寺子屋の帰りに、空き地で遊ぶこと。それが少年の楽しみだった。
空き地はただの原っぱだったが、子どもたちにとっては、どんな場所にも変わる夢の空間だった。
あるときは広大な草原となり、チャンバラごっこを繰り広げ、あるときは未開の地となり探検ごっこをしたり、ときには枝や草をかき集めて、秘密基地を作ったりもした。
また、原っぱに寝転んで、草や土の匂いを嗅ぐのも彼の楽しみの一つだった。
そんな子どもたちの輪に、時折加わる者がいた。
「あ、帽子のお姉さん! 一緒に遊ぼう!」
帽子のお姉さんと呼ばれた少女は、その薄緑色の髪を揺らし、ふわふわとした笑顔で、子どもたちに混ざる。
その常に笑顔でいて、つかみ所の無い不思議な雰囲気と、急にふらりといなくなってしまうような突拍子のなさから、彼女は子どもたちに人気だった。
もちろん彼も、彼女のことが好きだった。
一緒に原っぱで追いかけっこをしたり、夢中で玉けりや鞠つきをしたり、秋には焼き芋屋にもらった芋を、一緒に食べたりすることもあった。また、彼は絵をかくのが得意だったので、墨でかいた似顔絵を彼女にあげたこともあった。
ある時、子ども達の間で、彼女が実は人間ではないという噂が立ったが、彼は気にもしなかった。
というのも、既に寺子屋の生徒に妖精や妖怪はいたし、そもそも寺子屋の先生からして純粋な人間ではない。
だから例え、彼女が人間でなくとも今更、驚くことほどのことではなかった。
それに何より、彼女が何者であろうと、彼にとっては一緒に遊んでくれる優しいお姉さんであることに、変わりはなかったのだ。
●
やがて、時は流れ、彼は寺子屋を卒業する年になった。
寺子屋を卒業すること。それは大人の仲間入りをするということを意味する。
彼は原っぱで遊んだり、彼女に会ったり出来なくなってしまう事に対し、一応の未練はあったものの、それよりも、大人の仲間入りが出来る喜びの方が大きかった。
寺子屋の後輩たちに対して、優越感すらあった。ちょうどそんな年頃だった。
卒業して彼は、すぐ働きに出た。
生活していくためなのは勿論のこと、これから立派な大人としてやっていくためにも、彼は無我夢中で働いた。過去を振り返る暇もないほど働いた。
やがて、妻子をもうけ、守る者が出来た彼は前にも増して、それこそ馬車馬のように働いた。
働いて働いて働いて稼ぎ、その稼ぎで一家を養い、支えた。
近所からの評判も良く、「よく出来た旦那さんだ」と、言われるようになった。
一家の大黒柱としてその責任を果たせている自負心、それが彼の支えとなっていた。
●
そんなある日、彼は夢を見た。
それは幼い頃の自分が、他の子どもと一緒に原っぱで遊んでいる遠い昔の夢だった。
その夢は妙に生々しく、草や土の匂いすらもはっきり感じとれるほどだった。
そしてその夢には、子どもたちに混じって一緒に遊ぶ、帽子をかぶった女の人の姿もあった。
目覚めた彼は、思わぬ懐かしさに浸ると共に、このとき初めて、自分が大人になってしまったことへの、一抹の寂しさを感じた。
そして彼は、夢の彼女が何者なのか記憶の糸をたぐったが、とうとう思い出すことができなかった。
月日の流れというのは、実に残酷なもので、昔、あれだけ一緒に遊んだ人の記憶すらも、忘れさせてしまったのだ。
彼は、それからしばらくの間、彼女のことが、心の中で引っかかり続けていた。
しかし、どうしても思い出せなかった彼は、きっと彼女は夢の中の妄想の住人だ。と、結論づけて、忘れてしまうことにした。
そしてその夢自体も、いつの間にか、忘れてしまっていた。
●
更に時は流れ、いつしか彼の子どもは寺子屋へと通う年になっていた。あるとき、子どもが彼に告げる。
