また、異質な波長に振り回されている――
「二時方向から高波襲来! センチョ、面舵いっぱーい!」
「アイ・サァッ! 聖輦船が衝角の斬れ味、とくと思い知るがいいわ!」
妖夢は甲板から伝わってきた荒波による衝撃を受けて、そう久しくない既視感を抱かされていた。
何とか転倒はすまいと必死で船縁を掴んではいるものの、胸元で暴れている不快感のせいで徐々に力が抜けていく。
そこに追い討ちを加えるように、テンションの上がりきった叫び声と高らかな喇叭(ラッパ)の咆哮が耳を突き刺していた。
「ヤー、数百年ぶりの海はいいわねぇ。縛られてうんざりしていた時代もあったけど、自由に航行できる今となっては最高にご機嫌、ってやつですわ!」
「ほんとほんと! 嵐の潮騒、砕け散る水飛沫の余韻、船体が波を澪に切り分ける音色……あぁ、幻想郷じゃ聴けない音ネタがじゃんじゃん溜まっていくわ~」
「さぁこの調子でどんどん行きましょう! 舵をぐるぐる波を乗り越え、ゆらゆら揺れる船をいなして水平線の向こうへゴゥ!」
妖夢がそちらに恨めしそうな目を向けると、まず映ってきたのは馴染み深い騒霊姉妹――トランペットを空に突き出したメルラン、両手を腰の後ろで組んで耳を澄ますリリカ――の姿。
さらにその傍らでは、まだ知り合って間もない舟幽霊・村紗が狂ったように快哉を上げていた。
その手元、船首甲板から生えている木製の操舵輪が右往左往するたび、妖夢の頭と視界は激しくかき混ぜられていく。
「メル……ランさん、やりすぎ」
しかし妖夢は船を動かしている村紗ではなく、傍で演奏しているだけのメルランの方に非難の言葉を向ける。
というのも、初対面の時には丁寧で礼儀正しかった村紗をこうまで豹変させたのは、メルランの奏でる躁の音だということを知っていたからだった。
この喇叭の音のせいで気質が荒々しく波立つようになったがため、聖輦船は飛行機能を備えているにも関わらず、時化の海を乗り越えるという村紗にとってのスペクタクルに巻き込まれている。
「うぅ、気持ち悪……」
とうとう立っていられなくなったのか、妖夢は口を押さえながらその場に座り込もうとする。
そしてまさに膝が折れ曲がった瞬間、その身体を支える救いの手が現れる。
驚いて後ろを振り向くと、間近に騒霊姉妹の長女・ルナサの憂い顔があった。
「大丈夫?」
「す、すみません」
「ちょっと待ってて。今からメルランをたしなめてきて、ムラサ船長に船を離水させるよう説得してくるから」
ふらついていた妖夢の足場を確保するや、ルナサは真剣な顔つきでヴァイオリン片手に三人の方へ歩いていく。
しばらくその後ろ姿を見送っていた妖夢だが、背後から聴き慣れた溜息がしてきたために慌てて振り向く。
するとそこには仕えるべき主・幽々子が呆れた様子で浮かんでいた。
「だらしないわねぇ、船に酔うだなんて。永遠亭の催眠廊下の時もこんなザマだったじゃないの」
酷な言葉を投げかけてきた幽々子を前にして、面目ない気持ちを示すかのように妖夢は俯く。
それでも自分だけに降りかかっている不公平に対して、つい愚痴を零してしまった。
「うー、なんで皆さんそんな平気なんですか? 船に乗るのが初めてなのはムラサ船長以外は同じなのに」
「だって貴女以外は生身の身体を持っていないもの」
「あぅ……」
しかし無情にもそれをあっさりと切り捨てられてしまい、妖夢はぐうの音も出なくなる。
そんなふうに気落ちしていた妖夢の耳に、ルナサの擦弦の音色が染み込んできた。
しばらく聴き入っていると、やがて靴底に浮遊感を覚え、船の揺れも消えていることに気付く。
ようやく不快感の治まった胸を撫でおろしていると、演奏を遮られたメルランの不満そうな声が聞こえてきた。
「ちょっとー、何するのよルナサ姉さん。せっかく盛り上がっていたのに台無しじゃない」
「落ち着いてバランスを考えなさい。貴女の演奏は確かにムラサ船長をこの上なくハッピーにしているけど、その陰で妖夢が犠牲になっているわ。
それは貴女も望むところではないでしょう?」
「むー、そうだけどー」
「……いえ、いいんです。申し訳ありません、少々調子に乗り過ぎました。やはり私は惨憺たる水難を招く舟幽霊、一つの船を預かる資格などなかったのです。
そうです、魂魄さんが船酔いするのも穏やかだったはずの海が荒れだしたのも、すべては私のせいなのです」
「あちゃー、ルナサ姉さんもやりすぎてるよ。っていうか妖夢もさ、船が揺れて気持ち悪いんなら飛べばいいじゃん」
「……あ」
「う……」
しばらく姉妹どうしの言い争いが続いた末に、それに終止符を打ったリリカの言葉は、離れていた妖夢にもしっかりと突き刺さる。
一方、そんな具合に寸劇を繰り広げる幽霊達を眺めていた幽々子は、軽く口元を緩めてから視線を頭上の一点、青い光を放っている惑星に移した。
「晴れの海を越え、雨の海も越え……もうすぐ嵐の大洋を越えられるかしら? 紫、おかげさまで月旅行は順調よ」
~ ♪ 幽霊客船の地球を越えた旅 ~
『満月の夜に湖面の水月を通ってより数えて十日目。聖輦船船長、村紗水蜜が記す。
先日遭遇した嵐の大洋とやらを越えて、西行寺幽々子言うところの賢者の海に入ってからというもの、潮流は無きに等しいほど穏やかになった。
おかげで迷惑をかけてしまった魂魄妖夢も、どうにか落ち着いた表情を取り戻してくれている。
その彼女に謹んでお詫び申し上げたところ、何かを諦めたような笑顔で「振り回されるのは慣れていますから」と返された。
どうやら普段から苦労している様子が窺える。せめて今後は迷惑をかけないようにしたい。
他には乗客の間で大きなトラブルはなく、現状は順風満帆といえる――』
薄暗い船長室の中、村紗は十日目の内容を記した日記の一ページにざっと目を通し、それから一枚ずつ紙面をめくり返していった。
そして日々の内容を順に想起していく途中、溜息を一つ吐き出す。
「……うーん、せっかく聖達が快く送り出してくれたのに、何一つ面白そうなエピソードがないわね。出てくるのは海を前にして浮かれ騒いでいた私のことばかりじゃないの。
これじゃただの自慢話でしかないわ。みんなは船旅の土産話を期待しているというのに……」
さらに多少の焦りが混じった呟きを洩らし、村紗はこの船旅が始まった経緯を思い返した。
「一ヶ月の間、そちらの聖輦船をお借りしたいのですが」
「……は? 一月?」
船旅の発起人である幽々子が八雲紫を伴って命蓮寺を訪れたのは、満月の一週間ほど前、上つ弓張月の晩のことだった。
しかし客間に命蓮寺一門を集めて依頼内容を告げてきた際に、今までにないほどの期間を提示されたため、村紗は訊き返して以降絶句してしまう。
その態度を解きほぐそうとしてか、幽々子は柔らかく微笑みながら言葉を続ける。
「ええ。実はこの度、幽霊どうし親交を深めようという目的で、私達冥界の住人とプリズムリバー楽団とで月の海を旅行しようと思いまして」
「なんですって! 月の……海?」
「その船旅に幻想郷でも実績豊富である聖輦船を利用させていただければありがたいと考え、こうして依頼に参った次第です。
聞けばそちらの船長さんは舟幽霊、この地には存在しない海に馴染みの深い方とのこと。どうか不慣れな私達の水先案内を引き受けてはいただけないでしょうか?」
海。
その単語は何よりも強い誘惑となって村紗の心を捕えた。
目を閉じれば今でも思い返せる、潮騒、海風、たゆたう碧と白――幻想郷にそれらは存在しないと聞かされて以来、表面上は諦めていたつもりだった。
しかし今、心の奥底では再び味わうことを望んでいたものが手の届くところに近付いている、そう考えると止まったはずの心臓が弾む気さえしてくる。
「ところで先程一ヶ月の間と仰っていたが、もう少し短縮することはできないだろうか?
生憎とこの命蓮寺と聖輦船とは切っても切れない関係にあるのでね。
日帰りで魔法使いを魔界に連れて行くのならともかく、長期間宿もない上に寺としての機能が失われたままというのは困る」
そんな具合に人知れず浮き足立っていると、船の責任者として折り合いをつけなければならないことをナズーリンが先に尋ねていた。
手抜かりを補われた村紗が申し訳なさそうな顔つきになる一方、質問を受けた幽々子も同じような表情で答えた。
「それが……地上から月への道を通すためには満月がどうしても必要になるのです。往路と復路の際に。
だから月の満ち欠けの周期である、およそ三十日という期間はどうしても変えられません」
「あー? なにそれ、自分達はムラサと一緒に月旅行を楽しんでいる間、私達には野っ原で寝てろって言うんだ。それはちょっと酷いんじゃないの?」
期間を動かせないことを聞いて、ぬえから不満が上がった。声は出さなかったが、一輪や星、白蓮も困惑した表情を浮かべている。
それを見て村紗は自分の期待を抑えこむ。みんなの住居を取り上げてまで自分の望みを優先させるのは、いくらなんでも忍びないと思った。
ついには村紗も含む命蓮寺一門に否定的な空気が蔓延し始めた頃になって、それまで黙っていた紫が口を開く。
「ご心配なく。皆様だけにご不便を強いたまま捨て置くなどと、そんな無責任なことを申すつもりはございません。
そこで私から、船をお借りする間の仮住まいを提供させていただこうと思いますの」
意外な方面からの申し出を受けて、村紗達は互いに顔を見合わせる。一通り視線が交錯し合った後、代表して星が詳しい説明を求める。
「仮住まい、ですか。しかし私どもは仏門。単に居住スペースだけでなく、仏事を行うための空間も必要とするのですが」
「その点も抜かりはありませんわ。何しろこれからご紹介しますのは、禅寺に棲む妖蝶の住職ですもの。
さて、毘沙門天代行殿。ここに張られている結界を一時的に弱めていただけないでしょうか?」
「はぁ……聖?」
「彼女の言うとおりにしてあげなさい」
紫の頼みを聞いた星はまず白蓮に伺いを立て、それから宝塔を操作して寺を覆っていた不可視の力を弱める。
それを確認してから紫は自分の隣にスキマを開き、一つの人影を出現させる。
丁寧に膝をついてお辞儀しながら現われたその姿は、墨染めの装束と編み笠を纏った雲水のように見えた。
ただ、笠を突き抜けて伸びている一対の触角が、この僧が紛れもなく妖怪であることを証明していた。
村紗達の視線が集まる中、妖蝶と思しき僧は笠を脱いで微笑みながら挨拶する。
「お初にお目にかかります。私めはこちらの賢者殿に多大なご恩をいただいている禅寺の住職でございます。
この度はかの高僧・命蓮上人にゆかりのある寺院の方々をお招きできるとあって、喜び勇んで馳せ参じた次第です」
「せっかちねぇ、まだ泊まると決めてくれたわけではないわよ。そのつもりで寺を紹介なさいな」
「は、これは失礼を。それでは皆様、しばしお目を汚す無礼をお許し下さい」
住職は言葉を終えるや懐から鈴を取り出し、両腕を左右に開くと同時に軽く鳴らす。
すると客間の中が鱗粉で煙り、そして屋内だったはずの光景が見知らぬ寺を映した風景に変化した。
自分達がいつの間にか別の場所に移動したかのような現象に、一輪が上擦った声をあげる。
「何の真似……『妖術による幻』ですって!? そうなの、雲山?」
「ええ、そちらの入道殿は鋭い幻視力をお持ちのようですね。
ご心配なく、この幻覚は皆様にご覧いただきたい私の記憶であって、害はありません。これは私の、人に白昼夢を見せる程度のしがない能力でございます。
それではこれより私どもの住まう禅寺について、一つ一つ順を追って説明させていただきますね」
以降は住職が鈴を鳴らす度に、村紗達の見ている光景が次々と切り替わっていく。
映像は静止しているものだけでなく、視点が縦横無尽に動くもの、そこに映っている人物が動いているものなども含まれていた。
「ふむ、全体を通して充分な広さを備えているようですね。必要な設備も整っているようですし、足りない物はこちらで補えば済むでしょうね」
「はい。建物の規模に対して我々妖蝶の数はそれほどでもないのです。ゆえに皆様にも施設を気兼ねなく利用していただけると考えております」
「あっ! 見てよムラサ、伊吹のやつがいるよ」
「本当だわ。ちょっと前に地上に出たとかいう噂は真実だったのか。
それにしても……禅に通じる鬼は少なくないって聞いたことがあるけど、あの酔っ払いもそうだったとはね」
「たしかに、僧侶相手に一応ちゃんとした禅問答やっているみたい。あら、あそこで座禅を組んでいるのは……九尾の狐?」
「ええ。精神修行に励みたい妖怪の方にも、このように気の向くままに訪れていただいております」
「ところでこのお寺はどこにあるのでしょう? 少なくとも人里からは遠いように思われるのだけど」
「仰る通り、この場所は余人の訪れにくい山奥にあります。ですがご心配なく。
賢者殿のご好意により、皆様に泊まっていただく宿坊の入り口を人里近くに繋げていただけるそうです。
あとは私めの能力で命蓮寺の幻像をそこに作れば、今までと何も変わりはなくなることでしょう」
「まぁ、そこまでしていただけるの?」
「ええ。私どもの寺を第二の命蓮寺のごとくお使いいただけるよう、便宜は可能な限り図るつもりです」
感想と質問、それに対する回答とが行き交う間に、先程まで命蓮寺一門に漂っていた否定的な空気は次第に薄まっていった。
それを感じ取った村紗は再び胸に期待を抱く。しかし寺の業務が関わっている以上、決定権が白蓮にあることも充分に理解していた。
口を出せないもどかしさに村紗が懊悩しているのをよそに、室内に蔓延していた鱗粉が消え去っていく。
そして元の光景を取り戻したのを見計らって、白蓮が紫に視線を移した。
「なるほど、お話は諒解しました。これならムラサが大口の仕事を果たしつつ、我々もどうにか通常の業務を行える……実に見事かつ周到な差配ですね」
「そう言っていただけると恐縮ですわ」
「ただ、一つ確認したいのですが……この旅に賢者殿は同行なさらないのでしょうか? 先程の西行寺さんの話の中に貴女の名前がなかったようですけど」
「ええ、私は参りません。というのも、実はこの友人に返さなければならない借りを作っていましたので。
だから私は今回、彼女の希望に沿うように力を惜しみなく注ぐだけに留まったのですわ」
「そうでしたか。いえ、先程から伺っていると御身だけが随分と労苦を背負っているように思われましたので。ですがお二方の間ですでに話はついているのですね。
いけませんね、不平等の芽を見つけるとどうしても気になってしまって、いらぬ口を挟んでしまいました。申し訳ありません」
少しばつの悪そうな顔をして謝罪する白蓮を見て、紫も苦笑を浮かべながら内心をわずかに零す。
「まぁそれでも、土産話くらいは望んでもバチは当たらないと思っていますけど。だから旅が終わった暁には、彼女達から月の海の様々な姿を伝えてもらおうかしら。
笑顔と、苦笑いと、お酒とお肴でも交えながら」
「まぁ、それは素敵ですわね。では我々もムラサの耳目を借りて、想像力をかきたてながらの月旅行を楽しませてもらいましょうか」
「あらぁ、それは命蓮寺の返答と受け取っていいのでしょうか?」
割って入ってきた幽々子の確認に、白蓮は視線で待つように訴えてから門徒達の方を振り返った。
「私は構いません。住居の問題さえ解消されるのなら、水蜜には海に行ってもらいたいと考えていましたので」
「私からも特には。ムラサは寺の業務だけでなく、我々にはできない仕事まで果たしてくれていますからねぇ。
ですから、実益と趣味を満たせるこの機会を充分に活用してもらって構わないと思いますよ」
「それに今回の依頼を通して妖怪の賢者と冥界の管理者、双方との縁を築いておくのも後々悪くないだろうしね」
「ちょっと、みんなムラサに甘すぎない?
……まぁ、そりゃあれだけ私達やこいつらの言動に一喜一憂百面相されちゃあ、どれだけ海に憧れてたんだよって呆れ半分諦め半分にもなるけどさぁ。
あーあ、仕方ないから私も許してあげるよ。その代わり、お土産忘れたら酷いんだから!」
親愛信頼打算妥協――込められた思いは様々であれ反対意見が全くなかったのを確認すると、白蓮は微笑みながら幽々子に頷いてみせた。
「みんな……」
自分以外の面々が口々に賛意を唱えてくれるのを聞き、村紗は嬉しく思うと同時に恐縮もしていた。
その余計な感情を拭い去ってやるように、白蓮が穏やかな口調で言葉を贈る。
「後ろめたさを抱く必要はありません。これは普段と規模が異なるだけで、貴女に依頼された仕事なのですからね。
同時に、いつも寺で勤めに励んでいる貴女の無聊を慰める好機。せっかくだから貴女も幽霊どうし、仲良く海で羽を伸ばしてらっしゃいな」
想起から戻ってきた村紗は、最後に受け取った白蓮の言葉に意識を向ける。
「幽霊どうしで仲良く、か。乗客と交流してみて、彼らのことに触れられればもう少し興味深い話ができるかしら? でも……」
騒霊三姉妹と冥界主従との間には長い付き合いがあるということを聞いている。実際、知り合い同士の気安い雰囲気が漂っているのも確認している。
その中に、仕事上の必要性がないと積極的に対話を持ちかけられない自分が溶け込んでいけるかどうか、村紗には自信がなかった。
こういう時、初対面でもフランクな態度で話しかけられる一輪が羨ましい――と、そう思ったところで村紗は現状を顧みる。
今に至るまで最も長く時間を共にしてきた一輪と雲山。地底で出会って以来縁の続いているぬえ。
再会してから惜しみなく尽力してくれた星とナズーリン。そして千年近くの時を経てようやく救い出せた白蓮。
その誰もが今、この船に乗っていない。自分一人だけが海に漂っている。
「……いけないわね。風にでも当たってこようかしら」
白蓮達の温度を思い返していたせいで軽くホームシックになった気分を振り払うため、村紗は部屋を出て甲板へ向かった。
聖輦船は規模の大きな屋形船のような体を成している。
その屋形から外に出てきた村紗の目に黒一色の月の空が飛び込んできた。その中では地上の夜空同様、数多の星がきらめいている。
小さな光点である恒星、それらよりもまばゆく光る太陽、そして青い輝きを放つ大きな惑星――地上。
そこでは星を頼りに船を導いた経験のある村紗だったが、まったく見覚えのない月の空には戸惑いを抱かされるばかりだった。
「――さむ」
あてもなく船の横腹あたりを歩いていると、突如、眼前に向けて一陣の強風が吹きぬける。
望んでいた風はしかし、少々度が過ぎたためか身震いを誘われ、村紗は両手で自らの身体を抱きしめる。
そうして縮こまるようにしていると、ますます孤独さを煽られているように感じた。
「……馬鹿みたい。頭を冷やしにきたはずなのに、身体だけが冷やされるなんて。
このまま外にいても気が晴れないなら、もう戻ろうかし……ら?」
と、踵を返したところで、村紗は屋形の上の方で物音がしているのを聴きつける。
確認のため飛翔すると、傾斜の緩やかな屋根の上にしゃがみ込んでいるメルランの姿を見つけた。
どうやら足元にある角灯をいじっているようで、そのまま見つめていると淡い光を放つ塊がそこから数体出てくる。
「幽霊? あ、形が変わってく……」
人魂のような形で現れた幽霊達は、出てきた順に少しずつ姿を変えていき、やがて一対の翼を持つ鳥になった。
赤、黄、緑、紫など、多彩な光を放ちながら宙を漂っていた鳥型幽霊は、メルランがトランペットに口をつけるや力強く羽ばたき始める。
そして黒い空へ向けて編隊をなして飛んでいった。
「!」
そんな幽霊達の飛行を飾り立てるのは、トランペットから響く歯切れの良い音楽。
目を覚まさせるかのような力強い旋律は、同時に村紗の抱いていた憂鬱な空気を吹き流していく。
次第に輝きを取り戻していくその視界の中で、幽霊達は演奏に合わせて速さや高さを目まぐるしく変化させる。
そしてある瞬間、虹色の光跡を曳きながら急降下し――村紗が気付いたときには羽ばたきまわる鳥にすっかり囲まれていた。
「うわわ!」
「あははっ、大成功ね~」
纏わりついてくる鳥に泡を食っていると、メルランの悪戯っぽい笑い声が届けられてきた。
その後すぐにメルランがトランペットを一吹きして、村紗の周りから鳥を追いやる。
そしてすべての鳥を角灯に戻すと、いまだ目を丸くしたままの村紗の前に歩み寄ってきた。
「ごめんなさいね、驚かせちゃって。後ろで何やら浮き浮きしていたみたいだから、ちょ~っとからかってみたくなっちゃった」
「ああ、いえ、気にしていませんよ。この程度、ぬえの悪戯に比べればかなりマシな部類ですから」
無邪気なメルランの笑顔を前にして、村紗も陰を含まない笑みを返しながら屋根の上に足をつける。
そうして向かい合う形になるや、メルランが微量の苦味を顔に混ぜて深々と腰を折り曲げてきた。
「それと先日のことも謝らないと。何しろ船長さんったら、今まで墓場のソロライブで見てきたどんな自縛霊よりもノリノリだったんだもん。
私も釣られてついつい本気出しちゃった」
「も、もういいですから顔を上げて……私、そんなに浮かれてましたか?」
「そりゃもう、このまま満足して成仏するんじゃないかって心配になるくらいだったわぁ」
「ふふ、それはありませんよ。まだまだ顕界に未練たらたらですわ」
一方の村紗はそんなメルランに向けて軽い調子で本音を伝え、笑顔の質を元に戻してやった。
場の空気が落ち着いたと見るや、村紗は交流のきっかけとなりうる今の好機を逃すまいとして会話を繋ぐ。
「ところで、こんなところで何をやっていたんですか? やはりトランペットの練習?」
「ううん。実はね、船に乗る機会があったらああいうことを一度やってみたいなぁって、昔から思っていたのよ。
本物の鳥がいればベストだったんだけど、ここには生き物が全然いないみたいだから鳥型幽霊で代用することにしたわ。幽々子さんから『人魂灯』を借りてね」
「まぁ、たしかに見事な光景でしたね。思わず見とれてしまいましたよ」
「でしょ? まぁこれはとある演奏会の真似なんだけどね。
青空を泳ぐウミネコ達の下、お日様に照らされる長い髪をなびかせて、甲板でヴァイオリンを演奏する女の子――あのシーンには本当に感動させられたわぁ」
「それは素敵ですね。そんな光景を見ることができたなんて、羨ましい限りですわ」
夢見る乙女のような表情を浮かべるメルランに、村紗も顔をほころばせながら感想を伝える。
しかしそれを聞いたメルランの笑顔に、またも微量の異物が混ざった。
村紗が不思議そうな顔になって見つめる中、メルランは肩まで垂れている右前髪を人差し指で巻き取りながら口を開く。
「えっと……そこがちょ~っとはっきりしないのよぉ。何となくそういう記憶があるような、でも元々幻想郷の廃洋館で育った私が船上の光景を見たことあるわけないしー。
ただ、家にそのシーンを描いた絵が飾られていたから、それと別の演奏会の記憶がごちゃ混ぜになってるのかな~って感じ?
