山寺の除夜の鐘が山並みに深く染み込んでいくのを聴きながら、私とメリーはお寺の近くの古びた民宿で新年を迎えた。正月に実家にも帰らず、下宿のある京都を離れて泊まり込んだのは、他でもない秘封倶楽部の活動のためである。
子年の正月にこの宿のどこかでネズミ浄土に繋がる穴が開く。その噂の真偽を確かめるために。
1
大学近くの行きつけのアンティークなカフェ。十二月最初のサークルミーティングでのこと。
「おむすびころりんという昔話、メリー知ってる? 日本だと、ほとんどの人が子どもの頃一度は聞いたことがあるってくらいとても有名なお話なんだけど」
私が話を切り出すと、メリーは「もちろん知ってるわ。ころりん、ころりん」と鈴を転がすような口調で繰り返してクスクス笑う。語感が気に入っているのだろう。笑い終わるとメリーは「それで、今回はどんな話かしら?」と期待に満ちた目を向ける。
実は「おむすびころりん」には「ネズミ浄土」とか「鼠の餅つき」と呼ばれる類話が全国に数多く分布している。例えば岩手県に伝わるのはこんな話だ。私はメリーに語って聞かせた。
昔、ある所にじい様とばあ様がおった。焚き木取りに山へ出かけたじい様が、弁当のきゃんば餅を食べようと包みを開くと、沢山の子鼠達がにおいにつられて集まって来た。
優しいじい様は、子鼠達に小さくちぎったきゃんば餅を一つ一つ手渡してあげた。喜んだ子鼠達は、じい様を担ぎあげて土の穴の中にある鼠の家に連れて行った。
そこには親鼠が待っていて、きゃんば餅のお礼にと、たくさんの鼠餅をじい様に渡した。夜になって家に帰ったじい様は、今日の出来事をばあ様に話しながら鼠餅の入った包みを開くと、なんと餅は小判に変わっていた。
それを見ていた隣の婆さんは、さっそく爺さんに大量のきゃんば餅を持たせて、翌日山へ行かせた。
隣の爺さんはきゃんば餅を大きいまま放り投げたので、子鼠達は餅に潰されて大騒ぎだった。それでも子鼠達は、隣の爺さんを担いで土の中の鼠の家に連れて行った。
鼠の家についた隣の爺さんは、鼠を脅して餅を全部奪ってしまおうと考え、猫の鳴き真似をした。すると驚いた鼠達は、明かりを消して一斉に逃げ出し、残された隣の爺さんは暗い土の中から出られなくなった
「類話では、最初に登場するのはおむすびではなくて餅であることが多い。餅は魂や生命力を象徴する縁起物でもあるのよ。それが異界へのトリガーになっているのであれば、おむすびよりは話の信憑性が上がった気がしない?」
私は焦らすように話を少しずつ小出しに展開していった。
「ふーん、餅が小判に変わるのも意味深長ねえ。そういえば昔はお年玉ってお金じゃなくてお餅だったらしいわ」
「それは関係あるのかしら……」
メリーも興味を引かれたらしく、自分の端末でしばらく調べものをして、人文学的な知見を披露してくれた。
「地中にある黄金。地中にある浄土。これは民間の浄土信仰を示しているわ。人々の想像する異界は、徐々に地中や山中へと追いやられていった。そこで、根の国=子の国という連想が働いて、鼠を地中世界の主人公にする民話が形成されたと考えられる。また鼠は中国では地中の金などの富をもたらす毘沙門天の使いと考えられている。こうしたイメージが出会って成立した話だと説明されているみたい。極楽浄土が地平線の単純な延長のどこにもないと悟った人々は、ユートピアという想像力を押し込むことができる空想の裂け目を探して、それを地下の鼠のエルドラドとして表象したのでしょうね」
「それでメリーの個人的見解は?」
「前述の説明はその通りだと思うけれど、これは〈幻想〉案件よ。きっと」
「同感!」
私たち二人にとって幻想という言葉は、もう一つの現実、普段は隠されているけれど確かに事実として世界に存在する諸対象・諸現象を指す。だから、秘密を暴くことで幻想を私たちの前に顕在化させることができる。そう考えている。
私たちの住む世界のすぐ裏側に、鼠たちの楽園がある。黄金を抜きにすると鼠というのがちょっと地味なイメージを与える話だけれど、そこがかえって零落した霊的世界の残滓としての実在感を備えている気がして、その世界が実際に「ある」のだと私たちは直観的に確信した。
