たちでさえ、その正気を保てるのか不安になる。
目の前にいるのが“幻想郷最強”という安直かつ真理をついた肩書きに相応しい化物であると、彼らは実感した。だがそれを知ってもなお、彼らから戦意が失われる事はなかった。
「三人寄れば文殊の知恵とは良く言ったもの」
「我々の千年余りの命を全て掛けて」
「我々一人につき二十秒は稼がせてもらいますよ」
三人の大天狗は確実なる死を前にして、むしろ快感さえ覚えていた。
本気の紫を相手にして二十秒という時間を稼ぐ事が、今までの永きに渡る生の中で、最も困難でかつ甲斐のある斗いであるからだ。
「藍! 聞こえてたら、神社へ行きなさい!」
紫はまず、外で待つ式神へと声を掛けてみる。
しかし、その返事の代わりに、紫はこの洞穴を揺らす静かな振動に気付く。地鳴りのような響きを足元から感じた紫は、藍が神社へ向かう事は不可能であると悟った。
きっと扉の外では今頃、藍が眼の色を変えて岩戸を破壊しようと、その拳を打ち付けているのだろう。
『6年前』と違うのは、紫が身動きの取れない状態に陥り、かつ藍が主の危機を感じられるほどに身近にいた事。式神である彼女は、主の危機を感じればそれを排除する事に全てを捧げる。――そのように設定されているのだ。
今の彼女は例え“紫の命令”であろうとも無視をして、紫を危機に晒してるものへと執拗に攻撃を繰り返すだろう。
つまり、神社へと助けの手を差し伸べるには、どちらにせよ紫がこの洞穴から脱出しなければならないのだ。
「往ね!」
紫は目の前の大天狗たちへと、沸き立つ苛立ちと共に、その妖力を振るった。
苛立ちの原因は、まさか自分が大天狗程度に策略で負ける事など考えられないという矜持。だが、現にそれは見事に遂行されつつあるという屈辱。
その苛立ちは更に紫の動きに僅かなる影響を与え、大天狗たちの命を賭した時間稼ぎに味方をしてしまう。
「紫殿ォ……。貴方は今、自分が正しい事をしているとお思いか?」
「!?」
天井を背にしながらニタつく大天狗の言葉に、紫は蠱惑のつもりかと捨て置く。しかし、それに構わず彼らは続けた。
「貴方が作った、この幻想郷。これが本当に正しいものなのか、と問うているのですよ」
「人間と妖怪の調和を謳った世界。しかし、今まで何度あったでしょうかね」
「妖怪による人間殺し。そして人間の報復。血に染まる桃源郷」
聞く耳は持っていないつもりでも、その声は紫の脳内に浸透するように染み入ってくる。そして、彼女の脳裏には、否応なしに記憶が蘇る。
人喰いへの制限を破り、好き放題に人間を襲った妖怪たち。そして血の海となる囲炉裏。泣き叫ぶ人間たちの怒号。――確かにそれは、繰り返されてきた歴史。
「幻想郷が出来てから何年が経ちました? そして、今もこうして、我々のような者が現れる」
「まぁ、自分で言うのもおかしいですがね。ただ言えるのは、紫殿。貴方に、妖怪を統べる力は、ない」
「だからいつまでも、繰り返すのです。争い、殺し、奪われ……連鎖するのです」
「黙れ!」
ついに紫は声を荒らげた。大天狗たちの言葉は、紫の心の柔い部分を的確に抉る。――実力では埋まらない差を、口先で補おうとする大天狗たちの策。それは実に効果覿面であった。
妖怪と云えども生き物。否、妖怪だからこそ精神的な揺さぶりに肉体も引っ張られる。無論のこと普段の紫であれば、先程のような稚拙な挑発で心を荒立てる事など有り得ない。しかし、博麗の巫女の元へ刺客が送られているという事態と、紫が数百年に渡って悩み続けている人間と妖怪の調和への侮辱。それらが合わさって、紫の心は面白いように揺り動かされた。
「あぁぁあ!」
終いには怒気の籠った気合と共に、妖力を叩きつける始末。流石の大天狗たちも、それには余裕を持って退避をする。
視界がわずかに揺らぐ。呼吸が激しくなる。藍が岩戸を叩く轟音が、どこか遠くにいった気がする。喉が乾く。口中が干からびる。焦りに、飲み込まれていく。
「つまり、間違っていたのです。このような歪な世界、もとより成功するはずがなかった」
「だから、我々がこれを機に全てを奪ってさしあげます。そしてあるべき姿。妖怪と人間が争い尽くす、正しい世界に戻してさしあげます」
「巫女が死ねば。全ては我らへと流れ出します。妖怪の山も、吸血鬼たちも、人間以外の全て」
「人間以外は内心思っていたのですよ。力で抑えつけられていても、その胸のうちは紫殿。貴方の事を恨んでいる」
「無理矢理に歪んだ世界のルールに従わされている事に、不平不満、よく聞こえてきますよ? 我々の耳にも」
「いえ、人間だって思っているかもしれません。このような妖怪だらけの地獄の坩堝に放りこまれた、哀れな捕食者たち……」
「だから、我々が正す!」
当たらない。敵対する生き物の命を、一瞬で奪ってきた自分の術が。大天狗程度の雑魚三匹の命を、未だに奪えてはいない。足の感覚が無くなってきた。振るう腕にも疲れを感じる。疲れなど、この数千年で一度でも感じた事があっただろうか。
紫は歯を食いしばりながら、まるで泣きじゃくる生娘のように髪を振り乱し、洞穴の中を舞い続けた。
「素晴らしい! 我々が八雲紫の幻想郷を……!」
「作られた箱庭を破壊するのだ……!」
「素晴らしい、素晴らしい結末だ!」
三匹は紫の攻撃によって毎秒ごとに四肢を弾き飛ばされながら、だがまるで逆に紫を嬲り殺しているかのように愉悦に満ちた笑みを浮かべて、その勝利の時を愉しんでいた。
事実、彼らは勝っていた。身体が引きちぎられようとも、しかし命だけは捕られないように洞穴を逃げ飛びまわる。そんな天狗たちを、紫の攻撃は尽く捉える事が出来なかった。
「すば……、ら」
「しいぃ」
「せかい、だ……」
そして時は六十の秒を刻む。藍が岩戸を粉砕したのは、それと同時であった。
◇ ◇ ◇
その日、幻武は夕飯の支度をしていた。
もう何度も料理をしているお陰で、始めた時よりは大分腕もマシになったと自負している。
料理自体が楽しくなって熱中しつつある彼であるが、隣の居間にいる霊夢からは目を離さないようにしている。そして、その隣の部屋で休んでいる幽夢の事も、片時と忘れずに心配していた。
「さぁて、そろそろ御飯も炊けたかなぁ~。……っと」
しゃもじを片手に炊飯の様子を見ようとして、ちらりと居間へと視線を向ける。幻武の動きが一瞬止まった。ほんの少し目を離した隙に、霊夢が居間の壁際にある箪笥を開けていたのだ。
それを見た幻武はしゃもじを放り投げると、迷いなく霊夢にダイビングしていった。
腹が畳を削りながら、彼の巨体はソリのように部屋を滑っていった。そして、その腕は正確にわが子を捉える。
「止めろぉぉっ! そこは駄目だぁぁぁ!」
身体をがっしと掴まれた霊夢は、驚くと同時に手足をばたつかせて幻武の手から逃れようとする。
彼がそれほど慌てたのも無理はない。霊夢が開けたのは箪笥の一番下だったのだ。
「ふぅ、危なかった。いいか、霊夢? ここには危ないものが入ってるから、開けちゃ駄目だぞー?」
言葉の分からぬ霊夢に言い聞かせながら、目線を箪笥の中へと落とす。そこには一振りの刀が置かれていた。そう、あの日、幽夢の事を一緒に守った大切な刀だ。
「やっぱり箪笥の一番上に閉まっておこうかなぁ。それとも、もっと分かり辛い所に隠すとか……」
言いながら箪笥を閉めようとすると、その腕にしがみついてくるものがあった。なんと霊夢がしっかりと二本足で立って、それを阻止しようとしてきたのだ。
「うわっ、なんだよ?」
「あぁー、やぁ!」
言葉にすらなっていないが、霊夢が確実になにかの意思を持って発した声だと幻武は気付いた。そして彼女が頻りに引き出しの中を指差すものだから、彼はついに観念して刀を手にとった。
「そんなに観たいのか? これは危ないものだから、ちょっとだけだぞ」
刀袋から鞘を取り出し、柄に手を添える。――その瞬間だった。幻武の身に、電流のような鋭い感覚が芽生えたのは。
頭頂部から質量を感じる程の何か。魂に似た、何か強い熱が抜けていく。それはこの世にはない、どこか別の場所と自分を繋ぐ架け橋のようになった。――幻武には、そのように感じられる現象であった。
