世間ではちょうどお盆さんだったか。
うだるように蒸し暑い室温のなか眠い目をこすり、セミの鳴き声を聞きながら寝間着のまま玄関へ向かう。
汗びっしょりではしたない格好、なんてどうでも良かった。
戸を開けたところに見知った顔が複数あった。
文の五周忌ということだけれども、どうするのかと。
自分たちは絶対に行かないけれど、鎮守府のほうは情監室名義で精霊流しの船を浮かべるつもりらしい。
お前はどうするんだ、と。
夜勤当直の徹夜明けを承知で、それでもこうして押しかけてくる理由になんとなく察しはついたが、私も行く気にはなれなかった。
「別にいい――私は興味ないから」
「あんたなら、そうね。そういう言い方するだろうね」
はたてはそう言って笑うけれど、心の奥底では決して私を許さないに違いない。
彼女が失踪する原因を作ったのは、誰あらん私自身なのだから。
†
きっかけは今でもよくわからない。
誰かに吹きこまれたのか、それとも独りでずっと思いつめていたことなのか――
それでも、あの頃の文は何かじっと考えこむことが多かったし、何を聞いても上の空で、まるで体だけその場において魂が虚空をさまよっているように見えた。
私にはそんな文の姿がひどく儚く思えて、そのままふっと消えてしまいそうな、翌朝にはいなくなってしまいそうな感覚に怯えたことを憶えている。
だから、文が「外の世界に行きたい」なんて打ち明けたとき、私は強硬に反対した。
「なに莫迦なこと言ってるんですか! 冗談はやめてください」
今にして思えば、あのときしっかり文の主張を聞いていれば、結果はまだ違ったものになっていたのかもしれない。過ぎたことを今さら言ったって、仕方がないけれど。
でも、あのときの私は「来るべきものが来た」という予感に、ひどくおののいていたのだ。無理もなかった。そう思いたい。
勢い込んで畳み掛ける私をさえぎり、文は一冊の本を取り出し、ページをめくっていく。
鮮やかな印刷で目の醒めるような写真を載せているその本は、まごうことなき外の世界の本。それも旅行雑誌の類らしい。
たしかに、そのジャンルはその頃の文のお気に入りで、暇さえあれば道具屋に赴いては「資料収集」の名目で買いあさっているのだった。
その中の一ページを探し当て、文は私に見せる。
「また外の雑誌ですか」
文が指さして見せる写真には蛇が写っていた。私の知っている蛇とは似ても似つかなかったけれど、そう例えるのが自然な気がする。蛇というより、うなぎの寝床と呼んだほうがしっくりくるかもしれない。
カモノハシのような頭を持つ白蛇は、長い長い胴体の横に青い線を描き、流星のような印象を見る者に与えていた。
「新幹線っていうんだって。千もの人間を一度に運び、十里の路を瞬く間に往くその姿、さながら弾丸のごとし。ヒト、モノ、カネ――物流の大動脈。外だとそんな化物がごろごろしてるんだってさ。見てみたいと思わない?」
私は返答に窮した。十里、弾丸、ごろごろ、見てみたい。何を言ってるんだ。
「見てどうするんですか。そんなの見たって何の――」
「人間ってなんなのかしらね」
虚を突かれて目を白黒させる私に、文はこう言ったものだ。
「人間は素晴らしい。私たちは――化物は決して人間には勝てない」
絶句しているこちらを無視して文は続ける。
「八十年。たったの八十年。人間って本当にちっぽけな存在よね。私たちは世紀を超え、時を超え、思いと歴史を語り継いでいく。そんな私たちに比べてゴミみたいな八十年。なのに――なのに彼奴らは、その塵みたいな生命を燃やし、血をたぎらせて何事かを為し、瞬くような光陰を駆け抜け、そして幽世へ消えてゆく」
霊夢も魔理沙も咲夜も早苗も、と続けた瞳には個性豊かな友人たちが映っているのに違いない。
「その象徴がこの写真よ。瞬く間に十里ですって? そんな莫迦げた話――でも、事実なのよ。物語を紡ぐのはいつも人間。何処より来たりて何処へと去りゆくのか。そんな問いに答えさえ出ないまま、ただ消えてゆく。自分の来し方行く末すら世話の出来ないくせに、もう私たちの手の届かないところにいる。きっと化物は、いつまでも人間に追いつけないのよ」
意味は全くわからなかったけれど、なんだか頭にきた。怒りに乗じて、口から出まかせが転がりでてくる。
「いい加減にしてください! サンチマンタリスムも結構ですが、文さま少しおかしいですよ。少しは冷静に――」
それを聞いた途端、文は怒りを湛えた射るような目で私を見据えて、それ以上を封じてくる。まるで、そんな後ろ向きの思考はたくさんだ、とでも言うように。
「ねぇ椛、おかしいってなに」
射られたまま、私は何も口にできない。文も答えを待たなかった。
「天狗の普通ってなに。妖怪の常識ってなに。他のみんなと同じように、ただ山で生活して死んでいくこと? 気が遠くなるような時のあいだ一歩も山を出ず、ただ馬齢を重ねて生涯を無駄にして、この世の総てを見下しながら意味もなく孤独の頂きで嗤っていること?」
「馬齢って――」
「馬齢じゃない。現に私たちは山に篭り、外に出ること無く、この狭い箱庭で一生を終える。井の中のケロケロ大海を知らず。吾が愛しの山河は、脆く儚いものなりて、蛙揺蕩う海はなし」