「実はとあるルートで、子年の正月だけ鼠の都につながるという宿の噂を手に入れたの。大晦日から泊りがけで一緒に行ってみない?」
2
ひなびた駅から、窓という窓にAR広告を表示して風景をまともに楽しませてくれない馬鹿げたバスを乗り継いで、山間の民宿に到着する。
江戸時代に創業を開始したという宿は改修を経てもなお古さが目立っていたが、それ故の独特の風情を備えていた。
宿の傍の小径には苔むしたお地蔵さんが佇み、笠を被った女の子がお供え物を新しいものに取り換えている。東京なんて比じゃない田舎具合に私たちの気分は高揚した。
「情報によればこの宿がネズミ浄土への入り口よ。どう?」
「ここからは結界は見えないわね。でも結界が小さければ見えないのも変じゃないわ」
「小さいのかな」
「鼠よ? そりゃ小さいわよ」
メリーは変に断言した。
メリーと泊まる二人部屋は畳敷きの伝統的な和室で、何と鏡餅まであった。
夕食には大晦日ということで年越しそばが出て、私たちは大いに楽しんだ。
食堂の隣の台所から小学生くらいの女の子が料理を運んできてくれた。きっと宿の主人の家族か親戚で、冬休みに家の手伝いをやらされているのだろう。
「これは天然ものの蕎麦粉で作ったうちの名物」と得意気に話す様子が微笑ましく、「うちの宿までのバス、経営難だから馬鹿みたいに広告だらけなんだ。もっと他に工夫のしようがあるだろうに」と肩をすくめるのも面白い。
宿の初老の主人が「明日の朝食にはチーズを出しますよ。元旦の朝にチーズはそぐわない気もしますが、来年は子年ですからね」と妙な予防線を張ってくるのも何だかおかしかった。
半露天の湯船で長旅の疲れを癒しながら、メリーと他愛も無い会話をする。こんな遅くには、他に入る客もいない。
「ネズミ浄土で黄金をもらえたら、月旅行の費用をためるのも楽勝ね」
「こら蓮子。欲張ると失敗するわよ。昔話の教訓的に」
「分かってる分かってる。謙虚にやるから」
もちろん異界の住人への礼はちゃんと尽くすつもりだ。ここの郷土資料館の餅つき体験で搗いたお餅をお土産用にちゃんと小さく数十個に分けて持ってきている。そして大事なのは。
「メリー、猫真似禁止ね」
「とーぜん」
しばらく会話が途絶える。
「ところで、ネズミ浄土の、蓮子が話してくれたバージョンの最後のくだり、ちょっと怖いと思わない?」
「メリーもそう思う? 実は私もそう思ってた」
私もこの単純な因果応報譚としての見かけの背後の、それには解消しきれない、文字通り真っ暗な結末が妙に心に引っ掛かっていた。
”すると驚いた鼠達は、明かりを消して一斉に逃げ出し、残された隣の爺さんは暗い土の中から出られなくなった。”
「意地悪爺さんに罰を与えるだけならば、なぜ明かりを消すのか、暗い土の中に閉じ込めるのか。ここだけがあまりに異質な冥いイメージに満ちてるわ」
「じっさい、他の類話だと単純に意地悪爺さんが鼠にやられて家に逃げ帰るだけだったり、罰としてモグラにされたりとかだもんね。それに比べてこの結末の昏さは際立っていると思う」
「文学的にはね。こういう細部が構造よりも時に大事だったりすることもあるのよ。あるいは構造はある細部のイメージを成り立たせるためにこそ存在しているともいえるかもしれない」
近くの山寺の除夜の鐘が時折聴こえてくる。ずっと星空を見上げていると、世界全体が精巧な時計のようにチクタクと時を刻むのが身体全体で感じられる。
「0時0分ジャスト! あけましておめでとう」「あけましておめでとう! 今年もよろしくね」
3
浴衣で部屋に戻る途中、消灯された通路の暗がりに何か動くものを見つけた。
鼠だ。近づくとぱっと暗い廊下の向こうに逃げる。
一昔前なら衛生的に顔をしかめたものだろうが、今は天然の鼠自体が珍しい時代である。そして、今夜はこの鼠こそ私たちが求めていたものだった。
期待に胸を躍らせ、私たちは懐中電灯とメリーの動物的な直観だけを頼りにしながら、鼠を追って宿の暗がりを歩き回った。途中思いついて小さな餅を一つ袋から取り出してみたが、鼠は餅よりも私たちから逃げる方に関心があるようだった。
