私――博麗霊夢は空を自由に飛ぶことが出来る。大空を翔る鳥と並び、何者にも囚われず自由に飛び回ることが出来る。
一方、世の中には、空を飛ぶことどころか歩くことすらままならない人もいる。空を飛ぶ者からしてみれば、その気持ちは到底理解しがたいものかもしれない。現に私自身もそうであった。
しかし、空を飛ぶ者にだって飛ぶことが出来ない時期があったはずだ。空を翔る鳥がまだ雛鳥だった頃、空を飛ぶことが出来ただろうか?
私にだって飛べない時期があった。まだ幼い頃、私は亀の背中に乗って空を飛んでいた。私は修行を重ねに重ね、自力で空を飛ぶことができるようになったのだ。
さて、ここから話が変わる。ここからは、私がこんなことを考えるきっかけを話そうと思う。
――それは、まだ肌寒い春が始まったばかりのこと。
*
私がそのとき彼に声をかけたのは、彼が久しぶりの参拝客だったからではなく、松葉杖をついて非常に歩き辛そうにしていたからだと思う。
「支えててあげようか?」
松葉杖で身体を支えながら財布を取り出すのに悪戦苦闘していた彼に、箒で掃き掃除をしていた私は声をかけた。
歳は私より少し下くらいだろう。背丈は低く、身体は病的に細い。非常に長い髪のせいで一瞬女かと疑ったが、一応男のようだ。あまり顔色の良くない顔にはまだ幼さが残っている。身につけている服の素材から良いところの坊ちゃんだということがうかがえるが、服装はどう見ても寝巻きに外套を羽織っただけだ。靴も外履きの物ではなくスリッパだ。
「いえ、お構いなく」
彼は私の方を見て痛々しく笑いながら答える。
しかし、その言葉とは裏腹に、彼の身体の揺れは次第に大きくなり、最後には「わっ!」とバランスを崩してしまった。
「いよっと」
とっさに私は彼の身体を支える。
……彼の身体は恐ろしいほど軽かった。
「あ、すみません」
「いいのよ。ほら、お賽銭入れるんでしょ? 私がこのまま支えといてあげるから、早く財布出して」
「え? そこまでしてもらったら悪いですよ」
「いいのいいの。人の好意は素直に受け取っておきなさい」
私がそう言うと彼は「わかりました」とうなずき、財布を取り出してその中の小銭を一つ、賽銭箱の中に放り投げた。
ことん、と寂しい音が鳴る。
彼が財布を仕舞うのを確認すると、私は彼を立たせてやった。
「足、悪いの?」
そんなことはないだろうなと思いながら、私は彼に訊く。
「いえ」彼から予想通りの答えが返ってくる。「身体全体が悪いんです」
「なるほど、それで神頼みってわけね」
「まあ、それも気休め程度にしかならないでしょうけどね」
彼は弱々しく苦笑しながら言う。
失礼な言葉だが、正直私もそう思う。この神社神様いないし。
「それなら、こんな神社よりも永遠亭にでも行ったほうが良かったんじゃないかしら?」
「一応、一度永遠亭の先生に診てもらったことがあるんですよ」
「あら、そうなの」
「余り良くはならなかったんですけどね」
彼はどこか痛々しく笑った。
私が思うに、この状態じゃあ帰りは確実に倒れてしまうだろう。とりあえず、休ませてやった方が良いだろう。
「あんた、家は里?」
「ええ」
彼は不思議そうに私の質問に答える。
「一人でここまで来たの?」
「はい。そうですけど」こんな状態で一人じゃなかったら、普通誰か傍に付いてる。
「とりあえず上がってお茶でも飲みなさいよ。その身体を引きずってここまで来たみたいだし、疲れたでしょ?」
「え? それは流石にだめですよ。悪いです」
「いいのよ。ここであんたをほっといたら私の胸も痛むし、何より私の評判が下がるわ」
そう言いながら私は彼を抱えて持ち上げた。
意外と軽い。私は運動神経は良い方で割りと力もあるが、これはあまりにも軽すぎる。
これくらいの体重なら、後で送ってあげてもいいかもしれない。
私は彼を茶の間で下ろし、ちゃぶ台の前に座らせると、「ちょっと待ってて」と言って台所に向かった。
お茶は……いつも魔理沙に出してる安いので良いか。それに饅頭でもつけておこう。
お茶を入れ、饅頭と一緒に持ってゆく。
彼は突然茶の間に入れられてしまったせいか、どこか落ち着かない。休ませてあげようかと思ったが、これじゃあ逆効果だったかもしれない。
とにかくお茶を飲んでもらおう。これで落ち着いてくれるだろう。
私は湯飲みにお茶を入れ、彼に渡した。
「はい。熱いから気をつけて」
「あ、は、はい」
彼は私からお茶を受け取ると、ふうふうと冷ましながら湯飲みに口をつけた。
「あの……」
「何?」
彼は中身が半分まで減った湯飲みを置くと、私に訊ねてきた。
「いつも、こうやって参拝客を上げてお茶を出してるんですか?」
「いや、そんなことないわよ。あんたがそのままだと倒れそうだったからちょっと手を貸してあげただけよ」
そもそも参拝客が少ないことは言わない。
「それよりあんたの方こそ、そんな身体でどうして神社なんかに来ようって思ったのかしら? さっきは神頼みって言ってたけど、その身体じゃあ自棄になって無理をしているだけにしか見えないわよ」
「……………」
彼はうつむいて何も言わない。
まったく、これじゃあまるで私が説教してるみたいじゃないの。
「別に私はあんたを攻める気も叱る気もないわよ。ただあんたが無理をしてうちに来た理由が気になって仕方がないだけ。だから、話してみなさいよ」
これだけ無理をしているんだ。何か理由があってここに来たのかもしれない。しかし、これだけ悪い状態の身体を引きずるような理由があるのだろうか?
この身なりでそれはないだろうが、もしかすると家に居ることができない理由でもあるのだろうか?
「……特に理由はないです。ただ単に、外に出たかったんです」
彼は重い口を開くと、ぽつりと呟いた。
外に出たかった、ね……。
「僕は小さい頃からずっと身体が弱くて、ほとんど外に出られなかったんです」
「まあ外に出たかったってのは分かるけど、無理はだめよ。特にうちの前で倒れられたらたまったもんじゃないもの」
「……そう、ですよね。無理はいけませんよね」
彼はそう言いながら笑った。
なんだか胸に何かが引っかかるような笑いだ。
「ところであんた、名前、なんていうの?」
「え?」
彼は困惑した表情を見せる。
「ほら、名前が分からないと何て呼べばいいか分からないじゃない。いつまでも“あんた”って呼ぶわけにもいかないし」
「まあ、そうですよね。僕、翼っていいます」
「翼、ね」
翼。そんな名前にもかかわらず、飛ぶことも出来ず、歩くことすらままならないとは悲しい話だ。
「私は霊夢、知ってるでしょ?」
「ええ、知ってますよ。有名じゃないですか」
まあ、博麗の巫女だし当然か。
「早速だけど翼。少し休んだら、あんたを家に送ってあげるわ」
「え? 家って、僕の家にですよね? どうやってですか?」
「飛んでくのよ。決まってるでしょ? あんたくらいの体重なら、別に担いでも問題なさそうだし」
私はふふっと笑ってやった。
翼は困った顔をして唸った後、「なら、お言葉に甘えましょうか」と言った。
「任せときなさいよ」
*
三十分ほど翼を休ませてから、私たちは外に出る。風良し。さっさと行こう。日が暮れる。
「さ、乗って」
私は翼に背を向け、腰を低くして言う。
「……本当にやるんですか? 大丈夫ですよね?」
「無理だったら無理って言うから気にしなくてもいいわよ。さ、早く」
翼は躊躇いながらも私の背中にしがみつく。やはり彼の体重は軽い。おかしいほど軽い。
と、翼を背負ったところで松葉杖の存在に気がつく。これはどうしようか。流石に人一人背負ってる状態で松葉杖を持つわけにも行かない。
「松葉杖、どうする?」
「置いといてもらっても構いません。家にスペアが何本かありますから」
「分かった。後で持ってく」
さて、これで準備完了。
「翼、行くよ」
言って私は浮かび上がる。
「わっ、わっ、わっ」
身体が浮くという慣れない感覚のせいか、翼が慌てた声を上げる。
「暴れないでよ。つかまってれば大丈夫。私もなるべく低めに飛ぶから」
「は、はいっ」
私にしがみつく翼の力が、微かに強まったのを感じた。
神社の屋根にとどくほど高度を上げ、人里に向けて飛ぶ。
私が飛ぶスピードはそれほど速くない。だいたい人が走る速さより少し速いくらいだ。
「うわぁ……」
初めて見る光景に、翼が思わず声を上げる。
「……今、本当に飛んでるんですよね?」
「ええ、飛んでるわよ。見れば分かるでしょ?」
私は背中の翼を見る。
翼は長い髪をなびかせ、無邪気そうな笑顔を浮かべている。先ほどの弱々しい顔が嘘のような良い笑顔だ。
…………なにをそんな見てるんだ、私は。
私は前を向く。
「……すごい。今、僕、空を飛んでるんだ……」
翼が歓喜の声を上げた。
「霊夢さん。霊夢さんは毎日飛んでるんですか?」
「いや、毎日ってわけじゃないわよ。でも頻繁に飛んでるわね」
「飛ぶのって大変じゃないですか? 体力とか必要じゃないですか?」
「大変ってわけではないけど体力は使うわね。まあ、走るよりかは体力使わないかな?」
「それにしても、すごい光景ですね。木々や道が小さく見える。こうして見ると、幻想郷って結構広いんですね」
「そう? そうでもないと思うけど」
翼はどうやら初めて見る空から見た幻想郷の風景にかなり興奮しているようだ。
――私が初めてこの光景を見たとき、どんな気持ちだったかな?
しばらく飛ぶと、人里が見えてきた。
「家、どの辺りにある?」
「北の方にあるあの大きな家です。ほら、あそこの」
翼が指した方を見ると、確かに大きな屋敷が見えた。魔理沙の実家にも劣るとも勝らない大きな屋敷だ。
「へぇ、あんたお金持ちなのね」
「次男坊で病弱な僕には無いようなものですけどね」
翼は苦笑しながら言った。
私は屋敷に近づくと高度を下げた。
「で、どこから入る? あんたのそのなりを見る限り、こっそり抜け出してきたみたいだけど」
「正面からでお願いします。恐らく僕が抜け出したことはもうばれてますから」
「わかった」
私は翼の言う通りに屋敷の正面の方に飛んだ。
屋敷の門には中年の門番らしき男が一人立っている。
トラブルにならなければいいが……。
「とりあえず、降りるわよ」
「はい」
私はさらに高度を下げる。
すると門番がこちらに気づき、ぎょっと驚いた顔をした。まあ無理もないだろう。
私は門の前に降り立った。
「ただいま」
翼は私の背中から降りると、私に支えられつつ言った。
「翼様! どこへ行っておられたのですか!?」門番が声を上げ、翼へ駆け寄る。「お姿が見られなくなって皆様必死に探しておりましたぞ!」
「ごめんごめん」翼は苦笑する。「博麗神社に行ってたんだ」
「とにかく、旦那様方に無事をお伝えください。それから――博麗霊夢様ですね?」
「はい?」
不意に門番が私に話しかけてきた。私は用は済んだから帰ろうかと考えていた。
「私は職務上ここから離れるわけにはいけませんので翼様を旦那様方のところまで連れて行っていただけませんでしょうか?」
「……しょうがないわね」門番としてはどこかの誰かさんとは違って優秀だが、客を使うのはどうかと思う。「任せなさい」
「では、よろしくお願いいたします」
門番に見送られながら、私は翼を支えながら門をくぐった。
「あの……すみません」
翼が謝る。
「いいのよ」私は翼に笑いながら言う。「門の前で白昼堂々と昼寝をしないだけマシよ。それより、もう一回おぶってあげようか?」
「……遠慮しときます」翼は照れたように顔を赤くしてうつむいた。「流石に家族の前で背負われるのは恥ずかしいですから」
まあごもっともだ。
門をくぐってすぐに屋敷の扉が見えた。
私たちが屋敷の中に這入ると、数人の使用人らしき人たちがこちらを見て「翼様!」と叫んだ。
使用人たちに挨拶をすると、私たちは旦那様と奥様――翼の両親の元へ案内された。
案内されながら、私は屋敷の中を見回す。
広い板張りの廊下にたくさんの襖。和洋折衷の屋敷のようだ。
すれ違う使用人がみんな挨拶する。なんというか、私にとって不思議な光景だ。
食卓のような大きな部屋に案内され、這入るとそこには初老の男性と女性がいた。おそらく翼の両親だろう。
「おお、無事だったか」
翼の父が安堵の表情を浮かべながら言う。
「身体は大丈夫なの?」
翼の母が心配そうに訊く。
その問いに翼は「大丈夫」と微笑して答えた。
「博麗霊夢様」
「はい?」
私は翼の父親に急に名前を呼ばれ、驚いた。
「このたびはうちの息子が多大な迷惑をかけて誠に済みませんでした」
「あっ、いや、それほどでも……」
夫婦揃って頭を下げられたので私はたじろぐ。
ただ私は、神社の前で倒れられると困るから手を貸しただけなんだけど……。
「翼、疲れたれただろう。もう部屋に戻りなさい」
「はい」
翼は使用人に支えられながら、自分の部屋に戻っていった。
さて、私も――
「霊夢様」
翼について行こうかと思ったところで、翼の母親に呼び止められる。
「これからも遊びに来てくださいな。あの子、身体が弱くてあまり外に出られなくて友達がいないんです」
「……まあ、暇な時に」
私はそう言うと、翼の両親の元を後にした。
*
「それにしても、屋敷を抜け出しといてよく叱られなかったわね」
私は布団に入って座っている翼の横で、胡坐をかいて呟いた。
「あんたの両親、いっつもあんな感じなの?」
「まあ、いつもあんな感じですね」翼はぽつりと答える。「きっと僕がこんなのだから叱るに叱れないんでしょう」
「子供が病弱になったのは自分たちの責任だと思っているわけね……」
私はそういう考え方が好きじゃない。
「あんたは両親のこと、憎んでるの?」
「まさか」翼は笑いながら答えた。「僕がこうして生きていられるのは父と母のおかげですから」
「まあ、そうよね」
それを聞いてすこし安心した。
「そうだ、これからたまにあんたに会いに来るから」
「え?」
翼が驚いた顔をする。
「あんたの両親に頼まれたのよ。あの子、身体が弱くて友達がいないってね」
「まあ、友達がいないのは事実ですけど……」
「もしかして、嫌だったかしら?」
「い、いいえ!」私が訊くと、翼は顔を赤く染めながら否定した。「嫌じゃないです。むしろ、うれしいくらいです! 今まで部屋で寝てばかりで、友達が一人もいなかったものですから。でも、神社の仕事とか、妖怪退治とか、忙しくないんですか?」
「別に大丈夫よ。暇なわけじゃないけど、それほど忙しくもないから」
私は笑いながら言う。本当は参拝客が無く、妖怪退治の仕事が来なければ暇で暇で仕方が無いのだが、そこはあえて言わない。
「だからあんたは気にせず私が来るのを楽しみにしていればいいのよ」
「……わかりました。楽しみにしています!」
翼はとても明るい笑みを浮かべた。
「それじゃあ、そろそろ帰るわ。あんたも疲れてるだろうしね」
そう言いながら私は立ち上がり、部屋を出ようとした。
「霊夢さん」
襖を開こうとしたところで呼び止められる。振り返ると、翼が手を振っていた。
「今日は本当にありがとうございました。それじゃあ、また」
「……じゃあ、またね。ちゃんと寝なさいよ」
私は手を振り返すと、襖を開けて部屋の外に出た。
「博麗さん」
襖を閉めたところで声をかけられる。振り向くと二十代くらいの身なりの良い男が立っていた。
翼が自分は次男坊だと言っていたことを考えると、おそらく翼の兄だろう。
「貴方は……?」
「翼の兄です」
予想通りだ。
ところどころ似ているところはあるが、身長や体型などは翼とは正反対だ。背は高いが少し小太りしている。
「私に何か?」
「挨拶のついでに、少しお願いしたいことがありましてね」
翼の兄は言いながら少し笑う。
「お願い?」
「ええ」頷くと、表情が真剣なものに変わった。「もし貴女が面白半分や半端な気持ちで弟に付き合おうというのなら、弟に会いに来ることを早めに止めてほしいのです」
「……え?」
それはどういうことなのだろうか?