手を広げ、謡うように朗々と語ってみせる文の姿が我慢ならなかった。何か言わなければと焦る思考から、ころころと言葉が転がりでてくる。
「されど空の蒼を識る――狭い世界しか知らないからこそ、深く見えるものもある。井の中の蛙は空の深さを知っていると思いませんか?」
「屁理屈よ、それは」
私の口から出まかせを叱責するように、ぴしゃりと叩きつけた文の言葉は辛辣だった。
その否定にひどく衝撃を受けながら、しかし同時に私はなぜと思うのだ。目を逸らして言下にそう切り捨てた文の瞳は、動揺に揺れているのだった。
「ねぇ椛、蛙は海では泳げないのよ。いつまでも妖怪が井の中の蛙でいる限り、海では泳げないのよ。外の世界を知らないまま、ただいつの日か訪れる滅びを待つだけ。そんな未来で本当にいいの? 一度も海で泳がなくて、本当にいいの?」
寂しげな口調で語りかける文の瞳は、もう怒っていなかった。こちらを説得するように噛んで含める文の表情は、まるで懇願だった。
私もまるっきり当惑して、
「外の世界、外の世界って、あれだけ人間のこと馬鹿にしてたひとの言葉とも思えませんが――」
「違う違う! わかってない。椛は何もわかってない!」
かぶりを振ってほとんどすがるように、絶叫するように文は否定する。
だったら一体なんだ!
幻想郷は、幾代も前の博麗の巫女が結界を張り、外の世界から逃れるように、こうして山の奥へひっそり存在を現したのだと聞く。
つまり、この理想郷こそ外の世界で存在を追われ、生きていけなくなった妖怪たちが、安住の地を求めてたどり着いた結論というわけ。
負け犬たちの最後の楽園。実に結構なことじゃないか――
外の世界のように物質に日々あふれ、自ら心を殺していくよりは、箱庭の楽園の中で自分たちの王国を築く。そのことの、いったい何がいけないというのだろう。
たしかに海はないけれど、山の頂上から向こうを見渡せば、稜線の間にきらめく青色が覗くことはある。
だからなんだというのだ。
幻想郷の人間も妖怪も、海がなくたって生きていける。見る必要もない。見たいとも思わない。
ここにはなんでもあるじゃないか。山も、河も、空も、天も――
ただ海がない。海がないだけ――
「井の中の蛙でいいじゃないですか。負け犬の楽園でいいじゃないですか。それの一体何がいけないことだって言うんです。なんで現実を受け入れようとしないんですか」
後ろ向き? いいじゃないか後ろ向きで。ここが私たちの最後の楽園だ。妖怪たちの、幻想存在の失われた理想郷。そこから出て、一体どこの煉獄を目指そうというのだろう。
何よりも、物質文明に溢れ、自ら心を殺す外界を否定していたのは、誰あらん文自身なのだ。今さら心変わりしたとも思えない。なぜ、そこまで外界にこだわるのか。
どうして文がここまで意地を張っているのか検討もつかなかったけれど、私がどうやら取り返しのつかないことをしようとしていることだけは分かった。
目を伏せた文は下唇を噛んで、今にも泣き出しそうな顔で何かを耐えていた。
まるで、爆発しそうな感情を押さえつけるかのように。
そんな文の姿を私は前にも見たことがあった。
いつも年寄りじみて飄々と空を飛び回っているくせに、その実、文が驚くほど青臭く、感情を爆発させることがあるのを私は知っていた。
いつも表に内面を出さないからこそ、ひとたび激昂したときは幼く見えるまでに荒れるのだ。
私の前ではじめて荒れたときもそうだった。
権威を傘に着た、保身と無理解の権化みたいな大天狗のオヤジと、天狗のあり方について散々やりあったときのこと。正論で以て応じた文は、だが結局、いい加減でぞんざいな上司に屈服した。女だと甘く見られ、話すらまともに聞いてもらえなかったことが、何よりも耐え難い屈辱だったらしい。
夜半、尋常でなくスれた雰囲気で帰宅した主を出迎え、無責任な言葉で慰めようとした私に、仕えて以来、文は初めて感情を爆発させた。
さすがに家内をめちゃめちゃにすることについては自制したらしいが、それでも私に思いっきり枕を投げつけて、手がつけられないほどにわんわん泣きじゃくったものだ。
爪が食い込むまで握られた拳と、おこりのように震える肩を見て、このときの私もようやく理解した。
ああ、私は同じ過ちを繰り返そうとしている。
無責任な言葉で、適当に想いをあしらい、滅多にない内心の吐露を無視しようとしている。
ようやく私も焦る。
なぜ何も言わないんだ。
なぜ反論しないんだ。
何か喋ってくれ。
何か叫んでくれ。
罵倒でもいい、激昂でもいい、受け止めるから。
今度はあなたの思いも、私がちゃんと受け止めるから。
そうでもしないと、文とのつながりが切れてしまう、そんな気がした。
頬を伝い、顎からぽたぽたと落ちる水滴を見つめて、私は全身全霊から真摯さをかき集める。
だが、パニックになった思考から出てきたとんでもないセリフは、自分でも驚くほど無責任な他人の声だった。
「ともかく、掟には従ってください。それが文さまのためです」
違う、そうじゃない!