止まっている船上の絵と、動いている別の場所でのライブの記憶とが、こう、ぐるぐる溶けあっているような……」
「あら、生前の記憶ではないのですか? その頃に船に乗る機会があったとしたら、そういう光景を見ていたとしてもおかしくはないと思いますけど」
「あらぁ、私は騒霊よぉ。大魔法によって生み出された存在なんだから、生前の記憶なんてものは存在しないわ」
「え、そうなのですか!?」
それを聞いて村紗は目の前の少女、ひいては騒霊そのものについて疑問を抱く。
たしかに今まで舟幽霊として歩んできた中で、騒霊に触れるのはこれが初めてだった。
最も長い時間を過ごした地底では、生前の恨みに捕らわれ続けている怨霊や亡霊の姿を見たことがあったので、その延長線上にあるものと考えていた。
そんなふうに考え込む様子を見せる村紗に、メルランは両てのひらを振って気を逸らそうとする。
「まぁ、あまり深く考えるものじゃないと思うけどね。今大事なのはずっと憧れていたことが叶えられてハッピーだってこと。
だから船長さんと幽々子さんには本当に感謝しているわぁ。こうして素敵な船に乗って、大海原に繰り出させてもらったんだもん」
「あ、ありがとうございます。そう言っていただければ船長冥利に尽きますわ」
そして満面の笑顔を浮かべながら村紗の手に両手をからめ、上下に大きく波打たせた。
突然の行動に気圧されはしたものの、村紗も帽子を取って深く一礼し、心からの感謝を伝えた。
村紗とメルランが会話を弾ませていたのと同じ頃、屋外に出ていた幽々子は緋毛氈片手に甲板上を漂っていた。
どこか腰を落ち着けられる場所を探していると、船尾の方から聴き覚えのある音が響き渡ってくる。
それをたどっていったところ、ルナサが背中を向けて一心不乱にヴァイオリンと格闘している姿を見つけた。
とはいえ気ままに弓を往来させたり、弦を指で適当に爪弾いたりと、どちらかというと色々な音を試しているかのような動きだった。
幽々子はそのリズミカルに踊る背中に向けて、声を弾ませながら呼びかける。
「精が出るわね。こんな時にも練習かしら?」
「あ、幽々子さん。ええ、初めて海に繰り出した記念に一つ作曲でもしようかと思って。
まだ他所様に聴かせるほどのものは出来上がっていませんが」
振り返ったルナサは少し頬を赤らめながら返答する。
その反応を引き起こした理由が、夢中になっている様を見られたためか、中途半端な曲を聴かれてしまったためかは幽々子にも分からなかった。
しかし弄れば面白そうなその態度には深入りすることなく、幽々子は言葉を選んで続ける。
「それにしても楽しそうだったわねぇ。必要ないはずの足踏みまでしちゃって。
最初貴女達にこの船旅を持ちかけた時、やけに積極的に返事をしてきたと思っていたけど、何か思い入れでもあったのかしら?」
「ええまぁ……ご存知かと思いますが、私達の洋館にはいくつか海や船の絵が飾られていまして。
そしてそれを眺めている時、ある種の居心地の良さを感じるのです。ただ、船旅を経験するのはこれが初めてだから、少し釈然としないのですけど……」
「そう。幽霊の記憶については是非曲直庁のお歴々じゃないと分からない点が多いし、ましてや貴女は騒霊だものね。
だから貴女の違和感を解消してあげることはできそうにないわ」
「そうですか。いえまぁ、あまり気にすることではないと思っていますけどね。
今回貴女の提案を受けたのは、憧れていた船旅に出れば今までにない曲が作れるかもしれない、そんな打算が働いたからですよ」
力ない答えをルナサに慰められ、幽々子は軽く口の端を上げて感謝の意を示した。
しかし直後に笑みを収め、ルナサが戸惑いを浮かべる頃になってから、徐々に声を搾り出すように呟く。
「地獄耳の庁といえど、さすがに月での秘め事までは把握できないわよね……
ねぇ、少し昔語りに付き合ってくれないかしら?」
「? 構いませんが、珍しいですね」
前半部分を聞き取れなかったルナサは一瞬問いかけそうになるが、後半の言葉に押されたためにそれを飲み込み、ヴァイオリンを手放して宙に浮かべた。
それを確認すると幽々子は持っていた緋毛氈を甲板に広げ、その上に腰を下ろす。
それから「じゃーん! 土蜘蛛酒~」と言いながら胸元から酒瓶とぐい呑みを二つ取り出し、やや遅れて隣に座ったルナサに一つを渡す。
ルナサはぬくもりを纏うそれを苦笑しながら受け取り、注がれた中身を軽く一口呷ってみせた。
「これから話すのはね。昔、冥界をよく訪れていた魔法使いが聞かせてくれた、彼女の過去」
「魔法使い、ですか」
同じように隣で杯を傾けた後、幽々子はぽつりと零すように話を始める。
「まだ小さかった頃、彼女は泰西のとある国で伯爵の地位にあった父親と、それから三人の姉と一緒に暮らしていたの。
父親は貿易商を営んでいて富豪にまで上り詰めていたらしいわ。ただ当時そういった地位にあった者としては珍しく、自分の足元がよく見えていたみたいでね。
商品の輸送を担っていた船員達の功績をしっかりと評価して、たまに屋敷に彼等を呼びつけてはねぎらっていたそうよ。
その影響があったのかしらね。彼女とその姉達は船や海に興味を抱き、よく父親に頼んで港まで連れて行ってもらったらしいわ」
「……ほぅ」
「で、ある時ヴァイオリンを嗜んでいた長女が船上で演奏会を開きたいと申し出てきてね。
それがまた素晴らしい舞台だったそうよ。青空、羽ばたく白い鳥、美しい擦弦の調べ、周りには賛辞を送る聴衆と、目を輝かせている家族――
その場にいた誰にとっても一生心に残る思い出になったのでしょうね。
この話をしてくれた時の彼女ったら、まるで当時に戻ったかのように声を大きく弾ませていたんだもの」
目を閉じて在りし日の知人の姿を思い浮かべながら、幽々子も楽しそうに語る。
そして目と口を丸く開いているルナサに向けて、少し上目遣いになりながら感想を求めた。
「どうかしら、ルナサ? 今まで数多くのライブを作り上げてきた貴女としては、まだ幼いヴァイオリニストの考えたこの舞台は聴衆に長く感動を残すものだと思う?」
「……文句のつけようがありませんね、私には。何しろ今のお話とよく似た光景を我々姉妹も知っていて、やはりみんなして憧れを抱いたものですから。
そういえば、特にメルランがそれを描いた絵を気に入っていましたね。
改めて思い返してみると、そういう演奏会の絵画がたくさん飾られていたことが、ちんどん屋を始めた動機の一部になっているのかもしれません」
懐かしそうに思い出を語るルナサを、幽々子は杯を傾けながら密かに窺う。
そしてそこに浮かぶ物を探るように見つめた後、深い溜息を吐き出した。
一方のルナサは何か合点がいったように頷くと、確認のために幽々子に問いかける。
「……なるほど。幽々子さんがこの話をしてきたのは、私の姿を見て知人の思い出話がよぎったからですか。
その魔法使いはどういう人なんです? 貴女と知り合っている以上、外から幻想郷に来たということですよね」
「……ええ、ただ詳細については分からないわ。あまりいい思い出じゃなかったみたいね、訊きだそうとしても険しい顔で首を振るだけだったもの。
でも幻想郷に来てからは、色々と大変だったみたいだけどそれなりに充実していたそうよ」
「そうですか。では、彼女とはどうやって知り合ったのですか? 昔は今と違って幽明結界はそう簡単に越えていいものじゃなかったはずですよね。
そんなリスクを冒してまで一体何の用があったんでしょう」
何が興味を引いたのか、すでに船上のヴァイオリニストの話からは筋が離れていたにも関わらず、ルナサは魔法使いについての問いを重ねてきた。
少し目を丸くしながら幽々子は頭の中で言葉を吟味し、続きを口にする。
「ええとね、その前に一つ説明しておくわ。
彼女はあまり才能ある魔法使いじゃなかったんだけど、何と言うか、一種の交霊術(ネクロマンシー)みたいなのが得意でね。
それを使って幽霊と会話したり、手なずけたりしていたの」
「ふむ、それは冥界において便利そうですね」
「ええ。実際に彼女はその魔法を駆使して、生き別れてしまった姉達を探しに冥界を訪れていたのよ。冥界には外からの幽霊も来ているからね。
私と知り合ったのはその頃。生きている人間が冥界を訪れることなんてめったになかったから、本当に驚いたわねぇ。
そして彼女は折り良く、彼岸での裁きを受け終わって転生待ちだった姉達に会えて……それ以降は私も知らないわ~。プライベートなことだしね。
ところで、日本酒は口に合わなかった?」
「……あ、いえ」
いつの間にか身を乗り出さんばかりに聞き入っていたルナサは、指摘を受けて初めて酒に口をつけていなかったことに気付く。
慌てて杯を乾かすや、幽々子は間髪いれずに追加分を注ぐ。そして自らの杯にも注ぎ足しながら、少し声を落として話を繋いだ。
「そうして無事に家族との再会を果たせた彼女は、もうかなりの高齢だったために、ほどなく死神からのお迎えに手を引かれて天寿を全うしたわ」
「……? 逆――」
「でも彼女は生前あまり多くの人と関わらなかったみたいでね。三途の川を渡りきることができなかったのよ」
「! では、川の途中で」
途中で間違いを訂正しようとしたルナサだったが、その意志はとめどなく流れてきた重い言葉に沈められてしまった。
一方の幽々子は語りを終えたその口に荒々しく杯の中身を注ぎ込む。その中で口に入らなかった飛沫が襟元や袖、そして緋毛氈を濡らした。
しばらくして喉元に熱を覚えた頃、隣から洟をすする音が生まれたことに幽々子は気付く。
その源を見ないように俯いたまま、薄笑みを混ぜた声を放った。
「うふふ、意外と涙もろいところがあるんだ」
「……あれ? い、いやその、たしかに悲しい話ですけど、おかしいな……」
「お酒にあてられたのかもね。泣き上戸だったかしら? 貴女は」
それだけ言い置いた後、幽々子はルナサが落ち着くまでの間、ハンカチを取り出して口元を丁寧に拭く。
ルナサはその気遣いをありがたく思いながら、自分も同じようにハンカチで目元を拭った。
互いに涙を乾かし終わった後、湿った空気を残さぬように幽々子は軽く話を締めくくる。
「さ、私が知っている彼女の足取りはここまででおしまい。なんだかヴァイオリニストの話からは随分と逸れてしまったわね」
「すいません、私が関係ない質問を続けたばかりに」
「いいの。貴女の姿をきっかけにして、彼女の話をしてしまいたかったのかもしれないから」
今は亡き人を思ってか、幽々子は寂しそうな笑顔を浮かべた。
それを真剣な眼差しで見つめた後、ルナサは何かを決意したかのように顔を引き締める。
そして膝の向きを揃えて幽々子に尋ねた。
「決めました、今考えていた新曲は最初に彼女に捧げようと思います。
幽々子さん、彼女が沈んだ位置をもう少し具体的に教えてくれませんか?」
「そうね……知っているかしら? 五百年程前に、世界各地の妖怪を幻想郷に取り込む妖怪拡張計画が紫によって行われたのだけど、是非曲直庁はそれに合わせて組織を国際色豊かなものにしたのよ。
死者をその生地に合ったやり方で扱うために、十王達も各地の様々な冥府の神の分霊と習合していったらしいわ。同時に地獄の施設も色々と手を加えられていったそうよ」
幽々子はまず勤め先である是非曲直庁の歴史に触れ、次に核心となる答えを伝える。
「あのね、希臘(ギリシア)では三途の川のことをスティジャンと呼ぶらしいの。そしてその下流には、忘却の名を冠するレテ川が流れている。
泰西生まれの彼女のことだから、おそらくそこにいるはずだわ」
「……そうですか、分かりました。誰からも忘れ去られた彼女の御霊が安らぐよう、せめて私達が苟且(かりそめ)の姉となって手向けを捧げましょう」
「ええ、きっと……彼女もそれを望んでいると思うわ」
力強い口調で告げられた約束を聞いて、幽々子は心底からの喜びを顔に浮かべた。
さらに同刻、最も開けた空間となっている船首甲板にて――
ようやく調子を取り戻した妖夢はリリカに頼まれて剣の修練を行っていた。
「やっ、ひっさしぶりにっ、やるけっどさ、やっぱいいよねっ、チャンバラの音は!」
「もうっ、真面目にっ、やってよ!」
白刃を軽く合わせてからというもの、リリカは妖夢の周りをダイナミックに動き回り、上下左右あらゆる角度から打ち込んでくる。
しかしそれらは全て腰の入っていない攻撃であるため、悉く見切られ弾かれていた。
「っとに、攻撃はいい加減なくせに、受け流すのだけは巧いんだから! 貴女はっ」
当然妖夢としても隙を狙って反撃を何度も繰り出している。
しかし不思議なことにリリカはその全てに対して防御を間に合わせ、斬撃の軌道をあらぬ方向に折り曲げていた。
結果妖夢は、無闇にぶつかり合う剣の音と跳ね回るリリカの足音が耳に障るという状況を抜け出せないでいた。
「いや~、調子がいいわ! 何でだろう、船の上だといつも以上に走り回りたくなるよ。お前もそう思――?」
「? 隙あり!」
「おわっと!」
そんな喧騒の中、妖夢が不意に足を止めたリリカに必殺の一撃を叩き込むと、リリカもさすがに大きく退くことでやり過ごすしかないようだった。
「なによ~! あからさまな隙くらい見逃してくれてもいいじゃない。武士の情けってやつはどこにいったのよ?」
「生憎と私は武士ではありません」
しかし動きが止まったからといって、リリカが鳴りを潜めることはなかった。
そこで妖夢は、続くであろう雑言を遮るためにリリカに詰め寄る。どちらかといえば剣戟の響きを聴いている方がマシだと判断したためであった。
一瞬にして視野を占めるリリカの顔に、しかし浮かんだのは狡猾な笑み――それは次の瞬間刀身の平たい面に変わる。
「なんっ!?」
そして妖夢がその意図を計るよりも先に、白刃が反射した太陽光をまともに目に入れてしまった。
一方計略の成就を見届けたリリカは甲板を蹴って空中に浮くと同時、宙で鍵盤をかき鳴らす仕草を行う。
直後に生じた駆け足の音が妖夢の背後に回りこむように響くのを確認すると、自らは音を殺して接近し、瞑目したまま後ろを振り返った妖夢に剣の峰を叩きつけようとする。
「後ろ!」
「うぇ!?」
だがその一撃は妖夢の掲げた白楼剣に受け止められてしまった。
妖夢はそのまま剣を跳ね上げ、身体を一回転させながら無防備になった相手の腹に楼観剣の峰を打ち込む。
「『炯眼剣』!」
「っ!」
手痛い反撃を受けたリリカは悲鳴を上げることすらできず、船縁まで転がされていった。
さらに視界を回復させた妖夢に詰め寄られ、混乱からの回復もままならないうちに喉元に剣尖を突きつけられる。
そして目の前に隙のない有様をまざまざと示されたため、リリカは観念したように手から剣を落とした。
「いたた……嘘でしょ? ブラフの足音を立てて時間差までつけたってのに。妖夢ってば突然心眼にでも目覚めちゃったわけ?」
「ご想像にお任せします」
「……うぇ~、言ってくれるじゃん」
倒れて悔しがるリリカをからかうように半幽霊を旋回させながら、妖夢は悪戯っぽい笑顔で答えた。
手合わせを終えた後、妖夢はリリカに水筒を投げ渡しながら尋ねる。
「そういえば、さっき大きな隙を作ってたよね。あの時口走ってたお前って誰なの? 私のことじゃなかったよね」
受け取ったリリカは質問を脇に置いて、まずその中身を豪快に呷った。
そして大きく溜息を吐き出すと、少し煮え切らないような口調で答える。
「……正直わかんないんだ。普段めったにないことなんだけど、知らない女の子が立てる幻想の音が聴こえることがあるんだよね。今回は駆け足の音と笑い声だったかな。
ただ、この船旅が始まってから、それが聴こえる頻度が上がってるような気がする」
「だ、大丈夫なの? それって幻聴に悩まされているようなものじゃない」
「いやまぁ、不快じゃないんだけどね~。聴けた時はなんか凄く落ち着くっていうか、懐かしいっていうか、そんな気分になるわけだし」
話が進むにつれて怪談の苦手な妖夢が青ざめたのとは対照的に、当初顔色の苦かったリリカの方は最終的に笑みを浮かべていた。
それからリリカは妖夢の傍に近付き、半幽霊に手を伸ばしながら尋ね返す。
「そういう妖夢もさぁ、一昨日は死にそうになってたのに今は随分と楽しそうじゃん」
「あ、分かった?」
「そりゃまぁ、こうして剣を合わせたわけだしねぇ。あんたも言ってるでしょ、『斬れば分かる』って。
あと半幽霊の動きを音に変換した時、明らかにアップテンポだったからよ。なんか理由でもあるの?」
緊張で固まっている半幽霊をほぐしてやりながら、リリカは落ち着いてきた妖夢の顔を覗きこむ。
対して妖夢は先程のリリカと同様、問いをひとまず保留して船の各部に視線を巡らせる。
一通りその光景を目に映した後、どこか遠くに思いを馳せているような顔になってから答えを返した。
「ずっと憧れていたから、かな。以前幽々子様と一緒に月の海に来たときも、ここを船に乗って行けたらもっと良かったなぁって思ってた」
「へぇ、あんたも船旅にこだわりがあったんだ。でも冥界育ちなのにどうして?」
「うん、たしかに直接船を見たことは今までなかったよ。
でもね、私がまだ小さかった頃におじい……お師匠様が作った庭のことが今でもすごく印象に残っていたから」
「なによ、今更恥ずかしがることないじゃん。あんたの呼びたいように呼びなよ。それで、どんな話なの?」
興味津々なリリカに妖夢は軽く笑い返し、再び話を続ける。
「白玉楼の石庭のことは知ってるよね? あの庭は枯山水って言って、苔の生えていない大きな岩を島、砂利を水に見立てているの。
それでお盆になると決まって、おじいちゃんは玉砂利の上に大きなクマザサの葉で作った笹舟をたくさん並べていたんだ」
「ふーん、面白いじゃん。洋館育ちの私にゃオリエンタリズムってのを今ひとつ理解できないんだけど、そういうの風流って言うんでしょ?
あんたのグランパも決して堅物なんかじゃなく、遊び心を持ってたんだね」
「うん。風に揺れて白砂の上を漂う緑の船団を見て、海ってどんなところなんだろう、船旅ってどういう感じなんだろうって思った。
幽々子様も同じことを考えていたみたいで、いつか一緒に体験できるといいわねって頭を撫でてくれたんだ」
「んじゃ念願叶ったってわけだ。船酔いのおまけつきでさ!」
「もうっ、それは言わないでよ。たしかに想像していたのと多少のギャップはあったけど……」
リリカの茶々に文句を返した後、妖夢は船縁までゆっくりと歩いていく。
そして目の前に広がっている黒い空と青い地上とを見比べた後、それまで浮かべていた笑みを収めた。
「月の空は不思議ね。真っ暗なのに星や地上なんかははっきりと見えるなんて」
「ああ。それはね、月にはプリズムがないから空に色が塗られないの、ってスキマさんが言ってたよ」
「……よく分からないけどそうなんだ。それだけがちょっと残念だな」
「ん? どういうこと?」
「おじいちゃんがそういう庭を作る時、幽々子様も色々と船の話をしてくれたんだけど、それには決まって青空と白い鳥が付き物だったからね。
でもここには生き物がいないし、空も青くは染まらないのか」
呟きを終えたところで、妖夢は自分の隣にいつの間にかリリカが並んでいたことに気付いた。
そのリリカもまた、同じように空を見上げて溜息混じりに零す。
「……たしかに、残念だねぇ。なんならいっそ、空に青い何かでもばら撒いてみる?」
「って言ってもねぇ、空をしばらく漂い続けるものじゃないといけないでしょ……ん?