翼の兄は困惑する私に構わず続けて言う。
「弟を期待させておいて裏切る行為や、悲しませるようなことをしないで欲しいのです。弟は――」と、そこまで言うと言葉を止め、翼の兄は咳払いをした。「とにかく、お願いします」
「……わかりました」
よく分からないが、とにかく翼の気持ちを考えて行動すればいいのだろう。
私は頷いた。
「さて、玄関まで送りましょう」
私は翼の兄と使用人たちに見送られ、屋敷を後にした。
*
そしてその翌日の昼下がり、私は散歩に出ることにした。
何年ぶりだろうか? しばらく散歩なんてしていなかったような気がする。
神社と人里の間の林で、私はふと空を見た。雲のほとんどない、春の始まりの空が広がっている。
ああ、そういえば空自体を真剣に眺めるのもすごく久しぶりのような気がする。飛べるようになる以前は、空に恋焦がれていつも眺めていたのに。
私が一人で空を飛べるようになったのは確か14歳の頃だった。妖怪退治の才能に恵まれていた私は、なぜか基本であるはずの空を飛ぶことが苦手だった。身体を浮かべればすぐにバランスを崩し、持続時間もほんの数十秒。そのことでいつも先代に皮肉を言われていた。
先代が引退し、私が博麗の巫女を受け継いでからも、私はなぜかうまく飛べなかった。いつも異変を解決する時は亀の玄爺の背中に乗っていた。そのことで出会ったばかりの魔理沙にからかわれたことを今でも憶えている。
修行して一人で空を飛べるようになったとき、私はまるで世界が変わったかのような感動を味わった。翼が私の背中で味わったあの感動を、私も確かに味わったのだ。
私は――忘れていた。
自分が空を飛べるのが当たり前のことだと思って、私はあの感動を忘れていたのだ。
「何で、忘れちゃったんだろうな……」
私はぽつりと呟いた。
*
「翼、元気?」
数日後、私は再び翼の家を訪れた。
「霊夢さん、こんにちは」
翼は布団に入ったまま上半身を起こすと、私に挨拶した。彼の顔色はそれほど悪くはない。一応大丈夫そうだ。
「おかげさまで今はだいぶ楽です。わざわざ来てくれて済みません」
翼は少し笑みを浮かべて言う。
私は「いいのよ」と笑いながら、翼の布団の横に胡坐をかいて腰掛けた。
「饅頭買ってきたけど、食べる?」
私は手提げの鞄からここに来る前に買ってきた饅頭の箱を取り出した。里で評判の饅頭だ。高い果物より、こういった庶民的なものの方がこの屋敷では珍しいんじゃないかと勝手に思って手土産に持ってきたのだ。
「そうですね。せっかくだし、いただきましょうか」
「じゃあお茶、は――」そういえば私は客だ。自分で入れる必要は無い。「使用人の人に頼んで入れてもらってくるわ」
「お願いしますね」
私は部屋から出ると、そこら辺で掃除をしていた中年の女性の使用人を見つけ、お茶を入れてもらえるように頼んだ。
部屋に戻って待っていると、別の使用人が湯飲み二つと緑茶の入った急須をお盆に乗せて持ってきた。
それを受け取り、湯飲みにお茶を入れ、饅頭の箱を開ける。
「さ、召し上がれ」
「はい」
二人で饅頭をかじる。
美味い。丁度良い甘さだ。流石、少し高かっただけのことはある。
「美味しいですね、この饅頭」
翼が笑いながら言う。
「そうね」私は湯飲みに口をつける。「実は私もこの饅頭を食べるの初めてなのよ。この前うちに来た人が美味しいよって言ってたからちょっと気になって買ってきたのよ」
「そうなんですか」翼は再び饅頭を少しかじる。「……そういえば、博麗神社ってどんな人が来るんですか? 僕が聞いた話では人があまり来ないとか、妖怪が来ることがあるとか」
「ああ、そうね」
私は神社にやってくる人たちや妖怪たちのことを翼に語り始めた。
ほとんど毎日のようにやってくる誰かさんのことも――
来るたびに私を困らせる迷惑な隙間妖怪のことも――
神社で勝手に宴会を開く鬼のことも――
追い返しても追い返してもやってくる新聞記者のことも――
いつしか話は異変の話になっていた。
翼は眼を輝かせ、私の話を夢中で、楽しそうに聞いていた。
私はなんだか話すのが楽しくなってきて、次から次へと話をする。
どうしてしまったのだろう? 私はこんなに自分のことを話すような人間ではなかったはずだ。
にもかかわらず、私はどんどん自分のエピソードを翼に語る。彼に知ってほしい。そして、喜んでもらいたい。私はなぜ自分がそんな気持ちなのか、まったく分からなかった。
気がつくと、もう日が暮れ始めていた。
「もうこんな時間ですね」
「そうね」
「あっという間でしたね。僕としてはまだちょっと物足りないです」
翼が笑いながら言う。
「話くらい、またしてあげるわよ」そう言って私は腰を上げると、お盆に湯のみを乗せ、立ち上がる。「饅頭の残りは……持って帰ってもいいかしら?」
「いいですよ。どうせ僕は一人の時は食べませんし」
「そう。んじゃあ、また来るわ」
「はい。また」
なんとなく、帰るのが惜しかった。
私は部屋を出ると、使用人にお盆を渡し、屋敷を後にした。
*
私が神社に帰ると、魔理沙が茶の間でお茶を飲んでいた。
魔理沙は私の姿を見ると、へらへらと笑いながら「おお、遅かったじゃないか」と言った。
「……何やってんのよ、あんた」
私は魔理沙の正面に座る。
「まあまあ、とりあえず茶を飲めよ」
魔理沙は私の問いを無視し、どこからともなく湯飲みを取り出してお茶を入れ、私に差し出した。
……ここは私のうちなんだけど。
「あのさ、お茶はいいから私の質問に答えなさいよ。なんであんたがうちにいるわけ? っていうかどこから這入ったのよ」
「ちゃんと玄関からだぜ」魔理沙は玄関の方を指差した。「紫じゃあるまいし、変なところから入れるわけがないだろう?」
「玄関からって、そんな、私、鍵したはずよ」
「開いてたぜ、鍵。だからこうして留守番してたんだ。感謝しろよ?」
そう言って魔理沙はウィンクして見せた。
何か腹立つ。
「とりあえずメシの用意をしようぜ。もう日も暮れたし、腹が減った」
「あんた、まさかうちで食べるつもり?」
「そのまさかだぜ。留守番の礼だ」
「まったく、あんたは図々しいわね……」
私は呆れてため息をつく。
「あ」
ふと、私は重大なことに気がつく。
「夕飯の買物してない」
「……え?」
「魔理沙、私外食するわ」
そう言って私は立ち上がる。
「私も一緒に行くぜ」
「いや、あんたは帰りなさいよ」
「まあまあ、せっかくだし、たまにはいいじゃないか」
「……奢らないわよ」
「分かった分かった」
魔理沙は立ち上がると、「乗ってくか? お前より速いぜ」と愛用の箒を手にとって言った。
「いや」私は首を振る。「たまには歩いていきましょ」
「……どうして?」
魔理沙はわけが分からないと言いたげな顔をする。
「どうしてって……別にいいじゃない」
特に理由はない。ただ単に、ゆっくり歩きたかっただけだ。
「まあ、いいか」魔理沙はにっこりと笑った。「行こうぜ、霊夢」
私たちが外に出ると、もうすっかり日は暮れ、空はたくさんの星が輝いていた。三日月が明るく光り、あたりを薄明るく照らしている。
今夜は晴れ。雲ひとつない。
「こんな夜は飛ぶのには良いんだけどな。夜風も気持ち良いし、何より星が綺麗だ。変な奴にさえ会わなければ文句なしだぜ」魔理沙は空を見上げながら言う。「お前はこういうとき、『夜は気持ちいいわねぇ』とかのんきなこと言って自分から進んで飛ぶはずなんだけどなぁ」
「まあ良いじゃないの。たまには地上から星空を眺めるのも。いっつも私たちは飛んでばっかいるわけだし」
私たちは人里へと続く林を並んで歩く。空は狭くなるが、星はちゃんと見える。月明かりのおかげで、足元も少し明るい。
「最近、お前変わったな」
「何が?」
私は急に呟いた魔理沙の顔を覗く。
「いや、私の知ってる霊夢はものすごい面倒臭がり屋で、とても自分から歩こうだなんて言わないからさ」
「何かすっごく失礼なことを言われたような気がするんだけど」
「気のせいだろ?」
魔理沙はニヤニヤと笑う。
まあ、確かに魔理沙の言っていることは分かる。以前の私なら、外食する際に歩こうだなんて言わない。
翼の件だってそうだ。あの時、いつもの私なら翼の両親の頼みを断っていたはずだ。
なぜ、私はあの時断らなかったのだろうか?
