死体を運ぶ。いつまでも運ぶ。
ここに来てからどのくらい経っているのかすら分からないけれど、その毎日の繰り返しに別に文句というものは無い。そう、文句は無い…そのはずだ。
思えば損ばかりの人生を送ってきたと感じる。
知らないうちに自分の親に捨てられ、一生懸命に生きようとしても迫害され、努力をしても報われず独りで生き続けてきて。生きるのに必死だった。その頃はそれが普通だと思っていた。みんなそうやって苦しい思いをしてきたのだと思っていた。そんなことは無いというのに。ただ嫌われていただけだというのに。
でも、そんな私にも家族の暖かさを教えてくれた方がいた。それが今の主、古明地さとり様。
さとり様に拾われてから私は初めて楽しいという感情を覚えた。悲しいという感情も、嬉しいという感情も。心はさとり様と出会ってから形成されていった。初めて名を戴いた時には大層喜んだ。燐。響きがいい名だと思った。ただ、周りは呼びにくいらしくお燐で定着した。こちらの方も、私は好きだったから今でもそう呼ばせている。いつの日か、感情を覚えるうちに妖怪となった。他者への嫉妬があったのか、自分への呪いか、現状に満足する私への罰か。けれど、こうなってからさとり様に苗字を戴いた。こちらは、長くて呼ばれるのが嫌なので戴いたのは嬉しいけれど、周りにはお燐のままで呼ばせている。そして死体を今日も運ぶ。いつまでも、地底の奥底へ。
そんな毎日にも私は満足していた。不満は無いし、飯は出される。仕事をしていれば飯にありつけるのだから、それだけ幸せで安定した生活は無い。安全な場所で睡眠が取れる。自分の居場所がある。妖怪となる前にずっと不安定な生活を送ってきたせいで、それがとても素晴らしいことのように感じる。だから私は前に進めないのかもしれないけれど。
私に家族はいない。だからもう、失いたくない。
そんな毎日を送っている。地底や地上の死体を漁っては運び続ける毎日。今日は珍しく死体が私に話しかけてきた。
「なあそこのあんた。俺は、死んだのか?」
鬱屈とした長く険しい地底への帰り道。突然話しかけられたものだから少し驚いた。死体が話しかけてくることはあるけれど、突拍子もなく話しかけてくることは一度もなかった。それでも私は暇を潰すためにもそいつと話してみることとした。
「あぁ、そうだよ。あんたは死んだ。その死体は放置されていた。だからあたいが、あんたのその体を再利用するために運んでいるの」
死体が表情を浮かべることも声を発することも出来ない。無論、その声はその死体に宿る魂、もとい死霊から発せられたものだろう。
「そうかい、そうかい。そりゃあ、よかったよ」
「よかった?あんた、死にたかったのかい?」
それは全く不思議だった。生きていたい私とは正反対だから。理解が及ばなかった。
その死霊が返す。
「そりゃあ、あんた。生きていていい事なんてあるのかい?嬉しいことなんてあるのかい?」
それは続ける。
「俺には分からないね、生の喜びってやつは。生きていて何一ついいことなんてありやしなかった」
別に否定するでもなかった。無言でいた。
「あんたは、そういったものがあるのかい?」
と問われる。ただ返答に困った。
「判らないよ、そんなもの。死んでいてよかった理由なんてないから生きてるのさ」
これが本心なのかは自分でも分からない。ただ、生きていたいと思う気持ちは心のどこかに持ち合わせている。そのはずだ。
今日の仕事を終え、地霊殿へと帰宅する。とはいえここでする事などさほどない。強いて言うならペット達のお世話をするくらいだろうか。でもそれはさとり様がすることが多いため本当にここでやることと言っても無いのだ。そのため暇を持て余している。普段は料理や洗濯もするのだが、しかし今はそこまで乗り気でもないのだ。そのためどうせぼーっと過ごすくらいなら、と思い死霊に言われたことについて考えてみることとした。けれど、やはりと言うべきかそれについて答えが出ることなどない。そんな簡単に答えが出るものならばあの死霊に問われた時に答えられるだろうし。
「生きていたい理由、か」
ふと呟いたその言葉は重みをまして自分の心のコアへと加速して落ちていく。私にそんなものがあるのか…?と、不安にならざるを得なかった。しかしそれを止めたいと願っても止められる根拠がない。|現実《いま》がない。その全てが存在しない。ただ堕落し、何も考えずに生きてきたツケである。そしてそれを嘆く|権利《いみ》など、それを今の今まで考えてこなかった私には存在しないのだ。そう思いつめると聞き慣れた、聞いていて心地いい、しかし今は聞きたくなかった声が聞こえてきた。
「こんな所で何をそんなに思い詰めているのですか」
「さとり様…いえ、特には…」
思い詰めてなんていません、と。たった一言さえ言うことが叶わないのだ。それがサトリ妖怪を相手取る前提である。
「ふむ、|死生観《よく分からない話》について考えていたのですか?分かりませんね、そのことを深く考えることは。私には到底理解できることでは無いのでしょうが…」
心を読まれるというのはこういうことである、と言わんばかりに発言権など与えず一人で会話するのだ、さとり様は。
どうして一人で話すのですか。どうして会話をしていただけないのですか。どうして、私のことを…どんどんと思考の沼にハマっていく。ただ私が傲慢なだけなのか、さとり様が異端であるのか、それともその両方なのか。そんなことは分かりやしないが。
「思案するのは勝手ですが、私は私を変えるつもりはありませんし、自分でも変えることはできませんよ」
その一言でハッとする。さとり様と会話し…いや、思考しているとよく分からない思考の渦の中に取り残されるのだ。やはり、さとり様は恐ろしい。
「あら、私のことをそんな化け物扱いしなくてもいいでしょうに。たかだか、心が読めるだけの非力な妖怪ですよ」
だとしたら今まで生き残っているのも不思議ですけどね。
「それもそうですね。私としてはただ相手の都合のいいように取り入って過ごしてきただけなのですが。心を読まれるというのは言葉を持つ生き物にとっては存外不愉快なことなのでしょうね…今の燐がそうであるように」
そう言われて私は心を読まれていることに対して不快感を抱いていることに気がついた。ただ私はさとり様と会話をしたいのに、向こうがそれを受け入れずに勝手に解釈をして話を進めていくのだ。それは不快以外の何物でもない。やはり、さとり様との対話というのは苦手である。それでもこの地霊殿を出ていく気になれないことに些か疑問は覚えているが。
「とはいえ、別にそのように思われることは慣れていますから特に何か言うつもりはありません。ただその死生観とかいうものについて考えすぎて仕事に支障をきたさないならば、よし。」
またそうやって貴方は一人で結論を出すのですね。
「これが癖ですからね。燐のことが嫌いだからこうしてるのではありませんよ」
そう、ですか。
「えぇ、そうです」
これ以上話すことは無いと言わんばかりにさとり様は意識を私から外した。
「さとり様、何か食事、いりますか?」
「そうね…頂こうかしら」
「分かりました」
心を読まれるというのは不愉快極まりない。けれど、それでも私はさとり様に着いていくと決めたのだ。今更それを変える気もない。
「貴方は、優しい子ですね。燐」
「そうですかね」
「えぇ、とっても。私には勿体ないくらいには優秀で、地底にいるには純粋すぎるほどに美しいですよ」
その真意は測りかねない。というより、さとり様の言うことなんて理解する方が難しい。だから勝手に褒め言葉として受け取ることとした。
「…ありがとうございます」
そう言い、私はその場を後にした。さとり様は人に食事をするところを見られるのが苦手らしい。ただ一人、古明地こいし様を除いて、ではあるが。
ただずっと私はさとり様のことを敬愛し、仕えていきたいと思っている。けれどさとり様はそんなことを露知らず、唯我独尊と言わんばかりに一人でいることを好むのだ。私はそれが酷く悲しかった。辛かった。その理由さえも掴めなかった。傍に居たいというささやかな願いさえも、踏みにじられているのだ。だって、彼女がサトリ妖怪であるから。それである限り、私のことを好いてくれる理由なんてものは存在し得ない。
敬愛することに、好かれることは。信頼されることは必要条件では無い。けれど、それでも、好かれたいと思うことは。自らのことを必要として、信頼して欲しいと思うことは。普通であっては、いけないのだろうか。許されることでは、ないのだろうか。
「そんなことはないですよ」
さとり様の、そんな声が聞こえた気がした。それが幾分、皮肉にしか聞こえなかった。
自分の作った料理の匂いが鼻腔を通り抜けるのを感じる。それも明日には死体の匂いへと変わってしまうというのに。その匂いのことを振り払うのに、少々時間を要した。
*
思考を続ける。どこまでも深く。
いつまで経っても私の思考は一人歩きを止めることなく奥へ奥へと進んでいく。底なし沼かと思うほどに留まることを知らず、結論を出そうともがけばもがくほど何を考えているのか自分ですら理解できなくなる。それ程までに恐ろしく、それ程までに奇妙であるというのに。それでも思考を走らせているのは何故だろうか、とも思ったが。その場では答えが出せやしなかった。何事にも順序が必要だ。その答えを導き出すための思考のルートが必要だ。それが今、私にはない。ただそれだけ。そのはずだ。
照り続けるその灼熱の人工太陽のようなものは、まるで地底の命かのように輝き続ける。事切れた生命の抜け殻が燃料とは思えないほどに、強く。最近まではその|再利用《リユース》については何も感じてはいなかった。
───|再利用《リユース》。この灼熱地獄の燃料にするために死体を持ってきては投げ入れることで安定した燃料供給を施すというもの。それが今の私の仕事。今日も今日とて、それは変わらない。何を考え、何を話し、何を思おうがその事実は変わらない。仕事が嫌いという訳では無い。
最近までは、全くと言っていいほどに再利用に関して無関心だったのだが死生観について否が応でも考え続けてしまうので、この再利用に対しても色々と考えさせられることがあるのだ。
私が死生観について考え始める前までは死体に何があるというのだ、死体に遺るものはただの有機物でしかない、魂を人間が見えるでもないだろうに。とばかり考えていた。それが正しいのか、間違っているのか。それに関して見つめ直すようになった。それでも私は再利用を続ける。続けなければならない。続けなければ、ここにいられない。
ぽい、ぽいと人間の死体を猫車に投げ入れる。投げ入れた死体はどさ、と音を立てて積まれていく。今日は|収穫《死体》が少ない。人がそこまで死んでいないのか、何かに喰い殺されてしまったか。どちらであるかは明らかでは無いが。それにしても地上の空は美しい。地底とは違って空気も透き通っている。それだけで過ごしやすい。けれどどこか居心地が悪い。そう感じて、死体を入れた猫車を押して地霊殿へと戻ることにした。帰る途中、ふと目に留まる花を見つけた。黄色、白、赤、紫と様々ある優雅に咲いているコスモス。どこか私はそれに心惹かれて手に取って帰った。それをむしり取るその単音が、単音であるはずなのに何十と重なって頭に響いた。
地霊殿に着いて、私は一度コスモスを部屋に置いてから灼熱地獄へと足を踏み入れた。無論、入りたいとは思わないが。ここは私には暑すぎるのだ。多分コスモスにとっても。でも別に楽しみが無いわけじゃあない。私の親友のお空がいるからだ。
「ん、しょっと。今日はとりあえずこれくらい燃料持ってきておいたよ」
「今日はちょっと少なめなんだね」
「そっちの方が人間からしたら平和だろうし、心持ちもいいだろうけどね」
お空とはずっと昔から友達でいる。というより、どのくらいの期間一緒にいるのか覚えていない。地霊殿にいる時間というのはそれほど長く、私に強い影響を与えている。
毎日はこれの繰り返しで、退屈する日もある。疲れる日もある。楽しい日も、悲しい日も。でもそれはささやかな感情の動きでしかない。それほど安定している。私はそれを切に願っている。二度と一人になんてなりたくないと望むのは、当然だろう。
「ねぇ、お空」
そう呼びかけると彼女は屈託のない笑顔を見せ、上機嫌のような声色で反応する。
「んー?なぁーにー?」
「お空はさ、いつか私たちが離れ離れになっちゃったとしてさ、」
続けようとしたら、お空にそれを遮られた。どこかさとり様のようなものを、一瞬だけ感じた。
「そんなこと言わないでよ、お燐」
そういうお空の顔はただ悲しそうな顔で、ただそんな未来を受け入れたくないと本心から望んでいるように感じられた。
「ずるいな…あたいは…」
そう小声で呟いた。聞こえないように、呟いた。
「大丈夫だよ、お空。あくまで例えばの話。私はお空と離れるつもりなんてないしね」
「そう?なら、よかったよー」
そう言ってその眩しい笑顔を見せる。私はどこまでも狡い。
「ねぇ、お空。」