鼠は最終的に台所に逃げ込んだ。見失わないように私たちも急いで台所に侵入する。だが隅の方に逃げ込んだところまでは見えたものの、そこで忽然と視界から消えてしまった。
台所の隅には蜜柑の入った段ボール箱がある。これが怪しいと睨んでどけると、はたして裏の壁と床が接する幅木部分に、ちょうど鼠一匹が通れるくらいの穴を見つけた。
「ビンゴ!」
「うん、小さいけれど、結界の綻びがくっきりと見える」
穴の向こうからは金色の光が漏れ出している。黄金よりも自然な優しい色だ。耳を澄ますと、餅つきのような音に混じり、歌声のようなものが聴こえる。だが微かすぎて何と言っているかはっきりとは聞き取れない。
「蓮子、どう?」
「奥はこれ以上見えないわ。第一穴が小さすぎて、どうやって通ればいいのやら」
「指は入らない?」
「鼠に噛みつかれないかな」
「きっと大丈夫よ」
その時、台所の戸が開く音がして、背後から懐中電灯の光が差した。
「勝手にキッチンに入らないでほしいな」
呆れを孕んだ咎める声にぎょっとして振り向くと、夕食を給仕してくれた女の子がいつの間にか台所の入り口に立っていた。
小さな小さな背丈なのに、やけに堂々としている。その眼には微かな軽蔑の色があった。
「あの、ごめんなさ」
私は動転する気を落ち着けて謝罪しようとするが、女の子はそんな私の様子にお構いなしにつかつかと穴の傍まで移動して、ふうと大きなため息をついた。
「ああ、これはもう誤魔化しようがないじゃないか」
穴から漏れ出る光の揺らめきが不意に強くなり、部屋中をひときわ明るく照らした。
女の子の影が白い壁に不自然に大きく映る。影の頭の部分には鼠のような耳、腰の後ろには鼠のような細いしっぽがゆらゆら揺れている。
光源と影の位置関係もおかしい。目の前の子はどうやら人間ではないようだ。
彼女は通せん坊するように穴の前に立ち、私たちに険のある視線を向けた。
「君たちはここを通ることはできないよ」
女の子はただの客観的事実だというように淡々と告げる。
「私たちの世界はとても小さくて細やかだからね。特に金髪の君の、その猫みたいに気まぐれで乱暴な力にさらされたらどうなるか分かったものじゃない」
あまりにも唐突な拒絶だった。
隣でメリーが気まずそうに身じろぎする。
お土産のお餅を持ってきたことを言いだせる雰囲気ではなかった。そもそも、お餅の有無が問題ではなく、それ以前の何かが掛け違っていたのだ。私たちは、タブーの境界線を読み違えていた。階段があると思って踏み出した足が虚空を掻いてしまったときのようなひやりとする感覚。
女の子の纏っている雰囲気は、それが決して人間に害意を持つ存在ではないと告げていた。だからこそ、このにべもない拒絶には、自分たちが世界から異物として拒絶されたような奇妙な焦燥感を感じずにはいられない。
「ああ、言っておくが無理にこの結界を広げようなんて思わないでくれよ。それこそ全部おじゃんになってしまう」
私たちが何も言わないのを無言の納得と取ったのだろう。
「さ、分かったら出て行ってくれ」
彼女に促されるままに私たちが台所から出ると、扉は後ろですぐにぴしゃりと閉められた。
部屋の中からは鼠が何十匹もチュー、チューと鳴く甲高い声がしたが、私もメリーも戸を再度開けるほどの勇気はなかった。
部屋に戻るまで私たちはお互い無言だった。異界のほとりから日常へと帰還する廊下は果てしない長さに感じられ、永遠に続くように思われた。
「お断りされちゃった」
「門前払いとはねえ。中に入ることすらできないなんて」
部屋に戻り、寝る前に交わした会話はそれだけだった。
こんなに歯切れの悪い結末もない。
メリーがもっと愚痴を零すようなら私は元気付けてやるつもりだったが、彼女はずっと何か考え込んでいるようだった。
4
翌朝の朝食には、ご飯、味噌汁、鰈の煮つけに加えてチーズ入りのサラダが出てきた。奇妙な取り合わせだがサラダの味付けの工夫のためか案外よく合うと思った。
食後にあの子を探してみたが、宿のどこにも姿は見当たらなかった。
調理場の人に無理に頼み込んで台所を少しだけ覗かせてもらったが、昨日見つけた穴はどこにもなくなっていた。