「あっ? これって……」
刀に目を落とす。それは至って普通の刀だ。
一方で霊夢は満足したのか、畳に尻をついて、また適当に視線を泳がせている。
だが彼の感じたその感覚は、ただの気の迷いではないと、もう一度彼に訴えかけた。
「誰だよ、お前は? 誰……」
頭に鳴り響く声を振り払うように、幻武は手に持った刀を振り回す。
だが彼の頭には、依然として鋭い痛みと共にそれが響くのである。
――刀を構えろ、戦え
その意思は明らかに、自分に降りかかる厄災を予見していた。
ただの戯言とは思えないその感覚に、ついに幻武は折れる事にした。
「分かったよ、戦えばいいんだろ!」
そう叫んだ途端に、その感覚は嘘のように消え去った。
大声に驚いた霊夢が、不思議そうに父親を見上げていた。脂汗を滲ませ、荒い息を吐く幻武は、固く刀の柄を握って「何なんだよ……!」と吐き捨てた。
幻武は自分が、誰かの霊感を感受したのであろうと考えた。だが他人に影響を与えるほどの強い霊感を持った者が、彼の身近にいるのだろうか。
まず目の前の霊夢を一瞥し、彼は首を横に振った。いくらなんでも娘は幼すぎる。ありえない。
次に隣の部屋にいる妻の事を思って、彼は「あぁ」と呟いた。6年前のあの日も、幽夢は妖怪が神社へとやってくる事を予感していた。
つまりこれは、床に伏す彼女からの自分へ向けた伝言であると理解した。
「霊夢、お前ちょっと……ここに入ってろ!」
左手で我が子を抱きかかえると、居間の押入れを開いて問答無用で彼女を放り入れた。
そして戸を閉めると、鞘を刀から抜き去ってそれをつっかえ棒にする。
「うー」
霊夢が不満そうに声を上げたが、緊急時だからやむを得ないと、心の中で謝りながら居間を飛び出す。
そして抜き身の刀を手に持ったまま、隣の寝室へと駆け込んだ。そこには、目を覚ましていた幽夢が布団の中で横たわっている。
彼女は刀を持った夫の姿を見ると、目を点にして、クスリと笑った。
「私の事を、殺しにきたの?」
「ばっ、馬鹿言えっ! さっきのアレは、お前じゃないのか!?」
刀を身体の後ろに隠すと、幻武は食いかかるように幽夢へと問いかけた。
しかし、幽夢は訳が分からずにきょとんとしている。それを見て幻武は、自分に“声”を送ったのが彼女ではないと悟った。
「お前じゃ……ないのか」
「一体どうしたのよ? そんなに慌てて」
幽夢は依然として弱々しくも、夫を落ち着かせるように微笑んでいる。
幻武はひと息つくと、先程の出来事を妻に説明する。
「いや、さっきこの刀を握ったら……なんというか“敵が来るぞ”っていう意識みたいなのが感じられて……。もしや、これが幽夢の言ってた……」
「“霊夢”……神仏のお告げの事ね。……そう、その刀に宿ってるとしたら、あなたのご先祖様やお義父様かしら。刀に宿っている人たちが教えてくれたのならば、きっとそれは正しいお告げだわ」
だが、そのようなお告げを受けるほど、夫の霊的な感受性も強くないはずだ、と幽夢は知っていた。
しかし、家に代々伝わる刀が血縁者である彼に何らかの影響を与えたのならば、それも有り得ると判断して伝えたのだ。
「じ、じゃあ。お前はここで寝てろ! 俺が外を見まわってくる!」
「待って、霊夢は?」
「居間の押入れの中に閉じ込めておいた。いざとなったら、お前が霊夢を連れて逃げろ!」
「分かった。じゃあ、これを持って行って」
幽夢は身を起こすと、枕の下から数枚の御札を取り出して夫の手に握らせた。
いまや立ち上がるだけでも息が切れる彼女は、必死の思いでその御札を手渡したに違いなかった。
「それは、貴方みたいな素人でも、妖怪に投げつければ効果がある御札よ」
「……あの時を思い出すぜ」
「気をつけてね。私は霊夢を連れて……寝室に戻ってるわ」
「ああ、これが俺の勘違いなら、とんだ茶番だがな」
無理やり笑顔を作ると、幻武は幽夢の肩を優しく叩いた。そして刀を拾いあげると、障子戸を蹴破らんばかりの勢いで外へと駆けていく。
あっという間に境内へと消えていった夫を見送ると、幽夢は動くだけで悲鳴を上げる身体を引きずり、廊下へと這い出る。そして境内へと鋭い視線を送り、歯をくいしばった。
――きっと、その予感は本物だわ。何故なら、私もそれを感じたのだから。
「でも、どうして……? 誰が幻武に教えたのよ……! 狙いは私だけなのに、狙われるのは私だけで良かったのに!」
――私は、生きたい。まだ霊夢と共にいたい。
「嘘つき……」
――幻武。守って。
「狙われるのは……私だけで……!」
悲痛な叫びは、誰も聞く者のいない社務所にただ木霊した。
◇ ◇ ◇
深夜の冷たい夜風に晒されながら、幻武は一人境内に立ち尽くした。
右手には抜き身の愛刀。そして、その背には守るべき家族のいる社務所。
「……誰もいねぇな。やっぱり、あれは俺の思い過ごしだったか」
ありえないと分かりつつも、しかし、そうであって欲しいが故に声に出して云う。
何故なら、神社へと向かってくる幾つもの妖気が感じられぬほど、幻武も凡夫ではなかったからだ。
――不思議と震えはこないな。
6年前のあの時は、戦いと死に対する恐怖で嘔吐寸前までに戦慄していた。
だが幻武の右手に握られる刀には、今は寸分足りとも震えはない。ただ静かに、その刃と交わる相手を待っているのだ。
あの時と違うのは、ただ単に年齢だけではないだろう。
確かにある程度は成熟したとはいえ、幻武はあれ以来、命のやり取りをするような経験はなかった。だから、今から始まるであろう死闘などに慣れたつもりは毛頭ない。
彼はその“強さ”の答えを自分の中で探した。そしてすぐに、今も背中に感じる暖かさへと辿りつく。
――あの時は幽夢一人を守るだけだった。でも、今の俺には……
「なんて言ったら、幽夢の奴は怒るかな」
口に出した瞬間、空を雷鳴が切り裂いた。
だがそれは真の雷鳴ではない。それは、神社の結界を高速で突き破った妖怪たちが奏でる、張り裂けるような衝突音であった。
もちろん、今まで博麗神社を覆っていた結界は、妖怪の突進程度で破れるものではなかった。触れた瞬間にその身を焼く、絶対的な結界であるはずだった。
それが軽々しく破られた事が、彼の妻が如何に衰微しているかを示しているのだ。
「掛かって来い!」
鬨の咆哮は幻武が発した。
まるで6年前のやり直しのような戦い。ならば一回経験を積んでいる自分に、一日の長がある。
この戦いで自分がするべきなのは、敵を引きつけること。守るべきものたちから目を逸らす事である。故の全力による咆哮であった。
だが妖怪たちは、境内に立つ幻武には目もくれずに、その背後へと狙いを定めて飛んでくる。
まっすぐに社務所へ向かってくる妖怪たちは、明らかに社務所の中に目標となる博麗の巫女が居る事を知っていた。
今回は下調べがいいらしいな。――幻武は舌打ちと共に口中で呟くと、妖怪目がけて右手に握った御札を投げつける。
彼の驚異的な膂力で打ち出された御札は、込められた霊力をその身に展開して、その軌道を紙のそれとは著しく異なるようにさせる。それは開戦を告げる蟇目鏑矢のように、あるいは空を流れる一筋の流星のようにも見えた。
「ぐわぁぁぁ!?」
目標の巫女だけを狙うため、立ちはだかる幻武をまるで無視していたのが災いした。彼らは避ける素振りも、防御する素振りもなく、ただその身に攻撃を受ける。御札の直撃を受けた妖怪たちは、黒煙を上げながら玉砂利の上に墜落していった。
それを見た他の妖怪たちも、仲間が如何にしてやられたかを理解出来ずに、不可解な存在である幻武へと注目した。
――よし、足止めは出来た。
あの時と違って、敵は幽夢が社務所にいると完全に把握している。
目標を探し回っている相手を、ある意味不意打ちで次々と倒していった6年前とは違い、今回はまず猪突猛進に進む敵を止める必要があった。そして、それは見事に成功する。
だが次なる関門は、この自分へと殺意の眼差しを向ける二十は超える軍勢から、如何にして時間を稼ぎ、あわよくば生き残るかである。
――待てよ。そもそも今回は、時間稼ぎが意味を成すのか?