私が言いたいのはそんなことじゃ――
顔を伏せた文の口が、みるみるうちに笑みの形に歪んでいく。それは、笑顔と呼ぶには、あまりに歪んだ嘲りの冷笑。
待って、違うの。私はただ――
「つまんない子」
断ち切る声。
文の口調には、もう何の迷いも葛藤もなかった。
ゆっくり顔を上げた射命丸文はたしかに泣き腫らした顔で、こちらを嗤っているのだった。
――愚か者
文の目が間違いなくそう言い、私は一線を越えてしまったらしい我が身を理解した。
このとき、上官でもある先輩に対して、非礼を詫びる土下座のひとつでもしていれば、まだ良かったのかもしれない。
だが、この期に及んで、狼狽を瞬時に反感へと書き換えた天邪鬼の口から飛び出たのは、謝罪の言葉でも、真意を問う至情でもなく、なんの意味も持たない憎まれ口だった。
「――じゃあせいぜい、その御自慢の速さでもって、素晴らしい人間存在とやらを追いかけたらいかがです。もっとも、おっしゃるとおりの素晴らしさならば、今から追いかけたとて到底間に合わないでしょうけど。なんでそこまでして――不毛にもほどがある」
「だって、負けたくないじゃない」
赤の他人となってしまった顔が淋しげに笑い、窓の外、どこか遠くの彼方を見つめている。
あの笑顔は、彼女が見せた最後の真摯だったと思う。
今思えば、文はあの瞬間に幻想郷に見切りをつけたのかもしれない。それから程なくして、文は消えた。
半ば予期していたことなので驚きはなかった。
ただ、悔しかった。
妖怪のくせに。
天狗のくせに。
人間なんかに心奪われて、いまの地位も存在も捨てて、くだらない外界なんかに翔けていった――
でも、そんな否定を口にするたび、私の胸の内はきりきりと万力で締め付けられる心地がするのだ。
まるで、自ら為した不誠実を正当化する、その不実を責めるかのように。
文の一度だけ見せた動揺。まるで真実、唯一信じていたものにさえ裏切られたとでもいうような、あの驚愕と、畏れと、絶望とがない混ぜになった、深淵さえ湛えた瞳を、私はゆめ忘れまい。
いや、忘れたいのに、あの表情が脳裏にこびりついて離れないのだ。
あのとき、私が裏切ったものは一体なんだったのだろう。
あのとき、この世の総てに絶望するような、そんな死に至る病を抱えるようなひどい裏切りを、私は一体何に対して行ったのだろう。
あのとき、文が耐えていたのは。決して認めることの出来ない山の現実だろうか。
いや、違う。
山の現状に対する怒りなんかじゃない。きっとあれは、私に理解を拒絶された絶望――
だから、彼女が淋しげに笑いながら彼方へと見出したのは、希望ではなかったか。
そう、一向に外を見ようとしない幻想郷に対して心を閉じ、開けた世界に唯一見出した希望への没入は、たったひとり目をかけた白狼にさえ理解を拒絶された、絶望の捌け口ではなかったか。
いつまでも殻に閉じ籠り、自らの可能性をさえ潰してしまうこの地に失望して、彼女は自ら在るべきと認めた空の彼方へ去ってしまったのではなかったか。
ひとりにだけは理解して欲しかった、ゆるやかな滅びを甘受せず、最期の時まで足掻いてみせるちっぽけな生命の輝き――そんな生き方を否定されて、感情の爆発さえ無意味だと思わせるほどの深い絶望に苛まれた彼女は、たったひとりで彼方へと去ってしまったのだ。
それはとても寂しいことだと感じる一方、いかにも文らしいと腑に落ちるのも事実で、私は嘆息する。
認めたくない。
認めたくないのに、なんだろうこの虚々しさは。
今さらしたり顔で認めたとて、失われた希望が還るでもない。なんの役にも立たないのに。
なのになぜ、こうも涙があふれてくるのだろう。
だから私は、許せないんだ。
こんなわだかまりを仲間たちに遺して、溝を遺して。
虚空の彼方に去ってしまった無責任さが、私は許せないんだ。
でもきっと、私は悔しいんじゃなくて、哀しいんだと思う。
