通路に響く足音は、瀟洒というには余りに殺気立って聞こえた。
夜の紅魔館、地下を伸びるその道を、十六夜咲夜は大股で歩いていた。
目指すはこの先にある食糧庫。今すぐ確かめなければならないことがあった。
倉庫の扉の前に立つと、持ってきた鍵を鍵穴に差し込んだ。がちゃり、と音がして扉が開かれる。
中は狭く、簡素な部屋だった。左右の壁にちょうど嵌るような棚が備えられているだけ。厨房に入りきらなかった調味料や、保存の利く食材を収めるために使っている場所だった。
咲夜は入口の正面にある壁までまっすぐ足を進めた。突き当たった床の上には、大きめの木箱が置いてある。
中に入っているのはワインボトルだった。
ワインは紅魔館が料理用に購入したものだった。
酒より紅茶を好む紅魔館だったが、料理であれば毎日のように使う。なので定期的に仕入れる必要があり、こうして買い置きを地下食糧庫に収めておくのが常だった。
ワインの箱は一月前に買ったひとつと、今日買ったばかりの新しいものが二つ置かれてある。
咲夜は新しい方のひとつに手をかけた。ゆっくりと蓋を開けて、中のボトルを一本だけ取り出す。
味見をする必要はない。すうっと、ラベルに書かれた文字列をなぞっていった。
――くしゃり。
思わず持っていた紙きれを握りつぶした。
「あの馬鹿……!」
何てことだ。何をやってくれたんだ。取り返しはつかないことになった。というか、そもそも何故こんなことになったんだ。留守は頼んだと言ったではないか――。
咲夜は呪詛のような怨嗟の言葉を繰り返す。暗い後悔の海に沈みながら、あの馬鹿と、軽率だったかつて自分を責めた。
だが、いくら言ってももう手遅れで、既にどうにもならないことである。
咲夜は悔恨の念と共に、そっと木箱に蓋をした。
そう。
今するべきは後悔ではないのだ。
咲夜は食糧庫を後にする。再び紅魔館の廊下を歩き始めた。
目指すのはかの同僚の部屋。今すぐ問い質さなければならないことがある。きちんと説明して貰わないと気が済まなかった。
どしどしと、まるで床を踏み抜かんかのように彼女は足を進める。
顔は修羅、あるいは悪鬼が如く形相で、目が合った妖精メイドなどは、ただそれだけで昇天してしまいそうな勢いだった。
咲夜は、大きく息を吸う。
「めええいりんんんんんんんんんんんッッ!!!!!」
館全体を震わすような怒声が響いた。
当の美鈴がまったく気付かなかったのは、実に奇跡的な不幸だった。
◆ ◆ ◆
ある日の午後。香霖堂の店主である森近霖之助は、リヤカーを引きながら紅魔館までの道のりを歩いていた。
荷台に載っているのは二つの木箱。それぞれの木箱の表面には別々のラベルが貼ってある。この木箱こそが今日の商品であった。
しばらく歩くと紅魔館の門が見えた。側には門を守る番人が佇んでいる。なんでも中国武術に精通した武闘派の妖怪で、本気で戦えば屈指の強者という噂もある。
こうして霖之助が視線やれば、今日も侵入者を拒む屈強な門番が……、こっくりこっくりと舟を漕いでいた。
「寝る子は育つとはいうが、ここまで堂々とされるといっそ見事だね」
霖之助はやれやれと溜め息をついた。
見事なまでの居眠りである。門の壁に寄りかかり、目の前までやって来ても起きる気配が全くない。
仕方がないので幸せそうに眠るその額を小突いてやった。がばっと、光の速さで門番が顔を上げる。
「わっ、寝てません! 美鈴はちゃんと起きてますよ咲夜さん!」
寝ぼけて慌てふためく美鈴に、霖之助は冷静な声をかける。
「残念だけど、僕は君の大好きなお局様じゃあないよ。その彼女に用があって来たんだ」
「……なんだ。霖之助さんじゃないですか。びっくりさせないで下さいよ」
「僕は驚かせるようなことは何もしていないんだけどね。というか、君の勤務態度にびっくりしているところだ」
「霖之助さんだって似たようなものでしょう。香霖は商売舐めているって、魔理沙が言ってましたよ」
……あいつめ、と霖之助はごちる。魔理沙なんぞに言われたくないが、真面目な経営を心掛けているかと問われれば、答えに詰まるのが実情だ。
霖之助は自分にも都合の悪いこの話は取り下げて、メイド長を呼んでくれと美鈴に頼んだ。商いに来たのだと告げる。
すると彼女は困ったような顔をした。
「すみません。咲夜さんは今留守にしてるんです。ついさっき出て行ってしまって……」
「入れ違いになったか。すぐに戻るのなら地下図書館で待っていたいところだけど」
「帰りがいつになるかは聞いてませんねえ。急なお出かけだったもので。さすがにレミリア様がご起床なさる前には戻ってくると思いますけど」
いわく、朝早くにどこかから手紙をもらったのだそうだ。妖精メイドを何人か引き連れて出かけたので、手間のかかる仕事が入ったのだろうと。
美鈴の説明を受けて、それは残念だと霖之助は唸った。
「じゃあ代わりに君が受け取ってくれるかい。いつも料理用にワインを買ってるだろう?」
「ああ、いつものやつですね。でも私はお財布を持ってませんから。取りあえず預かって後で代金を取りに来てもらう、という形になりますよ」
「それで構わないよ。後で揉めないように伝票を切っておくから。ワインはそっちで持って行ってくれ」
「はい。この二箱ですね」
美鈴は荷台の木箱に手を伸ばした。ワインは地下の食糧庫だ。咲夜の持つ鍵が必要になるので、帰るまではどこかの木陰に置いておこうと思った。
しかし――。
美鈴は木箱を持ち上げようとした手を止める。じっとラベルを見つめると、非難するように霖之助を睨み付けた。
「……霖之助さんも人が悪いですね。私を騙そうとしたんですか」
「さあ。何のことだい」
「侮ってもらっちゃ困ります。二つの木箱、それぞれラベルが違います。二つは一緒のワインじゃないんでしょう?」
美鈴はそれぞれのラベルを指して不満げに言った。
紅魔館がいつも仕入れているのは料理用に使う一種類だけ。それなのに今は二種類のワインが用意されていたのだ。
この霖之助という商人は、いつも買っている品物の他に、高価な品物、珍しい品物をついでに売りに来ることがあった。
紅魔館はきちんと代金を支払う貴重な客なので、彼も新規開拓に熱心なのだ。
今日もきっとその手の話で、いつものワインと一緒に高いワインを売ろうとしていたのだろう。
「うーん、参ったな。まさか読まれてしまうとは……」
「やっぱりそうだったんですね。私がワインの品種に詳しくないからって」
「メイド長には絶対に通じないからねえ」
「私にだって通じません。で、どっちが高いワインでどっちがいつものワインなんですか」
霖之助は降参したように諸手を挙げた。両方の木箱を指さし、それぞれ高い方と安い方を教えてやる。
危ない危ないと美鈴は苦笑いをした。
「……やっぱり今日は帰ってもらえます? あなたは危ない気がします」
「もう嘘は言ってないんだが。……まあ仕方がない。日を改めようか」
「そうしてください。それにほら、例の朱鷺子ちゃんもあなたの帰りを待っているんじゃないですか」
「あれ。朱鷺子を知っているのかい?」
朱鷺子とは、香霖堂で半同居人と化している妖怪少女のことである。本が大好きで、日がな一日店の本を読み漁っている。
美鈴いわく紅魔館にもよく現れるそうで、地下図書館で魔女と一緒に仲良く本を読んでいるらしい。仕事の邪魔をしないのでおっかないメイド長からの評判も良いとのこと。
「ああ、そういえば彼女から聞いたぞ。いつだったか、メイド長から貰ったクッキーを門番に無理矢理奪われてしまったって」
「げっ、そんな話もありましたっけか……」
「えらくお冠だったよ。仕返しが無ければいいけど」
まったく仕方のない人だ、と霖之助は肩を竦めた。ここでずっと門番しているとお腹が空くんですよう、と美鈴は言い訳をする。
「咲夜さんには言わないで下さいね?」
「さあ、どうしようか。朱鷺子にとっては仇でもあるから」
「……分かりましたよ。ワインを預かっておけばいいんでしょう?」
美鈴は諦めたように首を振った。考えてみれば、このままでは彼は二つの木箱を持って帰らなければならないのだ。それは重労働だろうし気の毒にも思える。
とはいえ先程はからかわれてしまったし、素直に言いなりになるのも癪だ。美鈴は何かいい方法はないかと考えて、ふと自分にも得のある妙案を思いついた。
確認するように霖之助に尋ねる。
「こっちが高いワイン、こっちがいつものワインで間違いないんですよね?」
「くどいな。今君が触れている方が高い方で、その隣が安い方だ。嘘は言わないよ」
「そうですかそうですか。よおくわかりました」
美鈴はにたりと嫌らしい笑みを浮かべる。
そうして木箱のラベルに爪を立てると、奇妙な行動に出た。
「えいっ」
「あ、こら!」
