華扇はまた一つ、団子を口に放り込んだ。
色は彼女の髪と同じ、鮮やかな桜色だ。
「華仙様もよくお食べになりますのね。うちの芳香も負けていられませんわ」
「うおお、食べるぞー!」
芳香の大声に振り向いた店員を青娥が右手で呼びつける。団子の追加を頼まれた店員はやや上の空の様子で承った。
上の空の理由は明らかだ。店内に団子以上に魅惑的な花が咲いているからである。
茨木華扇と霍青娥。桃色と青色の花。立てば芍薬、座れば牡丹~、と諺にあるように、美人は昔から花に例えられるものだ。
「青娥、貴女はそんなに食べないのね」
いつの間にか食べた本数でキョンシーと競わされていた事実に気付き、気恥ずかしそうに華扇が言う。
「美味しい物は好きですよ。ですがそれ以上に、私は美味しい物を幸せそうに食べる人を見るのが好きなのです」
その言葉に華扇の頬も桃色に染まる。
いや、これは邪仙の罠だ。きっと私ではなく芳香の事を言っただけなのに私を困惑させようとしているのだ。
そう心の中で決めつけて頭を小さく横に振る。
「恥ずかしがる事はないでしょう? よく食べて、よく飲んで、よく寝て。それも仙道ですよ」
「それは貴女の仙道でしょう。私の道は貴女とは全く違いますから」
華扇は天道と共にあると自称している。邪道を行く仙人と一緒にされたくないのは当然の話である。
「団子いっぱい食ってる食欲まみれの奴に言われても説得力が足らんぞー」
芳香から言われたが図星なので言い返すこともできない。死体に言い負かされたとは認めたくないので無言で団子を口に運ぶ。死人に向ける口は無しだ。
そもそも食事というのは誰にも邪魔されず、一人で静かにするのが一番だと誰かが言っていた気がする。どうして私はこの二人と一緒に団子を食べだしてしまったのか。華扇は少し前の自分の判断を後悔していた。
「そんな嫌そうな顔をなさらないでくださいよぉ。華仙様とこうやってゆっくりと話す機会に恵まれて、私はこの偶然にとても感謝しているのですよ」
嫌ではない。嫌ではないが。
「なんだかなあ……」
──遡ること数十分前、華扇は浮き足立っていた。
いつもご贔屓にしていた人間の里の甘味処で、秘伝のタレを改良した新商品が開発されたという。
これは是非とも味を確かめて助言をしてあげなければなるまい、という大義名分の下に華扇は早速駆けつけた。
そこで彼女は出くわしてしまったのである。
「はい芳香、ご挨拶なさい。こーんにちーは」
「くおぉ、こーんにーちはー! お団子ひとつ、くーださーいなー!」
自身のキョンシー、宮古芳香と一緒に食べ歩きをしていた霍青娥に。
「あらあら、どなたかと思ったら山の仙人様ではないですか! せっかくですからご一緒しませんか? 美味しい物はみんなで食べるともっと美味しいんですよ。華仙様なら当然ご存知ですよね?」
断る間も与えない青娥の弁に華扇は押し負けてしまったのだ。
もっとも、華扇自身は青娥に特段悪い印象を抱いているわけではない。彼女も、仙人としては特殊だから──。
芳香は手を使わずに団子を串ごと頬張り、咀嚼の後に串だけ吐き出す独特の食べ方をしていた。身体が硬すぎて関節が曲げられない彼女ならではのやり方だ。
「……貴女のキョンシーと対面するのは初めてだったわね」
初めて青娥に会った時、華扇は彼女から邪仙と呼ばれるに足る程の邪気を感じなかった。こうして邪術の結果を目の当たりにした今、ようやくそれを実感している。
「腐っていて可愛いでしょう? 私が手塩にかけて育てた自慢のキョンシーなのです」
まともな人間ならば青娥の言う事に誰も共感などしない。もちろん華扇、厳密には『茨華仙』だってそうだ。しかし、彼女の『失われた部分』は全く異なる感想を抱くことだろう。
「それは、腐っていなかったら可愛くないという事かしら」
「とんでもない。腐っていようがなかろうが、芳香が可愛いことには変わりありませんとも」
「ぬぁんのぉ、青娥も可愛くて美しいぞー!」
あばたもえくぼ、という言葉がある。青娥は芳香がどんな事をしようが可愛いと言うに違いない。それほどに芳香は溺愛されていた。
「……否定ならいくらでもできるけど、貴女はとっくに聞き飽きているでしょうね。それより同じ仙人として聞かせてもらいたいの。貴女はどうして死者を弄ぶ邪悪な術法を使うのかしら?」
「そういう話も飽きていますけど……おそらく華仙様が本当に関心を持っているのは私の術ではないのでは?」
「なぜ、そう思ったの?」
「それは華仙様の本質が私と似ていると思ったからです。現に同じ仙人と言いましたものね。豊聡耳様は口が裂けても私と同じなどとは言いませんよ」
その通りだった。邪仙と呼ばれる霍青娥などよりもずっと、華扇は己が内の『邪』と向き合ってきた。そして邪を取り戻した彼女は、改めてそれと共に往く道を選んだのだ。
「これはこんな団子屋でする話ではございませんね。華仙様さえ宜しければ、もっと相応しい場所でじっくりとお話したいものですが」
「おーう、私は華扇の家に行ってみたいぞー。動物がいっぱいいるんだろぅ?」
青娥に代わって芳香がねだる。これは所謂、親の主張を子供に言わせる卑怯な手である。
「そんな、急に言われても私にだって準備というものが……」
「どっちにしても、私と『邪』を語らう以上は華仙様の『右腕』にも言及致します。私は別に構いませんけれども、貴方様はここで話したくはないでしょう?」
「……っ! どこで、それを……」
華扇が包帯に巻かれた空っぽの右腕をぎゅっと押さえる。
「私は人間が大好きですから」
青娥はそう言ってただ微笑んだ。
人が好きだからよく観察している。人らしくない人は見れば分かる。
彼女の短い言葉にはこれだけの意味を込められていた。
「酒と、血のニオイがするのだ。縁日であった小鬼も同じようなニオイがしたのだぞ」
芳香が言っているのは間違いなく萃香の事だ。袂を分かったかつての仲間と同じ匂いがするだなんて、華扇には受け入れ難い事実だった。
「見る人が見れば一発で分かるでしょうが、以前は酒宴の為に鬼の秘宝を持ち出してきた事もありましたよね。本気で隠すつもりがありましたか?」
青娥が言うのは茨木の百薬枡の事だろう。それで酒を飲むと体が癒える代償に身も心も鬼と化していく。元々鬼の華扇だからこそ常用できる品だ。
「……あらごめんなさい。甘味処でそんな苦いお顔をさせるつもりはなかったのに。この話は置いといて、食べましょう?」
青娥が芋羊羮を一切れ、幸せそうな表情で口に運んだ。芳香も大福を上に放り投げて口でキャッチする。無作法もいいところだが体が硬いのでしかたない。不器用なくせに器用だ。
何が悪かったのか、いや自分が悪かったのだ。
自分がキョンシーを咎めなければ、三人笑顔で菓子を頬張っていたに違いない。キョンシーが駄目ならば私は。こんなシニヨンキャップを着けていなければ人里に入れもしない私は。
「……ごめんなさい。青娥の言うとおり、ここで言う話じゃなかったわ。ここは奢るから、それで許してちょうだい」
「あら、そんな! 豊聡耳様にツケるからお代なんて気にしなくても良かったのに」
聞き捨てならない発言であった。
「アナタ、弟子にお金払わせてるの!?」
華扇が机を両手でバンと叩く。確かに豊聡耳神子は青娥の弟子であるが、実際の二人の関係はいろいろとややこしいのだ。
「そうなんですけど……聞いてくださいよぉ。あの方ったら言うに事欠いて、ペットの餌代は飼い主が払うのが当然だ、なんて言い放ったんですよ! 私を畜生と同じに扱うだなんて酷くないですか!?」
「結局その言葉に甘えてツケてるんでしょうが! 恥を知りなさい!」
「豆一つにびくびくして節分大会をねじ曲げていた誰かさんに恥とか言われたくありません~!」
「な、なんですってぇ~!?」
二人の周囲にいた客からくすくすと笑い声が漏れる。初めは何かをやらかすのではと警戒されていた邪仙だが、二人でこうやって漫才をしているなら大丈夫だろうという安堵も混じっていた。
実のところ、青娥と芳香がスムーズに飲食できているのは、華扇という責任者がたまたま一緒だったからである。信用の差というのは大きい。奢るべきなのは青娥の方なのだ。
「頭に糖分が足りてないからそうカッカとするんだぞぅ~……」
二人のつまらないようで大事な口喧嘩を余所に、芳香はのんきに犬食いで汁粉をすするのだった。
◇
「それでは、第二ラウンドですね」
青娥は酒瓶の底をドンとちゃぶ台に叩きつけた。
「ここなら他の誰も来ないわ。思う存分やろうじゃない」
華扇は枡を青娥に向けて酒を促した。
結局、代金を払ったのは華扇の方だった。奢られた以上は奢り返さねばなるまいと、この酒を提供したのは青娥である。鬼すら酔わせる仙人とっておきの秘蔵酒だ。
場所は先の提案通り、茨木華扇が山の中に構える道場に決まった。特殊な手順を踏まないと入ることすらできない仙界にあり、力無き者では辿り着くことすら不可能だ。
もう一人、と言うべきだろうか。華扇、青娥、芳香に加えてさらに同席している物がある。
鬼の腕だ。
「これが私の邪そのもの……かつて人間達に切り落とされた右腕……」
華扇は腕が封印された箱に、酒が注がれた枡をこつんと当てた。
「かんぱーい!」
芳香の元気な声に合わせて青娥も同じように鬼の腕と乾杯をする。
「私にも、邪の象徴であり右腕でもある芳香が居ます。華仙様と同じですね」
「……華扇よ。呼び捨てでいいわ。私と同じなのでしょう? それに本来は貴女の方が仙人の道においては先達なのだし」
「あらあら。それではお言葉に甘えますよ、華扇」
仙人達は不敵な笑みを交わしあった。
「そうそう、酒の肴にこんな物があるのですよ。華扇は食べ飽きてるかもしれないけど……」
青娥がちゃぶ台の上に包みを置いた。
「おーにーくー。にーくー!」
芳香の喜びの声の通り、包みを開くとそこには干し肉が入っていた。一見するには何の変哲もない、ただの干し肉だ。しかし華扇は一目でその素材となった生き物を看破してしまった。
「……人の肉ね」
味を見るまでもない。匂いでわかる。『食べ飽きている』とはそういう事だから。
「はい正解です。簡単すぎたかしら?」
「そうね。そして貴女の方は間違いがあるわ」
「と言うと?」
「好物というのは食べ飽きないものなのよ」
そう言うと華扇は肉を左手で一切れつまみ上げた。酒を一口飲むが、まだ肉は口に入れない。
「ふふ。ちょっとした意地悪も兼ねていたのですが全く動じませんでしたね。流石です」
「横には茨木童子の私が居る。取り繕う気なんてないわ。それで、邪仙様は何を期待していたのかしら。人肉を食材にした事への咎め? それとも誰の肉を使ったか? 万が一、私の友人が素材だったなら、貴女には地獄すら生温い責め苦を味わってもらうけど」
青娥も肉を一切れ手に取った。顔の前にかざしてその匂いを嗅ぐと、少しだけ眉をしかめる。
『いただきます』
芳香と共に、肉を口に放り込み、それを酒で流し込んだ。
「やっぱりあまり美味しくはありませんね。私の口には合いません」
「むむぅ、私はビーフジャーキーが一番好きだぞぉ」
文句を言いながら二人で一枚ずつ肉を食べる。