なぜなら、私が本当に許せないのは、幻想郷を捨てた文ではなく、きっと文の心を引き留められなかった自分自身だと思うから。
棄てられる理由を、自ら作ってしまった自分自身だと思うから――
井の中の蛙大海を知らず、蛙揺蕩う海はなし。よく言ったものだ。
幻想郷の妖怪が文字通りのお山の大将を気取っているのは、結局のところ、外の世界で生きてゆくことができなかったからだ。
闇の王たる化性の者たちは、常に人間たちからその版図を蝕まれてきた。
かつて地上が楽園だった頃、世界は昼と夜の二つに分かれていた。
昼の世界を司るヒトと夜の世界を司るアヤカシたち。
住み分けはできていたと思う。人は闇を恐れ、敬い、その眷族たちを崇め、祀ったものだった。アヤカシの者たちが集う楽園は、たしかにそこに存在したのである。
だが、人が火を持ってから、何もかも変わってしまった。
かつて狩られる側だった人間たちは、灯りを灯し、夜を少しずつ昼に変え、そのちっぽけな生命をたぎらせて闇の勢力を奪ってきた。
世界に光が満ち、昼夜の区別が最早無くなった今、人が闇を恐れる理由はない。
化物を編制し、化物を教導し、化物を錬成し、化物を指揮することさえ厭わなくなった虫けらども。
そんな人間に居場所を追われ、眷属たちはいつしか昼に怯える生活を過ごすようになった。
そうして、アヤカシの者たちはこの世に遺された最後の楽園、古の畏れが残り、信仰の教えが残る、進化から取り残された偽りの楽園を囲い、緩やかな滅びの時を待つことにしたのだ。
そんな幻想の妖怪たちにあって、射命丸文は異端だったといま改めて思う。
人の人たる所以を探し続けた文の行為はきっと、天狗の天狗たる所以を、自らの自らたる所以を探ることに他ならなかったのかもしれない。
そうとでも言わないと説明がつかないのだ。里に一番近い鴉天狗が幻想の人妖を描いた、そのわけが。
天狗の天狗たる所以。
なんという青さ、なんという未熟さ。幻想の住人は、そんな存在哲学になど疑問を覚えたりしない。
徹頭徹尾初志貫徹、「我レ此処二在リ」だ。
でも、それはたしかに探究心を無くし、ただ「ここにあるべし」と滅びを受け入れた者たちの枯れ行く姿なのかもしれない。文にとって、そんなゆるやかな滅びは我慢ならなかったのだろう。
――自分は怖かったのだ。
定められた滅びにあらがい、未知なる発見に胸ときめかせ、止めた歩みを今一度進めはじめる。
静止した時計のねじを一回一回巻いていくように、抑え難い好奇を満面の笑みに宿らせて、明日の新たな出会いに思い巡らせる。
そんな無辜の少女のような文の姿が自分にはふと、とても遠い存在のように思われて、手が届かなくなってしまいそうな不安と、このまま消えて無くなってしまいそうな恐怖に怯えたのだ。
自分は置いて行かれるのだろうか。
自分も変わらなければならないのだろうか。
なぜ自分が変わらなければならないのだろうか。
自分はここに居たい。ここに居て欲しい。そばにいて欲しい。
そんなこちらの叫びも聞こえないのか、さっさと先に行ってしまった文は、曲がり角からおいでおいでと手を招く。
どうしてそこに行かなきゃいけないの。
どうすればそこに手が届くの。
本当にそこにいるのは文さまなの。
そんなことしなくていい。私はここから動きたくない。変わりたくない。私はただ、ここに居て欲しいだけなのに。
そうこうしてるうちに、文は曲がり角に消えてしまった。
結局、自分は文を繋ぎ止めることさえできないほど幼く、愚かだったのだろう。
文の変革を畏れ、変わることを拒み、ただその場でうずくまることを選んだ結果、本当に大切なものを失ってしまった。
手を伸ばせば掴めたかもしれないのに、その得られたかもしれない可能性を自ら潰えてしまったのだ。
胸の内に苦味が広がっていく。こんなこと今さら認めたって、何の意味もないのに。
そう、何の意味もないのに。
だのに、この流れる涙はなんだろう。
ああ、なんという喪失! なんという空費!