「それにさ、お前、今日みたいによくどっかに行ってるし」
「それは――」翼のことは魔理沙には言わないで置こう。知られると面倒なことになりそうだし。「仕事よ、仕事」
「仕事ぉ?」魔理沙は疑わしげに私を見る。「仕事って、どんな仕事だよ」
「あんたが好みそうな派手な仕事じゃないわよ。そもそも、あんたには出来ない仕事だし」
「私には出来ない……」魔理沙はんーっと少し考えると、「お払いとか、か?」と訊いてきた。
「まあ、そんな感じね」
嘘だけど。
「あのさ、私ちょっと思ったんだけどさ」
「何よ」
「――お前、今、恋してるんじゃないか?」
「……………は?」
……意味が分からなかった。
「あのさ、どこをどうしたらそういう結論に至ったわけ?」
「勘」
魔理沙はさらりと言い放った。
本当に清々しい顔で言い放ちやがった。
「私の勘はよくあたるんだぜ」
「私の勘がよくあたるのよ」
「まあとにかくだ」
魔理沙は立ち止まって私をびしっと指し、
「お前は恋している」
と、断言した。
「……あのさぁ、その自信はどこから来るわけ?」
「お前最近、上の空じゃないか」
「上の空なわけ――」
「今日、お前は玄関の鍵をかけ忘れた」
「ぐっ…………」
私は言葉を詰まらせる。
確かに鍵をかけ忘れたが、別に上の空だったわけではないはずだ。
「そんなに恋して無いって言うんなら、何か賭けろよ」
「……………」
くそう、言葉が出ない。この野郎、調子に乗りやがって……。
私が恋に落ちているわけがない。――わけがないはずなのだが、どこか自信がない。しかし、ここで黙れば私は魔理沙の言い分を認めるわけになる。
「わかった、もし私が恋に落ちてたら、奢ってやるわ。その代わり、恋に落ちてなかったら奢ってもらうわよ」
「決まりだな」
魔理沙はにやけながら指を鳴らした。
*
「霊夢さん、あつかましいとは思うんですけど、ええっと……」
「何? 変なこと以外なら聞くけど」
「あの、僕の髪、切ってくれませんか?」
「はぁ?」
魔理沙と約束をした数日後のある晴れた日の午後、翼は私にそんな頼みごとをしてきた。おそらく、昨日私が「その長い髪、うっとうしくない?」と訊いたのが原因だと思われる。
翼の髪は腰まで届き、前髪は顔を完全に隠してしまえるほどの長さだ。ここまで伸びると、女性の私でも我慢できないだろう。
「今までは外出もあまりしないし、別に切らなくてもいいかなって思ってたんですけど、やっぱりよく考えたらうっとうしいです」
「いや、よく考えなくてもうっとうしいと思うんだけど」
「まあ、確かにそうですけど。――それで、切ってくれませんか?」
翼は非常に恥ずかしそうに赤面しながら再び私に訊ねる。
――ちょっと、その表情は反則よ……。
「わかったわよ。散髪してあげるわ」
「あ、ありがとうございます」
「いいのよ。ただし、ちゃんと切れるかどうかは保障しないけどね」
「……一応、覚悟はしておきます」
と、脅したが、私は自分の髪を自分で手入れしているので他人の髪もまあ大丈夫だろう。
「で、散髪用の鋏はあるの? 無いのなら神社から取ってくるけど」
「たぶんあると思います。使用人に頼めば、たぶん貸してもらえるでしょう」
「わかった」
私は部屋を出ると、近くを掃除していた若い女の使用人に事情を説明し、散髪用の道具を貸して欲しいと頼んだ。
すると使用人は笑顔で了承し、散髪用具一式と共に、敷物と椅子を持ってきた。
私がそれらを受け取ると、彼女は「お願いしますね」と言ってきた。彼女もまた、翼の髪をうっとうしいと思っていたのかもしれない。
部屋に戻り、布団を片付け、鏡の前に敷物を敷いてその上に椅子を置き、そこに翼を座らせる。
「さて、始めるわよ」
「お願いします」
私は翼の髪を少し手に取ってみる。手入れをしていないためか、多少枝毛になっているが、髪質は非常に良い。もしかすると、私の髪より質が良いかもしれない。
その髪に、鋏を入れる。
あまり短くするのは勿体ない。とりあえず、私と同じくらいの長さにしてみようか。
丁寧にはさみを入れ、少しずつ、少しずつ、慎重に切る。
「――霊夢さん」
黙々と髪を切っていた私に、翼が不意に声をかける。
「ホント、いつもありがとうございます」
「……何よ、急に。いきなり改まって」
「いや、なんとなくお礼が言いたかったんで」
「……変なの」
鏡に映る翼の顔はほんの少し赤く染まっている。
「僕、霊夢さんに会ってから毎日が楽しくなりました」翼が笑いながら言う。「僕、ずっと人生ってつまらないって思ってたんです。毎日毎日布団の中で一日を過ごす、それだけが人生だって思ってました。でも、霊夢さんに出会ってその考え方は変わりました。霊夢さんは僕の知らないことを教えてくれる。僕と一緒にいてくれる。――すべて霊夢さんのおかげです」
「別に私はたいしたことしてないわよ」私ははさみを持つ手を止め、顔を真っ赤にした翼に言う。「あんたが屋敷を抜け出したから、あんたは変わることが出来たのよ。私はあくまでその行程に過ぎないわ」
確かに翼は私と出会って色々と変わったのかもしれない。しかし、私とであったことは翼にとってさほど重要なことではない。一番重要なのは、彼自身が進んで屋敷を抜け出したことだ。
布団の中でくすぶるのを止めて外に出たことが、翼にとって一番重要なことなのだ。
「でも――」翼はうつむき、言い辛そうにしながらも言葉を搾り出す。「僕は、霊夢さんと一緒にいれて、すごく幸せなんです」
「……………」
自分でも耳まで赤くなるのが分かった。すごく恥ずかしい。何よこれ、告白?
「……とりあえず、ちゃんとまっすぐ向いて」
私は咳払いしてから言う。
「あ、ごめんなさい」
翼は照れくさそうに笑いながら再び鏡にまっすぐ向いた。
私も散髪を再開する。
「霊夢さん」
髪を切る私に、翼が再度声をかける。
「今度は何?」
私は手を止めない。
「あの、実は――」
そこまで言って、口をつぐむ。
「やっぱり、なんでもないです」
言い直して、翼は少し笑う。
――なぜか、私は一瞬だけ笑っているように見えなかった。
「……何よ、気になるじゃない」
「別に、たいしたことじゃないです。いつでも言える、ちょっとしたことですから」
「ふーん」
深く詮索するのもあまり良くない。私はそれ以上訊かなかった。
「――こんなもんかしらね」
私ははさみを置く。
「あ、出来ましたか?」
「ん、ちょっと待って」
とりあえず切った髪の毛を身体から叩き落とす。それから、私は自分のリボンを外した。
「え、何を?」
「あー、いいから」
翼の髪に私と同じ様にリボンを巻き、続いて私のつけている髪飾りをつける。完成、これぞ博麗霊夢ヘアー。
「うんうん。我ながら良い出来ね」
「ちょ、ちょっと、これじゃ女の子みたいじゃないですか!」
翼は顔を真っ赤にしながら私に訴える。その姿はとても可愛い。
「いいじゃない、似合ってるんだから」
私は笑いながら翼をなだめる。
私のリボンをつけた翼は、うらやましいくらいに似合っている。
翼は不満そうにしながらも鏡を見ている。なんだ、気に入ってるじゃないの。
「んじゃあ、切った髪の毛片付けてくるわね」
私は切った翼をかき集め、敷物で包み、道具と一緒に持って部屋の外に出る。とりあえず、これは使用人に渡しておこう。
私は先ほど道具を借りた使用人に道具を返した。
「随分と切りましたね」
使用人は笑いながら言う。
「まだ女の子みたいだけどね」
私も少し笑いながら言った。
使用人と別れ、部屋に戻ろうかと思ったそのとき、
「博麗さん」
と、翼の母親に呼び止められた。
翼の母親はどこか深刻な表情を浮かべ、思わず私も顔が強張る。
「突然呼び止めてしまって申し訳ございません」
「ええ、別に構いませんけど」
「実は、あなたに話しておかなければならないことがあるんです」
「話しておかなければならないこと?」
私はオウム返しに訊き返す。
「あの子の――翼のことなのですが――」
と、そのとき、悪寒を感じた。――嫌な予感がした。聞いてはいけないような、そんな気がした。
「実はあの子、もう――永くはないんです」
「……………」
どういうことなのか――何を言っているのか、私には理解できなかった。
いや、私は、理解なんてしたくない。
「あの子は、もうすぐ死んでしまうんです」
翼の母親は苦痛の表情を浮かべながら言う。
私の聴きたくもないことを苦しそうに話す。
……そんな気は、しなくもなかったんだ。彼の仕草や行動、言動から――そんな予感はしていた。
「こんな突然にすみません。本来ならはじめに言うべきでしたが、とても言うことができませんでした。でも、ちゃんと知ってもらいたかったのです。あの子が、どういう状態かを……」
翼の母親は今にも泣きそうだ。私だって泣きたい。泣いて、叫んで、暴れだして、こんなこと忘れてしまいたい。だが、これは避けられない現実だ。私は翼のことについてちゃんと知らなければならない。
「――詳しく、教えてもらえませんか? 翼のことを」
私は声を絞り出す。
「あの子は生まれたときから心臓が悪く、毎日明日も知れない生活を送ってきました」翼の母親はうつむきながら語り始める。その姿は見るに耐えない。「数年前に永遠亭を頼って延命措置を行った時も、『もう数年も持たないでしょう』と宣言されました。――もう、あの子は持たないんです。もうあの子は――」
「もう、いいです」
私は今にも泣き出しそうな翼の母親を止める。
もういい、もういいんだ。その先は聴きたくない。
「そろそろ翼のところに戻ります。彼が待ってるんで」
そう言って背を向け歩き出す。
思いっきり強がって見せた。決して逃走ではないと言い張りたい。
翼の部屋に戻ると、翼は私のリボンと髪飾りを外して、布団を敷いてそこに座っていた。
「あ、お疲れ様です」
翼が笑いながら言う。もう永くないだなんて嘘みたいな笑いだ。嘘だったらいいのに。しかし、翼の顔色は相変わらず悪い。
「リボン、そろそろ返しますね」
翼はそう言って私にリボンと髪飾りを差し出す。
「あ、うん、ありがと」
私は笑顔を作りながら翼に歩み寄り、リボンと髪飾りを受け取る。
「……霊夢さん、顔色が悪いですよ」
翼が私の顔を覗き込みながら言う。
「ちょっと、疲れたみたい」
私は誤魔化すように笑いながら言う。
正直、泣き出したい。
「無理はいけませんよ。帰って休んだ方がいいと思います」
「うん、そうね。そうさせてもらうわ」
もうこれ以上はここにいられない。これ以上私は強がれない。
「じゃあ、また明日来るから」
「はい、待ってます」
お互いに手を振って、私は部屋の外に出る。
……まだだ。せめて神社に帰るまでは、我慢しなくては。
「やはり、約束を飲んだことを後悔していますね」
部屋を出たところで、待ち構えていたかのように翼の兄が私に語りかける。
今は構っていられない。私はそれを無視して歩き出す。
「貴女は翼から逃げようとしている。もう翼には時間がないという事実から逃げようとしている」
後ろ指を差すように翼の兄が私に言い積める。追いかけてきているようだ。
私は相手にしない。相手にしたくない。
「だが、逃げたとしても事実は変わらない。どれだけ背を向けてもその事実だけは揺るがない」
無視する。
私に構わないでほしい。
「そもそも貴女は翼に出会わなければこんな辛い思いをしなかった」
私には聞こえない。そんなこと聴こえない。
「――だから貴女は、翼と出会った事を後悔している」
「――うるさい」
私の歩みが止まった。
今の言葉は聞き捨てならない。
「私は後悔なんかしてないわよ」
後悔なんかするわけがない。ぜったいにするもんか。
なぜなら、私は――
「私は、翼と出会えてすっごい幸せなのよ。後悔なんかするわけないでしょ?」
笑いながら言い放ってやった。どうだ参ったか。
「……そうですか」
私の言葉を聴いた翼の兄はふっと微笑を浮かべると、
「翼を、最期までよろしくお願いします」
と言って去っていった。
「……………」
なんというか、言ってすっきりした。
とりあえず、翼の元に戻ろう。一緒にいられるときはなるべく一緒にいたい。
私は翼の部屋の襖の前に立ち、襖を開けようとしたところで異変に気がつく。
部屋の中から苦しそうな咳の音が聴こえる。それも止まりそうにない。
まさか――
「翼っ!」
私は悲鳴のような叫びをあげながら部屋に駆け込む。
翼が手で口を覆いながら咳をしている。その手から血が見える。
発作か!
「だ、誰か! 誰か来て!!」
私は頭が真っ白になる。
どうすればいい。私には助けを呼ぶことしか出来ないじゃないの。
「翼が! 翼が!」
パニックにならずにはいられなかった。被弾した時や墜落した時の何千倍も怖い。このまま翼が死んでしまうのが気が狂いそうなほど怖い。
すぐに使用人が医者らしき男を連れてやって来る。
早く――早く翼を助けて欲しい。なんでもいいからこの発作を止めてほしい。
そう祈らずにはいられなかった。
*
薬を服薬させると、翼の発作は何とかおさまった。発作がおさまると、翼はそのまま眠ってしまった。
起きた時のために一緒にいてあげたかったが、『明日までは目を覚まさないだろう』と翼の両親に諭され、私はしぶしぶ神社に帰る。
神社に帰ると、もうすっかり日が暮れていた。
数日前のように魔理沙がいないかなと期待したが、いなかった。
紫も、萃香も、文も、誰一人としていなかった。いたらちょっと愚痴ろうかと思ったんだけどな。
夕飯を作ろうかと思ったが、正直食べる気が起きないので止めた。
適当に風呂を沸かし、それに入り、適当に寝る。
翼のことが気になって、やはりほとんど眠ることが出来なかった。
翌日、私は午前中から翼の家を訪ねていた。いつもなら午後から訪ねるのだが、一刻も早く翼の無事な姿を見たかった私はいてもたってもいられなかったのだ。
屋敷に上がり、使用人たちに適当に挨拶しながら翼の部屋へと急ぐ。聞く話によると翼はもう目を覚ましているらしい。
「翼」
襖を開ける。
「あ、霊夢さん、おはようございます」
翼は上体を起こしながら挨拶をする。良かった、何とか元気そうだ。
だがその顔色は非常に悪い。見ていて痛々しいほどだ。
「おはよう、翼」
とりあえず、挨拶を返す。
「今日は早いですね。どうかしましたか?」
「昨日あんなことがあったから心配でじっとしていられなかったのよ」
私は正直に答える。
「……すみません、心配かけちゃって」
翼が申し訳なさそうに言う。
「かまわないわよ」
笑ってやった。暗い顔をして翼気を遣わせるわけには行かない。私がしっかりしなければ。
「それよりあんた、発作は大丈夫?」
「はい、おかげさまですっかり良くなりました」
翼は私に笑いかけながら言う。その笑顔に心が痛んだ。
「霊夢さんこそ、大丈夫ですか? また顔色が良くないですよ?」
「私の顔色はいつもこんな色よ」
「いや、そんなわけないでしょう……」
翼は苦笑する。確かに昨日の昼から何も食べていないし、一睡もしていないので顔色は悪いかもしれない。こんなことなら否が応でも何か食べて顔色を整えてくるべきだったか。
「ところで翼」
「はい、なんですか?」
「何か、私に出来ることはない?」
「……いきなり、どうしたんですか?」
翼が目を丸くする。
「いや、私、まさかあんたがあんなに酷い状態だとは思わなかったから」
「発作のことですか? そんなに言うほど酷いものではありませんよ。傍から見たら今にも死んでしまいそうに見えたかもしれませんが、僕にとってはあれが普通です。全然、平気です」
言いながら、翼が笑いかける。が、その笑顔はあまりにも不自然だ。その笑顔を見て私は気づく。もしかすると、翼は自分の身体の状態のことを私に隠しているのだろうか?