「後ろからお答えしましょうか。まず貴方の友人ではありませんし、私も初対面の方でした。人種はたぶん中国人でしょうね。中国で手に入れた死体ですから。まあ……それ以外の可能性もありますが」
「貴女が殺したの?」
「いいえ。大きな鼠取りにかかっていただけですよ。幻想郷の外にある私の物置なのですが、時折招かれざるお客が来るもので。私の家に食糧を漁りに来た浮浪者だったようですが、まさかミイラ取りがミイラになるとは思わなかったでしょうねえ」
そこまで聞いて華扇はようやく合点がいった。この肉は明らかに『質』が良いものではない。
華扇は合掌して肉を口に入れた。きっとろくな人生ではなかったであろう男の生涯に思いを馳せながら。
「妖魔の類が人を食べるのは精神的な部分も大きいわ。その点ではこの肉は駄目ね。きっと満たされない人生を送ったに違いない。そうは言っても私達の血肉になる以上は有り難くいただくけど」
「それはなにより。私はこちらをいただきますので」
青娥の包みにはまだ物が入っていた。甘味処でお持ち帰りしていたみたらし団子だ。
「あっズルい! 私もそっちの方がいい!」
「あらあら」
鬼とは思えない台詞に青娥が笑った。
「……最初からこれ目的で家に罠を張っていたの?」
硬い肉だ。華扇の咀嚼力をもってしても唾液で柔らかくしないとなかなか飲み込めない。
「まさか。よく誤解されますが私は無差別殺人主義ではございません。人間は好き、だから生かします。この肉の男は人と呼ぶに値しない畜生の人生を送ったようですので、せめて他人の血肉になるのが一番と判断したまで」
「本当にそれだけかしら?」
「そうですねえ。骨は粉にして庭に撒きました。良い肥料になるらしいので。内蔵は非合法のルートで買い取ってもらいました。外で使うお小遣い稼ぎにね。首から上は……これはちょっと秘密ですね。門外不出の術なので」
「……それは無駄がないことで」
褒められたと解釈したのだろう。主の代わりに芳香が胸を張る。
「青娥は、決して命を粗末に扱わんぞ。余すところなく使ってこそ供養というものだぁ」
「玩具のように死体を弄んだのなら非難されるかもしれませんが、全てを他を生かす為に使いました。文句を言われる筋合いなどありませんわ」
「貴女が気付かなかっただけで、男に妻子などがいたとしたら?」
「いませんよ。脳を覗きましたけどそんな方々はどこにも。いたとしても上手いこと事故死として誤魔化していたでしょうね。何しろほら、死体を偽造するのは尸解仙の本分ですから」
青娥は笑顔を全く崩さなかった。
これが、邪仙か。
華扇は青娥の行動原理を少しだけ理解できた気がした。
「私だって『人を食べるだなんて!』などと言い出す輩にこんな物は出しませんよ。華扇はわかっている方ですものね」
「それはまあ、鬼だからね。何を言っても全て自分に返ってくるもの。そういえば、今はこんなキャップも要らなかったわ」
頭の両脇に着けていたシニョンキャップを取り外し、鬼の象徴たる角を青娥達にさらけ出した。
「念のため言うけど、本気を出したらもっと立派な角なのよ?」
「伊吹や星熊と同格なのでしょう? わかっておりますよ」
「私はそれも可愛いと思うぞぉ!」
鬼の角に可愛いが褒め言葉になるかは疑問だが、少し照れくさそうな華扇の様子を見るに好意的のようだった。
「そうだわ。鬼の腕を箱から出してもらえる? ちょっと試してみたいことがあるのだけど。悪い話じゃないから」
「私の腕で試したいと? 面白いじゃない。やってごらんなさい」
華扇は青娥の挑戦を受けて箱から腕を取り出した。腕はまるでそれだけで生きているかのようにもぞもぞと動いている。
今の腕は再び切り落とされたばっかりで、霊夢を襲った時のように茨木童子の姿で暴れるだけの力は持っていない。
何かあっても自分だけで対処できるはずだと、酒も入って気が大きくなっていた華扇は邪仙の頼みを軽々しく聞き入れてしまった。
「鬼の腕ってミイラなのですよね? だったら私の術が使えるのではないかと思いまして……」
青娥は腿にくくりつけていた札を一枚取り、鬼の腕に貼り付けたのだ。
「えっ!? ちょっとそれは……!」
華扇が焦るも時既に遅く、寝転がっていた腕の指が突然ピンと張り、断面を下にしてぴょんぴょんと跳びはねだしてしまう。
「うおー! 私の仲間ができたぞぉー!」
「成功ね! 腕さん、気分はどうかしら?」
右腕は干からびた指を器用に曲げてピースサインを取った。上々らしい。
「こ、これは大丈夫なの? 私の腕、動きっぱなし……?」
「お札を剥がせば落ち着きますよ。今は自立起動の式しか与えておりませんし、私が操作しているわけでもありません」
一つ訂正するならば『私に絶対に逆らうな』という重大タスクの下での自由意思である。それさえ破らなければ好きにして良いということだ。
「私の腕なんだから、貴女が持っていっちゃ駄目よ……?」
自分が困るというよりも青娥の方が危ないからだ。腕だけでも霊夢を追い込んだ実績がある。制御が外れた時に何が起きるかわかったものではない。
「右手さんもお酒はいかが? ほら、手を出して」
青娥が酒瓶を握ったのに反応して右手は跳ねた。指を閉じて酒を受け止める為の盃の形になる。ぴちゃぴちゃ掌に酒が垂らされると、右手の肌は渇いた地面の如く液体をスッと吸い込んだ。
「どう、美味しい?」
酒に濡れた右手がサムズアップした。最高らしい。
「ぅわははは! いいぞー、呑め呑め!」
芳香も真似して酒を垂らそうとする……が、何しろ加減が下手なので酒がだばだばと溢れてしまう。しかし右手には好評のようで、床にできた酒の水溜まりの上でばちゃばちゃと転げ回る。
全身に酒が染みたおかげで右腕の肌はまさしく鬼の如く朱に染まった。
「あーもーはしたない! 私の腕なんだからもっと礼儀正しく!」
ビシッ!
右手は華扇に向けておもいっきり中指を突き立てた。
「んなっ……!?」
「まあ、そうよねえ。この子、華扇には大層お怒りよ。こいつに裏切られてまた斬られたー、って」
華扇はたじろいだ。この事実を知っているのは当事者だけのはずなのに。
「……どうして、貴女が知って……」
「支配下に置いたキョンシーの思考くらいは読めますから。ふんふん……あら華扇ったら、霊夢を食べようとしたの! それはいけない子だこと……」
話を聞いてもらいながら右腕は青娥の膝に寝そべった。完全にこちらに懐いてしまったようだ。
「……そうなの。でも……鬼らしからぬ騙し討ちに近い形だったとはいえ、華扇が正しかったと思うわよ。もし本当に霊夢を殺していれば、貴方は今頃幻想郷の怖い人達からなりふり構わない制裁を受けていたでしょう」
「ぉおう、ここの怖い奴等は本当に怖いぞぉ。ゾンビの私でも怖いくらいだぞ!」
霊夢は人妖問わず慕われている。それは鬼すらも、鬼以上の存在からも。それを全て敵に回しては鬼とはいえひとたまりもない。
「本当は貴方だってわかってるのでしょう? だって貴方も華扇だもの。結局はそれが落とし所だったのよ。久々に大暴れして、ガス抜きできたのだから良しとしましょ?」
右手はがっくりと指を垂らした。右腕だけでも彼女は華扇だ。物がわからない人物ではない。もっとも、札が貼られている間は絶対服従で、どのみち和解する以外の道はないのだが。
観念したのだろうか、右腕は先と同じように掌を華扇に差し出した。酒を注げと言っているのだろう。青娥から手渡された瓶を、華扇はゆっくりと自身の右手に傾けた。
「一応、礼を言うわ。強引だったけど少しすっきりした」
「ふふ。どういたしまして」
体が少ない分、少量の酒でも効くのだろうか。すっかり真っ赤になった右腕は、ちゃぶ台の上でぐったりと転がってしまう。
「右手さんも……右手さんと呼ぶのも味気無いわね。何か名前を付けてあげましょう。茨木華扇の右手だからそうねえ……イギー?」
「むむむぅ、それはなんか犬っぽいぞ青娥ぁー」
「私に無断で勝手に付けない! 付けなくていい!」
右手も『結構です』の手振りで拒否を示すのだった。
三人と一本の酒宴は続く。枡から溢れた酒をはしたなくべろべろと舐めながら、青娥は華扇に一つお願いをした。
「ねえ華扇、腕相撲をしてもらえないかしら」
青娥は返事の前に皿をどけ、左の肘をちゃぶ台に付いた。
「……この私に力比べを? いったいどういう風の吹き回しなのかしら。貴女ってそういう性格だった?」
「私の功夫(クンフー)がどれほどのものか、華扇で試してみたいだけよ。受けてくれるわよね?」
「貴女の事だから、受けてあげないと話が進まないのでしょ?」
「そのとおり♪」
華扇も左肘を付き、青娥の左手を柔らかく握った。肌荒れ一つない繊細な指なのに、不思議な胆力が手に伝わってくる。酒で血の巡りが良くなったからかほんのりと温かい。勝負を忘れてこのままずっと握っていたいとすら思ったが、華扇は目を閉じてそんな邪念をかき消した。
芳香が二人の手を握り、開始の号令を出す。
「それでは行くぞぉー! デュエルぅ~……!」
明らかに掛け声が間違っているが二人とも酔っているので突っ込まなかった。
「ふぁいとぉ!」
決着は、一瞬で付いた。
バァン!と凄まじい衝撃が走る。ちゃぶ台の上で酔い潰れていた右腕も跳ね起きてしまうほどに。
「あたたた……流石ですね。腕力では到底及びません」
青娥がぶんぶんと振り回す手の甲は真っ赤になっていた。
華扇も手首を回して骨をぽきぽきと鳴らす。
「貴女も相当なものだったわ。この私がつい本気を出してしまうくらい……」
「この私って『どの』私ですか?」
青娥が待ち構えていたかのように突っ込んだ。
「仙人の私なのか、鬼の私なのか」
「それは……」
華扇は言葉に詰まる。おそらく青娥はこれを言いたかったが為に腕相撲など仕掛けてきたのだ。
「まあ、後者なのでしょうね。貴方の超人的力は決して仙人の修行に依るものではない。大地を割るほどの力も、人を遥かに超えた寿命も、全ては鬼として身につけていたものです。仙人を名乗っているのはその方が人里に入り込むのに都合が良いからなのでしょう」
華扇は包帯の右腕をぎゅっと握った。これを探す為の情報収集として人の振りをしていたのは本当だから。
「華扇があの小鬼の顔を見たくないのもわかりますよ。あの方は正体を隠すこともなく、邪と分断されたわけでもないのに人と交わっている。おまけに貴方が嫌がった節分でもきっちりと鬼としての役割をこなしていましたものね。貴方よりよっぽど潔くて理性的です。きっと後ろめたかったんじゃないですか?」
華扇は自分の膝元を見た。
「……そうね、その通りだわ」
対照的な二人の顔を神妙な表情で眺めつつ、芳香はまた干し肉を一枚くちゃくちゃ噛み締める。
「実際のところ、これからどうなさるんですか? 鬼の身体のままでは天からは認めてもらえませんよ。あの方々は頭がカッチカチですからねえ。かといって人の身で一からやり直すなんて堪えられますか? 人の脆弱さを知らないのは華扇の明確な欠点と言えるけど……」
「……そ、そのくらいで勘弁してやってはくれないか」
二人はハッと横を振り向いた。この状況下で口を挟めるのはたった一人。しかしそれは主の意向に背く、有り得ない話なのに。