霖之助の制止もむなしく、美鈴は木箱に貼ってあったラベルを剥がしてしまった。綺麗に剥がれた木箱は、どちらが高い方でどちらが安い方か区別できない。
何てことをするんだ、と霖之助は怒った。
しかし美鈴は素知らぬ風である。木箱をぽんぽんと叩き、悪戯を思いついた悪餓鬼のような、そんな笑みを浮かべていた。
――ねえ霖之助さん、彼女は挑発するように言う。
「私と、“勝負”してくれませんか」
◆ ◆ ◆
「勝負……? 話がよく見えないんだけど」
霖之助は眉をひそめて言った。美鈴が何をはじめようとしているのか、まだ分からなかった。
「ただの運試しですよ。簡単な中身当てゲームです」
「この木箱でかい? だからさっきラベルを剥がしたのか」
「はい。見た目はそっくりな木箱二つ。どちらの中身が高い方か当ててみて下さい」
それは僕が選ぶということか、霖之助がそう問うと、ええと美鈴は言った。
さらに続ける。
「霖之助さんが中身を当てられたら私は霖之助さんに、当てられなかったら霖之助さんは私に、それぞれワインを一本奢るというルールはどうでしょう」
「賭けの景品か。なるほど食い意地が張っている。さすが朱鷺子から菓子を奪うだけのことはあるね」
「それはもういいですってば……」
しかし退屈な門番の仕事は眠くなるしお腹も空くのだろう。喉も乾くからワインを飲みたくなる気持ちも分からないではない。
「それが今日の分のワインを預かる条件ということかい?」
「……咲夜さんは、この手の商談は全部自分の手でやりたがります。嫌だというのならそのまま重い木箱を持ってお帰りになられても結構ですが」
「ずるい言い方だね。でも僕が品物を売りたいのは事実だし……、仕方ないな」
受けて立とう、霖之助はしっかりと頷いた。よかった、と美鈴の顔もほころぶ。
そしてすぐに何かを思い出したような顔になった。
「そういえば、霖之助さんの能力でどちらが高い方か分かったりします?」
「いや。ワインのボトルを直接手に取ってなら多分わかるけど、木箱のままじゃ無理だね」
「そうですか。――まあ、私の「気を使う程度の能力」なら、能力が使われたかどうかは“気”で分かります。インチキは出来ませんからね」
――というのは嘘だけど。美鈴は心の中だけで呟いた。
だが霖之助には真偽を確かめる術がない。ブラフとしては十分である。
「別に嘘をつくつもりなんて無いけどね。……他に何か注意点はあるかい?」
「こんなものだと思います。……それでは早速、木箱を混ぜこぜにしますね。箱を選ぶのが霖之助さんだから、これは私の仕事です」
そう言って美鈴はそれぞれの木箱を持ち上げた。片手にひと箱ずつ――ひと箱につきワインボトルが二十本である――を軽々と支えている。
力自慢の美鈴に若干顔を引きつらせながら、霖之助は彼女から背を向けた。
「絶対こっちを見ちゃ駄目ですよー」
「わかってる。それよりあんまり豪快に振り回さないでくれよ。中身のワインにとって良くない」
「大丈夫ですって、ちゃんと加減しますから。……じゃあ、行きますよう」
美鈴はそう言って木箱の移動を始めた。霖之助の背後でがしゃんがしゃんと音がする。冷や冷やしながらその音が止むのを待った。
やがて「もういいですよ」と声がした。
「さあ、高い方はどちらか当ててみてください」
美鈴は木箱二つを地面の上に置いて、「当てられるものなら当ててみろ」と言わんばかりに手を広げた。
自信満々の笑みを浮かべ、ともすれば余裕があり過ぎるようにも見える。
――やはり、別の意図があるな。
霖之助はそう確信している。ただの中身当てゲームではない。美鈴は絶対に負けない秘策を持っている。
「……実は両方ともまったく別の木箱にすり替えてある、とか?」
「確かにそれなら確実に私が勝ちますが、答え合わせの時に困るでしょう」
「そうだね。ちょっと言ってみただけだ」
霖之助は二つの木箱に触れながら観察を続けた。
……しばらく考えて、やがて「こっちだね」と指をさす。
「本当にそれでいいんですか。間違ってたらワイン一本ですよ?」
「わかってる。しかし僕だって一応商人だ。こんなことで間違えたりしないさ」
「そうですか、そうですか」
美鈴は大仰に頷いて見せる。わざとらしいことこの上ない。
霖之助は冷静にその姿を確認しながら、彼女の次の行動を待った。
「では結果発表――、と言いたいところですが、このままじゃあ、どちらが高い方かわかりませんね」
「何故だい? 箱の蓋を開ければいいじゃないか。中のワインにはラベルが貼ってあるんだから、すぐにわかるだろ」
「いいえ。わかりません。私はワインの品名なんて覚えてませんから」
「何を言ってる。君が覚えてなくても僕が――……、ああ。そうか」
霖之助は美鈴が言わんとしていることに気付いて手を打った。
美鈴は笑う。
「あなたは自分の正しさを自分で証明出来ないんですよ」
「そうだね、仕方がない。君は品名なんて覚えてないんだから」
美鈴が言っているのはこういうことだ。
いくら霖之助が高い方はこちらだと説明しても、美鈴が「覚えていない」のならばお仕舞いである。
霖之助は自分が勝つために嘘をつくかもしれないし、だから美鈴は、彼の言う答えを容易く信じられないのだ。
「でもどうしようか。これじゃ答え合わせもできないぞ」
「いえいえ。簡単にわかる方法があるんですよ」
「へえ。どうやって?」
それはですね――、美鈴は霖之助が選んだものとは“反対”の木箱を開けた。そこからボトルを一本取り出す。
そうして素早くコルクを抜き取ると、ボトルに口をつけた。
「あ、こら。何をするんだ」
「ぷはー、美味しいですねえこのワイン。いつもの物とは全然違います」
美鈴の行動は早かった。霖之助が止める間もなく、手に取ったワインを飲んでしまったのだ。ボトルの中身は、一口で三分の一が失われている。
飲み比べてしまえば一発でわかる。それが美鈴の言う「簡単にわかる方法」だった。
「……さては君、初めから勝っても負けてもワインを飲む気だったな?」
「えへへ。ばれました?」
「まったく大した食い意地だよ」
「まあまあ。他に方法は無かったんですから」
美鈴はぺろっと舌を出して言った。
しかしこれは、木箱を混ぜこぜにする前に蓋の裏に印でもつけておけば解決した問題である。美鈴はそれも分かっていて、敢えて言わなかったに違いない。
「というわけで、こっちの木箱の中身が高いワインですね。霖之助さんは逆の木箱を選びました」
「勝負は僕の負けということか。仕方ない、そのワインを君にあげればいいんだろう?」
「いやあ、悪いですねー」
美鈴は満面の笑みで今さっき口をつけたワインボトルを掲げた。
安いものではない。とても高いワインなんだけど、と霖之助は愚痴る。
「それじゃあこのワインが入っていた方とは逆、霖之助さんが選んだ方のワイン箱を貰いましょうか」
「こっちの安い方のワインだね。全部で二十本。伝票切るからサインをしてくれよ」
そう言って霖之助が納品書を突きつけると、美鈴はるんるんと鼻唄を歌いながらそれにペンを走らせた。
表記にミスはない。納入する品名とラベルに書かれているものは一致している。
「これが控えだ。また後日請求に来るよ。メイド長によろしく」
「はい。いつでもお待ちしております。……また賭けをしてもいいんですよ?」
「リベンジかい? 当分は止めておくよ」
霖之助は声なく笑うと、「じゃあまた」と紅魔館を後にした。
美鈴はその後ろ姿を見送りながら、ワインの残りは今夜の仕事終わりにゆっくり楽しもうと、そんなことを考えていた。
◆ ◆ ◆
「う、嘘よ! 美鈴が起きてるなんて……!」
紅魔館に帰宅した咲夜は、美鈴の姿を見るなりそんなことをのたまった。
「それ、あんまり失礼だと思いますよ。というか生き別れの兄弟に出会ったみたいな顔、やめてもらえます?」
「だって起きてるとは思わなかったんだもの。これも日頃の行いというものね」
「でもさっきのは酷過ぎですよう」
美鈴はよよよと泣き真似をする。どちらも本気ではなく、じゃれているだけだ。
気が済んだ美鈴は、おかえりなさいと目を細めて言った。
「ただいま美鈴。何か変わったことはなかった?」
「あ、それがひとつあるんですよ。ワインのことなんですけど……」
「ワイン? というかお酒の匂いがするんだけど。まさか勤務中に――」
咲夜の瞳に、今度は本気の殺気が宿った。
危機を素早く察知した美鈴は、手のひらを向けて弁解する。
「違います違います。お酒、咲夜さんが留守の間にお酒を買ったんです」
ほらあの木陰に置いてある木箱、と美鈴は先ほど買った木箱を指差した。
しかし咲夜は怪訝そうな目をするだけだ。とりあえずナイフは仕舞いましょうとの言には従うものの、返答次第では再度引き抜く構えである。
そんな咲夜を宥めながら、美鈴は先程の霖之助との出来事を説明した。もちろん中身当てゲームや賭けをやっていたことは伏せて、だが。