鼠たちが昨晩急いで通り道を埋めたのだろうか。それにしては、どんなに目を凝らして見ても壁の色には全くのムラが無い。私にできることは、壁の向こうでこちらの様子に聞き耳を立てている鼠たちの姿を想像することくらいだった。メリーは隣で首を振った。結界の綻びもどうやら見えなくなってしまったらしい。
ネズミ浄土の類話の中には、お爺さんは鼠に言われる通り目をつぶって鼠の尾を掴むことで小さな穴に入ることができたという説明を加えているものがある。
しかし人と鼠の間の信頼関係がもう長いこと失われてしまった今では、鼠の尾を握って案内してもらうことはできないのかもしれない。
あの穴を通り抜けようとするならば、私たちはもっと小さくならなければならない。それは体の物理的なサイズのことだけではなく、言語化できない有り様の部分にも問題があるように思われた。とにかく、無理に入ってしまえば、きっと鼠たちの繊細な世界を壊してしまうのだろう。
ネズミ浄土の話で一番怖い部分は、意地悪爺さんが猫の鳴きまねをした後にぱっと明かりが消えてただ暗く冷たい闇だけ残るくだりだ。まるで最初から何も居なかったように一つの世界は消え失せてしまう。
これまで無遠慮な人たちが未知を探索することによって、数えきれない多くの小さな世界が踏み潰されてきたのかもしれない。意地悪爺さんが罰を受けるだけならまだいい。本当に怖いのは、私たちが取り結ぶことができたはずの関係が取り返しのつかないほど破綻して、あり得たはずの一つの世界が台無しになってしまうことだ。
結末に置かれた真っ暗な地中の闇は、沈黙を以て静かに人間の無遠慮に抗議しているかのようだ。
私たちの社会とかつて共にあった幻想たちは、世界から未知への畏怖が薄れたことで、いつの間にか昔話のあの鼠たちのようにどこかへ忽然と消えてしまった。
私たちに残されたのは、幻想の消えた冥い街だけ。この科学世紀に生きる私たちは、みな無自覚に小さな世界を踏み潰し続ける意地悪爺さんだ。生まれる前から意地悪爺さんの立ち位置が決定づけられている。
――だけど、そんなことがずっと続く人生は願い下げだ。
5
チェックアウトし宿を出る。
良く晴れて、すがすがしい風が吹く日だった。気温も昨日よりは高くなりそうだ。
宿を出て川沿いを歩く。初詣に行く家族連れと何組もすれ違う。
メリーが不意に「みゃーお」と猫の真似をする。それは妙に真に迫った声色だった。化け猫メリー。
「メリーと鼠系の異界は相性が悪かったかもね。くだらない道徳とかの話じゃなくて単純な相性」
メリーも頷く。
「これがウサギ穴だったら何とか入れたと思うんだけどなあ」
なるほど猫は狭い隙間でも入り込める。
「ウサギ穴をまず見つけて、そこで私は小さくなる。小さくなって小さい世界での力の使い方を身に着ける」
きっと不思議の国のアリスの話だろう。アリスは兎を追ってウサギ穴に入り、そこで身体を小さくする薬を飲む。それこそ虫ほどにも小さくなる。そうなれば鼠の穴に入ることも容易い。
「じゃあまずはウサギ穴を探さないとね」
「そう、何事にもステップを踏むことが重要なの。ネズミ浄土は高レベルステージだった。攻略順が大事なのよ」
メリーが迷い込む様々な異界には、それぞれ固有のルールが存在している。通常はそうした世界のルールと私たちの周波数がたまたま合致したときしか異界に入ることはできないはずなのだけれど、メリーの眼は周波数が外れていても、強引にその世界を暴いてしまう。
それはとても魅力的な力だ。だけど使い方次第では実は取り返しのつかない傷を様々な存在や小さな世界に与えるものなのかもしれない。
異界での振る舞い方を私たちが少しずつ学んでいけば、より繊細な異界にも、その在り方を壊してしまうことなく入っていけるようになるだろうか。
メリーがぽつりと零す。
「そういえば私たち、あの子に名前を訊いてない」
「そうだね」
「次はきっと友だちになるわ」
メリーの言葉は、不思議な予感のような響きに満ちていた。
子年の正月にこの宿のどこかでネズミ浄土に繋がる穴が開く。その噂の真偽を確かめるために。
1