私はまた親友のことを呼ぶ。どうしようもなく悩んで悩んで悩み続けていることを、彼女ならきっと真っ直ぐ思ったままに返してくれるから。
「お空は、生きたり死んだりすることってどう思う?」
「どうって…質問が難しいよー」
「あぁ、たしかにそうだね。じゃあ…今、どういう理由で生きているの?」
言ってから別にそこまで質問の難しさは変わっていないとは思ったのだが、これ以上に分かりやすい説明が私には分からなかった。けれど、お空には伝わったらしい。すぐに返してきた。
「うーん、理由が無かったら生きていちゃダメなのかなぁ」
私からしたらそちらの方がよっぽど難しい話だった。生きる理由無くして生きているのはどういうことなのか?となる。親友は続ける。
「私は別にこれが理由で生きてるんだ!っていう理由は無いけれど、お燐と話したり他の子達と話したり、さとり様と、こいし様と話すことがとっても楽しいからそれでいいと思うんだ」
「ふぅん…そう考えるんだ…」
ただただ感心していた。私には思いつきようのない考え方だったから。
「逆にお燐はどうなの?」
「あたいかい?あたいは…そうさね、死ぬ理由がないから生きる理由を模索してるのかな」
「へぇ、お燐は難しいこと考えてるんだね」
多分、そう言う彼女の頭の中には殆どが記憶に残らないのだろうが、でもなんだか心の負担は楽になる。それだけで話した価値はあったというものだ。
「そういえばお燐、なんだかいい匂いするね」
「…あんた、遂に鼻までイカれちまったのかい?あたいからいい匂いなんてしないと思うけどねぇ」
するとしても嗅ぎなれてないと吐き気を催すであろう血と泥の混ざりあった気持ちの悪い匂いだけだと思う。というか、私が今そう感じている。私はもう慣れてしまった、というか常日頃からこの匂いが染み付いてしまって落ちないのだ。特段それを気にしてもいないけれど。
「流石にそんなことは無いよー。いつもよりずっといい匂いがしたなーって思っただけ。勘違いだった?」
そう言われても思い当たる節が…そういえばあった。
「あぁ、そういえばコスモスの花を一輪だけ採ってきたっけ。その匂いが付いたのかな」
「そうだよ!きっとそれ!その、こすもすって花じゃないかな?後で見せてよ!」
「いいよ、じゃあ仕事終わったらあたいの部屋に来てよ。綺麗な花だし、きっと気に入ると思うから」
「わかった!」
私はコスモスが好きだ。でも、それが似合うのは私じゃない。純情で、純粋で、自然体なのに、美しくて、どこか幼い、お空にこそ似合う花なんだろうな。
死体を投げ入れ終える。今日の仕事の終わり。疲れたとは感じない。感じるほど柔い生き方をしてはいない。私はお空が一時的に仕事を休める時まで側に立つ。それが親友であるあたいの役目のはずだ。それに、この後お空が部屋に来るなら一緒に行った方がきっと楽しい。だから待つ。いつまでも待つ。
いつ見ても、お空のあの力はすごい。神様に貰ったと聞いているが、にしても強い。火力が高く、それでいて調整ができるというのはやはり凄いものである。
───私に、|彼女《おくう》の友人が。親友が務まるのか。力の差を感じる。お空がここにいる理由は分からないけれど、お空にはお空にしかできない仕事がある。それがすごく羨ましい。それがすごく、妬ましい。それがすごく、私には辛い現実なのだ。
私は別に特別なことは出来ない。唯一無二の存在ではいられないし、そこら辺の猫でしかない。神の力を戴いても耐えてそれを扱うことができるようになるほどのものが私にあるとも思えない。
自然と涙が頬を伝う。けれどそれはすぐに蒸発して見えなくなってしまう。どうして泣いているのか。どうして泣くことが許されると思っているのか。努力をしない生き方をして、どうして唯一無二となることができようか。
負の向きへと、心のベクトルは指針を示す。考え込むといつもこうなる。それでも私は考え続ける。その思考を手放すことはできなかった。
「…りん、おりん、お燐!」
その、親友の力強い言葉で私はハッとする。声のするほうを見ると何やら悲しそうな表情を浮かべているのだから、とても不思議である。
「どうしたのさ、急にそんな何回も呼んで」
「お燐、気がついてないの?」
「ん?何が?」
「お燐の顔、今とっても苦しそうな顔をしていたの。くるしい、たすけてって」
苦しい。助けて。私の本心はそこにあるのだろうか。それとも、お空の思い込みだったのか。
「心配しなくても、あたいは大丈夫だよ。ちょっと考え事をしていただけ。気にするこたぁない」
「…そう?なら、いいけど」
親友に心配をかけたくない。誰も心配させたくない。心配なんてものは、私なんかに向けてするものではない。
「そう、大丈夫だよ。仕事も終わった事だし地霊殿に戻ろうか」
「わかったよ、お燐。でも、何かあったら言ってね?」
「うん、もちろん」
もちろん、か。その口約束を、いずれ破ってしまうんだろうなぁと思うと悲しくて仕方がなかった。
その後、お空と一緒にコスモスの花を見せようと部屋に向かっていった。その間のお空はものすごくワクワクしている素振りを見せていた。実際、地底に咲く花というのは美しさといったものはない。地底らしい、ドロドロとした、血生臭い現実さがあるだけだ。そう考えたら地上の花というのは綺麗で、美しい。
「ねぇ、お空」
「…うん?なぁに?」
「もし、私が泣いていたら、一緒に泣いてくれるかな」
自分でもよく分からない質問である。そんな質問にも真摯に応えようとする、私の親友は。私にはもったいないほどにいいやつなんだ。
「うん。きっと、そうするよ」
部屋にはコスモスの穏やかな匂いが満ちている。地底では感じられないそれを、私たちは存分に楽しんだ。
私の|コスモス《親友》は、いつまでも私の中に残り続けた。
*
疑問は連なる。どこまでも長く。
お空とコスモスの花を堪能してから数日が経つ今も、未だに答えなんてものは見つからない。考えれば考えるほど自分の生きる理由は何なのか、自分の居場所はどこなのか、その何もかもが分からない。それは実際私にとって当然のことである。私は妖怪としては立派な一匹であるが、哲学者としては未熟な一人なのだから。
分からないことは分からないと、そう言うことができたら。思うことができたらどれほど楽であったのか。そう思うことは何度もあった。けれどそんなことは考え、言葉を発する甘味に触れ続けてきた私には耐え難い苦痛となっていた。
言葉は誰にでも扱える魔法だ、という言葉を聞いた、もしくは読んだのかもしれない、記憶がある。初めて知った時は訳の分からぬ言葉だと思ったのだが今思えばそれはとても理解できる話であったと感じる。言葉は言葉を持つ生き物にとって最高峰の宝であると同時に、誰彼を簡単に不可逆的に、壊滅的に精神を崩壊させることさえできる魔法なのだ。
おそらくそれは、読心の力を持つさとり様を主に持っているからこそ思うことなのだろうけれど。言葉を持つ生き物にとってサトリという種族は切っても切れない恐怖の対象なのだ。それでも私は今もサトリに仕え続ける。それが私の生きる理由だと信じるために。
ある日、やはり私は答えを見つけることができずにただ毎日を繰り返していた。やはり何か刺激や新しい視点が無ければ問題を考えるためのピースが足りないのである。
灼熱地獄の熱風が頬を撫でる。やはり熱い。暑い。どうしてこの地底世界でこの熱さを出してでも核融合を起こしたりしなければならないのかが私には分からない。きっとお空も。それはさとり様にしか分からないんだと思う。今度聞いてみよう。と、そう思った。
奥へ奥へと死体を運ぶ額を伝う汗が流れる。そしてそれはすぐに蒸発してしまう。どうせなら今のこの哲学的疑問も蒸発して見えなくなってしまえばいいのに、と思わなくもなかったけれど。そんなことは有り得ないしできやしない。
「流石に毎日動き続けていると、嫌になるもんはなるんだねぇ」
つい口に出す。動くのは嫌いじゃない。その上で嫌になるのだ。同じ景色を繰り返す日々に。同じ出来事がある毎日に。それを求めていたのは私だというのに、今更それを辟易しているのだ。それはなんて傲慢だろうか。それはなんて自己中心的であろうか。でも、きっとそれこそが
───私の求めていた自我というものではないのだろうか───
現在の安定を求めるというのはすなわち今後の変化を厭うということだ。そこには進歩なんてありはしない。いつでも、進歩を生み出すのは現状に満足せずに動き続ける意思である。その点で、私は今の地点から進歩したいと思っているのではないか。自分の気持ちを正確に理解することはできやしない。できやしないから動こうとしているのか、と。
それでも、私はその思考を打ち切った。私はもう、一人になんてなりたくないのだ。欲を追い求めて孤独になるなんて考えたくもない。例えその仮説の通りだったとしても、私は私の感情に蓋をする。二度と、独りにだなんて。
そう思えばそう思うほどやはり意図せずとも涙は頬を伝っていく。その度にその涙は蒸発し、ここが何処であるのかを私に思い出させる。ここは地底世界。ジメジメとした感情で埋め尽くされた世界。そのような所でただ独りになりたくないと考えているはぐれ者なんて、私くらいしかいやしないだろう。
「きっと、こんなんだからあたいは…私は家族に捨てられたのかもな」
その一言は自分で言ったにもかかわらず重く、そして強く私にのしかかる。
…私は、家族に捨てられた。その理由は分からないし、分かりたくない。それに今それが生きているのかも分からない。生きていても、死んでいても、捨てた相手のことなんか覚えるはずがないんだから。
思考の沼は留まることを知らずに深く、そして強く私の心の中に根付いていく。それを知ってもなお、一人では思考を止めることさえ出来ないのだ…今回は、止める相手がいたものの。
「お燐、どうしたの?そんな顔してさ」
「…こいし様、こんにちは。特には何もないですよ」
「それならそんな捨てられた子供みたいな顔はしないわ?」
その言葉は強く突き刺さる。事実であるから。思い出してしまうから。今はそんなのじゃないと言い聞かせても、過去は変えられないから。
「少なくとも、こいし様が知って気分のいい話じゃあないですよ」
「それを決めるのはお燐、貴方じゃなくて話を聞く私だわ?どうせ一人でいてもよくない方向に考え込んでしまうなら、いっその事吐いてみない?って言っているだけよ」
そう言うこいし様の表情は何を考えているのかさえ分からない。彼女の喪った感情は誰にも見分けることなどできないのだ。存在しないのかもしれないが。しかし、例え主の妹君とはいえ私のくだらない話を聞かせるわけにもかないだろう。
「そう言われましても…」
私が言い淀んでいるとこいし様は少し不機嫌な顔をした。なぜだかは分からないが、時折こういったことをするお方だからそこまで気にも止めなかった。
「まぁ、言いたくないなら言わなくていいわ。実際、眼を閉じてからお燐とゆっくり話したことなんてそんなないもの。ずっと考え込んでいることを話せるほど仲がいい訳でもないわね」
「本心を言ってしまえば、そうですね。正直この話をして馬鹿にされないかが少し恐ろしいです」
私は正直に吐露する。
「しかし、こいし様について知りたいとは何度も思っているのですよ?」
「あら本当?なら、気になることを聞いてみてよ。答えられるものは答えるわ?」
それはつまり、答えられないものは答えられない。そういうことですよね。それでも私は、この一言がずっと聞きたかった。
「どうしてこいし様は第三の眼を閉じたのですか?」
そう尋ねた時の彼女の顔は、一瞬ながらも動揺の心が見えた気がした。きっと、気のせいなのだろうけど。
「人の心なんて見ても落ち込むだけで良い事なんて何一つないもん」
そういうこいし様の顔はやはり屈託のない笑みだった。裏を感じさせない笑顔だった。それが本心なんだとなんとなく知った。
「人の心は憎悪や嫉妬、嫌悪。そんなくだらないもので埋め尽くされてるの。だからそんなものを見続けていたら心が壊れてしまう、そんな気がしたの」
「そう、なんですね」
心が読めないとは恐ろしい。私はそう感じるけれども、こいし様は心が読めることは苦しいという。その感覚は、私には分かることは無いのだろう。
「さっ、こんな辛気臭い話はやめにしてささっとお家に帰ろっか。たまには一緒にご飯を食べよ?お燐」
こいし様はいつも唐突だ。でもそれは仕方ないことだと思っているし、そんなこいし様だからこそ、知りたいと思ったのかもしれない。
はぐらかされているかもしれない、という疑念は心の奥底にしまっておいた。
地霊殿で食事をこいし様と共にするというのは経験したことの無いことではあったが、居心地悪いものでは無かった。話は弾むし、地上の様々な知識を教えてくれるのだ。こいし様はさとり様よりも話しやすく、それでいてよく分からない。それでも楽しいと感じた。そう思ったから、やっぱりここにずっと居たい。そう感じる一日だった。
*
沼に踏み込む。抜け出せぬ沼に。