翼は今まで私に生まれつき病気を持っていること以外教えてくれなかった。どんな病気なのか、それは治る見込みがあるのか、その他もろもろのことを私に話してくれなかった。それは、私に自分が末期だということを知って欲しくなかったからじゃないだろうか?
私はもう翼の病気のことを知ってしまった。しかし、翼はそれを知らない。
私はこのまま黙っているべきなのだろうか? 気がつかない振りをして、翼が死ぬまで過ごせばいいのだろうか?
いや、そんなことは出来ない。確かに気づかない振りをしてしまえば何事もなく過ごすことができるだろうが、決してそれは楽ではないはずだ。最期までそんなモヤモヤしたままでいるのはまっぴら御免だ。
私は――翼に伝えなければならない。例えこれがただのエゴだとしても、だ。
……やれやれ、そういう性分じゃないはずだったんだけど、どうしてこうなっちゃったのかしら?
私は心の中で苦笑する。
「――ねえ、翼」
私は、勇気を振り絞り、言う。
後悔はしない。絶対にだ。
「どうしたんですか? 本当に今日変ですよ?」
翼が訊ねてくる。私がこれを言ったら、どんな顔をするんだろう?
「実は、あんたのお母さんから聞いたんだけど――」
そこまで言葉を出したところで、翼の表情が固まる。私がなんと言うか分かったらしい。
ああ、やっぱり隠してたんだ。
ごめんね、言うよ。
「――あんた、もう永くはないんだってね」
――しばし、沈黙が流れる。
そして、しばらくすると、
「母さん、言っちゃったんだ……」翼が目を閉じて呟く。「黙っててって言ったんだけどなぁ……」
翼が苦しそうに笑う。
「いつ、聞いたんですか?」
「昨日の、あんたが倒れる前」
「もしかして、それを知ったから、今日あんなに優しい言葉をかけたんですか?」
翼の口調が突然厳しくなる。目からは涙が流れている。あんなに強く笑っていた翼が、一生懸命無理をしていた翼が、泣いている。
「同情ですか!? こんな僕がどうしようもなく哀れに見えたから、優しい言葉をかけようとでも思ったんですか!?」
「違うっ!!」
私はさらに強い口調で、叫ぶように言う。
「絶対に違う! そんなんじゃない!」
「じゃあ――」張り合うように翼が叫ぶ。自分の身体なんて気にしないかのように、感情に任せて声を張り上げる。「何だっていうんですか!?」
「私は――」
さらに強い感情で伝える。
私は――
「あんたのことが好きなのよ」
「――え?」
翼は感情が抜けたかのようにきょとんとした。
私は、ようやく理解した。
なぜ、私のような面倒臭がり屋がここに通い続けることが出来たのかを。
「私は、あんたのことを愛してるのよ。でなきゃ私みたいな人に対しても妖怪に対してもそこまで興味が沸かない半端者が、あんたの元に通うことなんか出来やしないわ」
ましてや優しくすることなんて、普段の私からしてみれば到底考えられない。
「私は我慢できなかった。気づかない振りをして最期まで過ごして、何も伝えられないままあんたと別れてしまうのが」
最期まで見てみぬ振りをするのが嫌だった。大好きな翼が死んでゆくのを、何もせず、ただ見ているだけというのが嫌だった。
だから私はあがいた。自分に出来ることを探した。
そして、理解し合いたかった。一緒に考えたかった。
「僕だって、好きなんですよ」翼が目からぼろぼろと涙を零しながら、ぽつりとこぼす。「僕だって霊夢さんのことがとてつもなく大好きなんですよ? ……ずるいですよ、そんな一方的に……。僕だって、言いたくてもずっと言えなかったんですよ? 僕はもうすぐ死んじゃうし、そのことを言えば霊夢さんは僕から離れていってしまうかもしれないし……」
「馬鹿ね」私は翼を微笑みかけながら抱きしめる。「そんなことするんなら、はじめからあんたの所に通ったりなんかしないわよ……」
「最期まで、一緒にいてくれますか?」
「当たり前よ」
私は力強く、自分に言い聞かせるように頷く。
「私があんたの余生を最高に幸せにしてあげるわ」
*
それから私はなるべく翼と一緒に過ごすことにした。
朝、神社の仕事を軽く済ませて屋敷に行き、夜まで翼と共に過ごし、翼が寝付くのを確認してから神社に帰る。それが私の日課とするようになった。
しかし、次第に翼の発作の回数が多くなり始めた。かつては一週間に一度ほどと言われていた発作のペースが、私と過ごすようになってから二日に一回ほどに縮まった。
もう、どう考えても限界だった。
しかし、私はいつも通り翼と過ごす。もう短いと分かっていても慌ててはいけない。私は、幸せにすると約束したのだから。
私たちの告白から一週間経ったある日、翼が突然こんなことを言ってきた。
「霊夢さん。一緒に外へ出ませんか?」
「……は?」
自然に笑いながら突然言うので、私は思わず自分の耳を疑う。
「あの初めて会った日みたいに、一緒に飛んで欲しいんです」
「あんた、正気?」なんてことを言うんだ。「そんな身体で外に出たら、命にかかわるわよ」
「分かってますよ」翼は一変して真剣な表情になる。「下手をすれば――もしかするとしなくても死ぬかもしれないというのは分かってます。でも、もしかすると明日僕は動けなくなってるかもしれないじゃないですか。場合によっては、明日死んでしまうかもしれない。――今じゃないといけないんです。僕の身体が辛うじて動くうちに――」
「分かったわよ」やれやれと、私は笑う。そこまで言われたら動かないわけには行かない。「最後に幻想郷を見ておきたいんでしょ? あんたが望むなら私はそれに答えるわよ。そういう約束だし」
私は翼に背を向けてかがむ。
「さ、つかまって。膳は急げよ」
何も言わずに翼が私の背中にしがみつく。
あの日と同じ、いや、あの日より若干軽くなっている。
「さあ行くわよ、翼」
立ち上がって、縁側まで歩き、戸を開ける。
「靴はどうしますか?」
「必要ないわ。飛ぶだけならね」
そもそも取りに行っている暇がない。玄関に取りに行って誰かに見られたら、外に出ようとしていることがばれてしまう。
「目的地は?」
私はふざけ半分で翼に訊ねる。
「あなたと共に、どこまでも」
「了解」
私はうなずいて、飛び立つ。
天気は晴れ。絶好の空中散歩日和。
*
私たちはあの日以上に速く、高く飛ぶ。
翼を背負っているにもかかわらず、私はいつも以上に調子が良い。速く、高く、いつまでも飛んでいられそうだ。文字通り、背中に翼があるかのようだ。
ちまたでは丁度桜の季節。あちらこちらに花見をしている者の姿が見える。人間の姿も、妖怪の姿も見える。
私たちは幻想郷中を飛び回る。
人里――
魔法の森――
霧の湖――
妖怪の山――
迷いの竹林――
無縁塚――
太陽の畑――
様々な場所で、様々な色を――景色をその目に焼き付ける。
決して忘れぬように、いつまでも心に残るように。
日が暮れはじめ、さあ次はどこに行こうかと考えていたところで、突然翼が咳きをする。
発作だ。
「……気にしないでください」
翼が苦しそうに言う。
「大丈夫です。まだまだ行けます。それより、次は雲の上へ行って見たいです。行けますか?」
「もちろん」
私は強く頷き、高度を上げる。
高く――
もっと高く――
雲を突き抜ける――
「――うわぁ」
翼からこれまでにない歓喜の声が上がる。
あたりに茜色に染まった雲が広がっている。
私としてはあまり珍しくないはずの光景であるにもかかわらず、胸から熱いものがこみ上げてくる。
翼と一緒というだけなのに、何でこんなに景色が違って見えるのだろう? 空を飛んでこんなに感動したのは、初めて飛んだとき以来だ。
「すごい、僕らの足元に雲がある」
風の音にかき消されずに翼の声が耳に入る。翼の心臓の鼓動が、背中越しに伝わる。表情が見えないのに、笑っているのが分かる。幸せでたまらない。涙があふれる。
二人で飛ぶというだけで、こんなに幸せだなんて思わなかった。
「こんな茜色で綺麗な空、初めて見た」
翼の声はさらに大きくなる。にもかかわらず、心臓の鼓動が弱まり始める。
幸せで、悲しくて、涙が止まらない。
「霊夢さん。僕は今、ものすごく幸せです。あなたといっしょにいることができて、そして、こんなきれいなそらをみることができて――」
強くなった声は次第に小さく、弱くなる。
しかし、風に負けず、私の耳に届く。
心臓の鼓動はどんどん弱まる。
「さいごに、霊夢さん、ぼくは――」
完全に声が消える、だが私にはちゃんと「あなたをあいしてる」という声がちゃんと聴こえた。
心臓の音は、声と共に消えていった。
*
私たちが部屋に戻ると、そこには翼の家族がそろっていた。
「あの、博麗さん。ありがとうございます。翼と最期まで一緒にいてあげてくれて、本当にありがとうございます。布団の中で私たちに看取られるよりも、外であなたに看取られる方が、この子にとって幸せだったと思います」
私の背中の物言わぬ翼の姿を見ると、翼の母はそう言った。
私は、ゆっくりと翼を布団の上に寝かせる。
「ありがとう、翼」
心の中でそう呟き、一礼して私はその場を後にした。
*
「よう、おかえり霊夢。また鍵が開いてたぜ」
神社に帰ってきた私を、なぜか神社にいた魔理沙が出迎える。
「魔理沙、夕飯なら後にしてよ。疲れているんだから」
屋敷を出るまでは全然平気だったが、流石に幻想郷中を飛び回るのは身体にこたえる。私はよろよろと茶の間まで上がり、へたりと座り込んだ。
「まあまあ、夕飯は私が作ってやる。それよりこれを見てくれよ」
魔理沙はどこからともなく紙を取り出し、私に渡す。
……新聞のようだ。
「文々。新聞の号外だぜ」
そこには『博麗の巫女の悲しき悲恋!』という見出しと共に、私が翼をおぶって空を飛んでいる姿の写真があった。
隠し撮りか。全然気がつかなかった。
「っていうか、仕事が随分と早いわね」
私は思わず呆れる。
「これで賭けは私の勝ちだな」
魔理沙はにやにやと笑った。
「そうみたいね」
「あ、でも奢る必要は無いぜ。私はそこまで外道じゃないからな」
「……どういうことよ?」
新聞に『悲恋』と書かれているのも気に掛かる。
「実はな、お前が惚れたあの次男坊、近所でもうあまり持たないだろうって噂になってたんだよ」
「あー、なるほどね」
発作を起こすたびに騒ぎになっていたんだ。そりゃあ近所の人もそう思うだろう。それに、翼は生まれたときから心臓を患っていたのだから、家の外に伝わらないはずもない。
「それに、文が私に『霊夢さんにご愁傷様と言っておいてくださいね』って言ってきた」
「あの駄天狗……」
どうやらどこかで翼が亡くなったのを確認したらしい。
「今回、お前は随分と辛い思いをしただろうと思う。初恋が悲恋だもんな」
魔理沙が珍しく真面目な顔をして言う。心配してくれてるみたいだ。
「いや、そうでもなかったわ」私は微笑みながら言う。「私は幸せだった。最期まで一緒にいることができて、私には未練も後悔もないわ」
「そっか」
それは良かったと、魔理沙が笑う。
「まあとりあえず、私は寝るわ。もうくたくたなのよ」
「夕飯は?」
「別にいい。あんたが食べたかったら勝手に作れば?」
「膝枕、してやろうか?」
「馬鹿。あんたの貧相な膝を枕にするくらいなら床の方がマシよ」
「それは酷い言いようだな」
私は座布団を頭に敷いて寝転がる。
「おやすみ、魔理沙」
「おう、おやすみ、霊夢。いい夢見ろよ」
*
翼の葬式の後、私はあの日飛んだ空を一人で飛んでいた。
天気は晴れ。絶好の空中散歩日和。時刻もあの時と同じ、夕暮れ時だ。
茜色の雲の上を、私は飛ぶ。
自分が空を飛べるという幸せを――生きているという幸せを噛み締める。
私の目から、涙が一粒こぼれる。その涙は、風に流されてどこかに消えていった。
「翼。私も、あんたのこと、愛してるわよ」
――私の背中には今、空を飛ぶための翼がある
一方、世の中には、空を飛ぶことどころか歩くことすらままならない人もいる。空を飛ぶ者からしてみれば、その気持ちは到底理解しがたいものかもしれない。現に私自身もそうであった。
しかし、空を飛ぶ者にだって飛ぶことが出来ない時期があったはずだ。空を翔る鳥がまだ雛鳥だった頃、空を飛ぶことが出来ただろうか?