大学近くの行きつけのアンティークなカフェ。十二月最初のサークルミーティングでのこと。
「おむすびころりんという昔話、メリー知ってる? 日本だと、ほとんどの人が子どもの頃一度は聞いたことがあるってくらいとても有名なお話なんだけど」
私が話を切り出すと、メリーは「もちろん知ってるわ。ころりん、ころりん」と鈴を転がすような口調で繰り返してクスクス笑う。語感が気に入っているのだろう。笑い終わるとメリーは「それで、今回はどんな話かしら?」と期待に満ちた目を向ける。
実は「おむすびころりん」には「ネズミ浄土」とか「鼠の餅つき」と呼ばれる類話が全国に数多く分布している。例えば岩手県に伝わるのはこんな話だ。私はメリーに語って聞かせた。
昔、ある所にじい様とばあ様がおった。焚き木取りに山へ出かけたじい様が、弁当のきゃんば餅を食べようと包みを開くと、沢山の子鼠達がにおいにつられて集まって来た。
優しいじい様は、子鼠達に小さくちぎったきゃんば餅を一つ一つ手渡してあげた。喜んだ子鼠達は、じい様を担ぎあげて土の穴の中にある鼠の家に連れて行った。
そこには親鼠が待っていて、きゃんば餅のお礼にと、たくさんの鼠餅をじい様に渡した。夜になって家に帰ったじい様は、今日の出来事をばあ様に話しながら鼠餅の入った包みを開くと、なんと餅は小判に変わっていた。
それを見ていた隣の婆さんは、さっそく爺さんに大量のきゃんば餅を持たせて、翌日山へ行かせた。
隣の爺さんはきゃんば餅を大きいまま放り投げたので、子鼠達は餅に潰されて大騒ぎだった。それでも子鼠達は、隣の爺さんを担いで土の中の鼠の家に連れて行った。
鼠の家についた隣の爺さんは、鼠を脅して餅を全部奪ってしまおうと考え、猫の鳴き真似をした。すると驚いた鼠達は、明かりを消して一斉に逃げ出し、残された隣の爺さんは暗い土の中から出られなくなった
「類話では、最初に登場するのはおむすびではなくて餅であることが多い。餅は魂や生命力を象徴する縁起物でもあるのよ。それが異界へのトリガーになっているのであれば、おむすびよりは話の信憑性が上がった気がしない?」
私は焦らすように話を少しずつ小出しに展開していった。
「ふーん、餅が小判に変わるのも意味深長ねえ。そういえば昔はお年玉ってお金じゃなくてお餅だったらしいわ」
「それは関係あるのかしら……」
メリーも興味を引かれたらしく、自分の端末でしばらく調べものをして、人文学的な知見を披露してくれた。
「地中にある黄金。地中にある浄土。これは民間の浄土信仰を示しているわ。人々の想像する異界は、徐々に地中や山中へと追いやられていった。そこで、根の国=子の国という連想が働いて、鼠を地中世界の主人公にする民話が形成されたと考えられる。また鼠は中国では地中の金などの富をもたらす毘沙門天の使いと考えられている。こうしたイメージが出会って成立した話だと説明されているみたい。極楽浄土が地平線の単純な延長のどこにもないと悟った人々は、ユートピアという想像力を押し込むことができる空想の裂け目を探して、それを地下の鼠のエルドラドとして表象したのでしょうね」
「それでメリーの個人的見解は?」
「前述の説明はその通りだと思うけれど、これは〈幻想〉案件よ。きっと」
「同感!」
私たち二人にとって幻想という言葉は、もう一つの現実、普段は隠されているけれど確かに事実として世界に存在する諸対象・諸現象を指す。だから、秘密を暴くことで幻想を私たちの前に顕在化させることができる。そう考えている。
私たちの住む世界のすぐ裏側に、鼠たちの楽園がある。黄金を抜きにすると鼠というのがちょっと地味なイメージを与える話だけれど、そこがかえって零落した霊的世界の残滓としての実在感を備えている気がして、その世界が実際に「ある」のだと私たちは直観的に確信した。
「実はとあるルートで、子年の正月だけ鼠の都につながるという宿の噂を手に入れたの。大晦日から泊りがけで一緒に行ってみない?」
2
ひなびた駅から、窓という窓にAR広告を表示して風景をまともに楽しませてくれない馬鹿げたバスを乗り継いで、山間の民宿に到着する。
