1.筍
ばちんと、炭の爆ぜる音がする。
「犬は火に近付きたがらないものなのに。珍しい」
「少なくとも、貴女よりは私の方が人間じみてると思うのだけれど」
「いやいや、私だって立派な人間さ。少なくとも吸血鬼に仕えるような不健康な真似はしない」
宴会等を除けば、この蓬莱人と顔を合わせて会話を交わすのは二度目になる。初春にしては珍しく穏やかに吹く風が、藤原妹紅の足首まである白髪を揺らしていた。もんぺのポケットに手を突っ込んで、音を立てて燃え上がる焚き火を見下ろすように彼女は立っている。特に話の種があるわけでもなかったが、何を焼いているのか気になったので私は彼女の方へと近付いてみた。横に並ぶと、むわりとした熱気と煙の匂いが余計に強くなった。紙を焼く匂いとは別に漂ってくる独特の煙は、彼女が口にくわえている紙煙草によるものだ。
「煙は好き?」
妹紅は煙草をくわえたまま器用に喋る。私は首を横に振った。
「嫌いね。私は煙草は吸わないし、服と髪に匂いが染み付くし。それ、捨てて下さらない?」
「自分から近付いてきた癖に勝手な。少しくらい他人に対する遠慮ってもんを覚えた方が後世の為だよ」
「遠慮する相手を選んでるだけよ。ねえ」
「うん?」
「何を焼いてるの?」
「ん、筍」
今燃えている分はもう黒くなってしまっているから分からないにしても、およそ数えきれないほどの日数分の文々。新聞が今も絶え間なく彼女の手によって火の中に投入されている。その真ん中に、おそらく濡れ新聞でくるんだのであろうと思われる20cmほどの物体がころりと横たわっていた。新聞が所々焦げているとはいえまだ中身は見えないが、言われてみれば新聞紙の形は筍の輪郭をかたどっているようにも見える。
「十六夜咲夜だっけ。こっちに来るなんて珍しい」
「永遠亭に用があったのよ。もう帰る所だけど」
パチュリー様の喘息の調子がここのところ良くないとのことで、お嬢様から直々に永遠亭へ薬を貰いに行くようにとのご命令を受けたのである。ここの竹林に入るのは久々だったが、幸いにも迷うことなく抜けることが出来た。薬の入った紙袋をぶら下げて、あとは飛んで帰るだけ。そんな最中、竹林を出たすぐのところで何やら立ち上る煙が目について近寄ってみたのだ。
「それがいい。丁度昼飯時だからね」
「これは、今日の貴女の昼食?」
「そ。もう川も暖かいし魚だって釣れるけど、こいつは今の時期が一番美味いからねえ。時々無性に食べたくなるんだよ、ふきのとうとかみょうがとか」
聞くところによると彼女は寡黙で有名なようだが、見知った相手に対してはその限りではないらしい。定期的にばさばさと新聞を投入しては、傍らに置いてある火箸で筍を転がす。煙と一緒に漂っている僅かな甘い匂いは、この筍によるものなのだろうか。生憎、私は筍をこうしてそのまま焼いて食べたことがない。というか、筍自体今までに口にした回数はあまり多くない。洋食中心の紅魔館ではこういった日本で親しまれている食材は食卓に並ぶことが少ないのだ。例外はお嬢様がお好きな納豆くらいだろうか。今度、筍を使ったレシピを考えてみるのも悪くないかもしれない。
急ぎの用ではないということでパチュリー様へ薬を届けるのはとりあえず後回しにして、行儀が悪いと理解しつつも妹紅の隣にしゃがみ込んだ。寒い季節ではないけれど、空気を舐めるようにして燃え盛っている火に手をかざしてみる。時折黒焦げた新聞の切れ端が、びっくりするくらい軽やかな様子で宙へ舞ってゆく。何となくそれを目で追ってゆくと切れ端は竹林の竹よりも遥かに高い位置まで飛び上がって、それからどこかへ消えて行った。
しばらくして、そろそろかな、と呟いた妹紅は火箸を使って筍を足下まで転がす。屈まずにそのうちの一つを拾い上げて、かなり熱いだろうに気にならないのか平然とした顔で新聞紙を剥き始めた。もんぺに土が付くのにも構わず焚き火の真ん前、つまり私の隣に勢い良く腰掛け、やがて新聞の層から中身が姿を現すと嬉しそうな手付きでそれを取り上げる。そのままの姿で焼いた筍というのを私は見たことが無かったので、興味深げに見ていたのだが更にがさついた皮を剥ききるのにまた時間がかかった。けれどもやがて中から黄色い実が出てくると、白い湯気を立ち上らせているそれを片手に妹紅は何やら懐を漁り始めた。取り出した小さな紙の包みを開き、そこにあった小さな粒をぱらぱらと筍にふりかける。どうやら塩のようだ。
「美味いんだな、これが。一口食べる?」
「せっかくのお昼ご飯なのに良いのかしら」
「焼いたのはまだもう一つあるし、大体まだ腐るほど残ってるからね。土の中っていうのが難点だけどさ」
ほら、と指で裂いて千切り取ったそれを渡されて、思わず受け取った。まだ温かさを充分に残しているそれを口に放り込むと、存外に甘い。筍というのはもっと固いものかと思っていたが、想像していたよりもずっと柔らかかった。歯で噛み締める度に濃厚な旨味が染み出てくる。
「甘いのね」
「冬の間ずっと雪の下で待ってたんだ、そりゃあ甘くもなるよ。朝に掘ったばかりだからえぐみも無い」