「そういや、最近さ、帽子かぶったお姉ちゃんが、一緒に遊んでくれるんだ。変わった人だけど面白いんだよ」
「へえ、そうなのか。それは良かったな」
彼は適当に返事をして、それを聞き流してしまう。
しかし、あとで、ふと気付いた彼は、子どもに、その人がどんな姿なのか一応たずねた。
そしてその特徴を聞いた彼は、驚きを隠せなかった。
それもそのはずで、彼女は夢に出てきた少女そっくりだったのだ。
更にそれが引き金となり、彼はようやく彼女との記憶をはっきりと思い出した。
彼は、彼女を忘れてしまっていた自分を大いに悔やんだ。
――なんてことだ。やっぱり昔、彼女に会っていたんじゃないか。どうして忘れてしまっていたんだ! あんなに一緒に遊んだというのに……。
同時に、彼女が人間ではないということにも、気付いてしまったのだが、それは彼にとってどうでもいいことだった。
何故なら彼女が何者であろうと、彼にとっては一緒に遊んでくれた、優しいお姉さんということに、変わりはなかったからだ。
●
次の日、居ても立ってもいられなくなった彼は、久しぶりに子どもの頃に遊んだ空き地へ足を運んだ。
そこはあの頃と変わらず、原っぱのままだった。
彼は懐かしい情景に思わず目を細めたが、次第に違和感を覚える。
子どもの頃、あれだけ広大に、色んな世界に見えた夢の空間は、ただのこぢんまりとした草の生えた広場以上のものではなかった。
彼は戸惑いつつ、原っぱに寝転ぶ。
しかし、子どもの頃に好きだった草や土の匂いも、もう感じとれなくなってしまっていた。それどころか、土臭いような不快臭すら感じてしまい、思わず立ち上がってしまう。
彼は虚空を見つめ、長いため息をもらす。
急に、居心地の悪さを感じた彼が、広場から帰ろうとしたその時だ。
視線を感じた。
振り返ると、帽子をかぶった少女の姿。
「帽子のお姉さん!?」
彼が呼びかけるも返事はない。少女はすぐ消えてしまった。
その後、彼は何度もその場を見直すが、とうとう彼女の姿は見えなかった。
やっぱり気のせいだったか。と、結局、彼はそのまま空き地を出た。
寺子屋が終わる頃、彼は再び空き地に通りかかる。
子どもたちが、賑やかそうに遊んでいるのが見えた。
そこに少女の姿はなかった。
しかし、明らかに子どもたちは見えない「誰か」と遊んでいるように見える。
それを見た彼は、何かに納得したように思わず目を細めた。
――この子達もいずれ大人になり、きっと彼女のことは忘れてしまうのだろう。
彼は、そっとその場を去った。
●
家に帰った彼は絵を描き始めた。
自分の記憶を頼りに、出来るだけ詳細に。顔料も使って、出来るだけ鮮明に。
そして出来上がったその絵を眺めていると、絵をみた子どもが話しかける。
「あ、帽子のお姉ちゃんだ!? すごいそっくり! もしかして父ちゃんもお姉ちゃんに会ったことあるの!?」
彼はゆっくりと頷き、穏やかな笑みを浮かべながら子どもに告げた。
「……この人はな。子供のときだけ見えて一緒に遊んでくれる人なんだよ。大人になると彼女のことは忘れてしまうんだ。……だけど、こうして絵に残しておけば、例えお前が大人になったときも、この人のことを思い出せるだろう。いつまでも大切にするんだぞ。この人と遊んだ記憶を……」
このとき彼の脳裏には、広大な原っぱで、少女と一緒に、無邪気に走り回っている景色が、どこまでも広がっていた。
それは妄想などではなく、紛れもない、幼い頃の記憶。
もう二度とは戻れない、夢の記憶――
空き地はただの原っぱだったが、子どもたちにとっては、どんな場所にも変わる夢の空間だった。