待てよ、空に立ち上る気質の……ってあれは緋色の雲か」
「ちょっとちょっと、何を一人でぶつぶつ言ってるのよ?」
「いや、月旅行の翌年の夏に異常気象が多発していたことを思い出して……あーっ! そうだわ、この方法なら青空を作ることができるかもしれない」
突然叫び声を上げた妖夢をリリカは目を丸くして見つめる。
しかしそれに構わず、妖夢は自前のカードデッキから一枚のカードを取り出す。
そこに描かれていたのは緋色の霧を纏う宝剣・『緋想の剣』だった。
自分ではほとんど使ったことのないカードだったが、リリカはなんとかその効果を思い出し、先程の妖夢の言葉と照らし合わせようとする。
「異常気象……ああ、新聞で読んだっけ。たしか局地的に天気が変わってたとかいう異変だったよね。
で、その原因がそれのオリジナルなんだっけ?」
「うん。あの異変は空に立ち上っていた気質が緋色の雲を作り、それが気質の源となった幽霊に固有の天気を生み出していたことによって起きていたの。
だから、私の幽霊を材料にして気質を発現すれば、死に物に特徴的な蒼天の空ができあがるわ」
「……ふーん、剣腕のわりに頭が鈍いあんただけど、なんだか今日はやたらと冴えてるじゃん」
どこか失礼な褒め言葉に妖夢が文句をつける前に、リリカは一対の翼を生やしたキーボードの幽霊を召喚する。
そして目を細めた猫のような笑顔を作ると、ゆっくりと浮き上がりながら妖夢に告げた。
「せっかくあんたが上手いことを思いついてくれたみたいだからさ、私も最大限に活用させてもらうよ。
妖夢、さっき教えた幻想の音の他にも正体不明の記憶があるんだ。それは姉妹みんなが共有している、蒼天の船上ライブの思い出。
今から姉さん達も巻き込んでそいつを再現してみせるから、演出の方よろしく頼むよ」
「え、それってもしかして幽々子様の言ってた……わ、分かった。
幽々子様、お休みでなければどうぞ空をご覧下さい!」
妖夢は祈るように叫ぶと『緋想の剣』のカードを半幽霊に軽く触れさせ、それを黒い空に向けた。
「心配ないよ。私達の旋律に当てられて、目覚めぬ霊などあんまり無い!」
カードから緋色の霧が上空に立ち上る中、リリカは自信満々に宣言を終えるや鍵盤に力強く十指を走らせ始めた。
突然青く染まった空の下、船尾にいたルナサと幽々子は軽快にかき鳴らされる音を聴いて、弾かれたように互いに顔を見合わせる。
「これは……?」
「リリカの仕業よ、姉さん」
「メルラン? それにムラサ船長も」
さらに屋形の上からメルランの声が当人と共に降ってきた。
甲板に着地したメルランは、帽子についた青い太陽型のアクセサリを揺らしながらルナサの元に駆け寄ってくる。そしてそのすぐ後ろに『人魂灯』を手にした村紗が続いた。
妹とその連れが傍に近付いてきてようやく、それまで呆然としていたルナサに口を開く意志が生まれる。
「リリカの仕業……いやそっちは分かるけど、空はどうやって?」
「それは妖夢の仕業。あの子ってば『緋想の剣』のカードを使って蒼天の気質を発現させたのよ。
いやー、私もさすがにその発想はなかったわねぇ」
「ああ、そういうこと」
「覚えて……いてくれたのね、妖夢」
それぞれ違う形で納得を示すルナサと幽々子をよそに、村紗はメルランに『人魂灯』を向けながら笑顔で提案を申し出る。
「どうやら貴女の憧憬を完全に近い形で再現できそうですね。演奏の邪魔にならないよう、しばらくの間船を停泊させましょうか?」
「お願いするわ。さぁ行きなさい、私の可愛い小鳥さん達」
嬉しそうに返したメルランはトランペットを吹き鳴らし、村紗の手元から鳥型幽霊を飛び出させる。
それを見たルナサと幽々子はさらに大きく目を見開く。
一方、舳先に向かう幽霊達を満足そうに見送ったメルランは、ルナサの手をとって駆け出した。
「わ!」
「ほら、姉さんもボサッとしてないで行きましょうよ。正体不明の記憶だろうと何だろうと、騒ぐ口実ができたのならそれに乗らなきゃ損だもん!
それともオーディエンスの側にまわりたい?」
「……そんなわけないでしょ。幽々子さん、ムラサ船長。私達は先に行って演奏準備を整えておきますので、どうぞ船上ゲリラライブをご鑑賞下さい」
妹に引きずられている体勢ながらも、ルナサは楽団員ではない二人に口頭で招待状を忘れずに残していった。
手を振ってそれを見送った村紗は、会場責任者としての使命を果たすべく行動を始める。
「正体不明とはいえ記憶を想起して再現する、か。こういうのはさとり嬢の得意技だったわね。
さて、西行寺のお嬢様。観覧席はいかが取り計らいましょう?」
「……そうね。泰西作りの椅子を三つ、お願いできるかしら」
「了解です。ああ、ようやく土産話が一つできそうですわ」
音楽にあてられて気が逸っているのか、村紗は海藻のように揺らめく緑色のオーラを纏うと、椅子を探しに船倉へワープしていった。
船尾に一人残された幽々子は改めて空を仰ぎ見る。実際には青い領域は聖輦船の上を覆う程度の広さしかなかったが、その中に同じ色をした地上を含んでいた。
幽々子はそれを探し当てると愉快そうに口元をほころばせ、一つの姿を想起する。
「長生きはするものねぇ。まさかこんな素敵な雨月を目の当たりにすることができるなんて。
さぁ、生き物だった貴女にとっての最高の思い出を、死に物達の作り上げた見立てをもって追想するとしましょうか。
……×××、たくさんの忘れ形見を残してくれてありがとう」
最後に失われた知人の名を密かに呟くと、幽々子は足取りを弾ませて船首へ向かっていった。
◆
「今日はみんなでお風呂に入りましょうか」
航海を始めてから十七日目のことだった。
賢者の海に入ってからというもの全く状況に変化が見られず、次第に退屈そうな表情を浮かべていくみんなを憂えてか、幽々子がそんな提案をしてきた。
ちょうど一つの船室に集まっていた村紗、妖夢、そしてプリズムリバー姉妹は視線を幽々子に集め、続く言葉を待つ。
「ちょっと前にここの浴室を見てから、いつか言い出そうと思っていたのよ。
船長さん、命蓮寺の方々はいつもあんな広いお風呂を使っているのかしら? うらやましーわー」
「ええ……まぁ」
幽々子の何気ない質問に村紗は言葉を濁して答える。
というのも浴室の規模が大きくなった原因に、あまり知られたくない自分の事情が関わっているためだった。
しかし次の幽々子の言葉で、それが明るみに出てしまうこととなった。
「聖尼公に聞いたのだけど、船長さんは人を乗せた風呂桶をさらに大きな浴槽に浮かべて、打たせ湯を浴びせながら沈めるという遊びが大好きだそうね」
「ひじりぃっ!?」
「あらぁ、恥ずかしがることなんてないわよ。尼公ったら、機会があったら是非にと強く勧めてくれたくらいだもの。
だから私達にもお願いできるかしら?」
「……了解です。乗客の皆様に安らぎをもたらすのも船長の務めですからね」
邪気のない笑顔で語ったであろう白蓮を思い浮かべながら、村紗は諦めたように大きく溜息を吐き出す。
「わお! なんだか面白そうじゃない」
「舟幽霊体験版、というところかしら?」
「なんだ、センチョも意外と遊び心あるんじゃん」
「打たせ湯かぁ……庭仕事や剣の鍛錬の後には最適かもしれないな」
しかし苦い顔をする村紗とは対照的に、二人のやり取りを聞いていた三姉妹と妖夢は期待に満ちた表情を浮かべる。
みんなのその姿に、同じ提案を初めて命蓮寺一門に持ちかけた時の記憶を喚び起こされ、村紗は密かに口元を緩めた。
聖輦船内の大浴場は、現在の乗員六名を一度に入れてなお余りあるほどの広さを備えていた。
その中で最も大きな面積を占めている浴槽は、同時に必要以上の深さも備えている。
今、それを証明する一つの試みが、温水の上に佇む村紗によって行われようとしていた。
「それでは再度、注水しまーす」
「あははは、沈む沈むわ~。こわーい」
「リリカっ、揺らさないでよ」
傍らに浮かぶバスタブの中に入った妖夢とリリカの背に向けて、村紗は湯を汲み入れた柄杓を傾ける。
すると勢いのある如雨露のような温水が肩から腰まで降り注ぎ、二人の筋肉をほぐし血行を改善していく。
同時にそれはバスタブに蓄積していき、やがて重さに耐え切れなくなったためか、ある時を境に浴槽へ沈没していった。
「やー、たーすけてー」
「わわっ、意外と怖い!」
「因果応報! これがぬるま湯にどっぷり浸かるという奢侈に溺れた者の末路ですわ」
悲鳴のような嬌声を上げるリリカ、悲鳴そのものを上げる妖夢に向けて愉快そうに叫びながら、村紗は没してゆく湯船を見送った。
背が低いとはいえ少女達を完全に飲み込んだ浴槽は、大量の泡を沸き立たせた後は完全に沈黙に飲み込まれる。
それをしたり顔で見つめていた村紗だったが、何故か直後に色を失って水面へ手を伸ばそうとする。
しかしその心配も甲斐なく、リリカと妖夢はすぐさま浮上してきた。
「ぷぁっ! あははっ、楽しかったよ」
「うーん、打たせ湯は確かに気持ち良かったけど、沈む感覚が苦手かなぁ」
「妖夢は船酔いする性質だもんねー」
「……うー、まだ言いますか。分かりましたよ、いつか絶対に船の揺れ具合に慣れて、ムラサ船長のこれもすんなり受けられるようになってやるから」
二人とも好意的な感想を言い合っている様子を村紗は目にするも、一向に顔色を晴らすことなく謝罪を口にする。
「あの、大丈夫だったでしょうか? ごめんなさい、さっきは調子に乗ってしまって……」
「んー? 何を謝っているのかわかんないけど、これからちょっとお返しさせてもらえるかな。
センチョ、騙されたと思ってそこに腰掛けてくれない?」
「え? こう、ですか……あ、なんか反動がある」
「そう、これが私達騒霊の使う念動力よ。そしてここからは鍵霊リリカ特有の、打つことに特化した力」
リリカの言葉の直後、空中に腰掛ける体勢を作った村紗の全身をリズミカルに叩く力が加えられる。
特に両肩や腰に重点を置いてくれているようで、先程まで使っていた部分の凝りがほぐされていくのが感じられた。
「わぁ、すごい」
「これぞエアマッサージチェアー、ってスキマさんは言ってたけどね。んじゃこのまま、センチョには浴槽に沈んでもらおっかな」
「え? ちょ、待っ」
念動力にすっかり身を委ねた村紗の隙をついて、リリカはその身体を持ち上げると先程のお返しと言わんばかりに浴槽へ放り込んだ。
ぬえを想起させる笑顔で占められた村紗の視界が一転、水の中の景色へと変化する。
「ぷはぁ!」
「メルラン姉さん、出番だよ~」
「おっけー」
どうにか水面に顔を出した村紗の耳に、姉を呼ぶリリカの声が入ってきた。
その呼びかけに応じ、先に湯の中で待ち構えていた管霊メルランが、自身の吹くことに特化した念動力を水中で発動させる。
結果として細かい泡を含む水流が生まれ、それが手で顔を拭っている村紗の身体に送り届けられた。
「……あら、これまた気持ちいいわ」
「えっと、スキマさんはなんて言ってたかなぁ? そうそう、エアジャクージ……ジャグジー……で良かったっけ?」
首を傾げながらも、メルランは村紗を癒すために念動力を絶え間なく使い続ける。
一方、霊能力が飛び交っている温水の海原を、幽々子が洗い場の椅子に腰掛けながら眺めていた。
しばらく見つめた後、顔の向きはそのままにして背後に立っているルナサに軽い調子で話しかける。
「まぁまぁ、妹さん達は船長さんとすっかり打ち解けたみたいねぇ。ルナサ、貴女もあの中に混ざってきてはどうかしら?」
「はぁ、まぁ、その内に。それにしても、また伸びましたか? 御髪」
妹達のはしゃいでいる姿を遠目に、ルナサは幽々子の髪を丁寧に洗いながら逆に訊き返す。
その問いには幽々子ではなく、浴槽からルナサの後ろに移動していた妖夢が代わりに答えた。
「そうなんですよ。そろそろ切りましょうかって言ってるんですけど、なかなか同意してくれなくて」
苦笑混じりに言うと、妖夢はルナサの背中を泡立てる作業に戻る。
なお、その献身を受けている弦霊ルナサは手を前で動かす一方、擦ることに特化した念動力を使って妖夢の全身をも洗っていた。
「まぁ、私としては洗い甲斐のある髪だけどね……ところで妖夢、痛いところとかくすぐったいところとかはないわよね?」
「はい。力加減は適切で、気持ちいいくらいですよ。ルナサさんこそ大丈夫でしょうか?」
「うん。ごめん、念動力だけで済ませていて。後でちゃんと洗ってあげるから」
ルナサが軽い謝罪とともに返すと、それが聞き捨てならなかったのか、幽々子が振り返って不満も露わに主張する。
「あら、私の楽しみを横取りしないでよルナサ。妖夢を手ずから隅々まで洗うのは私の生きがいなんだから」
「ええ!?」
「ふむ、主従の付き合いに水を差すのは無粋もいいところでしたね。それでは後はお願いします」
それを聞いたルナサは特に執着も見せず、手桶の湯を浴びせるや幽々子からすぐに離れていく。
呆気に取られた妖夢が泡だらけの背中を見送っていると、その隙をついて背後に回った幽々子に羽交い絞めにされてしまった。
「ゆ、幽々子様!? いやそんな、畏れ多い――」
「何を言っているのよ。昔は私が背中を流してあげていたじゃないの」
「それは無礼を知らなかった幼少の頃の話ですよ!」
「あら、私から見れば今の貴女もその頃と大差ないのだけど」
「みょん」
微笑ましいやり取りを耳に流しつつ、ルナサは反対側の洗い場に向かう。そこには浴槽から上がっていた村紗がエアマッサージチェアに腰掛けていた。
一方、念動力でそれを維持しているリリカはメルランの温水ミストを浴びていて、何か悪戯をしでかす心配はない状態にある。
以上の理由からくつろいだ表情を浮かべている村紗に向けて、ルナサは後ろから声をかけた。
「あの、よろしければ洗髪しましょうか?」
「あ、お願いできます? それにしても皆さんの念動力は面白いですね。音楽だけでなく、こんな使い方もできるなんて」
「まぁこの使い方は最近思いついたものですけどね。最初は楽器演奏の時と同じように、自分達で色々と試行錯誤してから幽々子さんや妖夢に体験してもらって、幸い好評をいただくことができました」
「え? ということは貴女達の音楽は、元々は騒音を生み出すだけだった妖異を昇華させてきた成果だというのですか?」
突然首を回そうとした村紗を、しかしルナサはその黒髪の中に両手を入れることで押さえる。
「ええ。私の本来の妖異は鬱の音を発生させることなのでしょうが、ある時それが擦弦楽器の調べに似ていると気付いたのです。
以降、念動力による騒音を上手く組み合わせれば音楽が作れるのではないかと考えるようになりまして」
「そうやって自分の生み出す音に見合った楽器を決めていくうちに、私達は騒霊らしく周りをにぎやかにしようと考えて楽団を結成したんだよ」
「そうそう。家にたくさんある絵の中のハッピーな雰囲気を出せるように、みんなで練習を重ねてきたのよねぇ」
さらにリリカやメルランも話に加わってきて、懐かしそうな口調でルナサの答えを補っていった。
これを聞いた村紗は深いため息をゆっくりと吐き出していく。
「そう……ですか。羨ましいわ、妖異を自由に発揮できて、それでいて人間からすらも賞賛を集められるなんて」
「? そういうムラサ船長も打たせ湯を浴びせながらバスタブを沈めるなんて、随分とバランスの取れていることをやっていると思いましたが」
「そう言っていただけると正直救われるのですが、聖が私に期待していたことを思うと、方向性が違うのではないかと不安で……」
「白蓮さんが期待していたことって?」
「それは……少し長い話になりますよ?」
「だーいじょうぶ。このマッサージコースだってそれなりに長いんだから、その間やることないでしょ? だから聞かせてよ」
リリカが興味を前面に出して迫ってくるのを見て、村紗は苦笑混じりの溜息を吐いた。
さらに他の二人まで注視してきたため、観念して不可視の力に支えられていた上半身を起き上がらせる。
そしてこの大浴場だけでなく、聖輦船全体を示すように両腕を広げてから説明を始めた。
「この聖輦船は元々聖の法力によって形を与えられた、海で亡くなった念縛霊の集合体なのですよ。
後から聞いたところによると、聖は荒れていた頃の私を退治するよう依頼された折、真っ先に水中呼吸と交霊術の魔法を駆使して私の沈没船を探したそうです。
そして既に朽ちていた船と傍に留まっていた幽霊達を見つけ出し、後に私の前に連れてきて、ともに新たなる道――水難を退ける神霊としての道を歩むよう提案してきました」
「神霊、ですか? ……たしかに、生前徳を積んだ人間が死後神霊となる話は聞いたことがありますけど」
「名居守だったっけぇ? 文々。新聞の天人特集号に載ってたわよね。異常気象の後に出た号外だったから結構印象に残っていたけど」
「それを既に妖怪となった者に持ちかけるあたり、発想が斜め上を行ってるねぇ、あの尼さんは」
思わぬ方向に進んだ話を聞いて、三姉妹は揃って目を丸くしながら感想を口にした。
その最後、歯に衣着せぬリリカの物言いに村紗は少し困ったように眉をひそめる。
「……まぁ無理もありませんが、あまり聖を貶める言葉は私の前で口にしないで下さいね。それに言うほど突飛な話でもないのですよ。
純粋な神霊にも荒魂という災厄をもたらす性格がありますが、これは上手く鎮めてやれば災厄を退ける力として利用できることが知られています。
つまり聖は水難を起こす妖異の方向性を変えて、水難を退ける神徳に転化できないかと考えていたのです。
以来、私も贖罪を意識しながらその意向に従い、海を渡ろうとする人々の旅が無事成功するよう努めてきました」
そこで一度話を区切り、村紗は大浴場の壁に描かれていたタイル絵を見つめる。
視界いっぱいに広がるのは、七福神を乗せた縁起の良い宝船の姿。
それを眩しそうに見つめた後、零すように続きを語る。
「残念ながらその道は閉ざされてしまいましたけどね。聖が人間達の手で封印された当時、私は心の底から彼等を呪ってしまいましたから。
結局、毘沙門天や護法童子の分霊との習合を果たした仲間達とは異なり、私は不吉な念縛霊であることから逃れられなかった。
そう、妖怪を辞めるのは無理だということをまざまざと思い知らされたのですわ。
だから、いまだに私は何かを沈める行為に暗い悦びを覚えずにはいられない……そんな私が今後聖の期待に応えることが出来るかどうか、常に悩んでいるのです」
最後に自嘲気味に呟くと、村紗は再び見えない椅子に上半身を沈ませて、物憂げに目を閉じた。
しばらくの沈黙の後、洗髪をやり終えたルナサが念動力を使って村紗の足の裏をこすり始める。
その絶妙に調整された足を洗う力を受けて、村紗はくすぐったさのあまり身をよじらせて笑い出す。
「ぅひゃは!? ちょっ、にゃにをははっ!」
「白蓮さんではない私達に、彼女が貴女の挫折をどう受け止めているかは分かりません。しかし妖怪の貴女が見出した、湯船を沈める行為については答えることができます。
そうよね、二人とも?」
「と、と言うと熱っ!?」
続いてメルランから温水ミストを後頭部に吹きつけられ、髪に纏わりついていた泡がすすぎ落とされる。
「そうそう。『尼公も機会があったら是非にと強く勧めてくれた』って、幽々子さんも言ってたでしょ?
大丈夫よぉ、この程度ならリラックスした気分を損ねてしまうことはないって。体験させてもらった私も保証するわ」
さらにリリカがその顔を息がかかる距離まで近付け、目を細めた笑顔で提案を持ちかけてくる。
「自信がないってんならさぁ、試しに私達と組んでスパ事業でもやってみない?
この凄い施設を使って幅広く宣伝すれば、異常な人間は勿論、普通の人間からだって抵抗なく儲けを獲得できると思うけどねー」
「……は、しかし果たして本当にそうでしょうか? いくら心身を癒す行為とはいえ、これは不吉な妖異――」
「その心配は無用だと思いますよ」
三姉妹からそろって太鼓判を押されてもなお、村紗は拭い去りきれない懸念を口にする。
しかしそれは横から割って入ってきた妖夢の言葉によって遮られた。
「失礼ながら先程からお話を伺っていたのですが、私にはそこの三人とムラサ船長との間にどういう違いがあるのか分かりません。
何しろプリズムリバー楽団の演奏会には普通の人間達も訪れますが、彼らとて躁鬱の音の恐ろしさをわきまえた上で嗜んでいるみたいなのです。
まぁ演奏前の注意喚起や、幻想郷縁起を通した情報提供が功を奏しているからこそなのでしょうが。
だからムラサ船長も同じようにすれば、程度の差はあれ普通に受け入れられると思いますけどね」
「嗜んでいる? 妖異を、人間が?」
「『妖怪なんて嗜好品(おさけ)みたいなもん』というのは異常な人間代表の言葉ですが、人妖入り乱れるようになった昨今では人里でもそのような意識が生まれつつあるようです。
とはいえ涼をとるだけのために幽霊を捕まえるのは、こっちが冷や冷やするのでやめて欲しいところですけど」
「……そう、人間は変わるのね。そういえば遊覧船事業で人間と妖怪を一緒に乗せたこともあったけど、何も諍いが起きなかったことを聖と一緒に驚きましたっけ。
時代も、変わったのかしら。妖怪が跋扈して人間が狂奔する、そんな余裕が一つもない窮屈な世はとうに昔ということですか」
自分でも実感のあった変化のことを思い出してようやく、村紗の懸念は期待に塗り替えられた。
考えてみれば、何も自分の妖異が犯してきたおぞましい過去について逐一説明する必要はない。
例えばメルランは真偽の定かでない口上――数多の生き血をすすってきたトランペット――を、聴衆の緊張をほどくジョークとして使っていると聞いた。
一方自分の場合はそんなことをせずとも、銭湯の空気がその役を担ってくれるはず。
後は湯船が沈む瞬間の自分の愉悦さえ隠し通せれば、普通の人間から不吉に思われることはないのかもしれない。
いつしか村紗の頭の中は次々と浮かんでくる前向きな発想に占められていった。
「さて、船長さんはこの変化した時代の中で、これからどうしていくつもり?