火がついたままの煙草を焚き火の中に投げ捨ててから、妹紅も筍をかじり始めた。彼女が筍に歯を立てる度にこりっと良い音がする。空きっ腹に中途半端に食べ物を入れたせいか、さっきよりもやや空腹感が強くなってきた。この甘い匂いもあまりよろしくない。太陽ももう一番高い位置にあることだし、そろそろ帰ろうかと思い私は立ち上がった。元より、彼女に何か用事があったわけでもないのだ。もう服や髪にはすっかり煙が染み付いてしまっているだろうがそれは館に着いてから時間を止めて何とかすれば良いことである。
スカートに付着した埃や煤をを手でぱんぱんと払いながら、私は妹紅の何故か札で結われている白い頭部を見下ろした。
「帰るわ。お邪魔して悪かったわね」
「いや、どうせ暇してるしね。来たい時に来れば良い……って言っても、普段はそんな時間は無いんだろうね」
「まあ、メイドですから」
本来ならばここでのんびりと焚き火見物なんてしている時間さえ惜しいくらいだが、何とかしようと思えばどうにでもなるのが時間というものだ。少なくとも、私にとっては。私は踵を返して行きの道を逆に辿ろうと歩き出したのだが、後ろから「ねえ」と声をかけられたので視線だけで振り返った。さっきまで炎と向かい合って暢気に筍を咀嚼していたはずの妹紅は、いつの間にか焚き火に背中を向けている。燃え盛る炎を背にこちらを見ている彼女。どこかで見たような光景だ。まあ、あの夜の炎はこんなにちっぽけなものではなかったけれど。
「別に私に関係あるわけじゃないから、単なる好奇心なんだけど。貴女はずっとあの館に居るつもりなの?」
「それが何か」
私の勝手な想像だけれど、彼女はきっと勘が鋭いから私の答えを予想出来ていたのだろうと思う。二本目の筍の皮を剥きながら、妹紅はそれでもわざとらしく顔を顰めてみせた。
「私の経験上、人間があんまり長い間妖怪と一緒に過ごすっていうのは良い結果にならないよ。妖怪の肩を持つ気は無いけど、互いにとってね」
「それで? 少なくとも、たった数度話しただけの貴女に何か言われる謂れは無いわね」
「これでも長いこと生きてるからね。だいぶ割り切れるようになったつもりではあるけど、まだ人間を見るとつい色々と口出ししたくなるんだ。年長者の言うことは概ね正しいと思っておいた方が良い」
何も答えないまま私は目を細めて眼光を鋭くする。腹立たしさは感じない。似たようなことは今までにだって何度も言われてきたからだ。それこそ色々な相手から。幻想郷は人間と妖怪が共存している場所ではあるけれど、そんな閉鎖された世界の中でさえ両者の間の溝は確実に存在する。いつまでたっても妖怪は人間を襲う立場にあるし、人間は妖怪を恐れ退治する立場にあるからだ。それが顕著に表れていないというだけであって、互いが何の軋轢も無しに暢気に共に生きてゆけるわけでは決してない。
けど、だから何だというのだろう。それが私達に何の関係があるというのだろう。
黙り込んだ私達二人を、緊迫感には欠ける穏やかな風が吹き付ける。淡い色の空と柔らかい日差し。まごうことなき平和な初春の昼過ぎだ。それに似つかわしくない目付きでこちらをねめつけていた妹紅は、いきなりふっとそれを和らげた。
「まあ、私も他人のこと言える立場じゃないんだけど」
いつも通りのその口調に、二人の間にぴんと張っていた糸のようなものがぷつんと途切れたような気がした。妹紅はこちらを見上げながら何故かくくっと低く笑ってみせる。再び筍を剥き始めるその様子を見て、ようやく肩の力が抜けた。
「もう良いかしら?」
「うん。引き止めて悪かったよ」
そう言ってひらりと手を振りまた向こうを向いたので、私ももう立ち去ることにした。天気も良いし途中まで歩いて帰っても良いのだが、ロスした時間を取り戻すべくここから飛んで行くことにする。
「筍が欲しいなら早朝に掘ると良いよ。ただ、小さい方の兎には気を付けた方が良い。代金を請求してくるから」
後ろからそんな声が聞こえた。私は小さい方の兎なる妖怪を思い出そうとしたが、どうにも上手くいかない。確かに永夜の際、鈴仙ともう一羽相手をした兎がいたような気がしたが顔と名前をすっかり失念してしまっていた。まあ、美鈴辺りに筍取りを頼んで、その際に注意事項として伝えておけば良いだろう。何やかんやと言われても口車に乗らなければ良いだけの話なのだ。
空を見上げる。風は強くなく、好き勝手に飛び回る妖怪の姿も今は見えない。すぐ近くにある竹林の青々とした笹が揺れる音と、ばちばちと妹紅の焚き火が燃え続ける音だけが絶え間なく続いていた。飛んで帰るには絶好の日和だろう。
はてさて、筑前煮と天ぷらと刺身。どれが一番お嬢様の口に合うだろうかと考えながら、私は強く地面を蹴るのだった。
2.泥鰌
「……何ですか、これ」
生来、一般的な女子よりもいわゆる「気持ち悪い物」に対しての耐性は持ち合わせている方だとは自負しております。
何しろ幼稚園の頃、私は蛙を捕まえては大喜びで虫かごに放り込んでそのまま炎天下に放置するような残虐なことを平気でやってのける子供でしたし、小学校低学年での田植え体験では友人の足首に張り付いた蛭を素手でひっぺがしたこともあるくらいです。もう顔も名前も失念してしまいましたが、悲鳴を上げながら走り回ったせいで転んで全身泥まみれになった上に、べろりと足の皮が剥けてしまったあの子には悪いことを致しました。そういう時はライターで炙るのが一番なんだよと、家に帰った私に優しく諭して下さった八坂様はあの頃から私の一番の憧れのお方でございました。勿論、今もなのですが。尊敬するお方のお言葉を忠実に守るべく、あれ以来私は常にポケットの中にライターを忍ばせていて、中学生の自分に一度それを教師に見つかって煙草を吸っているのかという疑惑を向けられたこともあったのですがそれはこの際どうでも良いことでございましょう。煙草を吸ったことはございませんが、ライターは握った状態で人を殴るととても痛いのです。