あるときは広大な草原となり、チャンバラごっこを繰り広げ、あるときは未開の地となり探検ごっこをしたり、ときには枝や草をかき集めて、秘密基地を作ったりもした。
また、原っぱに寝転んで、草や土の匂いを嗅ぐのも彼の楽しみの一つだった。
そんな子どもたちの輪に、時折加わる者がいた。
「あ、帽子のお姉さん! 一緒に遊ぼう!」
帽子のお姉さんと呼ばれた少女は、その薄緑色の髪を揺らし、ふわふわとした笑顔で、子どもたちに混ざる。
その常に笑顔でいて、つかみ所の無い不思議な雰囲気と、急にふらりといなくなってしまうような突拍子のなさから、彼女は子どもたちに人気だった。
もちろん彼も、彼女のことが好きだった。
一緒に原っぱで追いかけっこをしたり、夢中で玉けりや鞠つきをしたり、秋には焼き芋屋にもらった芋を、一緒に食べたりすることもあった。また、彼は絵をかくのが得意だったので、墨でかいた似顔絵を彼女にあげたこともあった。
ある時、子ども達の間で、彼女が実は人間ではないという噂が立ったが、彼は気にもしなかった。
というのも、既に寺子屋の生徒に妖精や妖怪はいたし、そもそも寺子屋の先生からして純粋な人間ではない。
だから例え、彼女が人間でなくとも今更、驚くことほどのことではなかった。
それに何より、彼女が何者であろうと、彼にとっては一緒に遊んでくれる優しいお姉さんであることに、変わりはなかったのだ。
●
やがて、時は流れ、彼は寺子屋を卒業する年になった。
寺子屋を卒業すること。それは大人の仲間入りをするということを意味する。
彼は原っぱで遊んだり、彼女に会ったり出来なくなってしまう事に対し、一応の未練はあったものの、それよりも、大人の仲間入りが出来る喜びの方が大きかった。
寺子屋の後輩たちに対して、優越感すらあった。ちょうどそんな年頃だった。
卒業して彼は、すぐ働きに出た。
生活していくためなのは勿論のこと、これから立派な大人としてやっていくためにも、彼は無我夢中で働いた。過去を振り返る暇もないほど働いた。
やがて、妻子をもうけ、守る者が出来た彼は前にも増して、それこそ馬車馬のように働いた。
働いて働いて働いて稼ぎ、その稼ぎで一家を養い、支えた。
近所からの評判も良く、「よく出来た旦那さんだ」と、言われるようになった。
一家の大黒柱としてその責任を果たせている自負心、それが彼の支えとなっていた。
●
そんなある日、彼は夢を見た。
それは幼い頃の自分が、他の子どもと一緒に原っぱで遊んでいる遠い昔の夢だった。
その夢は妙に生々しく、草や土の匂いすらもはっきり感じとれるほどだった。
そしてその夢には、子どもたちに混じって一緒に遊ぶ、帽子をかぶった女の人の姿もあった。
目覚めた彼は、思わぬ懐かしさに浸ると共に、このとき初めて、自分が大人になってしまったことへの、一抹の寂しさを感じた。
そして彼は、夢の彼女が何者なのか記憶の糸をたぐったが、とうとう思い出すことができなかった。
月日の流れというのは、実に残酷なもので、昔、あれだけ一緒に遊んだ人の記憶すらも、忘れさせてしまったのだ。
彼は、それからしばらくの間、彼女のことが、心の中で引っかかり続けていた。
しかし、どうしても思い出せなかった彼は、きっと彼女は夢の中の妄想の住人だ。と、結論づけて、忘れてしまうことにした。
そしてその夢自体も、いつの間にか、忘れてしまっていた。
●
更に時は流れ、いつしか彼の子どもは寺子屋へと通う年になっていた。あるとき、子どもが彼に告げる。
「そういや、最近さ、帽子かぶったお姉ちゃんが、一緒に遊んでくれるんだ。変わった人だけど面白いんだよ」