幻武は気付いてしまう。
一分という制限時間を乗り切れば助けが入った前回と違い、今回その保証はない。
いや、あの八雲紫ならば、今直ぐにでもこの緊急事態を察知して駆けつけるはずだ。――そう思うしか幻武は、自分が生き残るあらすじを見つけられなかった。
「念のためだ、殺せ」
軍勢を率いるらしき烏天狗の口から、はっきりと聞こえた死刑宣告。それが鮮血の皮切りとなった。
妖怪たちの殺気が一気に境内を覆い尽くし、人間にその刃を向ける。
それが自分に到達するまでの須臾の合間に、幻武は頭の中に幽夢と霊夢の顔を思い浮かべた。そして彼は、己の身体から戦いに必要なもの以外を排除する。
「おぉ……」
小さく漏らすと、両の手に万力のような力を込める。すると、刀もそれに呼応してくれるように、その刃を妖しく光らせた。
まるで激怒したかのように、頭へと一斉に血が昇ったのを自覚する。幻武の目には、こちらへと駆けてくる刺客の姿が見えた。頭巾などで顔を隠していても、それは白狼天狗に違いない。白狼天狗は山で何度も見ている。その得物である倭刀といい盾といい、白狼天狗の格好は良く知っているのだから。
「良かった。俺のダチじゃねぇ……」
スローモーションのように見えていた景色が、突如として、途切れるように元へ戻った。
「はっ!」
まずは突進してきた白狼天狗の剣先を弾き、そのまま首元に浅く返して斬り捨てる。その隙に後方から伸びてきた槍は、半身で躱してやり過ごす。
やや遠巻きに躊躇っていた河童が、戦棍を振り回して突貫してきた。それを見切って大きく屈むと、振り回しすぎた戦棍が味方の頭蓋を一つ砕く。槍の穂先が血塗れの地面に落ちたと同時、それに動揺した河童の足が止まるのを見て、幻武はその首を一撃で撥ね上げる。
無心。何も考えてはいない。ただ見えた敵の動き、肌で感じた刃の気配を頼りに、身体を稼働させた結果。幻武は一対多数の絶対的に不利な一合目を、絶大な戦果と共に切り抜けたのである。
一瞬にして三匹の同胞を屠り去った幻武の尋常ならざる動きに、遠目に見ていた烏天狗も予想外であると度肝を抜かれる。
「待て! そいつに近づくな! 距離をとって殺せ!」
幻武の動きが妖怪に対抗しうる、むしろ自分たちよりも“上”だと判断した烏天狗は、慌てて仲間へと指示した。
それに従って妖怪たちは一斉に幻武から身を離し、上空へと逃れようとする。
幻武はその動きに一瞬戸惑った。烏天狗の構えた団扇が、自分を既に捕捉しているのに気付くのが、数瞬遅れる。
「喰らえぃ!」
振るわれた団扇から放たれた豪風は、境内に敷き詰められた玉砂利を巻きあげて、石塊の竜巻を形成する。それは鞭で操られる蛇のように、鎌首をもたげて幻武へと体当たりをかましてきた。
「しま……」
そして幻武は避ける暇もなく、あっという間にその中に巻き込まれる。高速で荒れ狂う石塊たちは、人間の肉体など微塵に引き裂いて、哀れな肉片へと変えるであろう。
「よし、殺った! 早く巫女の方へ……」
社務所へと矛先を向けた烏天狗は、しかしその言葉を遮られる。――目の前で荒れ狂う竜巻の中で、何かの影が揺らめいたのを視界に捉えて。
「な……!?」
それは信じがたい事実だった。
竜巻の中を亜音速で渦巻いている石塊。それを蹴りつけて、螺旋の中を駆け上っている者がいた。にわかには信じがたい。その石の一つにでも触れれば、肉は弾き飛ばされ骨は粉砕されるはずだ。だが確かに、その人影はそうしているとしか思えない動きで、竜巻の中を駆け上がってくる。
そして竜巻の威力を利用するように、まるで大砲から射出される要領で、空中高くで指揮を執っていた自分へ向けて“それ”は突進してきた。
「ま、待てっ!?」
天狗でさえ対応しかねる速度で打ち出された幻武は、その右手に持った刃で天狗の躯幹を真っ二つに引き裂いた。腕力は要らない。ただ構えた刀が天狗の身体を貫いていっただけ。そして勢いを殺した幻武は、空中高くから自由落下して神社の境内に転がった。
着地と同時に、血しぶきが舞い上がる。それは両の足が砕けてもおかしくない着地であったが、先にそこへ散らばっていた天狗の内蔵やらが、いくばくかその衝撃を和らげていた。彼は全身を血に濡らしたままで、ゆっくりと立ち上がった。
「こ、こいつ。本当に人間か……?」
仲間の惨殺に、血塗れの剣士。――そのあまりにも凄惨な光景に、社務所へ向かおうとしていた妖怪たちも、つい振り返る。そして一様に思った。『この化物を先に殺さなければ、自分たちの命がない』と。
妖怪たちは得物を再び構えると、怯えと殺意を持って幻武を取り囲んだ。
「ここまでか……」
幻武はその様子を一瞥すると、膝に手をついて諦めの言葉を口にした。
実のところ、彼もあの石塊の竜巻の中では無事に済まなかったのだ。彼の全身は大小の骨折を余儀なくされ、更に烏天狗を屠った時点で、全ての力は使い果たしていた。
「だが……」
だが、これで良い。と彼は思った。きっと幽夢は娘を連れて逃げ出し、今頃は紫の保護下にあるだろう。
出来る事ならば自分も助けて欲しいが、そんな贅沢は言えない。元から彼女たちの為に盾となるべく挑んだ戦いなのだ。それが、彼の本望であった。
妖怪たちは武器を振り上げながら、自分へと向かって突進してくる。残念ながら今の幻武には、素人の振り下ろす刀さえ防ぐ事は出来ないだろう。
自分の身体を貫くのであろう刃の煌きを眺めながら、幻武は辞世の句でも詠もうかと口を開いた。
はずだった。
妖怪たちの身体が蒼炎に包まれる。
それは紛れもなく退魔の術を扱う、高位な巫女による攻撃。後ろから不意を打たれた妖怪たちは、次々とその攻撃を受けて地に臥せる。
「……!?」
やがて幻武の視界を覆っていた大量の妖怪たちの身は灰と化し、そこに炎の使い手の姿を見せる。
一瞬だけ、二人は目があった。だが次の瞬間には、その片方は瞳から光を失い、枯れた身体は地面へと倒れこんでいた。
「ッ!? 幽夢!!」
信じられなかった。
何故、自分の窮地を救ったのが妻であったのか。霊夢を連れて逃げているはずの、病床に伏せていた妻であったのか。
そして、彼は知っていた。幽夢の身体には、あのような術を使う余力などは到底なかった事を。
「幽夢!」
戦いに傷つき、もう一歩も動けないと思っていたはずの身体は、しかし弾けるような勢いで妻の元に向かう。
幻武は倒れた身体を抱き起こすと、顔を近づけ必死に名前を呼ぶ。だがその顔は蝋人形のように白く、生気が感じられない。
幽夢の瞳は虚ろで、そして痩せ細った身体は嘘のように軽かった。まるで、からっぽ。
「幽夢! なんで俺を助けた!? なんでお前が……」
「あ、あなた……」
「待ってろ、今!」
幻武は彼女の身体を抱きかかえたまま、まるで天狗のような早さで社務所へと駆け込む。
そして土足のままで寝室まで上がりこむと、その布団の上に幽夢を寝かせた。――そんな事は、もう意味がないと分かっていながら。
「あ、なた……聞いて……」
血の気を失った唇が、微かに動いた。
「なんだ!? いや、喋るな! 喋ったら……疲れちまう!」
「お願い、聞いて」
今までの体調不良などとは訳が違う。
彼女の双眸には生の光がない。そこにはまだ微かな残光が、虚ろな反射をしているだけであった。
それが幻武を動転させていた。彼の心の中では「そんな訳はない」という言葉だけが、ただひたすらに繰り返されていた。
「私……分かったのよ、お母さんが……」
「うん、うん」
つい手をとって頷いた自分の行動に対して、心の中で叫ぶ。「そんな看取るようなマネは辞めろ」と。
しかし身体は心に逆らって、妻の“独白”に耳を傾けてしまう。
「お母さんが、なんで私を神社に置いていったのかって……。違うのよ……そうじゃなかった。お母さんは、私を見捨てた訳じゃ、なかった……私と別れるのが辛く、ない訳じゃなかった……」
「そうだ、そうだよ。子と別れるのが辛くない親なんて、この世にはいないよ」
「違うの、そうじゃないの。……お母さんは、私が博麗の巫女にならなくて良いようにって……きっと、ずっと結界を張り続けていたのよ。私の為に、私といつまでも暮らせる為に……結界を張り続けて、そして限界になって、ああなったのよ」
「そ、それじゃあ……。幽夢と同じ、だったんだ」
幽夢は間際で、遂に気付いたのだった。いや、あるいは目覚めたといった方が良い。
――自分が見る夢は、予言や予感などではないと。
それはまさしく“幽夢”だった。
決して実在はしない、それでいて幻でもない幽霊のような夢。
彼女が見た夢は、的確にこれから起こる事を予言はしていたが、その映像通りになった事はなかった。
幻武が畑で戦った時も、6年前の戦いの時も、決して夢に見た通りに人が死んだりはしなかった。
そして、いつも見ていたあの母との別れの夢さえも――