色々と言いましたが要するにこういうことです。所謂黒い悪魔やら百の足を持つ虫だのは出来れば遠慮申し上げたいですが、魚類、爬虫類はむしろ私の好む所であり、昔からそれは変わっておりません。けれどもいくらなんでも、細長い魚がにょろにょろと何十匹も狭苦しい鍋の中で泳いでいる姿というのは、視覚衛生上あまりよろしくないものです。
「何って、泥鰌。安売りしてたから買っちゃった」
「ああ、だから買物は私が行きますと言ったのに……」
がっくりうなだれる私の肩を「まあまあ」と叩いてくださったのは八坂様です。背中に背負った注連縄の如く広く大きな心を持っておられるお方なのです。三和土から上がってこられた洩矢様をまじまじと眺め、感慨深そうな口調で呟かれます。
「でも泥鰌なんて食べるの久しぶりだねえ。いつ以来?」
「二人で浅草行った時かなあ。あの時の泥鰌鍋は美味しかったよ、本当。ほーら、神奈子は分かってくれるんだよ……って、もしかして早苗、泥鰌食べたことなかったっけ?」
「はい、お恥ずかしながら」
泥鰌は食用にも成り得るということは知ってはいましたが、あくまで私にとっての泥鰌とは水槽で飼い愛でる生き物であり、それ以上もそれ以下も無いのです。確かに顔はとても可愛いことは認めざるを得ないでしょう。何本も生えた短いひげや、何とも形容し難い、小さくてつぶらな瞳はガラスの水槽越しに指で触れてみたくなるくらい愛しきものです。私はまだ幼かった頃に、よく魚穫り網を片手に近所の田んぼのあぜ道を駆け回っていた時のことを思い出しました。用水路の中には大抵めだかや泥鰌が泳いでいて、穫れるだけ穫った後にバケツに放り込んで持ち帰りました。母にはこっぴどく叱られましたが、二柱のお二人はそんな私をいつでも慰めて下さったものでした。今ではまことに美しき思い出です。
しかし、泥鰌というのは泥の中で生きる魚です。泥ごと餌を吸い込み、鰓から吐き出す魚です。なんとなく泥臭いイメェジを持ち合わせているのは、きっと私だけではないでしょう(この場に居る者の中では私くらいでしょうが)。幻想郷は用水ですら私達の時代よりも遥かに澄んでいますから、別に汚いというわけではないのでしょうけれど。
そんな考えが表情に表れていたのでしょうか、八坂様は洩矢様の手に握られている雪平鍋の中を覗き込みながら口を開かれました。数えるのも嫌になるような数の泥鰌が、我こそと酸素を奪い合うようにひしめいています。それにしても炎天下だというのに、洩矢様が人里からこの神社までお帰りになる間によく温くならなかったものです。
「美味しいもんだよ、泥鰌も。ちょっと癖があるけどね」
「揚げたり、卵で煮閉じたりもするけど……私は鍋が好きだなあ。浅草の店だと、七輪に平たい鍋を載せて出してくれるの。葱やごぼうをたっぷりのせて、山椒とか七味とかかけて食べるんだ。早苗も好きだと思うけどなあ」
「鍋も良いけど、あの蒲焼きが一番好きだったよ、私は。あそこは確か鯨料理も扱ってたけど、さすがにここじゃ鯨は食べられないからねえ」
「鯨、ですか」
私はぱちくりと瞬きを致しました。小学生の折、給食で何度か食べたことがございます。とはいえ慣れていない独特の食感とあまりの固さのせいで私を含め、ほとんどのクラスメイトが食べきることなく残してしまったという代物です。今考えればなんと勿体無いことをしてしまったのでしょう。お米が農家の方々による汗水の結晶であるなら、海産物は漁師の方々のそれだというのに。しかし残念ながらあの頃の私達はまだ子供で、その上海の無い土地で育ってしまったものですから漁師の方々のありがたみがよく分かっていなかったのです。
私は幻想郷に来て初めてそれを思い知らされました。ある程度の覚悟はしていたにしろ、今まで当然のように口にしていた魚介類が食べられないという事実に直面してひどく悲しみました。八坂様の好物であられる浅蜊の酒蒸しや、スーパーに買物へ行く度に洩矢様がねだられていた辛子明太子等をお二人はもう永劫口にすることが出来ないのです。そして私は、死に物狂いで会得した「開海『海が割れる日』」を本物の海で実践出来ないままにこちらへやって来てしまったことを嘆きました。結局私はあちらでは市民プールの水を一度割るだけに留まり、こちらに来てからは専ら弾幕にしか使用しなくなってしまったのです。
しかし、この世界に来てしまった以上、色々なことを許容して生きてゆかねばなりません。幻想郷が私達の全てを受け入れたもうたように、私達も幻想郷の全てを受け入れ、飲み込まねばならないのです。海との決別はそのひとつでしょう。そう考えてみれば、この泥鰌は良い機会なのかも知れません。
ここへ来てから鮎や鱒、山女、岩魚等多くの川魚を口にしましたが、それらはあちらでも何度か食べたことがあるものばかりです。今までに思いもしなかった体験をするという意味では、泥鰌を食べることもそれに含まれるでしょう。八坂様と洩矢様も仰るように、存外美味しいものなのかもしれません。食わず嫌いは良くないことです。