千年ほど昔に聖尼公に言われたとおり、妖異を嗜む者達のいるこの現在でも、あえて自分の妖異を捨てて神威を目指す?」
その最中、それまで状況を見守っていた幽々子が不意に問いかけてくる。
何かを試すような表情を前にして村紗は軽く目を伏せ、しかしすぐに前を見据えて答えた。
「それは……やめた方がいいと地底にいた時に忠告されていますからね。
ええ。よくよく考えてみれば、聖とて妖異をもって人妖の間を駆け抜けてきたのです。
であるならば、私としては同じ道を追いかけていきたい。たとえそれが、聖の期待していたことと方向性を違えるとしても」
「そうよねぇ。神霊よりも幽霊の方が何倍も魅力的だものねぇ。
だって、神霊は色々と自由を奪われるものなのよ。存在を保つためには信仰を集めなきゃいけないし、それだから低俗霊の願望を無視できないし。
実際信仰が篤く力のある神霊ほど、信者の言葉に振り回されてしまう運命にあるのよ。船長さん、貴女の周りでそういうの見たことないかしら?」
「!」
幽々子が何気なく放った言葉は、村紗にとって一番思い出したくない記憶を想起させた。
押し寄せる眼前の人波――背中からの法の光――振り返って見た、苦悶の形相――身を縛る結界――再会してからの、痛切な宣言――「私は妖怪です」
それらは硬く閉じた目蓋の裏を一瞬で駆け抜け、胸の内に様々な感情――哀切、後悔、義憤――を残していった。
しばらくそれに翻弄された後、村紗は気持ちを落ち着けるために不可視の椅子にもたれかかる。気を遣ってくれたのか、叩くリズムが緩やかになっていた。
やがて気質の揺れがそれと同調し始めた頃になって、村紗はゆっくりと答えを返す。
「……ええまぁ、ありましたね。そうでしたか、神霊とはそのような……知らなかったとはいえ、あいつには酷いことをしてしまいました。
色々慌しくて有耶無耶になっていましたが、この旅が終わったらちゃんとケジメをつけないと」
「そう。うまくいくといいわね」
「はい、ありがとうございます」
あえて詳しい事情を追求することなく、ただ背中だけを押してくれた幽々子に村紗は深く感謝した。
それから自分を取り巻いている他の幽霊達にも目を向け、今まで叩きほぐしてくれている力とともに、肩の荷を軽くしてくれたことを感謝する。
「皆さんにもお礼を申し上げますわ。おかげで色々と見えてくるものがありました。
その上で先程の事業のお話について、寺のみんなと前向きに検討させていただき――」
「やったわ妖夢! これで今後もこの施設を使えることになりそうよ」
「えっ?」
突然、それまでの落ち着いた語り口が失われ、悪戯っぽく快哉をあげた幽々子に村紗は困惑する。
一方、それまで尊敬の眼差しを向けていた妖夢は、主のこの態度に呆れ果てた声をあげた。
「……幽々子さま~、色々と台無しです」
「だって、せっかくリフレッシュするための設備を自由に動かせるのなら、広くて明るい場所にまとめて置いて活用したいじゃないの」
「おや、西行寺のお嬢様としましては、我々の廃洋館はお気に召しませんでしたか?」
「うーん、あそこはどうしても拭い去れない文化の違いがあったからねぇ」
「それにしてもポータブルな設備扱いはあんまりですよぉ、ひどーい」
この湧き上がった空気はルナサやメルランをも巻き込み、それまでとは異なる方向に熱を帯びていく。
その熱源から引き離されてしまった村紗が絶句していると、後ろからリリカが肩を直接手で叩いてきて、やや同情めいた顔色を浮かべて語りかけてきた。
「やられたね、センチョ。いや~、相変わらずあの人の腹は読めないな~。
まぁお互いに本業があるからどういう営業体系になるかは分かんないけど、これからよろしく」
「……ふふ。ええ、よろしくお願いします。
なに、貴女達との共同事業を西行寺のお嬢様が積極的に利用したいのであれば、恩返しもしやすくなりそうなので私に異存はありません」
ようやく自分が軽く担がれていた事に気付いた村紗だったが、憮然とすることなく逆に微笑んでみせる。
その顔を保ったまま肩に置かれたリリカの手を、この旅で得た一番の土産物のように丁重に握る。
一方のリリカはこれが契約成立の証だと悟り、繋がれた手を起点に一回転して村紗の前に移動した。
村紗はその着地する頃合を見計らって、不可視の椅子から立ち上がる。
「それでは、貴女達の築いてきた妖力を自由に発揮できる開放的な楽園にならい、私も私なりにそれを形作ろうと思います」
「ちょっと大げさだねぇ。ま、お互い好き勝手やって、やりすぎたら抑え合うくらいの気持ちでいいと思うよ」
そして志を宣言しながら握手した手に力を込めると、リリカは手を緩やかに波打たせる形で応じた。
「え、では貴女はそんなに前から泰西の近くまで行ったことがあるんですか?」
「はい。聖は研究熱心なお方でしたので、なんとかグリモワールの類を手に入れられないかと考え、商船のふりをして亜欧(ユーラシア)を股にかけたことがありました。
霊力も絶え絶えに戻ってきた後、二度とやらないでと散々怒られたものです。あの頃は若かったと反省していますわ」
「はー、無茶苦茶するねぇ。それでどこと交易してきたのよ」
「たしか地中海沿岸、それも暗黒大陸側だったかしら。言葉の通じない波斯人・色目人相手に、空気の読める一輪と雲山が奮闘する姿は実に頼もしかった覚えがあります」
入浴が終わり脱衣所に戻ったところで、村紗は三姉妹に囲まれながら乞われるままに船旅の話を聞かせていた。
幽々子はそれを満足そうに眺めた後、少し気後れを感じながらも輪の中に声を放る。
「メルラン。お楽しみのところ悪いんだけど、お願いできるかしら?」
「ああ、アレですね? りょ~かいです」
一方のメルランは気安く求めに応じると、念動力で引き起こした温風を幽々子に吹きつけた。
乾燥した風が肌に纏わりついている水滴を少しずつ蒸発させる中、幽々子は儚げに目を細め、自らも熱い吐息を洩らす。
「あぁ……感じる、わ。メル、ランの息霊を……」
「ほらほら、次はどこをふーふーしてほしいんですかぁ?」
「……そぅ、ね。どこと、言われても」
「うふふ~。ちゃーんとおねだりできない子には、何もしてあげませんよぉ」
「も……ぅ、意地悪なんだから。じらさないで、ちゃんとあますところなく――」
最終的には悩ましげに身体をしならせ始め、メルランもそれを嬉々として攻め立てるようになっていった。
そんな具合に風向きのおかしくなった出入り口前に村紗は目を向け、素朴な疑問の声を上げる。
「何やってるんですか、あの人達は?」
「あーあ、まーた始まったよ。気にしないで、ああいうおふざけが好きな人達なんだから」
「元々は湯冷めする前に身体を乾かすことが目的のはずだったのだけど……まぁある意味双方とも幸せそうだから、別にいいかと思っています」
「ゆ、幽々子さま、なんというあられもないお姿……」
それに対し、自分達の廃洋館で見慣れているリリカとルナサは目を細めて投げやりに答える。
一方、いまだ慣れることができない妖夢には答えを返す余裕がなかった。
「……よ、応答せよ、フライン……ジャパニーズ。こちら……果てしなく低い地上」
大浴場から自分に割り当てられた部屋に戻ってきた幽々子は、真っ先に机の上の『人魂灯』に火を灯した。
そして明かりが生まれると同時に、角灯から何者かの声が響いてくる。
しかし幽々子はその怪現象に動じることなく、机に肘をついて腰掛けながら返事を送った。
「それ、本当は和蘭(オランダ)の幽霊船のことじゃなかったかしら?」
「ええ。フライング・ダッチマン、時空を越えて過去から未来まで旅を続けるアンデッド達のことよ。よく知っていたわね、幽々子」
「昔、知人が教えてくれたことがあったからね。それよりも何の用なの、紫?」
『人魂灯』から発せられていたのは、月には同行していないはずの紫の声。
今、この中には紫色の妖しい光を放つ眼球が入っていて、それに宿された式を介して遥か遠くにいる紫と交信することが可能となっている。
これこそが『ラプラスの魔』と呼ばれる式神の機能、その一つであった。
「別に。私の耳目をこんな暗い船室に放置しておいて、一体何をやっていたのかなーって」
「ああ、そういうことなら今ちょうどみんなで裸の付き合いを終えてきたところよ。さすがにこれを持って入るのは不自然でしょ?
プライバシーにも関わるし」
「ふぅん、ちゃーんと幽霊どうし、仲良く交流できているようで何よりだわ」
「ええ、本当に。紫、貴女には感謝してもしきれないわぁ。私のわがままをこんなにも聞き入れてくれて、今とっても充実しているの」
「幽々子の頼みだもの、仕方ないわ。それに月面戦争で頑張ってくれた貴女達にご褒美をあげたいと思ってたところですし。
それにしても……本当にこんな何もない月の海でよかったの? 外の世界の海に連れて行ってあげてもよかったのに」
湯上りで火照った身体に扇子で風を送っていると、紫からは気遣わしげな質問を届けられた。
外の世界という言葉に何か思い起こされるものがあったのか、幽々子はそれに自嘲を混ぜて答える。
「仕方がないわ。幽霊移民計画を閻魔様に見咎められてからというもの、私が外の世界に出る時には庁の監視が必ず付くようになってしまったのよ。
そんな息苦しい船旅なんて楽しくもなんともないわ」
「ああ、二十年前くらいにそんなこともあったわねぇ。なるほど、たしかに庁の目は今回の貴女にとってはもっとも避けたい障害か。
でも、この月の海では玉兎の目に気をつけてちょうだい。あれは気質の波を感じ取れるのだから、幽霊の貴女達といえど掻い潜ることはできないのよ」
「そうは言ってもねぇ、一月滞在していた経験から言わせてもらうと、玉兎達は噂好きで大げさでいい加減というのが月の民の認識みたいよ。
だから幽霊船を見つけたとか、空の一部分が突然青くなったとか、報告されたとしても信用されない公算が大きいんじゃないかしら」
忠告を聞かせても暢気な態度を崩さない幽々子に、紫は苦笑を混ぜながら違う話題を切り出す。
「空が青くなったといえば……あの船上ゲリラライブを鑑賞させてもらったけど、見事なものだったわねぇ」
「ええ。おかげさまで生き生きとした幽霊達の姿が見れて大満足だったわ」
「うふふ、死に物である貴女達を指して生き生き、か。ああ、誤解しないで。私は素敵な表現だと思っているのよ。
ただ、貴女がどういうつもりで使っているのかは気になっているんだけど」
すでに故人である幽々子は、自分をも含む死に物に対して『生きている』という表現を多用する――紫は常々それを不思議に思っていた。
そんな思惑に端を発した質問を受けて、幽々子は笑みを収めて扇子と口を同時に閉ざす。
それから無言で角灯に触れ、出現してきた幽霊をてのひらの上に転がしながら、重々しく口を開いた。
「時々ね、夢を見るのよ。周りにいる人達が誰も彼も死にそうな顔をして、恐れおののいている中に一人取り残されている夢。
私は彼等に見覚えはないんだけど、やがて伏して幽霊を吐き出していく姿にどうしようもないほどの罪悪感を覚えることがあってね。
だから私は幽霊を見ると、せめて目の前にいる間は生者に負けず劣らず溌剌としていてほしいって、そう願っているの。
どうせ本当に生きている物のためにしてあげられることなんて、何にもないから」
「……ごめんなさい。嫌なことを思い出させてしまったわね」
「あらぁ、紫が素直に謝るなんて。また嵐がぶり返してくるんじゃないかしら」
「も、もう! 茶化さないでよ、こっちは真面目なんだから……そりゃ、珍しいんでしょうけど」
「ええ、本当に失礼な話よね。だから私もごめんなさい」
目元を緩めた幽々子は手中の幽霊を角灯に押し戻すついでに、それをいとおしげに撫でる。
式神に触覚を伝える機能は備わっていないことを知りつつも、しばらくその仕草を続ける。
一方の紫は、視界を埋め尽くしている幽々子のてのひらの動きを見て、波立った心を徐々に落ち着かせていった。
ほの暖かい沈黙が続いた後、不意に幽々子が机にしなだれかかり、角灯の前で弱々しい呟きを零す。
「ねぇ紫。世の中にはあえて触れない方がいいこともあるものなのかしら? 結局私はあの子達に真実を話すことができなかったわ。
伝えたら何かを決定的に変えてしまうんじゃないかって思うと、足がすくんで……」
「……そうかもね。私も一つ似たような事例を知っているけど、その件に関しては真相を伝えない方がいいと思っているわ」
「そう、紫も何か秘め事を胸に抱えているのね。
まぁ、たとえ全てを語ったとして、果たしてあの子達にどれだけ受け入れられるか疑問だとも思ったけど。
改めてレテ川の持つ、縁を断ち切る程度の能力の強さを思い知らされた気がするわ」
「あれは本来、転生先が決まった幽霊達に飲ませることで、前世の記憶を希釈させるために使われているのだけどね。
あの奔流に飲み込まれた場合の効果は、その者に関する一切の連想・想起を不可能にすること……庁の職員である貴女は例外みたいだけど」
「でも、その私でさえ名前を発することすらできないのよね」
解説と実例を改めて突きつけられ、幽々子は眉をひそめながら押し黙ってしまう。
しばらく両者の間に沈黙が流れた後、紫が少しためらいがちに口を開いた。
「……ねぇ幽々子。思うのだけど、あの時を境に騒霊達は三姉妹の幽霊と融合し、簡単には消滅しない存在に転生を果たした――そう言っていいんじゃないかしら。
だから、前世のことなど断ち切ってしまった方がいいのかもしれないわ」
どこか冷たい響きを伴う紫の言葉を聞いて、幽々子は角灯を撫でる手を止める。
しかし反論を口にしようとしたところ、先手を取った紫の声がどこか熱を帯びて響く。
「それではあの魔法使いが報われないと思うのなら、一週間前のようなことをしてあげる……多分それで正解だと思うの。
貴女の行いに触れて、縁を断ち切られたはずの騒霊達も何か心動かされるものがあったのよね? それなら、決して無駄ではなかったはずよ」
「そう……だといいのだけれどもね」
「ほら、顔を上げて。生き生きとした幽霊の姿を望む貴女自身がそんなふうに沈んでいてどうするのよ」
耳元に届けられた紫の激励に、幽々子は薄く微笑みながら再び角灯をいとおしげに撫で、それから柔らかく嘯く。
「うふふ、なんだか本当に珍しいことが続くわね。私が健気に頑張っている姿を見ると、潰してみたくなるなんて言ってたくせに」
「生憎と今回は頑張っている姿は見ていないもの。頑張った結果なら堪能させてもらいましたけど」
軽口を交わし合う頃には幽々子は暢気な口調を取り戻し、紫の声も涼しいものになっていた。
そして幽々子は立ち上がると扇子を広げ、『人魂灯』の前に近づける。
「さて、湯冷めしちゃうと今の気分が台無しだから私はもう寝るわ」
「まぁ随分と早寝ですこと」
「瑞々しくてぴちぴちな幽霊を目指すためには、健康的な生活習慣を心がけることが大切なのよ。
亡霊の癖に早寝なの、って言われたこともあったけどね」
「そう。ならそんな健気な友人がぐっすり眠れるよう、嫌な光景は見ないように夢の中をいじっておきましょう」
「あら素敵。そのまま永眠できそうね」
肩をすくめながら震わせた後、幽々子は扇子を一振りして灯火を吹き消す。
同時に紫の声も途絶え、船室には暗闇と静寂と暖かい空気が残された。
ところがまもなく、そこに扉を遠慮がちに叩く音が割って入ってくる。
「幽々子様、失礼してよろしいでしょうか?」
「妖夢? ちょっと待ってなさい。今開けるわ……」
従者の突然の訪問に戸惑いながらも幽々子は扉へ向かい、ゆっくりと開いてやった。
「夜分遅くに恐縮ですが、お水をお持ちしました……ってあれ? お休みのところでしたか。てっきりまだ起きているものかと」
部屋の外に立っていた妖夢は真っ暗な室内を見て、意表を突かれたような表情を浮かべた。
「あら、貴女の言うとおりまだ起きていたわよ。これから寝ようとは思っていたけど」
「そうでしたか。いやその、先程は長湯だったものですから、喉が渇いていないかと思いまして。
まぁ自分がそうだったから、幽々子様も入り用ではないかと考えたんですけどね」
「へぇ、気が利くじゃない。いただくわ」
「はぁ、それでは」
妖夢が部屋へ足を踏み入れるのと同時に、幽々子は『人魂灯』に明かりとしてのみの役割を与える。
そして机に戻り、妖夢から差し出された水入りの湯飲みを一口飲みこむ。
清涼感をひとしきり味わった後、対面に座るよう促しておいた妖夢にも水を注いでやった。
恐縮しながらそれを受け取る妖夢に、ついでに問いかけをも渡す。
「どう? 憧れていた船旅、楽しんでいるかしら?」
「そうですね……気心の知れた人達と一緒だからか、最初はあまり面白みがないと思っていた月の海も今は違って見えます。
あとはムラサ船長の聖輦船が、笹舟から想像していたもの以上に立派なのが良かったですね」
「そう、良かった。船酔いで死にそうな顔をしていた時は、呆れもしたけどちょっと可哀想だとも思ったから」
「ゴホッ! そ、それはもういいですから!」
とうとう主人にまでその話題で弄られてしまった妖夢は、むせながら抗弁する。
それでも口元の緩みを直そうとしない幽々子を見て、何とか話題を逸らそうと必死で頭を巡らせる。
「で、でも幽々子様だって、先程から随分と上機嫌でしたね。どうも気質の波が浮ついているようで」
「気質?」
その苦し紛れの言葉はしかし、どういうわけか幽々子の意表を突くことに成功した。
「……もしかして妖夢、会得したのかしら? 『楼観から魂(たま)をも断つ心の眼』を」
「はい。永夜異変の折、幽々子様にさんざん『その大きな半幽霊は何の為についているの?』と言われましたからね。
おかげでようやく、お師匠様が昔授けて下さった教えを詳しく吟味することができました」
その反応を見て妖夢はしたり顔になり、続いて一つ咳払いしてから厳めしそうな顔つきになって言葉を続けた。
「『妖夢、我々半人半霊は余人にはない感覚を備えている。それこそが自らの半幽霊を通じて、心ある者の気質を捉える程度の能力。
その感覚を研ぎ澄ませば、たとえ耳目を塞がれていようとも、相手がどこにいてどのような心持ちでいるかを判断できるのだ』
つまり、自分と似た気質を感じ取って集まろうとする幽霊と同じことをすれば、目を閉じながらでも相手を斬れたんですね」
どこか得意げに語る妖夢を微笑ましく思いながら、幽々子はふと、いつもは真っ直ぐのはずのその髪が少し波打っていることに気付く。
何となく、身を乗り出してそこへ指を絡めてみた。
「髪型、変えたのかしら? 伸びてもいるみたいだし……生身の身体を持っているものはこちらが驚くほど早く移ろうものなのね」
「あ、いやまぁ、湯上がり後に整え忘れただけですが。見苦しいようでしたらすぐに直します。
ただその……」
「何? 別に見苦しいとは思っていないけど」
「で、ですよね。それにほら、何となくこう、幽々子様っぽくないですか?」
「私の? まぁ言われてみればそう見えないこともないわね。
……ひょっとして、真似したの?」
「あ、あはは……恐れながら。憧れでもありましたから」
少しはにかみながらも、妖夢は真っ直ぐ幽々子を見据えて答える。
それを受けた幽々子は弾かれたように妖夢の髪から手を離し、後ろに転倒しかねない勢いで椅子に座り込んだ。
そのまま顔を俯けたかと思うと、急に湯飲みを乱暴に煽るなど、せわしない挙動を見せるようになる。
妖夢はそんな突然の変化を、相手の気質を探ることも忘れて呆然と見つめた。
「ゆ、幽々子様?」
「……成仏を忘れた亡霊は新たな生を産まない。されど育むことなら或いは、ということかしら」
「え? 今なんと――」
「お風呂で言ったことは撤回してあげる、ってことよ。実際、身体つきも昔に比べて変わっていたからね」
「ちょっ!?」
しかし常にない態度を示したのは束の間のことで、幽々子はすぐにまた妖夢をからかうくらいの余裕を回復させた。
「はぁ……もういいです。心配した私が馬鹿でした。幽々子様はやっぱり幽々子様ですね」
少し気分を害した妖夢は、乱暴に立ち上がると水差しと湯飲み二つを回収し、部屋から出て行こうとする。
その背に向けて、幽々子は穏やかな声音で告げる。
「ありがとう、妖夢」
首だけを振り向かせた妖夢は、感慨深そうに微笑む幽々子を視界に映したことで、吊り上げていた眉を軽く和らげる。
しかしすぐにそっぽを向き、「べ、別にお水くらい大した手間ではありませんよ」と言い放ってから部屋を去っていった。
後に残された幽々子は改めて灯を落とし、充足した気分を抱えたまま床に就いた。
「二時方向から高波襲来! センチョ、面舵いっぱーい!」
「アイ・サァッ! 聖輦船が衝角の斬れ味、とくと思い知るがいいわ!」
妖夢は甲板から伝わってきた荒波による衝撃を受けて、そう久しくない既視感を抱かされていた。
何とか転倒はすまいと必死で船縁を掴んではいるものの、胸元で暴れている不快感のせいで徐々に力が抜けていく。
そこに追い討ちを加えるように、テンションの上がりきった叫び声と高らかな喇叭(ラッパ)の咆哮が耳を突き刺していた。
「ヤー、数百年ぶりの海はいいわねぇ。縛られてうんざりしていた時代もあったけど、自由に航行できる今となっては最高にご機嫌、ってやつですわ!」
「ほんとほんと! 嵐の潮騒、砕け散る水飛沫の余韻、船体が波を澪に切り分ける音色……あぁ、幻想郷じゃ聴けない音ネタがじゃんじゃん溜まっていくわ~」
「さぁこの調子でどんどん行きましょう! 舵をぐるぐる波を乗り越え、ゆらゆら揺れる船をいなして水平線の向こうへゴゥ!」
妖夢がそちらに恨めしそうな目を向けると、まず映ってきたのは馴染み深い騒霊姉妹――トランペットを空に突き出したメルラン、両手を腰の後ろで組んで耳を澄ますリリカ――の姿。