すべて聞き終わると、しかし咲夜は「変ねえ」と首を傾げた。
「もしかして入れ違いになったのかしら」
「えっ、咲夜さんも香霖堂に行っていたんですか?」
「ええ。そろそろ手持ちのワインが切れる頃だろうって、手紙を貰ってね。だから私の方でもワイン買っちゃったんだけど……」
ほら、と咲夜は自分の後ろを指す。そこには木箱の載ったリヤカーを牽く三人の妖精メイドたちがいた。
隙あらば遊ぼうとする彼女たちの引率は、なかなか骨の折れる仕事だったに違いない。
「でも店主は留守だったんじゃないですか」
「だから留守番の子に売って貰ったのよ。ここにもたまに来るでしょ、朱鷺子っていう子」
いわく店主の留守に咲夜も一度は帰ろうとしたのだが、それを引き留めたのが朱鷺子だったそうだ。
彼女は咲夜をいつものワインの在庫がある場所まで案内すると、咲夜相手にしっかり仕事をした。
品物の売買が終わってからも雑談に花を咲かせていたら、結局今の時間まで掛かってしまったという。
「しっかりした子よね。本好きだからか色々な話を知ってるし。聞き上手でもあるわ」
「……あ、あのう、変なことは聞かされてないですよね。お菓子がどうとか」
「うん? 別に何も聞いてないけど。それよりワインの伝票はちゃんと貰った?」
咲夜が訊ねると、美鈴は「咲夜さんの部屋に置いておきました」と説明した。
これに咲夜の目が鋭く細められる。
「……私の部屋、鍵がかかっていたはずなんですけど」
「それはまあ、愛の力で。……それにしても咲夜さんったらあんな大胆な下――」
「ぎ」と言う前に、咲夜の鉄拳が美鈴の顔面にめり込んだ。
大丈夫。まだ息はある。同情は不要と判断する。
「この馬鹿美鈴っ!」
「ごめんなさいごめんなさい、本当に持ってただなんて思わ――」
「……それ以上言ったら、あなたの夕飯抜きだから」
「イエッサー、ボス。本官は何も見ていませんし聞いてもいません」
美鈴はふざけ混じりに敬礼のポーズをしてみせる。
それをひと睨みした後、咲夜はポケットの中から一本の鍵を取り出した。
「ワインは食糧庫に運んでおいて。地下の方ね。この鍵で開くはずだから。それとあの妖精メイド達が持ってきてるやつも」
「はあい。ちゃんとやっておきます」
「私は今から夕飯の準備をするから。鍵は夕飯の時に返してくれればいいわ。……盗み食いしちゃ駄目よ?」
「わかってますよう」
美鈴は明るく手を振る。
咲夜は肩を竦めて「よろしくね」ともう一度釘を指すと、夕食のために館の中へ入って行った。
◆ ◆ ◆
その日の夜、仕事を終えた美鈴は、自室に戻って優雅なひとときを過ごしていた。
主は夜に起床するため、夜は門番役が不要になる。
ただの人妖なら天下のレミリア・スカーレットに喧嘩を売るような馬鹿はしないし、調子に乗った腕自慢なら主の暇つぶしに丁度いい。
そんなわけで夜はいつも気楽な時間を過ごせているのだが、今夜はいつも以上にリラックスし、かつ悦に入っていた。
どっかりとチェアーに背を預け、セレブレティな気分でグラスを傾ける美鈴。
ワインはかなり高価なものだったようで、今まで飲んだどのワインよりも味わい深く、芳醇であった。
「しかし、驚くほどうまくいきましたね……」
美鈴はくっくっく、と喉の奥で笑う。悪魔の館に仕える門番に相応しい、意地の悪い笑みである。
もちろんこの笑みの源は先の霖之助との勝負だった。
霖之助が選び、外れを引いて、ワインを手にした、ごく単純な対決。しかしそれには、美鈴が一方的に得をする“裏”があったのだ。
「あの対決、私に負けはなかったんです。初めからフェアな勝負じゃなかったんですよ」
最初の罠は、二つの木箱そのものである。
美鈴はまず、この木箱のうちの高い方にごく小さな傷をつけた。木箱からラベルを剥がす一瞬の隙を突いたもので、注意していないと見落としてしまうような手際だった。
とはいえ彼女が当たり外れを選ぶわけではないので、これだけでは何の意味もないように思えるが、実は隠された意味を持っていた。
第二の罠は、美鈴が賭けの話を提案した時、景品のワインをどちらにするか指定しなかったことである。
ワインは高い方と安い方の二種類があった。しかしどちらを景品にするかを言わなかったので、どのワインが景品でも良いことになっていた。
つまり美鈴は、勝敗によって自分に都合のいい方を景品にすることが可能であり、また木箱の傷を見れば、混ぜこぜにして霖之助が選んだ後でも、正確にそれを選ぶことが出来たのだ。
もし霖之助が外れを引いていたのなら、迷うことなく高いワインを景品に選べばいい。賭けに勝っているのだから安い方を選ぶ必要はない。
試飲と称して口をつけたのもこれを押し通すためで、口をつけてしまったからこそ、それを景品とすることに異論を挟めなくなった。
逆に当たりを引いて賭けに負けていた場合は、今度は安い方のワインを選べばいい。
そもそも安い方のワインは紅魔館が全て買い取る予定だったので、内一本が霖之助の手に渡ったところで美鈴の懐は全く痛まない。
それどころか、試飲をして霖之助に渡すのであれば、一口分得ですらあるのだ。
もっともこの場合、買った木箱からワインが一本足りなくなってしまうが、これは現在の在庫から一本持ち出して補充しておけばいい話だ。
咲夜も入荷分なら神経質になろうが、現在の在庫にまでは気が回らないはず。おそらくばれることもなかっただろう。
こうして美鈴は、リスクを最小限に押さえつつ、勝敗がどちらに転んでも得をするような仕組みを作っていたのだ。
「ケース・バイ・ケース……。状況に応じて手を変えていくのは駆け引きの基本ですよ」
そしてワインを一口。
ああ、なんともまろやかな喉ごし。美鈴は至福のひとときを過ごしていた。
だが、古今東西、至福の瞬間とは長続きしないものである。突然、どんどんと扉を叩く音が聞こえてきた。
隣の部屋ではない。間違いなく自分のところだ。そこはかとなく嫌な予感がしながらも、かと言って無視する訳にもいかず、美鈴は恐る恐る扉を開いた。
来訪者は十六夜昨夜のようだ。
「あ、あれえ咲夜さん。どうしたんですかこんな夜更けに。まさか夜這いにでも来てくれたんじゃあ……」
「美鈴」
仕様もない冗談はぴしゃりと遮られる。
「少し、お話がしたいのだけど」
咲夜はそう言うなり、ずいと部屋の中に体を滑り込ませた。
何やら声が硬い。きっと、いや間違いなく不味い展開になっている。美鈴は目を逸らしながら言った。
「い、いやあ咲夜さんがわざわざお話しに来てくれるなんて光栄の極みですねえ。あっはっは――」
「これを見なさい。私の部屋の机の上に置いてあった納品書。日付は今日であなたのサイン付き。昼間に言っていたワインのことで間違いないわね?」
咲夜はその伝票を美鈴に押し付けた。確かに覚えがあるので頷いた。
「えーと、はい。間違いないです。今日霖之助さんが持ってきてくれたものですね」
「そう。じゃあその上で聞くのだけど、あなたは伝票に書かれた品名を見て何も思わなかったの? あるいはこの金額に対して違和感を覚えなかったのかしら?」
「……いや。伝票にミスはないはずですよ。実際の品物と伝票に書かれてある品名は一致しています」
「確かに。そこに間違いはなかったわ。私もさっき確認したから断言できる」
じゃあつまりどういう事なんでしょう、そう言った瞬間、美鈴は胸倉を強く掴んで引き寄せられた。
咲夜の顔がすぐ近くにある。目が合うと、それは人間の目ではなかった。
ああ、駄目だ。
これはあれだ。人食いザメとか何とか。そういった類の目だ。
「……そう、ミスは無かったわ。伝票も品物も“高いワイン”で一致していた――!!」
え、と美鈴は阿呆みたいに口を開ける。そして勢いよく首を振った。
(そんな馬鹿な。自分は安い方のワインを買ったはずだ。ちゃんと印までつけたじゃないか――)
霖之助はこちらが高い方、こちらが安い方と説明した。そして自分は混ぜこぜにする前に木箱に印をつけたのだ。
そもそも高いワインなら今自分が飲んでいる方だ。買ったのはその逆のワインであり、安いワインのはずだった。
仮に嘘の説明は出来ても、伝票を見間違えることはあっても、ワインの味を誤魔化すことなど出来るわけがない。
(まさか。じゃあすり替えられたのか……?)
試飲の段階では、すり替えは行なわれていなかった。だとすればそれはその後、もしかして霖之助は、帰ったと思わせて近くに潜んでいたのではないだろうか。
しかしそれも変だ。ワインはずっと自分の目の届く範囲にあったし、咲夜が帰ってからは鍵付きの倉庫に入れたのだ。
倉庫の鍵は夕食時に咲夜に返すまでずっと自分が持っていた。すり替えの機会なんて無かったはず。
では一体。
どうやって……?
