落ちる。
落ちる。
涙がぽろり。
彼方から。
此方へ。
ぽたり。
ぽたり、と。
泣いているのか。
笑っているのか。
遠い地を見て、
何を思うのか。
けっして届かないと焦がれているのか。
分かりはしない。
知っているのは、
そう、涙ぐらいなものだろうか。
その日は新月だった。
月を見に行くルナチャイルドはお休みの日。
身体をベッドに横たえて、すーすー、寝息をたてていた。
夜は早く寝てしまったサニーミルク。
二人は家でお休みだ。
スターサファイアは星を見に出かけた。
小さな傘を一本持って。
初夏の熱気を打ち消すように、雨が幻想郷に降り注いでいた。
包み込むような雨の中、小さな影が一つ。
フリルのついた小さな可愛らしい傘を差し、ゆったりとした飛行で、魔法の森を移動している。
そのアゲハのように大きな羽は、スターサファイアのものだ。長い黒髪を揺らしながら、あっちやこっちに視線を彷徨わせながら、楽しそうに飛んでいる。小さく鼻歌なんかを歌いながら、ざぁざぁと降りしきる雨にリズムを合わせて、ふわふわと飛んでいる。
辺りには明かり一つない。
真っ暗闇の夜の中。
スターサファイアは迷うように、惑うように、くるくると楽しげに木を見たり、草を見たり。ときには地面を踏みしめて、雨の染み込んだ地面の柔らかい感触にふるりと身体を震わせた。ぐちゃ、と弾ける泥。靴にかかるのなんて気にしない。後で洗えばいいのだから。
ふわりと宙に浮いて、足を二、三度振った。
靴についた泥が飛んで、びちゃ、と音をたてた。水溜りから、飛沫があがる。
おお、と驚いた声をあげ、その水溜りの上を飛んだ。
水溜りを覗き込むと、そこには自分の顔と、木の葉の隙間から、うっすらと曇った空が見えた。
雨が絶えず、水溜りに波紋を残していく。
自分の顔に広がる波紋。
木の葉に広がる波紋。
空に広がる波紋。
スターサファイアには、それがまるで別世界の出来事のように感じた。それもそのはず。スターサファイアの顔には波紋は広がってなんかいないし、それは木の葉も空も同じ。
だからこそ、スターサファイアの瞳には、それが何となく面白く映った。
ぱしゃ、と足を突っ込んで、大きな波紋をたててから、それから、またゆっくりと移動を開始した。
夜はまだまだ早いのだ。
ふわふわ、くるくるとスターサファイア。
ざぁざぁ、と雨が葉に当たる。
ぴちょぴちょ、と溜まった雫が水溜りに落ちる。
目的地はまだかしら?
そんなことを考えて、小さく頬を緩ませた。
そんなときだった。
――――そこ行くおちびさん。そんなに楽しそうに……いったいどこを目指してるんだ?
そんな声が聞こえた。
と、同時に、スターサファイアの能力は敏感にそれを伝えた。
ぐるり、と見回して、視界の隅に小さな青い花をとらえた。花は何の特徴のない花だった。気がつかなければ素通りしてしまうような、存在感のない花だった。
あら! とスターサファイアが声をあげる。
傘を両手で持って、少し澄ましたポーズをとった。
「星を見に行くのよ! それに私はおちびさんじゃあないわ」
花は全身を震わせるようにして笑った、ような気がした。
――――こんな雨の日にかい? おちびさんは変わり者だ。
スターサファイアは青い花に近づいて身を屈めた。
まじまじ、と見れば見るほどに奇妙な花だ。どこにでも生えてそうなのに、どこにもない。まるで、花びらが光っているかのような。不思議な感じのする花だ。
とは言ったものの、スターサファイアはその花がなんなのかを知っていた。
「こんな雨の日に、よ。それに私はおちびさんじゃないわよ。あなたのほうがおちびさんじゃないの?」
唇を突き出し、頬を膨らませてむくれた表情。
その様子を見た花が笑う。
――――ホントに変わり者だ、お嬢さんは。これでいいかい?