ある霊から問題提起をされてからはや一ヶ月。結局私の中での答えは見つからずにいた。
───何故生きているのか───
この訳の分からない問いに真っ向からぶつかっても答えは出ないと気がついた私は別の角度から考えることとした。
「あたいがあたいである理由、かぁ…」
これはこれで訳が分からない問題ではあるが、まだ考えることが出来そうな問題でもあった。暫くの間はこれを考えることにした。
更に何週間か経った後、私は相も変わらず外に出向いて死体を集め続けている。そこに変化はなくて、ずっと追い求めていたはずの生活がそこには間違いなくあった。けれどそれはどうしても退屈で、耐えかねた私は一日だけさとり様に許可をいただき、休暇を取る事にした。普段からずっと地上と地底を歩き回っているけれど、ゆっくりそこを歩くことは無いから新鮮な気持ちで散歩でもできるだろう。哲学者、とやらも考える時はそれぞれのルーティンがあるらしいので私もそれに倣ってみるべきだろう。そう考えていると、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「…あら?お燐じゃない。珍しいわね、一人で散歩するだなんて」
こいし様だ。こうして話すのも久しぶりだが、彼女はそれを感じさせない。
「さとり様に許可をいただいて休暇を取ってるんです。地霊殿でゆっくりするのもいいんですけど、どうにも最近何も考えずに散歩っていうのができてませんでしたから。たまには色んなところの景色を眺めてゆっくりしたいって思いまして」
「ふぅん…なら、私と一緒に行かない?きっと、お燐も気に入る場所を知っているわ?」
私は逡巡した後、首肯した。こいし様と二人で歩くというのもたまにはいいものだろう。
「それにしても珍しいね」
なんの前置きもなくこいし様が話し始める。私はそれに困惑しながらも、いつものことかと思いすぐに返す。
「何がですか?」
「仕事熱心なお燐が、こうして散歩してその上私と一緒に散歩しようと言ってくれるとは思わなかったのよ」
「…あたいは別に仕事熱心という訳ではありません。きっと居場所が無くなるのが怖いんです」
「あら、そうなの?」
そう言ってからこいし様は至極不思議だ、と言わんばかりに困惑しているような顔を見せた。
「お燐がそんな悩むことなんて私は無いと思うんだけれどね。私が何か言うことでもないとは思うけれど、思い詰めすぎない方がいいわ?」
「そんなもんですかねぇ…」
「えぇ、そんなものよ。きっとね」
「そうですか…」
やはりこいし様はよく掴めない。いつも放浪している上に瞳を閉じてからは人の心を読めなくなった上に、自らを無意識の沼に沈み込ませているというのに私のことをそんなに見ているというのか?
本当に色々な意味で不可思議で、イレギュラーな方だと感じた。無論いい意味で。
「でも、こいし様と一緒に散歩したいというのは前々から思っていましたよ。散歩とは限らずとも、話したいとは思っていました」
これは本音である。ずっと話したかった。理解できない存在を理解しようとは思わないが、理解できない存在だからこそ気楽に話せる何かがあった。
「あら、急に口説いてくるなんてお燐も隅に置けないわね〜このこの〜」
そう言ってこいし様は私にじゃれてくる。肘で突っついてきたり、頭を撫でてきたり。そんなこいし様に表面上は嫌そうにしつつも満更でもない私がいた。こいし様もきっとそれを理解していた。
「とりあえず、頭を撫でるのも顎を撫でるのも地霊殿に帰った後にしましょう。ここだとその、落ち着かないです」
「そっか。なら、地霊殿に帰ってから思う存分モフるから覚悟しておいてね?」
「えぇ、それはもちろん」
そう言って再び歩き出す。そこに気まずさはない。あるのは心地よい静寂と平穏である。本来、主であるさとり様の妹であるこいし様に対して落ち着くというのはそこまで良いことではないのかもしれないが、それを気にするほどさとり様もこいし様も器は小さくは無いだろう。そういう方達だ。
「そういえば、あたいが気に入りそうな場所ってどんな場所なんですか?」
「それは着いてからのお楽しみ!きっと好きだから楽しみにしつつ歩こ?」
…やはり、掴めない人である。いや、無意識下で生きる相手を捉えようとするのが間違いなのかもしれないけれども。
「そうですか。まぁ、きっとどんな所でもこいし様となら楽しめそうです」
「あら嬉しい。そのうち惚れちゃうかもね?」
今日初めてまともに瞳を閉じてから話したというのに、そんな冗談さえ言えるのだ。この方特有のカリスマというものを感じる。
「残念ながら恋愛感情というものがあたいには分からないので、すみません」
「うーん手厳しい」
そう言って笑い合う。心の底から笑ったのは、いつぶりか。分からないけど、この気持ちがきっと楽しいという気持ちのはずだ。
そうやって話しているうちに時間はどんどんとすぎていく。そうしていつの間にか目的地に着いたようだ。
「…花畑?」
そこには色とりどりの花が咲いていた。しかも、何故か季節外れのものも、今どき咲いていそうなものも。不思議な場所である。陽が強く差し込んでおり、眼を開くのが辛いほどに眩しかった。こいし様は慣れているのか、地面から生えている花───青色のアネモネだろうか───を取ってから言った。
「そう!私が地上を放浪している時に見つけたんだ。お燐、お花好きだったよね?」
たしかに、私は花が好きだ。それこそ時々花を地上から持って帰ってきて飾るほどには好きだ。少し前にもお空に見せたコスモスの花があったが、あれもそのうちの一つである。なんなら、花言葉も多少は知っている。たしか青のアネモネは【固い誓い】だったか。まぁ、何か意味があるのかと言ったら無いのだろうけれど。
「はい、あたい花はとても好きですね。自己主張の激しくないような花は、特に」
「へぇ、そうなんだ?それなら、この花とかどう?」
そう言って手に取ったのは勿忘草。私が好きな花のうちの一つ。
「花言葉はたしか…私を忘れないで、だっけね?」
そう言うこいし様の顔は不安そうであったが、他の意味もあるもののたしかにその意味もあった。そのようなことを無意識下にある彼女が覚えていることに少し驚いた。
「あれ、こいし様も実は花言葉いけるクチなんですか?」
「もちろん!放浪してるうちに花に興味持ってからたまに調べてるんだ?」
「へぇ、いいですね。あたいも花言葉、少しは覚えてますよ」
「そうなんだ!なら今度、地霊殿にでも花を飾ってみましょう?きっとお姉ちゃんも喜んでくれるわ」
「いいですね。是非そうしましょう。今日にでも」
そう言って私は顔に笑みを溶け込ませる。その提案はとてもいいものだ。きっと楽しい。そして気分も上がるだろう。それほど、私は花のことが好きだった。
あぁ、でも。こいし様はこの事さえも忘れてしまうのかな。そう思うと、悲しいな。
けど、と思う。こいし様は本当に記憶を失っているのか。失ってしまうのか。感情が本当に無いのか。だとしたら無意識というのは全ての感情を司るというのか。しかしそれでは感情が無くなったと聞いていた話とは矛盾してしまう、と。
「こいし様」
気付いたら声に出ていた。ただ嫌だと思ったことを変えられるならばどれだけ楽なのかと思わざるを得ないほどに何も考えずに発したものだった。けれど、たしかに出してしまったのだ。隠すべきだったのかもしれない思いを。その声を。ここから何でもないと、言うことは出来ない。
「うん?どうしたの?」
「どうにも引っかかるんです。こいし様の顔はそんなにも動いていて、楽しそうな顔も真面目な顔も不安そうな顔も色んな表情が見えたんです。それなのに、こいし様の感情が無いとは、とても思えないんです。たしかにあたいはそこまで関わっていませんが、それでもこいし様に感情があるように思えて仕方がないんです」
…こいし様は第三の目、所謂サードアイを閉じてから感情が消え失せたと聞く。しかし、そうは見えないのだ。感情がないならばどうしてそんな困ったような表情を浮かべるのか。どうしてそんなにコロコロと表情が変わるのか。
「あたいが言っていることが正しいかは、分かりません。ですが本当だとしたら少し寂しいです。話して、いただけませんか?」
気になっていたことを全て聞いた。きっと彼女の柔らかいところで、触れたら簡単に崩れ去ってしまいそうな程に脆い部分。顔は今すぐにでも泣き出しそうなほど歪んでいた。初めて見るほどに、今までのこいし様とは異質なものだ。
その顔を見たくなかった。そんな顔をさせたくなかった。けれど後悔してももう遅い。
「お燐はさ」
そう一言、先に言葉を置いてからこいし様は続ける。
「見たくないものが否が応でも見えてしまうっていうのが、どんな気持ちだと思う?」
その言葉は穏やかに発された。けれど、込められた気持ちの中には諦観が見え隠れしていた。触れてしまえば凍傷を引き起こしてしまうほどに、冷たい気持ちで構成されていた。
「あたいには、分かりません。見たくないものを見て見ぬふりしてきたから」
「そう、そうだよね。それが普通。でも、それが私たちにはできないの」
私たち、というのにはさとり様も含めているのだろう。きっとあの方もどこかで苦労した結果今のような性格になったのだ。そうでも無ければあそこまで異質にはなれまい。
「人の心を読めるっていうのはね、便利に思えるかもしれないけど、私からしたら呪いでしかないよ」
呪い。能力は、呪いでしかないという。人を苦しませるもの。少なくとも、普通に生きる上では邪魔になるもの。
「私は心を読めるというよりは心の声が流れてくる能力とこれを認識してる。壊さなければ、止まることは無い、呪いとして。私はただ、普通に生きていたかった。そのささやかな願いさえ許されなかった」
地底というのは、地上世界の中で忌み嫌われるものが集まる場所である。その中でも奥地に館を構えるさとり様とこいし様はどれほど嫌われているというのか。まぁ、それはそこに住む私もそうだろうが。
「始めは人の子供たちと仲良くなりたかった。けれど、嫌われた。大人もそうだった。ただ襲いかかってきた。こちらは何もしないというのに、妖怪に人間に対して友好的な存在は無いとかいうくだらない先入観に囚われていた。だから、妖怪と仲良くなろうとした。けれどそれも上手くいかない。襲いかかられることは無かったけど、でも心を読まれることが嫌だったみたい」
誰からも好かれず、誰にも愛されずただ生きるだけの人形に、生きている理由はあるのか。生きる価値はあるのか。
「私たちの読心の能力は、心と言葉を持ち合わせる存在は強く嫌うみたい。隠し事ができないからかしら。隠し事するしかない貴方たちの心が、性格が良くないだけだと言うのにね」
「けれど、人に限らず隠し事をせずに生きることはできません、こいし様。それはあたいも。きっとお空も、さとり様も。もちろんこいし様も。全てをさらけだして生きることは何よりも恐ろしいことですから」
「えぇ、そうね。だから、それは悲しかったけど乗り越えられた。乗り越えられたの。けど…けど!」
声は更に荒々しくなり、歪み、そこまでいたこいし様という存在は全く別の存在に見えた。二つの人格を混ぜたように。
「もうこれ以上誰かに嫌われるものを読み取るのが嫌だった!いや、違うの。お姉ちゃんに、お空に、ペットたちに、そして…お燐に。近くにいる皆が私のことを嫌っているかもしれない、それを読み取ってしまうかもしれないと思うと恐ろしかったの」
それは悲痛な叫び。ただ平穏と普通の生活を望んだにもかかわらず、それを全て蔑みという感情一つで奪われたこいし様の、心からの叫び。
「ですが!私はこいし様を敬愛しています!それは、今までずっと!」
「お燐、いいことを教えてあげるわ。人の心なんてね、時間が経てばすぐに変わってしまうものなの。たった一年、一ヶ月。いや、一日でも。何か小さなきっかけだけで簡単に揺れ動いてしまう。実際、今お燐が私を見る目は少し恐れているみたいだからね」
「それはっ、」
「いいのよ。お燐は優しい子だって知っているから。昔からずっと好きに生きてきた私を帰ってきた時には喜んで出迎えてくれていたことを知っていたから。でも、それがいつか変わって、その心を読んでしまったら」
一泊置いて、こいし様は続けた。
「私はもう、何を信じて、何を目的に生きればいいのか、分からないよ」
何も言えなかった。無責任に彼女の気持ちを理解したつもりになって声をかけるというのは、それこそ彼女を傷つけることになるからだ。
ただ、場違いにも。私は私の疑問に思い続けた問題に答えが出たような気がした。今のこいし様を見て、思って、想って、話して。そうしたら、何となくわかった。生きている理由なんて元よりあるものでは無い。誰かと生きていたい。誰かと楽しく過ごしたい。そう言ったささやかな願いを叶えるために幾重にも苦しんで生きているのだと。誰も彼もが答えを模索し、探し、求め続けて生きている。そんなくだらない、至極当然な話なのだと。