混乱する美鈴の耳に咲夜の冷ややかな声が届いた。
「ねえ美鈴。なあに、その高そうなワイン」
「えっ……」
咲夜はテーブルの上に置いてあった戦利品のワインボトルを抱えた。
視線の高さまで掲げて、ボトルに貼られていたラベルを繁々と眺める。そして一言。
「なるほど。これで霖之助さんに買収されたってわけね」
「なっ!!?」
何を言っているんですか咲夜さんそんな訳ないじゃないですか、美鈴は必死に抗弁するが、咲夜はもう聞く耳を持たなかった。
胸元の内ポケットから無造作にナイフを取り出す。強く握りしめたことから、投げるのではなくそのまま突き刺すつもりだろう。
「いやいやいやいや、待ってください落ち着いてください! これは何かの間違いです、訳を話して霖之助さんに引き取って貰えばいいじゃないですか!!」
「……あなたは、お嬢様の顔に泥を塗るつもりなの?」
酷く冷たい、深海の底から響いてきたかのような声だった。
え――、と口にした時には、ナイフは額に突き刺さっていた。
「馬鹿美鈴! そんなこと出来るわけないじゃない! モノはもうここにあるのよ!? 伝票も、あんたの阿呆みたいなサインも全部! 今さら引き取ってもらうなんて、あんたはお嬢様に大恥をかかせる気!!?」
ワインは紅魔館として買ったものだった。ということは、取引は主人であるレミリアと交わされたものなのである。
それを今さら間違いでしたなどと言えば、レミリアが間違いを犯したということになってしまう。要は面子の問題なのだ。
ならばもう、紅魔館は初めから高いワインを買うつもりで買い、間違いなどどこにも無かったのだ、ということにするしかない。
床を転がりまわる美鈴に、咲夜は惜別の言葉を贈った。
「さようなら美鈴。あなたのことは忘れるわ」
「待って、待ってください咲夜さん! なに遠くを見るような眼をしてるんですか! もっとこう、建設的な話し合いをですね……」
「問答無用!!」
いやーー、と美鈴の絶叫が館中をこだました。次いでそれを上回る咲夜の怒声と、ナイフが何かを破壊する音が後を引き継ぐ。
こうして紅魔館の夜は、騒々しくも更けていくのであった。
◆ ◆ ◆
夜の香霖堂。店主である霖之助は、ソファにゆったりと腰を下ろし、用意したワインをグラスに注いでいた。
豊かなワインの香りが部屋の中に広がる。彼はまず、その香りを十二分に堪能することにした。
「……うん。やはりいい品だ。一仕事終えたのだから、これくらいのご褒美がないとね」
霖之助は少し気取ってグラスに口をつけた。味も悪くない。当たり前だ。いつも紅魔館に納入しているのだから、むしろ上等の部類だろう。
せっかく大きな利益を得られたのだから、たまには奮発してみるのもいい。
しかし――、更に上等なワインが彼の側にはあった。
本日紅魔館で売れなかった方のワイン。一本減って十九になったそのワインこそが、香霖堂が誇る最高級のワインだった。
「僕は嘘など吐いていないよ。“高いワイン”と“とても高いワイン”、とても高いワインと比べれば、高いワインは“安い方”になるからね」
つまりそれが、美鈴に高いワインを買わせたからくりだった。
霖之助は初めからいつものワインなど持ってきていなかった。木箱の中身はいつもより少し高いワインと、それよりももっと高いワインの二種類だけ。
彼は高い方、安い方という言葉を使うことによって、持っている品物が高いワインといつものワインだと錯覚させたのだ。
そして何故いつものワインを持ってきていなかったかというと……。
「アンカリング効果。行動経済学によるところの価値の認識傾向をいう。要は心理学の不思議だ」
人間の心理とは、時として非合理な判断を下してしまうものだ。例えば、先にとんでもなく高価なものを目にすると、次に見るものは実際よりも安く感じてしまう、など。
この場合、先に見たものがアンカー《基準》となって、次に見るものの認識に影響を及ぼしてしまうのだ。
ならば、先にとんでもなく高価なワインを見せておけば、次に見る“いつもより少し高いワイン”は、実際よりも安く感じてしまうのではないか。
これが霖之助のもともとの作戦なのだった。
「メイド長が留守で、美鈴が中身当てゲームを持ちかけたから、僕の考えた策は無意味になってしまった。だけど、だったら今の場面に合う新しい策を用意すればいい」
霖之助にとっては高いワインが売れさえすればいいので、なにもアンカリング効果にばかりこだわる必要はない。
そして現状、美鈴は安い方のワインをいつものワインと思い込んでいる。つまりワインを売るためにはそれがばれないように振る舞う必要があった。
そのためにも霖之助は、美鈴の一挙手一投足をつぶさに観察し、彼女の意図と目的がどこにあるのかを推理した。
だから霖之助は、彼女が木箱に傷をつけたのにも気付き、また景品のワインを指定しなかったことから“絶対に負けない秘策”にも気付いた。
相手の意図が理解できたのならそれを逆手に取ればいい。木箱に傷があるならば、わざと負けることで高い方のワインを与えてやればいいのだ。
相手はその逆がいつものワインと考えるので、実はそちらのワインも高いワインだったという事実に気付きにくくなる。幸い美鈴はワインの品種にも疎かった。
結果、美鈴はその読み通りに行動し、霖之助は無事に本懐を遂げることが出来たのだ。
「これもまたケース・バイ・ケース。策はその時々に最も適したものを臨機応変に使うべきさ」
霖之助はそう嘯くと、また一口グラスに口を付けた。
「でも、こうして後になって考えれば、相手が美鈴だったのは幸いだったかもしれない。あのメイド長は一筋縄ではいきそうにないし、初めの策は読まれてしまう可能性もあった。――だから朱鷺子」
あの手紙は助かったよ、霖之助は部屋の隅で本を読んでいる朱鷺子に水を向けた。
だが彼女は本に視線を落としたまま肩を笑わせるだけ。それが何よりの答えだった。
咲夜に手紙を出したのは、もちろん朱鷺子だった。彼女は霖之助の策を知っていたので、ちょうど霖之助と行き違いになるように咲夜を呼び出したのだ。
咲夜が留守になれば、紅魔館で霖之助の相手をするのは美鈴になる。そして霖之助なら、美鈴を騙してワインを買わせることくらい訳ないだろうと踏んだ。
ちなみに手紙で咲夜が呼び出されたと知った時点で、霖之助は裏に朱鷺子がいることに気付いていたが、自分にとっても都合がいいので利用させてもらうことにした。
「しかし恐るべきは食べ物の恨み、ということだね。まさかクッキーくらいでこんなことを仕掛けるとは」
すべては美鈴への復讐――、ということである。
朱鷺子は地下図書館を利用するので紅魔館にはよく行っていた。咲夜から余りものだからとクッキーの袋を貰ったのも、その図書館に行った帰りのことだった。
彼女は香霖堂に帰ってから食べようと上機嫌で門の方に向かう。咲夜の手料理なら絶品だから、今から楽しみである。
だがちょうど門を潜ろうとしていた時、大事なクッキーは腹を空かせていた美鈴に袋ごと奪われてしまった。一瞬の隙を突いた犯行で、彼女が気づいた時には既にひとつ残らず丸呑みにされた後だった。
それから朱鷺子は、いつか美鈴に復讐せんとずっと機会を窺っていた。ただ注意されるだけでは生ぬるい。もっと致命的な打撃を与えたいと考えていた。
そんなとき聞いたのが、アンカリング効果とそれを用いた霖之助の商売だった。咲夜相手に勝算はあると豪語する彼を見て、美鈴への復讐にこれを利用することを思い付いた。高いワインを買わせれば、咲夜がどういう行動を起こすか簡単に予想できたからだ。
結果、彼女の策は成功し、今頃美鈴は酷い目に合っているに違いない。
「結局、僕はいいように利用されていたってことだね。まあ、高いワインで儲けも出たから満足しているけど……」
ふう、と息を吐きながら肩を竦めると、霖之助はまたワイングラスに口をつけた。
少々釈然としないが、何はともあれ滅多にない大きな利益だ。商売人としては満足するべきだろう。
だがそんな彼の側に、空いたグラスを持った朱鷺子がやってきた。
すっと 当然のようにグラスをつき出す。
「……君、まさか今日の分の報酬を寄越せって言うのかい?」
確かに、ワインを簡単に売ることが出来たのは咲夜が留守だったからだ。
加えて霖之助の留守中にもしっかり商売をこなしていたのだから、報酬を与えるに足る仕事をしたとも言える。
つまるところ朱鷺子は、霖之助の策が成ろうが成るまいが留守番代だけなら請求出来たのである。
「まったく! 僕も大概強欲な男だと自覚しているけどね、君ほどではないと思うんだよ……!」
霖之助は苦虫を噛み潰したような顔で、ワインをグラスに注いでやった。
朱鷺子は最高級の笑顔でそれを受け取る。そうして大きく口を開けると、一息に飲み干してしまうのだった。