江戸時代に創業を開始したという宿は改修を経てもなお古さが目立っていたが、それ故の独特の風情を備えていた。
宿の傍の小径には苔むしたお地蔵さんが佇み、笠を被った女の子がお供え物を新しいものに取り換えている。東京なんて比じゃない田舎具合に私たちの気分は高揚した。
「情報によればこの宿がネズミ浄土への入り口よ。どう?」
「ここからは結界は見えないわね。でも結界が小さければ見えないのも変じゃないわ」
「小さいのかな」
「鼠よ? そりゃ小さいわよ」
メリーは変に断言した。
メリーと泊まる二人部屋は畳敷きの伝統的な和室で、何と鏡餅まであった。
夕食には大晦日ということで年越しそばが出て、私たちは大いに楽しんだ。
食堂の隣の台所から小学生くらいの女の子が料理を運んできてくれた。きっと宿の主人の家族か親戚で、冬休みに家の手伝いをやらされているのだろう。
「これは天然ものの蕎麦粉で作ったうちの名物」と得意気に話す様子が微笑ましく、「うちの宿までのバス、経営難だから馬鹿みたいに広告だらけなんだ。もっと他に工夫のしようがあるだろうに」と肩をすくめるのも面白い。
宿の初老の主人が「明日の朝食にはチーズを出しますよ。元旦の朝にチーズはそぐわない気もしますが、来年は子年ですからね」と妙な予防線を張ってくるのも何だかおかしかった。
半露天の湯船で長旅の疲れを癒しながら、メリーと他愛も無い会話をする。こんな遅くには、他に入る客もいない。
「ネズミ浄土で黄金をもらえたら、月旅行の費用をためるのも楽勝ね」
「こら蓮子。欲張ると失敗するわよ。昔話の教訓的に」
「分かってる分かってる。謙虚にやるから」
もちろん異界の住人への礼はちゃんと尽くすつもりだ。ここの郷土資料館の餅つき体験で搗いたお餅をお土産用にちゃんと小さく数十個に分けて持ってきている。そして大事なのは。
「メリー、猫真似禁止ね」
「とーぜん」
しばらく会話が途絶える。
「ところで、ネズミ浄土の、蓮子が話してくれたバージョンの最後のくだり、ちょっと怖いと思わない?」
「メリーもそう思う? 実は私もそう思ってた」
私もこの単純な因果応報譚としての見かけの背後の、それには解消しきれない、文字通り真っ暗な結末が妙に心に引っ掛かっていた。
”すると驚いた鼠達は、明かりを消して一斉に逃げ出し、残された隣の爺さんは暗い土の中から出られなくなった。”
「意地悪爺さんに罰を与えるだけならば、なぜ明かりを消すのか、暗い土の中に閉じ込めるのか。ここだけがあまりに異質な冥いイメージに満ちてるわ」
「じっさい、他の類話だと単純に意地悪爺さんが鼠にやられて家に逃げ帰るだけだったり、罰としてモグラにされたりとかだもんね。それに比べてこの結末の昏さは際立っていると思う」
「文学的にはね。こういう細部が構造よりも時に大事だったりすることもあるのよ。あるいは構造はある細部のイメージを成り立たせるためにこそ存在しているともいえるかもしれない」
近くの山寺の除夜の鐘が時折聴こえてくる。ずっと星空を見上げていると、世界全体が精巧な時計のようにチクタクと時を刻むのが身体全体で感じられる。
「0時0分ジャスト! あけましておめでとう」「あけましておめでとう! 今年もよろしくね」
3
浴衣で部屋に戻る途中、消灯された通路の暗がりに何か動くものを見つけた。
鼠だ。近づくとぱっと暗い廊下の向こうに逃げる。
一昔前なら衛生的に顔をしかめたものだろうが、今は天然の鼠自体が珍しい時代である。そして、今夜はこの鼠こそ私たちが求めていたものだった。
期待に胸を躍らせ、私たちは懐中電灯とメリーの動物的な直観だけを頼りにしながら、鼠を追って宿の暗がりを歩き回った。途中思いついて小さな餅を一つ袋から取り出してみたが、鼠は餅よりも私たちから逃げる方に関心があるようだった。
鼠は最終的に台所に逃げ込んだ。見失わないように私たちも急いで台所に侵入する。だが隅の方に逃げ込んだところまでは見えたものの、そこで忽然と視界から消えてしまった。
台所の隅には蜜柑の入った段ボール箱がある。これが怪しいと睨んでどけると、はたして裏の壁と床が接する幅木部分に、ちょうど鼠一匹が通れるくらいの穴を見つけた。