「夢の中の母じゃなくて、記憶の中の母が見つかったわ。……そうよ、あの時のお母さんは、既に痩せ細って髪も真っ白になって……。今の私よりも酷かった……それが、真実だったのよ」
夢の中に出て来る、まだうら若い母の姿は、幽夢が産んだ過去の幻影。
それは夢の中で、そうあって欲しいと願った彼女に作られた存在しない母だったのだ。
「私……自分勝手な夢を、本物だと思って……。それで、お母さんの事を、誤解してた……謝らないと」
「そうか、そうだったのか。じゃあ墓参りに行こう、俺も親父の墓参りに行くよ。だから、一緒に謝りに行こう」
幻武は目の奥が熱くなってきている事を、決して認めようとはしなかった。
それを認める事が、受け入れがたい真実に屈する事であるからだ。
「巫女は受け継いでいくの。子へと、己の霊力の根源を……。だから子を授かったならば、もうその巫女は霊力を失うの……。私が……お母さんから受け継いで、そして育てた霊力は……全て霊夢に受け継がれたのよ……」
「れ、霊力くらい……なんだよ? そんなの霊夢にくれてやったって、お前が苦しむ事はねぇじゃねか……!」
「霊力は、命の根源から漏れる雫……。霊力が生み出せないのに……霊力を使おうとするっていう事は……それは命を削るって事……」
「じゃあ……馬鹿野郎……!」
幽夢は少しずつ、だが確実に伝えなければならない事を紡ぎだしてる。
それが、彼女の伝えたかった想いを、後を生きる者たちに伝える事になるのかも知れない。
だから幻武も一語一句、聞き逃す訳にはいかなかった。今にも飛び出しそうな慟哭を押さえつけ、彼はただ聞き入った。
「最後に、あなた……私、あなたに秘密にしている事が……」
「最後ってなんだよ……最後って……何だよっ!」
幽夢はもう、表情すら作るのが難しいほど衰弱しているはずだった。しかし彼女は、彼の為に優しい笑みを作る。
自分がどんなに辛い時でも、嫌な顔一つせずに笑顔を向けてくれた夫への、それは精一杯の“おかえし”だった。
「あ……」
そして本当に最後の力を振り絞って左手を上げ、幻武の頬を伝う涙を拭いてやる。
「紫も騙して……あなたも騙していた事を……謝るわ」
「やめっ、やめろぉ」
顔を真っ赤にして、ただ幽夢の手を握ることしか出来ない。
そんな彼を目の前にして、巫女は首を横に振ると、最期に伝えようとした言葉を、寸前で辞めた。
「幻武……」
思えば自分は、霊夢が産まれてから、娘の事ばかりに心を注いでいた。だから今、伝えるべきは娘の為の言葉ではなく、彼の為の言葉。
愛する人へ、最後の言葉。
「好きよ」
それだけであった。
後には何も残らなかった。
その言葉が部屋の壁床に吸い込まれて消えてしまうと、後には幽夢の生きた痕跡は何も残らなかった。
神社の周りを覆っていた結界が完全に消滅し、博麗神社はその機能を失った。
博麗の巫女が、その名を冠したままに、死んだのである。
「うぉ……ぉぉおお……うあああぁぁ!」
妻の身体を力いっぱい抱きしめ、幻武はただ泣き続けた。
頭の中は真っ白になり、泣くこと以外には何も考えられなかった。
しばらくすると、隣の部屋からも泣き声が聞こえてくる。
母親が死んだ事など知る事もなく、ただ寂しさに咽び泣く声が聞こえる。
博麗神社の社務所に、二つの泣き声が響き続けた。
◇ ◇ ◇
血に塗れた身体のままで、社務所の前に立ち尽くした紫は、男の発する雄叫びのような泣き声を聞きながら、ただ憂いに満ちた表情を浮かべていた。
その隣で唇をきつく噛み締め、痛恨の表情を崩さない藍は、その主の様子を傍らから見つめるだけで、ただ声を掛ける事が出来ずにいた。
「ごめんなさい……」
震えた声で、確かにそう聞こえた。
藍はハッとして顔を上げる。
だが次の瞬間には、いつもの冷静な声が聞こえてきた。
「帰るわよ」
「会わなくて、良いのですか」
「結界を受け継ぐ博麗霊夢は無事よ。それだけ確認出来れば結構。好きに泣かせるといいわ」
「そうですか」
紫は振り返ると不敵な笑みを浮かべつつ、境内へと戻っていく。
藍はその笑みが今まで、如何に仮面の役割を果たしてきたのかを知っている。
主は今、この自分にさえ見せたくないものを、あの笑みで覆い隠しているのだと藍は心に留めた。
「ねぇ、藍。私っていつもこうよね」
「……」
あえて無言のままで、ただ後に従う。
「大事なものを二つ天秤に掛けて……。いっつも片方を失ってしまうの」
「誰もが皆、そうでありましょう」
藍の言葉には満足したのかしないのか、紫はすきまを開くと従者を置いて神社から姿を消した。
取り残された藍は、とりあえず境内に散らばる妖怪の残骸を掃除する事にした。
「おぉーい! 待ってくれよぉー!」
追いかけてくる幻武の声をまるで無視して、幽夢は大股でどんどんと山道を往く。
「なぁ、悪かったって!」
追いついて肩を掴んだ。その手を払った幽夢は、半目で冷ややかな視線を返す。
「別に良いわよ~、河童たちと遊んでたって。私は一人で山を見て回るから」
「だから悪かったって! この通りだ」
手を合わせ、頭も下げる幻武の姿を見て、最高に不機嫌だった彼女も少しだけ彼を許す気になった。
「じゃあ、お詫びにあそこに連れて行ってよ」
「ど、どこにですか?」
「貴方が前に言ってた、最高の見晴らしとかいう場所」
「あ、あそこは駄目だって。俺でも通してもらえなくって、こっそり行ったら殺されかけたんだから」
慌てて首を横に振って説明するが、幽夢は承知しなかった。
お洒落に洋服で着飾った彼女は、踵を返すと再び一人で山道を歩き始める。
「それなら結構よ。どうぞ天狗たちとおしゃべりでもしてなさい」
「ちょ、待ってくれよ。あぁ~、分かったって」
幻武は観念して、彼女の要求を飲むことにした。
何故、自分は彼女を放って妖怪と遊び始めてしまったのだろうと、ひどく後悔する。
「言っとくけど、そこは大天狗連中しか立ち入り出来ない場所だから、本気で危ないぞ」
「大丈夫よ、私を誰だと思っているの?」
確かに、幽夢よりも自分の命の方がよっぽど危ないなと思いつつ、幻武は彼女を連れて山の奥へと歩みを進める。
滝を越えて天狗たちの住処へと侵入し、更にその奥。雲の中に入ろうかという程の高さに“それ”はあった。
その高さ故に植物がほとんど生えない山頂付近で、そこだけは草花が豊かに咲いていた。更に山頂へと続く岩肌に周りをぐるりと囲まれた原っぱ、そのある一辺だけが、空の青を覗かせている。
「さぁ、着いた。見たら直ぐに引き返すぞ? そろそろ天狗に気付かれる知れん」
辺りをキョロキョロと見渡しながら、そわそわとしている幻武。それとは対照的に幽夢は腕を大きく伸ばして、深呼吸をした。
「不思議な場所ね。こんな所に花が咲いてる……。あ、そこの崖になってる所から、噂に聞く絶景が見られるのかしら?」
原っぱの端。切り取られたように空の青が覗くところを指さしつつ、幽夢は表情を明るくした。幻武の「そうだよ」という返事をまたずして、彼女は野原を駆ける。嬉々としてそこに近づいた幽夢は、やがて目の前に広がった光景に、我が目を疑った。
「嗚呼」
山風が長い髪を靡かせる。
乱れた髪を気にも留めず、彼女はただ前を見据えていた。
「……ああ、これは見事ね」
崖の際に立った彼女の目に映ったのは、里の人間が決して見ることのない光景。そこからは、まるで天界から見下ろしたかのように幻想郷の全てが見渡せた。
断崖絶壁から突き出した出っ張りという地形のおかげで、視界を遮るものなど何もなく、それは唯一無二の俯瞰であった。
木々の一つひとつなどは到底見分けられず、ただ塗りつぶしたような緑。人里などは、本当に米粒のようにしか見えない。普段は頭の遙か上を飛んでいる鳶らしき鳥が、今は眼下で蟻のように微かに見えるだけ。
空を飛ぶ彼女には見慣れた光景であるはずが、地に足を着けながら見る風景はまるで違うのだろう。幻武は幽夢としばらくの間、自分の身体を這う言い知れぬ圧倒感を噛み締めた。
「久々に見たけど、本当にすごいよな。ここからは、この世界の全てが見える。……妖怪たちが立ち入り禁止にするのも無理はねぇ。こんなのを見ちまったら、自分という存在が如何に小さいかって事を思い知らされちまう」
「彼らにとって、それは毒でしかないものね……」
二人は並んだままで、しばらく見入った。いくら眺めても、飽きることはない。生き物には創造できない、自然という完全なる芸術がそこにはあった。
やがて、じりじりと肌を焼く軽い痛みによって、そこに長居し過ぎた事に気付く。それほどまでに二人は飲み込まれていた。
「おっといけねぇ。日焼けするくらいぼーっとしちまってた。さぁ、そろそろ帰ろうぜ?」
幻武は少し赤みを帯びた両腕の皮膚をさすりながら、その風景から離れて原っぱを戻る。