夜の紅魔館、地下を伸びるその道を、十六夜咲夜は大股で歩いていた。
目指すはこの先にある食糧庫。今すぐ確かめなければならないことがあった。
倉庫の扉の前に立つと、持ってきた鍵を鍵穴に差し込んだ。がちゃり、と音がして扉が開かれる。
中は狭く、簡素な部屋だった。左右の壁にちょうど嵌るような棚が備えられているだけ。厨房に入りきらなかった調味料や、保存の利く食材を収めるために使っている場所だった。
咲夜は入口の正面にある壁までまっすぐ足を進めた。突き当たった床の上には、大きめの木箱が置いてある。
中に入っているのはワインボトルだった。
ワインは紅魔館が料理用に購入したものだった。
酒より紅茶を好む紅魔館だったが、料理であれば毎日のように使う。なので定期的に仕入れる必要があり、こうして買い置きを地下食糧庫に収めておくのが常だった。
ワインの箱は一月前に買ったひとつと、今日買ったばかりの新しいものが二つ置かれてある。
咲夜は新しい方のひとつに手をかけた。ゆっくりと蓋を開けて、中のボトルを一本だけ取り出す。
味見をする必要はない。すうっと、ラベルに書かれた文字列をなぞっていった。
――くしゃり。
思わず持っていた紙きれを握りつぶした。
「あの馬鹿……!」
何てことだ。何をやってくれたんだ。取り返しはつかないことになった。というか、そもそも何故こんなことになったんだ。留守は頼んだと言ったではないか――。
咲夜は呪詛のような怨嗟の言葉を繰り返す。暗い後悔の海に沈みながら、あの馬鹿と、軽率だったかつて自分を責めた。
だが、いくら言ってももう手遅れで、既にどうにもならないことである。
咲夜は悔恨の念と共に、そっと木箱に蓋をした。
そう。
今するべきは後悔ではないのだ。
咲夜は食糧庫を後にする。再び紅魔館の廊下を歩き始めた。
目指すのはかの同僚の部屋。今すぐ問い質さなければならないことがある。きちんと説明して貰わないと気が済まなかった。
どしどしと、まるで床を踏み抜かんかのように彼女は足を進める。
顔は修羅、あるいは悪鬼が如く形相で、目が合った妖精メイドなどは、ただそれだけで昇天してしまいそうな勢いだった。
咲夜は、大きく息を吸う。
「めええいりんんんんんんんんんんんッッ!!!!!」
館全体を震わすような怒声が響いた。
当の美鈴がまったく気付かなかったのは、実に奇跡的な不幸だった。
◆ ◆ ◆
ある日の午後。香霖堂の店主である森近霖之助は、リヤカーを引きながら紅魔館までの道のりを歩いていた。
荷台に載っているのは二つの木箱。それぞれの木箱の表面には別々のラベルが貼ってある。この木箱こそが今日の商品であった。
しばらく歩くと紅魔館の門が見えた。側には門を守る番人が佇んでいる。なんでも中国武術に精通した武闘派の妖怪で、本気で戦えば屈指の強者という噂もある。
こうして霖之助が視線やれば、今日も侵入者を拒む屈強な門番が……、こっくりこっくりと舟を漕いでいた。
「寝る子は育つとはいうが、ここまで堂々とされるといっそ見事だね」
霖之助はやれやれと溜め息をついた。
見事なまでの居眠りである。門の壁に寄りかかり、目の前までやって来ても起きる気配が全くない。
仕方がないので幸せそうに眠るその額を小突いてやった。がばっと、光の速さで門番が顔を上げる。
「わっ、寝てません! 美鈴はちゃんと起きてますよ咲夜さん!」
寝ぼけて慌てふためく美鈴に、霖之助は冷静な声をかける。
「残念だけど、僕は君の大好きなお局様じゃあないよ。その彼女に用があって来たんだ」
「……なんだ。霖之助さんじゃないですか。びっくりさせないで下さいよ」
「僕は驚かせるようなことは何もしていないんだけどね。というか、君の勤務態度にびっくりしているところだ」
「霖之助さんだって似たようなものでしょう。香霖は商売舐めているって、魔理沙が言ってましたよ」
……あいつめ、と霖之助はごちる。魔理沙なんぞに言われたくないが、真面目な経営を心掛けているかと問われれば、答えに詰まるのが実情だ。
霖之助は自分にも都合の悪いこの話は取り下げて、メイド長を呼んでくれと美鈴に頼んだ。商いに来たのだと告げる。
すると彼女は困ったような顔をした。
「すみません。咲夜さんは今留守にしてるんです。ついさっき出て行ってしまって……」
「入れ違いになったか。すぐに戻るのなら地下図書館で待っていたいところだけど」
「帰りがいつになるかは聞いてませんねえ。急なお出かけだったもので。さすがにレミリア様がご起床なさる前には戻ってくると思いますけど」
いわく、朝早くにどこかから手紙をもらったのだそうだ。妖精メイドを何人か引き連れて出かけたので、手間のかかる仕事が入ったのだろうと。
美鈴の説明を受けて、それは残念だと霖之助は唸った。
「じゃあ代わりに君が受け取ってくれるかい。いつも料理用にワインを買ってるだろう?」
「ああ、いつものやつですね。でも私はお財布を持ってませんから。取りあえず預かって後で代金を取りに来てもらう、という形になりますよ」
「それで構わないよ。後で揉めないように伝票を切っておくから。ワインはそっちで持って行ってくれ」
「はい。この二箱ですね」
美鈴は荷台の木箱に手を伸ばした。ワインは地下の食糧庫だ。咲夜の持つ鍵が必要になるので、帰るまではどこかの木陰に置いておこうと思った。
しかし――。
美鈴は木箱を持ち上げようとした手を止める。じっとラベルを見つめると、非難するように霖之助を睨み付けた。
「……霖之助さんも人が悪いですね。私を騙そうとしたんですか」
「さあ。何のことだい」
「侮ってもらっちゃ困ります。二つの木箱、それぞれラベルが違います。二つは一緒のワインじゃないんでしょう?」
美鈴はそれぞれのラベルを指して不満げに言った。
紅魔館がいつも仕入れているのは料理用に使う一種類だけ。それなのに今は二種類のワインが用意されていたのだ。
この霖之助という商人は、いつも買っている品物の他に、高価な品物、珍しい品物をついでに売りに来ることがあった。
紅魔館はきちんと代金を支払う貴重な客なので、彼も新規開拓に熱心なのだ。
今日もきっとその手の話で、いつものワインと一緒に高いワインを売ろうとしていたのだろう。
「うーん、参ったな。まさか読まれてしまうとは……」
「やっぱりそうだったんですね。私がワインの品種に詳しくないからって」
「メイド長には絶対に通じないからねえ」
「私にだって通じません。で、どっちが高いワインでどっちがいつものワインなんですか」
霖之助は降参したように諸手を挙げた。両方の木箱を指さし、それぞれ高い方と安い方を教えてやる。
危ない危ないと美鈴は苦笑いをした。
「……やっぱり今日は帰ってもらえます? あなたは危ない気がします」
「もう嘘は言ってないんだが。……まあ仕方がない。日を改めようか」
「そうしてください。それにほら、例の朱鷺子ちゃんもあなたの帰りを待っているんじゃないですか」
「あれ。朱鷺子を知っているのかい?」
朱鷺子とは、香霖堂で半同居人と化している妖怪少女のことである。本が大好きで、日がな一日店の本を読み漁っている。
美鈴いわく紅魔館にもよく現れるそうで、地下図書館で魔女と一緒に仲良く本を読んでいるらしい。仕事の邪魔をしないのでおっかないメイド長からの評判も良いとのこと。
「ああ、そういえば彼女から聞いたぞ。いつだったか、メイド長から貰ったクッキーを門番に無理矢理奪われてしまったって」
「げっ、そんな話もありましたっけか……」
「えらくお冠だったよ。仕返しが無ければいいけど」
まったく仕方のない人だ、と霖之助は肩を竦めた。ここでずっと門番しているとお腹が空くんですよう、と美鈴は言い訳をする。
「咲夜さんには言わないで下さいね?」
「さあ、どうしようか。朱鷺子にとっては仇でもあるから」
「……分かりましたよ。ワインを預かっておけばいいんでしょう?」
美鈴は諦めたように首を振った。考えてみれば、このままでは彼は二つの木箱を持って帰らなければならないのだ。それは重労働だろうし気の毒にも思える。
とはいえ先程はからかわれてしまったし、素直に言いなりになるのも癪だ。美鈴は何かいい方法はないかと考えて、ふと自分にも得のある妙案を思いついた。
確認するように霖之助に尋ねる。
「こっちが高いワイン、こっちがいつものワインで間違いないんですよね?」
「くどいな。今君が触れている方が高い方で、その隣が安い方だ。嘘は言わないよ」
「そうですかそうですか。よおくわかりました」
美鈴はにたりと嫌らしい笑みを浮かべる。
そうして木箱のラベルに爪を立てると、奇妙な行動に出た。
「えいっ」
「あ、こら!」