「ビンゴ!」
「うん、小さいけれど、結界の綻びがくっきりと見える」
穴の向こうからは金色の光が漏れ出している。黄金よりも自然な優しい色だ。耳を澄ますと、餅つきのような音に混じり、歌声のようなものが聴こえる。だが微かすぎて何と言っているかはっきりとは聞き取れない。
「蓮子、どう?」
「奥はこれ以上見えないわ。第一穴が小さすぎて、どうやって通ればいいのやら」
「指は入らない?」
「鼠に噛みつかれないかな」
「きっと大丈夫よ」
その時、台所の戸が開く音がして、背後から懐中電灯の光が差した。
「勝手にキッチンに入らないでほしいな」
呆れを孕んだ咎める声にぎょっとして振り向くと、夕食を給仕してくれた女の子がいつの間にか台所の入り口に立っていた。
小さな小さな背丈なのに、やけに堂々としている。その眼には微かな軽蔑の色があった。
「あの、ごめんなさ」
私は動転する気を落ち着けて謝罪しようとするが、女の子はそんな私の様子にお構いなしにつかつかと穴の傍まで移動して、ふうと大きなため息をついた。
「ああ、これはもう誤魔化しようがないじゃないか」
穴から漏れ出る光の揺らめきが不意に強くなり、部屋中をひときわ明るく照らした。
女の子の影が白い壁に不自然に大きく映る。影の頭の部分には鼠のような耳、腰の後ろには鼠のような細いしっぽがゆらゆら揺れている。
光源と影の位置関係もおかしい。目の前の子はどうやら人間ではないようだ。
彼女は通せん坊するように穴の前に立ち、私たちに険のある視線を向けた。
「君たちはここを通ることはできないよ」
女の子はただの客観的事実だというように淡々と告げる。
「私たちの世界はとても小さくて細やかだからね。特に金髪の君の、その猫みたいに気まぐれで乱暴な力にさらされたらどうなるか分かったものじゃない」
あまりにも唐突な拒絶だった。
隣でメリーが気まずそうに身じろぎする。
お土産のお餅を持ってきたことを言いだせる雰囲気ではなかった。そもそも、お餅の有無が問題ではなく、それ以前の何かが掛け違っていたのだ。私たちは、タブーの境界線を読み違えていた。階段があると思って踏み出した足が虚空を掻いてしまったときのようなひやりとする感覚。
女の子の纏っている雰囲気は、それが決して人間に害意を持つ存在ではないと告げていた。だからこそ、このにべもない拒絶には、自分たちが世界から異物として拒絶されたような奇妙な焦燥感を感じずにはいられない。
「ああ、言っておくが無理にこの結界を広げようなんて思わないでくれよ。それこそ全部おじゃんになってしまう」
私たちが何も言わないのを無言の納得と取ったのだろう。
「さ、分かったら出て行ってくれ」
彼女に促されるままに私たちが台所から出ると、扉は後ろですぐにぴしゃりと閉められた。
部屋の中からは鼠が何十匹もチュー、チューと鳴く甲高い声がしたが、私もメリーも戸を再度開けるほどの勇気はなかった。
部屋に戻るまで私たちはお互い無言だった。異界のほとりから日常へと帰還する廊下は果てしない長さに感じられ、永遠に続くように思われた。
「お断りされちゃった」
「門前払いとはねえ。中に入ることすらできないなんて」
部屋に戻り、寝る前に交わした会話はそれだけだった。
こんなに歯切れの悪い結末もない。
メリーがもっと愚痴を零すようなら私は元気付けてやるつもりだったが、彼女はずっと何か考え込んでいるようだった。
4
翌朝の朝食には、ご飯、味噌汁、鰈の煮つけに加えてチーズ入りのサラダが出てきた。奇妙な取り合わせだがサラダの味付けの工夫のためか案外よく合うと思った。
食後にあの子を探してみたが、宿のどこにも姿は見当たらなかった。
調理場の人に無理に頼み込んで台所を少しだけ覗かせてもらったが、昨日見つけた穴はどこにもなくなっていた。
鼠たちが昨晩急いで通り道を埋めたのだろうか。それにしては、どんなに目を凝らして見ても壁の色には全くのムラが無い。私にできることは、壁の向こうでこちらの様子に聞き耳を立てている鼠たちの姿を想像することくらいだった。メリーは隣で首を振った。結界の綻びもどうやら見えなくなってしまったらしい。