「せ、青娥……この者は私の恩人なのだ。あまり暗い顔を見るのは辛い。せっかくの飯も楽しめん」
「芳香、貴方……」
華扇は複雑な表情で芳香の顔を見つめる。私を恩人だと言った。しかし全く記憶がない。彼女の記憶……があるのかはわからないが勘違いではないのか。
「お、お願いだ。札を剥がしてもらえないだろうか。このままでは喋りづらい」
芳香をキョンシーとして操っているのは額の札だ。札を剥がせばキョンシーではない人格が顔を見せるが、それ以上に重要なのは芳香に反逆の可能性を与えるという事だ。
故にこの札は、青娥かあるいは術の心得のある者にしか剥がせないようになっている。
「……許可するわ。こちらに来なさい」
青娥はそれを誰よりも理解した上で芳香の札を剥がした。
以前にも、墓場で一人呆然と詩を唄っていたという目撃例が寄せられている。芳香は今、その状態になったのだ。
『……ふう。いや、すまんすまん。あの札を貼っているとキョンシーらしい喋り方になるのだ。小難しい事も言えなくなってしまうし、ついでに体も固くなる』
「そう、なの。でも何故?」
「その方が可愛いでしょう?」
華扇の問いに青娥が横取りする形で答える。
『……と、青娥は言うが他の理由もある。しかしお前が聞きたいのはこんな事ではないな?』
華扇の首が縦に振られるのを見て、芳香は再び口を開いた。
「本当は言わずとも思い出してくれたら嬉しかったのだが、これを聞けばわかるのではないかな」
芳香は一度咳払いして呼吸を整えた。
『気霽れては風 新柳の髪を梳る……』
「氷消えては波 旧苔の鬚を洗ふ……」
華扇が句を返したのはほぼ無意識だった。
単に音が同じなだけの別人だと思い切っていた。しかし芳香の名前には大いに心当たりがあったおかげだ。
『おお、覚えていてくれたようだな! 詩人冥利に尽きるというものだ!』
芳香は歯を剥き出しにして太陽のように笑った。
「……嘘でしょう? まさか、貴方は……」
『羅生門で会った時の私はダンディーなイケメンだったからなあ! 女でも通じるほどの美形に産んでくれた親に感謝せねばな。ほれ、ここん所に髭が生えたと想像してみるがいい。何となく面影は残ってないか?』
鼻の下と顎を指でなぞる芳香の顔に、華扇は黒い線を浮かばせてみた。背格好こそ激変しているが、顔だけは言われてみれば確かにそうだ。それに羅生門でこの詩を詠んだ詩人。彼女に思い当たるのは一人しかいない。
「都、良香……あの時の貴方だったなんて。でも、どうして!」
都良香とは平安時代の貴族だ。漢詩に優れて文名博く、恵体で腕力も優れていたという記録が残っている。
特筆すべきは彼の漢詩に鬼が感心したという説話、そして山に消えた百年の後に全く同じ容貌で姿を表したという話もある。
『詩人に限らず、クリエイターというのはファンの事を案外覚えているものなのだよ。ましてそれが鬼からの褒め言葉ともあれば、私にとっては一生の宝物だったのさ』
「それはどういたしまして……だけどそうじゃないわ! 何故貴方が青娥のキョンシーをやっているのか、私が知りたいのはそこよ。出てきた以上は答えてくれるのよね?」
我関せず、と言わんばかりに黙って酒を煽る青娥を、華扇は鷹のような眼光で射抜く。良香に許可すると言ったのだ。無関係の振りなど許されるはずもない。
「……死んじゃったから、キョンシーにしたの。それだけの話よ」
「だったらこの干し肉のようにしても良かったはずよ。貴女が芳香をとても大事にしているのは一目瞭然。それだけ、で終わるはずがないじゃない。お願い、私は青娥の事をもっとよく知りたいの。仙人として……」
最後の言葉に反応して青娥が酒を止めた。どっちにしろ、良香が札の制御を押しきって出てきた時点で青娥の負けなのだ。白状するか逃げるかの選択肢しか無かった。
「……芳香は、いえ、生前の良香は私の弟子の一人でした」
『何故仙人を目指したか、などと野暮なことは聞かんでくれよ。並外れた知識に体力、朽ちぬ身体、数々の秘術。人ならば憧れて当然だ。さらに……』
「そう。私と出会ったのはとある山の中でだったのですが、この子は……」
そこで青娥が一つため息をこぼした。
『一目惚れだった』
「……は?」
華扇は頬を赤く染める良香を怪訝な目で見る。
『纏う空気、天女のように淑やかな見た目、仄かに漂う色香、母性溢れる優しき笑顔……全てが完璧だった。それがなんと私の目指す仙人だという。私には運命以外の言葉を思い付かなかったよ』
「ああはい、そうなの……それで弟子入りを志願したと?」
青娥が美人なのは華扇だって認める。しかしこの褒め方は『恋は盲目』と思うしかなかった。
「少々動機に不純なものはありましたが、私はこの子を受け入れました。私の教えを忠実に守る素直ないい子でしたしね」
「実はな、修行中のある時に私は告白したのだよ。晴れて仙人になれた暁には師弟の枠を越え、夫婦として生涯を共にしたいと! そうなれば一層修行にも身が入るしなぁ。だが……!」
──お気持ちは嬉しいけどね、私は結婚してるのよ。
青娥はその時の台詞を一言一句違えず同じように繰り返した。
『先に言ってほしかったなあもう!』
ガンとちゃぶ台に枡を叩き付ける良香の肩を、鬼の右腕が近寄ってぽんぽんと叩く。
「……実は、貴女と同じ名前の少女が登場するお話を読んだ事があるの。まさかと思ったけど、やはりそうだったのね」
「なあんだ、知っていたのなら話が早いじゃないですか。華扇もお人が悪いこと。まるで豊聡耳様みたいだわ」
中国の昔話の中に『仙女』という物がある。幼少の頃から仙人に憧れた少女と、それに恋をした少年の物語だ。
仙人を目指す少女に結婚する気など毛頭なかったのだが、寝所の壁に穴を開けてまで近付く程に惚れ込まれた少年の熱意に絆されて結ばれる事になる。
そんな変わり者の少年の名は霍桓。結ばれた少女の名は青娥。
そして少年が壁を破るのに使った物こそが、現在も青娥がその髪に差している鑿なのだ。
「やむを得ず結婚したようにも感じたけど、その様子なら何だかんだ夫婦仲は良かったのね」
「そう言われるのも癪に障るのですが……話を元に戻しませんか」
「青娥がそう言うのなら。それで、見事にフラれた貴方はどうしたの?」
『フラれてなどおらん! それに私はまだワンチャンあると思っているぞ!』
青娥はさらに大きくため息をついた。
「……無いから。だから貴方を目覚めさせるのは嫌だったのよ」
青娥の酒に波紋が広がる。人に付きまとうのが大好きな青娥は、逆にしつこく付きまとわれるのは苦手だった。
『……まあ、とにかくだ。仙人になりたいのは本当なのでその後もめげずに修行は続けたが、尸解仙になった時に一度『私』の記憶は途絶えているのだ。正確には、なる前にだが。次に気付いた時には私はもうキョンシーだった……ようだ』
「それはつまり……尸解の術は失敗した?」
華扇の問いを、良香は目線で青娥に流した。代わって青娥が首を横に振る。
「術は成功しました。失敗だったらそのままあの世行きか屠自古さんのようになりますから。朽ちる人の体を捨てて朽ちない物質に元神を乗り換えるのが尸解の術……ならば捨てた抜け殻はどうなるかしら。私は家族の為に亡骸を遺したけれど、既に世捨て人となっていた良香の遺体は私が保管していたの」
「……キョンシーにする為に?」
「……いいえ。解剖する為です」
青娥は全く表情を変えずに澄ました顔で言い放った。
「何故、そんな事を?」
「私は、邪仙ですから。今はそういう事にしてください。それより口が乾いてしまいました。長話だけでは酔いも興も冷めると思いませんか?」
すっかり軽くなった瓶をこれ見よがしにひっくり返す。青娥が持ち寄った酒瓶には雫一滴も残っていなかった。
「私も呑み足りないわね。辛口と、甘口。どちらがお好みかしら?」
「甘口にしましょうか。ここから先の話は、とっても苦いから」
青娥は笑顔を作る。胸の奥底に抱える、本当の感情を殺す為に。
ちゃぶ台には再び酒と、いくつかの酒の肴が並べられた。華扇だって幻想郷でも有数の呑兵衛の一人だ。酒に合う料理は常備しているのだ。
青娥はその中から小魚の佃煮を一本取って口の中で転がす。甘辛さの中にほんのりと苦味があった。
「……さて、下心もあったのでしょうが、良香は仙人になった後も私の下で修行を続けていたのです。尸解仙など仙人の中では下も下ですからね。しかし……その日々は短かった。仙人には寿命の代わりに訪れるものがあるのですが……華扇はご存じですか?」
華扇は無言でその正体に思いを馳せた。
「……死神」
青娥の当てこするような言い方には皮肉が入っている。元から人を超えた寿命を持つ彼女にはいつ彼らが来るのかもわからないのだから。
「そう、死神です。まあ厳密には担当が違うのですが面倒なのでそういう事にします。とにかく死神が懲りずにまた私の命を狙いに来たわけです」
「貴女を狙いに来たのね。良香ではなく……」
「もちろん。成り立ての尸解仙なんて普通のご老人より長生きしてませんもの」
芳香は、良香は既に死んでいる。だからこの後どうなるかは概ね予想が付いてしまうが、ここまで来たら最後まで聞くのが華扇の義理というものだ。
「もうお察しかと思いますが……良香が死んでしまったのです。未熟で逃げ切れなかった私を庇って……」
三人は無言で酒に口を付けた。誰に示し合わせるともなく献杯の意志を持って。
「私はそんな事を望んでいなかったのに……仙人は自分の為に生きてこそなのに! 見込みがあると思った私が間違いだった。良香に仙人の才能なんて無かったのです。とんでもない大馬鹿者だった……」
「青娥、貴女そんな言い方は……!」
『いいのだ。私が「宮古芳香」として目覚めた時、目の前には青娥の顔があった。今でもはっきりと思い出せる。本気で怒り、泣いた青娥を見たのはあの時だけだ』
青娥が俯いて口を固く結んでいるのに気付いた華扇は慌てて訂正を入れた。
「ごめんなさい。良香の事を本当に大事に想っていたのね」
「それだけではありません。私が激昂したのにはまだ理由があります。それは……」
そこで一旦口を止め、枡酒に映る自分の顔をじっと見た。水面に反射する自分の瞳の奥に、その姿を幻視して。
「桓様と……夫と、同じ死に方だったからです」
「……ッ!」
華扇は胸の真ん中を左手でぎゅっと抑えた。言葉にできなかった。何を言っても青娥の抱える感情に届く気がしなかった。
「私は仙人として優れているわけではありません。尸解に用いたのも低級の竹ですしね。そんな私が長々と生き永らえているのは、二度も私の代わりに犠牲になった人がいたおかげ……」
青娥の夫の姿を幻想郷で見た者は居ない。それでも青娥は霍家の姓を名乗り続けている。夫と自分を結びつけてくれた鑿を肌身離さず持ち続けて。
『ここからは私が代わろう。どうやら仙人の私は魂を刈り取られて依代に戻る直前、魂の核の部分を切り離して保管されていた私の死体に向けて飛ばしたようだ。私は青娥の術で目覚めたわけではない。残された魂が、青娥と共に居たいという本能のみで死体の躰を動かしたのだ』
──死んでもまだ死に足りないと言うの! それがお前の望みなら、もう人としては扱わない。お望み通りずっと私の盾として使ってやるんだから!