霖之助の制止もむなしく、美鈴は木箱に貼ってあったラベルを剥がしてしまった。綺麗に剥がれた木箱は、どちらが高い方でどちらが安い方か区別できない。
何てことをするんだ、と霖之助は怒った。
しかし美鈴は素知らぬ風である。木箱をぽんぽんと叩き、悪戯を思いついた悪餓鬼のような、そんな笑みを浮かべていた。
――ねえ霖之助さん、彼女は挑発するように言う。
「私と、“勝負”してくれませんか」
◆ ◆ ◆
「勝負……? 話がよく見えないんだけど」
霖之助は眉をひそめて言った。美鈴が何をはじめようとしているのか、まだ分からなかった。
「ただの運試しですよ。簡単な中身当てゲームです」
「この木箱でかい? だからさっきラベルを剥がしたのか」
「はい。見た目はそっくりな木箱二つ。どちらの中身が高い方か当ててみて下さい」
それは僕が選ぶということか、霖之助がそう問うと、ええと美鈴は言った。
さらに続ける。
「霖之助さんが中身を当てられたら私は霖之助さんに、当てられなかったら霖之助さんは私に、それぞれワインを一本奢るというルールはどうでしょう」
「賭けの景品か。なるほど食い意地が張っている。さすが朱鷺子から菓子を奪うだけのことはあるね」
「それはもういいですってば……」
しかし退屈な門番の仕事は眠くなるしお腹も空くのだろう。喉も乾くからワインを飲みたくなる気持ちも分からないではない。
「それが今日の分のワインを預かる条件ということかい?」
「……咲夜さんは、この手の商談は全部自分の手でやりたがります。嫌だというのならそのまま重い木箱を持ってお帰りになられても結構ですが」
「ずるい言い方だね。でも僕が品物を売りたいのは事実だし……、仕方ないな」
受けて立とう、霖之助はしっかりと頷いた。よかった、と美鈴の顔もほころぶ。
そしてすぐに何かを思い出したような顔になった。
「そういえば、霖之助さんの能力でどちらが高い方か分かったりします?」
「いや。ワインのボトルを直接手に取ってなら多分わかるけど、木箱のままじゃ無理だね」
「そうですか。――まあ、私の「気を使う程度の能力」なら、能力が使われたかどうかは“気”で分かります。インチキは出来ませんからね」
――というのは嘘だけど。美鈴は心の中だけで呟いた。
だが霖之助には真偽を確かめる術がない。ブラフとしては十分である。
「別に嘘をつくつもりなんて無いけどね。……他に何か注意点はあるかい?」
「こんなものだと思います。……それでは早速、木箱を混ぜこぜにしますね。箱を選ぶのが霖之助さんだから、これは私の仕事です」
そう言って美鈴はそれぞれの木箱を持ち上げた。片手にひと箱ずつ――ひと箱につきワインボトルが二十本である――を軽々と支えている。
力自慢の美鈴に若干顔を引きつらせながら、霖之助は彼女から背を向けた。
「絶対こっちを見ちゃ駄目ですよー」
「わかってる。それよりあんまり豪快に振り回さないでくれよ。中身のワインにとって良くない」
「大丈夫ですって、ちゃんと加減しますから。……じゃあ、行きますよう」
美鈴はそう言って木箱の移動を始めた。霖之助の背後でがしゃんがしゃんと音がする。冷や冷やしながらその音が止むのを待った。
やがて「もういいですよ」と声がした。
「さあ、高い方はどちらか当ててみてください」
美鈴は木箱二つを地面の上に置いて、「当てられるものなら当ててみろ」と言わんばかりに手を広げた。
自信満々の笑みを浮かべ、ともすれば余裕があり過ぎるようにも見える。
――やはり、別の意図があるな。
霖之助はそう確信している。ただの中身当てゲームではない。美鈴は絶対に負けない秘策を持っている。
「……実は両方ともまったく別の木箱にすり替えてある、とか?」
「確かにそれなら確実に私が勝ちますが、答え合わせの時に困るでしょう」
「そうだね。ちょっと言ってみただけだ」
霖之助は二つの木箱に触れながら観察を続けた。
……しばらく考えて、やがて「こっちだね」と指をさす。
「本当にそれでいいんですか。間違ってたらワイン一本ですよ?」
「わかってる。しかし僕だって一応商人だ。こんなことで間違えたりしないさ」
「そうですか、そうですか」
美鈴は大仰に頷いて見せる。わざとらしいことこの上ない。
霖之助は冷静にその姿を確認しながら、彼女の次の行動を待った。
「では結果発表――、と言いたいところですが、このままじゃあ、どちらが高い方かわかりませんね」
「何故だい? 箱の蓋を開ければいいじゃないか。中のワインにはラベルが貼ってあるんだから、すぐにわかるだろ」
「いいえ。わかりません。私はワインの品名なんて覚えてませんから」
「何を言ってる。君が覚えてなくても僕が――……、ああ。そうか」
霖之助は美鈴が言わんとしていることに気付いて手を打った。
美鈴は笑う。
「あなたは自分の正しさを自分で証明出来ないんですよ」
「そうだね、仕方がない。君は品名なんて覚えてないんだから」
美鈴が言っているのはこういうことだ。
いくら霖之助が高い方はこちらだと説明しても、美鈴が「覚えていない」のならばお仕舞いである。
霖之助は自分が勝つために嘘をつくかもしれないし、だから美鈴は、彼の言う答えを容易く信じられないのだ。
「でもどうしようか。これじゃ答え合わせもできないぞ」
「いえいえ。簡単にわかる方法があるんですよ」
「へえ。どうやって?」
それはですね――、美鈴は霖之助が選んだものとは“反対”の木箱を開けた。そこからボトルを一本取り出す。
そうして素早くコルクを抜き取ると、ボトルに口をつけた。
「あ、こら。何をするんだ」
「ぷはー、美味しいですねえこのワイン。いつもの物とは全然違います」
美鈴の行動は早かった。霖之助が止める間もなく、手に取ったワインを飲んでしまったのだ。ボトルの中身は、一口で三分の一が失われている。
飲み比べてしまえば一発でわかる。それが美鈴の言う「簡単にわかる方法」だった。
「……さては君、初めから勝っても負けてもワインを飲む気だったな?」
「えへへ。ばれました?」
「まったく大した食い意地だよ」
「まあまあ。他に方法は無かったんですから」
美鈴はぺろっと舌を出して言った。
しかしこれは、木箱を混ぜこぜにする前に蓋の裏に印でもつけておけば解決した問題である。美鈴はそれも分かっていて、敢えて言わなかったに違いない。
「というわけで、こっちの木箱の中身が高いワインですね。霖之助さんは逆の木箱を選びました」
「勝負は僕の負けということか。仕方ない、そのワインを君にあげればいいんだろう?」
「いやあ、悪いですねー」
美鈴は満面の笑みで今さっき口をつけたワインボトルを掲げた。
安いものではない。とても高いワインなんだけど、と霖之助は愚痴る。
「それじゃあこのワインが入っていた方とは逆、霖之助さんが選んだ方のワイン箱を貰いましょうか」
「こっちの安い方のワインだね。全部で二十本。伝票切るからサインをしてくれよ」
そう言って霖之助が納品書を突きつけると、美鈴はるんるんと鼻唄を歌いながらそれにペンを走らせた。
表記にミスはない。納入する品名とラベルに書かれているものは一致している。
「これが控えだ。また後日請求に来るよ。メイド長によろしく」
「はい。いつでもお待ちしております。……また賭けをしてもいいんですよ?」
「リベンジかい? 当分は止めておくよ」
霖之助は声なく笑うと、「じゃあまた」と紅魔館を後にした。
美鈴はその後ろ姿を見送りながら、ワインの残りは今夜の仕事終わりにゆっくり楽しもうと、そんなことを考えていた。
◆ ◆ ◆
「う、嘘よ! 美鈴が起きてるなんて……!」
紅魔館に帰宅した咲夜は、美鈴の姿を見るなりそんなことをのたまった。
「それ、あんまり失礼だと思いますよ。というか生き別れの兄弟に出会ったみたいな顔、やめてもらえます?」
「だって起きてるとは思わなかったんだもの。これも日頃の行いというものね」
「でもさっきのは酷過ぎですよう」
美鈴はよよよと泣き真似をする。どちらも本気ではなく、じゃれているだけだ。
気が済んだ美鈴は、おかえりなさいと目を細めて言った。
「ただいま美鈴。何か変わったことはなかった?」
「あ、それがひとつあるんですよ。ワインのことなんですけど……」
「ワイン? というかお酒の匂いがするんだけど。まさか勤務中に――」
咲夜の瞳に、今度は本気の殺気が宿った。
危機を素早く察知した美鈴は、手のひらを向けて弁解する。
「違います違います。お酒、咲夜さんが留守の間にお酒を買ったんです」
ほらあの木陰に置いてある木箱、と美鈴は先ほど買った木箱を指差した。
しかし咲夜は怪訝そうな目をするだけだ。とりあえずナイフは仕舞いましょうとの言には従うものの、返答次第では再度引き抜く構えである。
そんな咲夜を宥めながら、美鈴は先程の霖之助との出来事を説明した。もちろん中身当てゲームや賭けをやっていたことは伏せて、だが。