だがそれは残酷な現実でもある。生きる理由は能動的に探して自らで結論を出さなければ見つけられないのだから。受動的に生きては、何も分からないのだから。だから私は一度もそれを掴めなかったのだろう。
けれど、そんな私にも大切な存在が。地霊殿の皆が。さとり様が、こいし様が。そして…|お空《親友》が。その皆がいるから。そしてそれはこいし様にも、いるから。
だから、私は言う。言わなければならない。苦しみ続けたこいし様を優しく包むように。
「あたいは、こいし様がどのような人生を歩んできたかは分かりません。それは当然です。私はこいし様ではないから」
「…えぇ、だからもう。何もかもどうでもいいの。だから私は瞳を閉ざした。感情が無いというのは嘘よ。ただ、何も感じないように心を閉ざしていただけ。それはこれからも変わらないわ」
「でも、だからって何もかも諦めていい理由になる訳じゃないんです」
傷つけてしまうかもしれない。苦しませてしまうかもしれない。でもそれで、この先にある苦しみを和らげることができるかもしれない。そう思うと、言葉は止められない。
「あたいはずっと生きている理由が分からずに生きてきました。けど、こいし様と話していくうちに分かった気がするんです。そんなもの、自分で作んなきゃ答えなんてないって」
私の思っていることを続ける。
「だから、こいし様。止まったっていいんです。退いたっていいんです。でも、いつか前を向いて歩きましょう。あたいはそれをずっと、待ち続けます」
顔は歪んでいる。でも、恐ろしさはそこにない。ただ泣き出しそうになっているものを堪えているように見えた。そしてそれが気のせい出ないことも何となくわかった。
「お燐は、私と一緒に、生きてくれるの?」
「あたいだけじゃないですよ。さとり様も、お空も、みんなです」
「…そっか」
そう言うと涙を止めるにも限界が来たのかこちらに近づいてもたれかかってきた。そしてそれを私は受け止める。
「少しだけ、胸を借りてもいいかな。お燐」
「えぇ。少しと言わずに、今まで貯めてきた涙を全て流してしまうほどに。いつまでも、あたいは待ちますよ」
「…ありがとう」
そう言うとそのダムは決壊した。私は。いや、あたいは見ないようにした。けどその何年も貯め続けた哀しみを。諦めてきた心を、見て見ぬふりはしなかった。それを受け止め続けた。どのくらいかは分からないけれど体感二十分ほど経った。
「ごめんね、お燐」
「何がですか?」
「色々隠したままだったこと」
「あぁ、特に気にしませんよ。先程も言いましたが隠し事なんて誰でもするものです。それがどんな関係であれ、それを話すか否かは本人の意思によるとあたいは思っていますから」
だから、と続ける。
「苦しい、って思ったなら自分でなんとかするよりも誰かを頼ることをしてみた方がいいかもしれませんね」
結局こいし様は様々な暗い感情を押し潰して、押し隠して生きてきた。その身に何十年と背負ってきた。誰かを頼れば、解決できたかもしれないことをだ。
「うん、ごめんね」
「大丈夫ですよ」
「そっか」
端的な会話は単調ではあるものの、そこには明らかな信頼が見て取れた。私の居場所はここにある。私の家族はここにいる。だからもう、迷うことは無い。悩むことは無い。
「なんかお燐、今日会った時より顔色が良くなった?」
「そうですかね?」
「うん、とっても」
理由は明らかである。二ヶ月弱悩み続けた問いが解決されたのなら楽になるものだ。
「まぁ、悩みが解決したんですよ。こいし様のおかげですね」
「ふふ、そっか。それなら打ち明けてよかったかも」
そう言ったこいし様は楽しそうにまた花を摘み始めた。美しい花も、儚げな花も。全てを受け入れるように。
「そういえば、その悩みってなんだったの?」
そう言われて少し言い淀んだが、まぁいいかと思い素直に告げることにした。
「まぁその、死霊と話してる時になんで生きているんだ?って聞かれたものですから、それをずっと考えていたんですよ」
「へぇ、難しいことを考えるんだね」
「今となって思えばなんでこんなことで悩んでたんだろうって思いますけどね」
あたいは今まで生きてきた。これからもきっと生きていく。そこに理由なんてない。あるとすれば、さとり様…いや、地霊殿のみんなと生きていたいというささやかな願いなんだと思う。それがきっと、探し求めたあたいの|哲学《フィロソフィ》のはず。その願いを満たすためだけにあたいは、ずっとここにいる。あたいは誰のことも嫌いになんてなれないから。きっと皆のことを愛しているから。
多分、人によって探し求めてきた結論は違う。かのカントは苦しみの中に原動力があると言った。そしてその活動が我々の生命であると。こいし様の苦しみにも原動力があった。それで生命を燃やしてきた。そしてそれが今の幸せな現実を紡いだのならば、きっと間違いではない。
「まっ、帰って花を飾りに行こっか」
「そうですね、こいし様」
もう少しで冬が来る。冬には花は枯れてしまうかもしれないけれど、再び季節になったら美しく咲き誇るだろう。それを教えてくれたのはこいし様だ。
「こいし様、教えていただきありがとうございます」
聞こえないように感謝を述べた。花の匂いは途切れることなくあたいとこいし様を包み込んだ。
*
猫は歩む。暗闇を超えて。
こいし様との一件が終わってから数日。あたいは変わらずにいつも通りの仕事をしていた。けれどもその心持ちは全てが異なる。
「悩みのない生活ってのは、心が安らぐねぇ」
やはり、何事も適度であるべきだ。それ以上もそれ以下もあまり良いとは言えない。
「心が安らいでいても体が疲れていては仕方がないわ?」
そう言うこいし様は前とは異なる、太陽のような笑顔を見せる。
「はは、そりゃそうですね」
あたいはなんだか疲れていた。仕事に集中できるようになったからか、今まで以上に体を動かしていたらいつの間にか体が動かなくなっていた。まぁ軽い疲労だから何とでもなるが。
「そういえばさとり様とはどうなんです?」
こいし様はあの一件が終わったあとそのことをさとり様に告げに行った。隠し事をするのも懲り懲りだと言わんばかりであった。その方がこいし様らしいとも思えた。
「んー、特には。でも、ちょっと安心してたのかな」
「あれ以来さとり様は最初の方はこいしの心が読めない〜って騒いでましたしね。きっとこいし様の気持ちが理解出来た、知れたことが嬉しかったのですよ」
「それならいいけどね。でも、うん。瞳は暫くは開かないでおこうかな」
「そうですか。なら、そうするのがいいんでしょうね」
「うん。これでいいと思う」
こいし様は変わった。沢山わがままを言うようになった。でもそれと同じくらい沢山のことを手伝ってくれるようになった。一人で放浪する時は必ず誰かに伝えてから出掛けるようになり、一週間に一度は帰ってきて共にご飯を食べた。以前では考えられないことも、できるようになった。
それと同時にあたいもおそらく変わった。自分の変化には自分が一番気が付きにくいのか、あたい自身はよく分からないがお空は「お燐、元気になった?」と言ってくるし、さとり様は「何だか、垢が抜けました?」と言われた。その変化は好ましいことである。
あたいは元々自分に自信がなかった。それは家族に捨てられたからか、性格からか、それとも地底において何者とも思えなかったからか、あるいはその全てか。そのせいで表面上は明るく取り繕い、内面はずっと薄暗いジメジメとした気持ちを常に持っていた。だからずっと、心の中では私という一人称にもなっていた。それがずっと心の中の重荷で、でもそれを取り外すことは一人でできなかった。けれどそれは今となってしまえば些細な問題である。あたいを必要としてくれるさとり様がいる。あたいと過ごしたいと思ってくれる親友がいる。あたいと話したいと思ってくれるこいし様がいる。きっとこれこそが本当に求めた平穏と安らぎなのだろう。家族に捨てられたことなどくだらないことだ。何で捨てられたのかも、生きているのかも、どうでもいいことだ。今ここで愛されているならばそれが本当の家族でいい。生きる意味も、あたいが何者であるかも、そんな物はあたいが考えることではない。あたいが価値づけることでもない。家族が付けることだ。そのためにあたいは生き続ける。|地霊殿の皆《家族》を大切にするために。そして、愛するために。
「ま、最初は心の中では愚痴ってたけど今では感謝してるよ。あの時の死霊には」
一人で生きていた時の、寂しさも。家族で生きる嬉しさも。あいつが居なければ知らなかった。知らないままだった。
「あんたにも、そんな存在ができるといいね。あたいはそれを願ってる」
地底の燃料は今日も追加されていく。ぽいぽいと投げられ、そして燃えていく。それがあたいたちの命となる。新たな命を生む。
最近の地底は冬が来た。とても寒くて動く気をなくしてくる。こんな日はお空に癒されよう。そうでもしないと、寒くて部屋に引きこもりそうだ。
「お空〜いるかーい?」
「うにゅ、お燐。やっほー」
「うん、調子はどう?」
「すこぶる順調、お燐が来てくれたなら核融合限界点も突破できる」
「何言ってんだあんた」
そう言って笑いあう。あたいもお空も苗字がある。あたいには火焔猫。お空には霊烏路。お互いがそれを呼ぶことはないけど、でもあたいはそれが大切だった。苗字を戴いているという事実が、あたいとお空と、さとり様やこいし様を繋げているように感じたから。
「楽しそうでいいですね、燐、空。調子はどうかしら」
「げ、さとり様」
「そういうもんは心の中だけで思うことだぞ?お空」
「だって心の中で思っても読み取られるんだもん」
「違いありませんね。まぁ、楽しそうでなにより」
そう言うとさとり様はあたいの方を向く。
「貴方がきっと、こいしを変えてくれたんですよね。ありがとうございます。燐」
「いえ、あたいは家族としてやりたいことをやっただけですよ」
「ふふ、そうですか。それでも、ありがとうございます。それと、空もね。こいし、貴方と話していると元気になれるらしいから。これからも話してあげて」
「えぇ、勿論です!」
人は変わる。時と共に移り変わる。止めることは出来ない。だからきっと、人生はこんなにも辛くて、悲しくて、でもとても美しい。だからきっと、あたいは歩みを止めることができない。その先に恐ろしいものがあったとしても。
あたいは願った。切に願った。心の花が咲き続けるように。家族の花が華やかに育つように。
ここに来てからどのくらい経っているのかすら分からないけれど、その毎日の繰り返しに別に文句というものは無い。そう、文句は無い…そのはずだ。
思えば損ばかりの人生を送ってきたと感じる。
知らないうちに自分の親に捨てられ、一生懸命に生きようとしても迫害され、努力をしても報われず独りで生き続けてきて。生きるのに必死だった。その頃はそれが普通だと思っていた。みんなそうやって苦しい思いをしてきたのだと思っていた。そんなことは無いというのに。ただ嫌われていただけだというのに。
でも、そんな私にも家族の暖かさを教えてくれた方がいた。それが今の主、古明地さとり様。
さとり様に拾われてから私は初めて楽しいという感情を覚えた。悲しいという感情も、嬉しいという感情も。心はさとり様と出会ってから形成されていった。初めて名を戴いた時には大層喜んだ。燐。響きがいい名だと思った。ただ、周りは呼びにくいらしくお燐で定着した。こちらの方も、私は好きだったから今でもそう呼ばせている。いつの日か、感情を覚えるうちに妖怪となった。他者への嫉妬があったのか、自分への呪いか、現状に満足する私への罰か。けれど、こうなってからさとり様に苗字を戴いた。こちらは、長くて呼ばれるのが嫌なので戴いたのは嬉しいけれど、周りにはお燐のままで呼ばせている。そして死体を今日も運ぶ。いつまでも、地底の奥底へ。
そんな毎日にも私は満足していた。不満は無いし、飯は出される。仕事をしていれば飯にありつけるのだから、それだけ幸せで安定した生活は無い。安全な場所で睡眠が取れる。自分の居場所がある。妖怪となる前にずっと不安定な生活を送ってきたせいで、それがとても素晴らしいことのように感じる。だから私は前に進めないのかもしれないけれど。
私に家族はいない。だからもう、失いたくない。
そんな毎日を送っている。地底や地上の死体を漁っては運び続ける毎日。今日は珍しく死体が私に話しかけてきた。
「なあそこのあんた。俺は、死んだのか?」
鬱屈とした長く険しい地底への帰り道。突然話しかけられたものだから少し驚いた。死体が話しかけてくることはあるけれど、突拍子もなく話しかけてくることは一度もなかった。それでも私は暇を潰すためにもそいつと話してみることとした。
「あぁ、そうだよ。あんたは死んだ。その死体は放置されていた。だからあたいが、あんたのその体を再利用するために運んでいるの」
死体が表情を浮かべることも声を発することも出来ない。無論、その声はその死体に宿る魂、もとい死霊から発せられたものだろう。
「そうかい、そうかい。そりゃあ、よかったよ」
「よかった?あんた、死にたかったのかい?」