『狂乱の中でそう叫んだ青娥の声は今でも耳に残っているよ。これが、青娥の盾として宮古芳香が生まれた経緯だ』
三人は再び何も言わずに枡を手に持った。
酒を呑んでいる間は何も言わずに済む。
ちびり、ちびりと、少しずつ。
ついに酒が無くなりそうになった頃、鬼の右手が膝の上の青娥の手に被さった。それはそのまま華扇の取りたい行動でもあった。
「ありがとう、青娥。話してくれて……」
「まだでしょう? 貴方はまだ聞きたい事があるはず。この際だから全部話してあげるわよ。私も誰かにずっと言いたかったのかもしれない。邪仙の自分を全部さらけ出せる相手に。いえ、良香の事も知っている貴方に」
青娥は新しい酒を開けた。華扇に瓶の口を向け、枡を出せと身振りで催促する。華扇は喜んで枡を差し出した。
「どうして良香の死体を保管していたの? キョンシーにするつもりは無かったのでしょう?」
「この子も豊聡耳様と同じで仙丹による中毒になっていたの。同じ失敗を三度も繰り返すわけにはいかなかったから、データがほしかったのよ。もっとも、人間が金属を飲むというのが如何に危険で馬鹿げた事か、医学が発達した今となっては言うまでもないわね」
丹を飲んでも平気なのは仙人だけ。秦の始皇帝や豊聡耳神子も、同じ様に水銀に身体を蝕まれている。彼らの身分なら不老不死の為に希少な金属を集めるのは容易だったろう。錬丹には目先の近道を選ぶような輩を排除する側面もあるのだ。
『私の身体は今でも鉱毒まみれだからなあ。濃厚接触はお勧めできないぞ』
「ではこの『芳香』はどういう状態なの? 都良香ということでいいのかしら」
「おおよそ付喪神に近い物と考えていいわ。都良香の記憶を持ったキョンシーの付喪神。彼らも脳も無いのに道具だった時代の事を覚えているでしょう? 私は昔の事をあまり思い出したくなくて芳香の脳を腐らせていたけど……でも幻想郷で自我に目覚めた芳香は、脳に関係なく良香時代の事も身体で記憶していたのね」
「じゃあ一番肝心な部分ね。どうして女になってるの? 貴女の趣味?」
「そりゃまあ、そこが一番気になるわよねえ……」
気に入ったのか、小魚の佃煮を数本一気に口に入れて咀嚼する。首を振る程の大きな動作で飲み込むと、青娥は意を決して理由を口にするのだった。
「男の姿で可愛がると夫が嫉妬するからよ。だから首から下は女の身体に改造しちゃったの」
華扇は青娥が何を言っているのか数秒の間理解に苦しんだ。
「……何ですって? 貴女の旦那さん、生きてるの?」
『違うぞ! あいつもキョンシーなのだ! 私と違って地下室に籠もっているから絶対に表に出てこないがな!』
忌々しそうに良香は吐き捨てた。良香にとっては先輩に当たるが恋敵でもあるからだ。
「まあ考えてもみてちょうだいな。私が何故キョンシー術を扱うようになったのか。それは生前私を散々振り回しておいてあっさり死んでしまった夫をこき使う為に決まってるでしょう? 私が居ない間の面倒な家事とかは全部あの人に押し付けてるわけよ」
『とか言っているが今でも週三のペースで「にゃんにゃん」してるんだぞ。酒でも呑まんとやってられんわ!』
「こら、良香!」
頭を拳骨でぽかりと殴られたが、良香はお構いなしに大口を開けて酒を流し込んでいる。何しろ彼の身体は神経回路も死んでいるので損傷のない攻撃は意味がない。
「はあ、週三で……」
「そこに食いつかないでくださらない!?」
「というか、芳香だって中身はおじさんなわけでしょう。見た目だけ女にすればいいの?」
『男の寝取りは許さんが百合は許す、と言ってた。馬鹿だな!』
「そう、夫は尸解せずに仙人になっているわ。私よりも優秀なくせにお馬鹿なのよ、あの人……」
呆れているようで、夫の事を語る青娥が女の顔になっているのを華扇は見逃さなかった。
鬼の右手が肘を付いて掌を上に向ける。『ヤレヤレ』のポーズだ。
「ねえ、どうして旦那さんを外に出してあげないの? 理性が無いわけではないのでしょう?」
「そうだけど、外に出す必要もないでしょう。芳香は護衛役だから連れ回してるだけで、他の子達はみんな私の地下工房でいろいろと作業をしてもらってるの。夫はキョンシーだけど仙人でもあるから、他のキョンシーのまとめ役なのよ」
『現場主任というやつだ。しかし会ってみれば何で表に出せないかが一発で理解できるはずだぞ。例えるならば、神子と布都の悪い所を足して二倍したような鬱陶しさだ』
「そ、そこまでなの?」
華扇もオカルト異変の時にこの二人とは競った事がある。やたらと光ったりふんぞり返ったり、火が好きだったり阿呆だったり。良香が言っているので多少の誇張はあるのだろうがそれでも相当だ。
「口癖は『我が青娥』よ。これで大体察してちょうだい。赤の他人には絶対に知られたくないの」
「ああ、独占欲なのね……」
要するに事あるごとに『俺の嫁』アピールが激しい。だから他のキョンシーからは不評だし、青娥も絶対に並んで歩こうとしないのだ。邪仙の明確な弱点を衆目にさらけ出すようなものなのだから。
「何なのよもう……さっきの悲痛な時間を返してくれない?」
『ああ、奴の肩を持つのは癪だが間違わんでくれ。霍桓の死体に自我が宿ったのはかなり後の事だ。それまでの青娥は心に悪鬼が住まうかの如く悪道を突き進んでいたよ』
「夫は身体こそ遺っていたけど魂が抜けちゃいましたから。ちゃんと心のある夫に恨みつらみを浴びせなきゃ気が済まなかった。だから魂を取り戻す為に酷悪な実験を繰り返しましたが上手くいかず……やりすぎて本国には居づらくなったのもあって活動場所を日本に移したの。そこで出会ったのが豊聡耳様でした」
酷悪な実験を、やりすぎて。よくそんな仙人が聖徳王に取り入ることができたものだ。その理由もこうやって青娥と話していた華扇には何となく理解できていたが。
「あの方々にはとても救われたわ。三人に道教を教えている間は私の中に吹き荒れる暴風も収まっていたの。それも完全には上手くいかなかったし、その後再び良香を失う事になるわけだけど……私が狂いきらなかったのは豊聡耳様を待つっていうもう一つの目的があったおかげね」
華扇は一つの結論を出した。
「……よくわかったわ。結局、貴女は私利私欲の為に幾多の命を犠牲にし、最愛の夫と弟子の死体まで弄んだということね。貴女って本当に最低の邪仙だわ」
理由はどうであれ、青娥の行いは人の世では決して受け入れられるものではない。それは紛れもない事実だ。
されど華扇は青娥に嫌悪感を抱けなかった。華扇は自分を試す為にあえてこういう言い方をしたのだ。こう言えば自分は青娥に怒りを覚えるのだろうかと。
「そう、私は邪仙よ。夫の血を全身に浴びた時に、私の中の何かも一緒に抜け落ちたの。もう絶対に離れ離れにならない、共に天道を歩もう。そう言ってくれたあの方は先に逝ってしまった。だからもう邪道でも修羅道でも構わない。私は自分勝手だった夫の分まで欲望のままに、我儘に生きてやると決めた……」
「それが、今の貴女に繋がった……」
謎に包まれた断点だらけの彼女の過去が、ようやく線で結ばれた。
「腕と一つになって暴れた時ね、私も邪仙って言われたの。だからなのかしらね、青娥の事を嫌いになれないの。ふふ、おかしいよね……」
改めて眺める青娥の姿は相変わらず美しく華扇の目には映った。かつて狂気に染まって手を穢した人物とは信じがたい程に、その顔は安らかなものだった。
夜が更け、酒も肴も残り僅かだ。酒宴の終りが近づいていた。
キョンシー同士すっかり打ち解けた良香と鬼の右腕は、床に寝そべって主がやっていたように腕相撲勝負を始めてしまう。
怪力キョンシーが勝つか、怪力乱神の右腕が勝つか。勝負はあっさりと良香に軍配が上がった。腕だけでは全体を持っていかれて当然であった。
力を使い果たして酔いも回った彼らはそのまま雑魚寝で沈んでしまうのだった。次に目覚める時にはまたいつもの芳香と封印された鬼の腕に戻っているだろう。
「何だか私の悩みが馬鹿らしくなってきちゃったわ。鬼の私が仙人を名乗っていいのだろうかって、ずっと後ろめたかった。いつかそれを誰かに責められるかもしれない、認められないかもしれないって恐怖と戦っていた。でも言われれば楽になるかもしれないとも思っていた。その役が貴女で良かったと思うの」
「そうそう、それよ。良香が割り込んでこなかったらあのイジメはどこに収束したと思う? 私だって華扇を完膚なきまで叩きのめしたいとは思ってなかったわよ」
あの時華扇は鬼のお前が仙人なんてズルだ、人の身体で一からやり直せるか等と言われたのを記憶している。
これからは鬼の自分と向き合って我が道を歩くと誓ったばかりの華扇がそれを認められるはずもなかった。
「仙人の道を選んでくれてありがとう」
「……え?」
「私とは種族も目指す場所も違うけれど、それでも華扇が仙道を選んだことが嬉しかったの」
確かに青娥は道教の布教活動には熱心だ。しかしそれは自分の力をアピールしたいからだと稗田阿求の著書に載っていた。
華扇の力は青娥よりも強い。そのような人物が仙人になっても喜ぶのだろうか。
「人の命は儚いものです。今まで出会った方々はみんな私を置いて先に逝ってしまったけど、仙人なら同じ時を生きる事ができるでしょう。私と華扇の道が交わることはないけれど、長い人生を同じく歩む人がいるのはそれだけで元気を貰えるの。だから、ありがとう」
青娥の顔は真っ赤になっていた。それが酒によるものなのか、照れなのかは華扇にも区別がつかなかった。
「やだ、華扇ったら。顔が真っ赤になってるわよ。呑みすぎたのねぇ」
「貴女だって、真っ赤じゃない。お互い様よ……」
呑んで、食って、話して、軽い運動もして。二人はそれまでの疲れと満足感から床にどっと倒れ込んだ。
二人で横向きになって互いの顔を見つめる形で。
「床がひんやりしてて気持ちいいわ。今日はもうここに泊まっちゃおうかしら……」
「泊まっていきなさいよ。でも、旦那さんが怒るかしらね」
「さっきも言ったでしょう。女同士はセーフなの」
「ふふふ、お馬鹿な人ね……」
青娥が華扇の左手をきゅっと優しく握った。酒で火照った彼女の手は柔らかく温かい。
酔ってそのまま床で寝落ちるなんて、いつもの華扇だったらお説教を食らわせているところだ。
それでも華扇はこのまま青娥の温もりに包まれて眠りに付きたいと思ったのだった。
◇
その後も茨木華扇が霍青娥と親しくしているという話が流れる事はなかった。
人里でも評判の仙人が邪仙と付き合うはずがないのは当然である。
しかし茶店などで『偶然』出会った時には、華扇のお説教を肴に三人で微笑ましく食事をする姿が見られたという。
色は彼女の髪と同じ、鮮やかな桜色だ。
「華仙様もよくお食べになりますのね。うちの芳香も負けていられませんわ」
「うおお、食べるぞー!」
芳香の大声に振り向いた店員を青娥が右手で呼びつける。団子の追加を頼まれた店員はやや上の空の様子で承った。
上の空の理由は明らかだ。店内に団子以上に魅惑的な花が咲いているからである。