ネズミ浄土の類話の中には、お爺さんは鼠に言われる通り目をつぶって鼠の尾を掴むことで小さな穴に入ることができたという説明を加えているものがある。
しかし人と鼠の間の信頼関係がもう長いこと失われてしまった今では、鼠の尾を握って案内してもらうことはできないのかもしれない。
あの穴を通り抜けようとするならば、私たちはもっと小さくならなければならない。それは体の物理的なサイズのことだけではなく、言語化できない有り様の部分にも問題があるように思われた。とにかく、無理に入ってしまえば、きっと鼠たちの繊細な世界を壊してしまうのだろう。
ネズミ浄土の話で一番怖い部分は、意地悪爺さんが猫の鳴きまねをした後にぱっと明かりが消えてただ暗く冷たい闇だけ残るくだりだ。まるで最初から何も居なかったように一つの世界は消え失せてしまう。
これまで無遠慮な人たちが未知を探索することによって、数えきれない多くの小さな世界が踏み潰されてきたのかもしれない。意地悪爺さんが罰を受けるだけならまだいい。本当に怖いのは、私たちが取り結ぶことができたはずの関係が取り返しのつかないほど破綻して、あり得たはずの一つの世界が台無しになってしまうことだ。
結末に置かれた真っ暗な地中の闇は、沈黙を以て静かに人間の無遠慮に抗議しているかのようだ。
私たちの社会とかつて共にあった幻想たちは、世界から未知への畏怖が薄れたことで、いつの間にか昔話のあの鼠たちのようにどこかへ忽然と消えてしまった。
私たちに残されたのは、幻想の消えた冥い街だけ。この科学世紀に生きる私たちは、みな無自覚に小さな世界を踏み潰し続ける意地悪爺さんだ。生まれる前から意地悪爺さんの立ち位置が決定づけられている。
――だけど、そんなことがずっと続く人生は願い下げだ。
5
チェックアウトし宿を出る。
良く晴れて、すがすがしい風が吹く日だった。気温も昨日よりは高くなりそうだ。
宿を出て川沿いを歩く。初詣に行く家族連れと何組もすれ違う。
メリーが不意に「みゃーお」と猫の真似をする。それは妙に真に迫った声色だった。化け猫メリー。
「メリーと鼠系の異界は相性が悪かったかもね。くだらない道徳とかの話じゃなくて単純な相性」
メリーも頷く。
「これがウサギ穴だったら何とか入れたと思うんだけどなあ」
なるほど猫は狭い隙間でも入り込める。
「ウサギ穴をまず見つけて、そこで私は小さくなる。小さくなって小さい世界での力の使い方を身に着ける」
きっと不思議の国のアリスの話だろう。アリスは兎を追ってウサギ穴に入り、そこで身体を小さくする薬を飲む。それこそ虫ほどにも小さくなる。そうなれば鼠の穴に入ることも容易い。
「じゃあまずはウサギ穴を探さないとね」
「そう、何事にもステップを踏むことが重要なの。ネズミ浄土は高レベルステージだった。攻略順が大事なのよ」
メリーが迷い込む様々な異界には、それぞれ固有のルールが存在している。通常はそうした世界のルールと私たちの周波数がたまたま合致したときしか異界に入ることはできないはずなのだけれど、メリーの眼は周波数が外れていても、強引にその世界を暴いてしまう。
それはとても魅力的な力だ。だけど使い方次第では実は取り返しのつかない傷を様々な存在や小さな世界に与えるものなのかもしれない。
異界での振る舞い方を私たちが少しずつ学んでいけば、より繊細な異界にも、その在り方を壊してしまうことなく入っていけるようになるだろうか。
メリーがぽつりと零す。
「そういえば私たち、あの子に名前を訊いてない」
「そうだね」
「次はきっと友だちになるわ」
メリーの言葉は、不思議な予感のような響きに満ちていた。
私も二人の入浴シーンの秘密を曝きたいです
すると驚いた鼠達は、明かりを消して一斉に逃げ出し、残された隣の爺さんは暗い土の中から出られなくなった
いい意味でバカバカしいオチの多い昔ばなしのなかでも たしかにこういう終わりは暗い側面があると感じます
異界に行くときはルールを守っていきたいですね
しかし民俗の衰退は民族の衰亡でもあります。昔話をアレンジした作品、面白かったです。
単純に秘封で年末年始旅行してるのもたいへんいいですね