しかし、ふと気付けば幽夢がついてこない。彼は振り返って、断崖絶壁に立ち尽くす彼女へと声を掛ける。
「おーい、幽夢! 帰ろうぜー」
彼女は、風景に見とれている訳ではない。何故なら、彼女はしっかりと幻武の方を見て立っているのだから。
しかし、彼の問いかけに答える事はなく、ただ柔らかい笑みを浮かべながら、彼女は立ち尽くしていた。
「……? 幽夢?」
「ごめんなさい、あなた。私はそちら側にはいけないわ」
呟いた彼女が、みるみる内に少女から大人へと姿を変えていく。
気付けば自分の身体も、まだ幼さの残るあの時の身体ではなく、しっかりとした大人のそれへと入れ替わっていた。
「……幽夢、帰ろう。俺たちの家へ。霊夢も、待っている」
「駄目なのよ。私はこっちにいかなくちゃ」
申し訳なさそうに笑った彼女が、一歩後ろへ下がる。
幻武は身体を震わせ、その大きな手を彼女に向けて突き出す。
「待てよ、まだ行くな」
「さようなら、あなた」
もう一歩下がれば、彼女の身体は絶壁から投じられる。
だがその前に、突如として絶景の崖が崩れ落ちる。原っぱから切り離されたように、出っ張った岩が崩れ去る。
彼女が自ら飛び降りる前に、その崖は彼女の身を奈落の底へと突き落とした。
「幽夢!? 幽夢ぅぅぅうぅうぅうう!!」
飛び込んだ彼の伸ばした掌は、彼女へは到底届かない。そして掌は代わりに、身体を覆う布団を跳ね上げた。
「……!? 幽夢ッ!」
身体を起こした彼の肌を、大粒の汗が流れ落ちる。
目を見開いて周りを見渡せば、そこは自宅の居間であり、自分は布団の中にいた。
横を見れば、障子を通る朝日に照らされ、眩しそうにしながら眠る霊夢の姿があった。荒い息を整えて髪の毛を乱暴に掻きむしると、彼は先程の出来事が夢であると漸く理解出来た。
「……夢であってくれ」
前へ進もうとしない己の脚を、無理やり動かす。
居間を出た彼は、目の前に伸びる廊下と縁側を見据える。毎日見てきたはずの光景が、今は絞首台への階段のような嫌悪感を覚えさせた。
口の中を嘔吐感が占める。しかし何とか、その廊下をゆっくりと歩き切ると、彼は震える手で寝室の障子戸を開けた。
途端に、中からは仄かな畳の匂いが漂ってくる。その香りは、目の前に横たわる肉体が既に死んでいる者であると、彼を信じさせなかった。
「幽夢、朝だぞ」
白装束に身を包み、布団の中に横たわる死体へ向けて、彼は呟いてみた。
しかし死体からは返事が返ってこない。いつもならば、眠そうに目を擦りながら「おはよう、あなた」と返してきたはずなのに。
跪いて顔を近づけてみる。その顔は死の間際よりもずっと安らかで、どこか幸せそうにすら見える。それが亡骸であるとは、言われなければ気付かない程である。
ただ一つだけ違うのは、その身体がもう温もりを失って、すっかりと冷え切っている事であった。妻の頬に自らの頬を差し出してみて、彼はようやくそれが生きていないという事を認識出来た。
そう、昨晩。彼の妻は死んだのだ。
「……嘘、だ」
彼は口にしてみた。
だがそれは虚しく部屋に響き渡るだけで、妻が死んだという事実をどうもしてくれなかった。
目頭が熱くなる。しかし彼の目には、もう流す涙は残っていなかった。
だから、彼は考えるしかなかった。
ただ妻の遺体の前に跪いて、受け入れがたい現実について無為に考えを巡らすしか出来なかった。
「何故、何故だ。何故……幽夢は死ななければならなかったんだ」
襲いかかってきた妖怪たちが悪いのか? それから妻と子供を守り切る力のなかった自分の弱さが悪いのか? はたまた奴らを止められなかった他の妖怪たちが悪いのか? 助けに来てはくれなかった紫が悪かったのか? 霊力の尽きた状態で自分を助けようとした彼女自身が悪かったのか? では霊力を失う原因となった霊夢が悪いのか? そも子供をもうける事になった自分との出会いが悪いのか? 博麗の巫女が子供に霊力を与えるという現象が諸悪の根源なのか? 幽夢を縛り付け続けた博麗の巫女という名前が悪いのか? 博麗の巫女を必要とするこの幻想郷が彼女を殺したのか? 誰が悪いのだ? 彼女を殺したのは誰なのだ? 彼女は死ななければならなかったのか? どうしてなのだ。
頭の中を幾つもの疑問が駆け巡る。
ふと、その答えを出すことに逡巡していた彼の耳に、廊下を歩く小さな足音が聞こえた。我に返るように顔を上げて、音の鳴る方向へと向ける。
そこには、開け放たれた障子戸の陰から、こちらを不安げに見つめる霊夢の姿。
「うー……」
――そうか
娘の姿を見て、先程まで答えのない問いに苛まれていた自分が馬鹿らしくなる。
残された自分に与えられた使命は、妻の死に苦しみ続ける事ではない。同じく残された娘の為に、妻の分まで自分が戦う事なのだ。
彼は憑き物が落ちたように勢い良く立ち上がると、娘に駆け寄ってその小さな身体を抱き上げる。それには流石の霊夢も驚いたのか、泣き声を上げて手足をばたつかせる。
「霊夢、お前は俺が守ってやるぞ。今度こそ、命をかけてな」
◇ ◇ ◇
「紫様、そろそろ行きませんか」
「もうちょっと待ちなさい」
紫は賽銭箱に小銭を放り入れながら、藍の言葉を軽く受け流した。
夕方に博麗神社へと着いた二人であったが、しかし紫が何だかんだと理由をつけて時間を浪費した事で、時刻はすっかりと夜になってしまった。
藍は背中に背負った大きな桶を地面へと降ろして、筋肉をほぐすように肩を叩きながら何度も催促する。
「紫様、いいかげん……」
「さて、それでは行きましょう」
藍の言葉を遮って紫は歩き始める。
向かうは目の前にある博麗神社の社務所。かつては友人とその家族の住処だったその場所。今は、その友人の亡骸が安置されている場所。
藍は突然の出発に慌てて桶を背負い直すと、先を歩く紫へと小走りに続く。
「……また秤に掛けるのか」
紫は藍にも聞こえないような小さな声で呟いた。
その歩く速度は極めてゆっくりと、まるで社務所に辿りつく事を拒むような牛歩であった。
そして、それは事実なのだ。紫は胸中で、社務所へ友人の遺体を迎えに行くことを非常に躊躇っていた。
「ここで、待ってて」
縁側へと着いた彼女は、従者に庭で待っているように命令する。大天狗たちの洞穴へ入る時とは違い、これには藍も当然のように命令に従う。自分たちは、死体を引き取りに来ただけなのだから、主に危険が及ぶ可能性などない。
紫は靴を脱いで縁側に立つと、寝室と廊下を分け隔てる障子戸に手を掛ける。そしてふと、廊下に転がっているあるものに目がいった。
瓢箪である。妖怪が酒を入れるのによく使う瓢箪が、廊下に転がっている。栓も抜かれたそれを軽く足で蹴ってみると、がらんどうな音を立てながら転がった。中身は無くなっているようだ。
「お邪魔するわよ」
特に返事はなかった。
紫は静かに障子戸を開ける。――そして、部屋の真ん中で立ち尽くす幻武と目が合った。
「居たのね」
呟くと同時に、紫は部屋の中に足を踏み入れ、そして後ろ手に障子戸を閉めた。
幻武の目の前には、抜き身の刀が畳に突き立てられ、持ち主と同じ様に仁王立ちしている。
「幽夢の遺体を引き取りに、そして……。霊夢を、引き取りにきたわ」
「……そうか」
紫は一歩、幻武の方へと近づいた。
彼は眉一つ動かさず、腕を組んでただ立っている。
「幽夢との約束……そして、幻想郷を守る為に。私が霊夢を育て、結界を受け継がせ、博麗の巫女にする。……まだ幼いけれど、結界を張る力は十分に持っているはずよ」
「ああ、霊夢は……あいつの霊力を全て、受け継いでいるからな」
幻武はまっすぐに、紫を見据えながら答える。
ただ、その瞳は紫を見ようとしているのではなく、むしろ何処も見ていないようであった。
「霊夢はどこかしら? 幽夢の埋葬を終えたら、早速、私の方で預かるわ」
「さぁ、分かりません」
紫は更に幻武へと近づく。
それでも彼は微動だにしない。
「幽夢、連れて行っても良いかしら?」
「…………」
無言を了解と捉えて、紫は幻武の脇を通りすぎると、布団の中に眠る友人へと近づいた。
そして、その冷たくなった頬を撫でると、抱きかかえるように彼女の身体へと手を伸ばす。
――その瞬間、鋭い一閃が紫の首筋を貫いた。
咄嗟に飛び退いた紫の首は、ぱっくりと口を開いて鮮血を部屋中に飛び散らす。
よろめき、壁際に背中をついて首を抑えた紫は、右手に刀を握った幻武の姿を瞳に映した。
「幻武……!」
顔を真っ青にしながら、しかし予期していた展開に紫は臍を噛む。
幻武を一目見た瞬間に、その全身は“敵”を斬るための緊張を纏っていると分かっていた。そして対する幻武も、紫ならば、それを見抜いてくると分かっているはずだった。
故にこれは至極当然のような展開。しかし紫は、こうなる事を信じたくなかった。だから分かっていても、甘んじて首を差し出すような動きをとった。