茨木華扇と霍青娥。桃色と青色の花。立てば芍薬、座れば牡丹~、と諺にあるように、美人は昔から花に例えられるものだ。
「青娥、貴女はそんなに食べないのね」
いつの間にか食べた本数でキョンシーと競わされていた事実に気付き、気恥ずかしそうに華扇が言う。
「美味しい物は好きですよ。ですがそれ以上に、私は美味しい物を幸せそうに食べる人を見るのが好きなのです」
その言葉に華扇の頬も桃色に染まる。
いや、これは邪仙の罠だ。きっと私ではなく芳香の事を言っただけなのに私を困惑させようとしているのだ。
そう心の中で決めつけて頭を小さく横に振る。
「恥ずかしがる事はないでしょう? よく食べて、よく飲んで、よく寝て。それも仙道ですよ」
「それは貴女の仙道でしょう。私の道は貴女とは全く違いますから」
華扇は天道と共にあると自称している。邪道を行く仙人と一緒にされたくないのは当然の話である。
「団子いっぱい食ってる食欲まみれの奴に言われても説得力が足らんぞー」
芳香から言われたが図星なので言い返すこともできない。死体に言い負かされたとは認めたくないので無言で団子を口に運ぶ。死人に向ける口は無しだ。
そもそも食事というのは誰にも邪魔されず、一人で静かにするのが一番だと誰かが言っていた気がする。どうして私はこの二人と一緒に団子を食べだしてしまったのか。華扇は少し前の自分の判断を後悔していた。
「そんな嫌そうな顔をなさらないでくださいよぉ。華仙様とこうやってゆっくりと話す機会に恵まれて、私はこの偶然にとても感謝しているのですよ」
嫌ではない。嫌ではないが。
「なんだかなあ……」
──遡ること数十分前、華扇は浮き足立っていた。
いつもご贔屓にしていた人間の里の甘味処で、秘伝のタレを改良した新商品が開発されたという。
これは是非とも味を確かめて助言をしてあげなければなるまい、という大義名分の下に華扇は早速駆けつけた。
そこで彼女は出くわしてしまったのである。
「はい芳香、ご挨拶なさい。こーんにちーは」
「くおぉ、こーんにーちはー! お団子ひとつ、くーださーいなー!」
自身のキョンシー、宮古芳香と一緒に食べ歩きをしていた霍青娥に。
「あらあら、どなたかと思ったら山の仙人様ではないですか! せっかくですからご一緒しませんか? 美味しい物はみんなで食べるともっと美味しいんですよ。華仙様なら当然ご存知ですよね?」
断る間も与えない青娥の弁に華扇は押し負けてしまったのだ。
もっとも、華扇自身は青娥に特段悪い印象を抱いているわけではない。彼女も、仙人としては特殊だから──。
芳香は手を使わずに団子を串ごと頬張り、咀嚼の後に串だけ吐き出す独特の食べ方をしていた。身体が硬すぎて関節が曲げられない彼女ならではのやり方だ。
「……貴女のキョンシーと対面するのは初めてだったわね」
初めて青娥に会った時、華扇は彼女から邪仙と呼ばれるに足る程の邪気を感じなかった。こうして邪術の結果を目の当たりにした今、ようやくそれを実感している。
「腐っていて可愛いでしょう? 私が手塩にかけて育てた自慢のキョンシーなのです」
まともな人間ならば青娥の言う事に誰も共感などしない。もちろん華扇、厳密には『茨華仙』だってそうだ。しかし、彼女の『失われた部分』は全く異なる感想を抱くことだろう。
「それは、腐っていなかったら可愛くないという事かしら」
「とんでもない。腐っていようがなかろうが、芳香が可愛いことには変わりありませんとも」
「ぬぁんのぉ、青娥も可愛くて美しいぞー!」
あばたもえくぼ、という言葉がある。青娥は芳香がどんな事をしようが可愛いと言うに違いない。それほどに芳香は溺愛されていた。
「……否定ならいくらでもできるけど、貴女はとっくに聞き飽きているでしょうね。それより同じ仙人として聞かせてもらいたいの。貴女はどうして死者を弄ぶ邪悪な術法を使うのかしら?」
「そういう話も飽きていますけど……おそらく華仙様が本当に関心を持っているのは私の術ではないのでは?」
「なぜ、そう思ったの?」
「それは華仙様の本質が私と似ていると思ったからです。現に同じ仙人と言いましたものね。豊聡耳様は口が裂けても私と同じなどとは言いませんよ」
その通りだった。邪仙と呼ばれる霍青娥などよりもずっと、華扇は己が内の『邪』と向き合ってきた。そして邪を取り戻した彼女は、改めてそれと共に往く道を選んだのだ。
「これはこんな団子屋でする話ではございませんね。華仙様さえ宜しければ、もっと相応しい場所でじっくりとお話したいものですが」
「おーう、私は華扇の家に行ってみたいぞー。動物がいっぱいいるんだろぅ?」
青娥に代わって芳香がねだる。これは所謂、親の主張を子供に言わせる卑怯な手である。
「そんな、急に言われても私にだって準備というものが……」
「どっちにしても、私と『邪』を語らう以上は華仙様の『右腕』にも言及致します。私は別に構いませんけれども、貴方様はここで話したくはないでしょう?」
「……っ! どこで、それを……」
華扇が包帯に巻かれた空っぽの右腕をぎゅっと押さえる。
「私は人間が大好きですから」
青娥はそう言ってただ微笑んだ。
人が好きだからよく観察している。人らしくない人は見れば分かる。
彼女の短い言葉にはこれだけの意味を込められていた。
「酒と、血のニオイがするのだ。縁日であった小鬼も同じようなニオイがしたのだぞ」
芳香が言っているのは間違いなく萃香の事だ。袂を分かったかつての仲間と同じ匂いがするだなんて、華扇には受け入れ難い事実だった。
「見る人が見れば一発で分かるでしょうが、以前は酒宴の為に鬼の秘宝を持ち出してきた事もありましたよね。本気で隠すつもりがありましたか?」
青娥が言うのは茨木の百薬枡の事だろう。それで酒を飲むと体が癒える代償に身も心も鬼と化していく。元々鬼の華扇だからこそ常用できる品だ。
「……あらごめんなさい。甘味処でそんな苦いお顔をさせるつもりはなかったのに。この話は置いといて、食べましょう?」
青娥が芋羊羮を一切れ、幸せそうな表情で口に運んだ。芳香も大福を上に放り投げて口でキャッチする。無作法もいいところだが体が硬いのでしかたない。不器用なくせに器用だ。
何が悪かったのか、いや自分が悪かったのだ。
自分がキョンシーを咎めなければ、三人笑顔で菓子を頬張っていたに違いない。キョンシーが駄目ならば私は。こんなシニヨンキャップを着けていなければ人里に入れもしない私は。
「……ごめんなさい。青娥の言うとおり、ここで言う話じゃなかったわ。ここは奢るから、それで許してちょうだい」
「あら、そんな! 豊聡耳様にツケるからお代なんて気にしなくても良かったのに」
聞き捨てならない発言であった。
「アナタ、弟子にお金払わせてるの!?」
華扇が机を両手でバンと叩く。確かに豊聡耳神子は青娥の弟子であるが、実際の二人の関係はいろいろとややこしいのだ。
「そうなんですけど……聞いてくださいよぉ。あの方ったら言うに事欠いて、ペットの餌代は飼い主が払うのが当然だ、なんて言い放ったんですよ! 私を畜生と同じに扱うだなんて酷くないですか!?」
「結局その言葉に甘えてツケてるんでしょうが! 恥を知りなさい!」
「豆一つにびくびくして節分大会をねじ曲げていた誰かさんに恥とか言われたくありません~!」
「な、なんですってぇ~!?」
二人の周囲にいた客からくすくすと笑い声が漏れる。初めは何かをやらかすのではと警戒されていた邪仙だが、二人でこうやって漫才をしているなら大丈夫だろうという安堵も混じっていた。
実のところ、青娥と芳香がスムーズに飲食できているのは、華扇という責任者がたまたま一緒だったからである。信用の差というのは大きい。奢るべきなのは青娥の方なのだ。
「頭に糖分が足りてないからそうカッカとするんだぞぅ~……」
二人のつまらないようで大事な口喧嘩を余所に、芳香はのんきに犬食いで汁粉をすするのだった。
◇
「それでは、第二ラウンドですね」
青娥は酒瓶の底をドンとちゃぶ台に叩きつけた。
「ここなら他の誰も来ないわ。思う存分やろうじゃない」
華扇は枡を青娥に向けて酒を促した。
結局、代金を払ったのは華扇の方だった。奢られた以上は奢り返さねばなるまいと、この酒を提供したのは青娥である。鬼すら酔わせる仙人とっておきの秘蔵酒だ。
場所は先の提案通り、茨木華扇が山の中に構える道場に決まった。特殊な手順を踏まないと入ることすらできない仙界にあり、力無き者では辿り着くことすら不可能だ。
もう一人、と言うべきだろうか。華扇、青娥、芳香に加えてさらに同席している物がある。
鬼の腕だ。
「これが私の邪そのもの……かつて人間達に切り落とされた右腕……」
華扇は腕が封印された箱に、酒が注がれた枡をこつんと当てた。
「かんぱーい!」
芳香の元気な声に合わせて青娥も同じように鬼の腕と乾杯をする。
「私にも、邪の象徴であり右腕でもある芳香が居ます。華仙様と同じですね」
「……華扇よ。呼び捨てでいいわ。私と同じなのでしょう? それに本来は貴女の方が仙人の道においては先達なのだし」
「あらあら。それではお言葉に甘えますよ、華扇」
仙人達は不敵な笑みを交わしあった。
「そうそう、酒の肴にこんな物があるのですよ。華扇は食べ飽きてるかもしれないけど……」
青娥がちゃぶ台の上に包みを置いた。
「おーにーくー。にーくー!」
芳香の喜びの声の通り、包みを開くとそこには干し肉が入っていた。一見するには何の変哲もない、ただの干し肉だ。しかし華扇は一目でその素材となった生き物を看破してしまった。
「……人の肉ね」
味を見るまでもない。匂いでわかる。『食べ飽きている』とはそういう事だから。
「はい正解です。簡単すぎたかしら?」
「そうね。そして貴女の方は間違いがあるわ」
「と言うと?」
「好物というのは食べ飽きないものなのよ」
そう言うと華扇は肉を左手で一切れつまみ上げた。酒を一口飲むが、まだ肉は口に入れない。
「ふふ。ちょっとした意地悪も兼ねていたのですが全く動じませんでしたね。流石です」
「横には茨木童子の私が居る。取り繕う気なんてないわ。それで、邪仙様は何を期待していたのかしら。人肉を食材にした事への咎め? それとも誰の肉を使ったか? 万が一、私の友人が素材だったなら、貴女には地獄すら生温い責め苦を味わってもらうけど」
青娥も肉を一切れ手に取った。顔の前にかざしてその匂いを嗅ぐと、少しだけ眉をしかめる。
『いただきます』
芳香と共に、肉を口に放り込み、それを酒で流し込んだ。
「やっぱりあまり美味しくはありませんね。私の口には合いません」
「むむぅ、私はビーフジャーキーが一番好きだぞぉ」
文句を言いながら二人で一枚ずつ肉を食べる。
「後ろからお答えしましょうか。まず貴方の友人ではありませんし、私も初対面の方でした。人種はたぶん中国人でしょうね。中国で手に入れた死体ですから。まあ……それ以外の可能性もありますが」
「貴女が殺したの?」