「ええ」
そう言って、にっこりと笑顔を見せた。
花は身体を震わせた。
「ところであなたはどなたなの?」
スターサファイアが聞く。
花が答える。
――――さぁね。名前なんぞ覚えていない。最初からなかったのかも知れんな。
あら、とスターサファイアは首を傾げた。
「あなたには、名前がないの?」
――――さぁてね? 分からんな。
花は、寂しそうに身を震わせた。
ぴちょん、と水滴が落ちて、花の上で弾けた。
スターサファイアは悩んだ。今すぐにここで教えてあげてもいいが、せっかくの日なのだし、驚かせてあげようか。なんて思っていた。悪戯っ子のように。
そう、せっかくこの日に出会ったのだから。
「ねぇ、お花さん。よかったら。よかったらだけれど、私と一緒に来ない?」
――――星を見に、か?
「ええ、そうよ」
どうするの? と問いかける。首を傾げた拍子に髪の毛に泥がつきかけて、慌てて元の位置に戻した。そのとき、ひと際大きな雨粒が落ちたのか、木の上に溜まった雨が一斉に降り注いだ。
ばたたたたた、と傘をたたく音。わ、きゃ、とスターサファイアが悲鳴をあげる。
花は、その様子が余程面白かったのか、小さく茎を揺らした。
――――連れてってくれよ。ここに生えてまだ短いんだが、おれと同じ花はありゃしない。なぁ頼むよ。退屈なんだよ。
笑いながら言ったような感じ。その様子にスターサファイアは頬を膨らませた。
がっし、と茎を掴む。
――――おいおい、あんまり乱暴にするなよ?
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
楽しげに歌うように、ひょい、と力を入れると驚くほど簡単に根が抜けた。
するり、と何の抵抗もないかのように。
花は驚いた。確かに地面が湿っていて、抜けやすくなっているのかもしれない。しかしこの妖精は、特に力も入れていなかった。花は疑問を抱えたまま、スターサファイアの手によって、その肩の上に乗せられた。
スターサファイアは微笑んで、ウインクをした。
「さ、行きましょう?」
どこかで見たかのような、初めて見るかのような、可愛らしい笑みに花は硬直し、やれやれと苦笑を零した。
雨は降り続く。
止む気配はなかった。
スターサファイアは楽しげに、同行者と一緒に跳ねるようにして森の奥を目指した。
ぱたたっ、と傘をたたく雨粒。
葉をたたき、傘をたたき、水溜りを作る。
ときには木の幹にタッチして、次はあの木。なんて、適当に考えて。
ときには水溜りを滑るようにして。
水溜りに足を突っ込んで、ぱしゃっ、と水が跳ねる。スターサファイアも跳ねる。
その時々に笑顔を見せた。
青い花はその横顔に、なにか懐かしいものを感じていた。
ぽんっ、と跳ねる。きゃらきゃら笑う。ぱしぱし、傘をたたく雨水。ぴっちょんぴっちょん音がなる。スターサファイアも合わせるように鼻歌交じりの歌声を。
楽しげに。
ときに青い花も一緒に。
随分と長く歩いたような気がした。
もしかしたら一瞬だったのかもしれない。
さぁもうすぐよ! とスターサファイアが言った。
もうなのかい? と残念そうに青い花が言った。
ほらほら見なさいよ、とスターサファイアが答える。
そこは少しだけ開けた場所で、そこには――――
――――そこには大きな泉があった。
雨が絶え間なく注ぎ、水面を揺らしていく。絶え間なく波紋が広がり、混じって消えて、新しく波紋が生まれてを繰り返す泉のふちに立って、スターサファイアは、ふぅ、と息を吐いた。
「とーちゃく!」
――――ここが目的地だって言うのか?