めらめらと立ち上る覚悟の炎を胸に刻み、私は改めて鍋を覗き込みました。黒いあんちくしょう共は相変わらず好き勝手に泳ぎ回っておりますが、私にはその姿がさっきよりも幾分か好意的に思えました。
それからふと、幼い頃にどこかで読んだ絵本の内容を思い出したのです。
「泥鰌を煮込んでいる鍋に男が豆腐を入れて、男が豆腐を持ち帰ったら中に一匹の泥鰌も残っていなくて……っていう昔話ありませんでしたっけ」
「あー、……熱さから逃れようとして泥鰌がみんな豆腐の中に入っちゃったって奴?」
「わ、神奈子よく覚えてるね」
「あれ、昔話じゃなくて実際にある料理だからねえ。肉を食っちゃいけない僧侶が、こっそり湯豆腐のふりをして食べてたとか何とか」
「さすが八坂様ですね。勉強になります」
「ふうん……でもちょっと、それ試してみたいなあ」
そんなことを言って洩矢様がにやりと笑われたので、私は何だか嫌な予感がしました。
そもそも洩矢様は確かに神としての威厳、神徳を申し分無く持ち合わせておられるのですが、なにぶん好奇心がお強いのです。分かりやすい言葉で表現させて頂きますと、もし洩矢様が神ではなく普通の人間としてお生まれになっていたら、間違いなく小学生の時に蛙の肛門に爆竹を差し込むタイプの性格をしておられるのです。
私にとってはせっかくの初めてである泥鰌、出来れば先程候補に挙がっていた鍋や蒲焼きなどで味も見た目も美味しく食べたいもの。豆腐に泥鰌が入り込んだ状態で煮たものは、美味しいかもしれませんがもっと別の機会に頂きたいのです。
加えて、先程申し上げた通りに洩矢様は好奇心旺盛であられますから、一体豆腐の中に何匹まで泥鰌が入るか等の遊びに夢中になられる可能性だってあります。一塊の豆腐に、数十という泥鰌が突き刺さってそこらから頭だの尻尾だのが飛び出ている光景を思い描いてみて下さい。食欲がそそられるようなものでは断じてありません。
「洩矢様、調理の方は私が」
買物に行って頂いたのにあまつさえ夕飯の準備までして頂くわけにはいきません、ここからは私が-------そんなニュアンスのつもりだったのですが、
「いやいや早苗。どうせだし作るとこまで私がやるよ、すぐ終わるから」
と、非常に良い笑顔で返されてしまいました。見る者全てが魅了されてしまうような晴れ晴れとしたお顔であらせられます。これは本気だ、と私は直感しました。確かにこの泥鰌を買ってきたのは洩矢様です。しかし、その費用は我ら三人が食べて行く為の共有財産から捻出されているのですから、この泥鰌は私達全員が納得する形で夕餉の席に上がるべきなのです。八坂様も私と同じ考えであられるらしく、整った眉を寄せて洩矢様を見据えておられます。
「ほら諏訪子、早苗も嫌がってるじゃない……。あんたのことだからどうせどれだけたくさんの泥鰌が豆腐に入るかとか、そういうのやる気でしょ」
「でもさぁ、神奈子も見てみたくない? だって面白そうじゃん、面白ければ私はそれでいいよ」
「食べ物なんですから面白さより味と見た目を追求しましょうよ……とにかく、夕飯は私が作りますからっ」
そう言って私が洩矢様の手にある雪平鍋の縁を掴みまして、ぐいと引っ張った、その瞬間でした。
地震の如き急な揺れに驚いたのでしょうか、数匹の泥鰌が水飛沫と一緒に空中へ飛び上がったのです-------この活きの良さ! さすが新鮮さが命である里の魚政さんの商品と言えど、少々元気が有り余り過ぎではないでしょうか。ここへ帰ってくる途中の道を真夏の日差しなど知ったことかとばかりに耐え忍んできた猛者の泥鰌ばかりなのですから、こうなることは何も不自然では無いのでしょうが、
「わ!」
「きゃ!」
---------------私達にとって最大の不幸だったのは、そのお茶目な泥鰌の動作にあまりに驚かされたせいで私と洩矢様が、同時に鍋から手を離してしまったということでした。
嗚呼、それからのことは考えたくもございません。
宙を舞う水晶の如き飛沫、蛇か龍を思わせるように身体をくねらせる泥鰌。
私の正面であんぐりと口を開ける洩矢様のお顔と、何かを叫んでいる八坂様のお声。全てがスロウモウションでありました。人は死に際に走馬灯を見ると言いますが、こういった状況下で人の脳裏に流れるのはどうやらその反対らしいのです。空中で半回転しつつある鍋に手を伸ばすことも出来ない凍った時間の中で、私は紅い館に仕えているメイドのことを思い出しました。彼女ならこんな時、難なく時間を止めて鍋を回収することが出来るのでしょう。けれども私は生憎ただの風祝、海を割ったり米を撒いたりすることは出来ても、時間を止めるなんて芸当はとてもではありませんが不可能なのです。奇跡にだって不可能はあるのです。例え今のように時間が止まったとしても、見えざる力に自分の時間までぴたりと止められてしまっていて、どうしようも無いのです。
もう鍋が床擦れすれまでに。身体は動いてくれないというのに、頭だけは妙に冴えているのです。私は心の中で懇ろに手を合わせて祈りました。元はと言えば、私が泥鰌豆腐の話など始めたことが悪いのです。神様仏様漁師様、どうかこの愚かな私めをお許し下さい。そしてどうか、十秒前に時間を戻して下さいませ。そう、たった十秒で良いのです……!