「いいえ。大きな鼠取りにかかっていただけですよ。幻想郷の外にある私の物置なのですが、時折招かれざるお客が来るもので。私の家に食糧を漁りに来た浮浪者だったようですが、まさかミイラ取りがミイラになるとは思わなかったでしょうねえ」
そこまで聞いて華扇はようやく合点がいった。この肉は明らかに『質』が良いものではない。
華扇は合掌して肉を口に入れた。きっとろくな人生ではなかったであろう男の生涯に思いを馳せながら。
「妖魔の類が人を食べるのは精神的な部分も大きいわ。その点ではこの肉は駄目ね。きっと満たされない人生を送ったに違いない。そうは言っても私達の血肉になる以上は有り難くいただくけど」
「それはなにより。私はこちらをいただきますので」
青娥の包みにはまだ物が入っていた。甘味処でお持ち帰りしていたみたらし団子だ。
「あっズルい! 私もそっちの方がいい!」
「あらあら」
鬼とは思えない台詞に青娥が笑った。
「……最初からこれ目的で家に罠を張っていたの?」
硬い肉だ。華扇の咀嚼力をもってしても唾液で柔らかくしないとなかなか飲み込めない。
「まさか。よく誤解されますが私は無差別殺人主義ではございません。人間は好き、だから生かします。この肉の男は人と呼ぶに値しない畜生の人生を送ったようですので、せめて他人の血肉になるのが一番と判断したまで」
「本当にそれだけかしら?」
「そうですねえ。骨は粉にして庭に撒きました。良い肥料になるらしいので。内蔵は非合法のルートで買い取ってもらいました。外で使うお小遣い稼ぎにね。首から上は……これはちょっと秘密ですね。門外不出の術なので」
「……それは無駄がないことで」
褒められたと解釈したのだろう。主の代わりに芳香が胸を張る。
「青娥は、決して命を粗末に扱わんぞ。余すところなく使ってこそ供養というものだぁ」
「玩具のように死体を弄んだのなら非難されるかもしれませんが、全てを他を生かす為に使いました。文句を言われる筋合いなどありませんわ」
「貴女が気付かなかっただけで、男に妻子などがいたとしたら?」
「いませんよ。脳を覗きましたけどそんな方々はどこにも。いたとしても上手いこと事故死として誤魔化していたでしょうね。何しろほら、死体を偽造するのは尸解仙の本分ですから」
青娥は笑顔を全く崩さなかった。
これが、邪仙か。
華扇は青娥の行動原理を少しだけ理解できた気がした。
「私だって『人を食べるだなんて!』などと言い出す輩にこんな物は出しませんよ。華扇はわかっている方ですものね」
「それはまあ、鬼だからね。何を言っても全て自分に返ってくるもの。そういえば、今はこんなキャップも要らなかったわ」
頭の両脇に着けていたシニョンキャップを取り外し、鬼の象徴たる角を青娥達にさらけ出した。
「念のため言うけど、本気を出したらもっと立派な角なのよ?」
「伊吹や星熊と同格なのでしょう? わかっておりますよ」
「私はそれも可愛いと思うぞぉ!」
鬼の角に可愛いが褒め言葉になるかは疑問だが、少し照れくさそうな華扇の様子を見るに好意的のようだった。
「そうだわ。鬼の腕を箱から出してもらえる? ちょっと試してみたいことがあるのだけど。悪い話じゃないから」
「私の腕で試したいと? 面白いじゃない。やってごらんなさい」
華扇は青娥の挑戦を受けて箱から腕を取り出した。腕はまるでそれだけで生きているかのようにもぞもぞと動いている。
今の腕は再び切り落とされたばっかりで、霊夢を襲った時のように茨木童子の姿で暴れるだけの力は持っていない。
何かあっても自分だけで対処できるはずだと、酒も入って気が大きくなっていた華扇は邪仙の頼みを軽々しく聞き入れてしまった。
「鬼の腕ってミイラなのですよね? だったら私の術が使えるのではないかと思いまして……」
青娥は腿にくくりつけていた札を一枚取り、鬼の腕に貼り付けたのだ。
「えっ!? ちょっとそれは……!」
華扇が焦るも時既に遅く、寝転がっていた腕の指が突然ピンと張り、断面を下にしてぴょんぴょんと跳びはねだしてしまう。
「うおー! 私の仲間ができたぞぉー!」
「成功ね! 腕さん、気分はどうかしら?」
右腕は干からびた指を器用に曲げてピースサインを取った。上々らしい。
「こ、これは大丈夫なの? 私の腕、動きっぱなし……?」
「お札を剥がせば落ち着きますよ。今は自立起動の式しか与えておりませんし、私が操作しているわけでもありません」
一つ訂正するならば『私に絶対に逆らうな』という重大タスクの下での自由意思である。それさえ破らなければ好きにして良いということだ。
「私の腕なんだから、貴女が持っていっちゃ駄目よ……?」
自分が困るというよりも青娥の方が危ないからだ。腕だけでも霊夢を追い込んだ実績がある。制御が外れた時に何が起きるかわかったものではない。
「右手さんもお酒はいかが? ほら、手を出して」
青娥が酒瓶を握ったのに反応して右手は跳ねた。指を閉じて酒を受け止める為の盃の形になる。ぴちゃぴちゃ掌に酒が垂らされると、右手の肌は渇いた地面の如く液体をスッと吸い込んだ。
「どう、美味しい?」
酒に濡れた右手がサムズアップした。最高らしい。
「ぅわははは! いいぞー、呑め呑め!」
芳香も真似して酒を垂らそうとする……が、何しろ加減が下手なので酒がだばだばと溢れてしまう。しかし右手には好評のようで、床にできた酒の水溜まりの上でばちゃばちゃと転げ回る。
全身に酒が染みたおかげで右腕の肌はまさしく鬼の如く朱に染まった。
「あーもーはしたない! 私の腕なんだからもっと礼儀正しく!」
ビシッ!
右手は華扇に向けておもいっきり中指を突き立てた。
「んなっ……!?」
「まあ、そうよねえ。この子、華扇には大層お怒りよ。こいつに裏切られてまた斬られたー、って」
華扇はたじろいだ。この事実を知っているのは当事者だけのはずなのに。
「……どうして、貴女が知って……」
「支配下に置いたキョンシーの思考くらいは読めますから。ふんふん……あら華扇ったら、霊夢を食べようとしたの! それはいけない子だこと……」
話を聞いてもらいながら右腕は青娥の膝に寝そべった。完全にこちらに懐いてしまったようだ。
「……そうなの。でも……鬼らしからぬ騙し討ちに近い形だったとはいえ、華扇が正しかったと思うわよ。もし本当に霊夢を殺していれば、貴方は今頃幻想郷の怖い人達からなりふり構わない制裁を受けていたでしょう」
「ぉおう、ここの怖い奴等は本当に怖いぞぉ。ゾンビの私でも怖いくらいだぞ!」
霊夢は人妖問わず慕われている。それは鬼すらも、鬼以上の存在からも。それを全て敵に回しては鬼とはいえひとたまりもない。
「本当は貴方だってわかってるのでしょう? だって貴方も華扇だもの。結局はそれが落とし所だったのよ。久々に大暴れして、ガス抜きできたのだから良しとしましょ?」
右手はがっくりと指を垂らした。右腕だけでも彼女は華扇だ。物がわからない人物ではない。もっとも、札が貼られている間は絶対服従で、どのみち和解する以外の道はないのだが。
観念したのだろうか、右腕は先と同じように掌を華扇に差し出した。酒を注げと言っているのだろう。青娥から手渡された瓶を、華扇はゆっくりと自身の右手に傾けた。
「一応、礼を言うわ。強引だったけど少しすっきりした」
「ふふ。どういたしまして」
体が少ない分、少量の酒でも効くのだろうか。すっかり真っ赤になった右腕は、ちゃぶ台の上でぐったりと転がってしまう。
「右手さんも……右手さんと呼ぶのも味気無いわね。何か名前を付けてあげましょう。茨木華扇の右手だからそうねえ……イギー?」
「むむむぅ、それはなんか犬っぽいぞ青娥ぁー」
「私に無断で勝手に付けない! 付けなくていい!」
右手も『結構です』の手振りで拒否を示すのだった。
三人と一本の酒宴は続く。枡から溢れた酒をはしたなくべろべろと舐めながら、青娥は華扇に一つお願いをした。
「ねえ華扇、腕相撲をしてもらえないかしら」
青娥は返事の前に皿をどけ、左の肘をちゃぶ台に付いた。
「……この私に力比べを? いったいどういう風の吹き回しなのかしら。貴女ってそういう性格だった?」
「私の功夫(クンフー)がどれほどのものか、華扇で試してみたいだけよ。受けてくれるわよね?」
「貴女の事だから、受けてあげないと話が進まないのでしょ?」
「そのとおり♪」
華扇も左肘を付き、青娥の左手を柔らかく握った。肌荒れ一つない繊細な指なのに、不思議な胆力が手に伝わってくる。酒で血の巡りが良くなったからかほんのりと温かい。勝負を忘れてこのままずっと握っていたいとすら思ったが、華扇は目を閉じてそんな邪念をかき消した。
芳香が二人の手を握り、開始の号令を出す。
「それでは行くぞぉー! デュエルぅ~……!」
明らかに掛け声が間違っているが二人とも酔っているので突っ込まなかった。
「ふぁいとぉ!」
決着は、一瞬で付いた。
バァン!と凄まじい衝撃が走る。ちゃぶ台の上で酔い潰れていた右腕も跳ね起きてしまうほどに。
「あたたた……流石ですね。腕力では到底及びません」
青娥がぶんぶんと振り回す手の甲は真っ赤になっていた。
華扇も手首を回して骨をぽきぽきと鳴らす。
「貴女も相当なものだったわ。この私がつい本気を出してしまうくらい……」
「この私って『どの』私ですか?」
青娥が待ち構えていたかのように突っ込んだ。
「仙人の私なのか、鬼の私なのか」
「それは……」
華扇は言葉に詰まる。おそらく青娥はこれを言いたかったが為に腕相撲など仕掛けてきたのだ。
「まあ、後者なのでしょうね。貴方の超人的力は決して仙人の修行に依るものではない。大地を割るほどの力も、人を遥かに超えた寿命も、全ては鬼として身につけていたものです。仙人を名乗っているのはその方が人里に入り込むのに都合が良いからなのでしょう」
華扇は包帯の右腕をぎゅっと握った。これを探す為の情報収集として人の振りをしていたのは本当だから。
「華扇があの小鬼の顔を見たくないのもわかりますよ。あの方は正体を隠すこともなく、邪と分断されたわけでもないのに人と交わっている。おまけに貴方が嫌がった節分でもきっちりと鬼としての役割をこなしていましたものね。貴方よりよっぽど潔くて理性的です。きっと後ろめたかったんじゃないですか?」
華扇は自分の膝元を見た。
「……そうね、その通りだわ」
対照的な二人の顔を神妙な表情で眺めつつ、芳香はまた干し肉を一枚くちゃくちゃ噛み締める。
「実際のところ、これからどうなさるんですか? 鬼の身体のままでは天からは認めてもらえませんよ。あの方々は頭がカッチカチですからねえ。かといって人の身で一からやり直すなんて堪えられますか? 人の脆弱さを知らないのは華扇の明確な欠点と言えるけど……」
「……そ、そのくらいで勘弁してやってはくれないか」
二人はハッと横を振り向いた。この状況下で口を挟めるのはたった一人。しかしそれは主の意向に背く、有り得ない話なのに。
「せ、青娥……この者は私の恩人なのだ。あまり暗い顔を見るのは辛い。せっかくの飯も楽しめん」
「芳香、貴方……」