「へえ、そうなのか。それは良かったな」
彼は適当に返事をして、それを聞き流してしまう。
しかし、あとで、ふと気付いた彼は、子どもに、その人がどんな姿なのか一応たずねた。
そしてその特徴を聞いた彼は、驚きを隠せなかった。
それもそのはずで、彼女は夢に出てきた少女そっくりだったのだ。
更にそれが引き金となり、彼はようやく彼女との記憶をはっきりと思い出した。
彼は、彼女を忘れてしまっていた自分を大いに悔やんだ。
――なんてことだ。やっぱり昔、彼女に会っていたんじゃないか。どうして忘れてしまっていたんだ! あんなに一緒に遊んだというのに……。
同時に、彼女が人間ではないということにも、気付いてしまったのだが、それは彼にとってどうでもいいことだった。
何故なら彼女が何者であろうと、彼にとっては一緒に遊んでくれた、優しいお姉さんということに、変わりはなかったからだ。
●
次の日、居ても立ってもいられなくなった彼は、久しぶりに子どもの頃に遊んだ空き地へ足を運んだ。
そこはあの頃と変わらず、原っぱのままだった。
彼は懐かしい情景に思わず目を細めたが、次第に違和感を覚える。
子どもの頃、あれだけ広大に、色んな世界に見えた夢の空間は、ただのこぢんまりとした草の生えた広場以上のものではなかった。
彼は戸惑いつつ、原っぱに寝転ぶ。
しかし、子どもの頃に好きだった草や土の匂いも、もう感じとれなくなってしまっていた。それどころか、土臭いような不快臭すら感じてしまい、思わず立ち上がってしまう。
彼は虚空を見つめ、長いため息をもらす。
急に、居心地の悪さを感じた彼が、広場から帰ろうとしたその時だ。
視線を感じた。
振り返ると、帽子をかぶった少女の姿。
「帽子のお姉さん!?」
彼が呼びかけるも返事はない。少女はすぐ消えてしまった。
その後、彼は何度もその場を見直すが、とうとう彼女の姿は見えなかった。
やっぱり気のせいだったか。と、結局、彼はそのまま空き地を出た。
寺子屋が終わる頃、彼は再び空き地に通りかかる。
子どもたちが、賑やかそうに遊んでいるのが見えた。
そこに少女の姿はなかった。
しかし、明らかに子どもたちは見えない「誰か」と遊んでいるように見える。
それを見た彼は、何かに納得したように思わず目を細めた。
――この子達もいずれ大人になり、きっと彼女のことは忘れてしまうのだろう。
彼は、そっとその場を去った。
●
家に帰った彼は絵を描き始めた。
自分の記憶を頼りに、出来るだけ詳細に。顔料も使って、出来るだけ鮮明に。
そして出来上がったその絵を眺めていると、絵をみた子どもが話しかける。
「あ、帽子のお姉ちゃんだ!? すごいそっくり! もしかして父ちゃんもお姉ちゃんに会ったことあるの!?」
彼はゆっくりと頷き、穏やかな笑みを浮かべながら子どもに告げた。
「……この人はな。子供のときだけ見えて一緒に遊んでくれる人なんだよ。大人になると彼女のことは忘れてしまうんだ。……だけど、こうして絵に残しておけば、例えお前が大人になったときも、この人のことを思い出せるだろう。いつまでも大切にするんだぞ。この人と遊んだ記憶を……」
このとき彼の脳裏には、広大な原っぱで、少女と一緒に、無邪気に走り回っている景色が、どこまでも広がっていた。
それは妄想などではなく、紛れもない、幼い頃の記憶。
もう二度とは戻れない、夢の記憶――
親子二代で出会った不思議な帽子のお姉ちゃんが素敵でした
儚い存在が感じられてよかったです
それでも感情の篭っていると感じた、とても好きな作品です。
趣深くて綺麗なお話でした。
こいしの魅力がギュッと詰まっていますね。
仕事人ですね。