さらにその傍らでは、まだ知り合って間もない舟幽霊・村紗が狂ったように快哉を上げていた。
その手元、船首甲板から生えている木製の操舵輪が右往左往するたび、妖夢の頭と視界は激しくかき混ぜられていく。
「メル……ランさん、やりすぎ」
しかし妖夢は船を動かしている村紗ではなく、傍で演奏しているだけのメルランの方に非難の言葉を向ける。
というのも、初対面の時には丁寧で礼儀正しかった村紗をこうまで豹変させたのは、メルランの奏でる躁の音だということを知っていたからだった。
この喇叭の音のせいで気質が荒々しく波立つようになったがため、聖輦船は飛行機能を備えているにも関わらず、時化の海を乗り越えるという村紗にとってのスペクタクルに巻き込まれている。
「うぅ、気持ち悪……」
とうとう立っていられなくなったのか、妖夢は口を押さえながらその場に座り込もうとする。
そしてまさに膝が折れ曲がった瞬間、その身体を支える救いの手が現れる。
驚いて後ろを振り向くと、間近に騒霊姉妹の長女・ルナサの憂い顔があった。
「大丈夫?」
「す、すみません」
「ちょっと待ってて。今からメルランをたしなめてきて、ムラサ船長に船を離水させるよう説得してくるから」
ふらついていた妖夢の足場を確保するや、ルナサは真剣な顔つきでヴァイオリン片手に三人の方へ歩いていく。
しばらくその後ろ姿を見送っていた妖夢だが、背後から聴き慣れた溜息がしてきたために慌てて振り向く。
するとそこには仕えるべき主・幽々子が呆れた様子で浮かんでいた。
「だらしないわねぇ、船に酔うだなんて。永遠亭の催眠廊下の時もこんなザマだったじゃないの」
酷な言葉を投げかけてきた幽々子を前にして、面目ない気持ちを示すかのように妖夢は俯く。
それでも自分だけに降りかかっている不公平に対して、つい愚痴を零してしまった。
「うー、なんで皆さんそんな平気なんですか? 船に乗るのが初めてなのはムラサ船長以外は同じなのに」
「だって貴女以外は生身の身体を持っていないもの」
「あぅ……」
しかし無情にもそれをあっさりと切り捨てられてしまい、妖夢はぐうの音も出なくなる。
そんなふうに気落ちしていた妖夢の耳に、ルナサの擦弦の音色が染み込んできた。
しばらく聴き入っていると、やがて靴底に浮遊感を覚え、船の揺れも消えていることに気付く。
ようやく不快感の治まった胸を撫でおろしていると、演奏を遮られたメルランの不満そうな声が聞こえてきた。
「ちょっとー、何するのよルナサ姉さん。せっかく盛り上がっていたのに台無しじゃない」
「落ち着いてバランスを考えなさい。貴女の演奏は確かにムラサ船長をこの上なくハッピーにしているけど、その陰で妖夢が犠牲になっているわ。
それは貴女も望むところではないでしょう?」
「むー、そうだけどー」
「……いえ、いいんです。申し訳ありません、少々調子に乗り過ぎました。やはり私は惨憺たる水難を招く舟幽霊、一つの船を預かる資格などなかったのです。
そうです、魂魄さんが船酔いするのも穏やかだったはずの海が荒れだしたのも、すべては私のせいなのです」
「あちゃー、ルナサ姉さんもやりすぎてるよ。っていうか妖夢もさ、船が揺れて気持ち悪いんなら飛べばいいじゃん」
「……あ」
「う……」
しばらく姉妹どうしの言い争いが続いた末に、それに終止符を打ったリリカの言葉は、離れていた妖夢にもしっかりと突き刺さる。
一方、そんな具合に寸劇を繰り広げる幽霊達を眺めていた幽々子は、軽く口元を緩めてから視線を頭上の一点、青い光を放っている惑星に移した。
「晴れの海を越え、雨の海も越え……もうすぐ嵐の大洋を越えられるかしら? 紫、おかげさまで月旅行は順調よ」
~ ♪ 幽霊客船の地球を越えた旅 ~
『満月の夜に湖面の水月を通ってより数えて十日目。聖輦船船長、村紗水蜜が記す。
先日遭遇した嵐の大洋とやらを越えて、西行寺幽々子言うところの賢者の海に入ってからというもの、潮流は無きに等しいほど穏やかになった。
おかげで迷惑をかけてしまった魂魄妖夢も、どうにか落ち着いた表情を取り戻してくれている。
その彼女に謹んでお詫び申し上げたところ、何かを諦めたような笑顔で「振り回されるのは慣れていますから」と返された。
どうやら普段から苦労している様子が窺える。せめて今後は迷惑をかけないようにしたい。
他には乗客の間で大きなトラブルはなく、現状は順風満帆といえる――』
薄暗い船長室の中、村紗は十日目の内容を記した日記の一ページにざっと目を通し、それから一枚ずつ紙面をめくり返していった。
そして日々の内容を順に想起していく途中、溜息を一つ吐き出す。
「……うーん、せっかく聖達が快く送り出してくれたのに、何一つ面白そうなエピソードがないわね。出てくるのは海を前にして浮かれ騒いでいた私のことばかりじゃないの。
これじゃただの自慢話でしかないわ。みんなは船旅の土産話を期待しているというのに……」
さらに多少の焦りが混じった呟きを洩らし、村紗はこの船旅が始まった経緯を思い返した。
「一ヶ月の間、そちらの聖輦船をお借りしたいのですが」
「……は? 一月?」
船旅の発起人である幽々子が八雲紫を伴って命蓮寺を訪れたのは、満月の一週間ほど前、上つ弓張月の晩のことだった。
しかし客間に命蓮寺一門を集めて依頼内容を告げてきた際に、今までにないほどの期間を提示されたため、村紗は訊き返して以降絶句してしまう。
その態度を解きほぐそうとしてか、幽々子は柔らかく微笑みながら言葉を続ける。
「ええ。実はこの度、幽霊どうし親交を深めようという目的で、私達冥界の住人とプリズムリバー楽団とで月の海を旅行しようと思いまして」
「なんですって! 月の……海?」
「その船旅に幻想郷でも実績豊富である聖輦船を利用させていただければありがたいと考え、こうして依頼に参った次第です。
聞けばそちらの船長さんは舟幽霊、この地には存在しない海に馴染みの深い方とのこと。どうか不慣れな私達の水先案内を引き受けてはいただけないでしょうか?」
海。
その単語は何よりも強い誘惑となって村紗の心を捕えた。
目を閉じれば今でも思い返せる、潮騒、海風、たゆたう碧と白――幻想郷にそれらは存在しないと聞かされて以来、表面上は諦めていたつもりだった。
しかし今、心の奥底では再び味わうことを望んでいたものが手の届くところに近付いている、そう考えると止まったはずの心臓が弾む気さえしてくる。
「ところで先程一ヶ月の間と仰っていたが、もう少し短縮することはできないだろうか?
生憎とこの命蓮寺と聖輦船とは切っても切れない関係にあるのでね。
日帰りで魔法使いを魔界に連れて行くのならともかく、長期間宿もない上に寺としての機能が失われたままというのは困る」
そんな具合に人知れず浮き足立っていると、船の責任者として折り合いをつけなければならないことをナズーリンが先に尋ねていた。
手抜かりを補われた村紗が申し訳なさそうな顔つきになる一方、質問を受けた幽々子も同じような表情で答えた。
「それが……地上から月への道を通すためには満月がどうしても必要になるのです。往路と復路の際に。
だから月の満ち欠けの周期である、およそ三十日という期間はどうしても変えられません」
「あー? なにそれ、自分達はムラサと一緒に月旅行を楽しんでいる間、私達には野っ原で寝てろって言うんだ。それはちょっと酷いんじゃないの?」
期間を動かせないことを聞いて、ぬえから不満が上がった。声は出さなかったが、一輪や星、白蓮も困惑した表情を浮かべている。
それを見て村紗は自分の期待を抑えこむ。みんなの住居を取り上げてまで自分の望みを優先させるのは、いくらなんでも忍びないと思った。
ついには村紗も含む命蓮寺一門に否定的な空気が蔓延し始めた頃になって、それまで黙っていた紫が口を開く。
「ご心配なく。皆様だけにご不便を強いたまま捨て置くなどと、そんな無責任なことを申すつもりはございません。
そこで私から、船をお借りする間の仮住まいを提供させていただこうと思いますの」
意外な方面からの申し出を受けて、村紗達は互いに顔を見合わせる。一通り視線が交錯し合った後、代表して星が詳しい説明を求める。
「仮住まい、ですか。しかし私どもは仏門。単に居住スペースだけでなく、仏事を行うための空間も必要とするのですが」
「その点も抜かりはありませんわ。何しろこれからご紹介しますのは、禅寺に棲む妖蝶の住職ですもの。
さて、毘沙門天代行殿。ここに張られている結界を一時的に弱めていただけないでしょうか?」
「はぁ……聖?」
「彼女の言うとおりにしてあげなさい」
紫の頼みを聞いた星はまず白蓮に伺いを立て、それから宝塔を操作して寺を覆っていた不可視の力を弱める。
それを確認してから紫は自分の隣にスキマを開き、一つの人影を出現させる。
丁寧に膝をついてお辞儀しながら現われたその姿は、墨染めの装束と編み笠を纏った雲水のように見えた。
ただ、笠を突き抜けて伸びている一対の触角が、この僧が紛れもなく妖怪であることを証明していた。
村紗達の視線が集まる中、妖蝶と思しき僧は笠を脱いで微笑みながら挨拶する。
「お初にお目にかかります。私めはこちらの賢者殿に多大なご恩をいただいている禅寺の住職でございます。
この度はかの高僧・命蓮上人にゆかりのある寺院の方々をお招きできるとあって、喜び勇んで馳せ参じた次第です」
「せっかちねぇ、まだ泊まると決めてくれたわけではないわよ。そのつもりで寺を紹介なさいな」
「は、これは失礼を。それでは皆様、しばしお目を汚す無礼をお許し下さい」
住職は言葉を終えるや懐から鈴を取り出し、両腕を左右に開くと同時に軽く鳴らす。
すると客間の中が鱗粉で煙り、そして屋内だったはずの光景が見知らぬ寺を映した風景に変化した。
自分達がいつの間にか別の場所に移動したかのような現象に、一輪が上擦った声をあげる。
「何の真似……『妖術による幻』ですって!? そうなの、雲山?」
「ええ、そちらの入道殿は鋭い幻視力をお持ちのようですね。
ご心配なく、この幻覚は皆様にご覧いただきたい私の記憶であって、害はありません。これは私の、人に白昼夢を見せる程度のしがない能力でございます。
それではこれより私どもの住まう禅寺について、一つ一つ順を追って説明させていただきますね」
以降は住職が鈴を鳴らす度に、村紗達の見ている光景が次々と切り替わっていく。
映像は静止しているものだけでなく、視点が縦横無尽に動くもの、そこに映っている人物が動いているものなども含まれていた。
「ふむ、全体を通して充分な広さを備えているようですね。必要な設備も整っているようですし、足りない物はこちらで補えば済むでしょうね」
「はい。建物の規模に対して我々妖蝶の数はそれほどでもないのです。ゆえに皆様にも施設を気兼ねなく利用していただけると考えております」
「あっ! 見てよムラサ、伊吹のやつがいるよ」
「本当だわ。ちょっと前に地上に出たとかいう噂は真実だったのか。
それにしても……禅に通じる鬼は少なくないって聞いたことがあるけど、あの酔っ払いもそうだったとはね」
「たしかに、僧侶相手に一応ちゃんとした禅問答やっているみたい。あら、あそこで座禅を組んでいるのは……九尾の狐?」
「ええ。精神修行に励みたい妖怪の方にも、このように気の向くままに訪れていただいております」
「ところでこのお寺はどこにあるのでしょう? 少なくとも人里からは遠いように思われるのだけど」
「仰る通り、この場所は余人の訪れにくい山奥にあります。ですがご心配なく。
賢者殿のご好意により、皆様に泊まっていただく宿坊の入り口を人里近くに繋げていただけるそうです。
あとは私めの能力で命蓮寺の幻像をそこに作れば、今までと何も変わりはなくなることでしょう」
「まぁ、そこまでしていただけるの?」
「ええ。私どもの寺を第二の命蓮寺のごとくお使いいただけるよう、便宜は可能な限り図るつもりです」
感想と質問、それに対する回答とが行き交う間に、先程まで命蓮寺一門に漂っていた否定的な空気は次第に薄まっていった。
それを感じ取った村紗は再び胸に期待を抱く。しかし寺の業務が関わっている以上、決定権が白蓮にあることも充分に理解していた。
口を出せないもどかしさに村紗が懊悩しているのをよそに、室内に蔓延していた鱗粉が消え去っていく。
そして元の光景を取り戻したのを見計らって、白蓮が紫に視線を移した。
「なるほど、お話は諒解しました。これならムラサが大口の仕事を果たしつつ、我々もどうにか通常の業務を行える……実に見事かつ周到な差配ですね」
「そう言っていただけると恐縮ですわ」
「ただ、一つ確認したいのですが……この旅に賢者殿は同行なさらないのでしょうか? 先程の西行寺さんの話の中に貴女の名前がなかったようですけど」
「ええ、私は参りません。というのも、実はこの友人に返さなければならない借りを作っていましたので。
だから私は今回、彼女の希望に沿うように力を惜しみなく注ぐだけに留まったのですわ」
「そうでしたか。いえ、先程から伺っていると御身だけが随分と労苦を背負っているように思われましたので。ですがお二方の間ですでに話はついているのですね。
いけませんね、不平等の芽を見つけるとどうしても気になってしまって、いらぬ口を挟んでしまいました。申し訳ありません」
少しばつの悪そうな顔をして謝罪する白蓮を見て、紫も苦笑を浮かべながら内心をわずかに零す。
「まぁそれでも、土産話くらいは望んでもバチは当たらないと思っていますけど。だから旅が終わった暁には、彼女達から月の海の様々な姿を伝えてもらおうかしら。
笑顔と、苦笑いと、お酒とお肴でも交えながら」
「まぁ、それは素敵ですわね。では我々もムラサの耳目を借りて、想像力をかきたてながらの月旅行を楽しませてもらいましょうか」
「あらぁ、それは命蓮寺の返答と受け取っていいのでしょうか?」
割って入ってきた幽々子の確認に、白蓮は視線で待つように訴えてから門徒達の方を振り返った。
「私は構いません。住居の問題さえ解消されるのなら、水蜜には海に行ってもらいたいと考えていましたので」
「私からも特には。ムラサは寺の業務だけでなく、我々にはできない仕事まで果たしてくれていますからねぇ。
ですから、実益と趣味を満たせるこの機会を充分に活用してもらって構わないと思いますよ」
「それに今回の依頼を通して妖怪の賢者と冥界の管理者、双方との縁を築いておくのも後々悪くないだろうしね」
「ちょっと、みんなムラサに甘すぎない?
……まぁ、そりゃあれだけ私達やこいつらの言動に一喜一憂百面相されちゃあ、どれだけ海に憧れてたんだよって呆れ半分諦め半分にもなるけどさぁ。
あーあ、仕方ないから私も許してあげるよ。その代わり、お土産忘れたら酷いんだから!」
親愛信頼打算妥協――込められた思いは様々であれ反対意見が全くなかったのを確認すると、白蓮は微笑みながら幽々子に頷いてみせた。
「みんな……」
自分以外の面々が口々に賛意を唱えてくれるのを聞き、村紗は嬉しく思うと同時に恐縮もしていた。
その余計な感情を拭い去ってやるように、白蓮が穏やかな口調で言葉を贈る。
「後ろめたさを抱く必要はありません。これは普段と規模が異なるだけで、貴女に依頼された仕事なのですからね。
同時に、いつも寺で勤めに励んでいる貴女の無聊を慰める好機。せっかくだから貴女も幽霊どうし、仲良く海で羽を伸ばしてらっしゃいな」
想起から戻ってきた村紗は、最後に受け取った白蓮の言葉に意識を向ける。
「幽霊どうしで仲良く、か。乗客と交流してみて、彼らのことに触れられればもう少し興味深い話ができるかしら? でも……」
騒霊三姉妹と冥界主従との間には長い付き合いがあるということを聞いている。実際、知り合い同士の気安い雰囲気が漂っているのも確認している。
その中に、仕事上の必要性がないと積極的に対話を持ちかけられない自分が溶け込んでいけるかどうか、村紗には自信がなかった。
こういう時、初対面でもフランクな態度で話しかけられる一輪が羨ましい――と、そう思ったところで村紗は現状を顧みる。
今に至るまで最も長く時間を共にしてきた一輪と雲山。地底で出会って以来縁の続いているぬえ。
再会してから惜しみなく尽力してくれた星とナズーリン。そして千年近くの時を経てようやく救い出せた白蓮。
その誰もが今、この船に乗っていない。自分一人だけが海に漂っている。
「……いけないわね。風にでも当たってこようかしら」
白蓮達の温度を思い返していたせいで軽くホームシックになった気分を振り払うため、村紗は部屋を出て甲板へ向かった。
聖輦船は規模の大きな屋形船のような体を成している。
その屋形から外に出てきた村紗の目に黒一色の月の空が飛び込んできた。その中では地上の夜空同様、数多の星がきらめいている。
小さな光点である恒星、それらよりもまばゆく光る太陽、そして青い輝きを放つ大きな惑星――地上。
そこでは星を頼りに船を導いた経験のある村紗だったが、まったく見覚えのない月の空には戸惑いを抱かされるばかりだった。
「――さむ」
あてもなく船の横腹あたりを歩いていると、突如、眼前に向けて一陣の強風が吹きぬける。
望んでいた風はしかし、少々度が過ぎたためか身震いを誘われ、村紗は両手で自らの身体を抱きしめる。
そうして縮こまるようにしていると、ますます孤独さを煽られているように感じた。
「……馬鹿みたい。頭を冷やしにきたはずなのに、身体だけが冷やされるなんて。
このまま外にいても気が晴れないなら、もう戻ろうかし……ら?」
と、踵を返したところで、村紗は屋形の上の方で物音がしているのを聴きつける。
確認のため飛翔すると、傾斜の緩やかな屋根の上にしゃがみ込んでいるメルランの姿を見つけた。
どうやら足元にある角灯をいじっているようで、そのまま見つめていると淡い光を放つ塊がそこから数体出てくる。
「幽霊? あ、形が変わってく……」
人魂のような形で現れた幽霊達は、出てきた順に少しずつ姿を変えていき、やがて一対の翼を持つ鳥になった。
赤、黄、緑、紫など、多彩な光を放ちながら宙を漂っていた鳥型幽霊は、メルランがトランペットに口をつけるや力強く羽ばたき始める。
そして黒い空へ向けて編隊をなして飛んでいった。
「!」
そんな幽霊達の飛行を飾り立てるのは、トランペットから響く歯切れの良い音楽。
目を覚まさせるかのような力強い旋律は、同時に村紗の抱いていた憂鬱な空気を吹き流していく。
次第に輝きを取り戻していくその視界の中で、幽霊達は演奏に合わせて速さや高さを目まぐるしく変化させる。
そしてある瞬間、虹色の光跡を曳きながら急降下し――村紗が気付いたときには羽ばたきまわる鳥にすっかり囲まれていた。
「うわわ!」
「あははっ、大成功ね~」
纏わりついてくる鳥に泡を食っていると、メルランの悪戯っぽい笑い声が届けられてきた。
その後すぐにメルランがトランペットを一吹きして、村紗の周りから鳥を追いやる。
そしてすべての鳥を角灯に戻すと、いまだ目を丸くしたままの村紗の前に歩み寄ってきた。
「ごめんなさいね、驚かせちゃって。後ろで何やら浮き浮きしていたみたいだから、ちょ~っとからかってみたくなっちゃった」
「ああ、いえ、気にしていませんよ。この程度、ぬえの悪戯に比べればかなりマシな部類ですから」
無邪気なメルランの笑顔を前にして、村紗も陰を含まない笑みを返しながら屋根の上に足をつける。
そうして向かい合う形になるや、メルランが微量の苦味を顔に混ぜて深々と腰を折り曲げてきた。
「それと先日のことも謝らないと。何しろ船長さんったら、今まで墓場のソロライブで見てきたどんな自縛霊よりもノリノリだったんだもん。
私も釣られてついつい本気出しちゃった」
「も、もういいですから顔を上げて……私、そんなに浮かれてましたか?」
「そりゃもう、このまま満足して成仏するんじゃないかって心配になるくらいだったわぁ」
「ふふ、それはありませんよ。まだまだ顕界に未練たらたらですわ」
一方の村紗はそんなメルランに向けて軽い調子で本音を伝え、笑顔の質を元に戻してやった。
場の空気が落ち着いたと見るや、村紗は交流のきっかけとなりうる今の好機を逃すまいとして会話を繋ぐ。
「ところで、こんなところで何をやっていたんですか? やはりトランペットの練習?」
「ううん。実はね、船に乗る機会があったらああいうことを一度やってみたいなぁって、昔から思っていたのよ。
本物の鳥がいればベストだったんだけど、ここには生き物が全然いないみたいだから鳥型幽霊で代用することにしたわ。幽々子さんから『人魂灯』を借りてね」
「まぁ、たしかに見事な光景でしたね。思わず見とれてしまいましたよ」
「でしょ? まぁこれはとある演奏会の真似なんだけどね。
青空を泳ぐウミネコ達の下、お日様に照らされる長い髪をなびかせて、甲板でヴァイオリンを演奏する女の子――あのシーンには本当に感動させられたわぁ」
「それは素敵ですね。そんな光景を見ることができたなんて、羨ましい限りですわ」
夢見る乙女のような表情を浮かべるメルランに、村紗も顔をほころばせながら感想を伝える。
しかしそれを聞いたメルランの笑顔に、またも微量の異物が混ざった。
村紗が不思議そうな顔になって見つめる中、メルランは肩まで垂れている右前髪を人差し指で巻き取りながら口を開く。
「えっと……そこがちょ~っとはっきりしないのよぉ。何となくそういう記憶があるような、でも元々幻想郷の廃洋館で育った私が船上の光景を見たことあるわけないしー。
ただ、家にそのシーンを描いた絵が飾られていたから、それと別の演奏会の記憶がごちゃ混ぜになってるのかな~って感じ?