華扇は複雑な表情で芳香の顔を見つめる。私を恩人だと言った。しかし全く記憶がない。彼女の記憶……があるのかはわからないが勘違いではないのか。
「お、お願いだ。札を剥がしてもらえないだろうか。このままでは喋りづらい」
芳香をキョンシーとして操っているのは額の札だ。札を剥がせばキョンシーではない人格が顔を見せるが、それ以上に重要なのは芳香に反逆の可能性を与えるという事だ。
故にこの札は、青娥かあるいは術の心得のある者にしか剥がせないようになっている。
「……許可するわ。こちらに来なさい」
青娥はそれを誰よりも理解した上で芳香の札を剥がした。
以前にも、墓場で一人呆然と詩を唄っていたという目撃例が寄せられている。芳香は今、その状態になったのだ。
『……ふう。いや、すまんすまん。あの札を貼っているとキョンシーらしい喋り方になるのだ。小難しい事も言えなくなってしまうし、ついでに体も固くなる』
「そう、なの。でも何故?」
「その方が可愛いでしょう?」
華扇の問いに青娥が横取りする形で答える。
『……と、青娥は言うが他の理由もある。しかしお前が聞きたいのはこんな事ではないな?』
華扇の首が縦に振られるのを見て、芳香は再び口を開いた。
「本当は言わずとも思い出してくれたら嬉しかったのだが、これを聞けばわかるのではないかな」
芳香は一度咳払いして呼吸を整えた。
『気霽れては風 新柳の髪を梳る……』
「氷消えては波 旧苔の鬚を洗ふ……」
華扇が句を返したのはほぼ無意識だった。
単に音が同じなだけの別人だと思い切っていた。しかし芳香の名前には大いに心当たりがあったおかげだ。
『おお、覚えていてくれたようだな! 詩人冥利に尽きるというものだ!』
芳香は歯を剥き出しにして太陽のように笑った。
「……嘘でしょう? まさか、貴方は……」
『羅生門で会った時の私はダンディーなイケメンだったからなあ! 女でも通じるほどの美形に産んでくれた親に感謝せねばな。ほれ、ここん所に髭が生えたと想像してみるがいい。何となく面影は残ってないか?』
鼻の下と顎を指でなぞる芳香の顔に、華扇は黒い線を浮かばせてみた。背格好こそ激変しているが、顔だけは言われてみれば確かにそうだ。それに羅生門でこの詩を詠んだ詩人。彼女に思い当たるのは一人しかいない。
「都、良香……あの時の貴方だったなんて。でも、どうして!」
都良香とは平安時代の貴族だ。漢詩に優れて文名博く、恵体で腕力も優れていたという記録が残っている。
特筆すべきは彼の漢詩に鬼が感心したという説話、そして山に消えた百年の後に全く同じ容貌で姿を表したという話もある。
『詩人に限らず、クリエイターというのはファンの事を案外覚えているものなのだよ。ましてそれが鬼からの褒め言葉ともあれば、私にとっては一生の宝物だったのさ』
「それはどういたしまして……だけどそうじゃないわ! 何故貴方が青娥のキョンシーをやっているのか、私が知りたいのはそこよ。出てきた以上は答えてくれるのよね?」
我関せず、と言わんばかりに黙って酒を煽る青娥を、華扇は鷹のような眼光で射抜く。良香に許可すると言ったのだ。無関係の振りなど許されるはずもない。
「……死んじゃったから、キョンシーにしたの。それだけの話よ」
「だったらこの干し肉のようにしても良かったはずよ。貴女が芳香をとても大事にしているのは一目瞭然。それだけ、で終わるはずがないじゃない。お願い、私は青娥の事をもっとよく知りたいの。仙人として……」
最後の言葉に反応して青娥が酒を止めた。どっちにしろ、良香が札の制御を押しきって出てきた時点で青娥の負けなのだ。白状するか逃げるかの選択肢しか無かった。
「……芳香は、いえ、生前の良香は私の弟子の一人でした」
『何故仙人を目指したか、などと野暮なことは聞かんでくれよ。並外れた知識に体力、朽ちぬ身体、数々の秘術。人ならば憧れて当然だ。さらに……』
「そう。私と出会ったのはとある山の中でだったのですが、この子は……」
そこで青娥が一つため息をこぼした。
『一目惚れだった』
「……は?」
華扇は頬を赤く染める良香を怪訝な目で見る。
『纏う空気、天女のように淑やかな見た目、仄かに漂う色香、母性溢れる優しき笑顔……全てが完璧だった。それがなんと私の目指す仙人だという。私には運命以外の言葉を思い付かなかったよ』
「ああはい、そうなの……それで弟子入りを志願したと?」
青娥が美人なのは華扇だって認める。しかしこの褒め方は『恋は盲目』と思うしかなかった。
「少々動機に不純なものはありましたが、私はこの子を受け入れました。私の教えを忠実に守る素直ないい子でしたしね」
「実はな、修行中のある時に私は告白したのだよ。晴れて仙人になれた暁には師弟の枠を越え、夫婦として生涯を共にしたいと! そうなれば一層修行にも身が入るしなぁ。だが……!」
──お気持ちは嬉しいけどね、私は結婚してるのよ。
青娥はその時の台詞を一言一句違えず同じように繰り返した。
『先に言ってほしかったなあもう!』
ガンとちゃぶ台に枡を叩き付ける良香の肩を、鬼の右腕が近寄ってぽんぽんと叩く。
「……実は、貴女と同じ名前の少女が登場するお話を読んだ事があるの。まさかと思ったけど、やはりそうだったのね」
「なあんだ、知っていたのなら話が早いじゃないですか。華扇もお人が悪いこと。まるで豊聡耳様みたいだわ」
中国の昔話の中に『仙女』という物がある。幼少の頃から仙人に憧れた少女と、それに恋をした少年の物語だ。
仙人を目指す少女に結婚する気など毛頭なかったのだが、寝所の壁に穴を開けてまで近付く程に惚れ込まれた少年の熱意に絆されて結ばれる事になる。
そんな変わり者の少年の名は霍桓。結ばれた少女の名は青娥。
そして少年が壁を破るのに使った物こそが、現在も青娥がその髪に差している鑿なのだ。
「やむを得ず結婚したようにも感じたけど、その様子なら何だかんだ夫婦仲は良かったのね」
「そう言われるのも癪に障るのですが……話を元に戻しませんか」
「青娥がそう言うのなら。それで、見事にフラれた貴方はどうしたの?」
『フラれてなどおらん! それに私はまだワンチャンあると思っているぞ!』
青娥はさらに大きくため息をついた。
「……無いから。だから貴方を目覚めさせるのは嫌だったのよ」
青娥の酒に波紋が広がる。人に付きまとうのが大好きな青娥は、逆にしつこく付きまとわれるのは苦手だった。
『……まあ、とにかくだ。仙人になりたいのは本当なのでその後もめげずに修行は続けたが、尸解仙になった時に一度『私』の記憶は途絶えているのだ。正確には、なる前にだが。次に気付いた時には私はもうキョンシーだった……ようだ』
「それはつまり……尸解の術は失敗した?」
華扇の問いを、良香は目線で青娥に流した。代わって青娥が首を横に振る。
「術は成功しました。失敗だったらそのままあの世行きか屠自古さんのようになりますから。朽ちる人の体を捨てて朽ちない物質に元神を乗り換えるのが尸解の術……ならば捨てた抜け殻はどうなるかしら。私は家族の為に亡骸を遺したけれど、既に世捨て人となっていた良香の遺体は私が保管していたの」
「……キョンシーにする為に?」
「……いいえ。解剖する為です」
青娥は全く表情を変えずに澄ました顔で言い放った。
「何故、そんな事を?」
「私は、邪仙ですから。今はそういう事にしてください。それより口が乾いてしまいました。長話だけでは酔いも興も冷めると思いませんか?」
すっかり軽くなった瓶をこれ見よがしにひっくり返す。青娥が持ち寄った酒瓶には雫一滴も残っていなかった。
「私も呑み足りないわね。辛口と、甘口。どちらがお好みかしら?」
「甘口にしましょうか。ここから先の話は、とっても苦いから」
青娥は笑顔を作る。胸の奥底に抱える、本当の感情を殺す為に。
ちゃぶ台には再び酒と、いくつかの酒の肴が並べられた。華扇だって幻想郷でも有数の呑兵衛の一人だ。酒に合う料理は常備しているのだ。
青娥はその中から小魚の佃煮を一本取って口の中で転がす。甘辛さの中にほんのりと苦味があった。
「……さて、下心もあったのでしょうが、良香は仙人になった後も私の下で修行を続けていたのです。尸解仙など仙人の中では下も下ですからね。しかし……その日々は短かった。仙人には寿命の代わりに訪れるものがあるのですが……華扇はご存じですか?」
華扇は無言でその正体に思いを馳せた。
「……死神」
青娥の当てこするような言い方には皮肉が入っている。元から人を超えた寿命を持つ彼女にはいつ彼らが来るのかもわからないのだから。
「そう、死神です。まあ厳密には担当が違うのですが面倒なのでそういう事にします。とにかく死神が懲りずにまた私の命を狙いに来たわけです」
「貴女を狙いに来たのね。良香ではなく……」
「もちろん。成り立ての尸解仙なんて普通のご老人より長生きしてませんもの」
芳香は、良香は既に死んでいる。だからこの後どうなるかは概ね予想が付いてしまうが、ここまで来たら最後まで聞くのが華扇の義理というものだ。
「もうお察しかと思いますが……良香が死んでしまったのです。未熟で逃げ切れなかった私を庇って……」
三人は無言で酒に口を付けた。誰に示し合わせるともなく献杯の意志を持って。
「私はそんな事を望んでいなかったのに……仙人は自分の為に生きてこそなのに! 見込みがあると思った私が間違いだった。良香に仙人の才能なんて無かったのです。とんでもない大馬鹿者だった……」
「青娥、貴女そんな言い方は……!」
『いいのだ。私が「宮古芳香」として目覚めた時、目の前には青娥の顔があった。今でもはっきりと思い出せる。本気で怒り、泣いた青娥を見たのはあの時だけだ』
青娥が俯いて口を固く結んでいるのに気付いた華扇は慌てて訂正を入れた。
「ごめんなさい。良香の事を本当に大事に想っていたのね」
「それだけではありません。私が激昂したのにはまだ理由があります。それは……」
そこで一旦口を止め、枡酒に映る自分の顔をじっと見た。水面に反射する自分の瞳の奥に、その姿を幻視して。
「桓様と……夫と、同じ死に方だったからです」
「……ッ!」
華扇は胸の真ん中を左手でぎゅっと抑えた。言葉にできなかった。何を言っても青娥の抱える感情に届く気がしなかった。
「私は仙人として優れているわけではありません。尸解に用いたのも低級の竹ですしね。そんな私が長々と生き永らえているのは、二度も私の代わりに犠牲になった人がいたおかげ……」
青娥の夫の姿を幻想郷で見た者は居ない。それでも青娥は霍家の姓を名乗り続けている。夫と自分を結びつけてくれた鑿を肌身離さず持ち続けて。
『ここからは私が代わろう。どうやら仙人の私は魂を刈り取られて依代に戻る直前、魂の核の部分を切り離して保管されていた私の死体に向けて飛ばしたようだ。私は青娥の術で目覚めたわけではない。残された魂が、青娥と共に居たいという本能のみで死体の躰を動かしたのだ』
──死んでもまだ死に足りないと言うの! それがお前の望みなら、もう人としては扱わない。お望み通りずっと私の盾として使ってやるんだから!