私にだって飛べない時期があった。まだ幼い頃、私は亀の背中に乗って空を飛んでいた。私は修行を重ねに重ね、自力で空を飛ぶことができるようになったのだ。
さて、ここから話が変わる。ここからは、私がこんなことを考えるきっかけを話そうと思う。
――それは、まだ肌寒い春が始まったばかりのこと。
*
私がそのとき彼に声をかけたのは、彼が久しぶりの参拝客だったからではなく、松葉杖をついて非常に歩き辛そうにしていたからだと思う。
「支えててあげようか?」
松葉杖で身体を支えながら財布を取り出すのに悪戦苦闘していた彼に、箒で掃き掃除をしていた私は声をかけた。
歳は私より少し下くらいだろう。背丈は低く、身体は病的に細い。非常に長い髪のせいで一瞬女かと疑ったが、一応男のようだ。あまり顔色の良くない顔にはまだ幼さが残っている。身につけている服の素材から良いところの坊ちゃんだということがうかがえるが、服装はどう見ても寝巻きに外套を羽織っただけだ。靴も外履きの物ではなくスリッパだ。
「いえ、お構いなく」
彼は私の方を見て痛々しく笑いながら答える。
しかし、その言葉とは裏腹に、彼の身体の揺れは次第に大きくなり、最後には「わっ!」とバランスを崩してしまった。
「いよっと」
とっさに私は彼の身体を支える。
……彼の身体は恐ろしいほど軽かった。
「あ、すみません」
「いいのよ。ほら、お賽銭入れるんでしょ? 私がこのまま支えといてあげるから、早く財布出して」
「え? そこまでしてもらったら悪いですよ」
「いいのいいの。人の好意は素直に受け取っておきなさい」
私がそう言うと彼は「わかりました」とうなずき、財布を取り出してその中の小銭を一つ、賽銭箱の中に放り投げた。
ことん、と寂しい音が鳴る。
彼が財布を仕舞うのを確認すると、私は彼を立たせてやった。
「足、悪いの?」
そんなことはないだろうなと思いながら、私は彼に訊く。
「いえ」彼から予想通りの答えが返ってくる。「身体全体が悪いんです」
「なるほど、それで神頼みってわけね」
「まあ、それも気休め程度にしかならないでしょうけどね」
彼は弱々しく苦笑しながら言う。
失礼な言葉だが、正直私もそう思う。この神社神様いないし。
「それなら、こんな神社よりも永遠亭にでも行ったほうが良かったんじゃないかしら?」
「一応、一度永遠亭の先生に診てもらったことがあるんですよ」
「あら、そうなの」
「余り良くはならなかったんですけどね」
彼はどこか痛々しく笑った。
私が思うに、この状態じゃあ帰りは確実に倒れてしまうだろう。とりあえず、休ませてやった方が良いだろう。
「あんた、家は里?」
「ええ」
彼は不思議そうに私の質問に答える。
「一人でここまで来たの?」
「はい。そうですけど」こんな状態で一人じゃなかったら、普通誰か傍に付いてる。
「とりあえず上がってお茶でも飲みなさいよ。その身体を引きずってここまで来たみたいだし、疲れたでしょ?」
「え? それは流石にだめですよ。悪いです」
「いいのよ。ここであんたをほっといたら私の胸も痛むし、何より私の評判が下がるわ」
そう言いながら私は彼を抱えて持ち上げた。
意外と軽い。私は運動神経は良い方で割りと力もあるが、これはあまりにも軽すぎる。
これくらいの体重なら、後で送ってあげてもいいかもしれない。
私は彼を茶の間で下ろし、ちゃぶ台の前に座らせると、「ちょっと待ってて」と言って台所に向かった。
お茶は……いつも魔理沙に出してる安いので良いか。それに饅頭でもつけておこう。
お茶を入れ、饅頭と一緒に持ってゆく。
彼は突然茶の間に入れられてしまったせいか、どこか落ち着かない。休ませてあげようかと思ったが、これじゃあ逆効果だったかもしれない。
とにかくお茶を飲んでもらおう。これで落ち着いてくれるだろう。
私は湯飲みにお茶を入れ、彼に渡した。
「はい。熱いから気をつけて」
「あ、は、はい」
彼は私からお茶を受け取ると、ふうふうと冷ましながら湯飲みに口をつけた。
「あの……」
「何?」
彼は中身が半分まで減った湯飲みを置くと、私に訊ねてきた。
「いつも、こうやって参拝客を上げてお茶を出してるんですか?」
「いや、そんなことないわよ。あんたがそのままだと倒れそうだったからちょっと手を貸してあげただけよ」
そもそも参拝客が少ないことは言わない。
「それよりあんたの方こそ、そんな身体でどうして神社なんかに来ようって思ったのかしら? さっきは神頼みって言ってたけど、その身体じゃあ自棄になって無理をしているだけにしか見えないわよ」
「……………」
彼はうつむいて何も言わない。
まったく、これじゃあまるで私が説教してるみたいじゃないの。
「別に私はあんたを攻める気も叱る気もないわよ。ただあんたが無理をしてうちに来た理由が気になって仕方がないだけ。だから、話してみなさいよ」
これだけ無理をしているんだ。何か理由があってここに来たのかもしれない。しかし、これだけ悪い状態の身体を引きずるような理由があるのだろうか?
この身なりでそれはないだろうが、もしかすると家に居ることができない理由でもあるのだろうか?
「……特に理由はないです。ただ単に、外に出たかったんです」
彼は重い口を開くと、ぽつりと呟いた。
外に出たかった、ね……。
「僕は小さい頃からずっと身体が弱くて、ほとんど外に出られなかったんです」
「まあ外に出たかったってのは分かるけど、無理はだめよ。特にうちの前で倒れられたらたまったもんじゃないもの」
「……そう、ですよね。無理はいけませんよね」
彼はそう言いながら笑った。
なんだか胸に何かが引っかかるような笑いだ。
「ところであんた、名前、なんていうの?」
「え?」
彼は困惑した表情を見せる。
「ほら、名前が分からないと何て呼べばいいか分からないじゃない。いつまでも“あんた”って呼ぶわけにもいかないし」
「まあ、そうですよね。僕、翼っていいます」
「翼、ね」
翼。そんな名前にもかかわらず、飛ぶことも出来ず、歩くことすらままならないとは悲しい話だ。
「私は霊夢、知ってるでしょ?」
「ええ、知ってますよ。有名じゃないですか」
まあ、博麗の巫女だし当然か。
「早速だけど翼。少し休んだら、あんたを家に送ってあげるわ」
「え? 家って、僕の家にですよね? どうやってですか?」
「飛んでくのよ。決まってるでしょ? あんたくらいの体重なら、別に担いでも問題なさそうだし」
私はふふっと笑ってやった。
翼は困った顔をして唸った後、「なら、お言葉に甘えましょうか」と言った。
「任せときなさいよ」
*
三十分ほど翼を休ませてから、私たちは外に出る。風良し。さっさと行こう。日が暮れる。
「さ、乗って」
私は翼に背を向け、腰を低くして言う。
「……本当にやるんですか? 大丈夫ですよね?」
「無理だったら無理って言うから気にしなくてもいいわよ。さ、早く」
翼は躊躇いながらも私の背中にしがみつく。やはり彼の体重は軽い。おかしいほど軽い。
と、翼を背負ったところで松葉杖の存在に気がつく。これはどうしようか。流石に人一人背負ってる状態で松葉杖を持つわけにも行かない。
「松葉杖、どうする?」
「置いといてもらっても構いません。家にスペアが何本かありますから」
「分かった。後で持ってく」
さて、これで準備完了。
「翼、行くよ」
言って私は浮かび上がる。
「わっ、わっ、わっ」
身体が浮くという慣れない感覚のせいか、翼が慌てた声を上げる。
「暴れないでよ。つかまってれば大丈夫。私もなるべく低めに飛ぶから」
「は、はいっ」
私にしがみつく翼の力が、微かに強まったのを感じた。
神社の屋根にとどくほど高度を上げ、人里に向けて飛ぶ。
私が飛ぶスピードはそれほど速くない。だいたい人が走る速さより少し速いくらいだ。
「うわぁ……」
初めて見る光景に、翼が思わず声を上げる。
「……今、本当に飛んでるんですよね?」
「ええ、飛んでるわよ。見れば分かるでしょ?」
私は背中の翼を見る。
翼は長い髪をなびかせ、無邪気そうな笑顔を浮かべている。先ほどの弱々しい顔が嘘のような良い笑顔だ。
…………なにをそんな見てるんだ、私は。
私は前を向く。
「……すごい。今、僕、空を飛んでるんだ……」
翼が歓喜の声を上げた。
「霊夢さん。霊夢さんは毎日飛んでるんですか?」
「いや、毎日ってわけじゃないわよ。でも頻繁に飛んでるわね」
「飛ぶのって大変じゃないですか? 体力とか必要じゃないですか?」
「大変ってわけではないけど体力は使うわね。まあ、走るよりかは体力使わないかな?」
「それにしても、すごい光景ですね。木々や道が小さく見える。こうして見ると、幻想郷って結構広いんですね」
「そう? そうでもないと思うけど」
翼はどうやら初めて見る空から見た幻想郷の風景にかなり興奮しているようだ。
――私が初めてこの光景を見たとき、どんな気持ちだったかな?
しばらく飛ぶと、人里が見えてきた。
「家、どの辺りにある?」
「北の方にあるあの大きな家です。ほら、あそこの」
翼が指した方を見ると、確かに大きな屋敷が見えた。魔理沙の実家にも劣るとも勝らない大きな屋敷だ。
「へぇ、あんたお金持ちなのね」
「次男坊で病弱な僕には無いようなものですけどね」
翼は苦笑しながら言った。
私は屋敷に近づくと高度を下げた。
「で、どこから入る? あんたのそのなりを見る限り、こっそり抜け出してきたみたいだけど」
「正面からでお願いします。恐らく僕が抜け出したことはもうばれてますから」
「わかった」
私は翼の言う通りに屋敷の正面の方に飛んだ。
屋敷の門には中年の門番らしき男が一人立っている。
トラブルにならなければいいが……。
「とりあえず、降りるわよ」
「はい」
私はさらに高度を下げる。
すると門番がこちらに気づき、ぎょっと驚いた顔をした。まあ無理もないだろう。
私は門の前に降り立った。
「ただいま」
翼は私の背中から降りると、私に支えられつつ言った。
「翼様! どこへ行っておられたのですか!?」門番が声を上げ、翼へ駆け寄る。「お姿が見られなくなって皆様必死に探しておりましたぞ!」
「ごめんごめん」翼は苦笑する。「博麗神社に行ってたんだ」
「とにかく、旦那様方に無事をお伝えください。それから――博麗霊夢様ですね?」
「はい?」
不意に門番が私に話しかけてきた。私は用は済んだから帰ろうかと考えていた。
「私は職務上ここから離れるわけにはいけませんので翼様を旦那様方のところまで連れて行っていただけませんでしょうか?」
「……しょうがないわね」門番としてはどこかの誰かさんとは違って優秀だが、客を使うのはどうかと思う。「任せなさい」
「では、よろしくお願いいたします」
門番に見送られながら、私は翼を支えながら門をくぐった。
「あの……すみません」
翼が謝る。
「いいのよ」私は翼に笑いながら言う。「門の前で白昼堂々と昼寝をしないだけマシよ。それより、もう一回おぶってあげようか?」
「……遠慮しときます」翼は照れたように顔を赤くしてうつむいた。「流石に家族の前で背負われるのは恥ずかしいですから」
まあごもっともだ。
門をくぐってすぐに屋敷の扉が見えた。
私たちが屋敷の中に這入ると、数人の使用人らしき人たちがこちらを見て「翼様!」と叫んだ。
使用人たちに挨拶をすると、私たちは旦那様と奥様――翼の両親の元へ案内された。
案内されながら、私は屋敷の中を見回す。
広い板張りの廊下にたくさんの襖。和洋折衷の屋敷のようだ。
すれ違う使用人がみんな挨拶する。なんというか、私にとって不思議な光景だ。
食卓のような大きな部屋に案内され、這入るとそこには初老の男性と女性がいた。おそらく翼の両親だろう。
「おお、無事だったか」
翼の父が安堵の表情を浮かべながら言う。
「身体は大丈夫なの?」
翼の母が心配そうに訊く。
その問いに翼は「大丈夫」と微笑して答えた。
「博麗霊夢様」
「はい?」
私は翼の父親に急に名前を呼ばれ、驚いた。
「このたびはうちの息子が多大な迷惑をかけて誠に済みませんでした」
「あっ、いや、それほどでも……」
夫婦揃って頭を下げられたので私はたじろぐ。
ただ私は、神社の前で倒れられると困るから手を貸しただけなんだけど……。
「翼、疲れたれただろう。もう部屋に戻りなさい」
「はい」
翼は使用人に支えられながら、自分の部屋に戻っていった。
さて、私も――
「霊夢様」
翼について行こうかと思ったところで、翼の母親に呼び止められる。
「これからも遊びに来てくださいな。あの子、身体が弱くてあまり外に出られなくて友達がいないんです」
「……まあ、暇な時に」
私はそう言うと、翼の両親の元を後にした。
*
「それにしても、屋敷を抜け出しといてよく叱られなかったわね」
私は布団に入って座っている翼の横で、胡坐をかいて呟いた。
「あんたの両親、いっつもあんな感じなの?」
「まあ、いつもあんな感じですね」翼はぽつりと答える。「きっと僕がこんなのだから叱るに叱れないんでしょう」
「子供が病弱になったのは自分たちの責任だと思っているわけね……」
私はそういう考え方が好きじゃない。
「あんたは両親のこと、憎んでるの?」
「まさか」翼は笑いながら答えた。「僕がこうして生きていられるのは父と母のおかげですから」
「まあ、そうよね」
それを聞いてすこし安心した。
「そうだ、これからたまにあんたに会いに来るから」
「え?」
翼が驚いた顔をする。
「あんたの両親に頼まれたのよ。あの子、身体が弱くて友達がいないってね」
「まあ、友達がいないのは事実ですけど……」
「もしかして、嫌だったかしら?」
「い、いいえ!」私が訊くと、翼は顔を赤く染めながら否定した。「嫌じゃないです。むしろ、うれしいくらいです! 今まで部屋で寝てばかりで、友達が一人もいなかったものですから。でも、神社の仕事とか、妖怪退治とか、忙しくないんですか?」
「別に大丈夫よ。暇なわけじゃないけど、それほど忙しくもないから」
私は笑いながら言う。本当は参拝客が無く、妖怪退治の仕事が来なければ暇で暇で仕方が無いのだが、そこはあえて言わない。
「だからあんたは気にせず私が来るのを楽しみにしていればいいのよ」
「……わかりました。楽しみにしています!」
翼はとても明るい笑みを浮かべた。
「それじゃあ、そろそろ帰るわ。あんたも疲れてるだろうしね」
そう言いながら私は立ち上がり、部屋を出ようとした。
「霊夢さん」
襖を開こうとしたところで呼び止められる。振り返ると、翼が手を振っていた。
「今日は本当にありがとうございました。それじゃあ、また」
「……じゃあ、またね。ちゃんと寝なさいよ」
私は手を振り返すと、襖を開けて部屋の外に出た。
「博麗さん」
襖を閉めたところで声をかけられる。振り向くと二十代くらいの身なりの良い男が立っていた。
翼が自分は次男坊だと言っていたことを考えると、おそらく翼の兄だろう。
「貴方は……?」
「翼の兄です」
予想通りだ。
ところどころ似ているところはあるが、身長や体型などは翼とは正反対だ。背は高いが少し小太りしている。
「私に何か?」
「挨拶のついでに、少しお願いしたいことがありましてね」
翼の兄は言いながら少し笑う。
「お願い?」
「ええ」頷くと、表情が真剣なものに変わった。「もし貴女が面白半分や半端な気持ちで弟に付き合おうというのなら、弟に会いに来ることを早めに止めてほしいのです」
「……え?」
それはどういうことなのだろうか?