たったそれだけ。言葉にすればたったそれだけのことを理解できないほどに、自分は幼かったのだ。
今さらながらに理解できた虚無が全身を襲い、かつてない喪失感に私は震える。
時すでに遅し。最も残酷な形で成された裏切りは、今や取り返しのつかない地平へと去ってしまった。
いくら虚空に詫びたとて、後悔は先に立たない。
なんという悲劇。
なんという喜劇。
零れた水は盆に還らない。これも所詮、独り善がりの悔恨か――
そう分かっていて尚、私は悔いずにはいられない。
自分は本当に彼女の力となれていたのだろうか。
自分は彼女の中に何か意味を残せたのだろうか。
この哀しみは、彼女が抱いただろう絶望のいくらかでも共有できているだろうか。
嗚呼、文さま――あなたは今、何処を飛んでいるのですか。
うだるように蒸し暑い室温のなか眠い目をこすり、セミの鳴き声を聞きながら寝間着のまま玄関へ向かう。
汗びっしょりではしたない格好、なんてどうでも良かった。
戸を開けたところに見知った顔が複数あった。
文の五周忌ということだけれども、どうするのかと。
自分たちは絶対に行かないけれど、鎮守府のほうは情監室名義で精霊流しの船を浮かべるつもりらしい。
お前はどうするんだ、と。
夜勤当直の徹夜明けを承知で、それでもこうして押しかけてくる理由になんとなく察しはついたが、私も行く気にはなれなかった。
「別にいい――私は興味ないから」
「あんたなら、そうね。そういう言い方するだろうね」
はたてはそう言って笑うけれど、心の奥底では決して私を許さないに違いない。
彼女が失踪する原因を作ったのは、誰あらん私自身なのだから。
†
きっかけは今でもよくわからない。
誰かに吹きこまれたのか、それとも独りでずっと思いつめていたことなのか――
それでも、あの頃の文は何かじっと考えこむことが多かったし、何を聞いても上の空で、まるで体だけその場において魂が虚空をさまよっているように見えた。
私にはそんな文の姿がひどく儚く思えて、そのままふっと消えてしまいそうな、翌朝にはいなくなってしまいそうな感覚に怯えたことを憶えている。
だから、文が「外の世界に行きたい」なんて打ち明けたとき、私は強硬に反対した。
「なに莫迦なこと言ってるんですか! 冗談はやめてください」
今にして思えば、あのときしっかり文の主張を聞いていれば、結果はまだ違ったものになっていたのかもしれない。過ぎたことを今さら言ったって、仕方がないけれど。
でも、あのときの私は「来るべきものが来た」という予感に、ひどくおののいていたのだ。無理もなかった。そう思いたい。
勢い込んで畳み掛ける私をさえぎり、文は一冊の本を取り出し、ページをめくっていく。
鮮やかな印刷で目の醒めるような写真を載せているその本は、まごうことなき外の世界の本。それも旅行雑誌の類らしい。
たしかに、そのジャンルはその頃の文のお気に入りで、暇さえあれば道具屋に赴いては「資料収集」の名目で買いあさっているのだった。
その中の一ページを探し当て、文は私に見せる。
「また外の雑誌ですか」
文が指さして見せる写真には蛇が写っていた。私の知っている蛇とは似ても似つかなかったけれど、そう例えるのが自然な気がする。蛇というより、うなぎの寝床と呼んだほうがしっくりくるかもしれない。
カモノハシのような頭を持つ白蛇は、長い長い胴体の横に青い線を描き、流星のような印象を見る者に与えていた。
「新幹線っていうんだって。千もの人間を一度に運び、十里の路を瞬く間に往くその姿、さながら弾丸のごとし。ヒト、モノ、カネ――物流の大動脈。外だとそんな化物がごろごろしてるんだってさ。見てみたいと思わない?」
私は返答に窮した。十里、弾丸、ごろごろ、見てみたい。何を言ってるんだ。
「見てどうするんですか。そんなの見たって何の――」
「人間ってなんなのかしらね」
虚を突かれて目を白黒させる私に、文はこう言ったものだ。
「人間は素晴らしい。私たちは――化物は決して人間には勝てない」
絶句しているこちらを無視して文は続ける。
「八十年。たったの八十年。人間って本当にちっぽけな存在よね。私たちは世紀を超え、時を超え、思いと歴史を語り継いでいく。そんな私たちに比べてゴミみたいな八十年。なのに――なのに彼奴らは、その塵みたいな生命を燃やし、血をたぎらせて何事かを為し、瞬くような光陰を駆け抜け、そして幽世へ消えてゆく」
霊夢も魔理沙も咲夜も早苗も、と続けた瞳には個性豊かな友人たちが映っているのに違いない。
「その象徴がこの写真よ。瞬く間に十里ですって? そんな莫迦げた話――でも、事実なのよ。物語を紡ぐのはいつも人間。何処より来たりて何処へと去りゆくのか。そんな問いに答えさえ出ないまま、ただ消えてゆく。自分の来し方行く末すら世話の出来ないくせに、もう私たちの手の届かないところにいる。きっと化物は、いつまでも人間に追いつけないのよ」
意味は全くわからなかったけれど、なんだか頭にきた。怒りに乗じて、口から出まかせが転がりでてくる。
「いい加減にしてください! サンチマンタリスムも結構ですが、文さま少しおかしいですよ。少しは冷静に――」
それを聞いた途端、文は怒りを湛えた射るような目で私を見据えて、それ以上を封じてくる。まるで、そんな後ろ向きの思考はたくさんだ、とでも言うように。
「ねぇ椛、おかしいってなに」
射られたまま、私は何も口にできない。文も答えを待たなかった。