『狂乱の中でそう叫んだ青娥の声は今でも耳に残っているよ。これが、青娥の盾として宮古芳香が生まれた経緯だ』
三人は再び何も言わずに枡を手に持った。
酒を呑んでいる間は何も言わずに済む。
ちびり、ちびりと、少しずつ。
ついに酒が無くなりそうになった頃、鬼の右手が膝の上の青娥の手に被さった。それはそのまま華扇の取りたい行動でもあった。
「ありがとう、青娥。話してくれて……」
「まだでしょう? 貴方はまだ聞きたい事があるはず。この際だから全部話してあげるわよ。私も誰かにずっと言いたかったのかもしれない。邪仙の自分を全部さらけ出せる相手に。いえ、良香の事も知っている貴方に」
青娥は新しい酒を開けた。華扇に瓶の口を向け、枡を出せと身振りで催促する。華扇は喜んで枡を差し出した。
「どうして良香の死体を保管していたの? キョンシーにするつもりは無かったのでしょう?」
「この子も豊聡耳様と同じで仙丹による中毒になっていたの。同じ失敗を三度も繰り返すわけにはいかなかったから、データがほしかったのよ。もっとも、人間が金属を飲むというのが如何に危険で馬鹿げた事か、医学が発達した今となっては言うまでもないわね」
丹を飲んでも平気なのは仙人だけ。秦の始皇帝や豊聡耳神子も、同じ様に水銀に身体を蝕まれている。彼らの身分なら不老不死の為に希少な金属を集めるのは容易だったろう。錬丹には目先の近道を選ぶような輩を排除する側面もあるのだ。
『私の身体は今でも鉱毒まみれだからなあ。濃厚接触はお勧めできないぞ』
「ではこの『芳香』はどういう状態なの? 都良香ということでいいのかしら」
「おおよそ付喪神に近い物と考えていいわ。都良香の記憶を持ったキョンシーの付喪神。彼らも脳も無いのに道具だった時代の事を覚えているでしょう? 私は昔の事をあまり思い出したくなくて芳香の脳を腐らせていたけど……でも幻想郷で自我に目覚めた芳香は、脳に関係なく良香時代の事も身体で記憶していたのね」
「じゃあ一番肝心な部分ね。どうして女になってるの? 貴女の趣味?」
「そりゃまあ、そこが一番気になるわよねえ……」
気に入ったのか、小魚の佃煮を数本一気に口に入れて咀嚼する。首を振る程の大きな動作で飲み込むと、青娥は意を決して理由を口にするのだった。
「男の姿で可愛がると夫が嫉妬するからよ。だから首から下は女の身体に改造しちゃったの」
華扇は青娥が何を言っているのか数秒の間理解に苦しんだ。
「……何ですって? 貴女の旦那さん、生きてるの?」
『違うぞ! あいつもキョンシーなのだ! 私と違って地下室に籠もっているから絶対に表に出てこないがな!』
忌々しそうに良香は吐き捨てた。良香にとっては先輩に当たるが恋敵でもあるからだ。
「まあ考えてもみてちょうだいな。私が何故キョンシー術を扱うようになったのか。それは生前私を散々振り回しておいてあっさり死んでしまった夫をこき使う為に決まってるでしょう? 私が居ない間の面倒な家事とかは全部あの人に押し付けてるわけよ」
『とか言っているが今でも週三のペースで「にゃんにゃん」してるんだぞ。酒でも呑まんとやってられんわ!』
「こら、良香!」
頭を拳骨でぽかりと殴られたが、良香はお構いなしに大口を開けて酒を流し込んでいる。何しろ彼の身体は神経回路も死んでいるので損傷のない攻撃は意味がない。
「はあ、週三で……」
「そこに食いつかないでくださらない!?」
「というか、芳香だって中身はおじさんなわけでしょう。見た目だけ女にすればいいの?」
『男の寝取りは許さんが百合は許す、と言ってた。馬鹿だな!』
「そう、夫は尸解せずに仙人になっているわ。私よりも優秀なくせにお馬鹿なのよ、あの人……」
呆れているようで、夫の事を語る青娥が女の顔になっているのを華扇は見逃さなかった。
鬼の右手が肘を付いて掌を上に向ける。『ヤレヤレ』のポーズだ。
「ねえ、どうして旦那さんを外に出してあげないの? 理性が無いわけではないのでしょう?」
「そうだけど、外に出す必要もないでしょう。芳香は護衛役だから連れ回してるだけで、他の子達はみんな私の地下工房でいろいろと作業をしてもらってるの。夫はキョンシーだけど仙人でもあるから、他のキョンシーのまとめ役なのよ」
『現場主任というやつだ。しかし会ってみれば何で表に出せないかが一発で理解できるはずだぞ。例えるならば、神子と布都の悪い所を足して二倍したような鬱陶しさだ』
「そ、そこまでなの?」
華扇もオカルト異変の時にこの二人とは競った事がある。やたらと光ったりふんぞり返ったり、火が好きだったり阿呆だったり。良香が言っているので多少の誇張はあるのだろうがそれでも相当だ。
「口癖は『我が青娥』よ。これで大体察してちょうだい。赤の他人には絶対に知られたくないの」
「ああ、独占欲なのね……」
要するに事あるごとに『俺の嫁』アピールが激しい。だから他のキョンシーからは不評だし、青娥も絶対に並んで歩こうとしないのだ。邪仙の明確な弱点を衆目にさらけ出すようなものなのだから。
「何なのよもう……さっきの悲痛な時間を返してくれない?」
『ああ、奴の肩を持つのは癪だが間違わんでくれ。霍桓の死体に自我が宿ったのはかなり後の事だ。それまでの青娥は心に悪鬼が住まうかの如く悪道を突き進んでいたよ』
「夫は身体こそ遺っていたけど魂が抜けちゃいましたから。ちゃんと心のある夫に恨みつらみを浴びせなきゃ気が済まなかった。だから魂を取り戻す為に酷悪な実験を繰り返しましたが上手くいかず……やりすぎて本国には居づらくなったのもあって活動場所を日本に移したの。そこで出会ったのが豊聡耳様でした」
酷悪な実験を、やりすぎて。よくそんな仙人が聖徳王に取り入ることができたものだ。その理由もこうやって青娥と話していた華扇には何となく理解できていたが。
「あの方々にはとても救われたわ。三人に道教を教えている間は私の中に吹き荒れる暴風も収まっていたの。それも完全には上手くいかなかったし、その後再び良香を失う事になるわけだけど……私が狂いきらなかったのは豊聡耳様を待つっていうもう一つの目的があったおかげね」
華扇は一つの結論を出した。
「……よくわかったわ。結局、貴女は私利私欲の為に幾多の命を犠牲にし、最愛の夫と弟子の死体まで弄んだということね。貴女って本当に最低の邪仙だわ」
理由はどうであれ、青娥の行いは人の世では決して受け入れられるものではない。それは紛れもない事実だ。
されど華扇は青娥に嫌悪感を抱けなかった。華扇は自分を試す為にあえてこういう言い方をしたのだ。こう言えば自分は青娥に怒りを覚えるのだろうかと。
「そう、私は邪仙よ。夫の血を全身に浴びた時に、私の中の何かも一緒に抜け落ちたの。もう絶対に離れ離れにならない、共に天道を歩もう。そう言ってくれたあの方は先に逝ってしまった。だからもう邪道でも修羅道でも構わない。私は自分勝手だった夫の分まで欲望のままに、我儘に生きてやると決めた……」
「それが、今の貴女に繋がった……」
謎に包まれた断点だらけの彼女の過去が、ようやく線で結ばれた。
「腕と一つになって暴れた時ね、私も邪仙って言われたの。だからなのかしらね、青娥の事を嫌いになれないの。ふふ、おかしいよね……」
改めて眺める青娥の姿は相変わらず美しく華扇の目には映った。かつて狂気に染まって手を穢した人物とは信じがたい程に、その顔は安らかなものだった。
夜が更け、酒も肴も残り僅かだ。酒宴の終りが近づいていた。
キョンシー同士すっかり打ち解けた良香と鬼の右腕は、床に寝そべって主がやっていたように腕相撲勝負を始めてしまう。
怪力キョンシーが勝つか、怪力乱神の右腕が勝つか。勝負はあっさりと良香に軍配が上がった。腕だけでは全体を持っていかれて当然であった。
力を使い果たして酔いも回った彼らはそのまま雑魚寝で沈んでしまうのだった。次に目覚める時にはまたいつもの芳香と封印された鬼の腕に戻っているだろう。
「何だか私の悩みが馬鹿らしくなってきちゃったわ。鬼の私が仙人を名乗っていいのだろうかって、ずっと後ろめたかった。いつかそれを誰かに責められるかもしれない、認められないかもしれないって恐怖と戦っていた。でも言われれば楽になるかもしれないとも思っていた。その役が貴女で良かったと思うの」
「そうそう、それよ。良香が割り込んでこなかったらあのイジメはどこに収束したと思う? 私だって華扇を完膚なきまで叩きのめしたいとは思ってなかったわよ」
あの時華扇は鬼のお前が仙人なんてズルだ、人の身体で一からやり直せるか等と言われたのを記憶している。
これからは鬼の自分と向き合って我が道を歩くと誓ったばかりの華扇がそれを認められるはずもなかった。
「仙人の道を選んでくれてありがとう」
「……え?」
「私とは種族も目指す場所も違うけれど、それでも華扇が仙道を選んだことが嬉しかったの」
確かに青娥は道教の布教活動には熱心だ。しかしそれは自分の力をアピールしたいからだと稗田阿求の著書に載っていた。
華扇の力は青娥よりも強い。そのような人物が仙人になっても喜ぶのだろうか。
「人の命は儚いものです。今まで出会った方々はみんな私を置いて先に逝ってしまったけど、仙人なら同じ時を生きる事ができるでしょう。私と華扇の道が交わることはないけれど、長い人生を同じく歩む人がいるのはそれだけで元気を貰えるの。だから、ありがとう」
青娥の顔は真っ赤になっていた。それが酒によるものなのか、照れなのかは華扇にも区別がつかなかった。
「やだ、華扇ったら。顔が真っ赤になってるわよ。呑みすぎたのねぇ」
「貴女だって、真っ赤じゃない。お互い様よ……」
呑んで、食って、話して、軽い運動もして。二人はそれまでの疲れと満足感から床にどっと倒れ込んだ。
二人で横向きになって互いの顔を見つめる形で。
「床がひんやりしてて気持ちいいわ。今日はもうここに泊まっちゃおうかしら……」
「泊まっていきなさいよ。でも、旦那さんが怒るかしらね」
「さっきも言ったでしょう。女同士はセーフなの」
「ふふふ、お馬鹿な人ね……」
青娥が華扇の左手をきゅっと優しく握った。酒で火照った彼女の手は柔らかく温かい。
酔ってそのまま床で寝落ちるなんて、いつもの華扇だったらお説教を食らわせているところだ。
それでも華扇はこのまま青娥の温もりに包まれて眠りに付きたいと思ったのだった。
◇
その後も茨木華扇が霍青娥と親しくしているという話が流れる事はなかった。
人里でも評判の仙人が邪仙と付き合うはずがないのは当然である。
しかし茶店などで『偶然』出会った時には、華扇のお説教を肴に三人で微笑ましく食事をする姿が見られたという。
最後までいい距離感の不良仙人コンビのやり取りとそこへのヨシカと右腕ちゃんの挟まり方がよかったです
なんやかんやで折り合いを付けつつ関係性を保っていくのが青娥らしいなと。