それは全く不思議だった。生きていたい私とは正反対だから。理解が及ばなかった。
その死霊が返す。
「そりゃあ、あんた。生きていていい事なんてあるのかい?嬉しいことなんてあるのかい?」
それは続ける。
「俺には分からないね、生の喜びってやつは。生きていて何一ついいことなんてありやしなかった」
別に否定するでもなかった。無言でいた。
「あんたは、そういったものがあるのかい?」
と問われる。ただ返答に困った。
「判らないよ、そんなもの。死んでいてよかった理由なんてないから生きてるのさ」
これが本心なのかは自分でも分からない。ただ、生きていたいと思う気持ちは心のどこかに持ち合わせている。そのはずだ。
今日の仕事を終え、地霊殿へと帰宅する。とはいえここでする事などさほどない。強いて言うならペット達のお世話をするくらいだろうか。でもそれはさとり様がすることが多いため本当にここでやることと言っても無いのだ。そのため暇を持て余している。普段は料理や洗濯もするのだが、しかし今はそこまで乗り気でもないのだ。そのためどうせぼーっと過ごすくらいなら、と思い死霊に言われたことについて考えてみることとした。けれど、やはりと言うべきかそれについて答えが出ることなどない。そんな簡単に答えが出るものならばあの死霊に問われた時に答えられるだろうし。
「生きていたい理由、か」
ふと呟いたその言葉は重みをまして自分の心のコアへと加速して落ちていく。私にそんなものがあるのか…?と、不安にならざるを得なかった。しかしそれを止めたいと願っても止められる根拠がない。|現実《いま》がない。その全てが存在しない。ただ堕落し、何も考えずに生きてきたツケである。そしてそれを嘆く|権利《いみ》など、それを今の今まで考えてこなかった私には存在しないのだ。そう思いつめると聞き慣れた、聞いていて心地いい、しかし今は聞きたくなかった声が聞こえてきた。
「こんな所で何をそんなに思い詰めているのですか」
「さとり様…いえ、特には…」
思い詰めてなんていません、と。たった一言さえ言うことが叶わないのだ。それがサトリ妖怪を相手取る前提である。
「ふむ、|死生観《よく分からない話》について考えていたのですか?分かりませんね、そのことを深く考えることは。私には到底理解できることでは無いのでしょうが…」
心を読まれるというのはこういうことである、と言わんばかりに発言権など与えず一人で会話するのだ、さとり様は。
どうして一人で話すのですか。どうして会話をしていただけないのですか。どうして、私のことを…どんどんと思考の沼にハマっていく。ただ私が傲慢なだけなのか、さとり様が異端であるのか、それともその両方なのか。そんなことは分かりやしないが。
「思案するのは勝手ですが、私は私を変えるつもりはありませんし、自分でも変えることはできませんよ」
その一言でハッとする。さとり様と会話し…いや、思考しているとよく分からない思考の渦の中に取り残されるのだ。やはり、さとり様は恐ろしい。
「あら、私のことをそんな化け物扱いしなくてもいいでしょうに。たかだか、心が読めるだけの非力な妖怪ですよ」
だとしたら今まで生き残っているのも不思議ですけどね。
「それもそうですね。私としてはただ相手の都合のいいように取り入って過ごしてきただけなのですが。心を読まれるというのは言葉を持つ生き物にとっては存外不愉快なことなのでしょうね…今の燐がそうであるように」
そう言われて私は心を読まれていることに対して不快感を抱いていることに気がついた。ただ私はさとり様と会話をしたいのに、向こうがそれを受け入れずに勝手に解釈をして話を進めていくのだ。それは不快以外の何物でもない。やはり、さとり様との対話というのは苦手である。それでもこの地霊殿を出ていく気になれないことに些か疑問は覚えているが。
「とはいえ、別にそのように思われることは慣れていますから特に何か言うつもりはありません。ただその死生観とかいうものについて考えすぎて仕事に支障をきたさないならば、よし。」
またそうやって貴方は一人で結論を出すのですね。
「これが癖ですからね。燐のことが嫌いだからこうしてるのではありませんよ」
そう、ですか。
「えぇ、そうです」
これ以上話すことは無いと言わんばかりにさとり様は意識を私から外した。
「さとり様、何か食事、いりますか?」
「そうね…頂こうかしら」
「分かりました」
心を読まれるというのは不愉快極まりない。けれど、それでも私はさとり様に着いていくと決めたのだ。今更それを変える気もない。
「貴方は、優しい子ですね。燐」
「そうですかね」
「えぇ、とっても。私には勿体ないくらいには優秀で、地底にいるには純粋すぎるほどに美しいですよ」
その真意は測りかねない。というより、さとり様の言うことなんて理解する方が難しい。だから勝手に褒め言葉として受け取ることとした。
「…ありがとうございます」
そう言い、私はその場を後にした。さとり様は人に食事をするところを見られるのが苦手らしい。ただ一人、古明地こいし様を除いて、ではあるが。
ただずっと私はさとり様のことを敬愛し、仕えていきたいと思っている。けれどさとり様はそんなことを露知らず、唯我独尊と言わんばかりに一人でいることを好むのだ。私はそれが酷く悲しかった。辛かった。その理由さえも掴めなかった。傍に居たいというささやかな願いさえも、踏みにじられているのだ。だって、彼女がサトリ妖怪であるから。それである限り、私のことを好いてくれる理由なんてものは存在し得ない。
敬愛することに、好かれることは。信頼されることは必要条件では無い。けれど、それでも、好かれたいと思うことは。自らのことを必要として、信頼して欲しいと思うことは。普通であっては、いけないのだろうか。許されることでは、ないのだろうか。
「そんなことはないですよ」
さとり様の、そんな声が聞こえた気がした。それが幾分、皮肉にしか聞こえなかった。
自分の作った料理の匂いが鼻腔を通り抜けるのを感じる。それも明日には死体の匂いへと変わってしまうというのに。その匂いのことを振り払うのに、少々時間を要した。
*
思考を続ける。どこまでも深く。
いつまで経っても私の思考は一人歩きを止めることなく奥へ奥へと進んでいく。底なし沼かと思うほどに留まることを知らず、結論を出そうともがけばもがくほど何を考えているのか自分ですら理解できなくなる。それ程までに恐ろしく、それ程までに奇妙であるというのに。それでも思考を走らせているのは何故だろうか、とも思ったが。その場では答えが出せやしなかった。何事にも順序が必要だ。その答えを導き出すための思考のルートが必要だ。それが今、私にはない。ただそれだけ。そのはずだ。
照り続けるその灼熱の人工太陽のようなものは、まるで地底の命かのように輝き続ける。事切れた生命の抜け殻が燃料とは思えないほどに、強く。最近まではその|再利用《リユース》については何も感じてはいなかった。
───|再利用《リユース》。この灼熱地獄の燃料にするために死体を持ってきては投げ入れることで安定した燃料供給を施すというもの。それが今の私の仕事。今日も今日とて、それは変わらない。何を考え、何を話し、何を思おうがその事実は変わらない。仕事が嫌いという訳では無い。
最近までは、全くと言っていいほどに再利用に関して無関心だったのだが死生観について否が応でも考え続けてしまうので、この再利用に対しても色々と考えさせられることがあるのだ。
私が死生観について考え始める前までは死体に何があるというのだ、死体に遺るものはただの有機物でしかない、魂を人間が見えるでもないだろうに。とばかり考えていた。それが正しいのか、間違っているのか。それに関して見つめ直すようになった。それでも私は再利用を続ける。続けなければならない。続けなければ、ここにいられない。
ぽい、ぽいと人間の死体を猫車に投げ入れる。投げ入れた死体はどさ、と音を立てて積まれていく。今日は|収穫《死体》が少ない。人がそこまで死んでいないのか、何かに喰い殺されてしまったか。どちらであるかは明らかでは無いが。それにしても地上の空は美しい。地底とは違って空気も透き通っている。それだけで過ごしやすい。けれどどこか居心地が悪い。そう感じて、死体を入れた猫車を押して地霊殿へと戻ることにした。帰る途中、ふと目に留まる花を見つけた。黄色、白、赤、紫と様々ある優雅に咲いているコスモス。どこか私はそれに心惹かれて手に取って帰った。それをむしり取るその単音が、単音であるはずなのに何十と重なって頭に響いた。
地霊殿に着いて、私は一度コスモスを部屋に置いてから灼熱地獄へと足を踏み入れた。無論、入りたいとは思わないが。ここは私には暑すぎるのだ。多分コスモスにとっても。でも別に楽しみが無いわけじゃあない。私の親友のお空がいるからだ。
「ん、しょっと。今日はとりあえずこれくらい燃料持ってきておいたよ」
「今日はちょっと少なめなんだね」
「そっちの方が人間からしたら平和だろうし、心持ちもいいだろうけどね」
お空とはずっと昔から友達でいる。というより、どのくらいの期間一緒にいるのか覚えていない。地霊殿にいる時間というのはそれほど長く、私に強い影響を与えている。
毎日はこれの繰り返しで、退屈する日もある。疲れる日もある。楽しい日も、悲しい日も。でもそれはささやかな感情の動きでしかない。それほど安定している。私はそれを切に願っている。二度と一人になんてなりたくないと望むのは、当然だろう。
「ねぇ、お空」
そう呼びかけると彼女は屈託のない笑顔を見せ、上機嫌のような声色で反応する。
「んー?なぁーにー?」
「お空はさ、いつか私たちが離れ離れになっちゃったとしてさ、」
続けようとしたら、お空にそれを遮られた。どこかさとり様のようなものを、一瞬だけ感じた。
「そんなこと言わないでよ、お燐」
そういうお空の顔はただ悲しそうな顔で、ただそんな未来を受け入れたくないと本心から望んでいるように感じられた。
「ずるいな…あたいは…」
そう小声で呟いた。聞こえないように、呟いた。
「大丈夫だよ、お空。あくまで例えばの話。私はお空と離れるつもりなんてないしね」
「そう?なら、よかったよー」
そう言ってその眩しい笑顔を見せる。私はどこまでも狡い。
「ねぇ、お空。」
私はまた親友のことを呼ぶ。どうしようもなく悩んで悩んで悩み続けていることを、彼女ならきっと真っ直ぐ思ったままに返してくれるから。
「お空は、生きたり死んだりすることってどう思う?」
「どうって…質問が難しいよー」
「あぁ、たしかにそうだね。じゃあ…今、どういう理由で生きているの?」
言ってから別にそこまで質問の難しさは変わっていないとは思ったのだが、これ以上に分かりやすい説明が私には分からなかった。けれど、お空には伝わったらしい。すぐに返してきた。
「うーん、理由が無かったら生きていちゃダメなのかなぁ」
私からしたらそちらの方がよっぽど難しい話だった。生きる理由無くして生きているのはどういうことなのか?となる。親友は続ける。
「私は別にこれが理由で生きてるんだ!っていう理由は無いけれど、お燐と話したり他の子達と話したり、さとり様と、こいし様と話すことがとっても楽しいからそれでいいと思うんだ」
「ふぅん…そう考えるんだ…」
ただただ感心していた。私には思いつきようのない考え方だったから。
「逆にお燐はどうなの?」
「あたいかい?あたいは…そうさね、死ぬ理由がないから生きる理由を模索してるのかな」
「へぇ、お燐は難しいこと考えてるんだね」
多分、そう言う彼女の頭の中には殆どが記憶に残らないのだろうが、でもなんだか心の負担は楽になる。それだけで話した価値はあったというものだ。
「そういえばお燐、なんだかいい匂いするね」
「…あんた、遂に鼻までイカれちまったのかい?あたいからいい匂いなんてしないと思うけどねぇ」
するとしても嗅ぎなれてないと吐き気を催すであろう血と泥の混ざりあった気持ちの悪い匂いだけだと思う。というか、私が今そう感じている。私はもう慣れてしまった、というか常日頃からこの匂いが染み付いてしまって落ちないのだ。特段それを気にしてもいないけれど。
「流石にそんなことは無いよー。いつもよりずっといい匂いがしたなーって思っただけ。勘違いだった?」
そう言われても思い当たる節が…そういえばあった。
「あぁ、そういえばコスモスの花を一輪だけ採ってきたっけ。その匂いが付いたのかな」
「そうだよ!きっとそれ!その、こすもすって花じゃないかな?後で見せてよ!」
「いいよ、じゃあ仕事終わったらあたいの部屋に来てよ。綺麗な花だし、きっと気に入ると思うから」
「わかった!」
私はコスモスが好きだ。でも、それが似合うのは私じゃない。純情で、純粋で、自然体なのに、美しくて、どこか幼い、お空にこそ似合う花なんだろうな。
死体を投げ入れ終える。今日の仕事の終わり。疲れたとは感じない。感じるほど柔い生き方をしてはいない。私はお空が一時的に仕事を休める時まで側に立つ。それが親友であるあたいの役目のはずだ。それに、この後お空が部屋に来るなら一緒に行った方がきっと楽しい。だから待つ。いつまでも待つ。