「俺は……、俺は霊夢を守る。幽夢が命を賭けてそうしたように、霊夢を博麗の巫女にしない為にも、紫さん……貴方に霊夢を渡すわけにはいかない」
その瞬間、障子戸の裏に仕込まれていた御札が雷撃の光を放つ。部屋の中を青白い光が満たし、そして障子戸へと固く錠を掛けた。
それとほぼ同時に、外側から激しい衝突音が響き、紫の無事を尋ねる藍の叫びが聞こえ始める。が、彼女の力を以てしても、薄く脆いはずの障子戸は破られなかった。
「藍でも壊せないなんて。凄まじい結界ね。いつの間に、そんなものを張れるように?」
「幽夢の遺した御札を流用しただけだ。伊達に、巫女と何年も一緒に過ごした訳じゃない」
刀を両手で握りなおし身体の前に構える。そして、幻武の意思が紫にその刃先を向けた。
先程の不意打ちもそうであったが、彼の刀には混じりっ気のない純粋な殺気しか込められていない。一閃で相手の息の根を止めるという明確な殺意。それは彼が本気である事を、紫に嫌というほど伝えていた。だからこそ、紫はこのまま戦う事をよしとしなかった。
「幻武。幽夢の身に起こった悲劇には、私も心を痛めている。だけど、私はあの子と約束した……幽夢の身に万が一の事があれば、私が責任を持って霊夢を育てると。だから、貴方の考えに合わせる事は出来ない」
「それは違う。幽夢が死んでしまったとしても、まだ俺が生きている。俺が霊夢を育てれば良いんだ、博麗の巫女なんて関係なく。ただの女の子として」
「……あぁ。はぁ……あいつったら、大泣きしながら、そんな抜け道を私に作らせていたとはね」
紫は、幽夢と魂の契約を交わした、あの夜の事を思い出していた。そして、彼らの主張する屁理屈の仕組みを理解する。
だが両親の想いなど、紫には関係がない。当の幽夢は既に死んでしまったのだから、契約に縛られるのは紫のみだ。だから契約に則って、紫は意地でも霊夢を育て、博麗の巫女にしなければならない。そうしなければ契約不履行によって損害を被るのは、紫自身なのだ。
ただ、例え契約に縛られていなくとも、霊夢を育てる事は幻想郷の管理者としての責務。そして、何より紫自身の意思で遂行される事だった。
「確かに“幽夢と貴方の両方に万が一の事があった場合”という風にも捉えられるわね。でもね、それを抜きにしても……私は幻想郷の管理者。博麗の巫女を失う事も、そして貴方に易々と殺される事も、許されてはいない」
紫は出血の収まり始めた首筋から手を放すと、両手を広げて虚空を掴むように拳を握る。
それと同時に、彼女の周りに幾つもの“目”が現れた。空間の裂け目、その暗闇の向こうから“何か”の目が幻武を睨めつけ始めた。
「時間稼ぎか? 確かに、外の妖狐に掛かれば、こんな結界はすぐにでも破られてしまうからな」
「あら……もしかして、一対一ならば私に勝てるとでも思っているの? 幻武」
「勝てる、勝てないじゃない。俺は霊夢を守る、そして……幽夢の分まで共に過ごし、育てるんだ!」
幻武が一歩踏み出そうと足に力を入れた瞬間、その周りを囲っていた“目”が煌めいた。
そこからは人体を容易く貫く残忍な光線が放たれる。それが幾つも交差しながら、獲物を破壊しようと幻武を狙う。
「うらぁっ!」
だが、彼はそれを読んでいた。
幻武は気合の叫びと共に、後転しながら垂直に飛び上がると、辛うじて光線の魔手から逃れて“天井”に足を着けた。
そして一息もつかずに、そのまま天井を思い切り蹴りつけると、上方へと狙いを修正し始めた光線の照準を置き去りにして、一気にその懐へ飛び込んだ。
「はや……」
紫は一歩後ろに下がった。――確かに紫は先程、幻武の初撃を辛うじて躱した。だがそれは、幻武が不意打ちのつもりで不十分な構えから抜き放ち、かつ紫もそれを予見していたからこそ避けられたのである。
ただし、この一撃は、幻武が真正面から渾身の力で繰り出す一閃。そしてそれは、紫にも認識出来ない神速の一撃となる。
「い……!」
彼女の背中が壁に当たったのと同時に、その下腹部に向けて鋭い刃が突き立てられた。
妖かしの身体を軽々と突き破ったその刃は、背中の木材も一緒に深々と貫いて、紫の身体を壁と一つにさせた。
「あっ、あ……ぐぅ!?」
「入った……!」
壁に紫を磔にした幻武は、会心の言葉と共に、空いた左手で彼女の首元へと手をやる。そして躊躇の欠片もなく、万力のような力でその喉を握り潰そうとした。
「ま、待って……」
紫が辛うじて出した一声に、幻武は左手の力を緩める。一瞬でも遅れていれば、彼女の声帯は頚椎ごと握りつぶされていただろう。
幻武は、右手で握った刀を依然として紫の身体に突き立てたままで、それに応じる。
「……どうした、言ってみろ」
「待って……。なんでも言う事を一つ、聞いてあげるわ……だから……」
「命乞いか」
「ええ、そうよ。お願い、助けて……魂をかけて、契約するわ」
紫は苦悶に満ちた表情で足をばたつかせる。その衝撃で傷口が広がり、彼女の腹からは更に血飛沫が噴き出る。
幻武は一瞬の間を置いてから、ゆっくりと頷いた。
「……分かった。じゃあ、今から俺と……ひとつだけ契約をしてくれ」
「ええ、何……かしら」
幻武は青い吐息の紫の顔を見て、その表情を曇らせる。それは、先程までの憎しみに覆い尽くされた表情とはまるで違う。その事に紫は、少し眉を顰める。
彼の唇が微かに揺れている。それは、自分が発する言葉を探して迷っているようであった。
紫は腹から真っ赤な血を垂れ流しながら、静かに彼の言葉を待った。
「約束……」
そして遂に決意したかのように、彼の口が開かれる。紫も大きく固唾を飲んだ。
「幽夢との約束の通り……霊夢を、十二歳まで普通の少女で居させてやって欲しい。せめて、幽夢の望んだように……。霊夢が少女である間は、妖怪を関わらせないで欲しんだ」
「ど、どこかに、彼女を幽閉しろという事、かしら……? この幻想郷で、妖怪と……」
「そうなんだよ……幻想郷に住んでおきながら妖怪と関わらない、それは現実的に不可能だ……。だからせめて、八雲紫という“妖怪”だけでも……関わらないで欲しい。それを俺と契約してくれ」
「わ、私……?」
「あんたが全ての原因なんだ。あんたが関わる限り、霊夢には決して訪れはしない。――幽夢の望んだ時間は」
「わ、分かったわ。それを約束しましょう。私は幽夢の望んだ霊夢の“少女”という時間に、一切姿を残さないと誓う。魂の契約で……」
その言葉を聞くと、幻武は歯を見せて笑った。
しかし、それは勝利を喜ぶような笑顔ではなく、何か大きな達成感と喪失感による失笑に近かった。
それを見て紫は、苦痛に歪んだ表情から驚きと猜疑の入り交じった表情に変わる。
そして、彼の左手に込められていた力が一気に緩まった。全身を覆っていた戦いの気質が、急速に失われていくのを紫は感じた。
「幻武、貴方……」
紫は苦悶の表情を辞めると、自らの首を締めていた男の顔を見やった。
その顔は、達観という言葉が良く似合う男の顔貌だった。――つまり、幻武は全てを理解していた。
「紫さん……。ありがとう」
ぽつりと零されたその言葉で、紫もようやくその事を確信出来た。
この男は、全てを理解して自分との戦いに臨んでいたのだと。
「やっぱり、貴方って人は……」
「俺だって、分かってるさ。紫さんがその気になれば、俺なんか一瞬で消し炭にされちまうって事は……。最初から、俺の刃が届くはずなんてなかった。それでも貴方は、甘んじてそれを受けてくれた……」
「ま、待ちなさい。それは……」
慌てて否定する紫。しかし、彼女もそれが無駄である事を知っていた。
何故ならこの男は、最初から全て分かっていたのだから。
「俺の要求が『霊夢を巫女にしない事』だったら……貴方はどうしていたかな。幻想郷を守るために演技を辞めて俺を殺していたのか、それとも要求を飲んで俺と霊夢に幸せな日々をくれたのか……」
その答えは分からなかった。
戦いの中で真実だったのは、紫が最初から幻武を殺す気がなく、演技による命乞いをしようとしていた事。――それと、彼の刃が本当に紫へと届いていた事だけだった。
「でも、俺は死ぬのが怖かったから、その要求をしなかった訳じゃないぜ。もちろん、紫さんの気持ちが分かってたからでもない……。あれが、俺の本心なんだ。俺は……、俺は……家族を、守りたかったんだ」
「何よ。最初から分かってたのなら……何の意味もないじゃない、こんな芝居」
死ぬ覚悟で、全てを捨てて自分を殺そうとするであろう幻武に、紫はどう対するべきか答えを出せないまま、あの賽銭箱の前から離れた。
結論として彼女が思いつき実行したのは、幻武が今度こそ“家族を守った”という心の拠り所を得る為に、自分と契約を交わして霊夢を守らせるという手段だった。