止まっている船上の絵と、動いている別の場所でのライブの記憶とが、こう、ぐるぐる溶けあっているような……」
「あら、生前の記憶ではないのですか? その頃に船に乗る機会があったとしたら、そういう光景を見ていたとしてもおかしくはないと思いますけど」
「あらぁ、私は騒霊よぉ。大魔法によって生み出された存在なんだから、生前の記憶なんてものは存在しないわ」
「え、そうなのですか!?」
それを聞いて村紗は目の前の少女、ひいては騒霊そのものについて疑問を抱く。
たしかに今まで舟幽霊として歩んできた中で、騒霊に触れるのはこれが初めてだった。
最も長い時間を過ごした地底では、生前の恨みに捕らわれ続けている怨霊や亡霊の姿を見たことがあったので、その延長線上にあるものと考えていた。
そんなふうに考え込む様子を見せる村紗に、メルランは両てのひらを振って気を逸らそうとする。
「まぁ、あまり深く考えるものじゃないと思うけどね。今大事なのはずっと憧れていたことが叶えられてハッピーだってこと。
だから船長さんと幽々子さんには本当に感謝しているわぁ。こうして素敵な船に乗って、大海原に繰り出させてもらったんだもん」
「あ、ありがとうございます。そう言っていただければ船長冥利に尽きますわ」
そして満面の笑顔を浮かべながら村紗の手に両手をからめ、上下に大きく波打たせた。
突然の行動に気圧されはしたものの、村紗も帽子を取って深く一礼し、心からの感謝を伝えた。
村紗とメルランが会話を弾ませていたのと同じ頃、屋外に出ていた幽々子は緋毛氈片手に甲板上を漂っていた。
どこか腰を落ち着けられる場所を探していると、船尾の方から聴き覚えのある音が響き渡ってくる。
それをたどっていったところ、ルナサが背中を向けて一心不乱にヴァイオリンと格闘している姿を見つけた。
とはいえ気ままに弓を往来させたり、弦を指で適当に爪弾いたりと、どちらかというと色々な音を試しているかのような動きだった。
幽々子はそのリズミカルに踊る背中に向けて、声を弾ませながら呼びかける。
「精が出るわね。こんな時にも練習かしら?」
「あ、幽々子さん。ええ、初めて海に繰り出した記念に一つ作曲でもしようかと思って。
まだ他所様に聴かせるほどのものは出来上がっていませんが」
振り返ったルナサは少し頬を赤らめながら返答する。
その反応を引き起こした理由が、夢中になっている様を見られたためか、中途半端な曲を聴かれてしまったためかは幽々子にも分からなかった。
しかし弄れば面白そうなその態度には深入りすることなく、幽々子は言葉を選んで続ける。
「それにしても楽しそうだったわねぇ。必要ないはずの足踏みまでしちゃって。
最初貴女達にこの船旅を持ちかけた時、やけに積極的に返事をしてきたと思っていたけど、何か思い入れでもあったのかしら?」
「ええまぁ……ご存知かと思いますが、私達の洋館にはいくつか海や船の絵が飾られていまして。
そしてそれを眺めている時、ある種の居心地の良さを感じるのです。ただ、船旅を経験するのはこれが初めてだから、少し釈然としないのですけど……」
「そう。幽霊の記憶については是非曲直庁のお歴々じゃないと分からない点が多いし、ましてや貴女は騒霊だものね。
だから貴女の違和感を解消してあげることはできそうにないわ」
「そうですか。いえまぁ、あまり気にすることではないと思っていますけどね。
今回貴女の提案を受けたのは、憧れていた船旅に出れば今までにない曲が作れるかもしれない、そんな打算が働いたからですよ」
力ない答えをルナサに慰められ、幽々子は軽く口の端を上げて感謝の意を示した。
しかし直後に笑みを収め、ルナサが戸惑いを浮かべる頃になってから、徐々に声を搾り出すように呟く。
「地獄耳の庁といえど、さすがに月での秘め事までは把握できないわよね……
ねぇ、少し昔語りに付き合ってくれないかしら?」
「? 構いませんが、珍しいですね」
前半部分を聞き取れなかったルナサは一瞬問いかけそうになるが、後半の言葉に押されたためにそれを飲み込み、ヴァイオリンを手放して宙に浮かべた。
それを確認すると幽々子は持っていた緋毛氈を甲板に広げ、その上に腰を下ろす。
それから「じゃーん! 土蜘蛛酒~」と言いながら胸元から酒瓶とぐい呑みを二つ取り出し、やや遅れて隣に座ったルナサに一つを渡す。
ルナサはぬくもりを纏うそれを苦笑しながら受け取り、注がれた中身を軽く一口呷ってみせた。
「これから話すのはね。昔、冥界をよく訪れていた魔法使いが聞かせてくれた、彼女の過去」
「魔法使い、ですか」
同じように隣で杯を傾けた後、幽々子はぽつりと零すように話を始める。
「まだ小さかった頃、彼女は泰西のとある国で伯爵の地位にあった父親と、それから三人の姉と一緒に暮らしていたの。
父親は貿易商を営んでいて富豪にまで上り詰めていたらしいわ。ただ当時そういった地位にあった者としては珍しく、自分の足元がよく見えていたみたいでね。
商品の輸送を担っていた船員達の功績をしっかりと評価して、たまに屋敷に彼等を呼びつけてはねぎらっていたそうよ。
その影響があったのかしらね。彼女とその姉達は船や海に興味を抱き、よく父親に頼んで港まで連れて行ってもらったらしいわ」
「……ほぅ」
「で、ある時ヴァイオリンを嗜んでいた長女が船上で演奏会を開きたいと申し出てきてね。
それがまた素晴らしい舞台だったそうよ。青空、羽ばたく白い鳥、美しい擦弦の調べ、周りには賛辞を送る聴衆と、目を輝かせている家族――
その場にいた誰にとっても一生心に残る思い出になったのでしょうね。
この話をしてくれた時の彼女ったら、まるで当時に戻ったかのように声を大きく弾ませていたんだもの」
目を閉じて在りし日の知人の姿を思い浮かべながら、幽々子も楽しそうに語る。
そして目と口を丸く開いているルナサに向けて、少し上目遣いになりながら感想を求めた。
「どうかしら、ルナサ? 今まで数多くのライブを作り上げてきた貴女としては、まだ幼いヴァイオリニストの考えたこの舞台は聴衆に長く感動を残すものだと思う?」
「……文句のつけようがありませんね、私には。何しろ今のお話とよく似た光景を我々姉妹も知っていて、やはりみんなして憧れを抱いたものですから。
そういえば、特にメルランがそれを描いた絵を気に入っていましたね。
改めて思い返してみると、そういう演奏会の絵画がたくさん飾られていたことが、ちんどん屋を始めた動機の一部になっているのかもしれません」
懐かしそうに思い出を語るルナサを、幽々子は杯を傾けながら密かに窺う。
そしてそこに浮かぶ物を探るように見つめた後、深い溜息を吐き出した。
一方のルナサは何か合点がいったように頷くと、確認のために幽々子に問いかける。
「……なるほど。幽々子さんがこの話をしてきたのは、私の姿を見て知人の思い出話がよぎったからですか。
その魔法使いはどういう人なんです? 貴女と知り合っている以上、外から幻想郷に来たということですよね」
「……ええ、ただ詳細については分からないわ。あまりいい思い出じゃなかったみたいね、訊きだそうとしても険しい顔で首を振るだけだったもの。
でも幻想郷に来てからは、色々と大変だったみたいだけどそれなりに充実していたそうよ」
「そうですか。では、彼女とはどうやって知り合ったのですか? 昔は今と違って幽明結界はそう簡単に越えていいものじゃなかったはずですよね。
そんなリスクを冒してまで一体何の用があったんでしょう」
何が興味を引いたのか、すでに船上のヴァイオリニストの話からは筋が離れていたにも関わらず、ルナサは魔法使いについての問いを重ねてきた。
少し目を丸くしながら幽々子は頭の中で言葉を吟味し、続きを口にする。
「ええとね、その前に一つ説明しておくわ。
彼女はあまり才能ある魔法使いじゃなかったんだけど、何と言うか、一種の交霊術(ネクロマンシー)みたいなのが得意でね。
それを使って幽霊と会話したり、手なずけたりしていたの」
「ふむ、それは冥界において便利そうですね」
「ええ。実際に彼女はその魔法を駆使して、生き別れてしまった姉達を探しに冥界を訪れていたのよ。冥界には外からの幽霊も来ているからね。
私と知り合ったのはその頃。生きている人間が冥界を訪れることなんてめったになかったから、本当に驚いたわねぇ。
そして彼女は折り良く、彼岸での裁きを受け終わって転生待ちだった姉達に会えて……それ以降は私も知らないわ~。プライベートなことだしね。
ところで、日本酒は口に合わなかった?」
「……あ、いえ」
いつの間にか身を乗り出さんばかりに聞き入っていたルナサは、指摘を受けて初めて酒に口をつけていなかったことに気付く。
慌てて杯を乾かすや、幽々子は間髪いれずに追加分を注ぐ。そして自らの杯にも注ぎ足しながら、少し声を落として話を繋いだ。
「そうして無事に家族との再会を果たせた彼女は、もうかなりの高齢だったために、ほどなく死神からのお迎えに手を引かれて天寿を全うしたわ」
「……? 逆――」
「でも彼女は生前あまり多くの人と関わらなかったみたいでね。三途の川を渡りきることができなかったのよ」
「! では、川の途中で」
途中で間違いを訂正しようとしたルナサだったが、その意志はとめどなく流れてきた重い言葉に沈められてしまった。
一方の幽々子は語りを終えたその口に荒々しく杯の中身を注ぎ込む。その中で口に入らなかった飛沫が襟元や袖、そして緋毛氈を濡らした。
しばらくして喉元に熱を覚えた頃、隣から洟をすする音が生まれたことに幽々子は気付く。
その源を見ないように俯いたまま、薄笑みを混ぜた声を放った。
「うふふ、意外と涙もろいところがあるんだ」
「……あれ? い、いやその、たしかに悲しい話ですけど、おかしいな……」
「お酒にあてられたのかもね。泣き上戸だったかしら? 貴女は」
それだけ言い置いた後、幽々子はルナサが落ち着くまでの間、ハンカチを取り出して口元を丁寧に拭く。
ルナサはその気遣いをありがたく思いながら、自分も同じようにハンカチで目元を拭った。
互いに涙を乾かし終わった後、湿った空気を残さぬように幽々子は軽く話を締めくくる。
「さ、私が知っている彼女の足取りはここまででおしまい。なんだかヴァイオリニストの話からは随分と逸れてしまったわね」
「すいません、私が関係ない質問を続けたばかりに」
「いいの。貴女の姿をきっかけにして、彼女の話をしてしまいたかったのかもしれないから」
今は亡き人を思ってか、幽々子は寂しそうな笑顔を浮かべた。
それを真剣な眼差しで見つめた後、ルナサは何かを決意したかのように顔を引き締める。
そして膝の向きを揃えて幽々子に尋ねた。
「決めました、今考えていた新曲は最初に彼女に捧げようと思います。
幽々子さん、彼女が沈んだ位置をもう少し具体的に教えてくれませんか?」
「そうね……知っているかしら? 五百年程前に、世界各地の妖怪を幻想郷に取り込む妖怪拡張計画が紫によって行われたのだけど、是非曲直庁はそれに合わせて組織を国際色豊かなものにしたのよ。
死者をその生地に合ったやり方で扱うために、十王達も各地の様々な冥府の神の分霊と習合していったらしいわ。同時に地獄の施設も色々と手を加えられていったそうよ」
幽々子はまず勤め先である是非曲直庁の歴史に触れ、次に核心となる答えを伝える。
「あのね、希臘(ギリシア)では三途の川のことをスティジャンと呼ぶらしいの。そしてその下流には、忘却の名を冠するレテ川が流れている。
泰西生まれの彼女のことだから、おそらくそこにいるはずだわ」
「……そうですか、分かりました。誰からも忘れ去られた彼女の御霊が安らぐよう、せめて私達が苟且(かりそめ)の姉となって手向けを捧げましょう」
「ええ、きっと……彼女もそれを望んでいると思うわ」
力強い口調で告げられた約束を聞いて、幽々子は心底からの喜びを顔に浮かべた。
さらに同刻、最も開けた空間となっている船首甲板にて――
ようやく調子を取り戻した妖夢はリリカに頼まれて剣の修練を行っていた。
「やっ、ひっさしぶりにっ、やるけっどさ、やっぱいいよねっ、チャンバラの音は!」
「もうっ、真面目にっ、やってよ!」
白刃を軽く合わせてからというもの、リリカは妖夢の周りをダイナミックに動き回り、上下左右あらゆる角度から打ち込んでくる。
しかしそれらは全て腰の入っていない攻撃であるため、悉く見切られ弾かれていた。
「っとに、攻撃はいい加減なくせに、受け流すのだけは巧いんだから! 貴女はっ」
当然妖夢としても隙を狙って反撃を何度も繰り出している。
しかし不思議なことにリリカはその全てに対して防御を間に合わせ、斬撃の軌道をあらぬ方向に折り曲げていた。
結果妖夢は、無闇にぶつかり合う剣の音と跳ね回るリリカの足音が耳に障るという状況を抜け出せないでいた。
「いや~、調子がいいわ! 何でだろう、船の上だといつも以上に走り回りたくなるよ。お前もそう思――?」
「? 隙あり!」
「おわっと!」
そんな喧騒の中、妖夢が不意に足を止めたリリカに必殺の一撃を叩き込むと、リリカもさすがに大きく退くことでやり過ごすしかないようだった。
「なによ~! あからさまな隙くらい見逃してくれてもいいじゃない。武士の情けってやつはどこにいったのよ?」
「生憎と私は武士ではありません」
しかし動きが止まったからといって、リリカが鳴りを潜めることはなかった。
そこで妖夢は、続くであろう雑言を遮るためにリリカに詰め寄る。どちらかといえば剣戟の響きを聴いている方がマシだと判断したためであった。
一瞬にして視野を占めるリリカの顔に、しかし浮かんだのは狡猾な笑み――それは次の瞬間刀身の平たい面に変わる。
「なんっ!?」
そして妖夢がその意図を計るよりも先に、白刃が反射した太陽光をまともに目に入れてしまった。
一方計略の成就を見届けたリリカは甲板を蹴って空中に浮くと同時、宙で鍵盤をかき鳴らす仕草を行う。
直後に生じた駆け足の音が妖夢の背後に回りこむように響くのを確認すると、自らは音を殺して接近し、瞑目したまま後ろを振り返った妖夢に剣の峰を叩きつけようとする。
「後ろ!」
「うぇ!?」
だがその一撃は妖夢の掲げた白楼剣に受け止められてしまった。
妖夢はそのまま剣を跳ね上げ、身体を一回転させながら無防備になった相手の腹に楼観剣の峰を打ち込む。
「『炯眼剣』!」
「っ!」
手痛い反撃を受けたリリカは悲鳴を上げることすらできず、船縁まで転がされていった。
さらに視界を回復させた妖夢に詰め寄られ、混乱からの回復もままならないうちに喉元に剣尖を突きつけられる。
そして目の前に隙のない有様をまざまざと示されたため、リリカは観念したように手から剣を落とした。
「いたた……嘘でしょ? ブラフの足音を立てて時間差までつけたってのに。妖夢ってば突然心眼にでも目覚めちゃったわけ?」
「ご想像にお任せします」
「……うぇ~、言ってくれるじゃん」
倒れて悔しがるリリカをからかうように半幽霊を旋回させながら、妖夢は悪戯っぽい笑顔で答えた。
手合わせを終えた後、妖夢はリリカに水筒を投げ渡しながら尋ねる。
「そういえば、さっき大きな隙を作ってたよね。あの時口走ってたお前って誰なの? 私のことじゃなかったよね」
受け取ったリリカは質問を脇に置いて、まずその中身を豪快に呷った。
そして大きく溜息を吐き出すと、少し煮え切らないような口調で答える。
「……正直わかんないんだ。普段めったにないことなんだけど、知らない女の子が立てる幻想の音が聴こえることがあるんだよね。今回は駆け足の音と笑い声だったかな。
ただ、この船旅が始まってから、それが聴こえる頻度が上がってるような気がする」
「だ、大丈夫なの? それって幻聴に悩まされているようなものじゃない」
「いやまぁ、不快じゃないんだけどね~。聴けた時はなんか凄く落ち着くっていうか、懐かしいっていうか、そんな気分になるわけだし」
話が進むにつれて怪談の苦手な妖夢が青ざめたのとは対照的に、当初顔色の苦かったリリカの方は最終的に笑みを浮かべていた。
それからリリカは妖夢の傍に近付き、半幽霊に手を伸ばしながら尋ね返す。
「そういう妖夢もさぁ、一昨日は死にそうになってたのに今は随分と楽しそうじゃん」
「あ、分かった?」
「そりゃまぁ、こうして剣を合わせたわけだしねぇ。あんたも言ってるでしょ、『斬れば分かる』って。
あと半幽霊の動きを音に変換した時、明らかにアップテンポだったからよ。なんか理由でもあるの?」
緊張で固まっている半幽霊をほぐしてやりながら、リリカは落ち着いてきた妖夢の顔を覗きこむ。
対して妖夢は先程のリリカと同様、問いをひとまず保留して船の各部に視線を巡らせる。
一通りその光景を目に映した後、どこか遠くに思いを馳せているような顔になってから答えを返した。
「ずっと憧れていたから、かな。以前幽々子様と一緒に月の海に来たときも、ここを船に乗って行けたらもっと良かったなぁって思ってた」
「へぇ、あんたも船旅にこだわりがあったんだ。でも冥界育ちなのにどうして?」
「うん、たしかに直接船を見たことは今までなかったよ。
でもね、私がまだ小さかった頃におじい……お師匠様が作った庭のことが今でもすごく印象に残っていたから」
「なによ、今更恥ずかしがることないじゃん。あんたの呼びたいように呼びなよ。それで、どんな話なの?」
興味津々なリリカに妖夢は軽く笑い返し、再び話を続ける。
「白玉楼の石庭のことは知ってるよね? あの庭は枯山水って言って、苔の生えていない大きな岩を島、砂利を水に見立てているの。
それでお盆になると決まって、おじいちゃんは玉砂利の上に大きなクマザサの葉で作った笹舟をたくさん並べていたんだ」
「ふーん、面白いじゃん。洋館育ちの私にゃオリエンタリズムってのを今ひとつ理解できないんだけど、そういうの風流って言うんでしょ?
あんたのグランパも決して堅物なんかじゃなく、遊び心を持ってたんだね」
「うん。風に揺れて白砂の上を漂う緑の船団を見て、海ってどんなところなんだろう、船旅ってどういう感じなんだろうって思った。
幽々子様も同じことを考えていたみたいで、いつか一緒に体験できるといいわねって頭を撫でてくれたんだ」
「んじゃ念願叶ったってわけだ。船酔いのおまけつきでさ!」
「もうっ、それは言わないでよ。たしかに想像していたのと多少のギャップはあったけど……」
リリカの茶々に文句を返した後、妖夢は船縁までゆっくりと歩いていく。
そして目の前に広がっている黒い空と青い地上とを見比べた後、それまで浮かべていた笑みを収めた。
「月の空は不思議ね。真っ暗なのに星や地上なんかははっきりと見えるなんて」
「ああ。それはね、月にはプリズムがないから空に色が塗られないの、ってスキマさんが言ってたよ」
「……よく分からないけどそうなんだ。それだけがちょっと残念だな」
「ん? どういうこと?」
「おじいちゃんがそういう庭を作る時、幽々子様も色々と船の話をしてくれたんだけど、それには決まって青空と白い鳥が付き物だったからね。
でもここには生き物がいないし、空も青くは染まらないのか」
呟きを終えたところで、妖夢は自分の隣にいつの間にかリリカが並んでいたことに気付いた。
そのリリカもまた、同じように空を見上げて溜息混じりに零す。
「……たしかに、残念だねぇ。なんならいっそ、空に青い何かでもばら撒いてみる?」
「って言ってもねぇ、空をしばらく漂い続けるものじゃないといけないでしょ……ん?