いつ見ても、お空のあの力はすごい。神様に貰ったと聞いているが、にしても強い。火力が高く、それでいて調整ができるというのはやはり凄いものである。
───私に、|彼女《おくう》の友人が。親友が務まるのか。力の差を感じる。お空がここにいる理由は分からないけれど、お空にはお空にしかできない仕事がある。それがすごく羨ましい。それがすごく、妬ましい。それがすごく、私には辛い現実なのだ。
私は別に特別なことは出来ない。唯一無二の存在ではいられないし、そこら辺の猫でしかない。神の力を戴いても耐えてそれを扱うことができるようになるほどのものが私にあるとも思えない。
自然と涙が頬を伝う。けれどそれはすぐに蒸発して見えなくなってしまう。どうして泣いているのか。どうして泣くことが許されると思っているのか。努力をしない生き方をして、どうして唯一無二となることができようか。
負の向きへと、心のベクトルは指針を示す。考え込むといつもこうなる。それでも私は考え続ける。その思考を手放すことはできなかった。
「…りん、おりん、お燐!」
その、親友の力強い言葉で私はハッとする。声のするほうを見ると何やら悲しそうな表情を浮かべているのだから、とても不思議である。
「どうしたのさ、急にそんな何回も呼んで」
「お燐、気がついてないの?」
「ん?何が?」
「お燐の顔、今とっても苦しそうな顔をしていたの。くるしい、たすけてって」
苦しい。助けて。私の本心はそこにあるのだろうか。それとも、お空の思い込みだったのか。
「心配しなくても、あたいは大丈夫だよ。ちょっと考え事をしていただけ。気にするこたぁない」
「…そう?なら、いいけど」
親友に心配をかけたくない。誰も心配させたくない。心配なんてものは、私なんかに向けてするものではない。
「そう、大丈夫だよ。仕事も終わった事だし地霊殿に戻ろうか」
「わかったよ、お燐。でも、何かあったら言ってね?」
「うん、もちろん」
もちろん、か。その口約束を、いずれ破ってしまうんだろうなぁと思うと悲しくて仕方がなかった。
その後、お空と一緒にコスモスの花を見せようと部屋に向かっていった。その間のお空はものすごくワクワクしている素振りを見せていた。実際、地底に咲く花というのは美しさといったものはない。地底らしい、ドロドロとした、血生臭い現実さがあるだけだ。そう考えたら地上の花というのは綺麗で、美しい。
「ねぇ、お空」
「…うん?なぁに?」
「もし、私が泣いていたら、一緒に泣いてくれるかな」
自分でもよく分からない質問である。そんな質問にも真摯に応えようとする、私の親友は。私にはもったいないほどにいいやつなんだ。
「うん。きっと、そうするよ」
部屋にはコスモスの穏やかな匂いが満ちている。地底では感じられないそれを、私たちは存分に楽しんだ。
私の|コスモス《親友》は、いつまでも私の中に残り続けた。
*
疑問は連なる。どこまでも長く。
お空とコスモスの花を堪能してから数日が経つ今も、未だに答えなんてものは見つからない。考えれば考えるほど自分の生きる理由は何なのか、自分の居場所はどこなのか、その何もかもが分からない。それは実際私にとって当然のことである。私は妖怪としては立派な一匹であるが、哲学者としては未熟な一人なのだから。
分からないことは分からないと、そう言うことができたら。思うことができたらどれほど楽であったのか。そう思うことは何度もあった。けれどそんなことは考え、言葉を発する甘味に触れ続けてきた私には耐え難い苦痛となっていた。
言葉は誰にでも扱える魔法だ、という言葉を聞いた、もしくは読んだのかもしれない、記憶がある。初めて知った時は訳の分からぬ言葉だと思ったのだが今思えばそれはとても理解できる話であったと感じる。言葉は言葉を持つ生き物にとって最高峰の宝であると同時に、誰彼を簡単に不可逆的に、壊滅的に精神を崩壊させることさえできる魔法なのだ。
おそらくそれは、読心の力を持つさとり様を主に持っているからこそ思うことなのだろうけれど。言葉を持つ生き物にとってサトリという種族は切っても切れない恐怖の対象なのだ。それでも私は今もサトリに仕え続ける。それが私の生きる理由だと信じるために。
ある日、やはり私は答えを見つけることができずにただ毎日を繰り返していた。やはり何か刺激や新しい視点が無ければ問題を考えるためのピースが足りないのである。
灼熱地獄の熱風が頬を撫でる。やはり熱い。暑い。どうしてこの地底世界でこの熱さを出してでも核融合を起こしたりしなければならないのかが私には分からない。きっとお空も。それはさとり様にしか分からないんだと思う。今度聞いてみよう。と、そう思った。
奥へ奥へと死体を運ぶ額を伝う汗が流れる。そしてそれはすぐに蒸発してしまう。どうせなら今のこの哲学的疑問も蒸発して見えなくなってしまえばいいのに、と思わなくもなかったけれど。そんなことは有り得ないしできやしない。
「流石に毎日動き続けていると、嫌になるもんはなるんだねぇ」
つい口に出す。動くのは嫌いじゃない。その上で嫌になるのだ。同じ景色を繰り返す日々に。同じ出来事がある毎日に。それを求めていたのは私だというのに、今更それを辟易しているのだ。それはなんて傲慢だろうか。それはなんて自己中心的であろうか。でも、きっとそれこそが
───私の求めていた自我というものではないのだろうか───
現在の安定を求めるというのはすなわち今後の変化を厭うということだ。そこには進歩なんてありはしない。いつでも、進歩を生み出すのは現状に満足せずに動き続ける意思である。その点で、私は今の地点から進歩したいと思っているのではないか。自分の気持ちを正確に理解することはできやしない。できやしないから動こうとしているのか、と。
それでも、私はその思考を打ち切った。私はもう、一人になんてなりたくないのだ。欲を追い求めて孤独になるなんて考えたくもない。例えその仮説の通りだったとしても、私は私の感情に蓋をする。二度と、独りにだなんて。
そう思えばそう思うほどやはり意図せずとも涙は頬を伝っていく。その度にその涙は蒸発し、ここが何処であるのかを私に思い出させる。ここは地底世界。ジメジメとした感情で埋め尽くされた世界。そのような所でただ独りになりたくないと考えているはぐれ者なんて、私くらいしかいやしないだろう。
「きっと、こんなんだからあたいは…私は家族に捨てられたのかもな」
その一言は自分で言ったにもかかわらず重く、そして強く私にのしかかる。
…私は、家族に捨てられた。その理由は分からないし、分かりたくない。それに今それが生きているのかも分からない。生きていても、死んでいても、捨てた相手のことなんか覚えるはずがないんだから。
思考の沼は留まることを知らずに深く、そして強く私の心の中に根付いていく。それを知ってもなお、一人では思考を止めることさえ出来ないのだ…今回は、止める相手がいたものの。
「お燐、どうしたの?そんな顔してさ」
「…こいし様、こんにちは。特には何もないですよ」
「それならそんな捨てられた子供みたいな顔はしないわ?」
その言葉は強く突き刺さる。事実であるから。思い出してしまうから。今はそんなのじゃないと言い聞かせても、過去は変えられないから。
「少なくとも、こいし様が知って気分のいい話じゃあないですよ」
「それを決めるのはお燐、貴方じゃなくて話を聞く私だわ?どうせ一人でいてもよくない方向に考え込んでしまうなら、いっその事吐いてみない?って言っているだけよ」
そう言うこいし様の表情は何を考えているのかさえ分からない。彼女の喪った感情は誰にも見分けることなどできないのだ。存在しないのかもしれないが。しかし、例え主の妹君とはいえ私のくだらない話を聞かせるわけにもかないだろう。
「そう言われましても…」
私が言い淀んでいるとこいし様は少し不機嫌な顔をした。なぜだかは分からないが、時折こういったことをするお方だからそこまで気にも止めなかった。
「まぁ、言いたくないなら言わなくていいわ。実際、眼を閉じてからお燐とゆっくり話したことなんてそんなないもの。ずっと考え込んでいることを話せるほど仲がいい訳でもないわね」
「本心を言ってしまえば、そうですね。正直この話をして馬鹿にされないかが少し恐ろしいです」
私は正直に吐露する。
「しかし、こいし様について知りたいとは何度も思っているのですよ?」
「あら本当?なら、気になることを聞いてみてよ。答えられるものは答えるわ?」
それはつまり、答えられないものは答えられない。そういうことですよね。それでも私は、この一言がずっと聞きたかった。
「どうしてこいし様は第三の眼を閉じたのですか?」
そう尋ねた時の彼女の顔は、一瞬ながらも動揺の心が見えた気がした。きっと、気のせいなのだろうけど。
「人の心なんて見ても落ち込むだけで良い事なんて何一つないもん」
そういうこいし様の顔はやはり屈託のない笑みだった。裏を感じさせない笑顔だった。それが本心なんだとなんとなく知った。
「人の心は憎悪や嫉妬、嫌悪。そんなくだらないもので埋め尽くされてるの。だからそんなものを見続けていたら心が壊れてしまう、そんな気がしたの」
「そう、なんですね」
心が読めないとは恐ろしい。私はそう感じるけれども、こいし様は心が読めることは苦しいという。その感覚は、私には分かることは無いのだろう。
「さっ、こんな辛気臭い話はやめにしてささっとお家に帰ろっか。たまには一緒にご飯を食べよ?お燐」
こいし様はいつも唐突だ。でもそれは仕方ないことだと思っているし、そんなこいし様だからこそ、知りたいと思ったのかもしれない。
はぐらかされているかもしれない、という疑念は心の奥底にしまっておいた。
地霊殿で食事をこいし様と共にするというのは経験したことの無いことではあったが、居心地悪いものでは無かった。話は弾むし、地上の様々な知識を教えてくれるのだ。こいし様はさとり様よりも話しやすく、それでいてよく分からない。それでも楽しいと感じた。そう思ったから、やっぱりここにずっと居たい。そう感じる一日だった。
*
沼に踏み込む。抜け出せぬ沼に。
ある霊から問題提起をされてからはや一ヶ月。結局私の中での答えは見つからずにいた。
───何故生きているのか───
この訳の分からない問いに真っ向からぶつかっても答えは出ないと気がついた私は別の角度から考えることとした。
「あたいがあたいである理由、かぁ…」
これはこれで訳が分からない問題ではあるが、まだ考えることが出来そうな問題でもあった。暫くの間はこれを考えることにした。
更に何週間か経った後、私は相も変わらず外に出向いて死体を集め続けている。そこに変化はなくて、ずっと追い求めていたはずの生活がそこには間違いなくあった。けれどそれはどうしても退屈で、耐えかねた私は一日だけさとり様に許可をいただき、休暇を取る事にした。普段からずっと地上と地底を歩き回っているけれど、ゆっくりそこを歩くことは無いから新鮮な気持ちで散歩でもできるだろう。哲学者、とやらも考える時はそれぞれのルーティンがあるらしいので私もそれに倣ってみるべきだろう。そう考えていると、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「…あら?お燐じゃない。珍しいわね、一人で散歩するだなんて」
こいし様だ。こうして話すのも久しぶりだが、彼女はそれを感じさせない。
「さとり様に許可をいただいて休暇を取ってるんです。地霊殿でゆっくりするのもいいんですけど、どうにも最近何も考えずに散歩っていうのができてませんでしたから。たまには色んなところの景色を眺めてゆっくりしたいって思いまして」
「ふぅん…なら、私と一緒に行かない?きっと、お燐も気に入る場所を知っているわ?」
私は逡巡した後、首肯した。こいし様と二人で歩くというのもたまにはいいものだろう。
「それにしても珍しいね」
なんの前置きもなくこいし様が話し始める。私はそれに困惑しながらも、いつものことかと思いすぐに返す。
「何がですか?」
「仕事熱心なお燐が、こうして散歩してその上私と一緒に散歩しようと言ってくれるとは思わなかったのよ」
「…あたいは別に仕事熱心という訳ではありません。きっと居場所が無くなるのが怖いんです」
「あら、そうなの?」
そう言ってからこいし様は至極不思議だ、と言わんばかりに困惑しているような顔を見せた。
「お燐がそんな悩むことなんて私は無いと思うんだけれどね。私が何か言うことでもないとは思うけれど、思い詰めすぎない方がいいわ?」
「そんなもんですかねぇ…」
「えぇ、そんなものよ。きっとね」
「そうですか…」
やはりこいし様はよく掴めない。いつも放浪している上に瞳を閉じてからは人の心を読めなくなった上に、自らを無意識の沼に沈み込ませているというのに私のことをそんなに見ているというのか?