しかしながら現実は非情でありました。美しき泥鰌の飛翔を、私達三人はただ最後まで見届けることしか出来なかったのです。
やがてばしゃぁんと、ひときわ大きな音がして---------------
かくして守矢神社の土間に、何十という数の活きの良い泥鰌がぶち撒けられたのでありました。
嗚呼、南無三。
3.茸ご飯
元来、なのかどうかは分からないが私はあまり茸が好きではなかった。
味は別に嫌いではない。薄切りになってスープに入っているマッシュルームやしめじ等は食べられないこともないのだが、どうにもあの食感が苦手で、特に肉厚なものが駄目だった。あまり好き嫌いはしない方だというのは自負しているが、茸というのは肉と同じくらいに私の食卓に上がる頻度が少ない食べ物である。必ずしも不可欠な栄養というわけではないし、シチューやパイ包みに茸が入っていなかったところで何が困るわけでもない。何か他の物で代用すれば良いだけだ。そんな理由で、私は魔界を出てから久しく茸を口にしていなかった。
それだというのに、今目の前に並んでいる料理は、どう見ても茸がふんだんに使用されているようにしか見えなかった。テーブルを見下ろしてしばしの間硬直した私の様子など構わずに、魔理沙は「なあ、美味そうだろ? 自信作なんだぜ」と得意げに無い胸を反らしてみせる。
「……私茸好きじゃないって言ったことなかったっけ」
「あれ、そうだっけか? まあ食えないことはないだろ。好き嫌いは良くないぜ」
「そりゃあそうだけど……」
魔理沙だって苦手な食べ物のひとつやふたつあるだろうに。内心でそう反論を試みたものの、招かれた席に座ることもなく帰るのはこの上ない失礼に当たるし、かと言って苦手なものを残すのも頂けない。私は覚悟を決めるつもりで小さく溜め息を吐いて、引かれていた椅子に腰をかける。
美味いもの作るから明日の夜食べに来いよ、と誘われたのが昨日のこと。その時私は新しく出来た人形に着せるためのドレスを縫っていたので、ふうんとあまり乗り気でない返事を返したのだが意外なことに魔理沙の顔は真剣だった。「本当に来いよ。絶対だからな」と何度も念を押すので、それに流される形でやって来てしまったのである。
まあ、別にそれ自体はいい。魔理沙はそこそこ料理が出来るし、こうして食卓に呼ばれたことは初めてにしろ今までに何度か夕飯のお裾分けを貰ったことがある。今並んでいる味噌汁やごぼうの金平、肉じゃが等の料理だって、見た目からして整っているし美味しそうだ。私にとっての問題はただ一つ、客人用と思われる茶碗に山と盛られた茸ご飯だけである。
私が席に着いたので、魔理沙もテーブルを挟んで私と向かい合うように座る。あまり大きくはないテーブルは二人分の料理が並んだだけでほとんど埋まってしまっていた。手も合わせずに箸を取る魔理沙を見て、はしたないと注意しようかと思ったが考えてみればここは魔理沙の家なのだ。私がとやかく口出し出来ることは何もない。煮崩れしかけているけれどよく味の染み込んでいそうなじゃがいもや、金色の胡麻がまぶされた金平を眺めている私を、髪の色とは不釣り合いな真っ黒の瞳で魔理沙が見据える。
「とりあえず食おうぜアリス。別に和食だって平気だろ」
「和食は好きよ、ただ茸が苦手なだけで。……頂きます」
フォークほどには慣れていないけれど一応箸も使える。少し迷った後に、私は最初に茸ご飯に口を付けてみることにした。嫌い、とまではいかないが苦手な食べ物は先に食べてしまう主義だ。とはいえまさか最初に主食を平らげてしまうわけにもいかないだろうけど。
そう思いながらぱくんとご飯を口に入れると、想像していた味と全く違っていた驚きで私は少し目を見開いた。私の表情の変化を見た魔理沙はしてやったりの表情で、実に楽しそうににんまり笑う。
「なー。美味いだろ?」
「食べたことのあるお米と全然違う。何これ」
「ちょうど新米の時期だからさ、午前中に里へ行って買ってきたんだよ。お前、普段はパンしか食べないから知らなかっただろう?」
「……素直に認めるわよ。すごく美味しい」
久々に食べた米はびっくりするくらいみずみずしくて、食感ももちもちしていた。仄かに甘い味がするのはきっと調味料によるものじゃなく、自然のものだ。米自体の味を消さない程度に染み込んだだしや醤油や酒の風味、そして何よりも茸。
薄く切られた椎茸、手で千切ったように不揃いな大きさの舞茸、歯ごたえのあるえりんぎ、それからしめじ。いつも私が食べている料理よりもやや味が濃かったが、そんなことは気にならないくらいだ。噛む度にじわりと旨味が染み出してきて、いつもは敬遠している食感さえも好ましく感じてしまう。しばらくの間に私は茸が苦手でなくなっていたのだろうかとも思ったが、何のことはない、この茸ご飯がとてつもなく美味しいだけなのだ。
ご飯ばかりではと思い他のおかずにも箸を伸ばしてみたものの、やはり最初の一口目のような感動を覚えるには至らなかった。どのおかずも平均以上の味ではあるけれど、中でも茸ご飯の美味しさだけは飛び抜けているからだ。具材が旬であるからということも関係しているのかもしれないが、それにしても良い。今度自分の家でも作ってみようかと思うくらいだった。