その時にもし彼の言った通りに『霊夢を博麗の巫女としない事』を契約として幻武に提示された場合。紫は、自分が“幻想郷”と“幻武と霊夢”のどちらに天秤を傾けるのか、その時になってみなければ分からなかった。
――また、はたして自分がどちらを取るのかを、彼女自身も「答え」を知りたかったのかもしれない。
だが幻武は、それを自分に確かめさせてはくれなかった。彼は全てを理解し、紫が自分の為にわざと傷つく事を知っていた。そして紫の気遣いを、逆に気遣うように、そのシナリオに乗ったのだ。――ただひとつ、彼女の望む「答え」には逆らって。
「それじゃあ、紫さん。……さようなら」
「えっ、貴方……。あっ」
突然の別れを告げる言葉に、紫は一瞬呆気に取られた。
そして、紫が“その事”に気付いた次の瞬間。閉ざされていた障子戸が吹き飛んだ。
それを成し遂げた式神が、まるで小さな嵐のような勢いで室内に突っ込んでくる。その体躯は空中をまるで独楽のように高速で回転し、あるいは鋸のように空気を切り裂く。
彼女は式神である。目の前で主が串刺しにされているという重大な危機を見れば、それを排除する事に何の躊躇いもない。――そのように設定されているのだから。
「ら……」
紫が止める間もなく、藍は幻武の身体を引き裂いた。
彼の身体は上半身と下半身に真っ二つに切断されると、その勢いで天井高くまで吹き飛ばされる。
目の前で、二つの脚は力を失って崩れていく。真っ白な骨を僅かに覗かせながら、破片は部屋中に赤を撒き散らして落ちてくる。
彼の上半身はちょうど、幽夢の眠る布団の上に落着する。――その光景はまるで、仲睦まじく添い寝をする夫婦のようにも見える。
ほんの一瞬で、幻武は呆気無くその生命を失った。
「紫様、ご無事ですか……!? ……っ、そ、の……これは」
藍は回転を止めて床に足をつけると、いの一番に主の身を案じて叫んだ。
しかし周りの状況を見て、自分が行った事と、その成り行きを理解し、口ごもる。
「こ、これは」
藍は血と臓物で汚れた左手を凝視し、身体を大きく震えさせる。その常に凛として端然であった表情は、実に数百年ぶりに青ざめていた。自分が全てを台無しにしてしまったのだと察知し、藍は一瞬にして自責の念に駆られる。主がここまでに積み上げてきた全てを、自分の左手が一瞬で奪い去ってしまった。
だが主はというと、まるで何事もなかったかの様に平然とし、腹へと突き立てられた刀を引き抜いていた。そして、そこから噴水のように飛び出る血を抑えつけながら、いつもと変わらない調子で藍に命令を下す。
「大丈夫よ、ちょっと痛いけど。――藍、幽夢と幻武の亡骸を桶の中に」
「え? え、ええ。分かりました」
如何なる折檻も覚悟した式神は、その平然とした主の態度に動揺しながら、しかし言われた通りに二人の死体を運び始める。まずは上に重なっている幻武の方からだ。
藍は、己の殺した男の顔を見た。覚悟を決め、目を固く瞑っていたのだろう彼の死に顔は、あの凄惨な臨終に似合わず端然としている。6年前には救った命を、その手で奪った因果に藍は唇を噛んだ。
「ふぅ」
二つの死体を担いで部屋を出て行く藍を眺めながら、呑気な溜息をついた紫。彼女は、藍を責める気は全くなかった。
なぜならば、彼女の行動は式神として当然であり、責めるならばその式神を作った自分である。そして幻武の一連の行動が、死を覚悟してのものであったと読めなかったのも自分なのである。だから責めるのならば自分一人。全ては、この八雲紫の責任なのだと決めていた。
だからこそ、彼女は最後に一言呟いた。
「本当に馬鹿ね、貴方たち……。――人間は」
◇ ◇ ◇
庭先に置かれた二つの桶に、二人の亡骸が収められた。
もう見ることの出来なくなる友人たちの姿を、その網膜へ焼き付けるように、桶の中身を見つめてからゆっくりと蓋を閉める。
だが、彼女には悲しみにも後悔にも暮れる暇はない。次に行わなければいけないのは、幻武が何処かへと隠した霊夢の保護である。
自分よりも、よほど落ち込んでいるように見える藍の肩を扇子で叩き、紫は静かな声で命令する。
「さて、霊夢を探しましょう。まさか、幻武も変なところには隠していないはずよ」
「あの、桶はどうしますか? ここに置いたままだと、通りすがりの火車が持って行っちゃうかも知れません」
「……じゃあ、髪剃でも置いておきましょう」
紫は桶の上にそれぞれ剃刀を置くと、玄関に回って社務所へと入っていく。藍は庭に置かれた二つの大きな桶を一瞥してから、主へと再びついていく。
家の中は静かで、まるで誰も居ないようにしか感じられなかった。昨日の夜が耽るまでは、きっと3人の幸せな温かみがあった家は、今はただひんやりと木材の冷たさだけを内包している。
「失礼するわよ」
返事をする者はいないと知りつつも、紫は改めてそう発した。そして玄関から廊下へと足を上げる。藍は目を伏せながらそれに続いた。
普通、赤ん坊が家の何処かにいれば、すぐにでも泣き声が響いてきて居場所が分かるはずである。だが、こと霊夢に関してはそれが通用しなかった。
「霊夢は泣き叫んだりする子じゃないからねぇ。それが困ったわ」
「でも紫様、この家の中に隠れていると限ったわけじゃないですよ?」
「いいえ、ここに霊夢は潜んでいるわ。……幻武が、あの子を離れたところに置くとは思えない」
紫はとりあえず、玄関から一番近い部屋、居間へと足を運ぶ。閉ざされた障子戸を静かに開くと、紫の足が止まった。
「あ……ぇ?」
そしてその目は、室内のある一点に集中する。
まず目に入ったのは、開け放たれた押入れと、その下に転がっている刀の鞘。続いて、紫が目線を上にあげると――そこに霊夢はいた。
天井の近くでふわふわと、まるで風船のように霊夢は浮いていた。そして、それを見た紫は一瞬、目を丸くして無言になる。
「アッハッハッハッハ!」
次の瞬間。紫の笑い声が家中に響いた。
藍はその突然の行動に正気を疑って、慌てて声を掛ける。
「ど、どうしたんですか!? 霊夢が飛んでいるのが、それほど面白いですか!?」
「アッハッハハハ…………嵌められたわ、幽夢! それも、二代に渡ってね」
紫は霊夢へと手を伸ばして、その身体を優しく抱きとめてやった。
すると霊夢は、まるで木に登って降りられなくなった猫のように、腕の中に収められると同時に安心して笑う。
紫は「よし、よし」と軽く背中を叩きながら霊夢をあやそうとした。
「どういう事ですか、紫様。説明して頂きたいのですが……」
従者は主の大笑いの意味も、その後の言葉の意味も分からずに尋ねた。
紫は霊夢を胸の中にしっかりと収めると、珍しく勘の冴えない式神に解説を始めた。
「ふふふ、藍は霊夢が宙に浮いているのを見ても驚かないのね? これこそが、博麗の巫女たる所以だというのに」
「?? いや、良く意味が……」
紫は霊夢を抱いたままで縁側を進む。そして、その髪の毛を撫でてやりながら庭先へと彼女を案内する。
そこには二つの桶が置いてある。しかし、そこに両親の死体が入っている事など霊夢には分かるはずもない。彼女は桶よりも、その周りをただよう蝶々を目で追っていた。
紫はそんな赤ん坊の頭を撫でながら縁側に腰掛けると、藍に向かって解説を始める。
「今にして思えば、私もどうかしていたわ。幽夢が死んだというのに、今の今まで博麗大結界が張られ続けていた事に、何の疑問も抱かなかったなんて……」
それを聞いて藍もようやく、自分たちが見過ごしていた大きな矛盾点に気付いた。
幽夢が亡くなってから今までの丸一日。この幻想郷は依然として存在している。それは幽夢の亡くなった後も、博麗大結界が滞りなく張られていたという事実に他ならない。
「あっ、そういえば……!? すみません、私も気付いておりませんでした」
「仕方ないわ。常にその危機感は持っていても、まさか“博麗大結界が無くなる”なんて事は実際には起きた事もないし、想像も出来ない事だったから」
「……それで、その結界が健在な事と、さっきの話とは関係があるんですか?」
確かに博麗大結界に関する矛盾には気付いた。
しかし藍には、宙に浮いている霊夢を見て大笑いした紫の意図は、まだ理解出来ない。
「藍にしては勘が働いてないわね。つまりは、こういう事よ。――博麗霊夢は、産まれた時から既に博麗大結界を受け継いでいた」
藍は驚愕し、主の腕の中で欠伸をしている幼子に視線を向ける。
まさか、この小さな人間が博麗大結界を“今”張っているというのか? ――あれほど強力な論理結界を、乳飲み子のような子供が張れるとは、俄には信じられなかった。
それに、主と幽夢の間で口論してまで延長していた結界の受け継ぎの話は? 幽夢が結果として命を落とす事になった、生命を削ってまでの結界維持とは一体なんだったのだ?