本当に色々な意味で不可思議で、イレギュラーな方だと感じた。無論いい意味で。
「でも、こいし様と一緒に散歩したいというのは前々から思っていましたよ。散歩とは限らずとも、話したいとは思っていました」
これは本音である。ずっと話したかった。理解できない存在を理解しようとは思わないが、理解できない存在だからこそ気楽に話せる何かがあった。
「あら、急に口説いてくるなんてお燐も隅に置けないわね〜このこの〜」
そう言ってこいし様は私にじゃれてくる。肘で突っついてきたり、頭を撫でてきたり。そんなこいし様に表面上は嫌そうにしつつも満更でもない私がいた。こいし様もきっとそれを理解していた。
「とりあえず、頭を撫でるのも顎を撫でるのも地霊殿に帰った後にしましょう。ここだとその、落ち着かないです」
「そっか。なら、地霊殿に帰ってから思う存分モフるから覚悟しておいてね?」
「えぇ、それはもちろん」
そう言って再び歩き出す。そこに気まずさはない。あるのは心地よい静寂と平穏である。本来、主であるさとり様の妹であるこいし様に対して落ち着くというのはそこまで良いことではないのかもしれないが、それを気にするほどさとり様もこいし様も器は小さくは無いだろう。そういう方達だ。
「そういえば、あたいが気に入りそうな場所ってどんな場所なんですか?」
「それは着いてからのお楽しみ!きっと好きだから楽しみにしつつ歩こ?」
…やはり、掴めない人である。いや、無意識下で生きる相手を捉えようとするのが間違いなのかもしれないけれども。
「そうですか。まぁ、きっとどんな所でもこいし様となら楽しめそうです」
「あら嬉しい。そのうち惚れちゃうかもね?」
今日初めてまともに瞳を閉じてから話したというのに、そんな冗談さえ言えるのだ。この方特有のカリスマというものを感じる。
「残念ながら恋愛感情というものがあたいには分からないので、すみません」
「うーん手厳しい」
そう言って笑い合う。心の底から笑ったのは、いつぶりか。分からないけど、この気持ちがきっと楽しいという気持ちのはずだ。
そうやって話しているうちに時間はどんどんとすぎていく。そうしていつの間にか目的地に着いたようだ。
「…花畑?」
そこには色とりどりの花が咲いていた。しかも、何故か季節外れのものも、今どき咲いていそうなものも。不思議な場所である。陽が強く差し込んでおり、眼を開くのが辛いほどに眩しかった。こいし様は慣れているのか、地面から生えている花───青色のアネモネだろうか───を取ってから言った。
「そう!私が地上を放浪している時に見つけたんだ。お燐、お花好きだったよね?」
たしかに、私は花が好きだ。それこそ時々花を地上から持って帰ってきて飾るほどには好きだ。少し前にもお空に見せたコスモスの花があったが、あれもそのうちの一つである。なんなら、花言葉も多少は知っている。たしか青のアネモネは【固い誓い】だったか。まぁ、何か意味があるのかと言ったら無いのだろうけれど。
「はい、あたい花はとても好きですね。自己主張の激しくないような花は、特に」
「へぇ、そうなんだ?それなら、この花とかどう?」
そう言って手に取ったのは勿忘草。私が好きな花のうちの一つ。
「花言葉はたしか…私を忘れないで、だっけね?」
そう言うこいし様の顔は不安そうであったが、他の意味もあるもののたしかにその意味もあった。そのようなことを無意識下にある彼女が覚えていることに少し驚いた。
「あれ、こいし様も実は花言葉いけるクチなんですか?」
「もちろん!放浪してるうちに花に興味持ってからたまに調べてるんだ?」
「へぇ、いいですね。あたいも花言葉、少しは覚えてますよ」
「そうなんだ!なら今度、地霊殿にでも花を飾ってみましょう?きっとお姉ちゃんも喜んでくれるわ」
「いいですね。是非そうしましょう。今日にでも」
そう言って私は顔に笑みを溶け込ませる。その提案はとてもいいものだ。きっと楽しい。そして気分も上がるだろう。それほど、私は花のことが好きだった。
あぁ、でも。こいし様はこの事さえも忘れてしまうのかな。そう思うと、悲しいな。
けど、と思う。こいし様は本当に記憶を失っているのか。失ってしまうのか。感情が本当に無いのか。だとしたら無意識というのは全ての感情を司るというのか。しかしそれでは感情が無くなったと聞いていた話とは矛盾してしまう、と。
「こいし様」
気付いたら声に出ていた。ただ嫌だと思ったことを変えられるならばどれだけ楽なのかと思わざるを得ないほどに何も考えずに発したものだった。けれど、たしかに出してしまったのだ。隠すべきだったのかもしれない思いを。その声を。ここから何でもないと、言うことは出来ない。
「うん?どうしたの?」
「どうにも引っかかるんです。こいし様の顔はそんなにも動いていて、楽しそうな顔も真面目な顔も不安そうな顔も色んな表情が見えたんです。それなのに、こいし様の感情が無いとは、とても思えないんです。たしかにあたいはそこまで関わっていませんが、それでもこいし様に感情があるように思えて仕方がないんです」
…こいし様は第三の目、所謂サードアイを閉じてから感情が消え失せたと聞く。しかし、そうは見えないのだ。感情がないならばどうしてそんな困ったような表情を浮かべるのか。どうしてそんなにコロコロと表情が変わるのか。
「あたいが言っていることが正しいかは、分かりません。ですが本当だとしたら少し寂しいです。話して、いただけませんか?」
気になっていたことを全て聞いた。きっと彼女の柔らかいところで、触れたら簡単に崩れ去ってしまいそうな程に脆い部分。顔は今すぐにでも泣き出しそうなほど歪んでいた。初めて見るほどに、今までのこいし様とは異質なものだ。
その顔を見たくなかった。そんな顔をさせたくなかった。けれど後悔してももう遅い。
「お燐はさ」
そう一言、先に言葉を置いてからこいし様は続ける。
「見たくないものが否が応でも見えてしまうっていうのが、どんな気持ちだと思う?」
その言葉は穏やかに発された。けれど、込められた気持ちの中には諦観が見え隠れしていた。触れてしまえば凍傷を引き起こしてしまうほどに、冷たい気持ちで構成されていた。
「あたいには、分かりません。見たくないものを見て見ぬふりしてきたから」
「そう、そうだよね。それが普通。でも、それが私たちにはできないの」
私たち、というのにはさとり様も含めているのだろう。きっとあの方もどこかで苦労した結果今のような性格になったのだ。そうでも無ければあそこまで異質にはなれまい。
「人の心を読めるっていうのはね、便利に思えるかもしれないけど、私からしたら呪いでしかないよ」
呪い。能力は、呪いでしかないという。人を苦しませるもの。少なくとも、普通に生きる上では邪魔になるもの。
「私は心を読めるというよりは心の声が流れてくる能力とこれを認識してる。壊さなければ、止まることは無い、呪いとして。私はただ、普通に生きていたかった。そのささやかな願いさえ許されなかった」
地底というのは、地上世界の中で忌み嫌われるものが集まる場所である。その中でも奥地に館を構えるさとり様とこいし様はどれほど嫌われているというのか。まぁ、それはそこに住む私もそうだろうが。
「始めは人の子供たちと仲良くなりたかった。けれど、嫌われた。大人もそうだった。ただ襲いかかってきた。こちらは何もしないというのに、妖怪に人間に対して友好的な存在は無いとかいうくだらない先入観に囚われていた。だから、妖怪と仲良くなろうとした。けれどそれも上手くいかない。襲いかかられることは無かったけど、でも心を読まれることが嫌だったみたい」
誰からも好かれず、誰にも愛されずただ生きるだけの人形に、生きている理由はあるのか。生きる価値はあるのか。
「私たちの読心の能力は、心と言葉を持ち合わせる存在は強く嫌うみたい。隠し事ができないからかしら。隠し事するしかない貴方たちの心が、性格が良くないだけだと言うのにね」
「けれど、人に限らず隠し事をせずに生きることはできません、こいし様。それはあたいも。きっとお空も、さとり様も。もちろんこいし様も。全てをさらけだして生きることは何よりも恐ろしいことですから」
「えぇ、そうね。だから、それは悲しかったけど乗り越えられた。乗り越えられたの。けど…けど!」
声は更に荒々しくなり、歪み、そこまでいたこいし様という存在は全く別の存在に見えた。二つの人格を混ぜたように。
「もうこれ以上誰かに嫌われるものを読み取るのが嫌だった!いや、違うの。お姉ちゃんに、お空に、ペットたちに、そして…お燐に。近くにいる皆が私のことを嫌っているかもしれない、それを読み取ってしまうかもしれないと思うと恐ろしかったの」
それは悲痛な叫び。ただ平穏と普通の生活を望んだにもかかわらず、それを全て蔑みという感情一つで奪われたこいし様の、心からの叫び。
「ですが!私はこいし様を敬愛しています!それは、今までずっと!」
「お燐、いいことを教えてあげるわ。人の心なんてね、時間が経てばすぐに変わってしまうものなの。たった一年、一ヶ月。いや、一日でも。何か小さなきっかけだけで簡単に揺れ動いてしまう。実際、今お燐が私を見る目は少し恐れているみたいだからね」
「それはっ、」
「いいのよ。お燐は優しい子だって知っているから。昔からずっと好きに生きてきた私を帰ってきた時には喜んで出迎えてくれていたことを知っていたから。でも、それがいつか変わって、その心を読んでしまったら」
一泊置いて、こいし様は続けた。
「私はもう、何を信じて、何を目的に生きればいいのか、分からないよ」
何も言えなかった。無責任に彼女の気持ちを理解したつもりになって声をかけるというのは、それこそ彼女を傷つけることになるからだ。
ただ、場違いにも。私は私の疑問に思い続けた問題に答えが出たような気がした。今のこいし様を見て、思って、想って、話して。そうしたら、何となくわかった。生きている理由なんて元よりあるものでは無い。誰かと生きていたい。誰かと楽しく過ごしたい。そう言ったささやかな願いを叶えるために幾重にも苦しんで生きているのだと。誰も彼もが答えを模索し、探し、求め続けて生きている。そんなくだらない、至極当然な話なのだと。
だがそれは残酷な現実でもある。生きる理由は能動的に探して自らで結論を出さなければ見つけられないのだから。受動的に生きては、何も分からないのだから。だから私は一度もそれを掴めなかったのだろう。
けれど、そんな私にも大切な存在が。地霊殿の皆が。さとり様が、こいし様が。そして…|お空《親友》が。その皆がいるから。そしてそれはこいし様にも、いるから。
だから、私は言う。言わなければならない。苦しみ続けたこいし様を優しく包むように。
「あたいは、こいし様がどのような人生を歩んできたかは分かりません。それは当然です。私はこいし様ではないから」