いつものような他愛無い会話をするのも忘れて、私はひたすら箸を運び続ける。口に運んで、噛んで、嚥下して。結局私が最後の一口を飲み込んだのは、魔理沙が食べ終えたほぼ直後だった。魔理沙はあまりよく噛まずに飲み込むことが多いので、普段の私は彼女より食べるのにかなり時間がかかる。けれども今日は違っていた。
やがてごちそうさまをしてから初めて、ほうじ茶が淹れられたコップに手を伸ばす私を魔理沙は呆れたような、嬉しそうなような表情になりながら頬杖をついて眺めている。
「アリスが一膳完食するなんて珍しいなぁ。作った甲斐があったってもんだよ」
「美味しかった、ほんとに。ねえ、これって普通に作っただけ? 何か隠し味とか、そういうのじゃないわよね?」
「入れてないって。普通だぜ。去年この時期の終わりに作ってさ、美味かったから今度作る時は誰か呼ぼうって決めてたんだよ。霊夢はわざわざ呼ばなくても毎日米食ってるわけだし、食わせるならアリスかなって思ったんだ」
空っぽの食器を見ていると、不思議な満足感のようなものがお腹の底辺りから沸き上がってくるのを感じる。久しく覚えていない満腹感だ。
捨食を済ませた魔法使いは飲み食いする必要が無いのでほとんど何も口にしないと言われているが、魔法使いとしての年月が浅いせいか私は未だに三度の食事や嗜好品としてのお茶の嗜みを続けている。それでも、ここまでいっぱいになるまでものを食べたのは初めてかもしれない。動けないというほどではないが、少し苦しい。けれども心地の良い苦しさだ。
人間は食事の度にこんな感覚を味わっているのかと思うと、何だか羨ましいような気がした。さすがに毎回こんなにたくさんの量は食べられないけれど、時々は美味しいものをお腹いっぱい食べるのも悪くないかもしれない。
私は食器を流しに運ぶのを手伝って、それから背中を向けて皿を洗う魔理沙と会話をした。食事をしている間はあまり喋らなかったということもあるが、食べた料理のレシピや今の時期は何が美味しいかということや、とにかく色々だ。洋食ならまだしも、和食についてならそれを食べて育ってきた魔理沙の方がずっと詳しい。
彼女にしては珍しいことに、自分から紅茶も淹れてくれた。泡だらけになった手をタオルで拭きながら大仰な口調で茸の種類や違いについて語る魔理沙は、なるほど本業に関係のあることなだけあってとても生き生きとしている。
やがて三杯目の紅茶をそろそろ飲み終えるという頃になって、私はちらりと時計に目をやった。窓の外が暗くなってから久しいということには気付いていたが、あえて先送りにしていたのだ。だがそろそろ潮時だろう。日付が変わる前に互いの家に戻るというのが、私達の関係における暗黙のルールでもあった。
何故なのかは分からない。けれどもきっと、一種の線引きなのだろう。同業者としての、友人とも腐れ縁とも言えないようなこの関係の間に引かれる、幾つかの細い線のひとつだ。今までも、それからこれからも、きっと滅多なことが無ければ互いに踏み越えようとはしない線。
同じことを考えたのか、私より先に魔理沙は立ち上がる。無造作に置いてあったお気に入りの帽子を目深にかぶり、そこから覗いた漆黒の瞳をきゅっと細めた。
「さて、森の夜は物騒だからな。送っていくぜ? 今日の私は珍しく優しい」
▽
「本当は、さっき一つだけ嘘ついちゃったんだ」
私を箒から下ろして、開口一番に魔理沙はそう言った。
秋の夜長は涼しい。寒暖の差に疎い私はまだ半袖だが、魔理沙は薄い長袖を着ているような、そんな時期だ。ただそのぶん夏よりも空気が澄んでいて、生い茂る木々の隙間から見える空には星が輝いている。私の家の周りには木が生えていないので、それが余計に顕著だった。一瞬だけ夜空に目を走らせて、名前を知っている星座を見付けられたことになんとなく満足する。
「嘘って、何のこと」
「さっき、茸ご飯を普通と同じように作ったのかって訊いてきただろ? あれが実は嘘で、……いや、まあ、嘘ではないんだけど」
「どっちよ」
「どっちとも言える。要するにレシピは普通のと同じなんだけど、他のよりも丁寧に作ったんだよ。それこそ心を込めて」
いくら月明かり程度の光があるとはいえ魔理沙はそんなに夜目が利く方ではないはずなのに、私がうろんげな表情になったのが伝わったらしい。
「どういうこと?」
「つまりだな。……あー、思い返してみたら嘘二つだったなあ。アリスが前に茸苦手だって言ってたのはちゃんと覚えてたんだし。だからこそ、今夜呼んだんだけど」
「嫌がらせのつもりで?」
「滅相も無い。ていうか、美味かったからいいだろ」
「いや、美味しかったけど」
下弦の月と、名前も知らない虫の声。
もう秋なのだなあと、先程魔理沙の家にいた時よりも色濃く思い知らされる。
「要するにだ。アリスが自発的に茸を食べようとするなんて、今までもこれからも無かっただろ? それこそ私が無理矢理食わせでもしなきゃ。でも食べる本人が不味い不味い思ってたら意味が無い。だったら、茸が好きになるくらいに美味いものを食わせてやればいい。だからこそ本当に良い食材で、心を込めて作った料理をお前に出してみた。だから、美味かっただろ?」
「そうね。美味しいのは食材のおかげだって今も思ってるけど」
「わお」