すべて聞き終わると、しかし咲夜は「変ねえ」と首を傾げた。
「もしかして入れ違いになったのかしら」
「えっ、咲夜さんも香霖堂に行っていたんですか?」
「ええ。そろそろ手持ちのワインが切れる頃だろうって、手紙を貰ってね。だから私の方でもワイン買っちゃったんだけど……」
ほら、と咲夜は自分の後ろを指す。そこには木箱の載ったリヤカーを牽く三人の妖精メイドたちがいた。
隙あらば遊ぼうとする彼女たちの引率は、なかなか骨の折れる仕事だったに違いない。
「でも店主は留守だったんじゃないですか」
「だから留守番の子に売って貰ったのよ。ここにもたまに来るでしょ、朱鷺子っていう子」
いわく店主の留守に咲夜も一度は帰ろうとしたのだが、それを引き留めたのが朱鷺子だったそうだ。
彼女は咲夜をいつものワインの在庫がある場所まで案内すると、咲夜相手にしっかり仕事をした。
品物の売買が終わってからも雑談に花を咲かせていたら、結局今の時間まで掛かってしまったという。
「しっかりした子よね。本好きだからか色々な話を知ってるし。聞き上手でもあるわ」
「……あ、あのう、変なことは聞かされてないですよね。お菓子がどうとか」
「うん? 別に何も聞いてないけど。それよりワインの伝票はちゃんと貰った?」
咲夜が訊ねると、美鈴は「咲夜さんの部屋に置いておきました」と説明した。
これに咲夜の目が鋭く細められる。
「……私の部屋、鍵がかかっていたはずなんですけど」
「それはまあ、愛の力で。……それにしても咲夜さんったらあんな大胆な下――」
「ぎ」と言う前に、咲夜の鉄拳が美鈴の顔面にめり込んだ。
大丈夫。まだ息はある。同情は不要と判断する。
「この馬鹿美鈴っ!」
「ごめんなさいごめんなさい、本当に持ってただなんて思わ――」
「……それ以上言ったら、あなたの夕飯抜きだから」
「イエッサー、ボス。本官は何も見ていませんし聞いてもいません」
美鈴はふざけ混じりに敬礼のポーズをしてみせる。
それをひと睨みした後、咲夜はポケットの中から一本の鍵を取り出した。
「ワインは食糧庫に運んでおいて。地下の方ね。この鍵で開くはずだから。それとあの妖精メイド達が持ってきてるやつも」
「はあい。ちゃんとやっておきます」
「私は今から夕飯の準備をするから。鍵は夕飯の時に返してくれればいいわ。……盗み食いしちゃ駄目よ?」
「わかってますよう」
美鈴は明るく手を振る。
咲夜は肩を竦めて「よろしくね」ともう一度釘を指すと、夕食のために館の中へ入って行った。
◆ ◆ ◆
その日の夜、仕事を終えた美鈴は、自室に戻って優雅なひとときを過ごしていた。
主は夜に起床するため、夜は門番役が不要になる。
ただの人妖なら天下のレミリア・スカーレットに喧嘩を売るような馬鹿はしないし、調子に乗った腕自慢なら主の暇つぶしに丁度いい。
そんなわけで夜はいつも気楽な時間を過ごせているのだが、今夜はいつも以上にリラックスし、かつ悦に入っていた。
どっかりとチェアーに背を預け、セレブレティな気分でグラスを傾ける美鈴。
ワインはかなり高価なものだったようで、今まで飲んだどのワインよりも味わい深く、芳醇であった。
「しかし、驚くほどうまくいきましたね……」
美鈴はくっくっく、と喉の奥で笑う。悪魔の館に仕える門番に相応しい、意地の悪い笑みである。
もちろんこの笑みの源は先の霖之助との勝負だった。
霖之助が選び、外れを引いて、ワインを手にした、ごく単純な対決。しかしそれには、美鈴が一方的に得をする“裏”があったのだ。
「あの対決、私に負けはなかったんです。初めからフェアな勝負じゃなかったんですよ」
最初の罠は、二つの木箱そのものである。
美鈴はまず、この木箱のうちの高い方にごく小さな傷をつけた。木箱からラベルを剥がす一瞬の隙を突いたもので、注意していないと見落としてしまうような手際だった。
とはいえ彼女が当たり外れを選ぶわけではないので、これだけでは何の意味もないように思えるが、実は隠された意味を持っていた。
第二の罠は、美鈴が賭けの話を提案した時、景品のワインをどちらにするか指定しなかったことである。
ワインは高い方と安い方の二種類があった。しかしどちらを景品にするかを言わなかったので、どのワインが景品でも良いことになっていた。
つまり美鈴は、勝敗によって自分に都合のいい方を景品にすることが可能であり、また木箱の傷を見れば、混ぜこぜにして霖之助が選んだ後でも、正確にそれを選ぶことが出来たのだ。
もし霖之助が外れを引いていたのなら、迷うことなく高いワインを景品に選べばいい。賭けに勝っているのだから安い方を選ぶ必要はない。
試飲と称して口をつけたのもこれを押し通すためで、口をつけてしまったからこそ、それを景品とすることに異論を挟めなくなった。
逆に当たりを引いて賭けに負けていた場合は、今度は安い方のワインを選べばいい。
そもそも安い方のワインは紅魔館が全て買い取る予定だったので、内一本が霖之助の手に渡ったところで美鈴の懐は全く痛まない。
それどころか、試飲をして霖之助に渡すのであれば、一口分得ですらあるのだ。
もっともこの場合、買った木箱からワインが一本足りなくなってしまうが、これは現在の在庫から一本持ち出して補充しておけばいい話だ。
咲夜も入荷分なら神経質になろうが、現在の在庫にまでは気が回らないはず。おそらくばれることもなかっただろう。
こうして美鈴は、リスクを最小限に押さえつつ、勝敗がどちらに転んでも得をするような仕組みを作っていたのだ。
「ケース・バイ・ケース……。状況に応じて手を変えていくのは駆け引きの基本ですよ」
そしてワインを一口。
ああ、なんともまろやかな喉ごし。美鈴は至福のひとときを過ごしていた。
だが、古今東西、至福の瞬間とは長続きしないものである。突然、どんどんと扉を叩く音が聞こえてきた。
隣の部屋ではない。間違いなく自分のところだ。そこはかとなく嫌な予感がしながらも、かと言って無視する訳にもいかず、美鈴は恐る恐る扉を開いた。
来訪者は十六夜昨夜のようだ。
「あ、あれえ咲夜さん。どうしたんですかこんな夜更けに。まさか夜這いにでも来てくれたんじゃあ……」
「美鈴」
仕様もない冗談はぴしゃりと遮られる。
「少し、お話がしたいのだけど」
咲夜はそう言うなり、ずいと部屋の中に体を滑り込ませた。
何やら声が硬い。きっと、いや間違いなく不味い展開になっている。美鈴は目を逸らしながら言った。
「い、いやあ咲夜さんがわざわざお話しに来てくれるなんて光栄の極みですねえ。あっはっは――」
「これを見なさい。私の部屋の机の上に置いてあった納品書。日付は今日であなたのサイン付き。昼間に言っていたワインのことで間違いないわね?」
咲夜はその伝票を美鈴に押し付けた。確かに覚えがあるので頷いた。
「えーと、はい。間違いないです。今日霖之助さんが持ってきてくれたものですね」
「そう。じゃあその上で聞くのだけど、あなたは伝票に書かれた品名を見て何も思わなかったの? あるいはこの金額に対して違和感を覚えなかったのかしら?」
「……いや。伝票にミスはないはずですよ。実際の品物と伝票に書かれてある品名は一致しています」
「確かに。そこに間違いはなかったわ。私もさっき確認したから断言できる」
じゃあつまりどういう事なんでしょう、そう言った瞬間、美鈴は胸倉を強く掴んで引き寄せられた。
咲夜の顔がすぐ近くにある。目が合うと、それは人間の目ではなかった。
ああ、駄目だ。
これはあれだ。人食いザメとか何とか。そういった類の目だ。
「……そう、ミスは無かったわ。伝票も品物も“高いワイン”で一致していた――!!」
え、と美鈴は阿呆みたいに口を開ける。そして勢いよく首を振った。
(そんな馬鹿な。自分は安い方のワインを買ったはずだ。ちゃんと印までつけたじゃないか――)
霖之助はこちらが高い方、こちらが安い方と説明した。そして自分は混ぜこぜにする前に木箱に印をつけたのだ。
そもそも高いワインなら今自分が飲んでいる方だ。買ったのはその逆のワインであり、安いワインのはずだった。
仮に嘘の説明は出来ても、伝票を見間違えることはあっても、ワインの味を誤魔化すことなど出来るわけがない。
(まさか。じゃあすり替えられたのか……?)
試飲の段階では、すり替えは行なわれていなかった。だとすればそれはその後、もしかして霖之助は、帰ったと思わせて近くに潜んでいたのではないだろうか。
しかしそれも変だ。ワインはずっと自分の目の届く範囲にあったし、咲夜が帰ってからは鍵付きの倉庫に入れたのだ。
倉庫の鍵は夕食時に咲夜に返すまでずっと自分が持っていた。すり替えの機会なんて無かったはず。
では一体。
どうやって……?