「天狗の普通ってなに。妖怪の常識ってなに。他のみんなと同じように、ただ山で生活して死んでいくこと? 気が遠くなるような時のあいだ一歩も山を出ず、ただ馬齢を重ねて生涯を無駄にして、この世の総てを見下しながら意味もなく孤独の頂きで嗤っていること?」
「馬齢って――」
「馬齢じゃない。現に私たちは山に篭り、外に出ること無く、この狭い箱庭で一生を終える。井の中のケロケロ大海を知らず。吾が愛しの山河は、脆く儚いものなりて、蛙揺蕩う海はなし」
手を広げ、謡うように朗々と語ってみせる文の姿が我慢ならなかった。何か言わなければと焦る思考から、ころころと言葉が転がりでてくる。
「されど空の蒼を識る――狭い世界しか知らないからこそ、深く見えるものもある。井の中の蛙は空の深さを知っていると思いませんか?」
「屁理屈よ、それは」
私の口から出まかせを叱責するように、ぴしゃりと叩きつけた文の言葉は辛辣だった。
その否定にひどく衝撃を受けながら、しかし同時に私はなぜと思うのだ。目を逸らして言下にそう切り捨てた文の瞳は、動揺に揺れているのだった。
「ねぇ椛、蛙は海では泳げないのよ。いつまでも妖怪が井の中の蛙でいる限り、海では泳げないのよ。外の世界を知らないまま、ただいつの日か訪れる滅びを待つだけ。そんな未来で本当にいいの? 一度も海で泳がなくて、本当にいいの?」
寂しげな口調で語りかける文の瞳は、もう怒っていなかった。こちらを説得するように噛んで含める文の表情は、まるで懇願だった。
私もまるっきり当惑して、
「外の世界、外の世界って、あれだけ人間のこと馬鹿にしてたひとの言葉とも思えませんが――」
「違う違う! わかってない。椛は何もわかってない!」
かぶりを振ってほとんどすがるように、絶叫するように文は否定する。
だったら一体なんだ!
幻想郷は、幾代も前の博麗の巫女が結界を張り、外の世界から逃れるように、こうして山の奥へひっそり存在を現したのだと聞く。
つまり、この理想郷こそ外の世界で存在を追われ、生きていけなくなった妖怪たちが、安住の地を求めてたどり着いた結論というわけ。
負け犬たちの最後の楽園。実に結構なことじゃないか――
外の世界のように物質に日々あふれ、自ら心を殺していくよりは、箱庭の楽園の中で自分たちの王国を築く。そのことの、いったい何がいけないというのだろう。
たしかに海はないけれど、山の頂上から向こうを見渡せば、稜線の間にきらめく青色が覗くことはある。
だからなんだというのだ。
幻想郷の人間も妖怪も、海がなくたって生きていける。見る必要もない。見たいとも思わない。
ここにはなんでもあるじゃないか。山も、河も、空も、天も――
ただ海がない。海がないだけ――
「井の中の蛙でいいじゃないですか。負け犬の楽園でいいじゃないですか。それの一体何がいけないことだって言うんです。なんで現実を受け入れようとしないんですか」
後ろ向き? いいじゃないか後ろ向きで。ここが私たちの最後の楽園だ。妖怪たちの、幻想存在の失われた理想郷。そこから出て、一体どこの煉獄を目指そうというのだろう。
何よりも、物質文明に溢れ、自ら心を殺す外界を否定していたのは、誰あらん文自身なのだ。今さら心変わりしたとも思えない。なぜ、そこまで外界にこだわるのか。
どうして文がここまで意地を張っているのか検討もつかなかったけれど、私がどうやら取り返しのつかないことをしようとしていることだけは分かった。
目を伏せた文は下唇を噛んで、今にも泣き出しそうな顔で何かを耐えていた。
まるで、爆発しそうな感情を押さえつけるかのように。
そんな文の姿を私は前にも見たことがあった。
いつも年寄りじみて飄々と空を飛び回っているくせに、その実、文が驚くほど青臭く、感情を爆発させることがあるのを私は知っていた。
いつも表に内面を出さないからこそ、ひとたび激昂したときは幼く見えるまでに荒れるのだ。
私の前ではじめて荒れたときもそうだった。
権威を傘に着た、保身と無理解の権化みたいな大天狗のオヤジと、天狗のあり方について散々やりあったときのこと。正論で以て応じた文は、だが結局、いい加減でぞんざいな上司に屈服した。女だと甘く見られ、話すらまともに聞いてもらえなかったことが、何よりも耐え難い屈辱だったらしい。
夜半、尋常でなくスれた雰囲気で帰宅した主を出迎え、無責任な言葉で慰めようとした私に、仕えて以来、文は初めて感情を爆発させた。
さすがに家内をめちゃめちゃにすることについては自制したらしいが、それでも私に思いっきり枕を投げつけて、手がつけられないほどにわんわん泣きじゃくったものだ。
爪が食い込むまで握られた拳と、おこりのように震える肩を見て、このときの私もようやく理解した。
ああ、私は同じ過ちを繰り返そうとしている。
無責任な言葉で、適当に想いをあしらい、滅多にない内心の吐露を無視しようとしている。
ようやく私も焦る。
なぜ何も言わないんだ。
なぜ反論しないんだ。
何か喋ってくれ。
何か叫んでくれ。
罵倒でもいい、激昂でもいい、受け止めるから。
今度はあなたの思いも、私がちゃんと受け止めるから。
そうでもしないと、文とのつながりが切れてしまう、そんな気がした。
頬を伝い、顎からぽたぽたと落ちる水滴を見つめて、私は全身全霊から真摯さをかき集める。
だが、パニックになった思考から出てきたとんでもないセリフは、自分でも驚くほど無責任な他人の声だった。
「ともかく、掟には従ってください。それが文さまのためです」
違う、そうじゃない!