おどけたような声を出す魔理沙を、私は呆れ顔になりつつ半眼で見遣った。
こちらとしては美味しいものが食べられたのは良かったけれど、私の嗜好の問題を魔理沙が深く考える必要がどこにあったというのだろう。けれども純粋に、自分本意に他人に関わってくる辺りは魔理沙らしいなと思った。
「大体、私の好き嫌いを直そうと思ってこんなことしたの? いつから貴女は私の保護者になってたのよ」
「いや、他の食べ物だったら別に何とも思わないんだけどさあ。茸は私の魔法の象徴みたいなもんだし、嫌われたままじゃ寝覚めが悪いじゃないか」
「茸が魔法の象徴って、もう少しそこに疑問を持ちなさいよ」
わざわざ茸を使わずとも、他にいくらでも代用品があるでしょうに。私がそう言ってますます呆れを顕著に顔に出しても、魔理沙は一向に意に介さない様子だった。出会ってすぐの頃ならば、こんなに些細な話題からでもすぐ口喧嘩に発展していただろうに。これも年月の経過が為せる寛容さなのだろうか。
酒も口にしていないのにこの日何故か上機嫌だった魔理沙は、いかにも陽気な面持ちでけらけらと笑ってみせるのだった。
「いや、こればっかりは私のスタイルだからなぁ。変えられないさ」
あれから幾らかの年が過ぎて、てっきりそのうち食事をしないようになるだろうという私の予想は大きく外れていた。
惰性というのは恐ろしいもので、魔法使いであるはずの私は今でもまだ三食の食事をやめられていない。睡眠の時間は昔よりも減ったものの、依然として人間寄りの生活を続けてしまっている。そんな自分に時たま疑問を抱かないこともないが、その度に結局何だかんだで私は食べることが好きなのだろうという結論に落ち着いていた。
そして相変わらず茸の食感が苦手な私は、今でも滅多なことがなければ自発的に茸を口にすることはない。
けれど不思議なことに魔理沙の家で食べた茸ご飯の味はまだ覚えている。たまにどうしようもなくあの味が恋しくなって、秋口になると後日手渡されたレシピのメモを元に自分で作ってみたりもするのだが、何故か記憶の中にある味とは全く別のものが出来上がってしまうのだ。味自体は悪くないものの、食べきる気がしなくて半分ほど口にした所で残してしまう。
勿体無いと自分でも分かってはいるのだが、どうにもやめられないのである。
4.雑煮
台所から戻ってくる間に、いつの間にか小鬼が一匹炬燵の中へと潜り込んだようだ。何しに来たのよ、と露骨に渋い顔をする霊夢に、萃香はいいじゃん別にと屈託の無い笑みを浮かべてみせる。何が良いのか分からなかったが、霊夢は溜め息を吐くと運んできた椀を炬燵の上に置いて、自分は愛用の座布団の上に胡座をかいた。
くんと鼻をひとつ動かしてから萃香は身体を起こし、椀の中身を覗き込む。あ、いいなあ雑煮だ。私もご相伴に預かりたいなあと言う萃香に、霊夢はさっきよりも更に眉を顰めてみせた。白く湯気を立てている雑煮の中から箸で餅を摘み出して、あと一杯分くらいしか残ってないわよとふうふう息を吹きかけながら言う。一杯もあれば充分さね、と返事をして萃香はとことこと台所へ駆けて行った。その小さな背中を見遣りながら、本当に何をしに来たんだろうと霊夢は疑問に思ったが、思い返せば彼女はよく大した用も無いのにこの神社を訪れるから、特に気にすることはないかと考え直すことにした。
霊夢が七味を振りかけているとやがて萃香が戻ってきて、角餅しか無いの、私は丸餅が好きなんだけどなと口にする。文句があるなら食べないのとだけ言い放って、霊夢は昼食代わりの雑煮を食べることに専念し始めた。ここの所三日間、霊夢の昼食は雑煮が続いている。朝と夜は違うものを食べているといえ、さすがに飽きたなと内心でこぼしてみたがどうやら今日で鍋も空になったらしいので良いとする。
人参、鶏肉、角餅、筍、大根、小松菜、椎茸、かまぼこ。台所の食材を適当に放り込んだような有様の椀の中身をまじまじと見て、これ本当に雑煮なの? と萃香が霊夢に訊ねた。本当にも何も正月に食べる煮込みならそりゃ雑煮でしょ、と霊夢は意に介さない。鶏肉を箸でつついている萃香に、これ蛙じゃないよねと訊かれた際にはさすがに睨みを利かせながらそんなわけないでしょと返事をしたが。
こんなことなら来年から炒り豆を雑煮に入れなきゃ、という霊夢の冗談に、雑煮に入った炒り豆はもう煮豆じゃんと萃香は苦笑してみせる。多分それじゃ私には効かないと思うけどなあ。
けれども二人共雑煮に口を付けてからは、そんな瑣末な会話は減り、互いにもくもくと咀嚼する音だけが聞こえるようになった。
何やら色々と言ってきた割には萃香は味についての文句は言わず、具を食み、火傷しないように慎重に汁を啜っている。萃香と霊夢しか居ない博麗神社の一室は、削り節と合わせ味噌の匂いが良い具合に立ち上っていた。もし今誰かが障子を開けてこの部屋に入ってきたのなら、おそらくその人物は匂いに充てられて自分も雑煮を食べたいと言い出すことだろう。けれどもそんな人物は今は存在しなかったし、最後の雑煮はもう既に半分以上萃香の腹の中へと消えていた。
ああ、うまかった。やがて霊夢より先に食べ終わった萃香はそう呟きながら汁の一滴も残っていない漆塗りの椀と、はげかけた若狭塗りの箸をからんと投げ出した。ううんと大きく伸びをして、またもぞもぞと炬燵に潜り始める。