動揺により頭が働かない事を差し引いても、まだ藍には到底納得が出来なかった。それを察した紫は、淡々と言葉を続けた。
「私も、前例があったのに気付けなかった。博麗の巫女が実子をもうけた場合、子は産まれた時より、その霊力と共に結界を受け継ぐ。そして、それは次代へと受け繋がれていく事で強くなっていく……。まるで“蠱毒”のように、世代が淘汰されて、残されたものは強大になる」
「と、言う事は……? 博麗霊夢が産まれた時より博麗大結界を受け継いでいたとしたら……。 博麗幽夢があれ程、身を挺して張り続けていた結界は一体何の意味があったのですか!?」
藍は未だに信じられなかったし、そして腑に落ちなかった。
霊夢が何の滞りもなく結界を受け継いでいられたのならば、こんな事にはならなかったはずだ。
幽夢が命を削って結界を張り、それが不安定な事を口実に妖怪に襲われる事もなかった。幻武と二人で幸せに暮らせていたはずだった。そして、自分も幻武をその手で殺す羽目にならずに済んだのに――
まるで紫を責めるように食いかかる藍に対して、紫は追憶に瞳を光らせて答える。恐らくは、友人がずっと胸に秘めていたであろう想いを想って。
「それは……。あの子が、霊夢と一緒にいたかったからよ。もし霊夢へと既に結界の受け継ぎが行われていると私にバレれば、幽夢は娘と離れなくてはならない。そうさせない為だけに、あいつは私も幻武も誰も彼もを騙して、既に霊夢が結界を張れるっていうのに、自分で結界を張ろうとしていたのよ。その枯渇した霊力を振り絞ってね。まぁ、しばらく前から霊夢が結界を引き継いだんでしょうけど。幽夢の意思に関わらず、限界を迎えて、ね」
「そ、そんな馬鹿な? そんな自殺行為を、そんな理由で……」
「人間はこれだから分からない。時に愛する人の為に、子供の為に、はたまた他人の為に、己の命を投げ打つ事が出来る……。――それが美しい」
紫は、あの墓場で幻武の母・ヨネと交わした会話を思い返していた。
結局、自分が何を秤に掛けても『幻想郷』という巨大な錘に打ち勝つものはなかった。そして敗れた全てを捨ててきた。だが、そんな幻想郷に固執せざるを得ない自分だからこそ、秤の傾きを無視した人間特有の行動に輝きを見るのではないかと、ようやく答えが出たのだ。
「楼夢もぼうっとしたようで、やってくれるわね。あいつも幽夢が6歳になるまで、娘が結界を張れる事を隠して、一人で頑張ってたのね。……ふふ、そりゃ歳の割に白髪も増える訳だわ」
今は亡き巫女たちの顔を思い返した彼女は、冥界で会ったら一発ガツンと言ってやろうと拳を握った。
楼夢だけではない、幽夢にもキツいお叱りを与えなければならない。ついでに幻武には、腹の傷のお返しもしなければならない。
「ちょ、ちょっと待って下さい。非常に言い難いのですが……」
藍は事の全てに理解が及んだところで、自分の意見を挟む。
「もし、霊夢が既に結界を張れているとすれば……。この子は何の修行もなしに、それを成し遂げているという事ですよね?」
「……そういう事ね。楼夢と幽夢、二代分の霊力を全て受け継いだのは、伊達じゃないってこと」
「そうならば……霊夢が結界を受け継いだとしても、両親と離れて暮らす必要はなかったのでは? 確か幽夢が『巫女が一人で暮らすのは修行の為』とか言っていましたが……」
「それは、違うわ」
紫は悲しそうに首を横に振る。
それが可能であれば或いは、自分が幽夢の企みに気付くことで、全てを解決出来たかもしれない。霊夢が結界を張り、夫婦が娘と一緒に神社で住むという筋書きも。――だが、それはもともと不可能なのだ。
「幽夢は勘違いをしていたのね。まぁ、私がわざと教えなかったんだけど。……博麗の巫女が一人で暮らさなければならないのは、何も修行の為だけではない。それは、博麗の巫女というものがあくまでも独立した存在であり、一つの勢力として意味を持たない為。幻想郷に仕え、他の者に肩入れをしない中立の立場である為よ」
「……では霊夢は、これからも一人で過ごすという訳ですか」
「そう、ね」
「あぶぅー」
長話に飽きたのか、霊夢はしきりに首を振って紫に何かを訴える。
頭に着けたリボンがなびいて、紫の胸元を何度も叩く。
彼女はまるで当然のように博麗大結界を引き継いでいる。自我もあるのか分からないような彼女が、ただ無意識に結界を張っているのだ。それには紫も流石に驚きを隠せない。だが、それ以上に彼女の呑気な表情と仕草には驚く、というか呆れていた。
「はぁ、親が死んだっていうのに呑気ねぇ。まるで何が起きているのか、分かっちゃいないんだから……。赤ん坊だから、当然かも知れないけど」
「そりゃそうでしょう。ところで紫様……。霊夢の事は、今後どうするおつもりですか? 幽夢と交わした約束、それに幻武と新たに交わされた約束……。どちらも遂行するには、矛盾しているように感じるのですが」
確かに、幽夢とは『自分が死んだら責任を持って霊夢を育てる』という契約をしたし、幻武とは『霊夢が少女でいる間は彼女の前に姿を現さない事』を契約してしまった。それらの矛盾を、紫はどう解決するのかと藍は気になっていた。
魂の契約に違反する事は、紫のような大妖でも下手をすれば、力を凋落させられるような痛手を負う可能性があるのだ。主を第一に考える藍からすれば、これからの心配事は、あの契約に集中する。
対して紫は「それについては、ちゃんと考えているのよ」とばかりに、涼しい顔で答える。
「そりゃ契約先が二つなんだから、同時に実行しようとすれば矛盾しているように感じるわね」
「それで、具体策はあるのですか?」
「育てるしかないわ。どうにか上手く解釈を変えて、契約不履行にならないようにね。曖昧な部分のこじつけは、あっちが先にやってきたんだから、文句は言わせないわ。……ね?」
そこで紫は、霊夢にも同意を求めるように視線を送った。だが、その幼子はただ手足をばたつかせるだけで、終いには紫から顔を背けた。
それを見て紫の顔が少し曇る。慌てて横から藍が、フォローするように口を挟んだ。
「もしかして、自由に動きたいんじゃないですかね?」
藍の言葉は幾分、的を射ていた。だから紫は、霊夢の好きにやらせる事にした。
「――博麗の巫女、博麗霊夢。……これから、よろしくね」
紫が手を離すと、霊夢は手足を振り回しながら、空中を泳ぐようにして黒い空へと浮き上がっていく。
月明かりに照らされて夜空を浮遊する幼き巫女は、まだ自分の周りに何が起きているかを、一切知りもしない。だが仕方のない事だった、それが彼女の性質なのだから。
彼女がそこから翔び立つのは、これからまだ先の話なのだから。
登場人物達が下した選択に、
博麗の巫女に、
大結界に、
幻想郷に、
霊夢(赤)が霊夢(幼)に次作でクラスチェンジするかに。
そんな様々な疑問が浮かんでくる第二話でありました。
先走りは感心しないぜ、俺。じっくり作者様の回答をお待ちするんだ、俺。
俄かに色々なサジェッションを帯び始めたような気がする作品名も含めて、
まだまだ貴方の作品から目が離せません。
幽夢の母の幻が幽夢に言ったように
みんな死に急いだという気持ちが強くてなりません
bestは無理でもbetterなら幸せになれたかもしれないのに
そういう気持ち的なものも含めてこの点で
しかし大天狗たちはなに考えてたんでしょうかね
ラストで紫が結界が消えるどうこう言ってたあたり死んだら勝手に巫女が受け継がれるわけではないのに
博麗大結界が消えてたらどうしてたんでしょ
こういう話弱いんだよなぁ。すぐ泣いてしまう。
続き楽しみにしています!
紫も藍も人間たちに振り回されて、損な役回りですね…。幻想郷管理がそれだけ痛みを伴う仕事だということでしょうか…。
過激派の考えが浅はかだったり、幽夢を殺しに来た部隊が6年前同様のチンピラであったことに多少の違和感は覚えましたが、捨置きましょう。
しかし幻武まで死んだ今、彼の強さの秘密について言及されることはあるのでしょうか。
果たして霊夢がどのように育つのか。
ただ、壱では物語単位、作品内のイベントという単位での拙速さがちょっと気になったのですが……今回はそれに比して、キャラクター個々の思考のレベルでの拙速さというかな、簡単に言うと、「(悪役も含めて)みんなもうちょっとちゃんと頭働かせてれば、もう少しマシな結末になったんじゃないの?」という感じが。物語の強制力に動かされてる感が少しあったかも。これに関しては、上に述べた「物語単位での拙速さ」とは違って、参以降で補填することはおそらくできないはずなので、わりと明確な瑕として目に付いてしまいました。
あと、もうちょっと構成というか……具体的に言うと、設定の出し方について、考える余地があるんじゃないかなとも思いました。と言うのも、幻武が死んだ後、紫が霊夢が見つけた場面を見て思ったことなのですが……ここで一気に種明かし、もとい隠されていた設定の説明がどどどどどっと為されているのが、なんだろう、この作品の不自然な歪みの部分というかな……言ってしまうと、ちょっと無理に話を進めてきた部分のツケを払っているかのように見えたのです。そしてこの場面、というかこの話でなのですが、最も気になったのが、『巫女が一人で暮らすのは修行の為』というのの扱い。これってはっきりいってこの話の主軸というか元凶になってる事柄なので、最後に紫がさらっと説明するだけじゃなく、もっと明確な背景というか、これがどうしようもない決定事項なのだというのを早い内に示してもらいたかったかもです。「紫ってばこんなに幽夢に肩入れしてるのに、なんで一緒に暮らすくらい認めてあげないんだろう?」と、ずっと思いながら読んでました。そんで最後に軽く説明だけされても「あ、そうなの……。あ、うん……」みたいな、なんかちょっともにょもにょかも。
……とまあ、好き勝手に書いてしまいましたが、このお話自体は凄まじく好きです。大好きです。よく書いてくれた、と拍手したいくらい。続きも心待ちにさせていただきます。