翼の兄は困惑する私に構わず続けて言う。
「弟を期待させておいて裏切る行為や、悲しませるようなことをしないで欲しいのです。弟は――」と、そこまで言うと言葉を止め、翼の兄は咳払いをした。「とにかく、お願いします」
「……わかりました」
よく分からないが、とにかく翼の気持ちを考えて行動すればいいのだろう。
私は頷いた。
「さて、玄関まで送りましょう」
私は翼の兄と使用人たちに見送られ、屋敷を後にした。
*
そしてその翌日の昼下がり、私は散歩に出ることにした。
何年ぶりだろうか? しばらく散歩なんてしていなかったような気がする。
神社と人里の間の林で、私はふと空を見た。雲のほとんどない、春の始まりの空が広がっている。
ああ、そういえば空自体を真剣に眺めるのもすごく久しぶりのような気がする。飛べるようになる以前は、空に恋焦がれていつも眺めていたのに。
私が一人で空を飛べるようになったのは確か14歳の頃だった。妖怪退治の才能に恵まれていた私は、なぜか基本であるはずの空を飛ぶことが苦手だった。身体を浮かべればすぐにバランスを崩し、持続時間もほんの数十秒。そのことでいつも先代に皮肉を言われていた。
先代が引退し、私が博麗の巫女を受け継いでからも、私はなぜかうまく飛べなかった。いつも異変を解決する時は亀の玄爺の背中に乗っていた。そのことで出会ったばかりの魔理沙にからかわれたことを今でも憶えている。
修行して一人で空を飛べるようになったとき、私はまるで世界が変わったかのような感動を味わった。翼が私の背中で味わったあの感動を、私も確かに味わったのだ。
私は――忘れていた。
自分が空を飛べるのが当たり前のことだと思って、私はあの感動を忘れていたのだ。
「何で、忘れちゃったんだろうな……」
私はぽつりと呟いた。
*
「翼、元気?」
数日後、私は再び翼の家を訪れた。
「霊夢さん、こんにちは」
翼は布団に入ったまま上半身を起こすと、私に挨拶した。彼の顔色はそれほど悪くはない。一応大丈夫そうだ。
「おかげさまで今はだいぶ楽です。わざわざ来てくれて済みません」
翼は少し笑みを浮かべて言う。
私は「いいのよ」と笑いながら、翼の布団の横に胡坐をかいて腰掛けた。
「饅頭買ってきたけど、食べる?」
私は手提げの鞄からここに来る前に買ってきた饅頭の箱を取り出した。里で評判の饅頭だ。高い果物より、こういった庶民的なものの方がこの屋敷では珍しいんじゃないかと勝手に思って手土産に持ってきたのだ。
「そうですね。せっかくだし、いただきましょうか」
「じゃあお茶、は――」そういえば私は客だ。自分で入れる必要は無い。「使用人の人に頼んで入れてもらってくるわ」
「お願いしますね」
私は部屋から出ると、そこら辺で掃除をしていた中年の女性の使用人を見つけ、お茶を入れてもらえるように頼んだ。
部屋に戻って待っていると、別の使用人が湯飲み二つと緑茶の入った急須をお盆に乗せて持ってきた。
それを受け取り、湯飲みにお茶を入れ、饅頭の箱を開ける。
「さ、召し上がれ」
「はい」
二人で饅頭をかじる。
美味い。丁度良い甘さだ。流石、少し高かっただけのことはある。
「美味しいですね、この饅頭」
翼が笑いながら言う。
「そうね」私は湯飲みに口をつける。「実は私もこの饅頭を食べるの初めてなのよ。この前うちに来た人が美味しいよって言ってたからちょっと気になって買ってきたのよ」
「そうなんですか」翼は再び饅頭を少しかじる。「……そういえば、博麗神社ってどんな人が来るんですか? 僕が聞いた話では人があまり来ないとか、妖怪が来ることがあるとか」
「ああ、そうね」
私は神社にやってくる人たちや妖怪たちのことを翼に語り始めた。
ほとんど毎日のようにやってくる誰かさんのことも――
来るたびに私を困らせる迷惑な隙間妖怪のことも――
神社で勝手に宴会を開く鬼のことも――
追い返しても追い返してもやってくる新聞記者のことも――
いつしか話は異変の話になっていた。
翼は眼を輝かせ、私の話を夢中で、楽しそうに聞いていた。
私はなんだか話すのが楽しくなってきて、次から次へと話をする。
どうしてしまったのだろう? 私はこんなに自分のことを話すような人間ではなかったはずだ。
にもかかわらず、私はどんどん自分のエピソードを翼に語る。彼に知ってほしい。そして、喜んでもらいたい。私はなぜ自分がそんな気持ちなのか、まったく分からなかった。
気がつくと、もう日が暮れ始めていた。
「もうこんな時間ですね」
「そうね」
「あっという間でしたね。僕としてはまだちょっと物足りないです」
翼が笑いながら言う。
「話くらい、またしてあげるわよ」そう言って私は腰を上げると、お盆に湯のみを乗せ、立ち上がる。「饅頭の残りは……持って帰ってもいいかしら?」
「いいですよ。どうせ僕は一人の時は食べませんし」
「そう。んじゃあ、また来るわ」
「はい。また」
なんとなく、帰るのが惜しかった。
私は部屋を出ると、使用人にお盆を渡し、屋敷を後にした。
*
私が神社に帰ると、魔理沙が茶の間でお茶を飲んでいた。
魔理沙は私の姿を見ると、へらへらと笑いながら「おお、遅かったじゃないか」と言った。
「……何やってんのよ、あんた」
私は魔理沙の正面に座る。
「まあまあ、とりあえず茶を飲めよ」
魔理沙は私の問いを無視し、どこからともなく湯飲みを取り出してお茶を入れ、私に差し出した。
……ここは私のうちなんだけど。
「あのさ、お茶はいいから私の質問に答えなさいよ。なんであんたがうちにいるわけ? っていうかどこから這入ったのよ」
「ちゃんと玄関からだぜ」魔理沙は玄関の方を指差した。「紫じゃあるまいし、変なところから入れるわけがないだろう?」
「玄関からって、そんな、私、鍵したはずよ」
「開いてたぜ、鍵。だからこうして留守番してたんだ。感謝しろよ?」
そう言って魔理沙はウィンクして見せた。
何か腹立つ。
「とりあえずメシの用意をしようぜ。もう日も暮れたし、腹が減った」
「あんた、まさかうちで食べるつもり?」
「そのまさかだぜ。留守番の礼だ」
「まったく、あんたは図々しいわね……」
私は呆れてため息をつく。
「あ」
ふと、私は重大なことに気がつく。
「夕飯の買物してない」
「……え?」
「魔理沙、私外食するわ」
そう言って私は立ち上がる。
「私も一緒に行くぜ」
「いや、あんたは帰りなさいよ」
「まあまあ、せっかくだし、たまにはいいじゃないか」
「……奢らないわよ」
「分かった分かった」
魔理沙は立ち上がると、「乗ってくか? お前より速いぜ」と愛用の箒を手にとって言った。
「いや」私は首を振る。「たまには歩いていきましょ」
「……どうして?」
魔理沙はわけが分からないと言いたげな顔をする。
「どうしてって……別にいいじゃない」
特に理由はない。ただ単に、ゆっくり歩きたかっただけだ。
「まあ、いいか」魔理沙はにっこりと笑った。「行こうぜ、霊夢」
私たちが外に出ると、もうすっかり日は暮れ、空はたくさんの星が輝いていた。三日月が明るく光り、あたりを薄明るく照らしている。
今夜は晴れ。雲ひとつない。
「こんな夜は飛ぶのには良いんだけどな。夜風も気持ち良いし、何より星が綺麗だ。変な奴にさえ会わなければ文句なしだぜ」魔理沙は空を見上げながら言う。「お前はこういうとき、『夜は気持ちいいわねぇ』とかのんきなこと言って自分から進んで飛ぶはずなんだけどなぁ」
「まあ良いじゃないの。たまには地上から星空を眺めるのも。いっつも私たちは飛んでばっかいるわけだし」
私たちは人里へと続く林を並んで歩く。空は狭くなるが、星はちゃんと見える。月明かりのおかげで、足元も少し明るい。
「最近、お前変わったな」
「何が?」
私は急に呟いた魔理沙の顔を覗く。
「いや、私の知ってる霊夢はものすごい面倒臭がり屋で、とても自分から歩こうだなんて言わないからさ」
「何かすっごく失礼なことを言われたような気がするんだけど」
「気のせいだろ?」
魔理沙はニヤニヤと笑う。
まあ、確かに魔理沙の言っていることは分かる。以前の私なら、外食する際に歩こうだなんて言わない。
翼の件だってそうだ。あの時、いつもの私なら翼の両親の頼みを断っていたはずだ。
なぜ、私はあの時断らなかったのだろうか?