混乱する美鈴の耳に咲夜の冷ややかな声が届いた。
「ねえ美鈴。なあに、その高そうなワイン」
「えっ……」
咲夜はテーブルの上に置いてあった戦利品のワインボトルを抱えた。
視線の高さまで掲げて、ボトルに貼られていたラベルを繁々と眺める。そして一言。
「なるほど。これで霖之助さんに買収されたってわけね」
「なっ!!?」
何を言っているんですか咲夜さんそんな訳ないじゃないですか、美鈴は必死に抗弁するが、咲夜はもう聞く耳を持たなかった。
胸元の内ポケットから無造作にナイフを取り出す。強く握りしめたことから、投げるのではなくそのまま突き刺すつもりだろう。
「いやいやいやいや、待ってください落ち着いてください! これは何かの間違いです、訳を話して霖之助さんに引き取って貰えばいいじゃないですか!!」
「……あなたは、お嬢様の顔に泥を塗るつもりなの?」
酷く冷たい、深海の底から響いてきたかのような声だった。
え――、と口にした時には、ナイフは額に突き刺さっていた。
「馬鹿美鈴! そんなこと出来るわけないじゃない! モノはもうここにあるのよ!? 伝票も、あんたの阿呆みたいなサインも全部! 今さら引き取ってもらうなんて、あんたはお嬢様に大恥をかかせる気!!?」
ワインは紅魔館として買ったものだった。ということは、取引は主人であるレミリアと交わされたものなのである。
それを今さら間違いでしたなどと言えば、レミリアが間違いを犯したということになってしまう。要は面子の問題なのだ。
ならばもう、紅魔館は初めから高いワインを買うつもりで買い、間違いなどどこにも無かったのだ、ということにするしかない。
床を転がりまわる美鈴に、咲夜は惜別の言葉を贈った。
「さようなら美鈴。あなたのことは忘れるわ」
「待って、待ってください咲夜さん! なに遠くを見るような眼をしてるんですか! もっとこう、建設的な話し合いをですね……」
「問答無用!!」
いやーー、と美鈴の絶叫が館中をこだました。次いでそれを上回る咲夜の怒声と、ナイフが何かを破壊する音が後を引き継ぐ。
こうして紅魔館の夜は、騒々しくも更けていくのであった。
◆ ◆ ◆
夜の香霖堂。店主である霖之助は、ソファにゆったりと腰を下ろし、用意したワインをグラスに注いでいた。
豊かなワインの香りが部屋の中に広がる。彼はまず、その香りを十二分に堪能することにした。
「……うん。やはりいい品だ。一仕事終えたのだから、これくらいのご褒美がないとね」
霖之助は少し気取ってグラスに口をつけた。味も悪くない。当たり前だ。いつも紅魔館に納入しているのだから、むしろ上等の部類だろう。
せっかく大きな利益を得られたのだから、たまには奮発してみるのもいい。
しかし――、更に上等なワインが彼の側にはあった。
本日紅魔館で売れなかった方のワイン。一本減って十九になったそのワインこそが、香霖堂が誇る最高級のワインだった。
「僕は嘘など吐いていないよ。“高いワイン”と“とても高いワイン”、とても高いワインと比べれば、高いワインは“安い方”になるからね」
つまりそれが、美鈴に高いワインを買わせたからくりだった。
霖之助は初めからいつものワインなど持ってきていなかった。木箱の中身はいつもより少し高いワインと、それよりももっと高いワインの二種類だけ。
彼は高い方、安い方という言葉を使うことによって、持っている品物が高いワインといつものワインだと錯覚させたのだ。
そして何故いつものワインを持ってきていなかったかというと……。
「アンカリング効果。行動経済学によるところの価値の認識傾向をいう。要は心理学の不思議だ」
人間の心理とは、時として非合理な判断を下してしまうものだ。例えば、先にとんでもなく高価なものを目にすると、次に見るものは実際よりも安く感じてしまう、など。
この場合、先に見たものがアンカー《基準》となって、次に見るものの認識に影響を及ぼしてしまうのだ。
ならば、先にとんでもなく高価なワインを見せておけば、次に見る“いつもより少し高いワイン”は、実際よりも安く感じてしまうのではないか。
これが霖之助のもともとの作戦なのだった。
「メイド長が留守で、美鈴が中身当てゲームを持ちかけたから、僕の考えた策は無意味になってしまった。だけど、だったら今の場面に合う新しい策を用意すればいい」
霖之助にとっては高いワインが売れさえすればいいので、なにもアンカリング効果にばかりこだわる必要はない。
そして現状、美鈴は安い方のワインをいつものワインと思い込んでいる。つまりワインを売るためにはそれがばれないように振る舞う必要があった。
そのためにも霖之助は、美鈴の一挙手一投足をつぶさに観察し、彼女の意図と目的がどこにあるのかを推理した。
だから霖之助は、彼女が木箱に傷をつけたのにも気付き、また景品のワインを指定しなかったことから“絶対に負けない秘策”にも気付いた。
相手の意図が理解できたのならそれを逆手に取ればいい。木箱に傷があるならば、わざと負けることで高い方のワインを与えてやればいいのだ。
相手はその逆がいつものワインと考えるので、実はそちらのワインも高いワインだったという事実に気付きにくくなる。幸い美鈴はワインの品種にも疎かった。
結果、美鈴はその読み通りに行動し、霖之助は無事に本懐を遂げることが出来たのだ。
「これもまたケース・バイ・ケース。策はその時々に最も適したものを臨機応変に使うべきさ」
霖之助はそう嘯くと、また一口グラスに口を付けた。
「でも、こうして後になって考えれば、相手が美鈴だったのは幸いだったかもしれない。あのメイド長は一筋縄ではいきそうにないし、初めの策は読まれてしまう可能性もあった。――だから朱鷺子」
あの手紙は助かったよ、霖之助は部屋の隅で本を読んでいる朱鷺子に水を向けた。
だが彼女は本に視線を落としたまま肩を笑わせるだけ。それが何よりの答えだった。
咲夜に手紙を出したのは、もちろん朱鷺子だった。彼女は霖之助の策を知っていたので、ちょうど霖之助と行き違いになるように咲夜を呼び出したのだ。
咲夜が留守になれば、紅魔館で霖之助の相手をするのは美鈴になる。そして霖之助なら、美鈴を騙してワインを買わせることくらい訳ないだろうと踏んだ。
ちなみに手紙で咲夜が呼び出されたと知った時点で、霖之助は裏に朱鷺子がいることに気付いていたが、自分にとっても都合がいいので利用させてもらうことにした。
「しかし恐るべきは食べ物の恨み、ということだね。まさかクッキーくらいでこんなことを仕掛けるとは」
すべては美鈴への復讐――、ということである。
朱鷺子は地下図書館を利用するので紅魔館にはよく行っていた。咲夜から余りものだからとクッキーの袋を貰ったのも、その図書館に行った帰りのことだった。
彼女は香霖堂に帰ってから食べようと上機嫌で門の方に向かう。咲夜の手料理なら絶品だから、今から楽しみである。
だがちょうど門を潜ろうとしていた時、大事なクッキーは腹を空かせていた美鈴に袋ごと奪われてしまった。一瞬の隙を突いた犯行で、彼女が気づいた時には既にひとつ残らず丸呑みにされた後だった。
それから朱鷺子は、いつか美鈴に復讐せんとずっと機会を窺っていた。ただ注意されるだけでは生ぬるい。もっと致命的な打撃を与えたいと考えていた。
そんなとき聞いたのが、アンカリング効果とそれを用いた霖之助の商売だった。咲夜相手に勝算はあると豪語する彼を見て、美鈴への復讐にこれを利用することを思い付いた。高いワインを買わせれば、咲夜がどういう行動を起こすか簡単に予想できたからだ。
結果、彼女の策は成功し、今頃美鈴は酷い目に合っているに違いない。
「結局、僕はいいように利用されていたってことだね。まあ、高いワインで儲けも出たから満足しているけど……」
ふう、と息を吐きながら肩を竦めると、霖之助はまたワイングラスに口をつけた。
少々釈然としないが、何はともあれ滅多にない大きな利益だ。商売人としては満足するべきだろう。
だがそんな彼の側に、空いたグラスを持った朱鷺子がやってきた。
すっと 当然のようにグラスをつき出す。
「……君、まさか今日の分の報酬を寄越せって言うのかい?」
確かに、ワインを簡単に売ることが出来たのは咲夜が留守だったからだ。
加えて霖之助の留守中にもしっかり商売をこなしていたのだから、報酬を与えるに足る仕事をしたとも言える。
つまるところ朱鷺子は、霖之助の策が成ろうが成るまいが留守番代だけなら請求出来たのである。
「まったく! 僕も大概強欲な男だと自覚しているけどね、君ほどではないと思うんだよ……!」
霖之助は苦虫を噛み潰したような顔で、ワインをグラスに注いでやった。
朱鷺子は最高級の笑顔でそれを受け取る。そうして大きく口を開けると、一息に飲み干してしまうのだった。
お見事!
こんなことしたらこーりんは紅魔館に出入り出来ないし、ミスだろうとなんだろうと折檻するこの咲夜も胸糞悪いし、半端に頭いい頭悪いやつらという感じ
香霖堂閉店の日も近いだろうな この件以外も店主が阿呆だから色々やらかして
朱鷺子ちゃんの糞度胸に乾杯だな まあ乾杯の相手が乾杯の肴になってないことを祈ろう
そこは弱小妖怪精一杯の意地なんだろ クッキーの復讐に命を賭ける朱鷺子ちゃんの真似は誰にも出来まい
(そういや紅魔館の主の能力はなんだっけ?)
教訓として中途半端に頭のいい馬鹿の話には乗るなということですね
損得計算が出来てない癖に出来てると思って無自覚に自爆上等の策略を賭けてくるから
あとくだらない知恵比べも相手を見てした方がいいこと
相手が知恵比べとか洒落を持ちかけてきても洒落のわかるワタシカッコいい!で調子こいで乗らないことぐらいかな
まあ致命傷を人に与えるとき、深刻だぞ!大変なことだぞ!ってわざわざ相手に知らす人は少なくて逆に、どうでもいいことだぞ!大したことないぞ!ってアピールする人が殆どだろうから相手がギャグや洒落を持ちかけたら表じゃ取り繕っても心は出来るだけ深刻に捉えてた方がいいかもね
なんだかんだで考え深い話でした
内容はいろいろ工夫とかあって面白かったです
朱鷺子マジ策略家w
カモをカモったら実際カモれる程のカモだったって舐められてるよりマシだろ
何にせよ、あまり欲を出し過ぎるのは良くありませんね
勧善懲悪を考えると、登場人物のほとんどが騙す側(悪)にいるからかな?
最終的な勝者であるトキコだって(善)じゃないですし
ともあれ、面白い作品でした。
原作でもお得意様な紅魔館にこれはないわ
コメント欄がひどい有様で余韻もなにもあったものではないので
10点引きます
若干意味の分からない意見も見られましたが概ね好評なようで嬉しいです。
これくらいの悪どさとケレン味を楽しんでこその幻想郷でしょうね。
正直人としての誠実さとか、道義的正しさとか、原作の時点でマッポー状態なんだから、こんな騙し合いはニチジョウチャメシゴトではなかろうか