私が言いたいのはそんなことじゃ――
顔を伏せた文の口が、みるみるうちに笑みの形に歪んでいく。それは、笑顔と呼ぶには、あまりに歪んだ嘲りの冷笑。
待って、違うの。私はただ――
「つまんない子」
断ち切る声。
文の口調には、もう何の迷いも葛藤もなかった。
ゆっくり顔を上げた射命丸文はたしかに泣き腫らした顔で、こちらを嗤っているのだった。
――愚か者
文の目が間違いなくそう言い、私は一線を越えてしまったらしい我が身を理解した。
このとき、上官でもある先輩に対して、非礼を詫びる土下座のひとつでもしていれば、まだ良かったのかもしれない。
だが、この期に及んで、狼狽を瞬時に反感へと書き換えた天邪鬼の口から飛び出たのは、謝罪の言葉でも、真意を問う至情でもなく、なんの意味も持たない憎まれ口だった。
「――じゃあせいぜい、その御自慢の速さでもって、素晴らしい人間存在とやらを追いかけたらいかがです。もっとも、おっしゃるとおりの素晴らしさならば、今から追いかけたとて到底間に合わないでしょうけど。なんでそこまでして――不毛にもほどがある」
「だって、負けたくないじゃない」
赤の他人となってしまった顔が淋しげに笑い、窓の外、どこか遠くの彼方を見つめている。
あの笑顔は、彼女が見せた最後の真摯だったと思う。
今思えば、文はあの瞬間に幻想郷に見切りをつけたのかもしれない。それから程なくして、文は消えた。
半ば予期していたことなので驚きはなかった。
ただ、悔しかった。
妖怪のくせに。
天狗のくせに。
人間なんかに心奪われて、いまの地位も存在も捨てて、くだらない外界なんかに翔けていった――
でも、そんな否定を口にするたび、私の胸の内はきりきりと万力で締め付けられる心地がするのだ。
まるで、自ら為した不誠実を正当化する、その不実を責めるかのように。
文の一度だけ見せた動揺。まるで真実、唯一信じていたものにさえ裏切られたとでもいうような、あの驚愕と、畏れと、絶望とがない混ぜになった、深淵さえ湛えた瞳を、私はゆめ忘れまい。
いや、忘れたいのに、あの表情が脳裏にこびりついて離れないのだ。
あのとき、私が裏切ったものは一体なんだったのだろう。
あのとき、この世の総てに絶望するような、そんな死に至る病を抱えるようなひどい裏切りを、私は一体何に対して行ったのだろう。
あのとき、文が耐えていたのは。決して認めることの出来ない山の現実だろうか。
いや、違う。
山の現状に対する怒りなんかじゃない。きっとあれは、私に理解を拒絶された絶望――
だから、彼女が淋しげに笑いながら彼方へと見出したのは、希望ではなかったか。
そう、一向に外を見ようとしない幻想郷に対して心を閉じ、開けた世界に唯一見出した希望への没入は、たったひとり目をかけた白狼にさえ理解を拒絶された、絶望の捌け口ではなかったか。
いつまでも殻に閉じ籠り、自らの可能性をさえ潰してしまうこの地に失望して、彼女は自ら在るべきと認めた空の彼方へ去ってしまったのではなかったか。
ひとりにだけは理解して欲しかった、ゆるやかな滅びを甘受せず、最期の時まで足掻いてみせるちっぽけな生命の輝き――そんな生き方を否定されて、感情の爆発さえ無意味だと思わせるほどの深い絶望に苛まれた彼女は、たったひとりで彼方へと去ってしまったのだ。
それはとても寂しいことだと感じる一方、いかにも文らしいと腑に落ちるのも事実で、私は嘆息する。
認めたくない。
認めたくないのに、なんだろうこの虚々しさは。
今さらしたり顔で認めたとて、失われた希望が還るでもない。なんの役にも立たないのに。
なのになぜ、こうも涙があふれてくるのだろう。
だから私は、許せないんだ。
こんなわだかまりを仲間たちに遺して、溝を遺して。
虚空の彼方に去ってしまった無責任さが、私は許せないんだ。
でもきっと、私は悔しいんじゃなくて、哀しいんだと思う。
なぜなら、私が本当に許せないのは、幻想郷を捨てた文ではなく、きっと文の心を引き留められなかった自分自身だと思うから。
棄てられる理由を、自ら作ってしまった自分自身だと思うから――
井の中の蛙大海を知らず、蛙揺蕩う海はなし。よく言ったものだ。
幻想郷の妖怪が文字通りのお山の大将を気取っているのは、結局のところ、外の世界で生きてゆくことができなかったからだ。
闇の王たる化性の者たちは、常に人間たちからその版図を蝕まれてきた。
かつて地上が楽園だった頃、世界は昼と夜の二つに分かれていた。