「もちろん」
スターサファイアは胸を張って言う。
青い花には、ただの泉にしか見えなかった。木の葉の覆っていない開けた空だけが特徴的なただの泉にしか、見えなかった。彼女は違うのだろうか? 青い花はスターサファイアを見た。
スターサファイアは楽しそうに待っている。わくわくしながら待っていた。身体を揺らして、まだかな、まだかな、と我慢をしている子供のように待っていた。
スターサファイアは知っていた。
それが始まる時間も熟知している。
あとは待つだけ。けれども待ちきれない。
身体を揺らして、傘をくるくる回す。
きらり、と光る、それを見つけた。
「あ」
と、嬉しそうに笑った。
同時、ぽちゃん、と音がして、何かが泉に落ちた。
ぽちゃん。ぽちゃん。ぽちゃん。
光の尾を引いて、それは泉に落ちていく。
光の尾を引いて、それは地面に吸い込まれていく。
真っ暗闇の中に無数の光が、泉に落ちていく。
雨のように、雨に混じって、黄金色の光が流れる。
静かに、ぽちゃん、ぽちゃん、と降り注ぐ。
雨のようで、けれど雨ではない。
一直線に落ちてくる。
星の光が降り注ぐ。
スターサファイアの瞳に、流れる光が映りこむ。
それは、流れ星のようで、流れ星ではない。
だって、星は流れてなどいないのだから。
――――なぁ、お嬢さん。こいつはいったい……。
その質問に答えることもなく、スターサファイアはふちにしゃがみこみ、水面に手を伸ばした。
ぽちゃん、ぽちゃん、と落ちていく。
スターサファイアは右手をいっぱいに伸ばして、それを取った。
丸い、水晶のようなものを、スターサファイアは引き上げた。
小さな結晶の中に、小さなきらきらしたものが浮いていた。
まるで、夜空を凝縮したような。
まるで、星屑を閉じ込めたかのような。
それが水面いっぱいに広がって、まるでそれは――
――――これが、星、かい?
水面の星空を見ながら、こくん、とスターサファイアは頷いて、青い花を地面に下ろした。
柔らかい土を掘って、丁寧に埋めてやる。
ぽん、と地面をたたいて終了。
ぱんぱん、と手を払う。
そうして、
「見て見て!」
と、両手を広げた。
雨に当たることなんか構わずに。
青い花は見た。光が落ちた場所から、小さな芽が出ているのを。
その光に合わせるようにして、自分と同じ光を発する花があるのを。
思わずスターサファイアを見た。スターサファイアは悪戯っ子のようにきしし、と笑った。
「あなたは、はぐれちゃったのよ。皆大体この辺に落ちるのに、あなただけ遠くに落ちちゃってる。びっくりしちゃったじゃない」
スターサファイアはしゃがみこんで笑いかける。
「でもね、ほら、ここにはいっぱい仲間がいるわ」
さて、と立ち上がる。ぽんぽん、とスカートの埃を払う。
朝日が昇るまで見ていくかな、なんて思って背筋を伸ばした。
――――なぁお嬢さん。おれはいったい……
「スターサファイア」
スターサファイアはくるり、と振り返って言った。
にやり、と笑うように言った。
悪戯の成功した子供のように言った。
「あなたはスターサファイア」
手の中の結晶をひょいと取り上げながら。
「この子もスターサファイア」
ふふふ、とおかしそうに笑いながら。
「あなたは星の涙よ。星の涙からは、どうしてか知らないけど花が咲くのよ」
そしてね、と自分を指差す。
「私もスターサファイアなの」
にっこり、と星のような笑みを見せた。
星の涙は降り止まない。
きっと夜明けまで降り注ぐ。
ずっと見ていよう、と青い花は思った。
自分がなんなのか、ようやく分かったのだ。
きらきら光る水面の星空。
うっすらと生えた、青く光る花の芽。
水に塗れた草がそれを反射する。
きらきらと、きらきらと。
きれいだな、と青い花は思った。
[了]
雨と星が降り注ぐなかで笑う星の妖精の姿が確かに目に浮かんだ。素敵なお話でした。
幻想的な雰囲気がとてもいい。