「それにさ、お前、今日みたいによくどっかに行ってるし」
「それは――」翼のことは魔理沙には言わないで置こう。知られると面倒なことになりそうだし。「仕事よ、仕事」
「仕事ぉ?」魔理沙は疑わしげに私を見る。「仕事って、どんな仕事だよ」
「あんたが好みそうな派手な仕事じゃないわよ。そもそも、あんたには出来ない仕事だし」
「私には出来ない……」魔理沙はんーっと少し考えると、「お払いとか、か?」と訊いてきた。
「まあ、そんな感じね」
嘘だけど。
「あのさ、私ちょっと思ったんだけどさ」
「何よ」
「――お前、今、恋してるんじゃないか?」
「……………は?」
……意味が分からなかった。
「あのさ、どこをどうしたらそういう結論に至ったわけ?」
「勘」
魔理沙はさらりと言い放った。
本当に清々しい顔で言い放ちやがった。
「私の勘はよくあたるんだぜ」
「私の勘がよくあたるのよ」
「まあとにかくだ」
魔理沙は立ち止まって私をびしっと指し、
「お前は恋している」
と、断言した。
「……あのさぁ、その自信はどこから来るわけ?」
「お前最近、上の空じゃないか」
「上の空なわけ――」
「今日、お前は玄関の鍵をかけ忘れた」
「ぐっ…………」
私は言葉を詰まらせる。
確かに鍵をかけ忘れたが、別に上の空だったわけではないはずだ。
「そんなに恋して無いって言うんなら、何か賭けろよ」
「……………」
くそう、言葉が出ない。この野郎、調子に乗りやがって……。
私が恋に落ちているわけがない。――わけがないはずなのだが、どこか自信がない。しかし、ここで黙れば私は魔理沙の言い分を認めるわけになる。
「わかった、もし私が恋に落ちてたら、奢ってやるわ。その代わり、恋に落ちてなかったら奢ってもらうわよ」
「決まりだな」
魔理沙はにやけながら指を鳴らした。
*
「霊夢さん、あつかましいとは思うんですけど、ええっと……」
「何? 変なこと以外なら聞くけど」
「あの、僕の髪、切ってくれませんか?」
「はぁ?」
魔理沙と約束をした数日後のある晴れた日の午後、翼は私にそんな頼みごとをしてきた。おそらく、昨日私が「その長い髪、うっとうしくない?」と訊いたのが原因だと思われる。
翼の髪は腰まで届き、前髪は顔を完全に隠してしまえるほどの長さだ。ここまで伸びると、女性の私でも我慢できないだろう。
「今までは外出もあまりしないし、別に切らなくてもいいかなって思ってたんですけど、やっぱりよく考えたらうっとうしいです」
「いや、よく考えなくてもうっとうしいと思うんだけど」
「まあ、確かにそうですけど。――それで、切ってくれませんか?」
翼は非常に恥ずかしそうに赤面しながら再び私に訊ねる。
――ちょっと、その表情は反則よ……。
「わかったわよ。散髪してあげるわ」
「あ、ありがとうございます」
「いいのよ。ただし、ちゃんと切れるかどうかは保障しないけどね」
「……一応、覚悟はしておきます」
と、脅したが、私は自分の髪を自分で手入れしているので他人の髪もまあ大丈夫だろう。
「で、散髪用の鋏はあるの? 無いのなら神社から取ってくるけど」
「たぶんあると思います。使用人に頼めば、たぶん貸してもらえるでしょう」
「わかった」
私は部屋を出ると、近くを掃除していた若い女の使用人に事情を説明し、散髪用の道具を貸して欲しいと頼んだ。
すると使用人は笑顔で了承し、散髪用具一式と共に、敷物と椅子を持ってきた。
私がそれらを受け取ると、彼女は「お願いしますね」と言ってきた。彼女もまた、翼の髪をうっとうしいと思っていたのかもしれない。
部屋に戻り、布団を片付け、鏡の前に敷物を敷いてその上に椅子を置き、そこに翼を座らせる。
「さて、始めるわよ」
「お願いします」
私は翼の髪を少し手に取ってみる。手入れをしていないためか、多少枝毛になっているが、髪質は非常に良い。もしかすると、私の髪より質が良いかもしれない。
その髪に、鋏を入れる。
あまり短くするのは勿体ない。とりあえず、私と同じくらいの長さにしてみようか。
丁寧にはさみを入れ、少しずつ、少しずつ、慎重に切る。
「――霊夢さん」
黙々と髪を切っていた私に、翼が不意に声をかける。
「ホント、いつもありがとうございます」
「……何よ、急に。いきなり改まって」
「いや、なんとなくお礼が言いたかったんで」
「……変なの」
鏡に映る翼の顔はほんの少し赤く染まっている。
「僕、霊夢さんに会ってから毎日が楽しくなりました」翼が笑いながら言う。「僕、ずっと人生ってつまらないって思ってたんです。毎日毎日布団の中で一日を過ごす、それだけが人生だって思ってました。でも、霊夢さんに出会ってその考え方は変わりました。霊夢さんは僕の知らないことを教えてくれる。僕と一緒にいてくれる。――すべて霊夢さんのおかげです」
「別に私はたいしたことしてないわよ」私ははさみを持つ手を止め、顔を真っ赤にした翼に言う。「あんたが屋敷を抜け出したから、あんたは変わることが出来たのよ。私はあくまでその行程に過ぎないわ」
確かに翼は私と出会って色々と変わったのかもしれない。しかし、私とであったことは翼にとってさほど重要なことではない。一番重要なのは、彼自身が進んで屋敷を抜け出したことだ。
布団の中でくすぶるのを止めて外に出たことが、翼にとって一番重要なことなのだ。
「でも――」翼はうつむき、言い辛そうにしながらも言葉を搾り出す。「僕は、霊夢さんと一緒にいれて、すごく幸せなんです」
「……………」
自分でも耳まで赤くなるのが分かった。すごく恥ずかしい。何よこれ、告白?
「……とりあえず、ちゃんとまっすぐ向いて」
私は咳払いしてから言う。
「あ、ごめんなさい」
翼は照れくさそうに笑いながら再び鏡にまっすぐ向いた。
私も散髪を再開する。
「霊夢さん」
髪を切る私に、翼が再度声をかける。
「今度は何?」
私は手を止めない。
「あの、実は――」
そこまで言って、口をつぐむ。
「やっぱり、なんでもないです」
言い直して、翼は少し笑う。
――なぜか、私は一瞬だけ笑っているように見えなかった。
「……何よ、気になるじゃない」
「別に、たいしたことじゃないです。いつでも言える、ちょっとしたことですから」
「ふーん」
深く詮索するのもあまり良くない。私はそれ以上訊かなかった。
「――こんなもんかしらね」
私ははさみを置く。
「あ、出来ましたか?」
「ん、ちょっと待って」
とりあえず切った髪の毛を身体から叩き落とす。それから、私は自分のリボンを外した。
「え、何を?」
「あー、いいから」
翼の髪に私と同じ様にリボンを巻き、続いて私のつけている髪飾りをつける。完成、これぞ博麗霊夢ヘアー。
「うんうん。我ながら良い出来ね」
「ちょ、ちょっと、これじゃ女の子みたいじゃないですか!」
翼は顔を真っ赤にしながら私に訴える。その姿はとても可愛い。
「いいじゃない、似合ってるんだから」
私は笑いながら翼をなだめる。
私のリボンをつけた翼は、うらやましいくらいに似合っている。
翼は不満そうにしながらも鏡を見ている。なんだ、気に入ってるじゃないの。
「んじゃあ、切った髪の毛片付けてくるわね」
私は切った翼をかき集め、敷物で包み、道具と一緒に持って部屋の外に出る。とりあえず、これは使用人に渡しておこう。
私は先ほど道具を借りた使用人に道具を返した。
「随分と切りましたね」
使用人は笑いながら言う。
「まだ女の子みたいだけどね」
私も少し笑いながら言った。
使用人と別れ、部屋に戻ろうかと思ったそのとき、
「博麗さん」
と、翼の母親に呼び止められた。
翼の母親はどこか深刻な表情を浮かべ、思わず私も顔が強張る。
「突然呼び止めてしまって申し訳ございません」
「ええ、別に構いませんけど」
「実は、あなたに話しておかなければならないことがあるんです」
「話しておかなければならないこと?」
私はオウム返しに訊き返す。
「あの子の――翼のことなのですが――」
と、そのとき、悪寒を感じた。――嫌な予感がした。聞いてはいけないような、そんな気がした。
「実はあの子、もう――永くはないんです」
「……………」
どういうことなのか――何を言っているのか、私には理解できなかった。
いや、私は、理解なんてしたくない。
「あの子は、もうすぐ死んでしまうんです」
翼の母親は苦痛の表情を浮かべながら言う。
私の聴きたくもないことを苦しそうに話す。
……そんな気は、しなくもなかったんだ。彼の仕草や行動、言動から――そんな予感はしていた。
「こんな突然にすみません。本来ならはじめに言うべきでしたが、とても言うことができませんでした。でも、ちゃんと知ってもらいたかったのです。あの子が、どういう状態かを……」
翼の母親は今にも泣きそうだ。私だって泣きたい。泣いて、叫んで、暴れだして、こんなこと忘れてしまいたい。だが、これは避けられない現実だ。私は翼のことについてちゃんと知らなければならない。
「――詳しく、教えてもらえませんか? 翼のことを」
私は声を絞り出す。
「あの子は生まれたときから心臓が悪く、毎日明日も知れない生活を送ってきました」翼の母親はうつむきながら語り始める。その姿は見るに耐えない。「数年前に永遠亭を頼って延命措置を行った時も、『もう数年も持たないでしょう』と宣言されました。――もう、あの子は持たないんです。もうあの子は――」
「もう、いいです」
私は今にも泣き出しそうな翼の母親を止める。
もういい、もういいんだ。その先は聴きたくない。
「そろそろ翼のところに戻ります。彼が待ってるんで」
そう言って背を向け歩き出す。
思いっきり強がって見せた。決して逃走ではないと言い張りたい。
翼の部屋に戻ると、翼は私のリボンと髪飾りを外して、布団を敷いてそこに座っていた。
「あ、お疲れ様です」
翼が笑いながら言う。もう永くないだなんて嘘みたいな笑いだ。嘘だったらいいのに。しかし、翼の顔色は相変わらず悪い。
「リボン、そろそろ返しますね」
翼はそう言って私にリボンと髪飾りを差し出す。
「あ、うん、ありがと」
私は笑顔を作りながら翼に歩み寄り、リボンと髪飾りを受け取る。
「……霊夢さん、顔色が悪いですよ」
翼が私の顔を覗き込みながら言う。
「ちょっと、疲れたみたい」
私は誤魔化すように笑いながら言う。
正直、泣き出したい。
「無理はいけませんよ。帰って休んだ方がいいと思います」
「うん、そうね。そうさせてもらうわ」
もうこれ以上はここにいられない。これ以上私は強がれない。
「じゃあ、また明日来るから」
「はい、待ってます」
お互いに手を振って、私は部屋の外に出る。
……まだだ。せめて神社に帰るまでは、我慢しなくては。
「やはり、約束を飲んだことを後悔していますね」
部屋を出たところで、待ち構えていたかのように翼の兄が私に語りかける。
今は構っていられない。私はそれを無視して歩き出す。
「貴女は翼から逃げようとしている。もう翼には時間がないという事実から逃げようとしている」
後ろ指を差すように翼の兄が私に言い積める。追いかけてきているようだ。
私は相手にしない。相手にしたくない。
「だが、逃げたとしても事実は変わらない。どれだけ背を向けてもその事実だけは揺るがない」
無視する。
私に構わないでほしい。
「そもそも貴女は翼に出会わなければこんな辛い思いをしなかった」
私には聞こえない。そんなこと聴こえない。
「――だから貴女は、翼と出会った事を後悔している」
「――うるさい」
私の歩みが止まった。
今の言葉は聞き捨てならない。
「私は後悔なんかしてないわよ」
後悔なんかするわけがない。ぜったいにするもんか。
なぜなら、私は――
「私は、翼と出会えてすっごい幸せなのよ。後悔なんかするわけないでしょ?」
笑いながら言い放ってやった。どうだ参ったか。
「……そうですか」
私の言葉を聴いた翼の兄はふっと微笑を浮かべると、
「翼を、最期までよろしくお願いします」
と言って去っていった。
「……………」
なんというか、言ってすっきりした。
とりあえず、翼の元に戻ろう。一緒にいられるときはなるべく一緒にいたい。
私は翼の部屋の襖の前に立ち、襖を開けようとしたところで異変に気がつく。
部屋の中から苦しそうな咳の音が聴こえる。それも止まりそうにない。
まさか――
「翼っ!」
私は悲鳴のような叫びをあげながら部屋に駆け込む。
翼が手で口を覆いながら咳をしている。その手から血が見える。
発作か!
「だ、誰か! 誰か来て!!」
私は頭が真っ白になる。
どうすればいい。私には助けを呼ぶことしか出来ないじゃないの。
「翼が! 翼が!」
パニックにならずにはいられなかった。被弾した時や墜落した時の何千倍も怖い。このまま翼が死んでしまうのが気が狂いそうなほど怖い。
すぐに使用人が医者らしき男を連れてやって来る。
早く――早く翼を助けて欲しい。なんでもいいからこの発作を止めてほしい。
そう祈らずにはいられなかった。
*
薬を服薬させると、翼の発作は何とかおさまった。発作がおさまると、翼はそのまま眠ってしまった。
起きた時のために一緒にいてあげたかったが、『明日までは目を覚まさないだろう』と翼の両親に諭され、私はしぶしぶ神社に帰る。
神社に帰ると、もうすっかり日が暮れていた。
数日前のように魔理沙がいないかなと期待したが、いなかった。
紫も、萃香も、文も、誰一人としていなかった。いたらちょっと愚痴ろうかと思ったんだけどな。
夕飯を作ろうかと思ったが、正直食べる気が起きないので止めた。
適当に風呂を沸かし、それに入り、適当に寝る。
翼のことが気になって、やはりほとんど眠ることが出来なかった。
翌日、私は午前中から翼の家を訪ねていた。いつもなら午後から訪ねるのだが、一刻も早く翼の無事な姿を見たかった私はいてもたってもいられなかったのだ。
屋敷に上がり、使用人たちに適当に挨拶しながら翼の部屋へと急ぐ。聞く話によると翼はもう目を覚ましているらしい。
「翼」
襖を開ける。
「あ、霊夢さん、おはようございます」
翼は上体を起こしながら挨拶をする。良かった、何とか元気そうだ。
だがその顔色は非常に悪い。見ていて痛々しいほどだ。
「おはよう、翼」
とりあえず、挨拶を返す。
「今日は早いですね。どうかしましたか?」
「昨日あんなことがあったから心配でじっとしていられなかったのよ」
私は正直に答える。
「……すみません、心配かけちゃって」
翼が申し訳なさそうに言う。
「かまわないわよ」
笑ってやった。暗い顔をして翼気を遣わせるわけには行かない。私がしっかりしなければ。
「それよりあんた、発作は大丈夫?」
「はい、おかげさまですっかり良くなりました」
翼は私に笑いかけながら言う。その笑顔に心が痛んだ。
「霊夢さんこそ、大丈夫ですか? また顔色が良くないですよ?」
「私の顔色はいつもこんな色よ」
「いや、そんなわけないでしょう……」
翼は苦笑する。確かに昨日の昼から何も食べていないし、一睡もしていないので顔色は悪いかもしれない。こんなことなら否が応でも何か食べて顔色を整えてくるべきだったか。
「ところで翼」
「はい、なんですか?」
「何か、私に出来ることはない?」
「……いきなり、どうしたんですか?」
翼が目を丸くする。
「いや、私、まさかあんたがあんなに酷い状態だとは思わなかったから」
「発作のことですか? そんなに言うほど酷いものではありませんよ。傍から見たら今にも死んでしまいそうに見えたかもしれませんが、僕にとってはあれが普通です。全然、平気です」
言いながら、翼が笑いかける。が、その笑顔はあまりにも不自然だ。その笑顔を見て私は気づく。もしかすると、翼は自分の身体の状態のことを私に隠しているのだろうか?