こんなぐうたらな鬼が居て良いのかと味のよく染みた大根を噛みながら霊夢は思ったが、自分の周りにいる妖怪は得てしてぐうたらな奴ばかりだと気付いて少々うんざりする。あの隙間妖怪が良い例だろう。年柄年中飛び回っているような慌ただしい天狗も居るが、考えてみればそれはそれで鬱陶しい。ぐうたらしていてくれた方がまだ害が少ないというものだ。別の場所でやれとは思うけれども。
外は雪だよ、と仰向けに寝転がっていた萃香が不意に口を開いた。そりゃあ私だって知ってるわよと口にまだ大根が入っている霊夢がもごもご返事をすると、萃香は炬燵から出て何の予兆も無くがらりと障子を開ける。ちょっと、寒いじゃないのと抗議した霊夢にひとつ笑いかけて、雪見酒っていうのもいいじゃないと萃香は答えた。そしてそのまま縁側に腰掛け、何やらやたらと機嫌の良い様子で自前の瓢箪に口を付け始める。貸してくれないかと以前一度頼んだことがあるが、こればっかりは手放せないねえと断られてしまった代物だ。
雪見酒と言われた所で自分の手元に酒は無いので、霊夢は酒の代わりに雑煮の汁をずずずと啜りながら外を眺めやった。
大晦日から連日降り続けた雪のせいで、境内は真っ白に染まっている。灯籠に積もった雪を見て、風流だねえと言いながら相変わらず萃香は酒を呑んでいた。少し羨ましくなった霊夢は自分も台所から酒を取ってこようかと考えたが、炬燵から出るのは億劫だったので仕方なしに止めにした。けれども一気に障子が開け放たれたせいで、ヒヤリとした外気が入ってきて寒い。なので炬燵の布団を肩まで被り、羽織っている小豆色をした半纏の袖の中に手を引っ込める。
そろそろ新年会でもしようか。萃香は向こうを向いたままふとそう言った。
新年会って、この前宴会したばっかりじゃない。霊夢の言葉に萃香は、この前のは忘年会だからねぇと陽気な口調で言いながら片手をひらひらと振る。忘年も新年も、要はあんたは呑めれば何だっていいんじゃないと霊夢が呆れ顔で息を吐くと、意外なことにくるりと振り返って萃香はこちらを見た。
「そうでもないよ。新しい年を迎えるのは、幾つになっても嬉しいもんなんだから」
ただ、こうやってあと何度、霊夢と正月を過ごせるんだろうなー。
そう言って、何だかぼんやりとした表情で、雪よりもいくらか暗い白色をした空を仰いだ。ぐびりと瓢箪の酒をあおり、口から離して一呼吸置いてはまたあおる。またこちらを向いた背中は珍しく静謐な様子で黙り込んでしまった。一瞬、炬燵を立とうかと思ったが、あまり自分らしくないような気がした霊夢は頬杖をつきながら最後の鶏肉をごくんと飲み下した。
咄嗟に口にしそうになった、何をいきなりという言葉は肉と同時に喉の奥深くへ追いやって、「……馬鹿じゃないの」と至極いつも通りの返事を投げ遣る。空になった器をことんと炬燵の上に置くと、どこか遠くを見るように寒空を仰ぎながら萃香が口を開いた。
「いや、それにしても好い雪だよ」
そうして、こちらを振り返らないままの彼女がようやく笑う気配がしたのだった。
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淡々と進んでいくのがよかったです
なんだかしみじみと面白い話でした。
好かったです。ごちそうさま。
短編に登場する人たちの会話など、それぞれに面白さがあって良かったです。
楽しませていただきました。早苗さんとか早苗さんとか。ライターって何かと便利なんですが、ポケットに工具と一緒に入れてたらヒビ入っててびびりました。
どのシーンでも、ほんわかと。けれども、それぞれのキャラクターの個性は、しっかりと描かれている。うーんパルい。
米を撒いたり、って文章にしてみると結構バチあたりですね。笑ってしまいました。
筍食べたーい。
誤字報告です。
>色々なことを許容して行きてゆかねばなりません。
お腹が空いてきました
塩気が甘味を引き立てるのに…
もったいないなぁメリー
雑煮って地方によって様々ですが自分の方では肉が入らないので、鶏肉がやたら印象に残りました。
早苗さんと諏訪子様は暴走加減が素敵です。
そういえば、みすちーのとこの八ツ目は鍋にできるのかな?
素晴らしい作品、御馳走様でした
堪能させていただきました。
桜餅の葉は剥がして食べるタイプです
よくも、これほど上手に雰囲気をとらえ、表現できるなぁ、と思いました。
桜餠は葉も一緒に食すのですか、初めて知りました。
誤字報告
>名前を知っている正座を見付けられたことに
星座かな、と
いかにも和風な感じの空気を感じ取れました。
ごちそうさまです。
うーむ、目の前が見えにくいのは空腹のためか…
明日のおやつは桜餅を探そうと思います。
茸ご飯を最近食べてないことに気づいたり。
あれは美味しいものは本当に美味しい。
せつないわぁ
焚き火や降る雪の情景で少し切なくもなりました
永夜異変などでは泊まったりするようですが、この魔理沙とアリスの関係もいいです
2.泥鰌 どじょおがとび出てこんにちは~♪ 二柱は夫婦旅行でもしたんですかねv
3.茸ご飯 魔理沙マジ良い子!ホント可愛いことするなぁ!
4.雑煮 あぁ、うん、人間と人外ね……
5.桜餅 葉っぱ食うでしょ普通……