昼の世界を司るヒトと夜の世界を司るアヤカシたち。
住み分けはできていたと思う。人は闇を恐れ、敬い、その眷族たちを崇め、祀ったものだった。アヤカシの者たちが集う楽園は、たしかにそこに存在したのである。
だが、人が火を持ってから、何もかも変わってしまった。
かつて狩られる側だった人間たちは、灯りを灯し、夜を少しずつ昼に変え、そのちっぽけな生命をたぎらせて闇の勢力を奪ってきた。
世界に光が満ち、昼夜の区別が最早無くなった今、人が闇を恐れる理由はない。
化物を編制し、化物を教導し、化物を錬成し、化物を指揮することさえ厭わなくなった虫けらども。
そんな人間に居場所を追われ、眷属たちはいつしか昼に怯える生活を過ごすようになった。
そうして、アヤカシの者たちはこの世に遺された最後の楽園、古の畏れが残り、信仰の教えが残る、進化から取り残された偽りの楽園を囲い、緩やかな滅びの時を待つことにしたのだ。
そんな幻想の妖怪たちにあって、射命丸文は異端だったといま改めて思う。
人の人たる所以を探し続けた文の行為はきっと、天狗の天狗たる所以を、自らの自らたる所以を探ることに他ならなかったのかもしれない。
そうとでも言わないと説明がつかないのだ。里に一番近い鴉天狗が幻想の人妖を描いた、そのわけが。
天狗の天狗たる所以。
なんという青さ、なんという未熟さ。幻想の住人は、そんな存在哲学になど疑問を覚えたりしない。
徹頭徹尾初志貫徹、「我レ此処二在リ」だ。
でも、それはたしかに探究心を無くし、ただ「ここにあるべし」と滅びを受け入れた者たちの枯れ行く姿なのかもしれない。文にとって、そんなゆるやかな滅びは我慢ならなかったのだろう。
――自分は怖かったのだ。
定められた滅びにあらがい、未知なる発見に胸ときめかせ、止めた歩みを今一度進めはじめる。
静止した時計のねじを一回一回巻いていくように、抑え難い好奇を満面の笑みに宿らせて、明日の新たな出会いに思い巡らせる。
そんな無辜の少女のような文の姿が自分にはふと、とても遠い存在のように思われて、手が届かなくなってしまいそうな不安と、このまま消えて無くなってしまいそうな恐怖に怯えたのだ。
自分は置いて行かれるのだろうか。
自分も変わらなければならないのだろうか。
なぜ自分が変わらなければならないのだろうか。
自分はここに居たい。ここに居て欲しい。そばにいて欲しい。
そんなこちらの叫びも聞こえないのか、さっさと先に行ってしまった文は、曲がり角からおいでおいでと手を招く。
どうしてそこに行かなきゃいけないの。
どうすればそこに手が届くの。
本当にそこにいるのは文さまなの。
そんなことしなくていい。私はここから動きたくない。変わりたくない。私はただ、ここに居て欲しいだけなのに。
そうこうしてるうちに、文は曲がり角に消えてしまった。
結局、自分は文を繋ぎ止めることさえできないほど幼く、愚かだったのだろう。
文の変革を畏れ、変わることを拒み、ただその場でうずくまることを選んだ結果、本当に大切なものを失ってしまった。
手を伸ばせば掴めたかもしれないのに、その得られたかもしれない可能性を自ら潰えてしまったのだ。
胸の内に苦味が広がっていく。こんなこと今さら認めたって、何の意味もないのに。
そう、何の意味もないのに。
だのに、この流れる涙はなんだろう。
ああ、なんという喪失! なんという空費!
たったそれだけ。言葉にすればたったそれだけのことを理解できないほどに、自分は幼かったのだ。
今さらながらに理解できた虚無が全身を襲い、かつてない喪失感に私は震える。
時すでに遅し。最も残酷な形で成された裏切りは、今や取り返しのつかない地平へと去ってしまった。
いくら虚空に詫びたとて、後悔は先に立たない。
なんという悲劇。
なんという喜劇。
零れた水は盆に還らない。これも所詮、独り善がりの悔恨か――
そう分かっていて尚、私は悔いずにはいられない。
自分は本当に彼女の力となれていたのだろうか。
自分は彼女の中に何か意味を残せたのだろうか。
この哀しみは、彼女が抱いただろう絶望のいくらかでも共有できているだろうか。
嗚呼、文さま――あなたは今、何処を飛んでいるのですか。
二人が喧嘩をするだけで終わってしまったのが残念ですね。
せっかくある作者さんの設定やキャラを魅せるだけの中身がないと、自己満足の域を出ない作品になっちゃってもったいないと思います。偉そうでごめんね。