翼は今まで私に生まれつき病気を持っていること以外教えてくれなかった。どんな病気なのか、それは治る見込みがあるのか、その他もろもろのことを私に話してくれなかった。それは、私に自分が末期だということを知って欲しくなかったからじゃないだろうか?
私はもう翼の病気のことを知ってしまった。しかし、翼はそれを知らない。
私はこのまま黙っているべきなのだろうか? 気がつかない振りをして、翼が死ぬまで過ごせばいいのだろうか?
いや、そんなことは出来ない。確かに気づかない振りをしてしまえば何事もなく過ごすことができるだろうが、決してそれは楽ではないはずだ。最期までそんなモヤモヤしたままでいるのはまっぴら御免だ。
私は――翼に伝えなければならない。例えこれがただのエゴだとしても、だ。
……やれやれ、そういう性分じゃないはずだったんだけど、どうしてこうなっちゃったのかしら?
私は心の中で苦笑する。
「――ねえ、翼」
私は、勇気を振り絞り、言う。
後悔はしない。絶対にだ。
「どうしたんですか? 本当に今日変ですよ?」
翼が訊ねてくる。私がこれを言ったら、どんな顔をするんだろう?
「実は、あんたのお母さんから聞いたんだけど――」
そこまで言葉を出したところで、翼の表情が固まる。私がなんと言うか分かったらしい。
ああ、やっぱり隠してたんだ。
ごめんね、言うよ。
「――あんた、もう永くはないんだってね」
――しばし、沈黙が流れる。
そして、しばらくすると、
「母さん、言っちゃったんだ……」翼が目を閉じて呟く。「黙っててって言ったんだけどなぁ……」
翼が苦しそうに笑う。
「いつ、聞いたんですか?」
「昨日の、あんたが倒れる前」
「もしかして、それを知ったから、今日あんなに優しい言葉をかけたんですか?」
翼の口調が突然厳しくなる。目からは涙が流れている。あんなに強く笑っていた翼が、一生懸命無理をしていた翼が、泣いている。
「同情ですか!? こんな僕がどうしようもなく哀れに見えたから、優しい言葉をかけようとでも思ったんですか!?」
「違うっ!!」
私はさらに強い口調で、叫ぶように言う。
「絶対に違う! そんなんじゃない!」
「じゃあ――」張り合うように翼が叫ぶ。自分の身体なんて気にしないかのように、感情に任せて声を張り上げる。「何だっていうんですか!?」
「私は――」
さらに強い感情で伝える。
私は――
「あんたのことが好きなのよ」
「――え?」
翼は感情が抜けたかのようにきょとんとした。
私は、ようやく理解した。
なぜ、私のような面倒臭がり屋がここに通い続けることが出来たのかを。
「私は、あんたのことを愛してるのよ。でなきゃ私みたいな人に対しても妖怪に対してもそこまで興味が沸かない半端者が、あんたの元に通うことなんか出来やしないわ」
ましてや優しくすることなんて、普段の私からしてみれば到底考えられない。
「私は我慢できなかった。気づかない振りをして最期まで過ごして、何も伝えられないままあんたと別れてしまうのが」
最期まで見てみぬ振りをするのが嫌だった。大好きな翼が死んでゆくのを、何もせず、ただ見ているだけというのが嫌だった。
だから私はあがいた。自分に出来ることを探した。
そして、理解し合いたかった。一緒に考えたかった。
「僕だって、好きなんですよ」翼が目からぼろぼろと涙を零しながら、ぽつりとこぼす。「僕だって霊夢さんのことがとてつもなく大好きなんですよ? ……ずるいですよ、そんな一方的に……。僕だって、言いたくてもずっと言えなかったんですよ? 僕はもうすぐ死んじゃうし、そのことを言えば霊夢さんは僕から離れていってしまうかもしれないし……」
「馬鹿ね」私は翼を微笑みかけながら抱きしめる。「そんなことするんなら、はじめからあんたの所に通ったりなんかしないわよ……」
「最期まで、一緒にいてくれますか?」
「当たり前よ」
私は力強く、自分に言い聞かせるように頷く。
「私があんたの余生を最高に幸せにしてあげるわ」
*
それから私はなるべく翼と一緒に過ごすことにした。
朝、神社の仕事を軽く済ませて屋敷に行き、夜まで翼と共に過ごし、翼が寝付くのを確認してから神社に帰る。それが私の日課とするようになった。
しかし、次第に翼の発作の回数が多くなり始めた。かつては一週間に一度ほどと言われていた発作のペースが、私と過ごすようになってから二日に一回ほどに縮まった。
もう、どう考えても限界だった。
しかし、私はいつも通り翼と過ごす。もう短いと分かっていても慌ててはいけない。私は、幸せにすると約束したのだから。
私たちの告白から一週間経ったある日、翼が突然こんなことを言ってきた。
「霊夢さん。一緒に外へ出ませんか?」
「……は?」
自然に笑いながら突然言うので、私は思わず自分の耳を疑う。
「あの初めて会った日みたいに、一緒に飛んで欲しいんです」
「あんた、正気?」なんてことを言うんだ。「そんな身体で外に出たら、命にかかわるわよ」
「分かってますよ」翼は一変して真剣な表情になる。「下手をすれば――もしかするとしなくても死ぬかもしれないというのは分かってます。でも、もしかすると明日僕は動けなくなってるかもしれないじゃないですか。場合によっては、明日死んでしまうかもしれない。――今じゃないといけないんです。僕の身体が辛うじて動くうちに――」
「分かったわよ」やれやれと、私は笑う。そこまで言われたら動かないわけには行かない。「最後に幻想郷を見ておきたいんでしょ? あんたが望むなら私はそれに答えるわよ。そういう約束だし」
私は翼に背を向けてかがむ。
「さ、つかまって。膳は急げよ」
何も言わずに翼が私の背中にしがみつく。
あの日と同じ、いや、あの日より若干軽くなっている。
「さあ行くわよ、翼」
立ち上がって、縁側まで歩き、戸を開ける。
「靴はどうしますか?」
「必要ないわ。飛ぶだけならね」
そもそも取りに行っている暇がない。玄関に取りに行って誰かに見られたら、外に出ようとしていることがばれてしまう。
「目的地は?」
私はふざけ半分で翼に訊ねる。
「あなたと共に、どこまでも」
「了解」
私はうなずいて、飛び立つ。
天気は晴れ。絶好の空中散歩日和。
*
私たちはあの日以上に速く、高く飛ぶ。
翼を背負っているにもかかわらず、私はいつも以上に調子が良い。速く、高く、いつまでも飛んでいられそうだ。文字通り、背中に翼があるかのようだ。
ちまたでは丁度桜の季節。あちらこちらに花見をしている者の姿が見える。人間の姿も、妖怪の姿も見える。
私たちは幻想郷中を飛び回る。
人里――
魔法の森――
霧の湖――
妖怪の山――
迷いの竹林――
無縁塚――
太陽の畑――
様々な場所で、様々な色を――景色をその目に焼き付ける。
決して忘れぬように、いつまでも心に残るように。
日が暮れはじめ、さあ次はどこに行こうかと考えていたところで、突然翼が咳きをする。
発作だ。
「……気にしないでください」
翼が苦しそうに言う。
「大丈夫です。まだまだ行けます。それより、次は雲の上へ行って見たいです。行けますか?」
「もちろん」
私は強く頷き、高度を上げる。
高く――
もっと高く――
雲を突き抜ける――
「――うわぁ」
翼からこれまでにない歓喜の声が上がる。
あたりに茜色に染まった雲が広がっている。
私としてはあまり珍しくないはずの光景であるにもかかわらず、胸から熱いものがこみ上げてくる。
翼と一緒というだけなのに、何でこんなに景色が違って見えるのだろう? 空を飛んでこんなに感動したのは、初めて飛んだとき以来だ。
「すごい、僕らの足元に雲がある」
風の音にかき消されずに翼の声が耳に入る。翼の心臓の鼓動が、背中越しに伝わる。表情が見えないのに、笑っているのが分かる。幸せでたまらない。涙があふれる。
二人で飛ぶというだけで、こんなに幸せだなんて思わなかった。
「こんな茜色で綺麗な空、初めて見た」
翼の声はさらに大きくなる。にもかかわらず、心臓の鼓動が弱まり始める。
幸せで、悲しくて、涙が止まらない。
「霊夢さん。僕は今、ものすごく幸せです。あなたといっしょにいることができて、そして、こんなきれいなそらをみることができて――」
強くなった声は次第に小さく、弱くなる。
しかし、風に負けず、私の耳に届く。
心臓の鼓動はどんどん弱まる。
「さいごに、霊夢さん、ぼくは――」
完全に声が消える、だが私にはちゃんと「あなたをあいしてる」という声がちゃんと聴こえた。
心臓の音は、声と共に消えていった。
*
私たちが部屋に戻ると、そこには翼の家族がそろっていた。
「あの、博麗さん。ありがとうございます。翼と最期まで一緒にいてあげてくれて、本当にありがとうございます。布団の中で私たちに看取られるよりも、外であなたに看取られる方が、この子にとって幸せだったと思います」
私の背中の物言わぬ翼の姿を見ると、翼の母はそう言った。
私は、ゆっくりと翼を布団の上に寝かせる。
「ありがとう、翼」
心の中でそう呟き、一礼して私はその場を後にした。
*
「よう、おかえり霊夢。また鍵が開いてたぜ」
神社に帰ってきた私を、なぜか神社にいた魔理沙が出迎える。
「魔理沙、夕飯なら後にしてよ。疲れているんだから」
屋敷を出るまでは全然平気だったが、流石に幻想郷中を飛び回るのは身体にこたえる。私はよろよろと茶の間まで上がり、へたりと座り込んだ。
「まあまあ、夕飯は私が作ってやる。それよりこれを見てくれよ」
魔理沙はどこからともなく紙を取り出し、私に渡す。
……新聞のようだ。
「文々。新聞の号外だぜ」
そこには『博麗の巫女の悲しき悲恋!』という見出しと共に、私が翼をおぶって空を飛んでいる姿の写真があった。
隠し撮りか。全然気がつかなかった。
「っていうか、仕事が随分と早いわね」
私は思わず呆れる。
「これで賭けは私の勝ちだな」
魔理沙はにやにやと笑った。
「そうみたいね」
「あ、でも奢る必要は無いぜ。私はそこまで外道じゃないからな」
「……どういうことよ?」
新聞に『悲恋』と書かれているのも気に掛かる。
「実はな、お前が惚れたあの次男坊、近所でもうあまり持たないだろうって噂になってたんだよ」
「あー、なるほどね」
発作を起こすたびに騒ぎになっていたんだ。そりゃあ近所の人もそう思うだろう。それに、翼は生まれたときから心臓を患っていたのだから、家の外に伝わらないはずもない。
「それに、文が私に『霊夢さんにご愁傷様と言っておいてくださいね』って言ってきた」
「あの駄天狗……」
どうやらどこかで翼が亡くなったのを確認したらしい。
「今回、お前は随分と辛い思いをしただろうと思う。初恋が悲恋だもんな」
魔理沙が珍しく真面目な顔をして言う。心配してくれてるみたいだ。
「いや、そうでもなかったわ」私は微笑みながら言う。「私は幸せだった。最期まで一緒にいることができて、私には未練も後悔もないわ」
「そっか」
それは良かったと、魔理沙が笑う。
「まあとりあえず、私は寝るわ。もうくたくたなのよ」
「夕飯は?」
「別にいい。あんたが食べたかったら勝手に作れば?」
「膝枕、してやろうか?」
「馬鹿。あんたの貧相な膝を枕にするくらいなら床の方がマシよ」
「それは酷い言いようだな」
私は座布団を頭に敷いて寝転がる。
「おやすみ、魔理沙」
「おう、おやすみ、霊夢。いい夢見ろよ」
*
翼の葬式の後、私はあの日飛んだ空を一人で飛んでいた。
天気は晴れ。絶好の空中散歩日和。時刻もあの時と同じ、夕暮れ時だ。
茜色の雲の上を、私は飛ぶ。
自分が空を飛べるという幸せを――生きているという幸せを噛み締める。
私の目から、涙が一粒こぼれる。その涙は、風に流されてどこかに消えていった。
「翼。私も、あんたのこと、愛してるわよ」
――私の背中には今、空を飛ぶための翼がある
ベターだけどそこら辺にある恋愛物より遥かに感動できたぞ。
こういうのも、あり得るんだな…。
惜しむらくは改行でしょうか。
同情が恋愛感情と錯覚させることもあります。その可能性を考えるとまたちょっと違う意味になってきます。
人によって好き嫌いはありそうな作品ですが、私はこういうのもアリと思いました。
翼の薄命、霊夢の悲恋を表現するには、このくらいのほうがいいのかな
事実をそのまま受け止める霊夢の強さが、逆に泣けます
翼のおかげで霊夢は空を飛べることの素晴らしさを改めて感じたんですね。
翼の兄はちょいと嫌味な性格でしたねぇ。しゃしゃり出てきてからに……「じゃあお前は何をしてやれるんだ?」って言ってやりたいね!
最期、静かに息を引き取った終わり方には何とも言えない焦燥感がありましたが、霊夢はどうやら向かい合ったようで、その、立派、っていうのかな。
私は大好物ですが
霊夢が恋したって良いじゃない、博麗の巫女の前に女の子なんだし
よくあるオリキャラ恋愛物は、主人公=作者が多いですが、これはオリキャラと言うよりモブキャラで書かれてるし
良いと思いますよ
しかし翼君には生きて霊夢を幸せにして欲しかった
そして子供なんかが出来て、知り合いたちに祝福されるなんてハッピーエンドを見たいと思いました