待てよ、空に立ち上る気質の……ってあれは緋色の雲か」
「ちょっとちょっと、何を一人でぶつぶつ言ってるのよ?」
「いや、月旅行の翌年の夏に異常気象が多発していたことを思い出して……あーっ! そうだわ、この方法なら青空を作ることができるかもしれない」
突然叫び声を上げた妖夢をリリカは目を丸くして見つめる。
しかしそれに構わず、妖夢は自前のカードデッキから一枚のカードを取り出す。
そこに描かれていたのは緋色の霧を纏う宝剣・『緋想の剣』だった。
自分ではほとんど使ったことのないカードだったが、リリカはなんとかその効果を思い出し、先程の妖夢の言葉と照らし合わせようとする。
「異常気象……ああ、新聞で読んだっけ。たしか局地的に天気が変わってたとかいう異変だったよね。
で、その原因がそれのオリジナルなんだっけ?」
「うん。あの異変は空に立ち上っていた気質が緋色の雲を作り、それが気質の源となった幽霊に固有の天気を生み出していたことによって起きていたの。
だから、私の幽霊を材料にして気質を発現すれば、死に物に特徴的な蒼天の空ができあがるわ」
「……ふーん、剣腕のわりに頭が鈍いあんただけど、なんだか今日はやたらと冴えてるじゃん」
どこか失礼な褒め言葉に妖夢が文句をつける前に、リリカは一対の翼を生やしたキーボードの幽霊を召喚する。
そして目を細めた猫のような笑顔を作ると、ゆっくりと浮き上がりながら妖夢に告げた。
「せっかくあんたが上手いことを思いついてくれたみたいだからさ、私も最大限に活用させてもらうよ。
妖夢、さっき教えた幻想の音の他にも正体不明の記憶があるんだ。それは姉妹みんなが共有している、蒼天の船上ライブの思い出。
今から姉さん達も巻き込んでそいつを再現してみせるから、演出の方よろしく頼むよ」
「え、それってもしかして幽々子様の言ってた……わ、分かった。
幽々子様、お休みでなければどうぞ空をご覧下さい!」
妖夢は祈るように叫ぶと『緋想の剣』のカードを半幽霊に軽く触れさせ、それを黒い空に向けた。
「心配ないよ。私達の旋律に当てられて、目覚めぬ霊などあんまり無い!」
カードから緋色の霧が上空に立ち上る中、リリカは自信満々に宣言を終えるや鍵盤に力強く十指を走らせ始めた。
突然青く染まった空の下、船尾にいたルナサと幽々子は軽快にかき鳴らされる音を聴いて、弾かれたように互いに顔を見合わせる。
「これは……?」
「リリカの仕業よ、姉さん」
「メルラン? それにムラサ船長も」
さらに屋形の上からメルランの声が当人と共に降ってきた。
甲板に着地したメルランは、帽子についた青い太陽型のアクセサリを揺らしながらルナサの元に駆け寄ってくる。そしてそのすぐ後ろに『人魂灯』を手にした村紗が続いた。
妹とその連れが傍に近付いてきてようやく、それまで呆然としていたルナサに口を開く意志が生まれる。
「リリカの仕業……いやそっちは分かるけど、空はどうやって?」
「それは妖夢の仕業。あの子ってば『緋想の剣』のカードを使って蒼天の気質を発現させたのよ。
いやー、私もさすがにその発想はなかったわねぇ」
「ああ、そういうこと」
「覚えて……いてくれたのね、妖夢」
それぞれ違う形で納得を示すルナサと幽々子をよそに、村紗はメルランに『人魂灯』を向けながら笑顔で提案を申し出る。
「どうやら貴女の憧憬を完全に近い形で再現できそうですね。演奏の邪魔にならないよう、しばらくの間船を停泊させましょうか?」
「お願いするわ。さぁ行きなさい、私の可愛い小鳥さん達」
嬉しそうに返したメルランはトランペットを吹き鳴らし、村紗の手元から鳥型幽霊を飛び出させる。
それを見たルナサと幽々子はさらに大きく目を見開く。
一方、舳先に向かう幽霊達を満足そうに見送ったメルランは、ルナサの手をとって駆け出した。
「わ!」
「ほら、姉さんもボサッとしてないで行きましょうよ。正体不明の記憶だろうと何だろうと、騒ぐ口実ができたのならそれに乗らなきゃ損だもん!
それともオーディエンスの側にまわりたい?」
「……そんなわけないでしょ。幽々子さん、ムラサ船長。私達は先に行って演奏準備を整えておきますので、どうぞ船上ゲリラライブをご鑑賞下さい」
妹に引きずられている体勢ながらも、ルナサは楽団員ではない二人に口頭で招待状を忘れずに残していった。
手を振ってそれを見送った村紗は、会場責任者としての使命を果たすべく行動を始める。
「正体不明とはいえ記憶を想起して再現する、か。こういうのはさとり嬢の得意技だったわね。
さて、西行寺のお嬢様。観覧席はいかが取り計らいましょう?」
「……そうね。泰西作りの椅子を三つ、お願いできるかしら」
「了解です。ああ、ようやく土産話が一つできそうですわ」
音楽にあてられて気が逸っているのか、村紗は海藻のように揺らめく緑色のオーラを纏うと、椅子を探しに船倉へワープしていった。
船尾に一人残された幽々子は改めて空を仰ぎ見る。実際には青い領域は聖輦船の上を覆う程度の広さしかなかったが、その中に同じ色をした地上を含んでいた。
幽々子はそれを探し当てると愉快そうに口元をほころばせ、一つの姿を想起する。
「長生きはするものねぇ。まさかこんな素敵な雨月を目の当たりにすることができるなんて。
さぁ、生き物だった貴女にとっての最高の思い出を、死に物達の作り上げた見立てをもって追想するとしましょうか。
……×××、たくさんの忘れ形見を残してくれてありがとう」
最後に失われた知人の名を密かに呟くと、幽々子は足取りを弾ませて船首へ向かっていった。
◆
「今日はみんなでお風呂に入りましょうか」
航海を始めてから十七日目のことだった。
賢者の海に入ってからというもの全く状況に変化が見られず、次第に退屈そうな表情を浮かべていくみんなを憂えてか、幽々子がそんな提案をしてきた。
ちょうど一つの船室に集まっていた村紗、妖夢、そしてプリズムリバー姉妹は視線を幽々子に集め、続く言葉を待つ。
「ちょっと前にここの浴室を見てから、いつか言い出そうと思っていたのよ。
船長さん、命蓮寺の方々はいつもあんな広いお風呂を使っているのかしら? うらやましーわー」
「ええ……まぁ」
幽々子の何気ない質問に村紗は言葉を濁して答える。
というのも浴室の規模が大きくなった原因に、あまり知られたくない自分の事情が関わっているためだった。
しかし次の幽々子の言葉で、それが明るみに出てしまうこととなった。
「聖尼公に聞いたのだけど、船長さんは人を乗せた風呂桶をさらに大きな浴槽に浮かべて、打たせ湯を浴びせながら沈めるという遊びが大好きだそうね」
「ひじりぃっ!?」
「あらぁ、恥ずかしがることなんてないわよ。尼公ったら、機会があったら是非にと強く勧めてくれたくらいだもの。
だから私達にもお願いできるかしら?」
「……了解です。乗客の皆様に安らぎをもたらすのも船長の務めですからね」
邪気のない笑顔で語ったであろう白蓮を思い浮かべながら、村紗は諦めたように大きく溜息を吐き出す。
「わお! なんだか面白そうじゃない」
「舟幽霊体験版、というところかしら?」
「なんだ、センチョも意外と遊び心あるんじゃん」
「打たせ湯かぁ……庭仕事や剣の鍛錬の後には最適かもしれないな」
しかし苦い顔をする村紗とは対照的に、二人のやり取りを聞いていた三姉妹と妖夢は期待に満ちた表情を浮かべる。
みんなのその姿に、同じ提案を初めて命蓮寺一門に持ちかけた時の記憶を喚び起こされ、村紗は密かに口元を緩めた。
聖輦船内の大浴場は、現在の乗員六名を一度に入れてなお余りあるほどの広さを備えていた。
その中で最も大きな面積を占めている浴槽は、同時に必要以上の深さも備えている。
今、それを証明する一つの試みが、温水の上に佇む村紗によって行われようとしていた。
「それでは再度、注水しまーす」
「あははは、沈む沈むわ~。こわーい」
「リリカっ、揺らさないでよ」
傍らに浮かぶバスタブの中に入った妖夢とリリカの背に向けて、村紗は湯を汲み入れた柄杓を傾ける。
すると勢いのある如雨露のような温水が肩から腰まで降り注ぎ、二人の筋肉をほぐし血行を改善していく。
同時にそれはバスタブに蓄積していき、やがて重さに耐え切れなくなったためか、ある時を境に浴槽へ沈没していった。
「やー、たーすけてー」
「わわっ、意外と怖い!」
「因果応報! これがぬるま湯にどっぷり浸かるという奢侈に溺れた者の末路ですわ」
悲鳴のような嬌声を上げるリリカ、悲鳴そのものを上げる妖夢に向けて愉快そうに叫びながら、村紗は没してゆく湯船を見送った。
背が低いとはいえ少女達を完全に飲み込んだ浴槽は、大量の泡を沸き立たせた後は完全に沈黙に飲み込まれる。
それをしたり顔で見つめていた村紗だったが、何故か直後に色を失って水面へ手を伸ばそうとする。
しかしその心配も甲斐なく、リリカと妖夢はすぐさま浮上してきた。
「ぷぁっ! あははっ、楽しかったよ」
「うーん、打たせ湯は確かに気持ち良かったけど、沈む感覚が苦手かなぁ」
「妖夢は船酔いする性質だもんねー」
「……うー、まだ言いますか。分かりましたよ、いつか絶対に船の揺れ具合に慣れて、ムラサ船長のこれもすんなり受けられるようになってやるから」
二人とも好意的な感想を言い合っている様子を村紗は目にするも、一向に顔色を晴らすことなく謝罪を口にする。
「あの、大丈夫だったでしょうか? ごめんなさい、さっきは調子に乗ってしまって……」
「んー? 何を謝っているのかわかんないけど、これからちょっとお返しさせてもらえるかな。
センチョ、騙されたと思ってそこに腰掛けてくれない?」
「え? こう、ですか……あ、なんか反動がある」
「そう、これが私達騒霊の使う念動力よ。そしてここからは鍵霊リリカ特有の、打つことに特化した力」
リリカの言葉の直後、空中に腰掛ける体勢を作った村紗の全身をリズミカルに叩く力が加えられる。
特に両肩や腰に重点を置いてくれているようで、先程まで使っていた部分の凝りがほぐされていくのが感じられた。
「わぁ、すごい」
「これぞエアマッサージチェアー、ってスキマさんは言ってたけどね。んじゃこのまま、センチョには浴槽に沈んでもらおっかな」
「え? ちょ、待っ」
念動力にすっかり身を委ねた村紗の隙をついて、リリカはその身体を持ち上げると先程のお返しと言わんばかりに浴槽へ放り込んだ。
ぬえを想起させる笑顔で占められた村紗の視界が一転、水の中の景色へと変化する。
「ぷはぁ!」
「メルラン姉さん、出番だよ~」
「おっけー」
どうにか水面に顔を出した村紗の耳に、姉を呼ぶリリカの声が入ってきた。
その呼びかけに応じ、先に湯の中で待ち構えていた管霊メルランが、自身の吹くことに特化した念動力を水中で発動させる。
結果として細かい泡を含む水流が生まれ、それが手で顔を拭っている村紗の身体に送り届けられた。
「……あら、これまた気持ちいいわ」
「えっと、スキマさんはなんて言ってたかなぁ? そうそう、エアジャクージ……ジャグジー……で良かったっけ?」
首を傾げながらも、メルランは村紗を癒すために念動力を絶え間なく使い続ける。
一方、霊能力が飛び交っている温水の海原を、幽々子が洗い場の椅子に腰掛けながら眺めていた。
しばらく見つめた後、顔の向きはそのままにして背後に立っているルナサに軽い調子で話しかける。
「まぁまぁ、妹さん達は船長さんとすっかり打ち解けたみたいねぇ。ルナサ、貴女もあの中に混ざってきてはどうかしら?」
「はぁ、まぁ、その内に。それにしても、また伸びましたか? 御髪」
妹達のはしゃいでいる姿を遠目に、ルナサは幽々子の髪を丁寧に洗いながら逆に訊き返す。
その問いには幽々子ではなく、浴槽からルナサの後ろに移動していた妖夢が代わりに答えた。
「そうなんですよ。そろそろ切りましょうかって言ってるんですけど、なかなか同意してくれなくて」
苦笑混じりに言うと、妖夢はルナサの背中を泡立てる作業に戻る。
なお、その献身を受けている弦霊ルナサは手を前で動かす一方、擦ることに特化した念動力を使って妖夢の全身をも洗っていた。
「まぁ、私としては洗い甲斐のある髪だけどね……ところで妖夢、痛いところとかくすぐったいところとかはないわよね?」
「はい。力加減は適切で、気持ちいいくらいですよ。ルナサさんこそ大丈夫でしょうか?」
「うん。ごめん、念動力だけで済ませていて。後でちゃんと洗ってあげるから」
ルナサが軽い謝罪とともに返すと、それが聞き捨てならなかったのか、幽々子が振り返って不満も露わに主張する。
「あら、私の楽しみを横取りしないでよルナサ。妖夢を手ずから隅々まで洗うのは私の生きがいなんだから」
「ええ!?」
「ふむ、主従の付き合いに水を差すのは無粋もいいところでしたね。それでは後はお願いします」
それを聞いたルナサは特に執着も見せず、手桶の湯を浴びせるや幽々子からすぐに離れていく。
呆気に取られた妖夢が泡だらけの背中を見送っていると、その隙をついて背後に回った幽々子に羽交い絞めにされてしまった。
「ゆ、幽々子様!? いやそんな、畏れ多い――」
「何を言っているのよ。昔は私が背中を流してあげていたじゃないの」
「それは無礼を知らなかった幼少の頃の話ですよ!」
「あら、私から見れば今の貴女もその頃と大差ないのだけど」
「みょん」
微笑ましいやり取りを耳に流しつつ、ルナサは反対側の洗い場に向かう。そこには浴槽から上がっていた村紗がエアマッサージチェアに腰掛けていた。
一方、念動力でそれを維持しているリリカはメルランの温水ミストを浴びていて、何か悪戯をしでかす心配はない状態にある。
以上の理由からくつろいだ表情を浮かべている村紗に向けて、ルナサは後ろから声をかけた。
「あの、よろしければ洗髪しましょうか?」
「あ、お願いできます? それにしても皆さんの念動力は面白いですね。音楽だけでなく、こんな使い方もできるなんて」
「まぁこの使い方は最近思いついたものですけどね。最初は楽器演奏の時と同じように、自分達で色々と試行錯誤してから幽々子さんや妖夢に体験してもらって、幸い好評をいただくことができました」
「え? ということは貴女達の音楽は、元々は騒音を生み出すだけだった妖異を昇華させてきた成果だというのですか?」
突然首を回そうとした村紗を、しかしルナサはその黒髪の中に両手を入れることで押さえる。
「ええ。私の本来の妖異は鬱の音を発生させることなのでしょうが、ある時それが擦弦楽器の調べに似ていると気付いたのです。
以降、念動力による騒音を上手く組み合わせれば音楽が作れるのではないかと考えるようになりまして」
「そうやって自分の生み出す音に見合った楽器を決めていくうちに、私達は騒霊らしく周りをにぎやかにしようと考えて楽団を結成したんだよ」
「そうそう。家にたくさんある絵の中のハッピーな雰囲気を出せるように、みんなで練習を重ねてきたのよねぇ」
さらにリリカやメルランも話に加わってきて、懐かしそうな口調でルナサの答えを補っていった。
これを聞いた村紗は深いため息をゆっくりと吐き出していく。
「そう……ですか。羨ましいわ、妖異を自由に発揮できて、それでいて人間からすらも賞賛を集められるなんて」
「? そういうムラサ船長も打たせ湯を浴びせながらバスタブを沈めるなんて、随分とバランスの取れていることをやっていると思いましたが」
「そう言っていただけると正直救われるのですが、聖が私に期待していたことを思うと、方向性が違うのではないかと不安で……」
「白蓮さんが期待していたことって?」
「それは……少し長い話になりますよ?」
「だーいじょうぶ。このマッサージコースだってそれなりに長いんだから、その間やることないでしょ? だから聞かせてよ」
リリカが興味を前面に出して迫ってくるのを見て、村紗は苦笑混じりの溜息を吐いた。
さらに他の二人まで注視してきたため、観念して不可視の力に支えられていた上半身を起き上がらせる。
そしてこの大浴場だけでなく、聖輦船全体を示すように両腕を広げてから説明を始めた。
「この聖輦船は元々聖の法力によって形を与えられた、海で亡くなった念縛霊の集合体なのですよ。
後から聞いたところによると、聖は荒れていた頃の私を退治するよう依頼された折、真っ先に水中呼吸と交霊術の魔法を駆使して私の沈没船を探したそうです。
そして既に朽ちていた船と傍に留まっていた幽霊達を見つけ出し、後に私の前に連れてきて、ともに新たなる道――水難を退ける神霊としての道を歩むよう提案してきました」
「神霊、ですか? ……たしかに、生前徳を積んだ人間が死後神霊となる話は聞いたことがありますけど」
「名居守だったっけぇ? 文々。新聞の天人特集号に載ってたわよね。異常気象の後に出た号外だったから結構印象に残っていたけど」
「それを既に妖怪となった者に持ちかけるあたり、発想が斜め上を行ってるねぇ、あの尼さんは」
思わぬ方向に進んだ話を聞いて、三姉妹は揃って目を丸くしながら感想を口にした。
その最後、歯に衣着せぬリリカの物言いに村紗は少し困ったように眉をひそめる。
「……まぁ無理もありませんが、あまり聖を貶める言葉は私の前で口にしないで下さいね。それに言うほど突飛な話でもないのですよ。
純粋な神霊にも荒魂という災厄をもたらす性格がありますが、これは上手く鎮めてやれば災厄を退ける力として利用できることが知られています。
つまり聖は水難を起こす妖異の方向性を変えて、水難を退ける神徳に転化できないかと考えていたのです。
以来、私も贖罪を意識しながらその意向に従い、海を渡ろうとする人々の旅が無事成功するよう努めてきました」
そこで一度話を区切り、村紗は大浴場の壁に描かれていたタイル絵を見つめる。
視界いっぱいに広がるのは、七福神を乗せた縁起の良い宝船の姿。
それを眩しそうに見つめた後、零すように続きを語る。
「残念ながらその道は閉ざされてしまいましたけどね。聖が人間達の手で封印された当時、私は心の底から彼等を呪ってしまいましたから。
結局、毘沙門天や護法童子の分霊との習合を果たした仲間達とは異なり、私は不吉な念縛霊であることから逃れられなかった。
そう、妖怪を辞めるのは無理だということをまざまざと思い知らされたのですわ。
だから、いまだに私は何かを沈める行為に暗い悦びを覚えずにはいられない……そんな私が今後聖の期待に応えることが出来るかどうか、常に悩んでいるのです」
最後に自嘲気味に呟くと、村紗は再び見えない椅子に上半身を沈ませて、物憂げに目を閉じた。
しばらくの沈黙の後、洗髪をやり終えたルナサが念動力を使って村紗の足の裏をこすり始める。
その絶妙に調整された足を洗う力を受けて、村紗はくすぐったさのあまり身をよじらせて笑い出す。
「ぅひゃは!? ちょっ、にゃにをははっ!」
「白蓮さんではない私達に、彼女が貴女の挫折をどう受け止めているかは分かりません。しかし妖怪の貴女が見出した、湯船を沈める行為については答えることができます。
そうよね、二人とも?」
「と、と言うと熱っ!?」
続いてメルランから温水ミストを後頭部に吹きつけられ、髪に纏わりついていた泡がすすぎ落とされる。
「そうそう。『尼公も機会があったら是非にと強く勧めてくれた』って、幽々子さんも言ってたでしょ?
大丈夫よぉ、この程度ならリラックスした気分を損ねてしまうことはないって。体験させてもらった私も保証するわ」
さらにリリカがその顔を息がかかる距離まで近付け、目を細めた笑顔で提案を持ちかけてくる。
「自信がないってんならさぁ、試しに私達と組んでスパ事業でもやってみない?
この凄い施設を使って幅広く宣伝すれば、異常な人間は勿論、普通の人間からだって抵抗なく儲けを獲得できると思うけどねー」
「……は、しかし果たして本当にそうでしょうか? いくら心身を癒す行為とはいえ、これは不吉な妖異――」
「その心配は無用だと思いますよ」
三姉妹からそろって太鼓判を押されてもなお、村紗は拭い去りきれない懸念を口にする。
しかしそれは横から割って入ってきた妖夢の言葉によって遮られた。
「失礼ながら先程からお話を伺っていたのですが、私にはそこの三人とムラサ船長との間にどういう違いがあるのか分かりません。
何しろプリズムリバー楽団の演奏会には普通の人間達も訪れますが、彼らとて躁鬱の音の恐ろしさをわきまえた上で嗜んでいるみたいなのです。
まぁ演奏前の注意喚起や、幻想郷縁起を通した情報提供が功を奏しているからこそなのでしょうが。
だからムラサ船長も同じようにすれば、程度の差はあれ普通に受け入れられると思いますけどね」
「嗜んでいる? 妖異を、人間が?」
「『妖怪なんて嗜好品(おさけ)みたいなもん』というのは異常な人間代表の言葉ですが、人妖入り乱れるようになった昨今では人里でもそのような意識が生まれつつあるようです。
とはいえ涼をとるだけのために幽霊を捕まえるのは、こっちが冷や冷やするのでやめて欲しいところですけど」
「……そう、人間は変わるのね。そういえば遊覧船事業で人間と妖怪を一緒に乗せたこともあったけど、何も諍いが起きなかったことを聖と一緒に驚きましたっけ。
時代も、変わったのかしら。妖怪が跋扈して人間が狂奔する、そんな余裕が一つもない窮屈な世はとうに昔ということですか」
自分でも実感のあった変化のことを思い出してようやく、村紗の懸念は期待に塗り替えられた。
考えてみれば、何も自分の妖異が犯してきたおぞましい過去について逐一説明する必要はない。
例えばメルランは真偽の定かでない口上――数多の生き血をすすってきたトランペット――を、聴衆の緊張をほどくジョークとして使っていると聞いた。
一方自分の場合はそんなことをせずとも、銭湯の空気がその役を担ってくれるはず。
後は湯船が沈む瞬間の自分の愉悦さえ隠し通せれば、普通の人間から不吉に思われることはないのかもしれない。
いつしか村紗の頭の中は次々と浮かんでくる前向きな発想に占められていった。
「さて、船長さんはこの変化した時代の中で、これからどうしていくつもり?