「…えぇ、だからもう。何もかもどうでもいいの。だから私は瞳を閉ざした。感情が無いというのは嘘よ。ただ、何も感じないように心を閉ざしていただけ。それはこれからも変わらないわ」
「でも、だからって何もかも諦めていい理由になる訳じゃないんです」
傷つけてしまうかもしれない。苦しませてしまうかもしれない。でもそれで、この先にある苦しみを和らげることができるかもしれない。そう思うと、言葉は止められない。
「あたいはずっと生きている理由が分からずに生きてきました。けど、こいし様と話していくうちに分かった気がするんです。そんなもの、自分で作んなきゃ答えなんてないって」
私の思っていることを続ける。
「だから、こいし様。止まったっていいんです。退いたっていいんです。でも、いつか前を向いて歩きましょう。あたいはそれをずっと、待ち続けます」
顔は歪んでいる。でも、恐ろしさはそこにない。ただ泣き出しそうになっているものを堪えているように見えた。そしてそれが気のせい出ないことも何となくわかった。
「お燐は、私と一緒に、生きてくれるの?」
「あたいだけじゃないですよ。さとり様も、お空も、みんなです」
「…そっか」
そう言うと涙を止めるにも限界が来たのかこちらに近づいてもたれかかってきた。そしてそれを私は受け止める。
「少しだけ、胸を借りてもいいかな。お燐」
「えぇ。少しと言わずに、今まで貯めてきた涙を全て流してしまうほどに。いつまでも、あたいは待ちますよ」
「…ありがとう」
そう言うとそのダムは決壊した。私は。いや、あたいは見ないようにした。けどその何年も貯め続けた哀しみを。諦めてきた心を、見て見ぬふりはしなかった。それを受け止め続けた。どのくらいかは分からないけれど体感二十分ほど経った。
「ごめんね、お燐」
「何がですか?」
「色々隠したままだったこと」
「あぁ、特に気にしませんよ。先程も言いましたが隠し事なんて誰でもするものです。それがどんな関係であれ、それを話すか否かは本人の意思によるとあたいは思っていますから」
だから、と続ける。
「苦しい、って思ったなら自分でなんとかするよりも誰かを頼ることをしてみた方がいいかもしれませんね」
結局こいし様は様々な暗い感情を押し潰して、押し隠して生きてきた。その身に何十年と背負ってきた。誰かを頼れば、解決できたかもしれないことをだ。
「うん、ごめんね」
「大丈夫ですよ」
「そっか」
端的な会話は単調ではあるものの、そこには明らかな信頼が見て取れた。私の居場所はここにある。私の家族はここにいる。だからもう、迷うことは無い。悩むことは無い。
「なんかお燐、今日会った時より顔色が良くなった?」
「そうですかね?」
「うん、とっても」
理由は明らかである。二ヶ月弱悩み続けた問いが解決されたのなら楽になるものだ。
「まぁ、悩みが解決したんですよ。こいし様のおかげですね」
「ふふ、そっか。それなら打ち明けてよかったかも」
そう言ったこいし様は楽しそうにまた花を摘み始めた。美しい花も、儚げな花も。全てを受け入れるように。
「そういえば、その悩みってなんだったの?」
そう言われて少し言い淀んだが、まぁいいかと思い素直に告げることにした。
「まぁその、死霊と話してる時になんで生きているんだ?って聞かれたものですから、それをずっと考えていたんですよ」
「へぇ、難しいことを考えるんだね」
「今となって思えばなんでこんなことで悩んでたんだろうって思いますけどね」
あたいは今まで生きてきた。これからもきっと生きていく。そこに理由なんてない。あるとすれば、さとり様…いや、地霊殿のみんなと生きていたいというささやかな願いなんだと思う。それがきっと、探し求めたあたいの|哲学《フィロソフィ》のはず。その願いを満たすためだけにあたいは、ずっとここにいる。あたいは誰のことも嫌いになんてなれないから。きっと皆のことを愛しているから。
多分、人によって探し求めてきた結論は違う。かのカントは苦しみの中に原動力があると言った。そしてその活動が我々の生命であると。こいし様の苦しみにも原動力があった。それで生命を燃やしてきた。そしてそれが今の幸せな現実を紡いだのならば、きっと間違いではない。
「まっ、帰って花を飾りに行こっか」
「そうですね、こいし様」
もう少しで冬が来る。冬には花は枯れてしまうかもしれないけれど、再び季節になったら美しく咲き誇るだろう。それを教えてくれたのはこいし様だ。
「こいし様、教えていただきありがとうございます」
聞こえないように感謝を述べた。花の匂いは途切れることなくあたいとこいし様を包み込んだ。
*
猫は歩む。暗闇を超えて。
こいし様との一件が終わってから数日。あたいは変わらずにいつも通りの仕事をしていた。けれどもその心持ちは全てが異なる。
「悩みのない生活ってのは、心が安らぐねぇ」
やはり、何事も適度であるべきだ。それ以上もそれ以下もあまり良いとは言えない。
「心が安らいでいても体が疲れていては仕方がないわ?」
そう言うこいし様は前とは異なる、太陽のような笑顔を見せる。
「はは、そりゃそうですね」
あたいはなんだか疲れていた。仕事に集中できるようになったからか、今まで以上に体を動かしていたらいつの間にか体が動かなくなっていた。まぁ軽い疲労だから何とでもなるが。
「そういえばさとり様とはどうなんです?」
こいし様はあの一件が終わったあとそのことをさとり様に告げに行った。隠し事をするのも懲り懲りだと言わんばかりであった。その方がこいし様らしいとも思えた。
「んー、特には。でも、ちょっと安心してたのかな」
「あれ以来さとり様は最初の方はこいしの心が読めない〜って騒いでましたしね。きっとこいし様の気持ちが理解出来た、知れたことが嬉しかったのですよ」
「それならいいけどね。でも、うん。瞳は暫くは開かないでおこうかな」
「そうですか。なら、そうするのがいいんでしょうね」
「うん。これでいいと思う」
こいし様は変わった。沢山わがままを言うようになった。でもそれと同じくらい沢山のことを手伝ってくれるようになった。一人で放浪する時は必ず誰かに伝えてから出掛けるようになり、一週間に一度は帰ってきて共にご飯を食べた。以前では考えられないことも、できるようになった。
それと同時にあたいもおそらく変わった。自分の変化には自分が一番気が付きにくいのか、あたい自身はよく分からないがお空は「お燐、元気になった?」と言ってくるし、さとり様は「何だか、垢が抜けました?」と言われた。その変化は好ましいことである。
あたいは元々自分に自信がなかった。それは家族に捨てられたからか、性格からか、それとも地底において何者とも思えなかったからか、あるいはその全てか。そのせいで表面上は明るく取り繕い、内面はずっと薄暗いジメジメとした気持ちを常に持っていた。だからずっと、心の中では私という一人称にもなっていた。それがずっと心の中の重荷で、でもそれを取り外すことは一人でできなかった。けれどそれは今となってしまえば些細な問題である。あたいを必要としてくれるさとり様がいる。あたいと過ごしたいと思ってくれる親友がいる。あたいと話したいと思ってくれるこいし様がいる。きっとこれこそが本当に求めた平穏と安らぎなのだろう。家族に捨てられたことなどくだらないことだ。何で捨てられたのかも、生きているのかも、どうでもいいことだ。今ここで愛されているならばそれが本当の家族でいい。生きる意味も、あたいが何者であるかも、そんな物はあたいが考えることではない。あたいが価値づけることでもない。家族が付けることだ。そのためにあたいは生き続ける。|地霊殿の皆《家族》を大切にするために。そして、愛するために。
「ま、最初は心の中では愚痴ってたけど今では感謝してるよ。あの時の死霊には」
一人で生きていた時の、寂しさも。家族で生きる嬉しさも。あいつが居なければ知らなかった。知らないままだった。
「あんたにも、そんな存在ができるといいね。あたいはそれを願ってる」
地底の燃料は今日も追加されていく。ぽいぽいと投げられ、そして燃えていく。それがあたいたちの命となる。新たな命を生む。
最近の地底は冬が来た。とても寒くて動く気をなくしてくる。こんな日はお空に癒されよう。そうでもしないと、寒くて部屋に引きこもりそうだ。
「お空〜いるかーい?」
「うにゅ、お燐。やっほー」
「うん、調子はどう?」
「すこぶる順調、お燐が来てくれたなら核融合限界点も突破できる」
「何言ってんだあんた」
そう言って笑いあう。あたいもお空も苗字がある。あたいには火焔猫。お空には霊烏路。お互いがそれを呼ぶことはないけど、でもあたいはそれが大切だった。苗字を戴いているという事実が、あたいとお空と、さとり様やこいし様を繋げているように感じたから。
「楽しそうでいいですね、燐、空。調子はどうかしら」
「げ、さとり様」
「そういうもんは心の中だけで思うことだぞ?お空」
「だって心の中で思っても読み取られるんだもん」
「違いありませんね。まぁ、楽しそうでなにより」
そう言うとさとり様はあたいの方を向く。
「貴方がきっと、こいしを変えてくれたんですよね。ありがとうございます。燐」
「いえ、あたいは家族としてやりたいことをやっただけですよ」
「ふふ、そうですか。それでも、ありがとうございます。それと、空もね。こいし、貴方と話していると元気になれるらしいから。これからも話してあげて」
「えぇ、勿論です!」
人は変わる。時と共に移り変わる。止めることは出来ない。だからきっと、人生はこんなにも辛くて、悲しくて、でもとても美しい。だからきっと、あたいは歩みを止めることができない。その先に恐ろしいものがあったとしても。
あたいは願った。切に願った。心の花が咲き続けるように。家族の花が華やかに育つように。
ルーチンワークをこなすお燐にとって、生き死について考えるのは本当に重いことだったと思います。
それでも相談できる人たちがいたことは大きな救いだったかと思いました。
とてもよかったです
登場人物の哲学上、この話で一番共感できたのは空(生きるのに必ずしも意味を求める必要はない)なんですが、その話を受けてなお考え続けるお燐がいたからこそ、それぞれの哲学を持つ地霊殿面子だったからこそ、こいしもお燐も救われたのかなと思いました
ここまで読んだ時に「おおー」と思いました。
お燐の気持ちの描写の仕方も、
家族とのやりとりも読んでいてスッと頭に入ってきて、好きな作品です。
重いテーマにしっかり向き合いつつ、こいしちゃんを絡めて前向きな答えをちゃんと出していてよかったと思います。
さとり様も完璧でフォローも効く主ではない……ものの、それはそれでよいのだろうなと思わせるような読み心地になっていてよかったです。
有難う御座いました。