千年ほど昔に聖尼公に言われたとおり、妖異を嗜む者達のいるこの現在でも、あえて自分の妖異を捨てて神威を目指す?」
その最中、それまで状況を見守っていた幽々子が不意に問いかけてくる。
何かを試すような表情を前にして村紗は軽く目を伏せ、しかしすぐに前を見据えて答えた。
「それは……やめた方がいいと地底にいた時に忠告されていますからね。
ええ。よくよく考えてみれば、聖とて妖異をもって人妖の間を駆け抜けてきたのです。
であるならば、私としては同じ道を追いかけていきたい。たとえそれが、聖の期待していたことと方向性を違えるとしても」
「そうよねぇ。神霊よりも幽霊の方が何倍も魅力的だものねぇ。
だって、神霊は色々と自由を奪われるものなのよ。存在を保つためには信仰を集めなきゃいけないし、それだから低俗霊の願望を無視できないし。
実際信仰が篤く力のある神霊ほど、信者の言葉に振り回されてしまう運命にあるのよ。船長さん、貴女の周りでそういうの見たことないかしら?」
「!」
幽々子が何気なく放った言葉は、村紗にとって一番思い出したくない記憶を想起させた。
押し寄せる眼前の人波――背中からの法の光――振り返って見た、苦悶の形相――身を縛る結界――再会してからの、痛切な宣言――「私は妖怪です」
それらは硬く閉じた目蓋の裏を一瞬で駆け抜け、胸の内に様々な感情――哀切、後悔、義憤――を残していった。
しばらくそれに翻弄された後、村紗は気持ちを落ち着けるために不可視の椅子にもたれかかる。気を遣ってくれたのか、叩くリズムが緩やかになっていた。
やがて気質の揺れがそれと同調し始めた頃になって、村紗はゆっくりと答えを返す。
「……ええまぁ、ありましたね。そうでしたか、神霊とはそのような……知らなかったとはいえ、あいつには酷いことをしてしまいました。
色々慌しくて有耶無耶になっていましたが、この旅が終わったらちゃんとケジメをつけないと」
「そう。うまくいくといいわね」
「はい、ありがとうございます」
あえて詳しい事情を追求することなく、ただ背中だけを押してくれた幽々子に村紗は深く感謝した。
それから自分を取り巻いている他の幽霊達にも目を向け、今まで叩きほぐしてくれている力とともに、肩の荷を軽くしてくれたことを感謝する。
「皆さんにもお礼を申し上げますわ。おかげで色々と見えてくるものがありました。
その上で先程の事業のお話について、寺のみんなと前向きに検討させていただき――」
「やったわ妖夢! これで今後もこの施設を使えることになりそうよ」
「えっ?」
突然、それまでの落ち着いた語り口が失われ、悪戯っぽく快哉をあげた幽々子に村紗は困惑する。
一方、それまで尊敬の眼差しを向けていた妖夢は、主のこの態度に呆れ果てた声をあげた。
「……幽々子さま~、色々と台無しです」
「だって、せっかくリフレッシュするための設備を自由に動かせるのなら、広くて明るい場所にまとめて置いて活用したいじゃないの」
「おや、西行寺のお嬢様としましては、我々の廃洋館はお気に召しませんでしたか?」
「うーん、あそこはどうしても拭い去れない文化の違いがあったからねぇ」
「それにしてもポータブルな設備扱いはあんまりですよぉ、ひどーい」
この湧き上がった空気はルナサやメルランをも巻き込み、それまでとは異なる方向に熱を帯びていく。
その熱源から引き離されてしまった村紗が絶句していると、後ろからリリカが肩を直接手で叩いてきて、やや同情めいた顔色を浮かべて語りかけてきた。
「やられたね、センチョ。いや~、相変わらずあの人の腹は読めないな~。
まぁお互いに本業があるからどういう営業体系になるかは分かんないけど、これからよろしく」
「……ふふ。ええ、よろしくお願いします。
なに、貴女達との共同事業を西行寺のお嬢様が積極的に利用したいのであれば、恩返しもしやすくなりそうなので私に異存はありません」
ようやく自分が軽く担がれていた事に気付いた村紗だったが、憮然とすることなく逆に微笑んでみせる。
その顔を保ったまま肩に置かれたリリカの手を、この旅で得た一番の土産物のように丁重に握る。
一方のリリカはこれが契約成立の証だと悟り、繋がれた手を起点に一回転して村紗の前に移動した。
村紗はその着地する頃合を見計らって、不可視の椅子から立ち上がる。
「それでは、貴女達の築いてきた妖力を自由に発揮できる開放的な楽園にならい、私も私なりにそれを形作ろうと思います」
「ちょっと大げさだねぇ。ま、お互い好き勝手やって、やりすぎたら抑え合うくらいの気持ちでいいと思うよ」
そして志を宣言しながら握手した手に力を込めると、リリカは手を緩やかに波打たせる形で応じた。
「え、では貴女はそんなに前から泰西の近くまで行ったことがあるんですか?」
「はい。聖は研究熱心なお方でしたので、なんとかグリモワールの類を手に入れられないかと考え、商船のふりをして亜欧(ユーラシア)を股にかけたことがありました。
霊力も絶え絶えに戻ってきた後、二度とやらないでと散々怒られたものです。あの頃は若かったと反省していますわ」
「はー、無茶苦茶するねぇ。それでどこと交易してきたのよ」
「たしか地中海沿岸、それも暗黒大陸側だったかしら。言葉の通じない波斯人・色目人相手に、空気の読める一輪と雲山が奮闘する姿は実に頼もしかった覚えがあります」
入浴が終わり脱衣所に戻ったところで、村紗は三姉妹に囲まれながら乞われるままに船旅の話を聞かせていた。
幽々子はそれを満足そうに眺めた後、少し気後れを感じながらも輪の中に声を放る。
「メルラン。お楽しみのところ悪いんだけど、お願いできるかしら?」
「ああ、アレですね? りょ~かいです」
一方のメルランは気安く求めに応じると、念動力で引き起こした温風を幽々子に吹きつけた。
乾燥した風が肌に纏わりついている水滴を少しずつ蒸発させる中、幽々子は儚げに目を細め、自らも熱い吐息を洩らす。
「あぁ……感じる、わ。メル、ランの息霊を……」
「ほらほら、次はどこをふーふーしてほしいんですかぁ?」
「……そぅ、ね。どこと、言われても」
「うふふ~。ちゃーんとおねだりできない子には、何もしてあげませんよぉ」
「も……ぅ、意地悪なんだから。じらさないで、ちゃんとあますところなく――」
最終的には悩ましげに身体をしならせ始め、メルランもそれを嬉々として攻め立てるようになっていった。
そんな具合に風向きのおかしくなった出入り口前に村紗は目を向け、素朴な疑問の声を上げる。
「何やってるんですか、あの人達は?」
「あーあ、まーた始まったよ。気にしないで、ああいうおふざけが好きな人達なんだから」
「元々は湯冷めする前に身体を乾かすことが目的のはずだったのだけど……まぁある意味双方とも幸せそうだから、別にいいかと思っています」
「ゆ、幽々子さま、なんというあられもないお姿……」
それに対し、自分達の廃洋館で見慣れているリリカとルナサは目を細めて投げやりに答える。
一方、いまだ慣れることができない妖夢には答えを返す余裕がなかった。
「……よ、応答せよ、フライン……ジャパニーズ。こちら……果てしなく低い地上」
大浴場から自分に割り当てられた部屋に戻ってきた幽々子は、真っ先に机の上の『人魂灯』に火を灯した。
そして明かりが生まれると同時に、角灯から何者かの声が響いてくる。
しかし幽々子はその怪現象に動じることなく、机に肘をついて腰掛けながら返事を送った。
「それ、本当は和蘭(オランダ)の幽霊船のことじゃなかったかしら?」
「ええ。フライング・ダッチマン、時空を越えて過去から未来まで旅を続けるアンデッド達のことよ。よく知っていたわね、幽々子」
「昔、知人が教えてくれたことがあったからね。それよりも何の用なの、紫?」
『人魂灯』から発せられていたのは、月には同行していないはずの紫の声。
今、この中には紫色の妖しい光を放つ眼球が入っていて、それに宿された式を介して遥か遠くにいる紫と交信することが可能となっている。
これこそが『ラプラスの魔』と呼ばれる式神の機能、その一つであった。
「別に。私の耳目をこんな暗い船室に放置しておいて、一体何をやっていたのかなーって」
「ああ、そういうことなら今ちょうどみんなで裸の付き合いを終えてきたところよ。さすがにこれを持って入るのは不自然でしょ?
プライバシーにも関わるし」
「ふぅん、ちゃーんと幽霊どうし、仲良く交流できているようで何よりだわ」
「ええ、本当に。紫、貴女には感謝してもしきれないわぁ。私のわがままをこんなにも聞き入れてくれて、今とっても充実しているの」
「幽々子の頼みだもの、仕方ないわ。それに月面戦争で頑張ってくれた貴女達にご褒美をあげたいと思ってたところですし。
それにしても……本当にこんな何もない月の海でよかったの? 外の世界の海に連れて行ってあげてもよかったのに」
湯上りで火照った身体に扇子で風を送っていると、紫からは気遣わしげな質問を届けられた。
外の世界という言葉に何か思い起こされるものがあったのか、幽々子はそれに自嘲を混ぜて答える。
「仕方がないわ。幽霊移民計画を閻魔様に見咎められてからというもの、私が外の世界に出る時には庁の監視が必ず付くようになってしまったのよ。
そんな息苦しい船旅なんて楽しくもなんともないわ」
「ああ、二十年前くらいにそんなこともあったわねぇ。なるほど、たしかに庁の目は今回の貴女にとってはもっとも避けたい障害か。
でも、この月の海では玉兎の目に気をつけてちょうだい。あれは気質の波を感じ取れるのだから、幽霊の貴女達といえど掻い潜ることはできないのよ」
「そうは言ってもねぇ、一月滞在していた経験から言わせてもらうと、玉兎達は噂好きで大げさでいい加減というのが月の民の認識みたいよ。
だから幽霊船を見つけたとか、空の一部分が突然青くなったとか、報告されたとしても信用されない公算が大きいんじゃないかしら」
忠告を聞かせても暢気な態度を崩さない幽々子に、紫は苦笑を混ぜながら違う話題を切り出す。
「空が青くなったといえば……あの船上ゲリラライブを鑑賞させてもらったけど、見事なものだったわねぇ」
「ええ。おかげさまで生き生きとした幽霊達の姿が見れて大満足だったわ」
「うふふ、死に物である貴女達を指して生き生き、か。ああ、誤解しないで。私は素敵な表現だと思っているのよ。
ただ、貴女がどういうつもりで使っているのかは気になっているんだけど」
すでに故人である幽々子は、自分をも含む死に物に対して『生きている』という表現を多用する――紫は常々それを不思議に思っていた。
そんな思惑に端を発した質問を受けて、幽々子は笑みを収めて扇子と口を同時に閉ざす。
それから無言で角灯に触れ、出現してきた幽霊をてのひらの上に転がしながら、重々しく口を開いた。
「時々ね、夢を見るのよ。周りにいる人達が誰も彼も死にそうな顔をして、恐れおののいている中に一人取り残されている夢。
私は彼等に見覚えはないんだけど、やがて伏して幽霊を吐き出していく姿にどうしようもないほどの罪悪感を覚えることがあってね。
だから私は幽霊を見ると、せめて目の前にいる間は生者に負けず劣らず溌剌としていてほしいって、そう願っているの。
どうせ本当に生きている物のためにしてあげられることなんて、何にもないから」
「……ごめんなさい。嫌なことを思い出させてしまったわね」
「あらぁ、紫が素直に謝るなんて。また嵐がぶり返してくるんじゃないかしら」
「も、もう! 茶化さないでよ、こっちは真面目なんだから……そりゃ、珍しいんでしょうけど」
「ええ、本当に失礼な話よね。だから私もごめんなさい」
目元を緩めた幽々子は手中の幽霊を角灯に押し戻すついでに、それをいとおしげに撫でる。
式神に触覚を伝える機能は備わっていないことを知りつつも、しばらくその仕草を続ける。
一方の紫は、視界を埋め尽くしている幽々子のてのひらの動きを見て、波立った心を徐々に落ち着かせていった。
ほの暖かい沈黙が続いた後、不意に幽々子が机にしなだれかかり、角灯の前で弱々しい呟きを零す。
「ねぇ紫。世の中にはあえて触れない方がいいこともあるものなのかしら? 結局私はあの子達に真実を話すことができなかったわ。
伝えたら何かを決定的に変えてしまうんじゃないかって思うと、足がすくんで……」
「……そうかもね。私も一つ似たような事例を知っているけど、その件に関しては真相を伝えない方がいいと思っているわ」
「そう、紫も何か秘め事を胸に抱えているのね。
まぁ、たとえ全てを語ったとして、果たしてあの子達にどれだけ受け入れられるか疑問だとも思ったけど。
改めてレテ川の持つ、縁を断ち切る程度の能力の強さを思い知らされた気がするわ」
「あれは本来、転生先が決まった幽霊達に飲ませることで、前世の記憶を希釈させるために使われているのだけどね。
あの奔流に飲み込まれた場合の効果は、その者に関する一切の連想・想起を不可能にすること……庁の職員である貴女は例外みたいだけど」
「でも、その私でさえ名前を発することすらできないのよね」
解説と実例を改めて突きつけられ、幽々子は眉をひそめながら押し黙ってしまう。
しばらく両者の間に沈黙が流れた後、紫が少しためらいがちに口を開いた。
「……ねぇ幽々子。思うのだけど、あの時を境に騒霊達は三姉妹の幽霊と融合し、簡単には消滅しない存在に転生を果たした――そう言っていいんじゃないかしら。
だから、前世のことなど断ち切ってしまった方がいいのかもしれないわ」
どこか冷たい響きを伴う紫の言葉を聞いて、幽々子は角灯を撫でる手を止める。
しかし反論を口にしようとしたところ、先手を取った紫の声がどこか熱を帯びて響く。
「それではあの魔法使いが報われないと思うのなら、一週間前のようなことをしてあげる……多分それで正解だと思うの。
貴女の行いに触れて、縁を断ち切られたはずの騒霊達も何か心動かされるものがあったのよね? それなら、決して無駄ではなかったはずよ」
「そう……だといいのだけれどもね」
「ほら、顔を上げて。生き生きとした幽霊の姿を望む貴女自身がそんなふうに沈んでいてどうするのよ」
耳元に届けられた紫の激励に、幽々子は薄く微笑みながら再び角灯をいとおしげに撫で、それから柔らかく嘯く。
「うふふ、なんだか本当に珍しいことが続くわね。私が健気に頑張っている姿を見ると、潰してみたくなるなんて言ってたくせに」
「生憎と今回は頑張っている姿は見ていないもの。頑張った結果なら堪能させてもらいましたけど」
軽口を交わし合う頃には幽々子は暢気な口調を取り戻し、紫の声も涼しいものになっていた。
そして幽々子は立ち上がると扇子を広げ、『人魂灯』の前に近づける。
「さて、湯冷めしちゃうと今の気分が台無しだから私はもう寝るわ」
「まぁ随分と早寝ですこと」
「瑞々しくてぴちぴちな幽霊を目指すためには、健康的な生活習慣を心がけることが大切なのよ。
亡霊の癖に早寝なの、って言われたこともあったけどね」
「そう。ならそんな健気な友人がぐっすり眠れるよう、嫌な光景は見ないように夢の中をいじっておきましょう」
「あら素敵。そのまま永眠できそうね」
肩をすくめながら震わせた後、幽々子は扇子を一振りして灯火を吹き消す。
同時に紫の声も途絶え、船室には暗闇と静寂と暖かい空気が残された。
ところがまもなく、そこに扉を遠慮がちに叩く音が割って入ってくる。
「幽々子様、失礼してよろしいでしょうか?」
「妖夢? ちょっと待ってなさい。今開けるわ……」
従者の突然の訪問に戸惑いながらも幽々子は扉へ向かい、ゆっくりと開いてやった。
「夜分遅くに恐縮ですが、お水をお持ちしました……ってあれ? お休みのところでしたか。てっきりまだ起きているものかと」
部屋の外に立っていた妖夢は真っ暗な室内を見て、意表を突かれたような表情を浮かべた。
「あら、貴女の言うとおりまだ起きていたわよ。これから寝ようとは思っていたけど」
「そうでしたか。いやその、先程は長湯だったものですから、喉が渇いていないかと思いまして。
まぁ自分がそうだったから、幽々子様も入り用ではないかと考えたんですけどね」
「へぇ、気が利くじゃない。いただくわ」
「はぁ、それでは」
妖夢が部屋へ足を踏み入れるのと同時に、幽々子は『人魂灯』に明かりとしてのみの役割を与える。
そして机に戻り、妖夢から差し出された水入りの湯飲みを一口飲みこむ。
清涼感をひとしきり味わった後、対面に座るよう促しておいた妖夢にも水を注いでやった。
恐縮しながらそれを受け取る妖夢に、ついでに問いかけをも渡す。
「どう? 憧れていた船旅、楽しんでいるかしら?」
「そうですね……気心の知れた人達と一緒だからか、最初はあまり面白みがないと思っていた月の海も今は違って見えます。
あとはムラサ船長の聖輦船が、笹舟から想像していたもの以上に立派なのが良かったですね」
「そう、良かった。船酔いで死にそうな顔をしていた時は、呆れもしたけどちょっと可哀想だとも思ったから」
「ゴホッ! そ、それはもういいですから!」
とうとう主人にまでその話題で弄られてしまった妖夢は、むせながら抗弁する。
それでも口元の緩みを直そうとしない幽々子を見て、何とか話題を逸らそうと必死で頭を巡らせる。
「で、でも幽々子様だって、先程から随分と上機嫌でしたね。どうも気質の波が浮ついているようで」
「気質?」
その苦し紛れの言葉はしかし、どういうわけか幽々子の意表を突くことに成功した。
「……もしかして妖夢、会得したのかしら? 『楼観から魂(たま)をも断つ心の眼』を」
「はい。永夜異変の折、幽々子様にさんざん『その大きな半幽霊は何の為についているの?』と言われましたからね。
おかげでようやく、お師匠様が昔授けて下さった教えを詳しく吟味することができました」
その反応を見て妖夢はしたり顔になり、続いて一つ咳払いしてから厳めしそうな顔つきになって言葉を続けた。
「『妖夢、我々半人半霊は余人にはない感覚を備えている。それこそが自らの半幽霊を通じて、心ある者の気質を捉える程度の能力。
その感覚を研ぎ澄ませば、たとえ耳目を塞がれていようとも、相手がどこにいてどのような心持ちでいるかを判断できるのだ』
つまり、自分と似た気質を感じ取って集まろうとする幽霊と同じことをすれば、目を閉じながらでも相手を斬れたんですね」
どこか得意げに語る妖夢を微笑ましく思いながら、幽々子はふと、いつもは真っ直ぐのはずのその髪が少し波打っていることに気付く。
何となく、身を乗り出してそこへ指を絡めてみた。
「髪型、変えたのかしら? 伸びてもいるみたいだし……生身の身体を持っているものはこちらが驚くほど早く移ろうものなのね」
「あ、いやまぁ、湯上がり後に整え忘れただけですが。見苦しいようでしたらすぐに直します。
ただその……」
「何? 別に見苦しいとは思っていないけど」
「で、ですよね。それにほら、何となくこう、幽々子様っぽくないですか?」
「私の? まぁ言われてみればそう見えないこともないわね。
……ひょっとして、真似したの?」
「あ、あはは……恐れながら。憧れでもありましたから」
少しはにかみながらも、妖夢は真っ直ぐ幽々子を見据えて答える。
それを受けた幽々子は弾かれたように妖夢の髪から手を離し、後ろに転倒しかねない勢いで椅子に座り込んだ。
そのまま顔を俯けたかと思うと、急に湯飲みを乱暴に煽るなど、せわしない挙動を見せるようになる。
妖夢はそんな突然の変化を、相手の気質を探ることも忘れて呆然と見つめた。
「ゆ、幽々子様?」
「……成仏を忘れた亡霊は新たな生を産まない。されど育むことなら或いは、ということかしら」
「え? 今なんと――」
「お風呂で言ったことは撤回してあげる、ってことよ。実際、身体つきも昔に比べて変わっていたからね」
「ちょっ!?」
しかし常にない態度を示したのは束の間のことで、幽々子はすぐにまた妖夢をからかうくらいの余裕を回復させた。
「はぁ……もういいです。心配した私が馬鹿でした。幽々子様はやっぱり幽々子様ですね」
少し気分を害した妖夢は、乱暴に立ち上がると水差しと湯飲み二つを回収し、部屋から出て行こうとする。
その背に向けて、幽々子は穏やかな声音で告げる。
「ありがとう、妖夢」
首だけを振り向かせた妖夢は、感慨深そうに微笑む幽々子を視界に映したことで、吊り上げていた眉を軽く和らげる。
しかしすぐにそっぽを向き、「べ、別にお水くらい大した手間ではありませんよ」と言い放ってから部屋を去っていった。
後に残された幽々子は改めて灯を落とし、充足した気分を抱えたまま床に就いた。
面白いと思いますがなんだか急に終わってしまっ感じがします
なるべく具体的な言葉で語ることを心がけています。
作品と作者様に対する礼儀ってのも勿論あるのだけど、なによりの理由は例え的外れではあったとしても、
自分の中で納得出来る感想を残したいから。「俺はこれだけこの作品を理解したんだぞ」っていう自己満足を得たいから。
前置き長ぇな。
正直この物語は難敵。はっきりどうこうとは言えないんだけど好き&もやもやする、って部類の作品だから。
でもそれだとなんか負けた気がするので、無い頭を振り絞って考えてみます。
文体は文句なしに好み。よどみや矛盾がなくてさらっとしている。描写も過不足なくて素敵だ。
設定がとてもロマンチック。月の海をクルージングなんざ風流でげすなぁ、ってな感じ。
『大海原は俺のもの』的な冒頭にもワクワクさせられました。
登場人物それぞれに目配り・気配りが為されているのも宜しいんじゃないかと。
もやもや部分、いきます。
後書きを読んで思いました。「作品全体の印象に似てるな」と。
つまり、箇条書きでわかりやすい、言っていることも理解できる、でも作者様が一番伝えたいことが
最後までこちらに響いて来なかったのです。当然俺の読解力に難があることも絡んでくるのですが。
船上ゲリラライブのシーンで顕著なのですが、「うおお、こっから最高に盛り上がるぜ」ってところで
サクッと次のシーンへ、みたいな感じでスカされることもあったかな。
キャラは十分魅力的なんだけど、「君に決めた」的な娘は見つけられなかった。
銭湯描写。うーんなんだろう、こう、もうちょっとプルプル感があれば? みたいな。うん、激しく蛇足ですね。
如何でしたでしょうか。
『納得はできないけど、言いたい事はわかった』
などと思って頂ければ幸いです。
幻想郷の幽霊の魅力をみせてくれてありがとう、という感じです。
紫と幽々子の想い、いいですね。紫はどこか屈折しつつもあたたかい。
ぜいたくなことを言うようですが、独自に深めた設定が多いためか
どうしても説明口調が冗長に感じる部分もあったので、満点は避けておきます。
その深め方が山野さんの作品の魅力でもあるので難しいところですが。
今後の作品も楽しみにしています。
舞台が良くできていると、キャラクターのセリフが行動が舞台を生かすためになりがちですが、このお話は
三姉妹も妖夢も、幽々子もムラサも紫も、みんな魅力的で優しい。特に三姉妹とムラサは、
自分の中でキャラクター観が変わるくらいいいものを見せていただきました。
月の海をゆく船というのもとても幻想的で素晴らしいシチュエーションです。
静かで、優しい物語であるように感じました。